『全てを知った君の顔に 私は青すぎる空を見たい』
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原作元曲:
小説 夏と罰 (下)
サブ( / feat. VY2)
https://www.youtube.com/watch?v=FwumzwCLgYA
メイン( / feat. 猫村いろは)
https://www.youtube.com/watch?v=GtVCAHr24cI
小説 夏と罰 (上) / feat. 猫村いろは ( & KAITO)
https://www.youtube.com/watch?v=AiTIlBOX4kk
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曲パロ1作目。
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目次
序章
ジリリリリリ、と鳴る目覚ましの音で目が覚めた。考えることなく慣れでそれを止める。顔を洗って、リビングに降りた。
「あら、|玲《れい》、おはよう。朝ご飯は作ってあるわ、早く食べちゃいなさい」
母の言葉に|頷《うなず》いて、言葉通りにさっさと食べる。
歯磨きをする。着替える。持ち物の確認をする。母から弁当を受け取って、
「行ってきます」
そう告げて家を出る。
何の変哲も無い。何の変わり映えもしない朝だった。
始業時刻になると、これまたいつもと変わらず、長ったらしい朝礼が始まる。
他のクラスメイトには、堂々と本を読んでいる奴もいれば、こっそりと机の下でスマホを触っている奴もいた。なんなら菓子を|貪《むさぼ》り食っている奴もいる。
玲も、いつもぼんやりと窓の外を眺めていて、眠そうな目をした教師の話などろくに聞いていない。
「……えー、もうすぐ梅雨が明けますね。梅雨が開けたら、もう本格的に暑くなります。暑い暑い夏が始まります。ちゃんと水分補給をするように、ではこれで朝礼は終わります。次の授業の準備をしてください」
教師の長ったらしい朝礼が終わると、各所から小さなため息が聞こえた。
梅雨明け。
夏。
そっとスマホを開き、LINEを起動させる。
『五時にいつものとこ集合な』
一年前に自分が送った、そんなメッセージで、彼女との連絡は途絶えていた。
(上)一
「はるか、今日、遊びに行かね?」
屈託のない声でそう言われ、勉強——宿題をしていた手を止めて幼馴染の顔を見上げた。
「え、遊び?」
どこに、と聞こうとした。そのとき、「あ、玲! やっと見つけた! サッカーしよーぜ!」という大声が響く。いつもの、玲の遊び仲間だ。
「あ、呼ばれてる。えっと……じゃあ、はるかの家でいい?」
「……うん、いいよ」
場所を聞く前に答えが返ってきた。さすが幼馴染、といったところなのだろうか。
「じゃ、また放課後に会お」
自分から話を振ったくせに、玲はあっさりと切り上げてしまった。
自分を背を向けて去っていく後ろ姿を、私はそっと見送った。
私に友人らしい友人はいない。極度の人見知りのおかげで、人付き合いが上手くできないからだ。だからか「友人」といえば専ら、それは幼馴染である玲のことだった。
玲は何でもできた。勉強も。スポーツも。いつも笑顔で人当たりも良いから教師には好印象も持たれ、気前が良いから男子にも好かれ、外見も良いから女子たちの格好の恋の対象だった。
昔は、それが自慢だった。そんな人と幼馴染であることが、昔から知る仲であることが、自慢だった。
そんな幼馴染でありながら、勉強もあまりできない、スポーツはもっとできない、外見も良くない、いつも無愛想で、当然人当たりも悪い私とは大違いで。
———いったい、いつから、こうなったのだろう?
「分からないところでもあんの? 教えるよ。そこの範囲は、だいたい終われたから」
「え、もう終わったの?」
宿題はあまりにも分からなさすぎて全く進まず、結局放課後も家でやる羽目になってしまった。これでは幼馴染と遊ぶこともできない。
だから、終わった、という言葉にひどく驚いた。
聞き返された本人はニコニコと微笑みながら頷く。
「ん、そんなに難しくもなかったし」
『そんなに難しくもなかったし』。その言葉が、頭の中で響いた。反響して、音と音とが|唸《うな》りあう。何かと共振して、それをバリバリと壊していく。
「……そう、なんだ」
何とか反応すると、玲は「うん、それで、分からないのはどこの問題?」と言ってシャーペンを持って紙を引っ張り出した。
相変わらずの、屈託のない微笑みを浮かべて。
結局、玲のおかげもあって宿題は終われた。もう辺りは真っ暗で、夜は更けようとしていた。
「もう大丈夫そう?」
帰る支度をしながら、案じたように聞いてくる。夜遅くまで付き合わせたことの文句は一切言わない。
「うん、もう大丈夫。こんな遅くまで、ありがとう」
『ありがとう』。その言葉を心から言えたらどれだけ良かったのだろう。
『はるかちゃんと違って、玲くんは何でもできるのね』
何人にそう言われてきたのだろう。両親ですら、自分ではなく玲を誉めた。
ほとんど同じ環境で育ったはずだ。なのに、何故こんなにも違うのだろう。何故私は、玲と違って要領が悪いんだろう。何もできないのだろう。
どす黒く塗りつぶされていく。反響して唸りあった音が、再び頭の中で響いた。
---
「小テスト返却するぞー」
間抜けた教師の声にハッと我に返った。
一人一人教壇の前に出て、教師からテスト用紙をもらいに行く。
私は出席番号の上では結構最初のほうだから、早く答案用紙をもらうことができた。
右上の点数欄を見る。
———56点。
いつも通りすぎる点数だった。毎回、半分くらいしか取れた試しはない。
人知れずため息をついて、私はそれを|鞄《かばん》の中に仕舞った。
「ただいま」
家に帰って、自分の部屋に行き、荷物を置く。
リビングの方に行くと、母が夕食の準備をしていた。
「あら、おかえりなさい」
母が顔を上げてそう微笑むのに、私は頷きだけを返した。
「そういえば、玲くんのお母さんから聞いたけど、小テスト返ってきたんでしょ」
———玲、という言葉に、胸がざわついた。途端に息苦しくなる。
「ああ、……うん。」
「どんなだったの? 見せらっしゃいな」
私は何も言わずに部屋に戻り、テスト用紙を鞄から引っ張り出して、またリビングに向かう。
母の目の前に出した。
母は料理をしている手を止めず、横目でチラリとそれを見た。
———56、という数字が、母の目に映る。
はぁ、とため息の音が、顔を伏せていた私の耳に届いた。
「56点、ねえ。」
私の視界には、自分の足と母の足と、茶色の床だけが見えている。
「玲くんは満点を取ったって聞いたわよ。いつもいつも満点なんですって」
その声だけが、やたらとエコーがかかったかのように頭の中に反響して聞こえた。
ぷつん、と音がした。世界が灰色に塗りつぶされていく。
———壊してやりたい。
心の底から、そう感じた。
(上)二
その時間、移動教室の授業の準備をしていた。
「ねぇ……玲、」
玲が友達と話していない間を見計らって、私は玲に話しかけた。
「どうしたの?」
「ちょっと体調悪くって。次の時間、遅れるかもしれない。先生に言っておいてくれる?」
もちろん、体調が悪いなんて嘘だ。
「分かった。伝えとくね。それにしても、具合が悪いって、大丈夫?」
玲の目は本当に心配しているように見える。何とか、不自然なところがないように言えたようだった。
ひとまずトイレに駆け込む。
個室に閉じこもってそう経たないうちに、キーンコーンカーンコーンというチャイムが聞こえてきた。
ふう、と息を吐いて、念の為音を立てないようにひっそりと個室のドアを開けて、トイレから出る。
廊下を歩きながら、ぎゅっとポケットの中のカッターナイフを握りしめた。バクバクと心臓がうるさい。
教室に入ると、真っ先に玲の机が目に入り込んできた。散らかっておらず、整然としている。その主を表しているようだった。冷え冷えとした熱湯が沸き出るような感覚になる。
机の前まで来て、おもむろに中の物を机の上に引き出した。
だいたいの物を引き出し終わる。見ると、一番上に置かれたのは数学のノートだった。そっと手に取って、パラパラとページを繰る。
一言で言うなら、理路整然、という言葉が相応しいだろう。そこに書かれた数式、解き方、全てが美しかった。
薄く嗤った。私では到底、こんなものは書けない。
ずっと握りしめていたカッターナイフをポケットから取り出した。ノートの開かれたページに刃を置き、一回、浅く呼吸する。
手に力を込めて引き裂くと、綺麗に紙が|分《わか》たれた。玲の持ち物が、玲が書いたものが見事に裂かれる。
スッと、氷点下の水のような何かが私の胸の内を走る。耳で聞き取れるほど、鼓動がうるさい。
「あははっ」
なぜか、笑いがもれた。何度も、何度も、力を手に込めた。
やっと私が移動教室の授業にやってきたのは、授業が終わる十分前だった。
「川口、おそいぞ」
「すみません」
教師は睨んできたが、私が体調不良だと言っていたこともあったのか、それ以上は詰められなかった。
ふと玲の顔を見ると、相変わらず心配そうな顔をしている。
滑稽だった。体調不良と偽って、幼馴染が何をしていたかなど、きっと何も知らないのだろう。
---
たった十分だけの授業が終わった。先に玲たちが戻るのを見て、私も教室に戻る。
玲はどんな反応をしているのだろう。恐ろしく、そしてそれ以上に楽しみで仕方なかった。
ドアをそっと開けて、教室に入った。刹那、目に見えて空気がシンとする。
みんながこっちを見ていた。
一度も一言も言葉を交わしたことがなく、私をいない者のように思っていたであろう子もこっちを見ていた。|蔑《さげす》むような瞳で。
玲は散らかされた自分の机の上をただ見つめている。俯いていて、その表情までは分からなかった。
「何かあったの?」
何事もなかったかのように聞く。
「何かも何も、川口、お前———」
「よせって、福田」
私に詰め寄ろうとするクラスメイトを、玲が腕を掴んで止める。
「よせも何も、絶対これやったの川口だろ……!」
玲の机をバン!と叩きながら怒鳴った。
「そんなことないって。はるかがこんなことするわけない。なあ?」
玲が顔を上げて、私の顔を見つめた。この期に及んで、私のことを信じているのだろうか?
「教室を出るときはこんなことになってなかった。授業中にやられたんだ。ここに最後まで残っていたのは川口だろ!」
「保健室とかに行ってたんだろ、きっと」
何を言っても、玲が私を疑うことをしないと分かったのか、福田は息を吐いて離れていった。
それが合図か、固唾を呑んで見守っていた周りのクラスメイトが自分事に戻っていく。玲も机の上に無惨に散らかされた教科書やノートを片付け始めた。
「はるか、次の授業の準備でもしてきなよ。はるかは絶対こんなことしないって、俺は知ってるから」
その瞳は澄んでいて、一点の曇りも見出せなかった。心の底から、目の前の幼馴染は無実だと、強くそう思っているようだった。
———玲は、人を疑うことも知らないんだ。
私と違って。どす黒いだけの私と違って。性根が腐っているだけの私と違って。ただ幼馴染を厭うことしかできない私と違って———
バリバリと崩れていく音がした。残骸が、破片が銃弾のように刺さっていく。
教室の中を見渡すと、みんな何事もなかったかのように各々のことを再開していた。
少しの間止まっていた時間が、流れ出す。
それに取り残されたのは、私だけ。
(上)三
それ以来学校を休むようになった。突然の娘の変化に、両親は戸惑うばかりだった。
「突然どうしちゃったのかしら。玲くんは元気に登校しているというのに」
何も言おうとしない娘に、母はそうやってため息を吐いた。
ピロリン、とスマホが鳴ったのは、休み始めてから数日が経ったときだった。
休んでいる間に、終業式も終わっている。
『元気にしてる? 今度、夏祭りあるんだって。一緒に行こうよ』
玲からだった。本当に何も無かったかのような、そんなノリだった。
(———本気、で、言っているの?)
信じられない。
あれだけのことをされたのに、状況から私以外に犯人は考えられないのに、それでも私を信じているのだろうか。
メッセージの入力欄をタップした。スマホの画面に、キーボードが現れる。
『分かった』『行きたくない』『了解』『他の人と行って』……
文字を打っては消して、打っては消して、ようやく、三文字だけ入力して送った。
『いいよ』
どうしても断れなかった。
大丈夫。そう言い聞かせた。玲とはあれ以来ずっと、まともな会話をしていない。私が犯人だと確信しているクラスメイトたちと居れば、自然と私がやったと考えるようになるだろう。
私に、人生のほとんどを一緒に過ごした幼馴染に裏切られたと、絶望してくれるだろう。
———あの無邪気な笑顔を歪めて。顔も見たくない、と。
私はそれを、ずっとずっと待ち望んでいる。
「———玲くんと夏祭りに行く? あら、いいじゃないの。いってらっしゃい」
どうせ白紙になるだろうと思いつつ、母にそのことを伝えると、予想通りあっさりと許可が出た。
「それにしても、玲くんは良い子ねぇ、不登校の友達のことも気にかけるだなんて。はるかには釣り合わないわ」
母に背を向けたとき、背後からそんな独り言が聞こえてきた。一瞬、硬直する。
おっとりとした口調だった。きっと、悪気など少しも無いのだろう。
夏祭り当日。
『五時にいつものとこ集合な』
昼に届いたそのメッセージを見て、私はただ乾いた笑みを浮かべていた。
(上)四
「お、はるか。久しぶり。元気にしてた? 来てくれてよかった」
会場に来た私の姿を認めるなり、玲は安心したように顔を綻ばせた。
「———……」
相変わらずの整った微笑み。何も返せなかった。
何も言わない私に、玲は少し不思議そうな顔をする。
「……やっぱ、なんかどっか悪いの?」
「ううん、悪くない。大丈夫」
心配されることに 気まずさと気持ち悪さを感じて、私はすぐに否定した。
何か黒い靄のようなものが、心臓の周りをぐるぐる回って、今にも吐きそうになる。ぎゅっと喉の奥を閉じて、必死にそれを留めた。
「早くまわろ。あっという間に人で埋まっちゃうぜ」
私の状態も知らず、玲は私の手を引いて軽快に歩き始めた。
五時を過ぎて、辺りはまだ明るい。日がどんどん長くなっているのを、肌で感じた。
祭りの提灯があちこちに飾られ、まだ日も暮れないうちに灯りはじめていた。時折吹く風に靡かれ、揺れている。
同じく風にあおられ、木々の枝葉がザワザワと揺れた。
言いようもない懐かしさを感じる。何も飲み食いしていないのに、口の中に苦い味が広がった。
———もう元には戻らない。
屋台の前に玲は席を取り、私を座らせた。
「じゃ、ちょっくら何か買ってくるから、待っててな」
そう言って右手を上げ、屋台のほうへ行った。
スマホの画面に、目を落とした。スリープ状態のその画面は、真っ暗だ。
私の顔が映っている。瞳の空虚さが、暗い画面越しにでも分かった。外出のために整えた、サラサラと舞う前髪に全く似合わない。
「———川口?」
不意に誰かに話しかけられ、ビクッと肩が震えた。
振り向くと、クラスメイトの誰かだった。えっと、なんて名前だったっけ。
「ここで何してんの? ……ああ、酒井だよ」
名前をど忘れしていたのを察されたのか、小さく付け足してくれた。
酒井。———玲の遊び仲間の一人だった気がする。
「何してるの、って……祭りに来たんだけど」
警戒しながら答えると、「一人で?」と聞かれた。
口を噤んだ。ざらざらするような屈辱感に襲われる。玲と、なんて言えなかった。
ここで そうだと嘘をついても、早晩見破られるだろう。玲はここにいるのだから。
「……一人で来たのって聞いて、」
そう言いかけて、不自然に言葉を切った。顔を上げると、彼は後ろの方向に目を向けている。
「……玲と来たのか。」
つられて私も視線を動かすと、玲の姿があった。何を買ったのか、両手を袋だかなんかで埋めている。私たちの姿に気づいたのか、にっと口角を上げた。
「そうか、お前たち、幼馴染だもんな」
そう言って、再び私を見た。研ぎすまされたナイフみたいだ。突き刺すような視線だった。
よいしょ、と彼はその場を離れて、足早に玲の元に向かった。
玲の袖をつかまえて、何か話しかけている。玲が立ち止まり、何か返した。それに不愉快そうに眉根を寄せて、酒井さんは畳み掛けるように さらに何かを言っている。玲が曖昧な笑みを浮かべた。
やがて二人は別れて、玲は私の座っているテーブルに来て、腰を下ろした。
「あー、面倒だった。」
開口一番、そう言った。はい買ってきたよ、と私に袋を差し出してくる。中を見ると、たこ焼きが入っていた。
「あ、うん」
曖昧に返事をして、袋から取り出して蓋を開いた。爪楊枝を見つけ、それをたこ焼きに突き刺す。
口に放り込むと、甘くないのに甘ったるい味がした。熱いはずなのに、冷めているようにも感じる。
「どう?」
一口食べて動きが止まった私に、玲が話しかけてくる。
「うん、まあ」
浮かない返事しかしないのを怪訝に思ったのか、玲が口を閉ざした。
何か考えているように視線を一周に動かして、小声でつぶやく。
「……酒井に何か言われた?」
「え?」
思いも寄らなかった。いや、少し考えたら、そんな結論になるのは不思議ではない。
「いや、何も……」
首を横に振ると、玲は再び口を閉ざした。その目が「絶対嘘だろ」と言っている。
幼馴染だもんな、と言ったときの突き刺すような視線を思い出して、なんとなく気まずくなった。
誤魔化すように、二口目のたこ焼きを口に押し込む。先ほどと違って、苦いような酸っぱいような、腐ったような味がした。
「……念のため、言っとくけど、」
玲の声がして、思わず顔を上げた。
「俺、はるかがやったなんて、思ってないから。あの事。」
「……え、」
突然その話を話題に出され、鼓動が縮み上がった。
「酒井は言ってた。関わんないほうがいいって。酒井だけじゃなくて、他の奴らも。でも、はるかはやってないって思ってるから、俺は、……」
そこまで言って、また何かを言いかけて、玲はそこで止まる。
呼吸が速くなった。止めようとして、横隔膜を意識で支配する。
何とも言えない沈黙が流れた。
何が、なんで、とも言えない。違う、とも否定できない。
吐きそうになるほどの恐怖と罪悪感が、血液の中に染み込んでいく。頸動脈で運ばれて、脳に付着する。
手足が急速に温度を失っていく。
ぐるぐると視界が回った。|眩暈《めまい》。
しばらくして、ガタッと音がした。
「ちょっくら何か買ってくるね。ほら、はるかが昔から好きだって言ってたやつ」
そう言って、玲は にかっと笑って軽く右手を上げた。
テーブルの下で、そっと手を開いた。
手のひらに残る微かな痺れだけが、私の存在を証明している。
(下)一
「———はるか?」
買い終わって、彼女が待っているであろう席まで戻った。
はるかの姿はどこにもない。荷物すら置いてなかった。
ひとまず買ったものをテーブルの上に置いて、周囲を見回す。彼女の姿はどこにもない。
「はるかー?」
名前を呼びながら、食事席や店の周りを歩き回った。会場の出入り口のあたりで、何かが打ち捨てられているのに気づく。
「何、」
手を伸ばして拾うと、誰かのスマホだった。薄青のケースに収まっている。
———間違いない。はるかのだ。
ハッとして周囲を探すと、草と草と垣根に茶色のショルダーバッグを見つけた。はるかが持ってきていたものだ。
はるかの荷物はこれで全部のはず。つまり、荷物を放棄してどこかへ行ったんだ。
「は、どこ行ったんだよ……?」
意識せずとも、鼓動が速くなっていくのが分かった。体が、心の臓が急速に冷えていく。
はるかの荷物を抱え、呆然と立ち尽くした。風に巻かれて、地面に撒かれている砂が回って舞い上がる。
とにかく探さなければ、とはるかのスマホを握りしめて走り出した。
時計の針が、八時を回る。日は沈み、辺りはとっくにもう暗い。
提灯の灯りが煌々と照って、木々の間を揺れている。
はるかはまだ見つからない。
はるかが座っていた席に戻る。買ってきたものも、荷物もそのままで置いてあった。はるかだけがいない。
「どこ行ったんだよ……!」
低く吐き出した声に、答える者はいない。
テーブルに触れている手をじっと見つめた。
「———あれ、玲」
声がして、ハッと振り向く。酒井と福田だった。
「深刻そうな顔でぼーっとして、どうしたん?」
仲良くしている奴らに会った安心感。それと———胸に渦巻くような、ざわめくような泥ついた感覚に襲われた。
「はるかがいなくなったんだよ……!」
叫ぶようにそう言うと、二人は軽く片眉を上げた。
「一人で帰ったんじゃないの?」
「荷物全部置いてくわけないだろ!」
すぐさま反論すると、二人は口を閉ざした。
「……荷物をそこに置いて、どっか行ったってことか?」
福田が苛立たしげに前髪を払う。
「ここじゃない。あっちの、出入り口のところに置いてあった。捨てられてるみたいに」
しばらく視線を彷徨わせたあとに、福田は酒井に視線を流した。
それを受けた酒井が、軽くため息をつく。
「……関わらねぇほうがいいって言っただろ。川口と———」
「だから はるかじゃねぇっつってんだろ!」
自分でも驚くほど、大声が出た。
いつも、曖昧に穏やかに答えていたのに。でも、どうしても我慢できなかった。
「お前らが言いまくるから、はるかは消えたんだよ! どうしてくれるんだよ!」
止められず、そこまで叫んで、周囲のちらちらと伺っている視線に気づいて我に返った。拳を作り、腰の下でぎゅっと握る。
二人は呆然としたように目を見開いていた。普段、滅多に大声なんて出したことがないから、驚いたのだろう。
どうにも言えない気まずさだけが立ち込める。
そのうちに、すみませんと周りに謝りつつ、酒井が俺の眼前まで大股で歩いてきた。そのまま、俺の両肩を掴む。
「川口であってもなくても、一つだけ言える」
「……なんだよ」
「あいつは、玲をよく思っていない。」
低く湿った声は、祭りの喧騒の中なのによく響いた。
そんなことない。そうやって、すぐに否定できなかった。
気づいてた。本当は分かってた。そこから目を背け続けていたのは、自分だ。
気づいてでもなお、はるかの近くにいたかった。
もし、あのときに。自分の机を荒らしたそのときに、察してあげていれば。
———こんなことに、ならなかったのだろうか。
「……玲?」
福田が俺の目を覗き込んでいる。
「おい、玲」
酒井も何か呼んでいる。
俺はそんなに、ひどい顔をしているのだろうか。
(下)二
結局、はるかは見つからなかった。
祭りの運営に声をかけて、名前を呼んでもらって、自分でも はるかの親を呼んで 一緒に周辺を探して、それでも見つからなかった。
翌々日になって、はるかの親は 警察に行方不明届を出した、と言った。
警察に任せた。———それでも、はるかが見つかることなんてないと感じた。
一日、三日、七日……
時間が過ぎるたびに、焦りと恐怖が積もっていく。
「お邪魔します」
ギイ、と音を立てて、はるかの家の玄関のドアを開ける。何度も何度も、開いてきたものだ。
でも、あのときとは確実に違うところがある。———黒い泥がかかっているかのように、空気が重い。
思わず呼吸を止めた。
「……いらっしゃい」
リビングの奥から出てきたのは、はるかの母親だった。目に隈がはっていて、目に見えてわかるほど痩せている。
何も声もかけられず、目を逸らした。
「……はるか、は」
恐る恐る聞いた。もうすでに、ニュースで流れている。
「……何も分からないの」
予想通りの返答が返ってきた。
それから、どこに視線を|彷徨《さまよ》わせて、目を伏せる。言葉を探しているようだった。
「……俺。」
口を開くと、はるかの母親はこちらを向いた。
「何も知らないんです。好きなもの、嫌いなもの、何を考えてて、何が楽しいのか。……いや、昔のことは知ってるけど、今のことは全然知らなくて。」
言いながら、情けなさと後悔で胸がつぶれそうになる。
結局俺は、はるかのことを知ろうとしなかったんだ。———幼馴染だから、何でも知っていると油断して。
ああすれば、こうすれば。そんな言葉が頭の中を渦巻く。今更何か思ったところで、今が変わるわけじゃないのに。
でも———。
「あの」
泣きそうになるのをこらえて、顔を上げた。
「はるかの部屋に、入ってもいいですか?」
---
誰もいないって分かっているのに、コンコン、と扉を叩いてしまった。当たり前だが返事はない。
ドアを開けると、それは音もなく静かに開いた。
室内は薄暗く、ガランとしている。カーテンは閉ざされ、端から零れる日光だけが、この部屋を照らしていた。
部屋の中は雑多ではなく、簡素に整えられてある。
物は置いてあるのに、まるで何もないかのようだった。
「はるか……」
ぽつりと呟いた声が、本人に届くことはない。
いくら行方不明だからと、彼女に断りも入れず部屋を漁ることに、幾許か罪悪感を覚えた。
灯りをつけることもせず、音を立てないように気をつけながら、中に入る。
ベッドの上の枕と毛布は少し散らかって置かれていて、まるで少し前まで人がいたようだった。
机の上は紙やノートが薄高く積まれている。
俺が動いたのに合わせて空気が揺れたのか、カサッと微かに音を立てて、紙が少しだけ舞った。
積まれたものが崩れないように気をつけながら、一枚一冊取り出す。とあるノートを手に取り、パラパラとめくると、少々雑な字が目に飛び込んだ。
授業ノートのようだった。特に何の変哲もないので、閉じて隣に置く。
———パラ、と、何かの紙が机から舞った。
ひらひらと蝶々のように空気中を漂い、地面におちる。
「何……?」
そっと腰をかがめ、俺はそれを手に取った。
(下)三
———夢を、見ていた。
俺はどこか外に立っていた。
『これなぁに? どうやるの?』
はるかの声が聞こえた。最後に会ったときより、ずっと幼い声。何かを握って、大人たちのいる後ろを振り向いている。
周りは真っ暗で、それで線香花火をしようとしているのだと気づいた。
覚えている。確かお盆だった。はるかが俺の家に遊びに来て。一緒に遊んだんだっけ。初めて『線香花火』というものを見たんだ。もう何年前の記憶なのだろう。
『はるかちゃん。だめよ、まだ小さいんだから。おばさんがやるわ』
そう言って、線香花火を握るはるかの手に触れたのは、玲の母親だ。
確か俺は、はるかの隣に座っていて、花火のやり方が分からずに母親を呼びに行ったんだ。
『ちょっと待っててね、動いちゃだめよ』
カチ、と音がして、ポッと火が灯る。ライターだ。そよそよと吹く風に吹かれて、ゆらゆらと揺らめく。
それをそっと、花火の先端に近づけた。はるかはドキドキしているのか、キラキラした目を花火に向ける。
パチパチ、っと音がした。真っ暗な闇に、鮮やかな光が浮かび上がる。
とりどりの色を描き出す。四方を映し、照らす。輝いては消えて、輝いては消えていった。
そして最後の火薬を使い果たし、閃光は白い煙となって暗闇に消えた。
『———わぁっ、すごい、すごい! ね、玲も見てた? 玲も見てた?』
終わって一拍置いて、はるかが はしゃいだ声を上げる。
『うん、見てたよ! ———おかーさん! もーいっかいやって! もういっかい花火やって!』
はるかと同じく、興奮冷めやらぬ自分の声が聞こえる。
はいはい、分かりましたよ、少しは大人しくしなさいな。
苦笑した母が部屋の中に入っていくのを見て、はるかは《《俺を見た》》。
「ねえ、玲」
低い声。どろり、と纏わりつくような声。これまでとは打って変わって、呪いのようだった。
「あんたは、何で。」
呼吸ができなくなる。は、という音が、どこかで響いた。
「———何であんたは、みんなに愛されてるの?」
「———っ、!!」
ハッと目が覚めた。
はぁ、はぁ、という荒い呼吸音が部屋の中に こだまする。
部屋の中は冷房が効いて寒いくらいなのに、冷や汗で服はびっしょりだ。
「はる、か……」
まだ暗い。日は昇っていないようだった。
『———何であんたは、みんなに愛されてるの?』
思い出すだけで、ゾワっとする感覚を背中に感じる。
あれから、一年が経った。
はるかは見つからないまま、捜索は打ち切られた。
世界はもう、日常に戻っている。はるかのことなど、何もなかったかのように。
自分だって何もなかったかのように 起きて、学校に行って、勉強して、友達と遊んで、帰って、寝ている。
ベッドから這い出て、部屋の外に出た。滑ったような湿り気が顔に張りつく。
まだ日も昇っていないのに、暑いくらいだった。
毎晩毎晩、こうやって夢を見ては目を醒ます。
焼け付くような痛みに、悶えるように顔を顰める。———何故。
きっと誰も知らない。いや、知ったとしても、誰も咎めなどしないだろう。誰も悪くないと言って、彼女の苦しみも痛みもなかったことにされていく。
———好きだった。
はるかが好きだった。
どこが好きかも分からないし、しかも気づいたのは はるかがいなくなってからだった。
自分の隣からいなくなって、この世界のどこにいるかも分からなくなって、初めて気がついた。
どうして彼女がいなくなったかなんて、知りはしない。
いや、知っている。でも、受け入れたくはなかった。
---
もうすぐ日が昇ろうとしている薄暗い空のどこかで、きらり、と星が光って流れる。
そっと手を合わせた。
———はるかが帰ってきますように、と———
終章
『玲へ
あなたにとって私はどんな存在でしたか?
きっと、よく一緒にいる幼馴染、くらいにしか思っていないのでしょう。
あの日、あなたの荷物をぐちゃぐちゃに壊したのは、私です。
他の人にどんなに言われようとも、あなたは私が無実だと信じていたけれど。
あなたは私の自慢の幼馴染でした。
———昔は。
私はいつもあなたの陰にいました。
いつも褒められ、認められるのはあなたでした。
———考えたこともないでしょう?
いつもいつもいつもあなたと比べられ、昔から仲良くしている幼馴染だというだけで比べられ、そのたびにどれだけ私が惨めな思いをしてきたか。
どれだけあなたを妬ましく、憎く思ったことか。
親ですら、私を褒めたことはないんだよ。
あなたと一緒にいるのが苦痛でした。
いつか、小テストが返却されたことがあったでしょう? いつものことだから、きっと覚えちゃいないだろうけど。
いつも通り、あなたは満点を取って、友達たちに持て|囃《はや》され、そしていつも通り、私は半分くらいしか取れませんでした。
家に帰りました。
親に言われてテスト用紙を見せました。親は言いました。
「玲くんは満点を取ったらしいじゃない」
いつも通りの反応です。
でも、それは私を砕くのに十分でした。
あなたを傷つけてやりたいと思いました。
だから、荷物をめちゃくちゃにしてやったの。私、頭が悪いから、それくらいしか思いつきませんでした。
それで。
それで、どうしてあなたは、私を疑わないんですか?
どうして私を、夏祭りになんて誘うの?
私はどれだけ汚れた性根をしているのでしょうか。
でも、もういいです。
もういいの。
もう消えてやります。
私はここにいる価値がないようだから。
さようなら。
もう二度と会いませんように。
川口はるか』