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目次
Good Night Good bye
少年の名は、ノアと言った。本当かどうかは知らない。年は十五。俺の息子が死んだ年と同じだった。
「帰りたいか」
ある日、聞いた。
ノアは火を見つめたまま答えない。
「帰る家、ない」
まっすぐな目だった。
俺は笑った。
「そうか」
言ってから、少しだけ後悔した。ノアは首を振った。あいつ声の調子が、胸の奥を刺した。
雪が溶け春が近づく頃、森の監視が強化された。足音が増えた。犬の鳴き声も聞こえる。脱走者の数が増えているのだろう。小屋に匿っていることが知られれば、即刻射殺だ。俺も、ノアも。
ある晩、ノアが言った。
「いく」
国境を。
「一人で」
俺は銃を磨いていた手を止めた。
「無理だ」
「でも、」
同じ言葉だ。
息子も昔、似たことを言った。
「俺が守るから大丈夫だ」と言ったとき、
あいつは泣きそうな顔で笑った。
守れなかった。
戦場で、俺は命令を優先した。目の前の部隊を優先した。息子は、赤い線の向こうで死んだ。俺は銃を置いた。
「夜明け前に出る」
そう言ったのは、俺だった。国境は森の奥、わずかな開けた場所にある。地面に打ち込まれた古い杭。色あせた標識。
赤い線は、地図の上ほどはっきりしていない。空は白み始めていた。
「ここから先は、俺は行けない」
そう言うつもりだった。だが、言葉が出なかった。
ノアは振り返る。
「ありがとう」
敵国の言葉で。
息子と同じ年齢。
同じくらいの背丈。
違う顔。
違う故郷。
分かっている。
ノアに俺のマフラーを巻く、息子によくやった仕草だ。ノアは不思議そうに俺を見つめている。捨てたはずの、父性を再び拾い上げてしまったのだろう。
「元気でな」
ノアが一歩踏み出す。その瞬間、森の奥で金属音がした。安全装置が外れる音。監視兵だ。俺は反射的にノアを突き飛ばした。
「伏せろ!」
自分でも驚くほど大きな声だった。ノアは線の手前で倒れ込む。俺は、ほんの数歩。ほんの数歩だけ、赤い杭を越えていた。銃声と共に、胸に衝撃が走る。溶けかけた雪に膝をつく。視界の端で、ノアがこちらを見ている。
線の内側にいる。それでいい。
体が崩れる。
冷たい地面。
空が白い。
遠くで誰かが叫んでいる。
敵国の言葉だ。
足音が近づく。
ノアが立ち上がる気配。
〝逃げろ〟
声にならなかった。
灰色の瞳が、揺れている。
息子の目とは、やはり違う。
違うのに。
「父さん」
聞き間違いだろう。
ノアは線を越えなかった。
俺だけが越えた。
赤い線を。
軍人としての自分を。
十年間、踏み越えなかった一歩を。
視界が暗くなる。
最後に見えたのは、森の奥へ走っていく小さな背中だった。
狼のように、振り返らずに、去っていった。
be happy
“In response to the ever-increasing number of prisoner escapes, the military has stationed guards in the forests along the border.”
《増え続ける捕虜の脱走数に対し、軍は国境の森に監視兵を配置》
“Anyone who crosses the border without authorisation will, without exception, be shot.”
《許可なく国境を超えた者は例外なく、射殺対象とする》
壁に掛けたコルクボードには、国境を赤い線で示した大きな地図、脱走した捕虜の顔写真、俺と息子の写真、一部を切り抜いた新聞記事が貼られている。木製の壁には昨日買ったばかりの水平二連銃。山にこもってもう十年が経つ。戦争で息子を失くし、軍を抜け、必要最低限だけ動物を狩る生活をしている。雪は膝下まで積もっていた。
最初に見つけたのは足跡だった。靴底の浅い跡。軍用ではない。歩幅が狭い。小柄だ。女か、子供のどちらかだろう。風向きを確認し、銃を背負い直す。この森は国境に近い。脱走兵が入り込むことは珍しくない。
足跡は蛇行していた。方向を定められない者の歩き方だ。やがて、倒木の陰に何かがいる。咄嗟に猟銃を構えたが、直ぐにおろした。動物ではなく、そこにいたのは人間。
薄い服。凍傷しかけた指。唇は紫色に近い。顔は幼い。まだ声変わりも終えていないような輪郭。敵国の捕虜だとすぐに分かった。胸元の縫い目。番号。布の質。
俺はしばらくの間立ち尽くした。
撃たなければならない。ここは国境付近だ。通報すれば監視兵が来る。少年は目を開けた。黒い瞳だった。狼の子どものようだ、と思った。銃をおろしたまま、動けなかった。
「だれ、?」
かすれた声で、俺の知らない言葉で吐いた。だが意味は分かった。俺は銃を完全に、下ろした。降参の合図のように。それだけのことだった。
小屋に連れ帰ると、少年は二日間ほとんど眠り続けた。熱があった。凍傷も軽度だが進みかけていた。火を絶やさず、水を飲ませ、粥を口に運ぶ。
三日目の朝、少年は起き上がった。警戒していない。隅に座り、俺を見ている。
「ここは俺の小屋だ」
通じないことを承知で言う。
少年はしばらく黙っていたが、やがて片言で答えた。
「……ありがとう」
驚いた。敵国の言葉を、少し話せるらしい。
「逃げないのか?」
俺は薪をくべながら、少年に訊ねた。
「助けてくれた、いい人」
---
その夜、遠くで銃声がした。監視兵だろう。少年は体を強張らせた。その反応が、昔の息子に似ていた。雷の音を怖がっていた。強がりながら、布団の端を握っていた。
俺は目を閉じる。これは違う。別人だ。
分かっている。