絶望ナイトメア(第一部)
編集者:Across
「君の願い、叶えてやろうか。
今すぐにでも死にたいんだろう?」
白と黒の着流し姿のカタナ使い「零」は、幾多の世界を渡り歩いている。目的はただ一つ。自身にかけられた呪い……絶対に死ぬことができない『不死の病』を治すこと。だが、その不死身の彼に目を付けた謎の声「NightCrawler(ナイトクローラー)」によって無慈悲なる死がはびこる異世界『ネグローシア』に飛ばされてしまう。
零と同じくNightCrawler(ナイトクローラー)に強制転移された者たちの拠点にて『ネグローシア』からの脱出を試みるのだが…。
零は無事に『ネグローシア』を脱出できるのか? それとも……?
※ 現在のあらすじです。
公開時には変わる可能性があります。
※ このシリーズは自主企画投下用です。
※ 公開は2024年1月15(月)からです
執筆状況は日記にて進捗をあげています。
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2024.01.15追記:
第一部が書き終わりました。
毎週月・木に上がる予定です。
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目次
プロローグ
Isn't the color of despair somewhat similar to the color of tea?
絶望の色は、どことなく紅茶の色に似てませんか?
「何でも叶えてくれる」と謳ったパソコンゲームがあった。あなたが望んだ世界に連れて行く。さぁ、夢の世界へ今すぐ――。そういった謳い文句で、子供たちは大いにのめり込んだ。
しかし、その世界に核が落とされたことで娯楽をするという概念が無くなり、戦乱の混沌が舞い降りるようになると人々の活気は消え、絶滅。生物多様性も消え失せた。
不毛な大地。
痩せて平坦な地形。
どこにも、何もない場所……そこに、一人の男が降り立った。
「……今回も外れのようだな」
彼は、この世界の人間ではない。タイムリープを起こしたわけでも、未来からやってきたわけでもない。たった今、別の世界から来た人間である。
零というその男は、古風な服装をしている。羽織っているだけのような着流しスタイルに一本の鋭い剣のような武器。カタナと呼ばれるものだ。風貌は若く、十代後半あたりだろう。
着流しの色は、肩から腰にかけて白から黒のグラデーションになっている。着物の腰よりのぞかせる鞘の色は紺であり、体格と比較してカタナは少し大きめである。
猛禽類のような鋭い目つきで瞳の色は黒。髪色も黒だ。零はその鷹のような目つきで砂ぼこりの多い風の世界を眺めている。
零はとある理由で世界を旅している。とある理由で病をわずらっており、治療法を探している。病の正式名称は不明だが、死なないという特徴があり、不治の病とかけて「不死の病」と勝手に呼んでいる。
これまでいくつもの世界を回ってきたが、治療法の一つや二つ見つからない。病にかかった理由より、これはもはや〝呪い〟と言ってもいいのかもしれない。
その〝呪い〟の派生として、いわゆる瞬間移動系の、空間転移ができるようになった。これを使って零はいくつもの世界を渡り、治療法を探している。
治療法の見つからなかった世界に長居は無用である。このスキルを使った「世界渡り」は身体に負担があるらしく(零は不死なので分からないのだが)、続けての使用はできない。少なくとも一日待たなくてはならなかった。
「本当に何もないところだな」
零は何度転移しても全く変わらない景色に飽き飽きしていた。水の枯れた砂漠地帯。オアシスの一つ、建物の一つさえない。人の姿ももってのほか。
こんなところで空腹になって倒れたとしよう、もはや終わりだろう。不死の身体とはいえ、腹が減れば動けなくなる。誰もいない砂海で、餓死すらもできないと想像すると退屈でますます死にたい気分になった。
すると何回目かの空間転移のタイミングで変化が起きた。遠くにうっすらと白いものが見える。蜃気楼か?――と目を凝らしてみると、どうやら幻ではなさそうだ。
「まあ、風がしのげるところならいいか」
零はそっと呟き、スキルで一気に近づいた。
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白い建物の正体は研究所であるらしい。打ち捨てられた研究所。もちろん無人だ。
入り口は自動ドアとなっており、自動で開けられた。中はテクノロジーの宝庫らしく、様々な機械がせわしなく動いている。
ダクトのなかを通っているかのうるささだ。ゴウンゴウン、とエンジン音やらモーター音を轟かせている。
稼働中の機械を冷やすためだろうか。外よりもかなり空気が冷えている。熱砂砂漠のような外にいつまでいても暇なだけだ。誰もいないなら、中で涼んで、暇つぶしに見て回ってもいいだろう。
カタナ以外の唯一の荷物であるカバンからパンを取り出し、食べながらひとり奥に進む。これは、前の世界からの持ち込みである。
病によって不死になったがそれ以外は人間と同じである。だから食欲はあるし睡眠欲もある。腹は減るし眠気もあるので、一日の待機時間の半日ほどを睡眠時間に充てなければならない。食事はこの通り歩きながら摂取することが多い。
しばらく歩くと最奥にたどり着いた。それまで誰も会わなかった。研究所なのだから、人が研究開発した化け物がどこからともなく飛び出してくるだろうと警戒していたというのに。正直拍子抜けした。
最奥は部屋が一室設けられていた。所長室といったところだろうか。
部屋は広く、白い壁が特徴的だった。テーブルとイスが一組ずつあって、火のついた暖炉がある。快適な空間だが……零はテーブルの上にある物を見た。
「……紅茶?」
紅茶の入ったティーカップが置かれている。湯気が出ているので入れたばかりだろうか……
「誰かいるのか」
零は部屋の周囲を警戒する。零の声に反応する者はいない。無人であることを再確認した。にもかかわらず、熱々の紅茶が入れられている。これはどうしたことだろう?
訝しげにテーブルのモノを見つめていたが、立っていても仕方がない。とりあえず座ることにした。
零はカップに口を付けた。味は澄んだ湖のように美麗であり高級感のある味わいと茶葉の香りが後からやってくる。毒は入ってなさそうだ。
……なんだか無人の接待をされているようで気味が悪い。
目の前にはテーブルを囲むように三つほどの大画面がある。どれもカップに口を付ける前までは、ざらざらとした砂嵐が流れていたのだが。飲みほした途端――画面に、変化があった。
あなたの 願いは 何ですか?
零は突然のことに身が固まった。
白背景に黒い文字列。
左の画面には「あなたの」が。
真ん中の画面には「願いは」が。
右の画面には「何ですか?」が。
三つの画面は三つ子のように無言の映像を繰り出す。
何でも 叶えて あげましょう
お金が欲しい 幸せになりたい 夢を|鼎帯《かなえたい》
何でもどうぞ どれでも どうぞ
これはゲーム これは導入 チュー|酉《とり》アル
完璧故に ありません |鼎《かなえ》られないものなんて
「少しバグってるな」
零は文字を見ていた。長年の経年劣化で「叶え」が「鼎」になってしまっている。
「俺は病を治したい」そう零は呟くと、目の前の画面は声を解析して文字に起こす。画面が点滅した。
病? どんな病? 死ぬ|山井《やまい》?
どうやら右側の機械が壊れているのだと思いながら、「死ねない病だ」
死ねない? 不死身ってこと? 不死の病?
右側が壊れたので不治の病が「不死の病」と変化している。この誤変換は当たっている。
「ああ、そうさ。俺は『不死の病』をわずらっている」
そこから先、零は画面と会話した。単なる暇つぶしのための会話だった。この世界には何もない。人が住んでいないのなら、もう滅亡した世界ということだろう。世界渡りのできる一日が経てばすぐ、別の世界に飛べる。その待機時間のための、単なるお遊び。
やがて画面は白背景のみになり、ローディング画面になった。
左は「あなたに合う」が。
真ん中は「Loading……26%」が。
右の画面は「世界を探しています」が。
26%が30%となり、50%、67%、と数字がどんどんと上昇していって、99%となり、100%となり、100%となり……101%となった。
途端、画面が真っ黒になった。
パーセントの数字は血で書いたように真っ赤に染まる。そして……
≪――『不死の病』だって?≫
どこからともなく声が響いた。
≪『不死の病』、『死ねない病』、『絶対に死ねない』……? あはは……あはははは! おもしれえ! おもしれえことを言うなぁ! お前は≫
「誰だ」
≪俺かい? 俺は……|NightCrawler《ナイトクローラー》。神様をやってる≫
謎の声はいった。
≪それを治したいってことは、つまり、『死にたい』ってことだろう?≫
部屋全体を蝕むような低い声。アナウンス。それが上から降ってくる。
画面の数字はまだまだ増えてくる。120%、223%、400%……「世界のLoading」はまだ終わらない。
≪いいぜ、いい世界がある。ちょうど、死に満ちた世界が。こんなところよりもはるかに面白くて、愉快で、楽しげで……≫
謎のアナウンスは通達する。≪簡単に死ねるところが≫
1053%、1506%、5805%……。
画面から電子音が鳴った。
『Loadingが完了しました。転移装置が稼働します』
≪君を招待しよう。ここではない、女神が絶望した世界へ。そこでお前は――あっけなく死ぬんだ≫
白い部屋はビッグバンをしたように外側に膨張し、光が満ち足りる。そして、零は光に飲まれた。
生きる。さんのところの自主企画参加作品です。
https://tanpen.net/event/2a3cc4e5-e008-442e-a05f-763ee20b8eb9/
とりあえずプロローグだけ出しておきます。
自主企画期間外に執筆する予定でいますので、続きの投稿はまだ未定です。
半分か、全部書き終わると続きが投稿される予定でいます。
把握、よろしくおねがいします。
17 幕間:唄
横に置かれた見開きページ。文字は縦に書かれている。右上に太文字で『ナイト・クルーザー』と印字されている。
背景は夕方ごろの大海原で、中央には一隻の中型船が航海している。
甲板と思われる場所には数人の乗組員がいて、鼻歌まじりで歌っている。
---
--- ナイト・クルーザー ---
船長船長、明るい子
船員船員、元気な子
箱船箱船、運ぶよ船長運ぶよ船員
大きくなったり小さくなったり
小さくなったり大きくなったり
船長、遊びの草案考えた
なになに船員尋ねてみた
運ぶね箱船もう古い
たしかに荷物乗せたら沈没だ
どうしよう
どうしよう?
運ぶね箱船乗り換えよう
乗り換えぼくらはどうするの?
古い箱船乗り捨てて箱船おさらば大海原
ぼくらは飛び出せ見渡せ大航海
大きくなったり小さくなったり
小さくなったり大きくなったり
船長、遊びのルール話してく
うんうん船員頷いた
普通にやるのはつまらない
たしかに新船来るまで掛暇だ
二人乗せて三人下ろす
二人乗せて三人下ろす?
船替えるまでのルールだよ
なるほどそれは面白そう
船員六人なるまで続けよう
船長逃げ出すまで続けよう
大きくなったり小さくなったり
小さくなったり大きくなったり
船長、まだまだ話してく
そうそう船員同情した
五人以下にはさせないよ
たしかに別れはつらいかも
古い箱船、寂しかろう
海底一隻、つらいかも
船乗り夢見るどれいに任せ
ぼくらは下りよう今と同じく語り合おう
船長船長、口ずさむ
船員船員、朗らか同意
大きくなったり小さくなったり
小さくなったり大きくなったり
船長船長、明るい子
船員船員、元気な子
箱船箱船、運ぶよ船長運ぶよ船員
大きくなったり小さくなったり
1 血霧の研究棟
天使のはねよりも純白さを持つ光が辺りに霧散するまで、それなりの時間を要した。
光の濃度が薄らいでいき、そこに影が差すと、たちまち光はただの白い色素の塊になる。
白。それ以外に言葉の要らない光景。
そこにふつふつと黒い点が出てくる。お湯を沸かすことで出てこようとする気泡のように。満点に輝く星のように。
点と点を結ぶ黒い色素。ゆるやかなカーブ、直線的な十字架。二次元線画のような、物の輪郭が見えてくる。
光を失った水色か、暗い黄緑色。くすんでいる色の、斜めに引き延ばされた平行四辺形。これは壁の色か。
凍てついた零の目に、氷がじんわり溶けて広がっていくように視認能力が回復する。
どうやらどこかの部屋に飛ばされたようだ。
見たことのない景色。あちこちが壊されている。血気盛んな泥棒に、食い散らかした後のような悲惨さ。
そして、経年劣化がひどいと思われた。テーブルは灰を被ったようにくすんでいるし、その上のカップのような物体はもう形を保つのに疲れているらしい。少しさわっただけでさらさらとした砂に変じた。
零の目の前には先ほどと同じように三つ子の画面があった。先ほどまでは無邪気に遊んでいたというのに、どれも力尽きたように無残な姿でそこにいた。
どれも画面が割れている。ひび割れて見せてはいけない中身を見せている。壊れているようだ。
部屋をぐるりと見てみる。
形は似ているけれど、色も様子も異なっている。
「転送装置……」
光に包まれる前に、そんなことを呟かれたのを思い出す。
つまり、誰かの手によって――それは飛ばされる前に聞いた「アナウンス」の声の主だろう――、別の世界に飛ばされたことを意味している。
それか、同じ世界で、過去か未来のどちらかに、飛ばされたのか――?
「いずれにせよ、情報が足りないか」
零は画面から離れ、部屋から出ようとした。
転送前とは違い、自動では開かない。たてつけが悪い感じで、こじ開けるように無理やり引っぺがす。
廊下が現れた。床の色は真っ赤に染まっていた。
2 血にまみれた廊下
化け物ではないだろう、どう見ても人間の血液であると推測している。
廊下の天井から壁をつたい、床面をひどい目に遭わせている。床は血だまりを、壁は幾筋もの大きく|滴《したた》り落ちた跡を。天井にも届く、血しぶきの数々。
そして、そのすべてが乾ききっていない。ひどい血の臭いが立ち込めている。
零は、その致死量を超えた量の赤い川を遡る行為をしている。
独り、惨状の廊下を歩いているが人の気配はなさそうだった。足裏に、下品な靴音が鳴る。
びちゃ、びちゃ、と。
照明器具は電気パルスのバチバチとした音を響かせ、人工的な光の破片をまき散らしている。時折深呼吸でもするように器具は停止し、暗い闇に廊下は飲まれる。
建物内は時間を忘れ、音が朽ちている。|人気《ひとけ》なんてない。
だから、不思議だ――
……死体が一つもない。
まるで肉塊ごと、骨ごとミキサーにかけた後のように感じる。丁寧に、そしておびただしい量を液体にしてしまっている。
これだけの圧倒的な量の血が流れているということは、それだけの人間が犠牲になったことになるはずだ。
しかし、ここは赤以外の色は見当たらない。元々この廊下は白かったのだろうが、それらは塗りつぶされ、赤くなっている。どこまでも続く道。それは、レッドカーペットの上を歩いているのかと思ってしまうくらいの厚さ。
くすんだ壁も経年劣化がすごく、ひび割れている。新鮮な赤だけが、それらを一気に染め上げて、彩る。
長い直線の廊下。
左側に壁の切れ目があった。右に倒したT字路となっているらしい。
だが、もっと近づいてみると、それは切れ目ではなく、開け放たれたドア。部屋の入口なのだと分かった。
入り口の上部には細長い長方形のプレートが付いている。文字は見えない。
ただ、その前に、机が置かれていることに気付いた。その上に、何かが置かれている。
三角形の、ピラミッド型のような物体。
照明は刻々と瀕死になっているので影が差している。机に三角形のシルエット。
……なんだろう、あれは。さらに近づく。
光がないので黒いと思っていた。だが、実際近寄ると、その物体自体が黒いのだと分かった。
三角でなく、ブロックを積まれた感じだ。
いや違う。
ブロックは四角ではない。
|角《かど》の取れた丸い石?
呼吸停止になっていた照明が息を吹き返した。
光がはじける。
ばちっと。
表面を一瞬だけ晒す。
黒かった。白かった。赤かった。
ぴちょん、ぴちょん。
そういえば、この音はいつから鳴っているのだろう。
目の前からだ。
目の前の、机の縁から新鮮な液体が滴っている。
またも光が爆ぜる。叫ぶようにして長い点滅を披露する。
同じものが置かれていた。
自分と同じ、「同種の顔」。
正体はなんてことはない。生首である。
机の上に、人間の生首がピラミッド型に積まれていただけ……
3 死の違和感
祭壇の階段の一部を思わせる。
一番下の段は4×4の正方形、その上が3×3と、2×2、そして一番上に一個の、計四段あるピラミッドが置かれている。
顔の向きは揃えられ、すべてこちら側が正面だ。白目は濁り、|眼窩《がんか》はくぼみ、目をつぶっているものもある。
ぴちょん……、ぴちょん……、と滴る音が絶えない。どうやら血液の川の源泉は、これら切断された生の首塚からなのだ。ここが奔流となって床に流れ出たのだろう。
一番上に置かれた首を持ってみた。ずっしりとした重みが感じられる。小石が詰まった箱を持ち上げたようだった。
ピラミッド型は外縁だけで内側はハリボテかと思いきや、本当にブロック積みのようにみっしりと置かれている。さらし首の髪の毛が芝生広場のように敷かれている。
他の段も同様だとすれば、30個もの生首で一つの首塚が形成されていることになる。
「……作り物にしては質感がリアルだな。本物……だとすれば気味が悪い」
零は当然の感想を言い、手に持っていた首を元に戻した。
あー……
この時、零は声の聞こえた方に顔を向けた。
五人組だった。少なくとも人型をしている。
「住民か」
零は呟くような会話を投げかけた。
相手は何も答えない。ただ不審に、井戸端会議でもするように立ち話をしている。この世界での言語でも話しているのだろうか、会話の詳細は意味不明だ。
だが、零の声に反応して、会話が止む。住民と思われるものたちは一斉に顔を向けた。
小舟が波にさらわれるように身体を揺らして近づいてくる。その時、
「あー……」
「あー……」
という言葉の意味を持たないことを呟いて。目の前にいるものが生きている人間だと分かると、にぶい足取りが一気に加速する。
零に飛びかかってきた。
「住民。いや――」
しかし、零はまるで相手にしていないかのように別の方角を向く。
部屋の内部を見ている。後方に固まった机の大群と逆さになった木の椅子。そして窓……
「があーー!!」
という低く重たい音質で、零のいたところに飛びかかった。一気にむしゃぶりついてくる。
ようやく、彼らは数少ないおいしそうな肉にありつけたのだという、歓喜の感情が口元に広がるはずだった。
しかし何もくわえることはできなかった。自我のない彼らはきょろきょろと首をかしげるように振り、標的が逃げた先を探す。忽然と消えてしまったことを隣接している部屋は知っている。
部屋の、開け放たれた窓の先には隣の建物の屋上の一部が見えた。屋上に乗っかるように、無尽蔵に膨らむ暗い空が広がる。今宵は細長い三日月らしい。
「……どうやら魔物に知性はないようだな」
零はスキルを使って、開け放たれた窓の先……隣の建物の屋上に転移していた。着物の裾をたなびかせるほどの風を感じる。
そこからついさっきまでいた建物を見下ろす。そして全体を眺めた。
腐った空気。人間の朽ちた腐臭を運ぶ、強い臭い。もうすでに鼻はバカになっていた。
「知性のない人型の魔物。|魔物《ザコ》に襲われた後の廃街、といったところか」
建物の区画から、ここは学園らしい。縦と横に倒れるように、校舎が見える。見える敷地はかなり広範囲だ。校舎は三つほどあって、校庭がある。それから緑色のドーム状のものが見え、四角い開けた広場のようなものが見える。視界の奥は暗くなっていて見えづらいが、おそらく居住地。
だが、自分以外に生きた人間などいないだろう。
零は落胆した。転送前の世界と同様、すべてが死んでいるようだ。
ここも「ハズレ」の世界らしい。
正直、転移装置が勝手に起動したことにはびっくりしたものだが、ある種期待していた自分がいた。
何もない、長居の時間は無用の地から新天地への瞬間に変換される。別の未知の世界へ行ける。そうすれば、いち早く別の世界に移動できる。
人のいない世界、終わった世界に用はない。彼は自分の病を治す治療法を探しているだけなのであって、それ以外の寄り道は苦しみ以外の何物でもない。
だから、この世界にも用はない。
「『そこでお前は――あっけなく死ぬんだ』……か」
ふっと思い出して笑ってしまう。あの言葉はなんだったのか、と。
スキルは問題なく使えるらしい。なら、苦労することはない。仕切り直しになっただけ。「世界渡り」が行使できる期間、つまり丸一日経てば、この世界から飛ぶことができる。
空は絶望の色を呈している。薄暗い、三日月の夜である。この夜の月が沈み、昼になり、また夜になれば……
そう思っていると、彼を照らす月の光が一瞬だけ遮られた。空を見やる。
「新手か」
か弱い月の光を遮るのは、鳥などの羽根を持つものだけである。
バサバサと大げさな音を立てて、屋上のはるか上空からこちらを見下ろすようにしている。
羽根を持つ鳥型のモンスター。いや、羽根ではなく翼だろうか。それなら鳥ではなく竜……|竜翼族《ワイバーン》によく似ている。
空飛ぶトカゲは零を認識したようだ。八の字を描くように飛び、まっすぐ、屋上の獲物をついばもうと急降下する。
「まったく、外は敵が多いな」
零は先ほどと同じような手段を講じようとする。
敵に思いっきりそっぽを向いて、転移したい場所を瞬時に見分ける。
やはり建物の内部がいいだろう。巻くなら遠くがいい。ここは魔物にが巣くっている。なら、郊外ならどうか。
別に倒してもいいが、ザコだとカタナを引き抜くことすら面倒だ。
一日耐えるだけなら物陰に潜み夜を越すのがいい。静かであればなおいい。
少し遠めだが、居住地域と思われる一角を転移先に任命した。スキルを行使しようと目を閉じる。
転移は一瞬だ。開けたら別の光景が広がっている。
そして――初めて違和感を覚えた。
ダアーン、という一発の打ち上げ花火のような銃声の音がした。
目を開けると転移は成功せず、まったく変化しない屋上の景色が繰り返された。
そして力なく落ちていく一匹の|竜翼族《ワイバーン》。垂直に落ちる。地面から建物をつたい、重い落下音を轟かせる。
……だれだ?
「こっちだ」
初めて、自分とは違う性質の声が聞こえた。生きている声だ。
「……? なぜ、ぼーっとしている?」
「アンタは敵か?」
後ろを振り向かずにしゃべる。相手は若い女性の声だ。
「違う。少なくとも境遇は同じ」
境遇? それはどういうことだ?
「ちっ」
姿の見えない女は舌打ちをした。「二体目……銃の音で呼ばれたか」
あとで合流しましょ、といってから女性の足音が離れる。先ほどより長い月明かりの遮りがある。明確に先ほどより図体が大きい。
零の足元の地面に何かが転がってきた。投げ捨てられたものらしい、くしゃくしゃに丸められた白い紙くず。明らかに、先ほどにはなかったものだ。
拾い、広げると手書きの地図が現れた。急いで書かれたとされるゆがんだ長方形に赤いバツ印。「1」と書かれているので一階という意味だろう。
ふむ……。
屋上の分厚いドアを見ると、今にも閉じようとしている。数秒後にドアの閉じる音が向かってきた。あそこから女は階下に逃げたのだろう。
零はあの女についていくことにした。屋上のドアは若干離れていて面倒だと感じた。すぐに転移スキルを使おうとする。が、何も反応しない。
……なぜだ?
違和感だったものが明確な事実として浮き上がる。|スキルが発動しない《・・・・・・・・・》。
先ほどはできたはず。なぜ今は|転移《これ》ができない? 疑問に思った。先ほどはできたはずのスキルが、なぜか発動しなくなっている。
夜空の闇に潜む、二体目の|竜翼族《ワイバーン》。煩わしいのでカタナで斬ってやってもいいのだが、相手にすればきりがない。それに、このカタナは可能な限り、あまり抜きたくない。
幸い、相手の鼻は効かなかったらしい。旋回はしているが襲ってくる様子はない。難なく零は屋上のドアのたどり着いた。建物の内部に収まる。
スキルが使えないことは異常事態だ。前触れは特に感じなかった。だが、所詮〝今は〟使えないだけだ。この「スキル封じ」はごく一瞬的なものだ。今は情報が足りない。スキルが使えない理由はいずれ解ること……。
「生存者がいると分かったことはでかいか」
人がいるのであれば、治療法が見つかる希望はある。もう「不死」には飽き飽きだ。この世界で、最後にしたいと幾度も思っている。
零は合流地点に向かうこととした。手にある紙の地図を見て、地道に階段をかけ降りる。
4 サクリファイス
階段が終わるところで女は待っていた。
零の着姿をひと通りみて、|踵《きびす》を返し女は歩き出す。
「早くいきましょ。敵を巻かなきゃ」
それだけで零は女の後についていくことにした。
零は目の前の女の後ろ姿をみる。
新葉色の髪色で、ショートカット。背中に背負う、身体に見合わない遠距離用の銃を担いでいる。
服装は黒い制服に金か黄色のラインの入った刺繍。軍服といったものだろう。下は膝まである普通のスカート姿。零の見た目より少し高めか同じ程度である。
歩いているとき、先ほどの『境遇』とはどういった意味なのか尋ね、女はこう答えた。
「|NightCrawler《ナイトクローラー》……このなまえに覚えは?」
「ああ。神をやってるとかいうふざけたヤロウのことか」
「知ってるなら早いな。だいたいそいつのせいよ、今の状況は。私たち、そいつに|転送《呼ば》れたってこと。この壊れた世界の、『|神の余興《ゲーム》』の一員として」
「ゲーム……? ゲームには目的があるのか?」
「さあ。それこそ『神のみぞ知る』だな」
「……なるほど、『境遇は同じ』とは、そういうことか」
聞く限り、軍服の女はこの世界の住民ではないらしい。零と同じく、別の世界から飛ばされてここに来たということだ。
謎が多い世界に飛ばされたものだと零は思案する。単に魔物に襲われて打ち捨てられた廃街だと思いきや、生存者がいて、神と名乗る者により強制転送されたといった。
自分も同じだ。だが、よくわからない。この世界に呼ばれた理由も、「スキル封じ」が起きた理由も。
このおびただしく血まみれの廊下やおそろしく静かな建物内も、おかしみに満ち溢れている。
何より今、気になるのは……
「なあ、さっきから見かけるあれは何だ?」
廊下を歩いている二人の横に、いくつも置かれているものがある。この廊下を血まみれにした元凶であるとされる、生首でできた首塚。
決まってそれは、部屋の入口のドア付近に置かれているのに零は気付いた。
ドアを挟むように置かれた二つの首塚。転送された建物とは別の建物だというのに、それがこの一帯の習わしであるとでも伝えるように、普通に置かれている。
女は振り返らず答える。「あれは魔物よけだ」
「魔物よけ?」
零は記憶を振り返る。にしては、魔物たちはそれらをよけてなかったように見えたが。一部は魔物により食いちぎられて、ピラミッドの一部が崩れていた。
「ああ、元々は。|当時《・・》はせっせと作っていたらしいんだが。魔物よけのアーティファクト『|三角刑の生首塚《サクリファイス》』と呼んで。まあ、今となってはただの不気味なオブジェクトだ」
「気味が悪い」
「聞き飽きた反応だ」
「ここは学園のようだが」
「その通り。だからあの首たちは――」
「ここの生徒たちということか」
「……とまあ、そういうことになる」
会ったことないけど、と女は付け加えた。
「この先の階段を降りて、敵を巻く。その先に――」
「待て」
零は呟いた。「……いるぞ」
二人は立ち止まる。
ずいぶんと長い廊下のその先に、左右の壁が途切れる場所がある。そこに階段が有るのだろう。
しかし、その前に立ちはだかるようにして、数人の人型の魔物がよたよた歩いている。まだ零たちには気づいてない。
「ちっ、ここもか。いつもならいないはずなのに」
「別の道はあるか?」
「……いいえ、階段はここしかない」
「でかいくせに不便な学園だ」
「不便でもいいのよ。ここは元々魔法学園だったというし」
転移魔法が使える前提でいってきた。
立ちふさがる魔物たちに向け、もう一度試そうと一瞬瞬くも、やはり転移スキルは不発に終わる。
「まだ無理か。気乗りしないが、仕方がない」
「おい、待て!」
単独、零は動く。隣の女は制止をしようと声をかけたがもう遅かった。「そいつらはウイルス持ちだ!不用意に近づくと……」
|感染《うつ》る、と言いたいらしい。スキル発動とは関係のない瞬間的な目の動き。限りなく小さな声。俺にとっては、……不要な情報だ。
鞘を持つ手の、親指。鍔をめくるように素早くはじく。数センチの銀色に輝く刀身を覗かせた。
だが、零はそれだけで、カタナ本体は抜かなかった。何事もなく魔物たちのいる階段付近まで駆け、たどり着いた。
魔物に襲われることはなかった。もう、すべてが終わっていたからである。
「あまり、この|カタナ《・・・》は抜きたくなかったのだがな」
「……え?」
女は状況を理解していない顔をしていた。
時が停まってしまったかのように、目の前の魔物たちは立ったまま動かなくなった。その後、ぷるぷると身体を震わせたかと思えば、何かを発することもなく倒れる。その際、身体は床に接すると吸い込まれるように崩れさり、すべてが塵に変わった。風に吹かれて消える。
「さっき、何かを言いかけていたな」
カチン、と鞘にしまい、零は相手に関係なく続けた。
「ここを降りた先に、生存者……、アンタの仲間がいるんだろう」
女に振り返り呟く。「俺を連れてけ。少しは役に立つ」
5 拠点合流
零が女についていった理由はいくつかあるが、その一つにスキルが使えなくなったことだ。
零の患う病「不死の病」の治療法を探し、治すのが零の目的。効率よく探すには、どうしても転移スキルを使用して移動するのが前提となってしまう。
仮にそのまま使えていれば、世界を短時間で探すことができる。わずらわしいだけである仲間など、連れ添う必要はない。
零に仲間がいないのはそれが理由である。一人旅として、これほどすぐれた移動手段を持つスキルは、ほかにないだろう。なにより彼は不死である。
しかし、この世界では突如としてそのスキルが使用できなくなった。一回は使えた。最初に出会った魔物を巻くときに。
しかし、その後使用できなくなった。これは零にとって初めての出来事である。
そうなると治療法を探す以前の問題になった。このスキルが発動しないとなると「世界渡り」もできなくなった。このまま使えなければ、この世界に閉じ込められたことになる。
仮にここが「ハズレの世界」だった場合、別の異世界に飛ぶ際、別の方法を探さなくてはならなくなる。余計に時間がかかるわけだ。
というわけで、零はしばらくの間、女と行動をともにすることを選んだのである。あくまでスキルが使えるまでの間、という名目での……共闘関係。
「その『カタナ』というのは何なんだ?」
軍服の女は興味本位で零に尋ねてくる。そっけなく返した。
「魂を喰うとされている妖刀らしい。拾いものだからそれ以上のことは不明だ」
「なるほど」
「この通り、じゃじゃ馬でな。あのような魔物だと少し抜くだけでこれだ」
転移スキルは、このカタナ由来の力であるため、零はこのカタナについてすべてのことを知っている。それを話さないのは、いちいち話すのが面倒だと思っていることと、治療法に関すること以外の会話は全て無駄だと感じているからだ。
「まあ、戦えるのであれば歓迎だ。頼りにさせてもらう」
「……ああ」
ほんのわずかたが、やはり前に抜いたときより力が増している……、こいつもそろそろ限界だ。気を付けなければ。零はカタナを強く握りしめた。
★
「この先に私たちの拠点がある」
先ほど、魔物のいた階段を降りて、二人は地下道を進んでいる。
相変わらず床は血まみれであり、『|三角刑の生首塚《サクリファイス》』が等間隔に置かれているのは同じだが、一点違うのはまったく魔物に遭遇しないことだった。
「どうして敵が遭遇しない?」
「抜け道を使っているからだ。魔物にとって、|地下《ここ》は盲点らしい」
「ふうん」
二人は先を急ぐ。しばらくすると、女の歩みの速度が緩まる。拠点はもうすぐそこらしい。
「ここだ」
女がとあるスペースに指を差した。
門番のように守る、二つの『|三角刑の生首塚《サクリファイス》』に挟まれた入口。もちろん、ドアは硬く閉じられている。
「ここは?」と零。
「かつて、この学園はこことは別の世界にあったものらしい」
学園もか、と零は思う。
人だけでなく場所も、舞台となる学園もこの世界に転移してきた。未だ目的が分からないが、それをしたのはどう考えてもそいつだけ……
「|NightCrawler《ナイトクローラー》、だな?」
女は頷く。
「転移後の生徒たちは抵抗したようだが見ての通り全滅だ。抵抗して生き残った者たちが残してくれたものの一つが、この拠点……というわけだ」
「なるほど、その抵抗の最中」
零はすぐ近くを見た。
「……犠牲者となった同胞たちの首を組み立てて、この不気味なものをドアの前に置いたと。魔物の激しい侵攻を防ぐ御守りとして」
「まあ、そんなところだ」女は肯定を返した。
「これを作った理由が想像できないな。弔いのつもりか? キチガイの思考の末にせめてものと亡骸を」
「いや、当時の彼らほど〝これ〟を作るのに真剣だったのだ。結局、|NightCrawler《ナイトクローラー》に騙されたけど。魔物除けのアーティファクト。蓋を開けてみれば真っ赤なウソだった。冷静に考えれば判然する事柄だ」
「作った理由など解りたくもない」
ドア上部の細長いプレートにこの場所が書かれていたのだろう。今はもとの文字はかすれてしまって見えないが、ドアのところに「避難所1」と手書きで書かれている。番号が割り振られているということは、この避難所は他にもあるようだ。
血しぶきで少し赤くなってしまった重いドアを開く。中は結構広いらしい。他の部屋とは違い、机といすは見当たらない。
数人がたむろでもするようにうずくまっている。十人以上はいそうだ。それらが一瞬こちらを見たがすぐに興味を失くしたようで、そのまま地面に目線を戻した。奥にも部屋がある。簡素な木製のドアが見えた。
久々に汚染されていないきれいな空気を吸った気がする。フィルターに詰まっていたゴミが取り除かれ、バカになっていた鼻の調子が幾分か戻ってきていた。拠点内部は散らかっているが赤い色は見当たらない。それが一番の要因だろう。
「くつろいでもらっていい。といっても、何もないが」
「いや、いい。適当にやろう」
「助かる。時間をつぶしててくれ」
女はスペースの奥へ。歩みを進めながら、
「私はみんながいるか確認してくる。そろそろ『|授業《ゲーム》』が始まるからな」
「『|授業《ゲーム》』?」零は疑問を口にした。軍服の女は言ってからドアの奥へ消えた。
「ああ、『|死の授業《デスゲーム》』だ」
零は何のことかよくわからないという顔をする。
そこに、「新顔か?」と、すぐ近くで男の声がした。
6 最初のノイズ
そう語りかけてきたのは、一番近くに座っていた金髪の男だった。
だらしなく地面にあぐらをかき、長い前髪をせわしなく触っている。見るからに機嫌が悪そうだ。
時間を気にしているような、そんないらだちの目線でもってこちらを見据えている。
「お一人様か?」
「ああ」
「チッ、やっぱりか。やっぱりだよな」
金髪の男は露骨な舌打ちをした。
「ラビッドのヤロウ、あんなに豪語していたってのに、一人だけしか連れてこれなかったのかよ」
「……?俺に仲間などいないが」零は眉をひそめる。ああ、と金髪の男は手を振ってこたえる。
「気にしなくていい。〝こちら〟の話だ。ったく、もう時間がねぇってのに」
金髪は膝をつき、立ち上がる。そして大きな肩をゆすって、ガラの悪さを見せびらかしている。
大きな金属玉が転がっていくように、今しがた零たちが入ってきた分厚いドアに向かっていく。途中、零の服と掠った。零は着流しのように気にしない。
代わりに、遠ざかっていく背に向けて、零は疑問を投げかけた。「なあ、アンタ」
「あん?」首だけ動かして零を見た。金のやや長い髪が遠心力で外側に揺れる。それにより、髪に隠れていた青いイヤリングがきらりと輝きを見せ、すぐに髪に隠れた。
「なんだ、新入りのくせに。俺の邪魔すんなよ」
「『|授業《ゲーム》』とは何の話だ」零は無視して尋ねた。舌打ちが聞こえた。
「んだよ、何も知らねぇで来たのか?」
「教えてくれ」
「めんどくせえなあ、あとのことはラビットにでも訊け。のこのことついてったんだから、コミュ障でないならそれくらいできるだろ。俺は出る」
手にかけた重いドアノブをひねって隙間が生じた。すぐに臭気を発する奥の景色。躊躇なく開けられるその間隙。赤い地下廊下。
そこに、
「おい、なにをしてる?」
素早い点呼から戻ってきたらしい。奥に行っていた女が零のもとにかえってきた。歩幅を大きくさせて、腰と背中にある銃と軍服がこすれあってカチャカチャと音を出している。
金髪の男は彼女に気付いた。ああ、とノブに手をかけたまま女を見た。ドアはもう半開したまま。そこから腐った血臭が入り込んでいる。
「どこに行くつもりだ」軍人らしい明らかな制止の威力を持つ女性の声。それに金髪男は反目する。いらだちを隠さず。
「何をするにも俺の勝手だろう。いちいちお前の許可でも取らないといけないのか」
「もうすぐ始まる。……大人しくしておけ」
「そんなのできるかよ!」
彼女に反発する。「見捨てるっていうのか? 『二人乗せて三人下ろす』っていうルールだろ。まだこいつのほかに一人うろついているってことになるだろうが」
……何の話をしている?
零は二人の会話に挟まれる位置にいた。内容がよく分からない。置いてきぼりになっていた。
男女は会話ラリーを何度かしたが、女のほうが突き放す文句を言った。ため息とともに。
「なら、勝手にしろ」
「ふん、お前に言われなくても解ってる。死に場所は俺が見つける」
そのまま男は一人で廊下に出た。拒絶の音がおおげさにひびく。
「まったく、ノースのやつ。落ち着きのない……」
「大丈夫なのか」零は女に話しかける。女は手を振った。
「ああ。気にしないでいい。こういうのは日常茶飯事だから。彼はノースと言って、私の部下『だったもの』だ」
「『死に場所を探してる』と言っていたが」
「そう。だから毎回無茶をする。ここに来る前でも性格は変わらない」
「ふうん」
人知れず目を閉じ、夢想する。
死に場所を探してる――か。それなら気が合いそうだと心のなかで思いつつ。
金髪の男――ノースが出ていってから数分が経過した後、「ザー」というノイズがどこからともなく聞こえ始めた。
「来たか。今回はえらく早い……」
軍服の女は呟いた。零は隣にいる。だまって佇んでいる。
それまで部屋内の空気はどんよりと沈んでいたが、話し声は聞こえていた。そのノイズが合図となって一変、耳を澄ましているように静かになる。
女は隣の零に目配せする。「|NightCrawler《ナイトクローラー》の|定時放送《アナウンス》だ」
7 二度目の呼びかけ
「……あー、テステス。ああ、みんな。聞こえてる?」
その声はとてものんきに流れてくる。声変わりの前兆も経験していない、無邪気な少年を写したよう。
「音量とかどう? ちょうどいい? ……んなわけないか。せっかくマイクテストの時間取ってんだからさ。遠慮しないで。俺の声が聞こえやすいようにもう少しだけ上げてあげよう。
まったく、どうしてこうなんだろうね、前回と同じ音量設定なのにさ。なんかさぁ、うまく行かないんだよね。画面に出てくる音の波がね、こう……小さい気がするんだよ。マイクとのキョリが離れてるせいなのかなぁ……。いつまで経っても要領悪いなあ、まったく。何年やってるんだよ、てね」
部屋の奥、黒板がある上部のスピーカーから流れている。その声は、零にとっても聞きなじみのある声色だった。
アナウンスの主は楽しげである。空気を読まず場違いに励ますような。すでに惨殺されている全校生徒をからかっているような。
あざけり、嘲笑、煽りの順だった。
死を扇動する指導者と、外野で騒ぐだけの傍観者めいた立場の混在した意見。
絶望の叫び散らかした声を聞きながら、平気でカップラーメンでもすすり、実況しているような、そんな感じ。
「やあ、みんな。『さっきぶり』だね。みんな元気? まあ元気でもないかなぁ。暇してるよね。日に日に『|人数《ひと》が減って』るんだから。
でも、元気出して! ほら、君たちを元気づけるためにわざわざ俺が来たんだからさ」
「……|NightCrawler《ナイトクローラー》」
アナウンスの声を聞いて、零が呟いた。その小さな|聴取者《リスナー》にすかさず反応した。声がもっと高くなった。
「そう! 今誰かがいった。俺の名を!
ご存知の通り、俺は|NightCrawler《ナイトクローラー》。この世界の神をやってる。そして、ようこそ! 女神が絶望した世界『ネグローシア』へ!」
他の人なんてそっちのけで、零に呼びかけた。
「どうやら、ちゃんと合流出来たみたいだね、俺が連れてきた『新入り』くん。どうだい? イケメンだろう。俺の慧眼は腐ってなどなかったわけだ。美人も美男子も、生きていても死んでいても「映える」からね」
「くだらない」零はスピーカーを見上げるようにして、
「早くここから出せ」
「おいおい、そんなことを言わないでくれよ。たかだか『チュートリアル画面』を通り過ぎたぐらいでさあ。俺の予想では、君は『あっけなく』死ぬ予定だったんだけど。スキルが発動せず、格下だと思っていた|竜翼族《ワイバーン》に不意を突かれて死ぬ――という安いシナリオで。知ってるかなぁ、ゲーム用語で「初見殺し」って奴なんだけど」
少年のように生き生きとした声。
それがこの世界を司りし「神」の特徴だった。
「……どうやら、今回はそうならなかったみたいだ。残念だ。残念だけど、楽しみでもある。ああ、|健気《けなげ》だなあって感心してるよ。人間って健気。ほんと、感心しちゃうねぇ、感心感心。
ちっちゃなアリンコが、かさかさ歩いているとしよう。そこに、でっかい恐竜様が来たわけだ。たまたま通りかかったんだ。そのままだと踏みつぶされてあっけなく死ぬ。それこそプチュン!――ってね。
でも、それでも諦めようとしないところがいいんだよねぇ。急いで足裏の土踏まずとか、小さな溝に逃げ込んで、現代までしぶとく生きてるのって、なんて素晴らしいんだろうって。サクセスストーリーだ。今日も健気だなぁ、拍手を送りたくなる。さっさと死ねばいいのに、という拍手をね。
そういえばさあ……。感謝の言葉くらい、言ったほうがいいんじゃない? ねぇ、そう思うよねぇ女性の軍人さん。ひと言で、人間関係ぐっと近づいたりするよねぇ。言葉一つで変わっちゃうなんて、君たちってほんと『単純』なんだからさ」
「いつもこんな感じか?」零は首を傾げるように隣の女にきいた。女は目を伏せている。
「ああ。馬鹿の一つ覚えのように、無駄話が多い」
まるで子供と話しているようだ。零は質の低いスピーカーでやけに反響する声を脳内で分析する。
そういえば、この女の名前を聞きそびれてしまったな、と感じた。
先ほど出ていった金髪男は〝ラビッドに聞け〟と言っていたが、それが隣の女の名前なのだろうか、などと思いながら。
「ちょっとちょっと、なんか俺のこと軽視してないかなぁ」
相変わらず、スピーカーからは|NightCrawler《ナイトクローラー》の調子の良い声が流れている。
「そういった『陰口』、神様として許せない派なんだけど。〝鉄槌〟喰らわそうか?」
「……どこからか、俺たちの声を聞いているようだな」
「そんなの、あたりまえでしょ?!」
神なのに憤慨した。「何度も言わせないでほしいね、俺は『この世界の神』なんだから!」
零を挑発するように、
「まあ、新入り以外は知ってるかもしれないけど、新入りがここまで生き残ってくれたんだし? ちょっとしたプレゼントとして、この世界の基礎知識でも話してあげようかと思ってるんだけど」
「時間稼ぎはいい」
女は遮った。「用件はなんだ?」
「――ククッ」
|聴取者《リスナー》のいら立ち具合を見て、あおりを多量に含んだほくそ笑み方をする。彼にとって零たちはアリとしゃべっている気持ちなのだ。恐竜が今にも踏みつぶそうとする寸前の場面を切り取っている。
無邪気な放送主は、大きな足を持ち上げたままの恐竜なのだ。いや、もともとそれ以上の存在だ。世界の特等席に座っていた彼はおもむろに立ち上がり、地上を支配していた邪魔な恐竜を殺し、革を|剥《は》ぎ、なめし、そうして恐竜の着ぐるみを着て演じている。片足をあげて、ガオ~と言って怯えさせようとしている。
「いいのかい? まだ話してないだろう。今の新入りは、不思議なことでいっぱいなはずだ。なあ、新入りぃ。お前もそう思うだろ?」
と神は馴れ馴れしい。
「俺に聞きたいことなんていっぱいあるだろう? ゲームみたいにチュートリアルなんてないんだからねぇ。
な、知りたいだろ、なあ? ご親切にも羅列してあげようか。『ゲーム画面の選択肢』みたいな感じでさあ……」
生意気な挑発として、羅列された質問文が返ってくる。それはいたいけな少年のように。
「どうしてだろう。どうしてこの世界ではスキルが使えないの? 一回目は普通に使えて、それから音沙汰もなく使えなくなってしまった。それはどうしてだろう? どうしたらこのゲームは終わるの? 元の世界に帰れるの? |神《おれ》の目的は何? 『|授業《ゲーム》』とは何? この建物――|学園《プリズン》で何が起こった、あるいは何が起こっている?
至るところにある『|三角刑の生首塚《サクリファイス》』は何だろう? ただの不気味な置物か。だとしたら、どうして作られたんだろう? |呪物的なもの《アーティファクト》として造られたのだとしたら、期待した効果は何だったんだろう?
……それから、この世界のことも分からないはずだよ。長々と、長ゼリフを続けようか。この世界の歴史、そう――『|女神が絶望した世界《ネグローシア》』について。『|女神が絶望した世界《ネグローシア》』を見捨てた『|女神《・・》』についても」
やけに饒舌に話すな、と零は考える。水を得た|魚《うお》のように。
あいにく、羅列された質問文のほとんどは、零にとって興味のカケラも持たないものばかりである。零からすればさっさとこの世界から脱出したいのだ。そんなものは別の誰かが解けばいい。神は、そのことには気づいていない。
自己主張が強く、顕示欲も強い。どこでも神の性質は一緒だ。心の中で毒づく。
「俺は、すべてを知っている。それらはすべて神が絡んでいる。何を隠そう、俺だよ俺。俺という歴史の生還者と話すいい機会だと思ってるんだけどなぁ。どうしてそう拒むんだぃ?」
零は両目を閉じて沈黙していた。
隣の彼女が代わりに答えた。決別の色をにじませて。
「お前の話はいつも長いからだ。要領を得ない説明で、はぐらかしてばかり。はっきり言って時間の無駄だ」
「ほう、いつになく的を|射《い》てるね。でもさぁ、いいのかなぁ……」
|NightCrawler《ナイトクローラー》は思案の時間をわざととる。
8 モズノハヤニエノイケニエタチ
彼女と話す時、アナウンスのノイズが明らかに少なくなっている。
声を張り上げないからか、低い声でしゃべっているからか。テンションが下がっているからか。
「なんか、一人が出てるだろ? なんていったっけ、あの金髪くん。ノース? だったかなぁ……」
「ふん、あれは関係がない」彼女は言った。
「相変わらず冷たいねぇ。君たちくらいだろう、『古株』なのは。特に彼がいなくなると困るだろう? 戦えるやつが少ないからさ」
「脅しのつもりか? 奴は勝手に出ていっただけだ」
零は神との会話に対し、どこか引っ掛かりを覚えていた。それは神に対してではない。この拠点、この集まりについて。
この拠点は、今から始まる『|授業《ゲーム》』とやらから回避するための集団であるべきだ。おそらく隣の軍服の女がこの集団をまとめるリーダー的存在なのだろう。ただ、あまり統率はとれていないように見える。
ただ集まっているわけではない、何かあるのだろうとは思っている。生き残る以外の……別の目的があるのか? 例えば、敵グループがいるとか。
そう考えると突飛なことが頭に宿る。
彼女に従わず出ていってしまったのは、仲間ではないからではないか? あくまで一時的な共闘をしていただけであり、零がやってきたタイミングで、決別してしまった。それが『|生存《デス》ゲーム』の内容……?
自身でも釈然としない推測だった。
「たしかに、君の言う通り、俺はしゃべりすぎたのかもしれない」
アナウンスはそういった。「でもねぇ、もう『|授業《ゲーム》』は始まっているんだよ。そろそろ準備は終わったかな?」
その後、|NightCrawler《ナイトクローラー》の声は、それからのことすべての事情を知っているかのように、けらけら、けらけらと笑う。笑い続ける。
古めかしいスピーカーの反響範囲によって断続的なノイズが広がっていく。建物全体を包み込んでいく。学園内にすみずみまで行き渡らせていく。
絶望が。悪魔のような、快楽的な、邪悪さのこもった合図の輪が。
未熟さの残る子供であるがゆえの幼稚性、あるいは無邪気さ。それらがざわりと|耳朶《みみたぶ》を逆なでする。けたけたという笑い声、それは何も事情を知らない零をバカにするようでもあった。
★ 一分解説「モズのハヤニエ」
こんにちは。突然で失礼します。
私は世界の声。『ネグローシア』随一の森羅万象の具現化。
何者?――などという質問には答えることはできません。軽く|招待《・・》を伏せるなら、さしずめ私は『絶望した女神の使徒だったもの』でしょうかね。
さて、私のことなどかまわず、さっそく本題に入りましょう。「モズのハヤニエ」という言葉があります。
これは、「|速贄《はやにえ》」という、早い話がモズと呼ばれる生物が冬を越すための保存食のことを指します。
速贄は、その漢字が示す意味の通り「供え物」という意味ですが、だれだれのものと言う意味ではありません。あえて言えば自分の、モズが冬のときに備えて供え物をするのです。
「モズのハヤニエ」。
そのやり方は保存食にしてはとても残虐に見えます。
冬という、ありとあらゆる成長を止めるような厳しい季節ですから、食糧なんてそう簡単には手に入りません。
だから秋のうちにと、モズの目の前に出てきた獲物を、縄張りの枝に突き刺してそのまま放置しておくのです。
息の音なんて止めません。今食べるわけではないのです。いずれ越冬するときのための保存食なのですから、それまでにしぶとく生きながらえて、そして死んでもらえばいいのです。
そのまま冬になれば冷凍保存ができるでしょう。針を刺す冷たい空気にあおられて、長い間天日干しにでもされた干物ごとく生まれ変わります。
それは十字架のような残酷な|磔《はりつけ》であり、はりつけられた遺体は冷たい風に吹かれている。それが何本も何本も枝が連なって、そのすべてにモズによる速贄がなされている。ひと息で言えば、〝圧巻〟でしょうか。
力の失った手足はその自然のかすかによって揺れ動くのです。ここはモズの縄張りだ、逃げろ、危険だ。そう主張するように手を振っている――。
ちなみにこの「モズ」の大好物はなんだと思いますか? 答えは簡単。唱えてみてください。
モズのハヤニエのイケニエ達
モズの速贄のイケニエたち
モズの速贄の、生贄たち……
★
「今回は新入りがいるから、『|授業《ゲーム》』のおさらいでもしようかと思うんだ。
口酸っぱく先生がよく言うだろ? 予習、授業、復習のうち、一番大事なのは『復習』だってね」
すみずみまで神の笑い声が染み渡っていったあと、地上階がやけに騒がしくなった。拠点は校舎の地下にあるので、実質校舎内全体が対象範囲なのだろう。
ガラスの割れる音、化け物たちが活性化する声。建物全体が大地震に包まれ、おびただしい数の喧噪が。それらに覆い被さる形で机といすが倒れる物音……
「『モズノハヤニエノイケニエタチ』……」
女は呟いた。真下からであると錯覚するほどに揺れている。だが震源は明らかに上だ。横揺れにより、天井からホコリが落ちてきている。
「じゃ、そういうことだから。俺はいつも通り観察者に徹することとしよう。じゃあな、ゴミ虫ども。『|絶望の《While living,》、|一滴を《Suffering Struggling》』」
その言葉を最後にアナウンスは切れた。もう少年の煽り文句は聞こえない。
あれだけ新入り、新入りと言っておきながら、初めて『|授業《ゲーム》』を受ける人に説明などは一切なかった。あれだけの疑問の講釈を垂れて投げかけた割には、何一つも答えてくれなかった。
事情を知らぬまま、お前は死ねばいいのだ、という無言の|罵《ののし》りを零は感じた。
9 さえずり
アナウンス音声に隠されていた音が、空からぱらぱらと降ってくる。
危機感を煽る異常事態を否応なしに告げてくる。中断していた『|授業《ゲーム》』という名の『|生存《デス》ゲーム』。それが再開しようとしている。
拠点にいる人たちは、もう奥の部屋に逃げ込んでいる。より安全な所を求めて、奥に奥にとモグラのように突き進んで閉じこもった。そうしないのは女の軍服と白と黒の着流し。その二人だけ。
「出るか?」
零は殺気早く鞘に手を添える。いつでも大丈夫だというようにして。
しかし女は待てと制した。
「不用意に手を出すと面倒だ。気づかれないように隠れること。これが隠密行動の基本指針だ」
「俺はあんな雑魚には負けない。先程で俺の実力は解っただろう」
「分かってる」
建物の振動が伝わり、女の黒い軍服も若干揺らめいているような感覚を覚える。一瞬船に乗っているような、空爆を受けている最中の塹壕にいるような。それは零の着流しにも適用されている。
「だが、貴様でも今回のは無理だろう」
「俺のことを見くびっているようだな」
「違う、そうじゃない。『|授業《ゲーム》』のときは指揮官がいてな。軽く言ってしまえば|不死《・・》なんだ」
「不死、だと?」
「しっ」
女は口元に指を突き立て、静かにさせる。唇の色は紫の混じった赤色。聞き耳を立てている。
「……どうやら遠ざかったようだ。これで戦わなくてもいい戦闘を避けられた」
「不死の指揮官とは何だ」
零は女に訊いた。
指揮官がいることに関しては特に疑問は生じない。今までの敵は所詮、『|授業《ゲーム》』以外での敵。定常的に湧く通常モンスターといったところだ。
先ほどのアナウンスによって『|授業《ゲーム》』が始まった。『|授業《ゲーム》以外』と『|授業《ゲーム》』で出てくるモンスターでは、出現数も力も桁違いなのだろう。
指揮官が出てくるということもあって、それ以上の大物も出てくることは容易に推察できる。
それでも、零の今までの経験から察するに、それでも「特に問題はない」と思われた。
一部、聞き捨てならない単語を除き。
女は口元の人差し指を降ろし腕を組む。近くの壁に、トンッと背中を預けた。
スカートから軽い|衣擦《きぬず》れとともに紙のケースを取り出した。中から一本、紙たばこを取り出す。
先に火をつけた。長い長い一服目。顔をやや上に向けて、天井に煙を放射する。零は黙ってその動作を見ていた。
そうして数度、腕は往復し、タバコを持った手を止めた。
「死なない敵ってことよ」
「それは解ってる。アンデッドの類いか」質問すると今度は俊敏に答えてくれた。脳に成分が届き、クリアになったのだろう。
「いいえ。姿形は腐ってるが、|骸骨兵《スケルトン》や|腐肉《ゾンビ》ではない。まあ、若干野鳥に似てるかもしれないけど。『モズ』と言われるだけあるし。仕留めることは可能よ。ただ『|授業《ゲーム》』のたびに生き返るのが面倒で、弾の数がもったいないってことだけ」
「燃やせばいいじゃないか」
吸いながら、肩に乗ったホコリを嫌そうに払いのけていた。
「それが不燃なのだ。よく言うだろう。『神が創りしものは燃えることを知らない』って。神の眷属らしく、指揮官は「不死身」というわけ」
建物の揺れは先ほどに比べ落ち着きつつあるが、未だ震度4程度はある。耐えられるものの未だ不穏を拭えない騒音……。
「ねぇ、ちょっと開けてみてくれる?」
外の様子が気になったのか、タバコの持つ手でドアの方を示した。少し口調も女よりにやわらかくなっていた。こちらが素のようである。
零は了承し、指示に従う。着流しを揺らして、少しだけドアを開けた。
開けなくとも分かる通り、廊下は相変わらずの景色である。何も変わらない。床はぐっちょりと血でぬれている。
一瞬、赤い色に紛れて茶色が見えたことで、零は一気に周囲の警戒レベルを引き上げた。しかしそれは敵ではなかった。
この拠点に入室しようとしたときからある、何も変わらない首塚。『|三角刑の生首塚《サクリファイス》』の一角を構成する髪色だった。
もはや生気を失っているというのに、存在感だけはひと際ある。人間のみだと思っていたが、別の種族――獣人のような、長い耳が付いている。しかし、根元からだらりと垂れ下がってしまっている。路傍の石だというのに、落ちくぼんだ|眼窩《がんか》の先にあるだろう瞳孔が、生きている人々を険しく睨みつけている。
廊下という、生存者のいない地下の道。しかし――その地下めがけて、上の地表から隕石のように降り注ぐ声があった。顕著な存在感を発揮している。叫び声の軍勢である。
「助けてくれぇーーー!」
「うわぁーー!」
「ギャァアー!」
喉がちぎれんばかりのおびただしい音量。
厚い建物の基礎部分を軽々と突き抜けてくる。建物の骨組みはおそらく金属のような物でできているので、建物内に音が染みこんで消えるまで相当な時間がかかっている。それまで地響きのように鳴動する悲鳴、泣き声、断末魔。新たな叫び声も足されていくので終わりはない。
「上に、生存者がいるようだが」分厚いドアを開けたまま、零は壁に|凭《もた》れた彼女に語りかける。
「……のようね」
彼女はタバコを取り換えていた。古い方は指で弾き飛ばし、零によって開けられたドアの隙間の方に投げ捨てた。廊下の赤い濡れた床と接触して、遠くでジッ……、と火の消える音がする。
「もういいわ。閉じて」
新しいくわえタバコを手で隠すようにして火をつける。零は顔をしかめた。
「見捨てるのか」
「勘違いしないで。|拠点《ここ》以外に生きてる人はいないと思って。これ、『|指揮官の声《偽声》』よ」
「|指揮官《偽声》? 魔物の声か?」
「罠なのよ」
女は一服を堪能している。
一方零はやはり眉をしかめている。彼女の言葉の真意を計りかねているようだ。
「完全に人の叫び声にしか聞こえないが」
「初めてだとそうでしょうね。彼の言葉を借りればこれもまた『初見殺し』になるの。この声で呼び寄せて喰らおうとしているの。私たち以外にもう、生存者なんていないのに。それを助けようとする不届き者を……。でも耳を済ませてみて。この声たち、どこか合成された色をしているでしょう?」
そういわれた零は、今も|大量殺人《スプラッター》の最中のような、上階から響く声に耳を澄ましてみた。……たしかに、叫び声の種類は多様だが、声は濁っており、そこまで鮮明化されていない様子だ。
「取り込んでいるのよ。その、|犠牲者《ひと》の声帯を……ね」
首を動かして目線を振った。零は振り向き、ドアの隙間からのぞかせる、『|三角刑の生首塚《サクリファイス》』の一部を手に取った。頭をひっくり返して、斬られた断面を上にしてみる。彼女の言う通り、たしかに声帯部分はない。ただの首だと思っていたが、その部分はきれいに食いちぎられている。顎を境に、首部分はもうないようなものなのだ。
手に持った首をもとに戻して、零は扉を閉めた。一気に音量はドアの向こう側に封じられる。
「なるほど、だから死体が転がってないということか。『モズのハヤニエのイケニエ達』。すでに指揮官「モズ」のハヤニエにされているから」
「ご明察の通り。だからいろいろな声が聞こえてくる。離れて聞けば、モズのような小鳥のさえずりに聞こえてくるでしょう?――そういう趣旨の『|授業《ゲーム》』なの」
迫る危機が去ったためか、彼女の顔に余裕の表情が戻っている。
足元にはそのまま落ちた灰が小さな島を作っている。建物全体を襲っていた強い振動も、その灰の島でも耐えられるくらいには弱まっており、疑似的に作られた『犠牲者の声』もまた遠ざかっているようだ。「モズ」は縄張りを持ち、周回しているのだろう。
「ひとりうろついていると、先ほど聞いたが」
零は自分で閉じた金属扉を見つめている。
「あら、何も知らないかと思ったのに。誰に聞いたの、ノース?」女は零の方を向いた。
「すれ違ったときに、軽くだが」
「さっき、|拠点《ここ》以外に生きてる人はいないと言ったけど、正確に言えば生存者はいるわ。でも――」
分厚いドアを掠るような高い笛の音が鳴る。廊下側にかすかな風の運び。
「悪いけど私、夢を見ないタイプだから。どこにいるかもわからないその一人のために、拠点にいる人たち全員を犠牲にしたくないの」
「……なるほど。現実主義、堅実主義か」
この拠点は主に二つの部屋に分けられている。一つは二人のいる大部屋、その奥にもう一つ。だから、意外と静かな雰囲気である。
二人以外、戦闘できるものがいない。そのほかは、非戦闘員、無能力者ということになるのだろう。零は戦闘員の少なさという観点から理解する。
「その方が合理的だ。現状をちゃんと分析している。今はアンタの考えに従い、大人しくしておこう」
「その理解に感謝するわ」
「だが、敵を作る考え方だ。一団を束ねる者として、行き過ぎた冷徹さは統率力を低下させる」
「ご忠告、痛み入るわね」
女は自分の髪を触る。新緑色の長い髪が、しなやかな指の隙間を通って再び一つにまとまる。
「でも、人に嫌われるのにはもう慣れてしまったわ。軍人として、というのもある。嫌われてなんぼの職だから。少なくとも、もう一人には嫌われてる」
その一人が、先ほど飛び出していった金髪男、ノースというらしい。
「まあ、彼の気持ちも解るけど。死んだら元も子もないのよ」
10 彼を追って 1
叫び声が遠くへ行けば行くほど、おびえていた静寂が部屋の四隅から這い出て、空気中を舞った。空気に浮かぶホコリは自由自在に浮遊する。
拠点の通気をよくしようとするかのように、リーダーの彼女は廊下に通じる金属製のドアを開けた。血まみれの廊下に出る。辺りを警戒するように二手に分かれ、少し離れる。
先ほどのような恐怖を逆なでする物音は特段聞こえなくなった。
『モズ』と呼ばれる大型モンスターが吠える疑似的に合成された叫び声も、ガタガタと動く上階の音も。|NightCrawler《ナイトクローラー》の人間をバカにするようなアナウンスもスイッチが切られたように途絶され、今は本来の静けさの方が勝っている。緊迫感がある雰囲気。
「どう、首尾は」
零の反対方向を索敵していた女は近づいた。
「こちら側にはいないようだ。アンタの方は?」
「同じよ」
「そう……。ならいい」
「手伝ってくれてありがと。戦える人が少ないから正直助かる」
零は女の方に半分振り返り、目を伏せて呟く。
「手伝ってる気分ではない。俺の……、好きでやっている」
「そう」女はくすりと微笑む。
「なあ、アンタ」
「ええ、聞かれなくたっていつか話すわ、今じゃ何のことか分からないでしょうし」
女は目を伏せがちにしてつづけた。
「けれど、それを話すには様々なことを話さなくてはならない。さっき、ご親切にも|NightCrawler《ナイトクローラー》が羅列したことについて知りたいんでしょう。
|学園《プリズン》について、『|死の『|授業《ゲーム》』《デスゲーム》』、私達のこと、そして増減ルール」
零は眉を斜めにする。
「増減ルール?」
「『二人乗せて三人下ろす』」
女は、どこかで聞いたフレーズをいった。
「つまり、二人増やして三人殺す。そういう意味よ。
今やっている『|死の授業《デスゲーム》』には法則性があるの。ずっと『|授業《ゲーム》』が続くわけじゃなく、『|授業《ゲーム》』以外の時間『休憩時間』が存在する。ある程度『休憩時間』が経過すれば、別の『|授業《ゲーム》』が始まる。その『休憩時間』に人が|転移《補充》されるのよ」
「なるほど、死ぬばかりではないと?」
「ええ。『二人増やして三人殺す』、または『三人殺してから二人増やす』……どちらなのか分からないけど、あなたのように|NightCrawler《ナイトクローラー》の手によって、外の世界から強引に|転送《らち》られて補充されるの。それからしばらくすると『|授業《ゲーム》』が始まる」
ふつう、『|生存《デス》ゲーム』のルールに従えば、最後の一人になるまで続けられ、その一人だけがこの非情な世界から脱出できる――という触れ込みが多いのだが、そうではないのだという。
減るばかりではない。『減らして増やす』のだ。
「|救済措置《・・・・》のようなものが組み込まれている?」
いや、そう生やさしいものではない。生け簀なのだと零は感じた。
ここは生け簀。ある程度魚が成長すれば捕獲されて食べられる。減った分は稚魚を投入して水槽内の魚の数を均衡にしておく……その繰り返し。その増減量を生け簀の主は水槽外から観察している。
「補充したところで奴にはメリットがないが」
「奴がいうには『早く終わらせたくないから』だと言っていた。理由なんてないでしょうね」
「水槽内を眺めるような感じの、娯楽として見ている……?」
だが、零にとって、その『増減ルール』についてとくに興味はなかった。
『二人乗せて三人下ろす』という独特なフレーズ。それに深く突っ込むことはしない。別のことが知りたかった。
「でも最終的には一人になる。2マイナス3だから徐々に減っていく一方……」
「そんなことはどうでもいい。どうして|転移《スキル》が発動しない?」
「ああ」
女は天井を経由してから零をみる。
今いるここは地下廊下なので、洞窟の感じがする。天井は低く、圧迫感がある以外に特徴はない。
「……それもあるのね。それは簡単よ。この世界は停止世界だから、|スキル再使用時間《リキャストタイム》が極端に溜まらないから」
「停止世界?」
停止世界? |スキル再使用時間《リキャストタイム》?
零の頭のなかに聞いたことのない語句が膨らんでいく。
ここは大丈夫そうね。ひとり|言《ごと》を言うように女は零に言った。
「詳しいことは『|授業《ゲーム》』が終わったあとでいいでしょう? まとまった時間がほしいし。停止世界や|スキル再使用時間《リキャストタイム》については正直座学よりなのよね。私よりも適任がいる。周りが落ち着いたらそちらの人にうかがってちょうだい」
「わかった」零はすばやく意見を|斥《しりぞ》ける。
「『|授業《ゲーム》』の最中で悪かった」
「じゃあ、悪いついでに一緒についてきてくれる?」
女は拠点から離れるように、赤く滴る廊下の奥を進む。足裏に付着する粘性のある赤い液体。そこから、かつて滅びた民族の、血塗られた歴史が浮き出てくるような気がしてならない。
「さっき、飛び出していった|部下《バカ》を探しましょ」
11 彼を追って 2
彼女の頼みに従い、零たちは拠点から離れ、地下廊下を歩いていた。
方角的には、女と合流した場所(女によるとあそこは「研究棟」というらしい)とは反対側、「校舎棟」に向かうらしい。だから、拠点のドアから向かって右に折れた先を歩いている。
地下廊下の風景は何も変わらない。
夜中にポツンとある街灯のような感覚でサクリファイスは立っている。照明も虫の息といった光の発し方で、地下深くに潜む洞窟でひそかに輝く鉱石のよう。
床は相変わらずの赤い川が流れ、奥から手前側に淀んでいる。もはや犠牲者の身体は不在だろうに、どこから流れているのだろう。それは『|三角刑の生首塚《サクリファイス》』から。とはいえ、切り落とされてそこに飾られてからずいぶんと時間が経っている。血はすでに尽きたはずだ。
けれども止めることができぬ。こんこんと湧き出る汚らわしい泉が、不可視の地中にて隠れているらしい。
二人はこの過程で自分の名前を紹介しあった。
やはり女の名前はラビッドというらしい。正式にはレプシラビッド。
彼女はこの世界に呼ばれる前は帝国の軍人だった。若いながら一軍隊の将校を務め、数々の戦場に向かい、戦果を挙げて帰ってくるということをしていた。得意とする攻撃は魔法弾だが、〝この世界〟に来てからは忘れてきたかのようだった。そのため、背中に担いだライフル銃の実弾攻撃に留めているという。
「一人で行動するあたり、彼は強いのか?」
零は時間つぶしがてらラビッドに尋ねてみた。
地下廊下は要塞のなかのように少し入り組んでいて、彼女の案内がなければどこに行くのかわからない。嗅覚がまったく効かないため、どこか甘い果実の匂いすらする。とうとう幻臭を嗅いでしまうようになったらしい。
彼女の目のちからは強く、通路の先を見ながらいった。
「強い……という評価が、どこを基準に定めるかによるが、弱くはない。軍人としては失格だが」
「それは、単独行動ができるほどに強い、という意味か」
やれやれな感じ。
「強ければ単独行動をしてもいいというわけじゃない。上官からの任務を任され、それを完璧に遂行するように行動せよという前提条件があって我らは動いている。それが部隊という一個体の成り立ちだ。
手足が自由に動かれると、いくら頭が冷静だろうが難しい。手足に感情などというものはあってはならぬものだ。感情は頭から出てこそ。……ああいう人間からさっさと死ぬだろう」
ノースという、零とは入れ違いに出ていった金髪男は、そのラビッドの部下である。彼も優秀な魔法兵出身のようだったが性格に難があり、職場をたらい回ししされた後に彼女のもとに就いた。つまり、隣の女ラビッドと金髪男ノースは同じ世界から招かれた者……上司と直属の部下であるのだ。
「つまり、『彼』は戦場ではもう死んでいるのではないか、と思っている」
「当然だ。仮に、|ノース《奴》が死んでいても、私は驚かない。それまでがうまくいっていた、うまくいきすぎていたというだけの話。まあ、奴も無駄死にをしに、無茶をしているわけではないだろうが」
彼女は一度言葉を切り、彼には妹がいるんだ、と言った。零は片眉をあげた。
「妹?」
「さっきの|拠点《へや》の奥に、病弱な妹がいる。彼の、ただ一人しかいない血のつながりだ」
「妹もこの世界に来ているのか?」
零はきいた。兄妹揃って巻き込まれたとすれば不運と言わざるを得ない。返事の後、拠点の奥で寝ていると言った。
「時期としては私の方が遅いんだ。おそらく実時間としては数日とないだろう。大規模な防衛線のあと状況は落ち着いたので、我ら小隊は故郷に戻る許可をいただいた。地方に散らばったあとのことだ。ノース兄妹が先に転送されて、あとを追いかけるように私もこの世界に来た。寝たきり状態の妹を守るように、奴が一人きりで戦っていたよ。二人以外は全滅だった」
「つまり、二人が一緒に転移され、その病弱な妹を守るために、兄一人で守ってきた……?」
ラビッドは頷く。「だから無茶をする。私の言うことを聞けば妹を守る事にもつながるのに」
もう一人で頑張らなくてもいい、というニュアンスが彼女の声にあった。
あの頃から考えても拠点の規模は二人から十数人に増えている。兄一人がすべてをやらなくてもよくなったのだ。
妹の看病、食事、周囲の索敵。そのうち一つをやるだけで済んでいる。うち二つのことは、拠点の者たちが分担してやっているようだ。
「まあ、そのようになれた過程は、私の後から飛ばされてきた連中を救出できたからにほかならない」
戦闘ができるのは拠点のなかでは二人だけらしい。拠点のリーダーであるラビッドと、その部下のノース。
そのほかは戦闘のできない人々だ。ラビッドの後から転送された人たち。
零のように、わけあって|能力《スキル》が使えなくなってしまった無能力者たち……。
「なるほど。彼は戦える者たちを探しに行ったんだな? この……『|休憩時間《人が補充されるタイミング》』を狙い、強者の可能性のある、まだ見ぬ人物を見つけに行った」
戦闘ができる者が少ないと、やはり隠密行動がメインとなってくる。敵に隠れながら、最低限の接触のみで済むハイド的な戦術。生き残ることが主体。
だが、それだと現状の打開策にはなり得ない。
零の予想を聞いて、バカにするような鼻の鳴らし方をした。
「……そう、能天気なことを考えられるのは脳筋のたまものだ。単なる|疑似餌《ぎじえ》だろうに。うまい話があってたまるか、と私は思っている」
そのあたりのことで、二人の意見は衝突しているのだろう。
12 モズの縄張り
しばらく地下道を進むと、地上へ向かう階段が見えた。先は暗く見えない。近くに寄ってみると物理的に途切れているようだ。
階段の頂点。天井の、コの字型の取っ手を掴んで、上に押し上げる。弱い光が差し、外が見えた。
ラビッドが隙間から様子をうかがう時間があって、その目が下をみる。彼女のすぐ後ろで待っていた零は暗闇のなかで頷く。
地下階段を隠す床の一角を上に持ち上げて、二人はそこから地上にあがった。
教室内に出たようである。
後方に積まれたイスや机がバリケードになっていて、隅が隠れていた。そこに隠し階段があった。誰が作ったのだろう。
バリケードをどけて廊下に出る。
すると……そこには絶望をにじませた絶景が広がっていた。
「なんだ、これは……」
零は廊下に並んだ〝それら〟をみる。瞬時に「ハヤニエ」であると理解した。
見た目はかかしのようである。
田んぼや畑のなかでたたずむ人型をした人形。
十字架の磔にされたものが、そのまま廊下の床に突き刺さって立たされている。
しかし、異形の姿をしている。
どれも頭がなかった。
切断されており、身体の中心をつらぬいた丸太が首からのぞいている。
それが行列をなすように敷き詰められ、廊下としての通路の役目を果たしていない。墓標のようである。
くたびれた学生の制服が、風にたなびく旗のようにゆらゆらとしている。
「モズの仕業だ」
行くぞ、というラビッドの声。
それら――「モズのハヤニエ」を横目に先を進む。
「あてもなく進んでいるわけではないだろう?」
「当然だ」
ラビッドが咥えるタバコの煙。ある一定の方に流れ、そちらに振り向いた。
「あっちの校舎のようだ」
★
かかしのような、「モズのハヤニエ」がずらりと並び、廊下を圧巻の情景にさせている。
それらを横目にしながら、二人は進んだ。勇敢にも、はたまた蛮勇にも、拠点から出ていった金髪の男を探しに。
階段も同様に「モズのハヤニエ」が突き刺さっていた。一段につき少なくとも二体は突き刺さり、物言わぬ障害物として立ち塞がっている。
それらの隙間に身体をねじり入れて、一段ずつ上った。踊り場でターンして二階に昇ってみても、廊下のその圧巻の景色は変わらない。
これら「モズのハヤニエのイケニエタチ」は、おそらく過去の人々をはりつけた死体だろう。だが、今となっては単なる風景に過ぎない。
既に死んでいるのだから舞台の装飾に過ぎない。
声を出せないのだから山奥で林立する樹木に過ぎない。
命が軽すぎる世界なので、零はそれらに対して特に|憐憫《れんびん》の情も抱かなかった。
先行しているラビッドも同様のことを思っていることだろう。
そこに、
く……、というくぐもった声がどこからかした。
ラビッドは走って近くの教室に入った。零も後に続く。
いた。
教室の壁に凭れるようにして、一人の男が身体を向けている。
「また無茶をしたようだな」
手負いの部下に言葉を投げかけた。「今度こそ致命傷か?」
毒づかれ、深呼吸のような、力のない言葉。もう虫の息らしい。
「は、は、は……。どうやら今度は俺が降ろされるらしい」
「お前ほどの人間が、不意を突かれたのか。耄碌したな」
「は。一人だったら、ラクだったんだがな。今回はそうじゃ、ねぇんだよ」
無理やり自分の体を揺り起こそうとする。彼女が制した。
「無理しなくていい」
零は空気を読んで、教室には入らず、ドア枠にもたれかかるように立って見守った。
ノースは一人で立てないほどの重症のようだが、肩を借りれば何とか立てるらしい。彼女によりかかる感じで一歩ずつ歩いていく。
「だが、見つけたぜ。一人。生存者」
「もうしゃべるな」
彼女は冷静にいった。
ノースは血まみれの金髪を揺らしている。
零は誰かに呼ばれるように窓の外を見ていた。
空の色は曇天模様といったもので、明るさなんてない。墨汁を垂らした感じの黒い雲。
ここに転移してからまだ数時間と経っていないはずだ。夜なのだろうか。
だが、一瞬、そこから声がしたような――気がした。
地下で聞いたモズと呼ばれる魔物の、合成された声ではない。静電気が発する感じの、鋭い何か。
「女の、剣士だ」
ノースが、のどから力を振り絞るようにいった。
「女剣士?」
彼女は聞き返す。「特徴は」
「オレンジ髪に、青色の……ネックレスチェーン」
「おい」
零が二人に呼びかける。「来るぞ」
廊下にたたずむ零はかなり黒い空をにらんでいる。それを見て彼女は舌打ちする。すべてを察した。
「……いてけ」
今、肩を借りている金髪は絞るように首をねじった。
「俺を置いてけ。……足手まといだ」
「そんなことはできない」
彼女は鋭く返す。「貴様の妹が、待ってる」
零のにらんだ空に異変が生じる。
廊下と教室の暗さが増した。一瞬だけ空が瞬きでもしたように。
すぐに明るさは元通りになるが、天高くから風を切る音がする。
またも、暗くなった。飛来する巨大な影。校舎を覆いつくすほどの圧倒的な闇。
「俺を、おいていけ」
「だからそんなことは……」
「いいから!」
自身の大声で、ノースの口内にたまった血が吐き出される。
空で繰り広げられる。
大きな旋回の気配。
「知ってんだろ? 奴における、俺の役目は『生き餌』だ……。ようやく引っかかったと戻ってきたんだ……よ!」
ノースが彼女の身体を押す。
「俺は、ここまでだ……ラビッド。妹を、頼む……ぞ」
誰かに伝言を頼むようにいって、目をつぶる。
そして、到来する。
目をつぶる男の後ろから。
大きくUターンしてからきたのだ。
だから、
教室の窓を突き破って、
豪快に、薙ぎ払う。
特大サイズの、鳥類のかぎ爪。
絶望が、ひっかいた。
13 対峙する絶望
廊下側にいた零から見ても、ダイナミックな登場の仕方だった。
教室のすべての窓を破壊した。
悪魔の翼が広がる過程。こちら側に拡散していく悪夢。大きな劇場の古色蒼然とした緞帳のごとく、舞台が向かっていく。
大音量で飛び散った。ガラスの破片や教室の一部を翼で薙ぎ払って、物理的な障壁が大きな音を立てて砕け散っていく。
机やいす、教室の床、壁、天井。すべてがえぐれ、瘴気のどこかに霧消した。
虹色の翼が舞い降りる。化け物はゆうに七メートルはあろう。翼をたたんで、かがんでいる態勢でそれなのだ。背伸びをすればもっとあるように思える。
下半身はとても発達した鳥類のようである。一メートル強の立派なかぎ爪は、幻獣グリフォンの雄々しき姿を思わせる。上半身も姿形だけを見ればそれと同種である。
しかし、最も異形にさせているのは鱗のせいだろうか。羽毛ではない。龍のような硬い鱗で覆われた翼。しかし色は派手である。
サイケデリックな色合いをしている。黄色と緑、赤がグラデーション的に変わり、一定の色を帯びていない。時間経過とともに、恐怖の足音とともに、身体の表面は極彩色に移り変わっている。
「カカカカカ!」
翼が左右に大きく広がり、羽根のような鱗が辺りに落ちる。
はがれた鱗はころころと丸く、床を滑っていく。近くでみると細長い。それらはただのうろこではない。
翼に描かれた細い線だったもの。それが徐々に明瞭さをともなっていく。
それらはすべて、指なのだ。鱗のように張り付けられた|指先《つめ》が見えた。それがモズからはがれおちて、床に転がったのだ。「ハヤニエにされた者」の手を、身体中にはりつけている。
「『タスケに、キテくれた、の……?』」
柔軟性のない、むりやり動かされた声帯。合成された気色悪さ。それとともに、大量の「手」がこちらに向けられた。指を差す形。それが何百となされた。
すでに死者から取り上げられたものだというのに、生きているかのように血色はいい。多くは人間だったものだが、中には獣族や亜人、さらには悪魔や天使などもいたのかもしれない。それほどまでに、多種多様な色合い。
「……ノース!」
ラビッドは怪物「モズ」の足元に寝転がっていた。新鮮なハヤニエに呼びかけ、無謀にも近寄ろうとした。
しかし、「モズ」の目がきらりと光ると、目の前に突風が起こった。突如教室の中央に竜巻が荒れ狂う。三つに分裂し、「モズ」を守ろうと立ちはだかる。
ラビッドは近づけず、顔の前に手をやって、飛んでくる小さな破片から目を守った。舌打ち。
やがて三つの竜巻の、風の力が弱まり、中から小型の|竜翼族《ワイバーン》が出現した。今も空にて大量に飛来しているらしい魔物たち……。
「新手か」
召喚したのだろう。早く助けなければ……
しかし、もう遅いのだろうとも彼女は自覚していた。
「モズ」は彼を咥えていた。くちばしの先端を槍に見立て、串刺しにする。旗を掲げるように、見せびらかすように。上に、豪快に、振るう。
長く太い口が大きく開き、くちばしで彼は弄ばれ、揺られる。ジャグリングするような感じだった。
上のくちばしが、ふんっと上に動かして飛ばした。金髪の彼は宙に浮かんだ。
重苦しい半回転。下には開かれたくちばし……。
「モズ」は、金髪男を丸のみでもするようにした。
そのまま喉をあぐあぐと動かし、頭から飲み込んでいく。彼の下半身だけがだらりと力ない感じで外に垂れる。暴れる力はとうにないようだ。
くちばしで挟み、噛んだ。みしみしと、何かしらの物体的抵抗はあったが、とうとう硬く噛みちぎる音が聞こえた。
半身をペッと吐き出す。むき出しの切断面がこちらを向いた。骨肉をすりつぶす音が目の前の化け物の口から発し続ける。
モズは、唾液だらけのおぞましく長い舌をペロリと出す。合成の声を発し、挑発していた。
「『タス、ケ……ラレナカッタ……ザンネン!』」
「ちっ」
ラビッドはやりきれない顔を一瞬見せたがすぐに気持ちをリセットした。そうせざるを得なかった。
彼女の周りに群がる魔物たちがいた。
三体の|竜翼族《ワイバーン》。
それら本能のみの動的な敵も同じように、首魁「モズ」のマネをする。
モズのように、喋ることはできなくとも口を大きく開く。咆哮。末恐ろしい危険動物の輪唱。その波動。明確なる威嚇。それを急速に感じる。
「4体……キツイな」
部下の|弔《とむら》いを思う気持ち、窮地に迫る焦燥の予感。
その後ろから――すらり、という形容しがたい響きがした。
ラビッドの後ろ。ドライアイスのように重さを持たない物体が床を滑る。時間経過で延びる影の、そのスピードが一気に増した時の具現化した音の色のような、かすかなもの。
だが、その、音のない超音波をひとたび受ければ、瞬時に効果が出てしまう。
「モズ」の従者たちに変化が生じた。あえぐようにして、身体を、長い首を、捻じ曲げて壊れてなくなった天井を見上げ憂う。叫ぶ。もだえる。
そして朽ち果てる。身体は微風にすら簡単に負ける構造になり、砂へと変じた。砂の城を流すさざなみのように、あっけなく崩れる。
「――なるほど」
後ろを振り向かなくとも零がいる。すでにカタナを抜いているのだろう。
数センチ、鞘から刀身をのぞかせるだけでザコ敵を死に至らしめる。零の持つ妖刀。そのカタナの本質は『死』である。
先ほどと違うのは、今、それをすべて抜いていることだ。完全なる刀身を、敵に、彼女の背中に見せていた。
刀身は、鞘の根元の方は銀色だが、刃の先に行くほどに色が付いている。光を失っていく黒なのか、返り血の赤なのか。それが混ざった刃先の色合い。
「さすが、『不死』と謳うものではあるか」
その行為によって「モズ」の従者は完全に霧散した。三体の消失。
だが――全滅ではない。大物がいる。
ラビッドは零のもとまで後退した。耳打ちの感覚。「どう、勝てそう?」
「わからない。断言はしない性分でな」零は前を見据えた。
「カカ、カカカ!」
あざ笑うように「モズ」は愚弄の声をあげる。
従者など、ただの置物に過ぎないという感じだった。零の効果はまったく効いていない。
「『オレを……、見捨ステルというのか?』」
そして合成された怪物の声。〝たった今〟手に入れた声帯。
「俺はまだ、カタナを抜いただけだ」そのセリフが戦闘の合図となった。
14 空の王
開幕はモズの攻撃だった。
零のカタナの危険を察知したかの如く、翼を振り|後退《あとじさ》るように飛ぶ。
自らが壊した窓があった空洞を、後ろ向きの態勢で跳躍する。たたまれた翼をすぐ広げ、教室から離れて上空に飛び去る。
そのとき、トカゲのしっぽ切りのように置き土産をしてくれた。
「クカカカ!」
モズは、絶望|黒夜《ナイトメア》を鷹揚に飛びながら大きく息を吸い込む。
そして、炎を吐き出した。
すべてを焼き尽くしてしまうような、赤黒い炎の熱気。火炎放射だった。
それが天から地へ、青空教室を見事に覆いつくした。
教室のありとあらゆるものを燃やし尽くし、余ったエネルギーは廊下にも及ぶ。滝の勢いが憑依した速度で炎が流れ込む。
救いを求める声が聞こえないので、自分で言葉を作ることした。
「クカカカカ!
『痛いよー!』
『タスケテくれー!』
『だれかーー!』
『早く……もう。だめ、だ……』
クカ! クカカカカ!」
生き残った者はいないだろう。何という『弱い生き物』なのか。
眼下の景色を満足げに見下ろし、怪物の重低の雄たけびをひと声あげ、遠くへ飛んでいった。
もくもくと黒い煙が立ち込めるところ、最初に出てきたのはラビッドだった。
「無事?」
続いて零も出てきた。火もまた涼しといった様子で返事した。「ああ」
かろうじて残っている屋上で、二人は合流する。零は大空を向いた。
「距離をとっているな」
モズは距離を離れて飛んでいる。
空の色が夜のように暗いからか、はたまた怪物の体躯の色がカラフルだからか、遠くに離れていても探すのは容易だ。
「当たり前よ。相手は翼を持っているんだから、使わなきゃいつ使う?」
モズは、こちらにも届く咆哮をした。
周囲に砂粒が集まってくる。ワイバーンを大量に召喚したようだ。
さながら龍の巣を形成するように。集まる大量数。やがてモズを覆い隠す丸い鎧を形作る。大空に吊るされた灰色の球体……。
それが、きらりと明かるげな色を発光する。
その一瞬は、黄色。
「雷!」
ラビッドは鋭く声を発するや否や、二人のすぐ近くに輝く雷球が現れる。
表面がとげとげしく、今にも何かが飛び出してきそうだ。光でてきた白い殻は、中のおびただしい膨張エネルギーを何とかこらえている。
だが、長くは保たない。ひび割れて、限界を踏み越えるや、即座に爆発する音が鳴った。放射状に直線的な雷属性が辺りに延びてくるように稲妻が空中と地表を走る。
無作為な攻撃性。光の射線の具現性。床や壁に突き刺さるヤリ……。及ぶ。
零がラビッドの前に立ち、カタナを合わせる。振り払い、延びてきた雷のヤリが刀身に当たって、光が反射するように何処かへいった。
「ありがと」
零はカタナを鞘に収め、無言の目線をくれただけだった。
彼女と同じことを思っているだろう。これでは一方的……、防戦一方だ。
反射した光をモロに喰らった机と椅子のバリケード。シューシューと、感電の音を立てている。
「攻撃方法はあるの?」
零は冷たい表情をしている。ラビッドの問を無視して別のことをいう。
「相手の攻撃属性を教えてくれ」
零は、一人で片づけるつもりでいた。スキルが使えるのであれば一人でも掃討は可能と予想している。
転移スキルで一気に距離を詰めて、鎧ごとひと息にぶった斬る。そうすることは造作ない。
しかし、そのスキルを使用することが叶わないでいる。飛ぶ鳥に、近づく手段がないのだ。
現に、先ほどの炎が来て、|避《よ》けようとスキルを試みるも使用不可だった。不死の身体だったからよかったものの、スキルが使用できる予兆も素振りも、微塵も見えない。いつまでこの状況が続くのか。
――まさか、奴にスキルを奪われた?
「モズの?」
彼女が遅れて答えている。零はスキルのことが気がかりで、答えるのに少し遅延した。
「ああ」
ラビッドは答える。
「先ほどのように、炎と雷――」
「それ以外だ。それ以外、何色がある?」属性を急かした。
「毒と氷」
「これまではどう討伐していたんだ?」零が聞く。彼女の声に疑問が宿る。
「何の話?」
「さっき拠点で言ってただろ。『仕留めることは可能』と」
「あのときは今のような状況じゃなかった。戦えるものが多くいたのよ。やり方は色々あった」
「嘘だ。アンタだろ、やったたのは。『弾の数がもったいない』。あれは、討伐したことがある奴にしか呟けない」
「たまたまよ。今回は無理ね」
投げやりな感じに頭を振り、異形なる球体をみる。
「あの鎧が邪魔だもの。あれは硬質で、しかも目くらましのようなもの。狙いが定まらない」
「なら、俺に任せてくれないか」
「あら、アテがあるのね。カタナ一本でどうするつもり?」
目を流してくる仲間をよそに、零は雲の先を見据える。
「……視えているのなら、やることは一つだ」
転移スキルの使えない彼は、何とかしてモズに近づきたかった。
★
モズの丸い鎧が青色に光る。
氷属性。零が待ち望んでいた色だ。
頭上のはるか彼方から氷の大地が降ってきた。重火器のような無慈悲さの象徴する巨大な船。
それが地に降りかかる。彼らに接近する。
「……来たか」
零は単身、壊れた屋上を踏み込み空に飛び立つ。カタナを抜き、重く落下していく氷の塊めがけて勢いよく叩き斬る。
カタナから生じる衝撃波を出した。鋭く、遠くにまで染み渡る推進力。
たとえて言えば、それは太い枝から飛び立つ鳥のよう。
眠っている森に春を告げるために、羽根音を立て、呼び覚ます。
氷の大地は一瞬置いたのち、切れ目が入る。
ひび割れていき、一つの塊から複数個に分かれていく。豪快な崩壊音が聞こえてきた。
零は、そのことに対してさして驚かず、当然のようにその一部を空に浮かぶ足場のように使った。
氷が解けることはない。これは物理法則で生み出された氷ではない。
跳躍により次々と氷の足場を乗り継いでいく。
確実に空の皇帝であるモズの鎧に近づいていった。
射程圏内だった。
カタナの届く、射程圏内……
目をつぶる。カタナを鞘におさめながら、彼は呟く。
「……|某《それがし》に、斬れるものは無し……」
柄に手を置いて、そして、
「『|海鳴《うみなり》』――!」
カタナのみが飛ぶような一閃。
|円《まる》く君臨する、モズを守っている灰色の殻が、斜めに降ろされる。
極小の黄身だけを斬らず、他すべてを排除する斬撃。
一番大きく、そして一番近い足場に降り立ち、零は飛ぶ。
灰色の殻は、斜めに入れられた切れ込みに沿って滑っていく。
その中心に向かって。
接近する。
接敵する。
カタナの|柄《つか》を握りしめる音さえする。
汗。
氷の汗。
モズは何もしない。
露出してもなお、零を眺めているだけ。
空から、氷から、一滴が。
雨のように滴る……
灰色の空と水色の氷。
白と黒の着流し。
ある色以外の色彩を持つ、モズのカラフルな翼。
狂気を表徴する唯一の赤い目がこちらを凝視した。
すると、どうしたことだろう。
――どうしてだ……?
零は疑問を持った。
疑問が生じたのはモズに見つめられる前からだっただろうか。
いや、違うだろう。
疑問として認識するまで、疑問を持たなかったわけではない。
スキルが使えないという時点で考えるべき要素だった。
全く縮まらない『|零とモズ《ふたり》』の距離感。
空の下、固定されたシーソーゲーム。
一方が呟かないので、一方が声を出す。
「カカ、カカカ!」
愚弄の声を。
それから、飽きれの混じった偽造した声。それは固まった零を魅了させる。
「『ただのザコかと思ったか?』」
モズは、時を止められる、空の王だった。
15 地の狩人
この時、空で自由に動けるのはモズだけだった。
殻を破った程度で粋がるな、地を這うアリめ。
そのようなことを目線で告げてくる。
そうして、もう一度|殻《せかい》を作った。
「『タスケテくれ?』」
王の親衛隊が殻の成分に名乗りを上げる。
集まってきた。
遠くからは、それは眷属の|竜翼族《ワイバーン》のように見えた。
けれども違うと分かった。
ハヤニエだった。
十字架にかけられたハヤニエたち。
モズノハヤニエノイケニエタチ。
浮遊した鎧の構成された物質。モズを守っていたのはそれらだった。
じきに君もそうなるのだよ、と言いたげに、怪物の頭はそれらを一巡してから左右に振る。
くちばしでできた振り子だ。他人事のように彼は思った。
時間の架け橋の壊された、宙に浮かぶ木の枝でできた十文字。
串刺しにするように、十字架の一番長く、鋭い部分を彼に見せる。
「見せ槍」に近い行為のようだ。
処刑前、罪人にこの槍で突くよと知らせるように。
鋭利でまだ穢れの知らない刃物を見せるように。
イケニエタチは一つずつ、そしていくつもの「見せ槍」を持っていた。
軽やかに動けるモズだから、命を失い、眷属となってしまった彼らも同時に動けるのだろう。
まるで、武器を振り回すように……散らばって配置につく。動けないのは一人だけ。
モズは大きな咆哮をした。合図となり、一気に罪人に飛んで――いこうとした時だった。
一発の銃弾が轟いた。天の中心部に座する、モズの頭を貫いた。
一直線であり、それははるか下からだろう。
彼からすれば驚愕といえる攻撃であり、なおかつまったく期待していないものだった。もとより一人でモズを片付けようと思っていたのである。
モズもそうだったのだろう。空の王は最も油断していた。
地面から打ち上げられた小さな弾丸。
目の前の者はすでに|速贄《ハヤニエ》同然である。
その気のゆるみが「彼女」を狩人と化した、願ってもない時間の到来である。
しゅるしゅると、力なく落ちていく。
時間停止による拘束力もなくなった。
零もまた落ちていく。
自然と目が虚空を泳ぐ。彼女はどこだ……?
落ちながら助けてくれた狙撃手を探した。崩壊の一途をたどる航空機のごとき墜落が、彼の背中を受け止めるための気流を生む。
衣服はたなびき、裾から入って肌を撫でる。索敵の目はやがて姿の見えなかった発射台を捕捉する。壊された校舎の真向かいにある建物、その窓の隙間にいた。
背中にかついでいた長距離用のライフル銃が設置されていて、こちらを向けている。愛銃をのぞいていた姿勢を楽にして、もう用はないという立ち姿。もう零を捉えていない。無防備な背中を見せていた。
零は目を閉じる。何度目かの|試行《トライ》。期待していなかったのだが、それは発動した。
転移スキルの着地点は、廊下側だった。彼女は狩り終えたものを背にして机に座っていため、ちょうど転移してきた零と対面するような感じになった。
「……そう。戻り次第、拠点の場所を変えるつもり。周知よろしくね、トア」
彼女は耳にイヤホンをつけて、だれかと話をしていた。瞬間移動にきづいたようで、話を切り上げた。イヤホンの紐が引っ張られて、耳から離れる。そのままポケットに入った。
「あら、あなた。〝カタナ〟だけじゃないのね」
「|スキル《こっち》が本分だ。カタナは護身用。あまり使いたくはなかった」
「そう……〝今の私〟と一緒ね」
ラビッドは目線をくれた。
「なぜ言わなかった?」
「言って聞くタイプ? 違うでしょ。あなた、ノースと一緒のタイプのようね。単独行動ばかりして、場を乱すタイプ。冷静だったのは私、慢心し突っ込んでいったのは、あなた」
「力を隠してたのか?」
彼女はわざとらしく息を漏らした。
「言ったでしょ。『弾の数がもったいない』って。それに、相手の出方を窺うのが、初見での戦闘の鉄則よ。これは戦闘だけでなく、集団行動においても基本中の基本よ」
「あいにく、仲間は連れたことがないものでな」
「名は体を表す……ってところかしら」
零は目線を横に向かせた。
「もしかして、安心してる? 無事スキルが使えて。でも残念。また使えなくなるわ」
そう言われたので、零は試してみる。彼女の言う通り、スキルは発動しなかった。ついさっきまで使えたというのに。モズは時間が操れた。故に何らかのモズの行為により、スキルを奪ったのではないか――という、彼の仮説が崩れた。そうそう理屈は簡単ではないらしい。
窓の方を見ると、雷雲の欠片のような黒い粒がひとつ落ちてきている。
一粒の黒い涙。影。天からの落とし物。正体を知っていれば、どれも見当違いの比喩表現。
ラビッドの撃ち落とした獲物である。揚力の失った一対の翼は上側にあげられ、重い身体が先に落ちていく。今にも堕ちていく堕天使が天に両手を差しのべ救いを願っているような。
落下地点は、先ほど炎を吐かれた場所……青空教室のところだった。
つまり、巨大な落下物に押しつぶされるようにして……。
「もう無理よ。諦めなさい」
ラビッドは、ライフル銃を携えて準備万端なようだった。新葉色の髪のみが振り向く。
「置き去りにすることに抵抗があるのは分かるけど、避難が先よ。それともまた、単独行動でもするつもり? 私はそれでも構わないけど」
手向けの花は無言で充分だ、という表情を読んだ。零も同様の言葉を言った。
「言われなくとも。今はアンタの指示に従うだけだ」
低い鐘の音のようなものが地表を走る。しばらくの間響いていたが、音は補充されない。
二人が歩き出した頃には、堕ちた天使の痕跡は消えてなくなっていた。
16 女神の唄
地下の拠点は、準備で慌しい。
ラビッドの連絡により拠点の位置を変えるということで慌ただしくなっていた。
モズノハヤニエノイケニエタチ。この一帯を支配していた授業は、|首魁《モズ》を狩り終えたことでひとまず終止符は打たれた。その後休憩時間が設けられるため、その時間に拠点の場所を変える。『|授業《ゲーム》』の最中に居場所を変化させるのには危険が伴う。だから今。そういう算段らしい。
二人が地上から戻り地下の鉄扉をあけるや、近くにいた者が駆け寄ってくる。リーダーの帰還を待ちわびていたようだ。
一人の少女が扉の裏にいた。扉の隙間から振り乱された色が踊る。青と水色の中間あたりの鮮やかな髪色をした学生風の女の子。彼女がほっとした様子で胸に手を添える。
「おかえりなさい」
「準備は済んだか?」
ラビッドは冷ややかな声で状況を確認した。軍人のような命令口調に戻っていた。
「ばっちりです。電話で話した内容もすべて周知済みです」
どうやら出迎えてくれた人物が事前に連絡していた相手〝トア〟という名前らしい。
「イオリアはどうしましょう」
「私が背負う」
「お願いします。可能な限りわたしが補助したいと思います」
「任せよう」
彼女たちは二・三回のラリーで報告の会話を終わらせた。避難の段階にすんなり移行したい気持ちが声に乗っかっている。早く行きましょう、という内容が拠点の外にいる零の耳に届く。
一方、零はというと拠点のなかには戻らず、廊下の壁に背中を預けていた。一応の警戒。聞き耳を立てるつもりはないのだが、扉付近にてしゃべっているようなので鼓膜に届いてしまうだけ。話の内容に興味は微塵もなく、黙って目をつぶっている。
すべてを理解したラビッドは奥の部屋へ行こうとしている。
ドア越しの二人の会話。一方が引き留めようとする。
「あの、ラビッドさん。飛び出していったノースは……」
「……数分、遅かったようだ。入れ替わりだ」
それだけを残し、リーダーは奥へ引っ込んだ。
生存率の限りなく低い雰囲気が、一瞬の時をもって静寂に昇華させる。
しばらくして、静かに扉が開いた。
「……あの」
廊下に佇む零の目が開き、壁に凭れかけていた背中を浮かした。彼は言った。「零だ」
「レイさん、と呼んでいいですか」
「好きに呼べ。気にしない」
「わたしはトアと言います。トア、|福永《ふくなが》 |翔英《トア》……こう書きます」
廊下にて二人は自己紹介をした。
トアは、零からすればかなり年齢が低い印象を持った。青系統の色彩で統一した学生服然とした服装で、ラビッドと同じくスカートを穿いている。薄茶色のメガネをかけていて、フレームの先はショートカットの髪の奥に消えている。
トアの投げかけられる言葉は丁寧で、誰でも「ですます調」で話すらしい。名前もさん付けだ。見たところ、武器は持っていない。
「ラビッドさんから戦える人だと無線でうかがいました。私はこの通り、民間人なので戦えません」
「拠点を変えるそうだな」
拠点に戻る際中、彼女から大体のあらましは聞いていた。
拠点の場所はあらかじめ決められており、ローテーションで移り住んでいる。定住ではなく、特定の居住地を持たない移民族然としている。
前も言っていたが、地下には魔物は来ないとラビッドは断言していた。
その言葉を信じて拠点を固定してもよさそうだが、念には念を、ということなのだろう。
地下には過去に抵抗した生徒の名残のような、点在するいくつかの拠点があるようだ。念には念を、という甲斐あって、今まで襲われたことはないという。移動する次の拠点も地下にある。絶対に地上には出ていかないという決意があった。それを幾度も破ったのは、今回犠牲になった金髪の男その人のみだった。
「レイさんには避難移動する列の最後尾――しんがりをお願いしようかと思います。無いとは思いますけど、万が一、敵が来たらよろしくお願いします」
そう言ってトアは頭を下げた。ドアのすぐ隣の『|三角刑の生首塚《サクリファイス》』の最下段まで深く深くお辞儀をする。戦うことのできない、不甲斐ない自分を下げているように見える。
「集団の人数は」
「すべて足し合わしても十五人かそこらです。もうじき準備は終わるはずです。みんな慣れてますから。
先頭は私が。中間あたりにラビッドさんが挟まる形なので、実質一人での対処だと思ってください。
あと……ごめんなさい、戦える人はラビッドさんのほかにもうなくて。それに、ラビッドさんはイオリアを背負いながらなので、援護は難しいです。ですから、仮に戦闘になったら――」
「構わない。その方が気分が楽だ」
しかし、イオリア、という名前は初めて聞く。先ほども出てきたが、背負いながらということは手負いか? それとも……誰かなどとは聞かないでおいた。今は時間が惜しい。話の腰を折るのは不都合だろう。
「地図を渡します。ちょっと待っててください」
一旦鉄扉の中に入り、トアはすぐに戻ってきた。
「新たな拠点の場所はこちらです」
トアから地図を渡された。零は片手でそれを受け取った。
「地下だな?」
「はい。地下二階とか、三階とか、そういうものもありません。ここと同じ階層になります。迷路のように複雑ですが、方角は……」
虚空に指をさす。「あちらです」
差し出された地図は、ラビッドと初めて会った時のような簡素なものではなく、この場所、|学園《プリズン》の見取り図のようである。
しっかりとした線で書かれた正規のものだ。所々定規で矢印が引かれ、地図外に注釈がたくさん書かれている。文字はきれいに書かれており、おそらく目の前の彼女が書いたものだろう。
研究棟、教室棟、学生寮、講堂、修練場……。植物園もあるらしい。ずいぶんと広い敷地だ。
地図は二枚あるらしい。指でずらすと乾いた音ともに二枚目の紙が現れる。
だが、それは地図ではなかった。
零は訝しげな目をする。一枚目は地図だったが、二枚目は文字が書かれているのだ。
それは文章ではなかった。
散文詩のように、短い文字列……
「一応それも渡しておきます」
「なんだこれは」
零の疑問に、トアは当然のように答えた。
「女神の|唄《うた》です」
18 地を這う樹根
「……くだらないな」
ひと言目はそれで終わらせた。
今は独り。『女神の唄』と呼ばれる文章を、ひと通り目を通した後、零は目を閉じ、数分前の会話を思い起こす。過去のトアはこのように続けた。
――信じるかどうかはあなた次第ですが。この世界見捨てた女神――|夜闇の支配者《ステークホルダー》が残したとされる詩です。私たちの間では『女神の唄』と呼ばれています。
「これを、〝女神〟が書いた? くだらないな」
そして、独り廊下に取り残された零は、面を上げる。「ただの教科書の切れ端じゃないか」
人気のない拠点の前から歩き出した。今の零は、トアの頼みの通り、拠点メンバーのしんがりを務めている。
前から右側に、そして後ろへ。現在まで使われていた拠点は過去へと置き換わる。拠点は、すでにもぬけの殻で、他のメンバーは数分前に列を組んで出ていってしまった。
先頭はトアが務め、あとに続く形で続々と出ていった。急いで、早く、といった呼びかける声には緊張感がほとばしっていて、列の中間あたりに拠点のリーダーであるラビッドが現れる。
前を通り過ぎる瞬間、零とラビッドは目で会話をする。電波のような見えないもので言葉は必要ない。それで小隊は暗い廊下の奥へと消えていった。
ラビッドは背中に誰かを背負っていた。子ウサギのように身体を丸めて通り過ぎる白い服と、躍動感のあるブロンドのきれいな長い髪。それが、廊下の薄汚い不潔な臭気にあおられ、後ろへ流れていってしまっていた。
幼い彼女は背中で眠っていた。トアよりもさらに幼かった。女児といっても差し支えないほどの子供。それがラビッドの背中に背負われて、次の拠点に向かって集団行動を共にする。それが印象的で最後尾の者は心にも留めなかった。
逃げ足の音が遠くにいって静寂と彼のみが拠点に留まった。逃避行の集団が発する足音のすべてが、廊下に流れゆく|血河《けつが》にしみこむまで待っていた。
その間、零はあたりを警戒する。トアに渡された地下通路の図面を頭に叩き込んで、地図を懐に入れた。くだらない詩が書かれた紙に関してはその場で破り捨てても良かったのだが、それすらも面倒くさかった。ただ、詩に書かれていた一部の文字列が、少々気になった。
トアとの会話より前の、記憶に似た過去の会話。数分前のように思い起こす。それは、この拠点に初めて来たときのこと……。
「『二人乗せて三人下ろす』……」
二人とも同様の刺繍が刻まれていた。軍服姿の男女。
彼らは同じ世界からこちらに飛ばされた。引き留めようとした彼女は生き残り、対し彼は死んだ。
「『船のり替えるまでのルール』。古い船は今のこの状況を、新しい船は新世界の比喩表現。それを乗り替えるということは、滅ぶということ。だったら……」
零は廊下の先に進んだ。くだらないと思いながらも疑問は唇の封鎖に阻まれた。心中で呟く。
〝『女神』の唄〟?
★
この一帯に、自然光は届いたことは一度もないようだった。闇が居座る。
出口の見えない迷路のごとく、地下通路は入り組んでいる。
拠点から離れれば離れるほど、廊下は手掘り感のあるごつごつとした道に変化していく。
一本道でない洞窟の中を進んでいるような気持ち。それらは当然のごとくいくつかの分岐が現れる。なにも準備もなく、ここに放り出されたとしたら瞬く間に方向感覚を失い、この分岐に翻弄され、空腹の餌食となってしまうだろう。
地上の校舎棟とは違うタイプだが、天井から申し訳程度の照明器具が吊るされてある。燃料はもう尽きかけで、パチパチと、儚げな線香花火のように弾ける照明が点滅を繰り返す。人工的な光がランプから天井に這い出て、助けを求めているように映る。
洞窟内に敵の気配はない。そのか弱い光の下で独り歩きながら、一度はくだらないと吐き捨てた詩について考えようとしていた。
|NightCrawler《ナイトクローラー》は男っぽい|声音《こわね》だった。
低音質のアナウンスの上での推測だが、性別を間違えるほどではない。たしかに声変わりのしていない中性的な声ではあるが、ところどころバスのように低い声質を発していた。女神要素はどこにもない。
仮にこの詩が|NightCrawler《ナイトクローラー》の手によって書かれたものであれば、理解は容易い。しかし、それでは〝女神の唄〟とは呼ばれないだろう。
|NightCrawler《ナイトクローラー》とは別の神。
女神『|夜闇の支配者《ステークホルダー》』。
……そうなると、〝この地を見捨てた女神〟ということになるが、筋が食い違ってくるように思えてならない。|学院《プリズン》の支配者――この世界の現統治者は、|NightCrawler《ナイトクローラー》だからだ。すでに世界を見捨てた女神の出る幕ではない。
だが――。
通路の奥に行けば行くほど点滅・点灯する光は届かなくなる。やがて思考は煮詰まる。
今は情報が足りない。考えても無駄だ。
ひとまず|授業《山場》は終わったので、拠点移動が済めばしばらく時間が取れるだろう。その時に拠点に住む人々から情報を得られればいいと考えた。
Y字路、三叉路、十字路など、行く手を阻むように分岐は続く。
正確無比な順番でないとたどり着くことのできない選択。間違えれば行き止まりもあるのだろう。それ以上の危険もあるのかもしれない。敵はいないだろうがトラップが仕掛けてある可能性だってある。
無論、道は直線的なものはほとんどなく、方向感覚を狂わせようとする曲線を描いている。
今までラビッドについていただけであるが、こうして一人で歩いてみると心細い感覚をふと覚える。もともと|学園《プリズン》は|NightCrawler《ナイトクローラー》の手によって外界から取り寄せられた舞台だ。中身の挑戦者あるいは犠牲者たちも、その時にこちらに呼び寄せられた。
この地下迷路は、その後に作られたものなのだろう。主に|NightCrawler《ナイトクローラー》の及ぶ襲来から逃げ延びるため、攪乱させるため。アリの巣のように、|学園《プリズン》の地下には、この手掘りの洞穴が縦横無尽と張り巡らされているのだ。
地図通りに進むと、目的地周辺に着いたようで、洞窟のような道は舗装され、徐々に平らで文化的な床となった。
窓のない地下道への変貌。おそらく|学院《プリズン》がこちらの世界に転移したときに一部が埋もれたのだろう。
同時に忘れかけていた『|三角刑の生首塚《サクリファイス》』も一定間隔で出現するようになった。それらはいつも、ドアを挟むようにして。
しばらく歩くと、特徴的な道がT字路的に現れた。零は立ち止まり、左手に出現した道を見やる。
「植物……?」
その道は植物の|蔓《つる》が、いたる所に張り巡らされていた。
壁や床や天井や。ドアや吊るされた照明器具に至るまで、余すところなく緑色の蔓が延びている。壁ごと突き破る、または、床や天井を串刺しにする勢い、という表現の方が正しいか。ある種自然の暴力的な側面が垣間見える。
奥はよく分からないものの、植物はそこから生えているようだ。次の拠点への道とは違うが、足の向きを変えて少し近づいてみる。
進んでいくと、とっくにバカになっていた嗅覚が蘇ったようだった。自然の恵みの香り。緑の力強い匂い。
能力を回復させるように、甘い果実の匂いや新鮮な緑地の香りなどがキャッチできるようになってきた。ここは空気が清浄なのだ。
この道は直線であり、そこまでの距離はない。やがてドアにたどり着いた。
観音開きの金属製の扉。片方は閉ざされ、もう一方は開いているらしい。だが太い蔓の、幹のようになってしまった硬い茎が金属製のドアを侵食し、硬く隙間なく塞がれている。
地図を見た。赤い文字で「|X《ばつ》」と書かれている。立ち入り禁止を意味する記号。零は思案した。
どこに繋がってるのか、疑問が浮かぶ。
行く手を阻む蔓など、カタナで斬ってしまえば問題ない。零は鞘に手をかけ、抜こうとした――その時だった。
ザー……という、不穏なるノイズがどこからともなく聞こえてくる。容易に想像できる次の出来事。
「まずは合流が先か」
散策は後でもできる。
零が振り返り、駆け足になる。元のT字路へと戻った時には、|NightCrawler《ナイトクローラー》の|定時放送《アナウンス》は始まっていた。
19 サクラノキノシタカゲノシタ
「いやー、感心するねー。『|授業《ゲーム》』が終わって一段落。せっかく俺のご厚意で、合間に小休憩を挟んでるってのに、徒競走並みの走りを見せちゃってさ。ありんこの自主的な避難訓練の最中って感じかな。しなくていい努力だよ、まったく。ねぇ?」
零が新しい拠点へ急いでいると、不快な声が不快なノイズとともに流れてきた。一方的に苦言を呈してくる。
「でもさぁ、その避難訓練。校長先生の視座から言わせると、それじゃあだめだよ。ダメダメ。まるで赤点。腑抜けてる。
全然本番想定じゃない。現にやる気の格差が生じてるじゃないか。こういう時、マジメなやつってのは損でしかないね。マジメに避難訓練するやつはすぐに出てきて、不真面目なやつが避難経路から逸れて|寄り道《余計なこと》をする。で、現実、不真面目なやつほど生き残るんだよ。人間っていうのは皮肉でできてるよねぇ。
もっと頑張って逃げてよ。じゃないと、校長先生は怒っちゃうでしょ?
『今回はなんと30分もかかりました。連帯責任です。全校生徒全員ゴミ。生きてる価値なし、死になさい』って」
飽きるような長台詞。見下しの目を想起させる雰囲気。もう数少ない全校生徒に大っぴらに高言するような口調。
これはもはや初めてでない。二度目。正確に数えれば三度目のアナウンス……
「なあ、暇だろう? 鳴り物入りで入ってきた一人の不真面目な者のせいで。暇で暇で、暇で暇でたまらないという顔をしているね。こんなとき、優等生はイラついていると相場は決まってるもんだよ」
さらなる煽りを加えた神のアナウンスは、やはり人数の多い方に語り掛ける。
既に新しい拠点に移動済みの、者たち。
「――そうだ、こんな話をしてやろう。校長先生的には散々話したレパートリーの一つだが、今回は怠惰な新入りがいるからね。暇つぶしには持って来いだ。
これから何を話すと思う? ねえ「マジメな女子生徒」さん?」
ひと呼吸あって、大げさな呆れ声が響いた。
「……残念。それはまたの機会として取っておくとして。
今回紹介するのは『ネグローシアの世界樹』さ」
★ 一分解説「サクラのキのシタ」
「桜の木の下には|屍体《したい》が埋まっている」
この衝撃的な一文で物語が始まる梶井基次郎の短編小説『桜の木の下には』ですが、一説には桜は獰猛な植物で、動物の死体すら養分にしてしまうことから着想を得ていると言われています。
基本的に植物は、有機物から栄養を摂ることはできません。降雨により土壌から溶け出した|窒素《N》、|リン酸《P》、|カリウム《K》などの無機物成分を基にしています。それはごく単純で、ありふれていて水に溶けやすく、根から吸収しやすいためです。二重らせん結合の|有機物《でんぷん》では、水に溶けにくく、さらには粒が大きすぎるため毛細血管のような根では吸収できないのです。
しかし、唯一吸収ができるものがあります。赤く染められた人間の血の色は、ヘム鉄とよばれる無機物の発色によるものです。それを降雨とともに根は吸い込んだが結果、桜の花びらは血色よく赤く染まり、人間の一生のごとく短い時間のみに咲き誇ろうとするのです。
しかし、これには疑問が残ります。
『何の屍体』が埋まっていたのか。
所詮小説なのだから、すべて空想に決まっている。そう断言するのは「とてもつまらない人間」だと相場は決まっています。
結論せずに想像しましょう。
断言せずに想起しましょう。
現実を追わず|空相《・・》しましょう。
桜の木の下には屍体が埋まっている……
陳腐なものは動物の死体、もっともありきたりなのは人間の死体です。しかし、人間とは限らないじゃあ、ありませんか。
血を吸い、毒々しい赤い花を咲かせるのなら、赤い血を持つ生物であればなんだっていい!
例えば〝女神の死体〟が埋まっていたとか、どうでしょう?
★
アナウンスが終わったと同時にくらいに零は新しい拠点に着いた。ドアプレートは「避難所23」と書かれている。地下に散らばる放置された拠点数は、数字よりかなりあることが見て取れた。
ドアを叩く。こちらも前と同様の鉄扉だ。ひと呼吸おいてからドアは開けられた。中に入れられる。
「遅かったですね。敵に襲われましたか?」トアだった。
「そんなところだ」
零は新しい拠点に目をやった。
先ほどとは打って変わってかなり広い空間が広がっている。
大教室といった趣である。近くには上下移動のできる大きな黒板があって、扇形に広がるように長机といすが設置されている。奥には空間が広がっていて、所々にちょっとした段差で高さをあげている。ただし、きれいな状況ではなく、通路をふさぐバリケードとうずたかく積んだ瓦礫のようなものが点在している。
避難してきた者たちの大半は、入り口の近くにたむろしている。
黒板の前の空間、壇上ともいうべきところにあぐらをかきながら座っている。一人は立って指示を与えている。
「――特に何もしなければ大丈夫だろう」
零の耳に会話の破片が飛んできた。
彼は的確に指示を与えるラビッドに近づいた。彼女は気配に気づき、腕を組む。
「遅いぞ。何やっていた」
「道に迷っていた」
「そうか」
ラビッドは聞き流すように要件を伝える。
「先ほどのアナウンスは聞いていただろう」
「『世界樹』とやらか?」
彼女は頷いた。「次の『|授業《ゲーム》』は始まっている。十中八九『サクラノキノシタカゲノシタ』だ」
|NightCrawler《ナイトクローラー》が得意げに話したものはこのようなものである。
実際は神らしく冗長で、かなり持って回った言い方だったが、要約すればこのようなものだろう。
……むかしむかし、今とは比べ物にならない位むかし、他の世界と同様、世界樹がありました。
『ネグローシアの世界樹』。枝葉は世界を覆い隠すほどに巨大で、それは海を削った小島のようでした。
その世界樹は女神が植えました。大きくなあれ、大きくなあれ……そう声をかけていたのかは知りませんが、女神はその世界樹に対し愛情を注いだのでしょう。ですが、ある日を境に、女神はこの世界に絶望しました。そして、世界を見捨てたのです。
その際、女神は急いでいたのでしょうか。特大の忘れ物をしたのです。それが――そう、小島に浮かぶ世界樹です。
女神が絶望して逃げた後も世界樹は待ち続けました。しかし長年にわたり待ち続けたことで生命力であるマナがなくなり、海は枯れ、終末の迫る空気を読んでしまった。この世界の趨勢はとても暗い。
暗い。暗い。暗い。
そうして、世界樹は信仰を失った人々を喰らうようになってしまったのです……
「その、なれの果てが地上にてうろついていると?」
「と、|NightCrawler《ナイトクローラー》は言いたいらしい」
「どういった魔物だ」
「トア」
ラビッドは名前を言った。入口付近で立っていた彼女は、リーダーの呼びかけに応じ、駆け寄ってくる。
「話してやってくれ。私は忙しい」
「分かりました」
ラビッドは去り、集団の中心に戻っていく。トアが話を引き継ぐ。
「レイさん、あちらで話しませんか。話し声が多くて落ち着きませんし」
教室の後方に手を差し向けた。応じ、二人は移動する。
段差を昇りながら、
「この場所は避難所の中で最も規模が大きいものです。過去の出来事……私たちが来るよりも前の話では、ここで籠城戦があったのだといいます」
段差を上がるたびに、トアの青い髪色は段差をのぼるごとに滝のように乱れ落ちている。
「五回に一回はここだと決めています。広くて、ゆったりとできる。簡易的なものですが、居住スペースもあります。この通り、瓦礫を積み上げただけの、小屋みたいな見た目ですけど。それでも一人になりたいときはあるでしょう。その時の心の拠り所となる……」
「そんなことは聞いていない」零は痛酷に遮った。ひと拍おいて、
「ごめんなさい。昔話を聞かせるつもりはなかったんですけど、ここに来ると気持ちが高ぶってしまって。今回の『|授業《ゲーム》』について、ですよね?」
零が何も言わないことを見越してトアは話し出す。
「『サクラノキノシタカゲノシタ』……。あの話のように、今回の『|授業《ゲーム》』の司令官は『この世界の世界樹だったもの』です。私たちは『グドラ』と呼んでいます」
「グドラ……?」
「ユ|グドラ《・・・》シルから取りました。単純でしょう? まあ、伝承のように小島ほど大きくはなく、それから腐敗樹だそうです」
「だそうです……見たことがないのか」
「はい。実を言うと、私たちは見たことがないんです。ラビッドさんと、その……ノースさんくらいで」
もうすでに死んでしまった者の名前は言いづらい様子だ。「『モズ』には遭遇したことはあるのですが」
零は尋ねた。「『モズ』はラビッドが討伐したようだな」
「ええ。あの時は今よりも拠点には多くの人がいたんです。三倍も四倍も。一時期は一〇〇人の大台に乗っかるほど拠点にはいたものでした。多くの魔法使い、攻撃魔法や補助魔法、回復魔法を扱える者もいましたね。あとは『自称勇者候補』という者もいましたっけ。そんな方々が『モズ』に立ち向かっていきました。でも、何度か|退《しりぞ》けはしましたけど、討伐することは誰もいませんでした……リーダーを除いて」
ある時まで、ラビッドは不参加を決め込んでいたらしい。
今と同じように戦闘には参加せず、物陰に潜むような戦術を好んだという。隠密行動をしながら、戦闘のできるものが先立って動き、討伐することを期待せず、集団を率いていた。あわよくば、彼らを「囮」として利用した時もあったのだろう。
「ですが、蓋を開けてみれば一番強いのはラビッドさんです。『モズ』は彼女の銃弾の餌食に遭い、喉を壊すほどの絶命音をあげ、討伐に成功したのです。該当する『|授業《ゲーム》』が再び始まれば、また蘇りますがその都度退けていて……。乱射をせず一発で仕留めます。ほかのボスも同様です。百発百中の具体例が彼女なのだと思います。それはレイさんも感じていると思います」
零は聞きながら、少し前のことを思い出していた。
先ほどの『モズ』の討伐も、彼女は軽くやってのけていた。
最初は零がすべてを終わらせるつもりでいた。誰にも頼らず敵を抹殺する。それが彼の生き方のようなものだ。仲間はいないのだから、一人ですべて片づけなければならない。そういったことを旅が始まったときからそうしている。たまに物好きに会って共闘するときもあるが、旅には連れて行かない。出会いと別れの繰り返しだ。
仮に転移スキルが思うように使えていれば、『モズ』は軽く勝てていた相手だ。『不死の病』ゆえの不死の身体だ。攻撃自体はそうでもない。が、『モズ』が時を停められることは予想外だった。
だから、一発の銃声が聞こえたときは内心、驚きがあった。
「逃げているときの又聞きなのですが、最終的に『モズ』を倒したのはラビッドさんなのですよね」
零は非を認めるようにいった。「否定はしない」
「なら、分かってくれると思うんですけど」
トアは少し言いづらそうにしている。「なんだ?」と先を急かした。
「『|授業《ゲーム》』が終わるまで、独りで行動しないでほしいんです」
20 時ヲ止メ
「|拠点《ここ》に、少し着くのが遅れましたよね。それは、敵に襲われていたのではないと考えます。|NightCrawler《ナイトクローラー》の言っていた通り、寄り道をしていたんでしょう?」
トアは右手でメガネの位置を調節した。フレームでごまかされてはいるが、彼女の目線は鋭い。詰問の目をしていた。
トアの言うことは理解できると思えた。ラビッド自身は拠点から出たくなかったように思える。それは、この集団の方針であるからだ。
だが、彼女の部下であるノースが飛び出したことで、リーダーであり彼女も拠点外に飛び出さざるを得ない事情になった。
『モズ』を討伐する際に、拠点内には戦闘のできる者が居なかった。本当は拠点の外には出たくなかったのだろう。だから、拠点を放棄するという愚策を取りたくはなかった……追い打ちをかけるように授業が始まったのだから。
「もうこれ以上、ラビッドさんの重荷を増やさないでほしいんです」
トアは声の重さを増加させた。
「レイさんは死なないと思っているように思えます。でも、それは違うと思います。この拠点に属しているのなら、なおさら」
「属しているとはひと言も言っていない」零はすかさず反論する。
「そうですか?」
「そう思うのは勝手だ。目的が違う」
「生き残ること、ではないのですか?」
「『逆だ』……mといったらどうだ?」
彼の本来の目的は彼の抱えている病『不死の病』の治癒方法を探すことだ。生き残ることなど、彼が努力しなくても『不死の病』がすべてを解決するだろう。
それは彼の思惑とは真反対に働く、強靭な呪いだ。その呪いを解くために、彼は幾度となく旅をしている。だから旅の目的は……。『モズ』を一人で仕留めようとしたのは……。
治癒方法が無ければ「死に場所を求めている」という、そういった理由もあるにはあった。
怒りの満ちた無音が通り過ぎる。零の方から破った。
「……だが、アンタの言う通りだな。しばらくはここに留まろう」
「ありがとうございます」
トアはぺこりと頭を下げた。
「その代わりに訊きたいことがある」
「私に教えられるものであれば、なんでも」
彼女の表情がゆるみ、少しだけ微笑んだ。言った。
「どうしてスキルが使えない?」
★
「正確に言えば、『ずっと』使えないわけではないんですよ」
零は、大教室の奥に作られたほら穴の一つに案内された。
ほら穴は普段、薄く積まれた瓦礫の下に隠されている。今は拠点として利用しているが、拠点として利用していないときは落とし穴として使われるのだろう。
床下収納庫のような狭いもので鬱屈とした空間だった。天井は低く、高身長である零ではまともに立てる高さは限られている。トアにはちょうど良い高さらしい。天井を気にせず歩いている。
狭い範囲に居座るように、一枚のボードがある。トアはそれを引きずった。
「|スキル再使用時間《リキャストタイム》と呼ばれるものはご存じでしょうか」
「知らないな」
零は腰を下ろした。自身の得のする情報以外興味がないので知る努力もしない。トアは説明を続けながら、ボードにペンを走らせる。さながら謹厳な先生とだらしない生徒のよう。
「魔法が一番簡単な例でしょうか。魔法は、誰でも使える初級魔法から中級魔法、そして賢者クラスの大魔法に分けられるかと思います。強い威力を放つ魔法ほど、連発はできません。それはMPを消費する反動もありますが、多くはこの|スキル再使用時間《リキャストタイム》に比例します。
例えを出しましょう。炎魔法を使いたいとします。初期魔法でしたら爪に火を灯す程度、中級魔法であれば火炎放射。しかし、初期魔法であれ、何分も、何時間も、何千時間も、途切れることなく火を使い続けることはできません。例え潤沢で、使い切れないほどのMPを持っていたとしても、必ずどこかで途切れてしまうはず。使用者には気づかない程度の、コンマ1秒は使えない時間があって、再び使用できるような、そんな時間がある……」
「それが|スキル再使用時間《リキャストタイム》であると?」
「私の予想では、この|スキル再使用時間《リキャストタイム》は世界ごとにひそかに決められていると考えています。世界が違えば時間の流れが違う。時間の流れが違うのだから、|スキル再使用時間《リキャストタイム》も違うのではないかと」
「根拠は」
「この|学園《プリズン》には大きな図書室があります。それに、あなたのように|NightCrawler《ナイトクローラー》によってこの世界に招待されたメンバーのなかに、魔法学者が来たことがありまして。その人から聞きました」
「アンタ自体は、魔法は使えないのか」
「残念ながら……そのような世界から来たわけではないので。すべて物理法則のみで構成された〝科学〟と呼ばれるものでしたが。『高度に発達した化学は魔法と区別がつかない』という名言があるほど、魔法なんて」
だからだろうか、トアはすらすらとペンを走らせる。数式のようなものだった。
「ところで『女神の唄』はご覧になりました?」
あの紙だろう。「目は通した」
「そうですか。どうですか」
「聞かれてもな。これといった感想は思いつかない」
「なら大丈夫です」
零は訝しげな目線をする。
「あれを見せて、反応が見たかったのもあります」一瞬だけ彼女は振り向く。
「あれ自体に意味はないのです。あれを渡したのは、この世界には女神がいたということだけを伝えたかったので。あのように伝えれば、あなたでも興味関心をそそるだろうと」
「女神か。もうここにはいないのだろう。関係がないだろう?」
「その女神が大いに関係するんです。女神の通称は|夜闇の支配者《ステークホルダー》。かつてこの世界『ネグローシア』を創り、この世界に人間を住まわせ、人間を見限り、見捨てた女神です。去り際に|停止世界《時ヲ止メ》という、誰もが解呪できない呪いをかけ、『ネグローシア』から去ったのです……」
トアがボードから離れた。ボードにはこう書かれていた。
X=259,200×|スキル再使用時間《リキャストタイム》
※ ただしXは、『ネグローシア』での|スキル再使用時間《リキャストタイム》とする
「前に、魔法学者がこの世界に来訪したことで、ある程度計算することができます。悠久にも及ぶ計算方法の検討と実地実験により、本来の|スキル再使用時間《リキャストタイム》に約259,200の係数がかけられてるのです。そして同時に、時間の進むスピードもまるで停まっているかのように、ゆっくり進んでいるとわかった。係数、すなわちこの世界では、259,200倍も時間がかかるのです」
「どういうことだ」
「そのままの意味ですよ。この世界では1秒かかるのにここでは259,200秒かかるのです。ああ、秒数で言っても分かりづらいですね……計算するとこうです」
1秒=>259,200秒=72時間=3日
「三日? 一秒が三日もかかるのか?」
「ええ、そうなりますね」
トアはどうでもいいことをいうように軽く言う。
あまり授業に出なかった生徒に、このままだと落第だと冷酷に伝えるように。
「ほかの秒数でも同様に計算できます。一秒過ぎるのにここでは三日、|〇.一《れいてんいち》秒でも七.二時間、|〇.〇一《れいてん れいいち》秒でも四十三.二分もかかってしまいます。著しい時空の歪み方ですね。これでは魔法の連発は禁止されています。強靭な呪いです。初期魔法一発使っただけで、その人はでくの坊となる。スキル使いはもっと大変ですね。私は魔法の類は使えませんが、ひどく同情します」
「それが、女神が残した呪い?」
訊きながら、零は驚きの感情が顔に浮き出ている。
一方トアは微笑み返した。絶望する前の女神のように。
「ええ、それが『ネグローシア』における法則……|停止世界《時ヲ止メ》の効力です。ところで、つかぬことをお聞きますが、あなたの|スキル再使用時間《リキャストタイム》はどのくらいですか。必要とあらば、計算して差し上げましょう」
「いや、いい」
計算方法は分かった。特に難しい計算ではない。
短距離でのスキル使用なら特に問題はないだろう。しかし、ひと戦闘につき一回が限度だ。
だが、最も重要な障壁は〝世界渡り〟の方だ。
通常、〝世界渡り〟の待機時間……|スキル再使用時間《リキャストタイム》は丸一日になる。
だから、あの通り計算すれば……
一日経過するにはここでは259,200日かかってしまう。259,200日……それを年単位にする――つまり、259,200日を|三六五日《いちねん》でわると……
七一〇年。
まさしく「絶望」を象徴する数値だった。
21 狂ったラジオ
「ところで、女神が|停止世界《時ヲ止メ》をかけた理由をご存じでしょうか」
そのとき、どこからか声がした。床下収納のようなほら穴だから、空間の空気量が少ない。よく響き、否応なしに鼓膜に届く。
人間だ。それも女性の声。|NightCrawler《ナイトクローラー》のアナウンスのような、ざらざらと加工されたモノではなく、澄んだ泉を余すところなく反映させた琴のような声だった。先ほどの講義を聞いた後だから、『女神』を彷彿とさせた。
謎の声は朗読する。声の行方はトアの真反対、零の背後からだった。
「かつての『ネグローシア』は、女神『|夜闇の支配者《ステークホルダー》』が支配していた世界でした。女神は人類を創り、人類を住まわせ、一樹の巨大なる世界樹を植えて人々を豊かにしました。人類は自らの姿かたちを似せた存在だったためです。ですが、創造物たる人類は、女神を世界に仇なす敵とみなし、攻撃し始めました。世界の創造主、それだけで世界の支配者たる神に不満を持っていたのです。
そんな時、『ネグロ―シア』に、『異世界の神』が|召喚《・・》されたのです。異世界の神は人類たちに味方し、見事不倶戴天なる女神を退けることに成功したのです。女神の精神は傷つけられ、発狂。自らが創りし人類を〝女神の失敗作〟と呼び、そして、創造主たる彼女は『ネグロ―シア』を捨て、呪いを遺しました。|停止世界《時ヲ止メ》は、女神が遺した呪い……。そのときひどく絶望した女神のようなものなのです。
その後、人類はどうなったと思いますか? ひと言で言えば栄華と破滅です。女神を退けた異世界の神よりいただいた知識を用い、自分たちの文化ばかりを発展させていきました。魔法、秩序、娯楽、不老化。良い物ばかりではありません。兵器、裏切り、嘘、犯罪、反乱、殺人……。それから同族同士の大虐殺……。
異世界の神は、『ネグローシア』を混沌の渦に巻き込むために来たのです。何者かの手で召喚されたのです」
「……その『異世界の神』が、|NightCrawler《ナイトクローラー》になるのか?」
零は自然と尋ねた。その者は、零のように座っていた。片足を延ばし、もう片方の足を手で抱えた態勢で。
この部屋に先客がいたのだ。零とトアがこの場所に来る前に、潜んでいた。引きこもっていた。そのものが、潜んでいて初めて声を出した。と推測した。
しかし、零が声を投げかけてから、いくら時間が経っても会話は続行しない。
「おい」
「……」
すでに光を失ったかのような虚ろな目。
そして、
「こんにちは。突然で失礼します。私は世界の声。『ネグローシア』随一の森羅万象の具現化。何者?――などという質問には答えることはできません。軽く|招待《・・》を伏せるなら、さしずめ私は『絶望した女神の使徒だったもの』でしょうかね。さて、私のことなどかまわず、さっそく本題に入りましょう。「モズのハヤニエ」という言葉があります。……」
などと、意味不明な言葉の羅列を発し続けてしまう。
「女神の――使徒?」
「アケミのことは無視してください」
「アケミ……?」
零はトアに顔を向けた。トアは少し|翳《かげ》のある顔をみせた。
「彼女のことです。|雛原《ひなばら》アケミ、それが彼女の名前です。私とともに、この世界に来た……」
「同じ世界から来たのか」
「ええ。ですがこの通り」
目線で彼女を見つめている。服装はトアとおなじブレザーの学生服。だが、服は汚れ気味で、長い髪はぼさぼさだ。
いつから|櫛《くし》を通していないのだろう、いつから髪を洗っていないのだろう、反乱を起こしたように乱れきっている。すさんだ不良の霊が乗り移ったというくらいに顔に目に生気がない。おそらく髪を染めているようだが部屋が暗いため判断しかねる。使用期限ギリギリの照明器具では、隅にうずくまる闇までは打ち払えない。領域を広げる助力をするのみだ。
「このような人たちは多いのです」
トアはひとりでに歩く。何気なく部屋の壁を触った。
「ずっと、『ネグローシア』から出られないでいるのです。かつて君臨していた女神がかけたと言われるこの|停止世界《時ヲ止メ》のせいで魔法やスキルは封じられたようなものです。ましてや私たちのような無能力者では……万に一つもありません」
「『ネグロ―シア』から出るすべはないのだな」
「ええ。まあ、実を言えば転移装置はあるのですよ、研究棟に一台だけ。ですが、そこに向かうには地上に出なければなりません。地上に出て、校舎を経由しなければなりません。それから追手も振り切らなければなりません。私もアケミも戦えないですから使うどころかたどり着くことさえは叶いません」
「なら、俺が付き添ってやろうか」
「ガセでしょう」
空を仰ぐように天井を見る。
「考えるまでもありません。転移装置は単なる餌です。|NightCrawler《ナイトクローラー》の|疑似餌《ぎじえ》です。アリの巣から出た哀れなアリを待っているんです。甘い角砂糖を巣の前に置いたら巣から這い出てるのを待っている。それと同じ理屈です。
たとえあったとしても、もう魔物に壊されています。ゾンビ、いるでしょう? 希望の芽を摘むのが|NightCrawler《ナイトクローラー》の専売特許でしょう? アケミが言った通り、この世界にもたらしたのは『兵器、裏切り、嘘、犯罪、反乱、殺人、同族同士の大虐殺』です。そうして閉ざされた世界はますます狭くなり、エサは投入され、希望を摘み、そうして精神はキャパを超える……。絶望した女神の|後塵《こうじん》を|拝《はい》するように」
彼女もそうした。「このように……、手を伸ばした」
「発狂した、ということか」
彼女は何も反応しなかった。もう一人の彼女は呪詛を吐き続けるようにブツブツと呟いている。
この対比感が、二人の関係性が深いことをより強調していた。
「狂気に陥る前の彼女が言った言葉を拝借するんですけど」
「言ってみろ」
「……『すべてを諦めて、私と心中して。殺して』」
本当、心中すれば良かったです。最終的に女神は一人になったから、死ねなくて逃げたのでしょうね。
トアはその場に留まり、壊れたラジオの頭を撫でた。
22 パンと水
零はトアの放つ空気感を察し、その場所から離れた。
「七一〇年か……」
後ろ手でがれきの穴に通ずるドアを閉め、教室内を歩く。心の中では呟けない。
「あまりにも長い足止め、ハズレの世界を引いてしまったな」
『世界渡り』の待機時間、|スキル再使用時間《リキャストタイム》は一日だ。たった一日我慢すればいいと考えていたが、そうは問屋が卸さないらしい。彼女の教授めいたつまらない授業を拝聴するに、女神の呪いである|停止世界《時ヲ止メ》の効果により、この世界では一日経つのに七一〇年も時間が膨らんでいるのだという。
完全に『ハズレの世界』だ。
やはり最初の見立て通り、この世界は廃れた世界であり、文明はすでに滅んでいる。もはやスキルでの解決は困難であろう。
零の当初の目的である『不死の病』を治す手段は見つからないだろう。そうなると、また別の世界に渡りたいのだが、そのための障壁として、すでに不在である女神の呪いが強固に阻まれる。
たとえ寿命が無いに等しい零であっても、七一〇年は長すぎる。何とかして、この時間を短くできないだろうか。手立てはないだろうか。
零は拠点内を考えながら歩いている。
ほら穴地帯から階段を降り、大教室の黒板のあるところに降りていた。
そこは上下に動く黒板がある教壇で、イスや机がない。少し開けたところだ。
「おい、新入り」
そこで零は誰かに呼び止められた。見ると筋骨隆々とした男が立っている。
「なんだ」
「あんた暇だろ。ちょっくら瓦礫をどかすの手伝ってくれないか?」
拒否を許さぬほどに、大男の眼光は鋭かった。
★
「ふう、と。これくらいでいいか」
がれき類を持ち上げ、その間に中へ人が入っていく。しばらくすると、人々は出てきて、なにやら袋状の物を抱え込んでいる。食料と飲料水らしい。
つまり、ここら一帯にあるほら穴地帯の一部が食糧庫になっているのだ。普段は入口を重いがれきで塞がれ隠されている。
「悪いな、人手が足りなくてな。新入りと気安く呼んで悪かった」
「気にするな。暇だったことには変わりない」
先ほどの男がすまなそうに礼を言い、零は短く応える。ひと通り、中にあった食料を取り出した後、零とともにがれきで入口をふさぐ。
教壇前の空間に、備蓄が山積みされる。
「おい、みんな取りに来てくれ。今日の分だ」
大男が拠点全体に声をかけ、居住用のほら穴からぞろぞろと人々が出てくる。
備蓄品に寄ってたかる。スラム街の一場面を見ているような感じだ。
「おいおい、そんなに焦るな。全員分はあるからよ」
大男は慣れているようでテキパキと配っている。それを零は遠くのほうでそれらの配給を眺めていた。
零が過去に訪れた世界には、このような貧困を目にしたこともあった。いわゆるスラム街と呼ばれていて、富裕層から目の|敵《かたき》にされていた。ゴミ同然、アリ同然、害虫同然。侮蔑するかのごとくの目線を向けられていたが、それでも彼らは雑草のように生きていた。
その時はただ流れ過ぎる風のごとき、邪魔立てすることもなく歩き去った。とくに用がなかったのだ。
「新入りの分もあるぞ」
大男は大きく育った胸筋を見せびらかしながら近づいてくる。少ないがな、とパンと水を手渡された。零は感謝の言葉をいった。
筋肉質の男は近くの小さながれきに腰を下ろした。
「災難だろう」
「ああ。ずいぶんと、長い足止めになる」
「スキルが使えるのか?」
零は目を向けずに、
「もとより、世界を転々とする旅人のようなものだ。目的はあるが急いでいない。悠長にもしていないがな。
時間が過ぎればスキルの試行はできる。短距離であればスキルは問題なく発動できる。回数は……、一戦闘あたり一回といったところだ」
「そうか」
零は世間話でもするように尋ねる。
「アンタはどれくらいになる?」
「俺は……そうだな。拠点のなかじゃ新入りよりだ」
「ここに来てから短いのか?」
「ああ。おそらく、三ヶ月も経ってない。もちろんこれは『ネグロ―シア』換算じゃなくて、『実時間』の方だ。そうなると俺もまだまだ新入りだな」
『実時間』で三ヶ月、およそ一〇〇日か。そこに259,200倍したものが、彼の感じている日数……、時間経過になる。
「その次に短いのは「十年」とかだ」
「ほかは?」
零は突然「十年」という数字が飛び出してきたことにいくばくかの驚きを心に秘めた。大男は首を振った。
「すべて死んだよ。ここに飛んでくる奴らは度胸だけはあるんだがな。ある者は|NightCrawler《ナイトクローラー》に挑戦状をたたきつけ、返り討ちにされたり、またある者はこの世界の理を受け入れられず、拠点を飛び出し、そんときの指揮官に喰われこの世の埃と化したり。勇敢な勇者のまね事をしては墓石すらも役に立たなかった」
「|蛮勇《ばんゆう》か」
「はっ、難しい言葉を使うね。なら、俺たちはどう呼ぶ? 拠点内にいる者たちは皆しぶとい。タンスの裏に隠れてる害虫みたいなものか」
零はまだ一つの授業しか乗り越えてないのだが、授業にはバリエーションがあることが聞いていてわかる。
大男は、過去に起こった授業をいくつか語った。映画でも見ているような目をしている。
ある日突然、人々が苦しみだして絶命音を出す。それが伝播し不気味な大合唱のごとく広がってしまう……『|ゼツキュウゼッキョウゼッコウチョウ《絶級絶叫絶交調》』。
急激な寒波が学園全体を襲い、気温が低下。地表すべてが凍りつく……『|キョウジョウキョウキョウメンシアゲ《教場今日鏡面仕上げ》』。
前触れもなく廊下にパカッと穴が開く。校舎中、廊下中、奈落だらけになり、落下者の叫び声が続くたびに新たな落とし穴がどこかで複製される……『|オトシニタエ《落としに耐え》 |オトシニタエ《音死絶え》』。
隣の大男はそれぞれの詳細を述べる。時折旨そうに水を飲んだ。ごくごくと喉を鳴らし、容器を口から離した。
「……無いのか」
零はそれらをひと通り聞いた後、同情でも感想でもない言葉を呟く。それらを見事生存した者の昔話に興味はない、と単刀直入に言うように。
「何がだ」
「|スキル再使用時間《リキャストタイム》を短くする方法」
「そんな画期的な方法なんてないな。待つしかない」
大男はもうすでに結論付けているらしい。
「リーダーかサブ……、トアには会ったか」
「会った」
「そうか。なら話は早い。あの二人はとても長いんだ。特にリーダーは、この世界に赴いてから、すでに千年は経ってるっていう噂だ」
「……千年?」
「日じゃないんだぜ、年だよ年。無論、「実時間」でだ」
「ヤツは人間じゃないのか」
目線は彼女を一瞬指す。大男は自信ありげに口もとをあげる。
「この世界じゃ、時間経過がゆっくりだから不老みたいなもんさ。ま、不死じゃねえから簡単に『死ねる』がな」
「なら、どうしてそこまで待てる?」
「バケモンだからさ」
大男はがっしりとした腕を組む。
「まったく、リーダーはバケモンだよ。千年経とうが、一万年経とうが、リーダーは待てる、そういう胆力を持ってる。今は腐っちまったが大昔には世界樹があったそうだぜ。まさにそれを至近距離から見てるみたいな感じだ」
「ふうん」
「まあ、俺たち男の……人手の扱いには少々手荒いがな」
一口でパンを半分喰らう。豪快な喰い方をする。口の中の水分をかなり持っていかれるため、モゴモゴと口を動かした。
「さっきみたいに、瓦礫で食料を隠したり、ローテーションで拠点を移動したりとかな。念には念をっていう気持ちはわかるけどさ、その時の荷物持ちは俺たちなのさ。昔はもっと人手がいたんだがな、今では十人と少ししかいなくなっちまった」
「金髪男も年数は長かったようだな」
「ノースのことか。死んじまったらしいなぁ。ああ、長いぜ。それもリーダーよりも長かったらしい。先に転移したって話さ。それで、いつもリーダーと意見がぶつかってた。亀のように閉じこもってばかりのリーダーをなじっては単身拠点外に出て授業の指揮官をあおり、その後始末は追いかけたリーダーが片づけてた」
「『モズ』などもおびき寄せていた、か?」
「そうさ。ここが大所帯だった頃、牽制部隊と討伐隊、拠点防衛の三グループがあったんだ。戦えるものといったって、スキルが回復する時間が異様にかかるから、チャンスは実質一回。だから牽制部隊が討伐しやすいところへ移動させつつ時間を稼ぎ、一撃で仕留める、というのが主流だったわけよ。
ヤツはな、その時の牽制役として抜擢されたことがあったんだが。その時にヤツは『へま』をしたらしくてな。牽制部隊と討伐隊を全滅させちまった。拠点防衛をしてたリーダーが奴の尻ぬぐいをして『モズ』討伐はひとまず難を逃れることができたんだが……。その時から、もうヤツは『死にたがり』に変わっちまったかな。
奴については残念だが遅かれ早かれだったぜ。数少ない戦える者だからな、プレッシャーもあっただろう。そのミスもでかい。救出者を救いたいっていう気持ちにウソはないだろう。でも、それは本心じゃない。自分で死ぬのはプライドが許さない。だったら誰かの前に立ち、身を犠牲にして……ていう、そんな感じだ。まったく、残された|妹《イオリア》がかわいそうだぜ」
大男は目の前に目をやる。
備品の輪のなかに少数だが人が集まって座っている。リーダーのラビッドが黙々と食料を|食《は》み、イオリアが一方的に話している。それにトアが何かを言っている。遠くからでは会話の細部は聞こえない。だが、あそこの一帯だけ花が咲いたように空気が暖かい。
「あのこと、伝えてないのか」
イオリアはノースの妹になる。〝あのこと〟とは、兄が死んだこと。大男は零の目を見る。
「話したらどうなると思う? 十中八九、妹は兄のあとを追うだろうよ」
「だが、いずれ知らなければならない」
零は冷静に言った。
「いつまでも隠し通すのは無理だ」
「余命宣告された少女じゃないんだ。今すぐじゃなくたっていい。――と、リーダーが言っている」
大男は独白するようにいった。
「だが、俺、いつかイオリアを連れてここから逃げてやろうかと思うんだよ」
零はどちらでも構わない素振りでパンを口にする。
「この拠点はもう危ない。ノースがいなくなっちまった今、リーダー 一人では手に負えないだろう」
「ラビッドが言うには地下は安全らしいぞ。地上に出なければいいと」
「それはリーダー自身の勘さ。そう信じたいだけなのかもしれん。だからよ、その言葉で本当に安心するほど能天気じゃないんだ。別の巣穴を見つけにいく。そこで仲睦まじく『繁殖作業』でもするさ」
「アンタは戦えるのか」
「もちろん……と言いたいところだが、あそこのバケモンと比べちゃな。腕っぷしには自信があるが、戦闘となるとな。一人じゃ|竜翼族《ワイバーン》一匹二匹倒せるかどうかだな。
だから、俺と二人で駆け落ちするほどバカじゃない。すでに仲間は募ってる。徒党を組む予定だ。俺と|イオリア《姫》、少なくともあと三人は欲しいな。新入りは……ここに残ればいい」
「トアを連れていったらどうだ」
「奴はダメだ。リーダーに心底惚れてる。それに、もうすでにぶっ壊れた廃人を連れていくのが条件だとされたらたまったもんじゃない」
たしかに言いそうだと零は感じた。
「それにだ、さすがにイオリアと二人の逃避行じゃ、コワモテで悪党顔の俺だと避けられちまう。逃げられそうだ」
大男は破顔した。零は無感情に言った。
「そう簡単に行くと思うか」
「いくさ。それに、〝女神の唄〟もあることだ。まあ残酷な結果になるが、生き残る指針としては御の字ってとこよ」
零は疑問を持つ。「女神の唄?」
たしかそれは……
「『五人以下にはさせないよ』」
誰かがボソリといった。
23 救いの使者
「『五人以下にはさせないよ』……そう女神は言ってたんだ」
その者は虚ろな目をしていた。生気のない、|腐死人《ゾンビ》。拠点に入り込んだのか?
つい鞘に手を添えてしまっていた。しかし、よく見ると違う。着ていた服から長年にわたり放置していた垢と汚い異臭が混ざったものが漂わせているものの、少なくとも身体は腐ってなどいない。
言語をしゃべっていたが、もうろれつは回っていなかった。大男に速度を落として突進するかのように、その者はもたれかかりながら、
「た、戦えなくたって、だ、大丈夫だ。女神が言ってたんだ。約束したんだ。囁いてくるんだ。『五人以下にはさせない』って。俺たち五人以外、全員が死ねば……!」
「お。おい!」
大男はその者を押し倒すように連れていく。
後ろを一瞥するが、拠点のものたちは気づいていないかのように話し込んでいる。かなりの大声だった気がするのだが、ほんとうに気付いていないのか、日常茶飯事なので無視しているのか。たわ言だと認識しているのか。
大男は、食糧庫となっているほら穴のなかにその者を連れていく。零も臭いを気にして離れているが、大男に注視する。
大男は入口を塞いでいるがれきをどけ、そのなかにその人をしまっていた。荷物のように運ばれたその人は、いつまで経っても酩酊状態だった。もう戻ることはない。ずっとうわごとを呟く人型のなにかだった。声の波長は、いたるところが|尖《とが》っていた。
「だって、女神が言ってたんだよ。女神はいるんだ。俺たちのことを見捨ててなんかいない。そうだろ、トランス」
大男は、貯蔵庫に入ってまでなだめていた。「ああ、そうだな。俺だってそう思ってる」大男の語りかけにより、廃人は見るからにほっとした、安堵の表情をした。
「ああトランス、君ならそう言ってくれると思ってた」
「ああ、そうだ。ここの、ほかの人たちは信用ならない。……ルーフよ、ここでしばらく休んでいてくれ」
廃人は虚空を頼りに奥に進んだらしい。それを見届けた大男は振り返る。
「あ、ああ……気分悪くしてゴメンな。長い間こんなだから、頭がキチガイになっちまってるんだ。ちょっとばかし席を外してくれないか」
「……いいだろう」
零は踵を返し、部屋の入り口に足を運んだ。貯蔵庫に暗闇が訪れるよう、入り口の下側にがれきを積んだ。大男の半分が闇に飲まれる。廃人はうめき声のみ上げて姿は見えない。
「すまんな」
「何のことだ」
「いや、……そうだな」
零はあのことだろうと思っている。『五人以下』。先ほど大男が言っていた話、徒党を組む予定……
大男と|イオリア《姫》、少なくともあと三人は欲しいと。
つまり、その五人の中に零は含まれていない。
「質問があるんだが、いいか」
零は離れゆく歩みを止めて大男に声をかける。大男はカウンセリングでもするように相手の肩に手を置いて慰めている。ちょっとだけ大男の肩が動き、こちらを見やった。
「ああ、勝手に厄介ごとを頼んできたのは俺の方だからな。だが、手短にな」
大男はちらっと目で示した。零は尋ねた。「アンタたちはあの唄を信じているのか」
「ああ、それが?」トランスはぶっきらぼうに言ってきた。
「ただの詩だぞ。ルールでもなんでもない。|NightCrawler《ナイトクローラー》が書いたものでもない。この世界にもう、女神はいない。見捨ててもいない。この世界を創った神はすでに去った」
「そんなことは知っている。でもな、ここにいる誰もがそうだろう。目的のない授業を乗り越えて何になる。生き残って何になる。無意味に意味を求めるのは人間なら当然だ。お前だって神の慈悲を求めたことは一度くらいはあるだろう?」
零の反応は沈黙の目。その目に訴えるように、闇夜に包まれた貯蔵庫のなかで最大量の小声で叫んだ。闇が広がっている。
「世界は見捨てただろうが俺達は見捨てたとは思わない。だからこそ、|女神《あの唄》に救いを求めるんだ」
★
あの後、広場に戻ると集団から外れた者がいた。遠目でも分かる青い髪色とメガネのフレーム。トアだ。
手に持っているのはプレートだった。パンと湯気の出たものをプレートの上に置いて持ち運んでいる。
彼女はどこに行くのか見当のついている零はその後を追う。
彼女が消えた付近にたどり着く。先ほど寄ったほら穴を覗いてみた。
トアはその中にいた。重圧の中にいるかのようだった。重さのある夜闇。こちらも介護中のようだ。それも重度の。
心もとない豆電球の灯りをつけ、食べさせている。零が来たことは知らないふりをしている。
持ってきたプレートに乗せてあるスープにひと匙すくって、ふーふーと冷ましてアケミの口に持っていく。
しかし、相手はといえば石像のごとくだ。積極的に口を開けているようには思えない。唇の皮膚が水と接しているだけな感じ。赤ん坊のような、自発的な|吸啜《きゅうてつ》など一回も見当たらない。
零はその背中に対して一方的に話しかける。
「これについて聞きたい」零は懐に手を差し入れる。かさかさと乾いた音が鳴った。手には一枚の紙が。
「女神の唄、そう呼ばれている。これは、ただの詩歌ではないのだろう」
「いいえ、ただの唄です」トアは手を動かしながらいった。振り向くことすらもしない。
「本当か?」
背を向けているためトアの表情は判らない。「ええ」
とはいうが、零は理由なくこれを渡してきたわけではないのだという推測でいる。
あるはずなのだ。この詩が女神の唄……『女神』と呼ばれている|理由《わけ》。トアは知っているはずなのだ。知っていて、渡しているはず。
スリムな背中はこう答えた。
「発見された場所から「女神の唄」だと呼ばれているだけです。この絶望だらけの、血まみれの世界だというのに、血の一滴も汚れていなかった場所がある。神聖さに満ちた場所にあった。それだけの話で、それに尾ひれがついたのです」
「どうしてそう信じられている?」
「ずいぶんと聞いてきますね。新入りだというのにずけずけと」容器を下ろして首をねじるようにこちらに顔を向けてきた。口調もとげが析出していた。
「聞いたのでしょう、あなた。|トランス《あの男》の話を真に受け過ぎなのです。あの男はこの拠点に来てから日が短い。身体が大きいだけで頭は子供です。絶望性より希望性のほうが強いためか妄想が強く、ここよりも快適な場所があるのではないかと思っています。苦労して保護したというのに、守られていたことも含め無知なる少年のようなものです。何も知らない少年が不出来な夢を持っていて、それが実現できると勘違いしてしまうほどの蛮行さを持ちあわせている。だからここを捨て、不確かな希望に逃げようと画策しているだけです」
トアにはすでに知られているようだ。
「気づいているんだな」
「ええ。廃人と、彼以外のものはみな。彼は釣り針、垂れ下がった釣り糸です。餌も何もついていない……それでも食いついてしまう空虚なる希望にすがっている」
気づいていて、容認しているというわけだ。トランスに付き従うものはみな、精神が壊れていると指標されているのだろう。話を戻すように彼は紙を振る。
「『ないと・くるーざー』。女神の詩と呼ばれるこの紙の、元々のタイトルはこう書いてある」
「ええ」再びアケミの方に向いて、介護の動きを再開した。「そう書いてありますね。見たら分かります」
「どこかの書物の切れ端だろう」
「そうです。『レインスティック魔書』、28ページと29ページ」
「これのどこに女神要素が?」
「それはトランスにでも聞いてください。この世界に希望はありません。それはあなたにも解るように、時間経過に関して強力な呪い、「女神の呪い」が掛けられています。その女神に救いを求め、あまつさえ戻ってきてその呪いを解き、そして|NightCrawler《ナイトクローラー》を退けてくれると信じている……。あの者の心理は私たちにもよくわかりません」
しゃべっているとなんとなく察するものがある。宗教の類だ。
「どこにも書いていないから妄想になるのか」
「聖書だってそのようなものだったのでしょう。最初は、このような紙切れ一枚だったと思いますよ? 難解な文章から読み解き、謎解きゲームのように格言を見出す。その格言の塊だと誤認識したことで、分厚い冊子になっていった。そのようになったのは、後年の信者たちの度重なる加筆修正によるものでしょう」
「そう思っているなら、さっさと燃やしたらどうだ」
「私が前にいた世界では「信教の自由」がありました。目の前の現実を直視すれば心が壊れることがある。直視しない、つまり目を|背《そむ》けたところにある理想卿が、時として心を守るささやかな保護膜の役割をします。完全に壊れてしまえば自暴自棄となり、余計な人的損失となります。拠点としての役目を賄えません。拠点外に目を向けず、ここで一生を迎えてほしいので許しているのです。大丈夫です。あの者は、言っているのみで行動力はないでしょう。有言不実行だと思います。行動することはありえませんよ」
「詭弁だな。『こんなもの』を回収せず放置しているから統率力が低くなる。拠点を守りたいのか、あるいは滅亡させたいのかよくわからない」
「その言葉は取り消してください」トアの語気が強くなった。暖炉の火に薪をくべたように。
「ふうん、守るのか?」
「そう思うのはこの世界に来たばかりだからでしょう。それに勘違いしないでください。連れ出そうと画策している者たちの擁護はしていません。「取り消して」と言っているのは、連れ出される方への侮辱の言葉です」
失礼……、と彼女は断っておいて、
「取り乱しました。死にたがりの頭がおかしい兄を持ったとはいえ、これを否定してはかわいそうですから」
「この詩を見つけたのは誰だ」
「――? 知っているのでは?」
「念のためだ」
「……イオリア。その詩を見つけたのは、死んだ金髪男の妹ですよ」
24 新生なる神聖
「なるほど。|大男《奴》がイオリアを連れ出したい気持ちは理解できた」
零は誰もいない居住用の小屋の壁に背中をあずける。目をつぶった。
これは瞑想するようなもの、立ったままでも座禅は組める……
大男は、ここが終の棲家ではないと思っているらしい。イオリアのようなか弱い少女のことを気にかけている。こんな娯楽も気の休まるところもないところで千年もの間ずっと生き続けている。それを見て神聖なる気持ちとなって救世主としての気持ちが芽生えたのだろうか。
拠点という地下の鳥かごから連れ出し、自由を知ってもらいたい。そんなことを思っている。
だが、
「理解できるが、俺には関係のないことだ」
零の最終的目標はこの世界からの脱却だ。
大男の連れて行くところは鳥かごの外のようだが、所詮部屋の中。家の外や大空などではない。飼いならし済みのペットを見て同情して、金網の小さなドアを開けようと努力するのみ。それ以降は権限がないか諦めている。
ガラス窓や鍵のついた施錠ドアまでは手に付けようとすら思っていない。それでは、状況は進展せずどこへいっても同じだ。同じことの繰り返し。場所が変わるだけ。
この世界には、どこか終末思想が横たわっているようである。終末思想といえば宗教が思いつく。
人間には終わりがある。百年足らずだというのに、明確な始まりと明確な終わりを欲している。その始まりと終わりのある時間が「長い人生」だと評したい人間は、悠久にも思える世界に早く終わってほしいと強く願っている。
百年の間に自分の身のみならず世界もまた破滅してほしい。本当の破滅。死、絶望、破滅、崩壊、そして終末。どれでもいいし、なんでもいい。
だが人間たちの妄執ともいえる最悪な未来予想図は、不運なことに当たらないでいる。世界に寿命はなく、継続する。自らが死んでも全世界を覆い隠すほどの天変地異は起こらないでいる。いつか起こる、いつか起こる……そう予想してどの程度の時間が経っているのか。
この一枚の紙は――拠点の一部の人間にとっては――、その終末思想の聖書のように大切なものらしい。
零はまだこの世界に来て一日も経過していないので教科書のいち|頁《ページ》にしか見えない。だが、それ以外の者たちは脱出することができず、一生この世界に閉じ込められている。
拠点の人々を見てきたが、一部はすでに人間をやめている。発狂していても仕方がないと言えるだろう。
それ以外の一部の者たち、その者たちは謀反――というには大げさだが、分裂というべき出来事――を起こそうとしている。まだ生きるのを諦めていないということだ。無価値に見える一枚の紙にすがっている。崇高で希望に満ち月のように欠けることのない光だと錯覚させている。
一方、|レプシラビッド《拠点のリーダー》はどうかといえば、その心中はよく分かっていない。たしかに強い精神と強さをもっている。零が苦戦したモズを一発の弾丸でもって仕留めた実力者だ。
その強さゆえに今の現況を凌いでいることは判った。だが、それで拠点全体をまとめているかといえば首をかしげてしまう。
不安定な均衡。拠点のバランスを担っているのが、か弱き娘イオリアということになりそうだ。
「拠点の箱娘ともいうべきイオリアには、一度面通ししたいな」
彼女の思惑を知りたいと、零はその場所から離れた。拠点の最年少ながら、この停止世界にて最初に転送してきたグループに違いない。彼女はどう思っているのだろう……
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扇形に広がる大教室の下側に移動する。がれきをさけ、階段を一歩ずつ降りていく。
大教室前の広間はがらんとしている。もう解散したらしい。
零はその広間を横切り、黒板近くにあるドアをノックした。
しばらく待ったが特に返事はなく、ノブを回して中に入った。
準備室のような部屋だった。個室といってもいい。
かなりきれいに清掃してある。空気も清純だ。血の匂い、埃の匂いすらしてこない。ここだな、と零は思う。意外とすんなり来れたな、とも思った。
拠点の深窓の令嬢ともいうべき彼女だ。厳重に警護されているかと思ったが拠点内は平和であり、襲われる危険はないとの判断なのだろう。人が少なくなったからというのもある。手薄だ。
「こほん、こほん……あ」
部屋の中央にベッドがあり、そこに寝そべるように一人の少女がいた。せき込んでいて、見るからに病人である。
赤い色をした毛布が首元まで掛けられている。部屋に入って、ベッドに近づこうとした。寝ていた少女は突然の来客者に気付き、寝ながら顔だけこちらを向ける。
「えっと、たしか」
イオリアは見た目五歳くらいの少女だった。上体を起こそうとしている。
「零だ」
「レイ? ……うん、知ってるよ! だってトアから聞いて――」
しゃべっている最中に、けほんけほん、と大きな咳を連続でする。
魚の小骨のように細い身体は、透けた白いレースに包まれている。咳をするたびに身体は直角にして大きく曲げ、苦しそうだ。飛び起きる動作を何度もし、茶色の長い髪はその動きで大きく乱れている。いくつもの分岐をなして白い服に落ちる。
零はそれ以上近寄ることはせず、遠くで眺めることにした。声をかける。
「別に寝てていい。姿勢は気にしない」
「あ、ありがと……じゃあ」
イオリアは起きるのをやめ、毛布の海に戻っていった。
「長居するつもりはない。単刀直入に訊こう」
何の病気かなど、興味がなかった。件の紙を取り出して様子を見る。すると、
「あ、それは!」
イオリアは飛び起きるかのように身体を起こす。毛布ははじけ飛び、どこかに飛んでいく。
零はそれにびっくりしながら、
「少しこれについて聞きたくてな。いいか」
「うん、いいよ!」
イオリアは元気いっぱいに答えた。
「その紙、私が発見したんだよ!」
「知ってる」
「誰かに聞いたの?」
トアからだと伝えると、イオリアは勝ち誇ったように元気を取り戻す。この様子だと、急いで用件を聞く必要はなさそうに見えた。
この部屋の付き人としてトアが思いついた。トアがアケミのところにいるから、彼女は今一人なのだ。
トアが来るまでの間、零はこの件について聞きだすことにした。
「この紙はどこで見つけた?」
「それはねぇ……拠点以外の場所だよ。こっそり部屋から抜け出して、一人で探検!」
「そのようには見えないんだが」
零は素直な感想を述べる。イオリアは末期患者然としている。
「アンタに、そんな体力が残っているのか?」
「それは、まあ……、今の体調だとあれだけど。昔はもっと動けたんだよ!」
「ふうん」
「ええー、なんか信じてなさそう」
「続けてくれ」
「もう、せっかちなんだから、少しくらいいいでしょ?」
イオリアの話はどこか脱線しがちで、ここに来る前の世界にいた時の話を語る。初めてできた友達に、自己紹介と間違えて自分のトラウマだらけの過去を話すようになっていた。
彼女の病弱な身体は、この世界に転移する以前からそうであったらしい。つまるところ生まれた時からベッドに寝たきりだったようだ。兄であるノースの看病によって今まで生きながらえてきたようなものだと。兄は軍人だが、遠征の時はなるべく行かないようにし、毎日一回は自宅に足を運んだ。
前の世界では誰でも転移ができたらしい。使用する道具の値段は高く、貴重品ではあるが妹の看病のためならお金は惜しまなかった。それで、距離の問題は解決されていた。問題なのは、こちらに転送されてからだ。
「この世界に来たのはお兄ちゃんと一緒だったの。あれは何の日だったかなぁ……。そうだ! 私の誕生日の日だった!」
イオリアの誕生日の日、ノースの買ってきてくれたケーキを食べていた。するとどこからともなく声が聞こえ、何者か分からぬうちに『|ネグローシア《この世界》』に転移してきてしまった。
校舎内はひんやりとしていて、他に人は居なかった。だから二人で切り抜けるしかなかった。意味のある言葉を一切話さない|腐死人《ゾンビ》が道を徘徊し、割れた窓ガラスから空を仰ぐと灰色の空とツバメの大群のように悠然と飛ぶ|竜翼族《ワイバーン》の姿が。数日後には単身ラビッドがこちらの世界に転送してくるのだが、それまでノース一人で魔物たちを退けていたという。
ラビッドの転送を境に、人が次々とこちらに来て、歓迎したのだという。そのたびにイオリアは声をかけて励まし、応援に徹した。
次々と繰り出される|NightCrawler《ナイトクローラー》の授業に対し、人を送り出す時も笑顔で、その多くは戻ってこないとわかっていても、彼女は健気に振舞った。
もし、兄なしに、一人でここに転送されていたと思うとぞっとすると呟く。希望の少ない悲観的な境遇を元気いっぱいに語っていたが、その時だけ、声が沈んだ。しかし、潜水艦が急浮上するように声の調子は元に戻る。
自分は皆に守られているから、笑顔を振りまくのだ。そう言っているような気がした。
「……ねえ、ところでレイ。この近くに植物園があるの、知ってる?」
零は訝しげに眉を動かす。
「知らないな」
「ふふん、それはそうでしょ! なんてったって、秘密の入口が|巧妙《こーみょー》に隠されてされているんだよ。まあ、それも、私が最初に見つけたんだけどね!」
「どこにあるんだ」
「それはねぇ、ここから近いんだよ。レイ、今地図ある?」
零は懐から地図を取り出し、イオリアに渡した。もうベッドに近づいてもせき込まない。
「えっとねぇ、あ! ここだよ、ここ」
イオリアが指さしたところは、先ほど零が単独行動をしていた付近の、地下の洞窟内にある植物が生い茂っているところだった。
25 女神のいた痕跡
「私、守られてばかりだからいつも部屋で独りきりだったの」
そのとき〝探検〟したときの拠点はここの場所だったという。
「あれは夜中だったかな。眠り浅くて。なーんか、寝れないなーって思ってたらさ、ふわーっと甘いいい匂いがしてきたんだよねー」
「突然か?」
「うん! それで、気になっちゃって、しかもお腹すいてたし、部屋を抜け出して拠点の外に出たんだ」
イオリアは、自分の小さな頭を動かし、うーん、と考えこみながらその時の場面を紡いでいく。
「誰もが寝ていて、あたしが出ていったのは気づかなかったと思う。あの分厚いドアをぎぎーって響かせてね。それでも誰も気づかないの。初めて一人で廊下に出たんだよ」
「危ないだろう」
「大丈夫だよ! 地下は魔物がいないって、お兄ちゃん言ってたし」
そういえばそうだった。
地下には魔物が入って来られない。どうしてかは不明。
そのことを心の中で反芻しつつ。
「初めて廊下への一歩目はちょっとびくびくしちゃった。なにせ初めてだったから。ドアに挟まれるようにある『|三角刑の生首塚《サクリファイス》』も見てしまって。お兄ちゃんからさんざん、みやげ話みたいに聞いてたけど、あれは怖いね。背筋が凍るくらいにぎくってしちゃった。本当にあれ生首なんだね。まるで生きてるみたいに睨みつけてきて、今にも動きそうで……。
それから逃げるように、あたしは廊下の先に歩いて行ったの」
「道は知ってたのか。初めて外に出るのだろう」
「ううん。地図とか持ってきてないし。突発だったから。もともと外に行く予定とかもないから地図とか要らないしね」
拠点移動の際はいつも兄のノースなど、拠点の誰かと一緒だったらしい。それだけ彼女は大切にされているようだ。
「でも、匂いである程度分かるでしょ? それで方角は知ってるようなもんだし。匂いについていけばいいって思って進んじゃったの。
道中は一本道みたいなものだったの。T字路みたいなところでちょっと曲がって、あとは直進するだけ。甘い匂いが強くなるほどに、あっ、これは果実の匂いだって思っちゃってて。そしたら、じゅもく?っていうのかな。黄土色の、植物の太いバージョンが道を覆っててね。それでもうすぐだって思って、早く早くってじゅもくを乗り越えて、歩みを進めたの。それを何度かやったら、道の先にポッと明かりが灯ったように明るくなって。それが進むたびに大きくなっていって、それで着いたんだよ」
「どこに?」
「そりゃもちろん、植物園だよ!」
元気いっぱいに手を広げてイオリアは言った。
「あれは凄かったなぁ~。とてもまぶしくてさ。あれ、ガラス張りっていうのかな。解放感に包まれてたの。光の森っていうのかな?
あたし、前の世界でも家には閉じこもってばっかりで、外は窓から見るほかなかったんだけど、あれと同じ色合いがしたんだよ。地上の昼の明るさというかさ。地下のじめじめとした……、そんな暗い雰囲気を吹き飛ばすくらいの光の量! 地面は草原で、ふっかふかのおふとんみたい!
もちろん、甘い匂いの正体もあったよ。やっぱり果実だったんだ! 地下の道は、ずっと横に続く先の見えないくらいほら穴だったんだと思えるように、そこに着くと緑が一面に広がっていてね。その植物は桃色をした、とても熟した果実がいくつもぶら下がっているんだ。思わずそれを取って、一つ食べちゃったの! 皮ごと! あれ、とっても美味しかったなぁ~。あー、思い出したらまた食べたくなっちゃった……」
イオリアは勝手に過去を追憶している。
じゅるりとよだれが口元を潤していた。
「それで|一樹《いっこ》一樹、見て回っていって、味見とばかりに取って食べたりしてね。植物園の奥に進んだんだ。そしたら、多分植物園の中央地点についたのかな。湖があったの」
その湖はとても澄んでいて、湖面であることが認識できなかったらしい。解像度の高い湖底があるだけで、小魚が水面で跳ねなければ水だと分からないほどに溜められた水は透明だった。
その湖の目の前に、問題のそれはあったのだという。
それは非常に簡素だった。湖畔の宿というべきだったのだ。
しかし、小屋というべき壁に囲まれておらず、間取りがむき出しだった。
真上から見れば、十文字に切り裂いた仕切りがある。「田」の周りの囲いがなくなった感じ。
四方がむき出しになったその一角に、椅子と机があった。
机の上に、その紙はあったのだという。
湖面とおなじく透明感のあるガラスペンが、同じ材質の透明なペン置きに刺さっていた。
そして、零が耳を大きくしたのは、机に置かれた「一杯のカップ」だった。
陶器製のカップ。
そのなかには、血のように赤い液体が淹れられていた。
そのことを聞いた途端、零の脳裏にあの情景が立ち昇る。
それは転送前まで。瞬間最大風速のように、時間は過去に飛ぶ。
真っ白な床と壁の部屋。壊れたPC以外何もない部屋。唯一の色は、カップに入った紅茶。
だから、彼女が発見したそのカップにも、同様の紅茶が入れられてあったのだろうと推定する。推測は当たった。
紅茶は淹れられたばかりで熱々であり、『うっすら湯気が立っていた』。
イオリアは何の疑問も持たずにその紅茶を飲んだらしい。猫舌ぎみなので、ふーふーと息で冷ましながらだった。
早すぎる大人の一杯を堪能し、大人の香りを嗅ぎつつ飲み干した。ただ苦いだけだったが、それで満足した。お腹の中からふーっと、暖かい空気を吐き、羽を伸ばせるムードによって自然に身体は動く。
風の音に魅入られていると、ふとしたときに、目の前の机に置かれたその紙に気付いたのだという。
「もともとあったのかは分からないんだけどね。気づいたのはその時だったんだ。なんて書いてあったのかは分からないけど、音読とかしちゃったりね。誰もいないんだからしょうがないじゃん」
それが「ないと・くるーざー」と呼ばれる一説だった。
「たぶん、あたしが来る前に誰かが描いてたんだと思うの。それを読み上げるたびに、さあっと、湖の表面を撫でるやわらかい風が吹いてて、解放感に包まれていたの。ただ苦いだけのその飲み物でも、その時は立派なおともになってくれてね。
でも、あたしってやっぱり体力ないし、身体も弱いからすぐに疲れちゃってて。もうバタンキューみたいになっちゃって」
「それで」零は話の終わりを急かした。声がその後の展開を望んでいた。
「それでね、目覚めたらここに寝かせられてたんだ。夢だったのかなって、一瞬思ったんだけど、枕元にはその紙があったから、本当のことだったんだって思ったの。あれは、夢じゃないんだって。多分、お兄ちゃんがあたしを見つけて、運んでくれたんだと思う」
イオリアは言い終わった雰囲気を口から吐き出した。零は自分の唇を指で触る。思案のポーズ。
「……湖のある、植物園か」
「うん、一度行ってみるといいよ!」
彼女はにっこりと無垢な笑みを浮かべた。
「いい話を聞いた。悪かったな。不躾に押しかけてしまって」
「ううん、全然いいよ。あたしもトアに話し足りないなぁ~とか思ってたところだったし!」
あ、そういえば、言えてないなあ。あの時の「ありがとう」。
去り際、零がイオリアの個室のドアを開こうとしたとき、彼女は呟いた。
「レイは知ってる? あたしのお兄ちゃん」
「ああ」
「さっきトアちゃんに聞いたんだけど、なんかはぐらかされちゃって」
零は一瞬だけ天井を見やった。
兄ノースはすでに死んでいる。その事実を伏せていると先ほど大男から聞いたばかりだった。あの言葉が繰り返される。余命宣告された少女じゃないんだ。今じゃなくたっていい……
「一人で見回りだそうだ。感心するな」
「そりゃもちろん、自慢のお兄ちゃんなんだから!」
零はそのまま部屋を出た。ドアの隙間から、ベッドにいるイオリアが手を振っていた。
「また来てねー!」
26 絶望の呪い
零はその夜、一日目の夜の途中で中途覚醒になった。
あまり眠れなかった。枕が悪いわけではない。寝床が悪いわけでもない。
それらは些細な問題だ。他の世界でも寝床と呼べない場所で夜を越したことがある。
近くの壁に立て掛けたカタナを取り、具合を確かめて瓦礫の外に出る。
本当に気分は最悪だった。
身体を揺り動かした。睡眠ほどくだらない待機時間はない。けれども身体は睡眠を欲している。多少なりとも寝なければいけない。
小屋のような瓦礫から這い出て、髪を整える。
拠点内は闇の夜が漂い始めていた。
いくつもの瓦礫の山は仮の住まいを提供している。そのなかに、拠点の者たちが休息を取っているはずだ。
自分以外、眠りについている……好都合だ。
零は、黙って拠点の外に出るつもりだった。『ネグローシア』に留まる理由がない。
少しでも早くこの世界から出たいと思っており、拠点内にてその方法を探っていたのだが、一日でほとんどの情報を得られたかと思われる。その結論は「そのようなものはなく、ここで一生を終えるつもりでいる」というばからしいものであり、唯一無駄な知識として、すでに立ち去っている女神について知ったのみ。
拠点の外に出るなという約束。
その合意をトアとはとはしたが、その時はそう言わねばならないという空気を察してそういっただけであり、いつまでも律儀に守るとは約束していない。拠点内にて人と話せば何かしら情報収集の役に立つ。それが済めばここの拠点は用済みだった。零とは違い目は内部に向いていて、世界の外には向いていない。生存戦略など、不死なる身体の零には不必要である。
ある程度の情報収集は終わったので、彼は集団行動をやめるのだ。一人行動に、時間の無駄は難敵である。彼は『ネグローシア』に来る前から自由であり、この先も自由である。
零は起き出したままの姿で拠点内を歩き、入り口をふさいでいる金属性の分厚いドアを開こうとした。
古めかしい、さび付いた低い音を響かせた。悲惨さを充満させた廊下に一歩踏み出す。
拠点を見やった。絶望のドアを開いたことに、誰も気づいていないことを確認し、ゆっくりドアを閉めた。
拠点から離れ、廊下をしばらく歩いていた。
「どこに行くつもりだ?」
声をかけられた。
目の前から聞きなじみのある声が。道のど真ん中に立って、腕組みをして立っている、行く手を阻んでいるかのよう。予想していたのだろう。
薄暗い廊下にホタルのポツっとした赤い灯火で、タバコを咥えているのが分かる。
拠点のリーダー、レプシラビッドだった。
「……邪魔だ。俺には行くところがある」
「平和な空気だと勘違いしているだろうが今も『|死の授業《デスゲーム》』の只中なんだ」
ラビッドの態度は厳かだった。零は思い出したように、
「ああ、そういえばそうだったな。だが、それでも俺の障壁とはならないだろう」
零は歩みを止めていた足を動かす。一歩ずつ。
彼女との距離は近づいていく。ラビッドはただ佇むのみだった。
やがて三メートル、二メートル、ゼロとなって、マイナスになって遠ざかろうとしたとき。
「グドラは厄介だぞ」
彼女が呟いた。「モズ同様、眷属を多数召喚してくる」
「先ほどアナウンスにあった樹の化け物か?」立ち止まり、目だけ動かした。女性は目を閉じた。
「それ以外に何が当てはまる? 君が倒せるとは思えない」
「ふん」零も同じく目を閉じ、再び開けた。
立ち止まったついでだ。気になることを聞いてみた。それは|NightCrawler《ナイトクローラー》が引き起こす『|授業《ゲーム》』について。
どこか不具合を起こしている、目的不明の『|授業《ゲーム》』について。
「どうすれば『授業《ゲーム》』を終わらせることができる?」
「終わらせたところで次の『授業《ゲーム》』が始まるだけだ」
「はぐらかすな、答えろ」
「答えても無駄だ。答えなんてものはないからだ」
沈黙する。地下の通り道を突き抜ける風の音……。風音が収まった。
「……なら、質問を変えよう。どうすればこの『|授業《ゲーム》』は終わる? どうすれば『|ネグローシア《この世界》』から脱出できる? 俺はさっさと別の世界に行きたいんだ。いつまでもここにいるつもりはない。何かしら脱出条件はあるんだろう。『|授業《ゲーム》』を終わらせればいいのか」
「ない」
「ない、わけがないだろう。ゲームを勝ち進めれば「ネグローシア」から脱出できる。そうではないのか?」
オウム返しをするほど鼻白む零。
「永久にこのまま耐え忍ぶだけとは俺は思えない。いったいアンタは何を隠してる?」
それに対し、軍服の女はくわえタバコを指で挟み、ピンッ、と飛ばす。床面の血の|河《かわ》に接地して、灯火は消える。
ラビッドは続けた。
「しいて言えば、|NightCrawler《ナイトクローラー》のお気に召すままだ。次々と訪れる『|授業《ゲーム》』を乗り越えても、しばらくすれば次の『|授業《ゲーム》』が始まる。その繰り返しだ」
「だからそんなわけが――」
「トアから話は聞いたか。この世界にかけられた女神の呪いについて」
「……『|停止世界《時ヲ止メ》』だろう。それが?」
拠点のリーダーは苦渋の決断を告げるかのように声は低かった。
「その『女神の呪い』の効力が、|NightCrawler《ナイトクローラー》にも適用されているといったら、どう思う?」
27 深夜の門出
「なんだと?」
零は、女神の置き土産はそこまで強いのか?――といった反応をした。
この世界の支配者は|NightCrawler《ナイトクローラー》であると考えていたのだが、そう単純な話ではないようだ。もっと複雑で世界一の海溝よりも深い、深淵的な返答だった。根本的な崩壊に立ち会ってしまった感じがする。
「俺たちと……、俺たちと同じ状況だというのか。『ネグローシア』から出れない……?」
「彼、いつかの『|授業《ゲーム》』で言ってたのよ。『俺はこの世界に封印された。だから暇つぶしに〝|授業《ゲーム》〟をするのだ』と」
――俺は、『雇われ教師』なのさ。いつまで経っても、解雇してくれない。ここはブラック学校みたいなもんなんだよ。
そう|嘯《うそぶ》く|NightCrawler《ナイトクローラー》の声が聞こえてくる。幻聴だとしても聞こえてくる。
神の力をもってしても、この世界から出れないのだ。
閉じ込められた、ある種封印されたに近い。それだけ、女神の封印は強かったのだ。
女神に打ち捨てられた世界。そこに投げ込まれた異世界の神。
目的不明の生存ゲーム、それは出られない暴虐の神の憂さ晴らしに近かった。一連の『|授業《ゲーム》』は、まさしく神の暇つぶし……
「|NightCrawler《ナイトクローラー》なら何かを知っているのかもしれないな」
零が独りごちる。「こちらに人を呼び寄せる権限があるのだから。指をくわえて待っているだけとは思えない」
彼女は新しいタバコに火をつけた。
「教えてくれるかは別だ。行ってもいつもの調子ではぐらかされるだけだろう」
「|NightCrawler《ナイトクローラー》はどこにいる?」零は尋ねた。
「今までのアナウンスからわかるように、放送室にいるらしい。どこかは地図を見れば分かるはずだ。学生棟H棟の三階。だが、そこに行くための階段は無限回廊のようでな、いつまで昇ってみても三階にはたどり着かない。何かしら|妨害魔法《デコイ》を施しているらしい。
『|授業《ゲーム》』の終わらせ方は先ほどと同じだ。『モズノハヤニエノイケニエタチ』であれば『モズ』を。『サクラノキノシタカゲノシタ』であれば『グドラ』を。『|授業《ゲーム》』のモチーフであるボスを戦闘不能状態にすれば、休憩時間を挟んで次の『|授業《ゲーム》』にシフトする。
アナウンスを聞いていればどれがボスなのかはわかるはずだ。だが、今わかる通り、終わらせる必要が無いんだ。この『|授業《ゲーム》』は死の危険がない。襲われないんだから『|授業《ゲーム》』を終わらせる必要がない。モズと同じく地下にグドラは来ないから」
「それが腑に落ちないんだが。どうして地下は襲われない?」
零は今までの疑問をぶつけるようにいった。現実逃避のための時間稼ぎかもしれない。「今まで襲われたことがないんだろう。地下に魔物が来ないのはおかしい」
「……考えられる理由としては、怪物どもにはテリトリーがあるのではないかと読んでいる」
「テリトリー?」
零は瞬発的に声をとがらせる。「どういうことだ」
「ここは、化け物の縄張りには入ってないのだと踏んでいる。モズもグドラも、躯体は巨大だ。地下通路への入り口はみな隠されていて狭い。家具の隙間にホコリが溜まるように、念入りな掃除をしていても見落としがあるものだ。その、見落としに我らは命拾いしている」
それでも|腐死人《ゾンビ》などの魔物が来ない理由にはならない。
だが――、零の本来の目的とは関係のない疑問である。目を伏せて、
「今はそれで納得しておこう。ついでに聞いてもいいか。アンタらはいつまでもここに、この世界にて暮らすつもりか?」
「そうするほかないだろう」ラビッドは諦めの漂う態度を見せた。
「神ですら脱出不可能な強固なものだ。解呪は不能。転送装置は餌であり、希望的観測どころかもはや確実な『ゼロ』だ。希望はない。実際、転送装置は壊れていて、そこはもうモンスターハウス状態。手に負えない」
「ちゃんと探したのか」
「ああ。この拠点を築く前にここ以外を世界は回ったさ。ノース、イオリア、私。その三人だけのものだったがこの建物以外は不毛なる大地が広がっているだけ。本当に『何もない』んだ。ここに無ければ方法は埋もれていない」
「それで納得しているのか」
「少なくとも拠点の者たちは覚悟している。私もだ」
長丁場だ。早く寝ろ。この世界の夜は意外と長い、そう言って去ろうとする彼女。
一方、零は考えることにした。ひと言でいえば、いつまでも『|ネグローシア《ここ》』にはいられなかった。一日なら我慢できるものだが、引き延ばされた待機時間、|停止世界《時ヲ止メ》により引き延ばされた七一〇年はさすがに長すぎる。悠長に待っていられるほど、零は辛抱強いわけではない。希望が無ければ、いずれ発狂する。人間であれば、いずれそうなるのだろう。
樹の化け物、世界樹、植物園、そして見つかった詩。頭の中でこの四つを並べてみる。関連があると思われた。それを調べるためにはやはり、拠点に留まっていることは失策に思われた。
「なあ、樹の化け物も不死か。モズ同様」
零の後ろの方で足音が止まる。「そうだが?」
予想通りだ。「なら、心配しなくたっていい。とある事情により、俺は死ぬことができなくなった」
「それは『不死』ということか?」
相手の身体が翻す感じがした。一方、零は少しも振り返らず背中で語ることにした。「少し違う。が、似たようなものだ」
「なるほど。なら……」
彼女からごそごそと何かを取りだそうとする衣服のこすれが耳に届いた。零は振り仰ぎ、彼女の一部分を視認した途端、何かが飛んでくる。
手のひらでキャッチした。硬く平べったい物体。投げられたものは何かと目を凝らす。彼女から答えが授けられる。
「餞別だ。私にはもう必要のない代物になった。何かあればそれを使え」
一台のスマホだった。モズを討伐した後、悠然と机に腰かけ、伝令を送っていた、電子機器そのものだった。
彼女は歩こうとしていた。
「もう飛び出していく出来の悪い|部下《バカ》はもういない。拠点の外に、自発的に出ることはなくなった。私はもう、それを自発的に使うことはないだろう」
「いいのか貰っても」
返事は小さくなっていく足音だった。途中一度立ち止まり、
「私は戻る。女神のかけられた、希望無き|運命《呪い》に抗うのであれば……、武運を」
そういったが最後、一歩ずつ、零との距離は離れていく。
しばらくすると金属性の扉が閉じた。鐘の音のように長く長く響いた。拒絶に似る音が暗い地下の穴の先へ吸収されてしまうと、完全に取り残された孤独になった。
零はその餞別をバッグにしまった。孤独には慣れている。
その後、振り返ることなく一人で暗闇の廊下を歩いていった。
28 夜のアリの巣
すでに荒廃した世界『ネグローシア』の夜はさらに暗い。
昼はぶ厚い雲の層で光が届かず、どんよりとした曇り空を呈している。たとえ幾ばくばかりかのか弱い光が届いたとしても、失意の光景が映り込むだけだろう。空は|竜翼族《ワイバーン》がいくつもの隊列を組み、空の区分を群雄割拠している。自由の翼だ。とても暗く、夜間飛行をして地上の者たちを見下ろしている。
地上の、主な舞台は放置された学び舎……|学園《プリズン》である。すでに墨汁に浸かったくらいに黒くなっている。ガラスはすべて割れ、壁はボロボロ、床も教室も屋上もひび割れて崩壊の崩壊の先に突き進んでいる。建物はいつ滅んでいてもおかしくない。
かつての生徒たちは全員死亡し、そのほとんどが|腐死人《ゾンビ》となって徘徊している。ビリビリに破かれた学ランを|襤褸《ぼろ》のように着て、希望の光に手を伸ばすかのように両手を出してよたよたと歩く。
魔物たちは寝ることはないのだ。意味のない魔物の叫び声、雄たけび。恐怖をあおる翼の音、足音。
惨状の|学園《プリズン》を夜は見下ろす先。その、放送室にて。
『ネグローシア』の統治者にして〝神〟|NightCrawler《ナイトクローラー》は卓上マイクの前にくつろいでいた。
手を伸ばし、木の皮のような茶色い物体をつかんで口元に持っていく。それを噛んで千切る。彼は不敵に笑った。
目の前には三台の画面が置かれ、それぞれがなにかの映像を写している。どれも暗い通路だった。
神の稚戯により、こちらの世界に転送してきたものは隠れながら生きている。地上には安息の地はない。この地下にしか生きながらえることはできないでいる。そのことに対して、にたにたとした笑みを浮かべる。
「さてさて。いつ滅ぼそっかなぁ、このアリの巣」
丹念に育て上げたガラスケース。監視画面は、タイルのように規則正しく区切られ細分化されている。
それらの|映像《タイル》は、すべて地下を映していた。
★
人のいない場所。
草木の生えた所。まだそう時間も経っていないというのに、急成長したように植物の緑色の蔓は延びている。
目の前に立ちふさがるは観音開きの金属製の扉。
彼は精神集中をすることにした。
カタナは鞘に収められた状態のまま、目を閉じる。数十秒もの間そのまま周囲の動静を感じ取る。空気は漂い、不可視の概念図をひとりでに描く。瞑目すれば、まぶたのその奥で空間の切れ目が見えるはずである。
反射よりも速いスピードで右手は鞘に向かい、一気にカタナを抜く。素早い抜刀で一撃を加えた。
瞬間、眼前の氷像を砕くような音が響きあう。金属同士がふれあい、火花が飛び、散っていく瞬間を切り取ったようだった。右腕は弧を描くも、速すぎて細かい線が集まったシルエットデザインでしかなかった。
彼は目を開き、そのままの所作でカタナは振って、鞘に収まる。
傷一つすらない目前を見つめていた。
「……硬いな」
零は今、単独行動として思い描く一つ目の目的地で、抜刀術を放ったところだった。
その場所は地図を見なくても判っていた。
拠点からそう離れておらず、歩いて数分といったところ。
地下の拠点付近の、廊下の途中にあるT字路を曲がって直進した、行き止まりの所である。途中、緑豊かな風景が広がり、甘い香りが立ち込めるようになってくると、その地が見えてくる。イオリアが得意げに話した「植物園」の入口だと推定している。
前に来たときと状況は変わっていない。
入口の片方は金属扉で閉ざされ、もう一方は開かれているが植物のツタという物理的障壁によって守られている。
ツタは太く、表面はひび割れた樹皮のように茶色になっており、張り巡らされた迷路のごとく硬く、隙間なく塞がれている。
零はその入口に対し精神を集中させ、居合斬りを放った。前回のように邪魔されることはなかった。手加減などしていない。攻撃は成功したはずだ。スキルのように不発じゃない。
だが、この通り切り開くことができずにいた。
植物の蔓など、斬ればいいと短絡的に考えていたが、普通のものではないと感じ取る。目の前のものは明らかにおかしい。様子、主に硬さが。
目の前のドアに手を伸ばす。
手先を丸めて、指先でトンとつついてみる。一瞬の変化を見逃さなかった。そこだけ色が変わったのだ。
青白い光が輪のように広がった。薄く、地を這うように進む……わけではなく、|凹凸《おうとつ》のあって波打つ樹木を無視して空間に広がっていった。
……なるほど。
この入口は封印されているようだ。
光の波動から神々しい力を感じる。防御障壁のような魔法の力。
樹木の強靭な蔓の隙間を補うように、全体的に不可視の防壁が張り巡らされている。強引なやり口では無理なのだろう。
「女神による封印、か」
封印と聞いて、真っ先に思いついたのが一案。
『ネグローシアの女神』という存在。今は去り、なおも続く不在神の影響力……。長い期間異世界に放浪していた零の予想は、根拠が薄弱だとしても合致しているような気がした。
かつてこの地を支配していた女神による遺跡……地下神殿のようなもの。厄介な代物だ。美しき|主《あるじ》なきこの中に、一体何が封印されているというのか。
いずれにせよ、この場所から先に進むためには、何かしらの『鍵』が必要なのだ。見たところ鍵穴はないが……
零はしばらく立ってそのままいたが、やがてやるせなくかぶりを振り、その場から離れた。
29 絶望蝶
地下の入口は入れない。
あの場所は女神により封印されている。よって、その先にあるという「植物園」には行けない。
零が行ってきたこれまでの情報収集と一定の推量に基づき、地下に魔物が来ないのは、今見てきた女神の封印が影響しているのではないかと考えていた。|NightCrawler《ナイトクローラー》 も神であるが、あのような封印を行う理由がないというのが零の推測だ。
見捨てた女神とはいえ、『ネグローシア』を創った神だ。絶望したことで世界の理を変えるほどの強大な力を持っていた。ラビッドは、怪物どもにはテリトリーがあるので地下に来ないと予想しているようだが、あの地下封域の力が今なお地下全体に及ぼしており、魔物たちが近づけないと考えた方がすんなりとくる。
あんな紙切れが 「女神の唄」 と呼ばれるようになっ た一因は、あの場所が関連していることは間違いなさそうだ。イオリアが見つけた紙きれは、すでに去った女神への信仰が芽生えることとなった。
元の世界に戻る方法は見つからず、|NightCrawler《ナイトクローラー》 による「授業」による犠牲者で減っていく人々。 拠点には負の感情が漂うこととなり、一部にて終末思想が広がっている。
あの場所には、イオリア以外入ることができない。
神聖視されている、というのもあるが、物理的に封印されていた。
となると、こんな疑問が容易に浮かび上がる。イオリアはどうやって入ったのか?――だ。
一番簡単に思いつくのは、真っ赤なウソ。つまり壮大な夢オチということになる。
この手の|宗教思想《タイプ》は、真っ赤なウソというのはどことなくよく見かける事象である。美しく無知なる少女。彼女は若く、性格からして思い込みが強い。可能性は大きくありそうだ。
拠点から歩いたことは本当はなく、単なる夢オチだ った。その夢の内容を彼女は周りに言いふらした。
周囲の者は否定することなく妄言を歓迎し、次第に拠点の者はイオリアに対して神の子に似た感情を抱く。一部のものは彼女を通して女神を神聖視し、果てに宗教化する……。
ありそうなストラテジーではあるが、そうなると「|女神の唄《あの紙》」はどこからやってきたのか、という新たな疑問が浮かぶ。
正直、解決するべき優先度は低い。放置してもいい謎だ。「女神の唄」自体、詩の内容にそこまでの意味などないだろう。 しかし、気にならないといえば嘘になる。
誰かがイオリアの枕元に、あの紙を置いたとしてもその誰かは必要になる。
そういえば、拠点のどこかで誰かが言っていた気がする。あの紙はどこかの書物の切れ端だと。誰だったかは零の記憶には抜け落ちている。
惨劇があり廃墟化したとはいえ、元はと言えば学校だ。どこかに書庫の類はあるだろう。
地図を見つつ見当をつけた。ずいぶんと広いマップだが、時間はたっぷりとある。
零の、一日という|スキル再使用時間 《リキャスト タイム》。それがもうどこかへ去ってしまった女神の理、|停止世界 《時ヲ止メ》によって259,200倍も引き延ばされている。
『ネグローシア』 では一日経過するためには710年ある。途轍もない待機時間だ。
何としてもこの|スキル再使用時間《リキャストタイム》を短縮する方法を得なければならない。仮にそれができなければ、非常に無駄な足踏みを喰らってしまう。
★
モズ討伐とは別の、隠された入口から地上に出た。掃除用具入れが入口となっていた。
地上は相変わらずのひどい臭いである。校舎は血だまりが乾ききって空気全体が汚染している。
あらゆる角度から漂う臓物の悪臭だ。慣れたとはいえ、もうこりごりな臭気。
空には無数に浮かぶハエのように、魔物がはびこっているが、零は気にしないこととした。地上にいる魔物たちも、零のことを学習したのか、通常通りの奇声をあげることはあっても、彼に近寄ることはなかった。
廃墟探索といった形で、一人で探索する。地図を見ながら見当をつけ、部屋のドアを開けて中の様子を窺う。
目的物は書物なので、本棚が数多くある部屋を見つけたい。教室や学生寮、実験棟などの建物は最初から対象外だった。
一つ目の建物は目算が外れてしまい、特に調べ物のある部屋はなかった。三階の渡り廊下から別の校舎へ移る。次もそうした。
途中、窓ガラスの割れた渡り廊下から、遠くの校舎が見えた。異様な色光で灯っているから目に|留《と》まりやすい。
赤、黒、白の、よくわからない色が見えた。
廃墟の三階の一室から、輝かしい雨のゲロみたいな液体が外壁をつたって降りている。光でできた蝶の羽根が広げたようであり、光源は直視できないほどに強い。時折その蝶は、まぶたのように羽をやさしげに動かしている。はためかせている。
みてくれは蝶だがあれも結界の一種だろう。これも神のような力を感じられた。地下とは全く違う趣。目に焼き付けたいと思うほどに美しいがどことなく毒々しい色合い。不気味、の言葉がとてもよく似合う。
地下の結界が慈愛の抽象であるならば、これは絶望の具現。光に誘引される虫たちは、死期を悟った時いったいどちらの光を選ぶのだろう。
零は遠目で視界に収める。地図をみた。H棟の三階、放送室。とても大きく印がつけられ、矢印で紙の余白に引っ張られてこう記される。
NightCrawler。
あそこに、|NightCrawler《ナイトクローラー》はいる。何をしているのかは考えたくもない。どうして単独行動をする零の邪魔をしないのか。そう疑問を抱くことさえ楽しんでいるかのように映ったからだった。
沈黙は、絶望のなかに包含されている要素の一つ……。敵対の目を細めた。
★
数分もしないうちに目的地のような部屋につくことができた。|NightCrawler《ナイトクローラー》の居城から目と鼻の先である。本当に邪魔をせず何もしないのが薄気味悪かった。
ドアプレートは「魔法蔵書室」と書かれている。地図には書かれていない所で、中に入ると、多くの書物が書棚に収められていた。床にはさっと逃げる小さな影。宙づりした蜘蛛は天井に引っ込む。
書棚をよけ、部屋の中心にあるスイッチを入れると明かりが灯った。夜の砂漠に迷い込んだような静けさと、砂塵に似た埃が空気中に浮かぶ。一瞬そこに蜃気楼感を幻視した。
天井の蛍光灯は切れかけではなく生きている。ここは誰も使用していないので、エネルギーがあるということなのだろうか。
色を失ったサボテンのように、書棚に収められなかった書物が山積している。それは名もなき塔のようであり、蛍光灯の明かりの裏側には対となる影が床に延びている。影でできた塔が椅子や机などの物の段差を踏み越えて、その先で交差した。黒い星のような影の記号に、広めのテーブルが置かれてあった。
机上に目をやった。細長い影がある以外、特に何の変哲もない。あえて言えば、誰もいなかった。
テーブルの周りから取りかかることにした。
時計はないはずなのに、カチコチと針の動く音がする。意味のない代物だ。この世界では一秒が三日かかる計算なのだ。それなのに、時計の針は音を刻む。無価値ものほど耳に入り頭を惑わすものである。
茶色の、肉厚の表紙。退色した書物。一冊ずつ取り出してみてはぱらぱらとめくり、元通りにしまう。きれいなものである。惨劇が起こったにしては血糊がべったりという本は一冊も見当たらない。返り血を受けていなかった。一冊一冊が賢者のごとく映る。愚者は慌てふためき無駄な行動をし、賢者は息を潜め余計なことはしない。結果、|本《賢者》は無傷で済んでいる。
ある書棚の端に刺さった細長い本を手に取った。『レインスティック魔書』。金色の刺繍で書かれた、どこかで聞いたことがある本の|名称《タイトル》だ。予想通り、本を開いて捲らずとも分かった。途中のページに破かれた形跡がある。紙の角にある番号を見る。「27」と「30」が連続している。懐から「女神の唄」を取り出した。角に振られた数字をみる。28ページと29ページ……
「符合するな」
「|Isn't the color of despair somewhat similar to the color of tea《絶望の色は、どことなく紅茶の色に似てませんか》?」
30 砂時計の回る部屋
零の発することを待っていたようだった。流暢な言語が語られるまで、蔵書室にいた〝その女〟の存在にまったく気付かなかった。
鞘に手を添えつつ、反射的に後ろを振り返った。
〝彼女〟はまるでそこにいたことが普通であるかのように、テーブルで寛いでいる。
誰もいなかった本の塔で描かれた影の交差。その場所で、そのテーブルで。本を片手に、朗読を続ける。
「|In this way, God often rests in his room.《神は寛ぐものです》
|Because humans are hard workers.《人間は働き者ですからね》
|Why is life limited?《どうして人間に寿命があるんです?》
|Think about it from God's point of view.《よく考えてごらん》
|If you live long, you'll be annoyed.《長生きされたらムカつくだろ?》 ……」
その女は、そろそろ気づいたかしら、とでもいうように英文の朗読をやめ、本を裏返しにしたままテーブルに置く。そしてその手の動くままに、|カップと受け皿《・・・・・・》に触れた。白く淡い湯気が見えた。当然のごとく、悠長に。皿の上のカップを持ち上げ、口に付ける。中身は茶色の液体。直感は記憶と同期した。
カップに淹れられている液体の正体は|紅茶《・・》だった。
そう思えばすぐに、いつの間にか部屋に充満した紅茶の|芳《かぐわ》しい香りに気付いた。あでやかな赤い口紅と紅茶のその色が接する。さらに香りの濃さが増したような気がした。
「……見かけない顔ね、新顔かしら」
紅茶のカップとたしなむ彼女は零に尋ねた。目線をこちらを向けながら。
どうやら身体が固まっていたように映ったらしい。余裕たっぷりな笑みを浮かべている。
「身構えないで。私はあなたと同じよ。あなたと同じ、この世界に来たくて来たわけじゃない人。あなたがあってきたであろう人達と同様の、境遇を持つ者よ」
濃い紫のドレスを着こんでいた。どこかの高級な令嬢が紛れ込んだような、はたまた山奥の魔女がそのまま出てきたかのような。その二つの雰囲気が均等に混ざり合い、不可解な空気を纏っている。
「死臭には慣れたかしら?」
「一人でここにいるのか」
その女に向けて、零は尋ねた。悠久の時を経ている魔女と対峙しているかのようだ。
足を組んで紅茶を嗜み、青紫の長い髪が長期間醸造された赤ワインのごとく深みを持たせている。
「ええ。それが?」
「死ぬぞ」
女性の鮮血のように赤い唇は微笑んだ。
「新顔らしい言葉ね、忠告として受け取っておくわ。……立ってないで、座ったら?」
彼女は片手でテーブルの一席を差した。零は無視して立ったままだった。
「そのようすだと、地下拠点のことは知っているようだな」
「ええ。最初の頃はお世話になったわ。今も食糧を取りに時々寄るの。貯蔵庫の番としては便利だから」女はひと口飲んだ。
「拠点の場所が変わったことは知ってるか」
「知らないわね。あなたはご存じ?」零は現在の拠点の場所を伝えた。
「ありがと」
「拠点には戻らなくていいのか」
「そうね、考えとくわ。けれど私、そろそろ死にたくて」
「そうか、なら死ねばいい」
会話を切り上げて零はそっぽを向く。目的の本はすでに見つけている。それならこの部屋に用はない。この女としゃべる必要は見当たらない。
その身体の勢いのまま入口に足を進めた。名もなき女を背にする。後ろから追いかけるようにページをめくる音がする。
「ここから出るつもりなら、そこの砂時計をひっくり返してくださるかしら?」
「砂時計?」
「ええ。もう尽きたでしょうから」
零の目がその物について探すと、すぐに発見した。
ガラスの容器に薄桃の砂が入っている。容器の中央はおなじみの通りくびれていて、上部と下部に分かれている。すでに砂は落ちきっているようで、零はそれを手に取ってひっくり返した。
砂のたまった下部が上部に置きかわったことで、砂が落ちるようになるだろう。しかし、数十秒も経過するが一向に砂が落ちる気配がない。
「ありがと」
その場から動く素振りのない女が呟く。零はこれについて訊き、本を読みながら答えが返ってくる。
「それは、この世界の『唯一の時計』よ」
「どういうことだ?」
「あなた、『ネグローシア』の時間経過速度が異常に遅いことはご存じ?」
零は首肯する。「一秒経つのに三日かかるというやつだろう」
「そう。『時ヲ止メ』……その砂時計は実測三分なの。すべての砂が落ちるまで三分。その砂時計にも適用されるの。つまり、五四〇日かかる見込みね」
砂時計の周りには膨大な帳簿のような紙が置かれていた。いくつもの山が束となっていた。一番上の紙にはレ点のような、おびただしいチェックの数が刻まれている。
見るに砂時計をひっくり返した数であろう。一チェックにつき三分、『ネグローシア』では三分で五四〇日経過した意味になる。そのチェックがついた紙が束となり、塵も積もれば山積みとなるまでになった。
「こんな束になるまで|砂時計《これ》ひっくり返しても、なんの役にも立たない」
ひと粒も落ちることのない、何も変化しない砂時計を見ていた彼に対して、本を閉じる音が一つ。
「ええ、そうね。でも退屈しのぎにはなる。あなたこそ、一人で外に出ていいの。時は止まっているけれど、死ぬ危険があるのよ? アナウンス、あったでしょ。外には『グドラ』が徘徊している」
そういえば、『|授業《ゲーム》』の真っ只中だったことに気付いた。サクラノキノシタカゲノシタ。それが『|授業《ゲーム》』の科目名……。女神に見捨てられた世界樹。それが徘徊しているという。
「他のヤツにも言われたが、とある理由で死ななくなった。俺は死なない」
「『俺は死なない』……ふふっ」
少しバカにするような響き。
目的は達成した。『女神の唄』とされた詩の在りかは、破かれた魔法書の一節だった。
だからさっさとここから去る予定でいたが、零は入口にて立ち止まった。
閉じたドアに背をつける。女は立ち上がっている途中だった。
「そういう人ほど、真っ先に死ぬものよ。『この学校では』ね」
椅子を動かして濃紫のドレスの裾と床が擦れる。書物にあふれた部屋を歩む。
隙間なく敷き詰められた書棚に手を触れ、指先から何かを読み取っている素振りを見せる。
古びた本を|縁《よすが》にして、|惨憺《さんたん》たる過去を顧みるようにして。
「この学校、結構なマンモス校だったみたい。幾つもの校舎が立ち並ぶとおり。広いでしょ、この学校。だから生徒数もまあまあの数がいた。魔法使いを夢みる候補生たち。今は弱いけれどここで数年学べば、磨けば光る。いつしか一線級の者たちに成れる未来ある若者たちだった。切磋琢磨しあい、しのぎを削り、いくつもの死線を超えた上級生たち。歴戦の英雄と謳われし教官たち。それらが、いた。けれど、このようにモヌケの殻となった。惨殺されたのよ、あの『神々しき蝶』によって」
女の目線は一方を向いた。零は釣られなかった。逆に目を閉じた。目に焼き付けていたからだ。
どうでもいい、という顔をしたのだが、彼女の口は閉じなかった。
どうやら、この世界に飛ばされた住人達は話したがりな者ばかりなようだ。
「惨殺され、放置されたこの建物は長い時間をかけて廃墟となり、血塗られた箱庭となった。残ったのは三つ。『|神々しき蝶《ナイトクローラー》』と、魔物除けとして作られたアーティファクト『|三角刑の生首塚《サクリファイス》』。そして何よりも、見捨てた女神による強力な封印『|停止世界《時ヲ止メ》』。誰も破ることのできない強靭な『ネグローシアの時間の鎧』。もちろん、それは〝初期設定〟での話。
そのあと、貴方のように他の世界から呼ばれることになったわ。『|神々しき蝶《ナイトクローラー》』の手によって選び抜かれた生贄たちが大勢いた。ナイトクローラーは明確な刺客として『|授業《ゲーム》』を開始し、転移者たちをいたぶり始めた。
その中には『不敗』『不死身』『神』などと呼ばれる者たちもいた。でも、ひとり残らず『不敗』は不敗にならず、『不死身』は不死身にならず、『神』は『神』にならず死んでいった……」
「俺は、そういうまがい物とは違う」
「聞き飽きた言葉ね」しゃべりながらドレスをかき分けて歩く。
「むしろ、死なせてくれとまで思う」
「ふふふ、その言葉通りに死んでいったものをどれだけ見たことか」
「あれとは違う。比べるな」
「そう、なら忠告。|今まで覆ることは一度もなかった《・・・・・・・・・・・・・・・》」
零は目の前の女を眺めていると、どうしてこの世界『ネグローシア』に来たのか、その動機を洞察することができた。そもそも『ネグローシア』に来る以前から、『不死の病』に治癒方法が無いのではないかと諦めきっていた。
これ以上異世界を跳躍していっても、可能性はかなり低い。|零《ゼロ》に近い。そう思ってしまう。あの時もそう思った。
それは転移前。あの機械に呟いたとき。
それは転移前。あの機械が問いかけたとき。
――あなたの願いは何ですか?
「病を治したい」
――どんな病?
「死ねない病」
その後、あのナイトクローラーに声をかけられるまで零は会話した。
――病を治したら、あなたはどうなるの?
「死ぬだろうな」
――あなたはそれでいいの?
「それが唯一の、本望だが?」
その会話の行く末として、この世界が選ばれたのだろう。
ここではない、女神が絶望した世界。『ネグローシア』という神に捨てられた世界。
目の前の彼女の話を窺うに、『ネグローシア』では『不死身』でも死ぬことができるらしい。
それは零にとって幸運であり、奇跡でもあり、重畳とも呼べる。
……無事、達成できればの話だが。
「でも、不思議ね」
彼女はテーブルに戻っていたようだった。椅子を引く音が聞こえ、座った。
「死にたくないと願う人もきれいに殺される。私のように『不死身』でもない人が生き残るなんて。死にたくないと言う人は殺され、死なないと言う人も殺され、でも私のように死なせてって思う人には何もしない。NPCっていうのかしら? そう、まるでゲームの住民みたい」
目線は前の窓を見つめている。
美しい蝶が止まっている。黒ずんだ廃墟の校舎の壁に張り付くようにして、虹色の光を周囲に放っている。大きく、羽をはためかせて、止まっている。存在を示す、それに目をやっている。
「ここのオーナーは何をやりたいのかしら。ここに人を集めて、残虐の限りを尽くして……それで終わり。なんともバカげていて、空しくて。儚げな恋のよう。そういえばあなた、恋はしたことがある?」
「……昔のことは思い出さないようにしている」
「そう。つまらない人ね」
カップを持って口元に運ぼうとして、寸前でやめた。
「恋バナを持ってるのに話したがらないなんて、つまらない人。不死身になると皆そうなのかしら。長い間生きてきた証を抹消するために、あなたは口を閉ざして何も言わない。黙して語らず。秘密主義やミステリアスとは異なる色合い。あなたが死んだら思い出も全部消えてしまうというのに」
しばらく時が止まったような時間の末に、ようやく砂時計のくびれから、微細な砂粒が落ちてきた。剥がれ落ちるようだった。ガラス容器の下部で、ふわりふわりと浮かぶ。ひと粒ひと粒、視認できるほどにスピードが遅かった。
彼女は本をさすりながら、
「誰かが本を書いてくれるかもしれないというのに。誰かが読んでくれるかもしれないというのに」
※作者注:
英文がなんかおかしく表示されるのは、短カフェの仕様だと思います。
31 絶望ナイトメア
女はその本について零に語った。これは遠い遠い昔のような話よ、と彼女は前置きした。
『絶望ナイトメア』。
その事件は、『ネグローシア』に封印された|NightCrawler《ナイトクローラー》が、暇つぶし目的だけでとある異世界の国、魔法高等学園『ハイリゲンシュタット』を転移させたことから始まる。
『ネグローシア』に学園が丸々転移してから、三秒後(ただし実時間として。|停止世界《時ヲ止メ》の効果により約259,200倍になっているため、すでに一週間以上経過していたと思われる)、『ハイリゲンシュタット』にてとある校内放送が流れた。『ネグローシア』の統治者と名乗る神、|NightCrawler《ナイトクローラー》だった。
彼はそれまでも『授業』と称し、数々の強力な刺客を放っていたが、教官や上級生など、まともに戦える者たちはすでに絶命しており、残ったものたちは地下に防空壕を作って隠れ潜んでいた。そこに、|NightCrawler《ナイトクローラー》は救いの手を差しのべた。魔物が寄って来なくなるアーティファクトの案内、『|三角刑の生首塚《サクリファイス》』の作り方である。
『|三角刑の生首塚《サクリファイス》』一つ作るのに、計三〇体の首が必要になる。一枚のドアの両側に置くように二つの『|三角刑の生首塚《サクリファイス》』を置くと魔物が寄ってこなくなるというのが|NightCrawler《ナイトクローラー》の説明である。主に教室は前後に二枚ドアがあるので、四つの『|三角刑の生首塚《サクリファイス》』。いち教室を守るには計一二〇体の首が必要となる。
最初は、みな彼のアナウンスに耳を傾けることはなかった。彼がガセ情報を流して死へ向かう片道切符を配っているのは今までの『授業』の傾向からわかる。だから、耳を貸さなかった、最初のころは。
時が過ぎても事態は進展どころか悪化していき、不穏な空気が漂っていた。単なる通常湧きの魔物にすら、手出しができずに殺されていく。|腐死人《ゾンビ》ですら太刀打ちができない。
ある拠点から、こんな噂が舞い込んだ。『|三角刑の生首塚《サクリファイス》』を作成した拠点と、そうでない拠点を眺めていると、露骨に魔物は『|三角刑の生首塚《サクリファイス》』のある拠点を嫌がったのだ、と。そうした噂は、たちどころに広まり、頼みの綱として『|三角刑の生首塚《サクリファイス》』を作ることとした。
材料など、そこら中に落ちていた。前半にて強い者たちはほとんど殺されたため、その同級生の残骸を良心の呵責に苛まれながら素材にし、物として切断を繰り返した末に組み上げた。
しかし、その後アナウンスが降りかかった。|NightCrawler《ナイトクローラー》は宣言した。
「『|三角刑の生首塚《サクリファイス》』の効果はウソだよ。その証拠を見せてあげようか?」
|NightCrawler《ナイトクローラー》の号令とともに教室内にいた者たちのほとんどは魔物たちの襲撃に遭い食い殺されてしまう。あえなく絶滅してしまった。魔物から遠ざけるために作られた首塚を盾に逃げ惑う姿。この本の執筆者である最後の生存者が喰われるまで続けられた。その長い長い夜はまさに「絶望ナイトメア」だったとされている。
昔話が終焉を告げ、末尾の微に入り|細《さい》を穿つ文章を読み切ったあと、本の著者名の代わりとして彼女は名前を言った。ノアと言った。
「零だ」
「そう。レイ……というのね」
紫のドレスを着る彼女は足を組んだ。
「では、レイ。とやら。あなたにとある|道標《みちしるべ》を授けましょう」
「道標?」
その言葉に零の前髪が揺れ動いた。
「ええ、道標。この部屋の、蔵書のほとんどの本を読破した、ある種賢者のような諦念者からの助言です。私はこの世界の神ではありませんから、あなたのすべてを知っているわけではありません。けれど、一部であれば感じ取れる。あなたは他のものたちとは異なる雰囲気を感じる。諦めていないとでもいうのか。女神の呪いを乗り越えて、一刻も早く『|ネグローシア《ここ》』から出たいのでしょう?」
「できることならな」
「できる……けれど、わたくしからその答えを言うことは|憚《はばか》れる」
「方法はある、と言いたげな物言いだな」
「ええ、解釈はご自由にどうぞ」
紫髪の女、ノアは微笑みを崩さず、とある疑問を投げかけた。
「レイ、とやら。『異世界の神』をご存じ?」
「拠点で聞いたことがある」
それはトアの授業じみた時間の計算式を拝聴した直後、トアとともにこの世界に来た親友「アケミ」と呼ばれる、精神崩壊した女子学生が唱え続けていたうちの一話である。
「かつて『ネグローシア』にて人知れず降臨し、女神|夜闇の支配者《ステークホルダー》と戦ったという、異世界の神。その激闘により、女神の精神は崩壊し、この世界を見捨て、置き土産に呪いをかけた……。俺はそう聞いている」
「そうね」
「その女神の相手が|NightCrawler《ナイトクローラー》だろう」
「それが違うとしたらどう?」
零の目つきがきつくなる。「どういうことだ」
「わたくしはこう思っているのよ。異世界の神が|NightCrawler《ナイトクローラー》。それだと面白くないと」
ノアは書棚と書棚の隙間を縫い、とある古びた本を手に取ると、ページをめくる仕草をした。しなやかな人差し指は、冊子の本文に触れ、読み上げるように。
「かつて『ネグローシア』は、女神と女神が創りし人間が住んでいた。そこに異世界の神が降臨し、科学、魔法、秩序、兵器、裏切り、嘘、その他もろもろを|齎《もたら》した。女神は自身の被創造物の、その裏切り行為に絶望し、『ネグローシア』を見捨てた。『ネグローシア』を去る際、この地に強力な呪いをかけた。どうしてかと言えば――」
「異世界の神である|NightCrawler《ナイトクローラー》を閉じ込めるため。|NightCrawler《ナイトクローラー》すら解けぬ強靭な呪いを。要は、そういうことだろう」
「つまり、そうじゃないとしたら?――と質問しているのよ」
女は本から顔を上げ、仮説を続ける。
「それだと『桜の樹の下には死体が埋まっているのは人間の死体』と大差ないわ。実際は、さらに根深かったとしたら? 『|NightCrawler《ナイトクローラー》はこの地に閉じ込められた』。誰に? この地を去った女神に。それが今までの話。でもそれだけで異世界の神=|NightCrawler《ナイトクローラー》と断ずるのはどうかしら? だって、異世界の神は誰かの手によって〝召喚〟されたのだから」
「召喚?」
「そう、召喚。『ネグローシア』を滅ぼした元凶は破滅をもたらした『異世界の神』ではなく、『その召喚者』……何者かの手で召喚されたのだとしたら? そして、仮に『異世界の神』が召喚されたのだとしたら、女神が去りしこの世界にいたとしても、別次元の者が召喚すれば、『異世界の神』はその呼び声に応じるはず。この不毛で何もない、核兵器ですべてが壊された世界にいつまでもいるとは思えない」
「つまり、異世界の神は、この世界の外側にいる『何者かの召喚』によって、もうすでに『ネグローシア』にはいない――と?」
零のつぶやきに賛同するような口角の動き方。「そうよ」
「ありえない」零は否定の言葉を。
「どうして?」ノアは疑問の言葉を。
「女神の、『|停止世界《時ヲ止メ》』を貫通……無効化して呼び出されるとは思えない」
「『それがあり得るほどの存在』だとすれば?」
あの女神を倒すほどの存在よ。
異世界の神について、ノアは少し興奮気味になっていた。何やら様子がおかしい。会ったことがあるかのように、語調が強まる。
「召喚者は人間たちだった。女神の統治に不満を持っていたこの世界の先住民たち。その呼び声によって異世界の神は召喚された。何を隠そうその神は、召喚者も女神も『ネグローシア』ごと破滅に導いたのよ。それほどの神がいたということなのよ。それにね。あなた、|NightCrawler《ナイトクローラー》のことどう思ってるか知らないけれど、彼『小物』よ。この世界に数々のモノをもたらした異世界の神と比べたら、雲泥の差。人間にもいろいろあるように、神にもいろいろあるのよ。大物と小物。彼は、小物の神ね」
だからこの世界に封印されていると言いたげだった。
「女神の力を圧倒したのなら、なおさらそうね。いつまでもこの世界に封印されるなんて『へま』、しないと思うけれど?」
32 着信、そして…
この世界の人々は、どこかおかしい。
精神がおかしくなっているのだろう。思考や考え方に|歪《いびつ》さがある。
『ネグローシア』に閉じ込められて相当長い時間が経過している。今まで出会ってきた人々はどれも人間だった。百年生きれば十分という種族なのだから、少なくともそれ以上の年月を別世界で生きながらえてしまっている。
時間経過が遅いため疑似的な不老であるが、希望のない、娯楽の少ない、地下での隠れ暮らしを強制される。地上には魔物が湧き、さらには|NightCrawler《ナイトクローラー》の『|授業《ゲーム》』が執行されれば、それよりもはるかに強いモンスターが徘徊するようになる。
殺されてしまうかもしれないというギスギスとした雰囲気が垂れさがっている。天気がいつまで経っても回復に向かわないのと同じだ。地上はもう放棄するしかない。
事態は進展していかず、逆に気分を削がれつつある。硬く大きな物をのみこめ、と強要している。もうこの世界から抜け出すすべはない。その事実を受け入れるべきだと。
いや、そう簡単に諦めるものかと零は首を振った。それから前を見据えた。
だが、この絶望と希望の|切り替え方《スイッチバック》も、そう長くは続くことはないだろう。仮にあらゆる手を尽くして、それでも待つ方法しかなかったとしよう。七一〇年間待ったとしても、チャンスは一度きりだ。それを逃せば再び七一〇年の待機時間……
ノアも同じく、拠点にいた「アケミ」と同様精神が|耗弱《こうじゃく》している。最初は判らなかったが、話を聞いていくうちに、次第に察していた。
最初、ノアは「そろそろ死にたくて」と呟いていた。拠点にて生活していたが、零と同様の願いを持つようになっていた。境遇は違えど結末的に同じになっていくだろう。神の|悪戯《いたずら》により強制転送された。この世界『ネグローシア』にて生活していれば、いずれ零自身もあのように精神崩壊を起こす。希望が完全に潰えてしまえば、あんなふうに……容易に想像がついた。
その、弱い心に救いの手を差しのべるように「女神の唄」が拠点内に響いているのだ。すでに去った神を賛美し、いずれ戻ってくるのだという幻影を植え付け、一時的に精神を|上向《うわむ》かせている。絶望的な状況は永久に続くが、希望的観測は|一縷《いちる》の光明でしかなかった。
零はノアのいた蔵書室を後にし、今は浮浪者のように|学園《プリズン》の敷地内を歩いている。
校庭のようなところである。辺りには打ち|棄《す》てられた校舎以外何もない。あとはどこに行けばいいのか、考えあぐねていた。
思いついたのは、地下にて再確認した「植物園」への別の入口を模索することだった。地図を見ると「植物園」は|学園《プリズン》で最も大きな面積を誇る。円形に記された平坦な地形が目に付いた。
地下と同じく地上の入口にも女神の封印が施されていると予想できたため、向かっても徒労に終わるだろうが一度見ておくに越したことはない。
だが、その判断は正しくなかったと零は思った。後悔するほどだった。
そこに近づけば近づくほど、歩みは遅くなり、やがて途中で引き返すことになった。
おそらく見に行けるのだが、見ていられないといった気持ちが勝ってしまった。
半球のドーム型の建設物。高さはゆうに200メートルはあるのかもしれない。
想像の域を出ないがドームの素材は透明のガラスでできているはずだ。そこから色とりどりの植物群が閉じ込められている。ジャングルから移植されたかのごとく、ガラス越しに多様な種類の植物が群生していることが遠くから見て取れた。……と思っていた。
近づけば、それらは全く違っていた。そんな生易しいものではなく、様々な色はすべて「刈り取られた生首の髪色」だった。
あれがどういう意味を持つのか、初見では想像の及ぶものではない。零が出会ってきた人々と同じ人間の首、獣のような亜人の首、耳の長い高潔なエルフの首、ゴブリンなどの魔物の首。肌の色合いからして天使族や悪魔族もある。それらがフジツボのように敷き詰められている。ひときわ大きいものはドラゴンの首だろうか。空飛ぶワイバーンの同種のそれだろうか。
目を凝らしたくなかったが、釘付けになってしまったため、さらに残酷に認識してしまった。一層ではなかった。ミルフィーユのように、バームクーヘンのように、何層にも渡って積み重ねるように置かれていた。
そう、あれを想像してしまった。
校舎内に点々と置かれた見慣れた物体。
生首のアーティファクト。
『|三角刑の生首塚《サクリファイス》』。
あれは何段組み上げていた?
大きな『|三角刑の生首塚《サクリファイス》』。それが正体だった。
「|植物園《ドーム》」の中身は不明だ。
だが、元々女神の居住地だったことは、昔の人たちにも分かっていたのだろう。
地下にあった女神の封印を見なくても本能的に見出すことができた。女神の古巣を求めた。救いを求めた。しかし開かない。封印されていた。救いは大昔に拒絶されたのだ。
それでも諦められない真実。それでも生き続けたいという願い。けれど最後の|日《とき》
その周りを囲むように、あのような『|三角刑の生首塚《サクリファイス》』を築き上げたのだ。
目の前の、芸術性を内包した悪魔の所業を眺め、『|三角刑の生首塚《サクリファイス》』に救いを求め、見事粉砕されていった歴史の一節を垣間見ることができた。――「絶望ナイトメア』。証言者は周囲をさまよう言葉を忘れた魔物たち。
おびただしい光景から逃げるようにして、来た道を、校舎側に引き返す。
あれを見た後、廊下脇にある『|三角刑の生首塚《サクリファイス》』に対して見方が違っているのが自認できた。感想は同じだが。
「気味が悪い」
ふりだしに戻った。時間はたっぷりあるとはいえ、さて、どこへ行こう。
「植物園」のドーム型の建物は、未だ零の背中にあった。
その暇をもてあそぶ姿を翻弄するように。頃合いを見計らっていたかのように。
ピリリッ――という電子音が鳴った。
何の音かと一瞬脳裏に嫌なイメージがよぎったが、その音が自身の所持していたカバンの中からだと分かると、安堵の息をついた。地下の拠点から出る際にいただいた小型機械からだった。
一定間隔に鳴る着信音。カバンをごそごそと漁り、目的の物を取り出す。カバンから外に出した途端、その音量は一段階上がった。親指でボタンを押して、声をかける。
「何だ」
「リーダー、大変です!」
焦っているような女性の声。この声はトアらしい。
トアは、このスマホの所有者が切り替わったことは知らなそうである。
「リーダーじゃなくて悪かったな」
「え、その声は、レイ? なんであなたが」
「アンタらのリーダーから渡された」
「今、どこにいるの」
「外にいる。地上だ。アンタがどう思おうが、悪いがこの通りリーダーからは了承をもらっている」
リーダーのスマホを持っていることで、サブリーダーである彼女なら察するだろう。機械で繋がった空間から声が返ってこない。沈黙にしびれを切らした。
「用件を言え。なければ切るぞ」
「あなたにしか頼めないことがあるの」
真剣身を帯びた声のトーン。
「アケミが……、どこにもいないの」
33 新たなる謎
解く必要のない謎だ。
空気のわずかな動きを感じる。背後だ。
解く必要のない謎だ。
振り向かなくとも方角は分かる。「ドーム」だ。だが――。
彼の中で一抹の混乱が生じている。
この世界『ネグローシア』に降り立ってから、解く必要のない謎ばかりが立ちはだかってばかりいた。
「なぜ零が異世界に転送された|理由《のか》」「廃墟となった学園」「統治者|NightCrawler《ナイトクローラー》」「スキルが使用できなくなった|理由《のか》」「転送された者たち」「女神の唄」「見捨てた女神」「女神の呪い」「地下の封印」「植物園」……
どれも、解く必要がなかった。
強いてあげるとすれば、「スキルが使用できなくなった理由」であるが、その理由はすでに既知となっていた。絶望をにじませるこの世の常識。七一〇年というとてつもない|遅延時間《ディレイ》。
解かなければならない謎は、『ネグローシア』に降り立つ前から零が握っていた。「この世界から離脱する方法」または「零が患う不死の病を治す方法」。少なくとも一つは『ネグローシア』では発見できないという認識を強めている。
しかし、再び現れた新たなる謎は零の背後に現れた。空気の層の一部が不可視の手に変化し、腕を伸ばし、零の顔を掴み、振り向かせたような。強制的な首の動かされ方。
観なければよかったと一瞬思うがもう遅かった。数多の生首が置かれている「ドーム」の頂上付近に、一人の人影があった。先ほどまでいなかった存在。『新たな謎』を視認してしまった。
その人影は、両手を虚空に伸ばしていた。地面側にいる零のことは気づいていない様子だった。
自分の服が風でなびいている。左から右へ。かなり強い風だった。空を見ると同じように雲が風で動いているのが分かる。
雲を操っているようだった。渦を巻き、分厚く薄暗い雲は厚みを帯びてきていて、雲の層は分厚くなっていった。ゴロゴロと自然の唸り声をあげるようにして、黒い灰色からますます黒へ。色の濃度をあげていき、明るさは完全に失いつつあった。丸のみにする無機質な原動力。
黒い空。唸り声をあげて、雲の渦を作る。
何かが見えるように、ドームの上にいる黒いシルエットは手を伸ばしていた。
零の耳に当てていた機器の存在を、一旦忘却させるほどだった。
電子機器を持つ手は力を失い、腕は降ろされた。握力がまだ残っていたのは奇跡的だったのかもしれない。手のひらからは「どうしたの?」と、心配が電子変換された音声が連呼していた。だが、零の耳に入るどころか、下方面の、腰の空気あたりに拡散されただけだ。
瞬間、瞬く間に閃光がドームに降り立ち、人影を飲み込んだ。当然、落雷がドーム頂上に落ちたのだから、白い光は分裂し、半球のガラスに沿って疾駆した。周りに置かれた無機物の|生首《それら》も、びっくりしたかのような顔で地面にはじけ落ちていく。ガラスの破片かと見間違うほどの数。大きさ。黒さ。白の落雷は、シルエットデザインを濃くさせた。
遅れてカミナリの轟音が発生する。静けさを取り戻すと、人影はもういなかった。
零は急いで呟くように、
「いったん切る。またかけなおしてくれ」
「え、ちょ――」
そして、ボタンを押さずに――押す余裕もなかったと言った方が正しい――口の開いたカバンに投げ落とした。カバンの底に届くか否かのわずかな時間で鞘に手をかけ、一気に引き抜く。空気の流れを斬る微音……
――来る。
目の前に転移したかのように、影が現れた。
人の形をした影。丸みを帯びたものはアタマ、下は……地面に溶けてしまったように認知できない。
影は『新たに手に入れた剣』を携え、零に一直線に向かっていった。
赤い炎、紅茶のような深みのある色彩。
襲ってくる。
瞬間、武器と武器が合わさった。
ほの白い刀身が露わになったカタナと。
自然災害の権化の荒ぶる炎の剣との。
ぶつかり。
カタナと炎剣。
冷淡と熾烈の激突。
青白い色とオレンジ色。火花が明瞭に飛び、次いで鮮明に音が響きあう。
二人から発動され放射状に広がる波動。エネルギー、力。
巨大な氷の大地をスライスするような金属同士の響き合いとともに。
長く。長く。音の弾きあいをする。
途切れない。まだ途切れない。
観客なんて誰もいない。演者だけの二人舞台。
剣を合わせ、剣越しに睨み合う両者。
洗練された剣技と美麗で麗しい人物像。人影は女である。
零はカタナを振り払うようにして力を込めた。剣圧とともに相手は飛び、距離を取った。地面と足がこすれ、止まる。
「何だアンタは」
間髪を入れず、零は〝彼女〟に問いかける。眼前は無言だった。
目を傾けて容姿をうかがった。
まずは髪の色に目がいった。風になびくオレンジ色の髪。どこかで見かけた青系統の制服。拠点で見かけたものの一人であり、記憶の検索が瞬時に、寸分の狂いもなくぴったり一致する。
――が、その時とは明らかに異変があった。敵対の目線だ。
手には先ほど相対した炎の纏った剣を持っている。刀身は細く、直線。目視ができるほどに白い輝きを放っている。炎の芯を持っているかと錯覚するほどだ。そこから高出力でオレンジの炎が轟然と燃えている。
先ほどの雷で手に入れた武器だろうか。そうだ。自問自答はすぐに終わった。目撃者は零のみだが、確固たる証拠を訴求する必要性は見当たらない。
「何者だ」
零はもう一度訊いた。『彼女』は拠点で出会っているので、聞いたところで何も話さないだろう。しかし、零が聞いた甲斐があったようで、彼女は応えたのだ。
「何者?」
澄んだ声色だった。その息を吐くように話すその声音は、拠点で初めて聞いたときとほとんど変わっていない。濁りのない|清冽《せいれつ》なる川のせせらぎを聞いているかのような声。澄んだ泉のような静けさ。
炎の剣を持っていない、左手が軽く振られた。その合図を待っていたように、黒い雲からもう一度雷が打たれた。彼女を襲うも、逃げる様子もなく棒立ちだった。そのままの調子で受け止めた。打ち下ろされた黄色い閃光。一時包まれる彼女。見えなくなる。
雷の光が無くなる頃には、何もなかった左手に何かを持っていた。
今まさに降りた雷をそのまま掴んでいた。雷の切れ端。雷の剣。武器はそれだ。
右手には炎の剣。左手には雷の剣……。
「双剣使いか……」
零は構えた。そして、目の前の敵は虚ろな瞳のまま、
「何者?――などという質問には答えることはできません。軽く|招待《・・》を伏せるなら、さしずめ私は『絶望した女神の使徒だったもの』でしょうかね」
オレンジ色の髪をした《《アケミ》》は、構えもなしに零に向かって一歩目を踏み込んでこちらに向かってきていた。
34 使徒だったモノ
再び目の前から消えた。そして距離を圧縮してから目の前に現れた。
直後、剣が合わさった。
剣圧は目の前には行かず、二人の境界線を象徴するかのように真横に走った。
衝撃。風圧。空気の塊。シンクロ。
乾いた外の地面や校舎の壁に亀裂を生じさせる。今気づいたかのような反応の遅さ。
一度目ですでに分かるアケミの強さ。
剣技は「ほぼ互角」という強さを理解する。
零は圧倒的なハンデを負っていた。相手は双剣使いで、自分はカタナ一本のみ……という武器の本数が問題ではない。
|スキル再使用時間《リキャストタイム》がまだ溜まっていない状況で、転移スキルは発動できない。発動できても連発できない。そのことである。
カタナのみで対応しなければならないのは、零には不本意であった。
アケミの双剣の剣捌きは、女性らしく、力で押し切るというよりテクニカル系といった形だ。攻撃方法も手数も多い。
瞬間移動。からの、背後からの突進、振り払いと連続突き、強剣撃。そして雷や炎を用いた属性範囲攻撃。
不連続性のある攻撃方法。多彩だ。
零は防戦を強いられた。
アケミは瞬間移動を多用している。疑問が生じる。これはスキルではないのか? どうしてこんなにもスキルの連発ができる?
|スキル再使用時間《リキャストタイム》がどのくらいかかるかによって、スキルの連発具合に影響が出てしまう。けれど、アケミの瞬間移動は、一秒に何度も使用しているようで、光が襲ってくるようなものだった。
一方から剣技の不連続性を認めて一瞬去って、再び攻勢にでている。見捨てた女神の|停止世界《時ヲ止メ》の効果を度外視している錯覚を受けた。
なんだろう、違和感だ。強い違和感……。
違和感を抱いていても、アケミとの攻防は続く。細身の武器が鞭のように振るってくる。そして当然のごとく|瞬間移動《リセット》して距離を取る。彼女は天高くに双剣を掲げて、十字にクロスする構えをとった……
「ちっ、またアレか」
零が気付いた直後、アケミの真上に自然の変動が生じる。雲の中心部から外側に向かって、瞬く間に黄金色に染められる、受動的な空。そこから斧を振り下ろしたような、正確無比なレーザーのような、極太の雷が一つ落ちてきた。
発動タイミング、落下スピードを瞬時に計算し、カタナを合わせる。遅いかもしれない。が、合わせるしかない。素早く振るう。
殺傷能力の高い雷属性の範囲攻撃。|雷《かみなり》色の夜の帳が辺り一帯に降臨する。けたたましい音とともにとげとげしい光が広がり、飛び散った。
直撃した。心配は要らない。多少身体に麻痺のような感覚が残るが動ける。この程度、時間が経てば治る。状態異常など、不死者にとっては無傷のようなものだ。
大半はカタナを振って相殺したが、避けるまでの時間はなかった。だから……
パリパリと電気の破片を身にまといつつ、零は相手をひと睨みする。
「――っ」
やはり容赦のない近接攻撃をしてきた。軽い麻痺状態の零を狙い、突進。零は素早い動きを失った腕を無理やり動かして受け止める。剣での対峙、目線での対決。
彼女の瞳は無機質な紅。この目には獲物以外、何も映っていないだろう。獲物も映ってすらいないかもしれない。口も真一文字に結んでいるのみ。
弾いた。体力ゲージが見えていれば、相手はミリ単位で減ってすらいないだろう。こちらも不死なので体力などないに等しいが、これ以上は時間の無駄だ。
仕方ない……。
零は少し『力』を解放することにした。
アケミの攻撃を受けきり、一旦距離を取る。来たる〝その時〟を狙って、目をつぶる。カタナを肩まで持ちあげて、剣先を向けた構えを取る。
「奥義……」
アケミが瞬間移動をし、直線的に向かう。それは突風の具現化であり、特攻の具象化であり。零はそれを狙っていた。突進攻撃が一番タイミングを合わせやすい。
剣先の照準をアケミに合わせ、零はゆっくりとした動作で薄く目を開いた。黒目に|蒼《・》が混じっていた。
「『|海燕《うみつばめ》』」
直後、ぞくりとした空気の流れがあった。冷たい風。零の担いだカタナはまるでライフル銃のごとき。衝撃が身体にのしかかる。
零の突きとともに不可視の弾のような、凝縮された斬撃が射出され、アケミの胴体に当たった。向かってくるはずが、ガクンと、体勢が崩れた。
腰のあたりを押さえ、立膝をつく。零は構えを解除した。
得物具合を確認するように、ひと振りした後、くるんと回転し、カタナを鞘に納める。
アケミに近づこうとした――直後、
「……」
アケミは零を凝視する。近寄るなという強い目線だった。
零はそれを手負いの獣のような、すさまじい殺気を感じ、ピタッと近寄るのをやめる。
彼女はそれを大きな隙と考えたのか、戦闘不能状態から回復し不意に立ち上がる。
両手に持った武器を力の限り真下に深く刺した。無理やり刺し通されたことで地面は悲鳴を上げ、剣先からいくつもの大きな亀裂を作る。零は襲ってくる地割れを回避するために跳ぶ。土地の隆起や沈降が伝わっていく。
その混乱のさ中――相手は、その反動を使ってふわりと軽く。
刺した武器を離して、上へ。白鳥のように優雅な感じで、その場から飛ぶ。
落雷の逆再生だろうか。垂直方向だった。
速く、遠く、俊敏に。
一瞬の隙を突くように、彼女の背中を見た。羽が生えていた。
小さな羽。一瞬だが、見|紛《ま》ごうことなく白い羽。
天使のような。
それを幾度かはためかせて、戦う前の黒いシルエットに戻って黒い雲のなかへと消えていった。
オレンジ髪の、制服を着た天使は、一瞬で黒雲の粒子と同化した。
★
謎が大空へと吸い込まれたことで、零はフーッと緊迫のため息をついた。
先ほどの戦闘で、周囲の地形は著しく変わっている。
単なる平坦な道が、地割れを起こして高低差のある地勢となった。途中の道を立体的に斬って盛り上がっていたり、逆に建物の一部が沈みさがって、取り残された集落を見下ろしている気もした。崖と海のような感覚。最大七メートルほどの落差はあるだろう。
塔のように、高く隆起している所がある。零のいる場所よりもさらに高めで、そこには二振りの剣が刺さっている。ロケットが発射した後の、発射台を見ているような感覚。
主が去った後も輝きは衰えることはなく、炎と雷の剣は地面に突き刺さったままだ。雷の剣のほうは、どこか上空から黄色みのかかる糸が見えるような気がしてその場所に近寄ることを拒んでいるようだった。
しばらくその剣の場所を眺めていたが、その時胸騒ぎのような、カバンのなかから音が聞こえたような気がして手を突っ込んだ。
「どうしたの?」
戦闘前に電源を切らずにいたため、拠点にいるトアの心配そうな声が響いていた。
「アケミと遭遇した」
「……何ですって?」
「が、逃げられた」
零は機器を耳に当てることなく、直接語りかけるようにして状況を伝えた。戦闘直後のため、心中ではいら立ちが勝っていたがあまり悟られまいと声に感情を乗せないようにする。
「逃げられた?」トアと疑問の会話を続ける。
「ああ、目算を見誤った。アレは相当な問題児だ。連れて帰るには相当の運が必要だな」
零は率直にうかがってみた。「奴は何者だ?」
「奴って、アケミのこと?」
トアは戸惑いの色を見せ|訝《いぶか》る。
「何って、普通の|高校《同級》生だけど」
「戦えるのか」
「そんなわけないでしょ。私と同じ無能力者よ」
電話を切る。
季節が巡るような、ゆるやかな時間経過があった。
「『無能力者』……だと?」
零が露骨な舌打ちをする。そんなわけがない。確実にスキルの|類《たぐい》を使用していた。「|NightCrawler《ナイトクローラー》」「世界から離脱する方法」「女神の唄」「見捨てた女神」「女神の呪い」「地下の封印」「植物園」。
そして、「謎の女」。突き刺さった炎雷の双剣を見やって、それから高台を降りた。
「まただ。また《《解かなくていい謎》》が増えた」
35 幕間:はるか上空
★ 三分解説『異世界の神』
『ネグローシア』に破滅と混沌をもたらした異世界の神ですが、こんな話があるそうです。それは悠久の歴史を紡ぐ神話のような作り話に近しく、信憑性に欠けるものですが、こちらのほうがより『異世界の神』の性格が垣間見えるためお話いたします。
『ネグローシア』に|NightCrawler《ナイトクローラー》が来る以前、つまり女神がまだ世界を去らず、統治していた頃まで時間は遡ります。
『ネグローシア』には、とある美しき女神が君臨していました。女神の口癖はこのようなものでした。
「あなたの望みはなんですか?」
差別することはなく、世界を飛び回って種族ごとに聞いて回りました。
困ることはありませんか。最近苦労していることは。どんなことでもいいのです。私に話しかけてください。
思うような天気に恵まれず、植物が育たなかった時は天気を操り雨を降らしました。他種族の嫌がらせ行為があったときは|神徒《わたしたち》を使って懲らしめました。
自然を愛し、慈悲もある。多数の種族が共存し、それはそれは平和そのものでした。それは「絶望した女神の使徒であった私」から見ても、時流に即した統治をしていたと感じていました。
何一つない不自由。束縛もなく、貧困もない。民族間での争いごともない。不満なんてありませんでした――ある一族を除いては。
人間たちは女神の束縛を嫌がりました。
ふん、虫のように世界を飛び回りやがって。俺らのことをバカにしているのか。自由に空を飛ぶことのできない俺たちのことを。
何が世界を創ったのだ。何が『女神』だ。それだけで神は偉いのか? そんなことはあるまい。女神がいなければもっと平和になるはずだ。
と傲慢なことを思いました。
人間たちは秘密裏に結託し、女神をこの世界から追い出すべく過去の文献を漁っていました。
『ネグローシア』の各地には、女神が禁足地に指定した地区がありました。危険な魔物が生息していたのです。
人間たちは女神には面従腹背を決意して、危険を承知にその森に入っていきました。禁足地を守る種族……エルフやドワーフとも険悪なムードを作り、横暴にも突破しようとしては、代償の被害者を募らせていきました。
しかし、彼らは諦めなかったのです。どれだけの屍の山を築こうとも、執念でそれを見つけました。
女神が封印した遺跡の奥に、それはありました。『異世界の神』を降臨させるための、アーティファクトの作り方。
サクリファイス。
これだ。
神からの解放を望む人間たちは、他種族の衝突していた頃とは一転して、この文献を基に同族を殺し始めることにしました。最初は自分たちの村の人々をひそかに「材料」としていたようですが、次第にアーティファクトを信仰する宗教めいたグループが生まれたことで、組織的に、そして大規模に動き始めました。隣同士の街を襲い、住民全員を「材料」としました。
人間同士だけでなく、他の種族もその標的となりました。日が没し、深夜帯になると誘拐してきた子供の首を切断し、男女の鮮血を抽出し、|酒坏《さかずき》を酌み交わすような夜を繰り返しました。数多のサクリファイスを作り、世界平和のための祈りを、その酒坏を通して捧げました。
各地でいくつものサクリファイスができたことで信仰心が中心に集約され、無事神は降臨しました。
異世界の神。待ち望んだ希望。
「君たちの望みはなんだ?」
女神に対をなす男性神でした。口調は粗暴で傲慢さがにじみ出ていました。
開口一番、異世界の神は初対面にも関わらず、友だちのように信者らに尋ねました。両手を胸の前に重ね合わせながら、神の問いに答えました。
「この世界を地に落とす悪神、あの憎き女神を退散してください……!」
「いいだろう。お安い御用さ」
異世界の神は背中に生えた白い羽をを羽ばたかせ大空へと飛び立ちました。行く先は女神の大樹。……その日のうちに有言実行したのです。
圧倒的な力でした。女神はあっという間に敗れたのです。
女神を守護する天使の遣いは星雲の光の粒のような大群でしたが、人間たちが降臨させた異世界の神は、単独でそれらを|斥《しりぞ》けました。それらに息を吹き返すだけでした。それほどまでに強かったのです。
女神は『ネグローシア』を見捨て退散しました。多くの種族たちは悲しみにあえぎましたが、対し人間たちは繁栄しました。人間たちによる他種族の統治。人間たちの思い通りに事は運びました――ひとつを除いては。
「次の望みはなんだ?」
降臨した異世界の神は退散することはありませんでした。いつまでも居座っていました。もう大丈夫ですと人々は答えましたが、異世界の神は不服そうな顔をしました。
「眠っていたところを叩き起こしたのは他でもない、君たちだ。〝あんな簡単な〟願い一つだけで充分なのか? そんなことはないだろう。何でも叶えてやろう。次の望みはなんだ。君たちが決めたまえ」
司祭のような人物は尋ねました。それは、何個でも、なのか、と。それは望みではないと返しました。
機が熟せばまた来よう。異世界の神は大量のサクリファイスのある神殿から去り、どこかに消えました。
異世界の神の処遇に対し、人間たちの意見は二分しました。
一つは異世界の神を「救済の神」として崇め、神と人間たちとの共存を図ろうとするもの。
もう一つは女神と同様、神の支配からの脱却を目指し、この神を退散させ、おなじように人間のみの統治を目指すもの。
当然人間たちの総意を汲むことは至難の業でした。「救済の神」として崇めるのであれば女神の時と一緒ではないか。みるみるうちに結託した連合軍は崩壊し、再び同族で争うようになったのです。すでに降臨した神がいるのに、再びサクリファイスを作るところもありました。それが現在に至る悪習『|三角刑の生首塚《サクリファイス》』です。
『|三角刑の生首塚《サクリファイス》』を作ることで、新たな神を降臨させ、女神の二の舞を演じてもらいたい。その幻想に深く酔っていました。
人間以外の種族、世界的に見れば中立国家は平和を望んでおり、ただ手出しをすることはできませんでした。火種は「人間」という一つの種族に集約されている状態であり、そこに栗を一つ投入すれば、分裂して周囲に飛び火しかねないと。
そのうちの、勇敢なる者たちは、同族同士の殺戮に夢中だった人間たちの隙をつき、もはや総観気味だった異世界の神に接触することができました。
それは奇策だったと言えるでしょう。それは毒牙にあおられたと言えるでしょう。世界を見捨てた女神はもういない。でも異世界の神のことが女神だと思えて仕方がなかったのです。
神にすがりたかったのです。
「私たちは一体どうすればよいのでしょう?」
「それが次の望みかな?」
神の|頂《いただき》のような山頂。そこであぐらをかいていた異世界の神はこう言いました。
「名案がある。君たちは何もしなくていい。代わりに僕がそのくだらない戦いに参入すればいいんだ」
たった数分のできごとでした。女神の時は一日かかりました。その力を放出したのでしょう。人間たちのくだらない争いは、数分で無くなりました。
同時に、『ネグローシア』も滅びました。
最初の一分くらいは、奇策の成功に歓喜に打ち震えましたが、凄絶たる神の力は加減を知らず、巻き添えを食らってしまったのです。一番いけない愚行を犯したのです。全能たる神に一切をゆだねるという行為を……。
解っていたのです。
異世界の神は解っていたのです。
解っていたから、呼びかけに応じたのです。その神が最も嫌う存在は、他ならぬ人間だったからです。
その後、異世界の神は『ネグローシア』を去りました。異世界の神を|閉《ふう》じる女神の呪い、などという世界の理は、その神にとって無いに等しい束縛でした。簡単に千切れる鎖。その程度のものでした。
だからこそ女神はその神を危険であると断じ、閉じ込め、遺跡ごと封印したのです。
女神はその封印の力を行使したことによって、衰弱していたのです。
衰弱すると分かり切っていました。でもそうしたのは、創造物を愛していたからです。
女神が本当に愛していた創造物は人間でした。
人間の堕落から守っていただけでした。
なのに――
(語り部は眼下を見下ろしていた。どこまでも不毛な大地が広がっていた。語り部の彼女は上空を飛んでいる)
……あなたの望みはなんですか?
36 かつての聖域
腹立たしいとさえ感じていた。
露骨な邪魔立てとしか思えなかった。
今の精神状況は、アケミという謎に夢中であることを自認していた。
そうではない。枝葉末節。それらは俺に対して優先順位の低い項目だ。
ああいうのは誰かが解けばいい。俺は、俺なりの、重要なことだけに専念していればいい。
そう思っていたのだが、数多の謎に翻弄されているようで、一人では対処不可能なほどに頭は混乱していた。
どうして|奴《アケミ》が自分を邪魔をしてきたのか。
分からない。そんな当然のことを考えている。そんなことは考えなくたっていいのに。考えるべきは、この世界の脱出。その方法を探すのみ。
しかし、彼女のことについて考えてしまっているのは、とある引っ掛かりを感じているからだった。
オレンジ髪を見た時、何かを忘れているような気がした。その何か。湯気が立ち、形になる前に消えていくよりも不明なもの。どこかで聞いたことがあるような。見たことがあるような。
少なくとも『ネグローシア』に降り立つ前ではない。降り立った後のことだ。
時間としては一日も経過していないというのに、忘れているような……。
霧隠れの鬱蒼とした森を彷彿した時だった。
遠くから咆哮が聴こえた。
グオオ……という、大きな龍の咆哮のようなものが一つ。
長い長い、この世のため息のようなものが一つ。
影の一部のような、黒い鳥の一群が、その余波を受けてバサバサと音を立てて逃げ去っていった。
地響きも若干に、足先に痺れが|齎《もたら》される。
その辺にいる、彼において弱いザコ敵よりも化け物じみた声の主。
強そうだ。
それを聞いて、ふと、別の忘れていた事実を思い出した。
「そういえば|授業《ゲーム》の最中だったな」
授業名は「サクラノキノシタカゲノシタ」。
今まで蚊帳の外気味だった要素――「|死の授業《デスゲーム》」とやら。グドラと名付けられたそれは、この世界を見捨てた女神の置き土産だという。女神の植えた一樹の世界樹は、やがて腐敗樹となり絶望の色を呈し始めた。そのなれの果てだという触れ込み。
拠点にて「地上に出なければいい」とラビッドが言っていた。地上のテリトリーを確認するように、徘徊し歩いている樹の化け物。見捨てた女神の置き土産、世界を覆い隠すほどの大きさを誇る世界樹に、『ネグローシア』の悪意や絶望が染みこんだ怪物。
この際、憂さ晴らしも|アリ《・・》だろう。
零は考え、声の行方に誘われる。いら立ちが募り、小動物の命を刈り取る|猛禽《もうきん》類の目をしていた。
地上に降り立った授業の支配者グドラを倒せば、次の授業に移ってしまう。
それは地下の拠点で狭く暮らす者たちにとって悲報だった。思うように進まず腹が立つ零には朗報に近かった。
どうせ、拠点の奴らは所詮他人だ。彼らが困ろうが、俺には関係がない。
俺の邪魔をしようとする者たちはすべて、この|妖刀《カタナ》で血祭りにしてやろう。
☆
グドラと思われる怪物は、遠くで何度も吠えていた。
山脈に似た廃校舎、学生寮などをいくつか乗り越えていくと、回数を経るごとに不可思議の野太い威嚇は明確に大きくなっていった。接敵の手ごたえを肌で感じた。近づくにつれ、地形は人工物の廃屋の校舎から、黒い色素に染まった物質に変わっていく。硬い砂の地面からパキッ、パキッ、と植物の枝を折るような、脆くなった枝葉を踏むような音に切りかわる。植物の枝が地面に倒れ込んでいるのだ。その隙間には背の低い黒い植物がびっしりと苔のように。
黒い森の、森林地帯。進めば進むほど、ただえさえ暗い空が濃厚の黒い葉で覆い隠してくれるような、希望の空が、手の届かないほどに遠くに行ってしまうような……
その森林地帯には、黒一色で塗りつぶされているわけではなかった。
濁った丸い光が力なく飛んでいた。大きさは直径15センチ程度の光の球。
胞子か何かだろうと零は気にせず進んでいたが、近づくと、その丸い光……灰黒色の光がピクリと動き、零に対し素早く歯向かってきたので、零は一撃で処した。光は空中で消え失せ、彼の後方に飛ぶ。核のようなものを残し地面に落ちた。
核をみると小さな人型をしていた。ボロボロになっている羽根が背中についていた。
「……妖精か」
いや、これは。名づけるとすれば|腐樹妖精《フェアリーゾンビ》だろう。
世界樹の守り人。その世界樹が腐敗化したことで、その森に棲んでいる者たちも堕落したのだ。
適当に浮遊している|腐樹妖精《フェアリーゾンビ》を排除しつつ森の奥に進む。奥に進めば進むほど、|腐樹妖精《フェアリーゾンビ》の光の量は増えていく。腐ってもなお、忠誠心は失われておらず、何かを守っているという意思なき意思のもと回遊している。その裏付けのもとに進んだ。
しかし、地図を見ると、こんなところに森などないようだ。そもそも学園の敷地内に鬱蒼とした森などないはず。
疑問はあるが、零の心の内は怪物を討伐するのみに向けられていた。
37 腐敗樹のもとへ
しばらく孤軍奮闘を続けていると、大樹の|洞《うろ》がぽっかりと空いた部分にドアがあった。ドアの部分が大樹の幹のなかにへこんでいる感じ。大樹が丸呑みにしているようだ。
のれんのように、カーテンのように、黒い枝が垂れ下がっている。ドアの一部を隠していて、ドアの表面には樹の硬い蔓が迷路のごとく張り巡らされている。太い細い枝と大きい小さい黒い葉の数より、人が立ち入っていないことは一目瞭然だった。
……森の奥に隠された、樹の神殿?
いや違うな。扉にかけられた古びたプレートを見ると「修練場入口」と書かれていた。地図で「修練場」の場所を探す。地図では、学園の敷地内でも中央にあるところらしい。もちろんここが森であるという注意書きはない。
いつからかよくわからないが、修練場を丸のみにした黒い塊が覆いかぶさっているのだろう。
扉は両開きのものではなく、まるで裏口のような簡素な木のドアだった。ドアノブは錆だらけの金属。ドアノブを掴むとそれだけでノブは外れ、取れた。鍵はかかっていない。開けて、中に入っていった。
中に入ると建物の残骸が残っていて、木の幹でできた壁ばかりがあった。樹のなかを進んでいるような感覚。
辺りにはフルプレートの金属鎧がカカシのように突っ立っているが、ほとんどは延びた樹の蔓で侵食されている。断片的に残ったその金属鎧が、ここが元々修練場であったことを物語っている。
修練場とは、魔術学園の練習場のようなところで、日夜魔法練習生が実践的に教わっていたところだったのだろう。錆びた剣も壁にかざってあるところから剣術も教えていたらしい。今はその程度でしかないのだが。
石畳の道が目の前に続いている。天井は、天高くそびえる空洞で、吹き抜けを見上げているような感じ。
「グオオオオオォォォォォ……!!!!」
突然、獰猛な龍の雄たけびかと間違うほどの音量を襲う。思わず自分の片耳を塞ぐほどだった。だが、
「――近い」
左の方だ。ぐるりと首を動かし、顔を向け、次いで足を急がせた。
修練場跡地をひた走り、声の主の場所を脳内で捕捉した。
走った。
零のほかに誰もいない。腐敗樹となり果てた怪物の支配する|怨嗟《えんさ》の唸り声と零の存在。それのみだろうと思索する。
建物内部特有の、直角な道を進んで、ついに標的を視認できた。特定した。
グドラは、零の思い描いていたものとほとんど同じだった。
天にも昇る勢いのある腐った大樹。大きな巨体。それから――黒さ。
グドラのいる場所は、修練場内で一番大きな敷地になる。
それは、大樹が焼かれた果てのような見た目をしていた。幹は黒く、枝も黒く、葉も黒い。それは修練場周辺に裾野を広げる森林と同様のものだった。
天井のない、吹き抜けの空間すべてがグドラのものだった。おそらく、この修練場跡地を覆い隠すのもグドラのものなのだろう。それぐらい大きなものだった。ひとつ前の授業で邂逅した「モズ」の体躯、幻獣グリフォンに似た「モズ」の体躯の、軽くその十倍以上はありそうだった。
その幹の、床の根本あたりに赤い花が咲いていた。みずみずしい鮮血色。その上には|洞《うろ》のような二つの穴が。穴の中に巣くった鳥の巣を覗いたときのように不気味な光が灯っている。花と二つの洞。それぞれが口と目を模しているようだ。
唇を模している赤い花は毒々しい色を放っていた。それは大きなもので分厚みのある、花びらが上唇と下唇だと分かる程度だった。中の、無数にある漆黒の|蕊《しべ》が異様に映った。雄たけびを上げるたびに、その蕊が外側に向き、赤い花びらを押し上げようと手伝っているかのように動く。
赤い花の下、木の幹の下には、樹木の太い根が床を波打つように周囲に広がっている。そこから先は黒い地面。
それら黒きものがミシミシという音を震わせて、グドラは威嚇した。|花びら《くち》を大きく開け、空気を吸った。それから吐き出す。
「グオオオオオォォォォォ……!!!!」
空間を支配する凄まじい勢い。
空気の流れが急速に襲い、顔や身体が後ろに持っていかれそうになる。思わず腕で顔を覆った。
それから香りもする。これは吸ってはならないとさらに口元を覆った。非常に眠気を誘うもので、直観は功を奏した。
その一方で見捨てた女神に対し、今もなお叫びの嘆願をしているようにも映った。雄たけびは止み、ひとりでに見やる。
「確かにでかいな。しかし」
そこまででもない、というのが零の見立てだった。
たしかにでかいが、伝承曰く世界樹は「世界を覆い隠すほど」だという。それと比べればかなり小さい。
これはおそらく……分身体。この大きさのものが、世界に散らばっている。モズは一体狩れば終わったが、グドラの場合、この一体のみならず、世界に根を張る分身体を狩り尽くさなければ終わらない。
そんな末恐ろしいものを思いつく。それだとかなり厄介だ。
いずれにしても目の前のものを討伐することにした。
幸いまだ気づかれていないらしい。グドラの目は零を見ていない。
グドラの見ている目は……と、零が追ったときだった。
この時、この場には化け物と自分だけかと思っていたが、そうではないと気付いた。
雄たけびとともに甘く腐った |幽香《ゆうこう》の香りが空気の奥に消えゆくときに、隠れて別の声も聞こえることに。鳴き声だった。言語を話していた。
「きゅーきゅー」とかわいらしげな声で言っている。いかにも場違いな感じだった。
訝しげに、がれきに隠れてその行方に近づいてみた。
がれきの頂上に何かいた。雲の欠片のように白い小動物がいた。
38 腐敗樹の眷属たち
グドラはまるっこい白いものと会話をしている様子だった。
零の目からすれば、どう見ても場違いな生物だった。白いアザラシ。小さなアザラシ。体長は多く見積もっても五〇センチ程度。
それが意味の通じる言語をしゃべっている。
零には気づいていない様子だった。
「ムー! 違うぷるよー! そうじゃないぷる!」
「……なんだ、あのアザラシ」
白いアザラシは、こんもりとした丘のような、がれきの山の頂上にいた。
手に(アザラシなので正確には『前ヒレ』だろう)持っていた木の棒でぺしぺししていた。
どう見ても怪物グドラに話しかけていた。
「もう一回やるぷるよ? ジャンケン――」
おそらく続きは「ポン」に当たるのだが、かき消された。グドラが再び雄たけびを上げたからである。零はそれに対処する。鼓膜を守る動作をしたが、がれきの山の背後だったためそこまでの脅威はなかった。
静けさを取り戻すようになると、零はアザラシを見やった。
アザラシはというと、同じ場所に這っていた。
ずっと腹ばいだった。木の棒を目の前に伸ばしていた。けたたましい音に動じることもなく、耳も塞ぐこともなく。それから小さな生物なので、衝撃波で普通は吹き飛ばされるはずなのだが全く効いていない。微動だにしない。
「……ムー! だから違うぷる!」
白アザラシはぷんぷん怒っていた。「できるはずぷる! もっと頑張るぷるよー!」
零の頭にはハテナが浮かんでいた。状況がつかめなかった。
「じゃんけん」と言っていたのだから、じゃんけんをしている――ということになるのか?
この世界に来て、最もよくわからない場面にぶち当たった。
「ムー……、じゃあしょうがないぷるね」
白アザラシはため息を吐いて、
「もう一度やるぷよ! 『お手』!」
と言って木の棒を差し出した。
すると、グドラは天高くにあった長い長い蔓の一本を動かし、その先端を白アザラシの前に差し出した。
「きゅ?」
その先端は白アザラシの身体に巻き付き、飛ぶようにグドラの上に吊るされた。白アザラシの慌てる声が響いてきた。
「きゅー! だからそれは『お手』じゃないぷるよー!」
「何やってんだ。あのアザラシ」
突っ込みを入れていた。その時だった。
グドラの敵意が芽生え、零に向けられていたことを察知したのは。
ヒュン、と空中が斬られる。一本の枝が後ろの方に動かし、振りかぶっていた。
その仕草を瞬時に察知して、ガレキの根本から跳躍した。瞬く間に振り下ろされる太い枝。白アザラシのいたガレキの山を真っ二つにするような攻撃をする。地が割れ、鳴り響いた。
零はグドラの背後に着地する。グドラは身をねじり、零の方向を睨みつけていた。
「なるほど、俺を殺る気か」
「グウウウウウウ……!!!!」
「ならば、殺ろう」
グドラは定点の敵であると認識する。根を張り、ここから動くことはできない。そのことを理解する。地の利はこちらが有利のはずだ。
「……きゅ?」
白アザラシはようやく状況を理解したらしい。頭を下にして、足ヒレの根本が枝に縛られ宙づりになっている。前ヒレをばたばたさせているが逃げるのは無理だろう。
あれはどうすればいいのやら。助けた方がいいのか。どちらにしても――鞘を握りしめて――、この戦闘は逃げられない。
カタナを抜き、備えた。当然「|妖刀の妖気《これ》」だけで消えてくれるレベルのザコ敵ではなかった。
グドラの体躯が揺り動かされ、零を切迫する空気を出した。その動作で、どこからともなく、吹き抜け状態の闇天井より何かが降ってきた。複数の、空気の|啼《な》く音がする。
零は落下物を避けた。落ちてきたのはグドラの木の実である。いや、木の実と|称《しょう》するのはどうだろうか。もはやこの世界ではおなじみとなってきた『人の生首』である。
百はくだらないだろう、修練場跡地に様々な人種の生首がゴロゴロと転がった。
「オオオオオオォォォォォ……!!!!」
怨念に満ちた声をあげ、幹が若干重心を下げた。瞬間、落ちた生首に下から木の根が突き出された。下から貫くかのような。生首を持ち上げるように、簡素なカカシを作るように、そうした。
「ちっ、眷属召喚か。廊下で見たやつだな」
『モズ』に遭遇する前、廊下にあった『あのカカシ』の作り方を思わせた。『モズ』のときは動かなかった。ただのオブジェクト扱い。しかし、今回はどうだろう。予想は的中した。
素材は首だけでもいいらしい。
頭は人の生首、身体は木の根。木の根は適度に分裂して手足を形成していく。眷属を生み出していった。|腐敗樹死人《トレントゾンビ》といえばいいのだろう。
|腐敗樹死人《トレントゾンビ》の大群を見て、下で戦うとヤバイと感じ、零は上部の壁に一つ、剣撃を飛ばした。地から跳躍し、空中を飛び、壁に激突するように。斜めのへこみを作った。零は今しがた生まれた壁の傷に向けて飛び乗り、へこみに乗る。
ざらざらな壁に片手をついて、そこから見下ろすように、グドラを見やった。
さあ、どうするべきか……
|腐敗樹死人《トレントゾンビ》だけではなかった。グドラの周囲を見ると、修練場に入る前に見かけた|腐樹妖精《フェアリーゾンビ》の暗い光が見えた。動きは俊敏で、魔法を使う。
きらりと光が点滅し、闇と風を混じった属性魔法を使用した。零は飛び、新たに壁に傷を作りながら逃げ延びる。途中邪魔だった|腐樹妖精《フェアリーゾンビ》をカタナで斬り捨てようとした。当然一撃――かに思われたが、カキンと斬撃を拒絶する音がした。鎧のような硬い感触……。グドラの加護か?
それを加味せずとも明らかに練度が違う。それにこのカタナを受け止められるような者は数少ない。
弾かれた暗い光は、平気な顔をしてグドラの周囲を浮遊した。零に向けてお返しとばかりに風闇魔法を使う。受け止め、こちらもはじき返すが、この攻撃で確信する。有機物でできた生物を分解する腐食効果が付与されていた。こちらは『不死の病』ゆえに関与しないが、生身の人間であれば一撃死レベルだ。攻撃力が高い。
親衛隊クラス、側近レベルだと認識を改める。その|腐樹妖精《フェアリーゾンビ》が大量に、大軍を率いて、グドラの周囲を飛んでいる。
倒したとしても、グドラがいる限り、補充される始末だった。それは下にいる|腐敗樹死人《トレントゾンビ》も同じ。今も|木の実《生首》を落として生成するだけしている。一人対多人数。どう見ても一人では不利すぎた。戦えたとしても長期戦を覚悟するもの。並大抵のものならジリ貧の状況だった。
「グオオオオオォォォォォ!!!! オオオオオオォォォォォ……!!!!」
グドラは吠えるだけで何もしなかった。それがどうしてかよくわからない。
鍵はあれが握っているような気がした。
グドラのすぐ近くに、一匹の白い生物が吊るされていた。
逆さの宙吊り状態のまま、白アザラシは、どこからか取り出した白旗を持って「がんばれ! がんばれ!」と言っている。
囚われているという実感がない様子だった。緊張感がないと言ってもいい。
39 女神とおぼしきシルエット
不気味とはいえ、それでもグドラ本体が攻撃してこないことは好都合だった。
要するに、まとわりつくグドラの眷属たちを|斥《しりぞ》ければよいのである。
最初はそう考えたのだが、よく考えてみればそれは不可能だと悟る。
それをするには、カタナの力を溜めなければならない。時間がかかる技だ。この世界では、その時間は途方もない時間に変換されてしまう。棄却した。
いくつかの案が思い浮かんだが、ここまで密集されると大技を振るわざるを得ない。大技を行使するとすれば予備動作の時間がかかる。259,200倍かかるのだ。〇.〇一秒でも四十三.二分はかかる。そういうわけなのである。
アケミに使用した技は|スキル再使用時間《リキャストタイム》がほとんどないため使いやすいのだが、あれは対個人用であり、このような多数相手には向かない。連発するような代物でなく、ライフル銃によく似たものである……やはりあれぐらいしかないか。
そろそろ壁の傷は四桁は超えただろう。不死の身体であり無尽蔵な体力である零により、ここは歴戦の戦場然と化していく。
宙を舞いながら眼下のグドラに目を投げた。
生み出され続ける|腐敗樹死人《トレントゾンビ》は、地上を支配したようで同族を押しのけるように盛り上がっている。今度は地上の宙を侵略するようになっている。
グドラの周囲に黒い水たまりになっていく巨大数じみた大群が、かさを増し、湿地帯でも形成されるようになっていった。浮遊する|腐樹妖精《フェアリーゾンビ》も|腐敗樹死人《トレントゾンビ》の数が増えるごとに上へ上へと動いていた。
その黒き眷属たちの群衆のなか、ひと際目に付く白いもの……
水揚げされた大魚が逆さ吊りされていても、頭を揺らして元気のままだった。
「きゅー! がんばれ、がんばれぷるー!」
頃合いを見計らって、零は壁を蹴った。目線の先はぶら下がったまま応援する白いアザラシである。
上には|腐樹妖精《フェアリーゾンビ》が、下には|腐敗樹死人《トレントゾンビ》が。その間隙を縫って、白いアザラシの動きを封じている一本の枝を断ち切った。
「きゅ?」
それにより、落ちるアザラシ。
悲劇のヒロイン的に――このアザラシはオス・メスどちらなのか知らないが――気づく。バタ足のようにヒレを動かし、叫び声をあげながら落ちていく。
その間、三角とびでもするように、零は壁をすぐに蹴って、アザラシを抱きかかえる。そのまま連れ去った。
グドラは、どうしてか知らないがこのアザラシに関して敵対していない。中立、もしくは友好関係にある。それはどういうことなのか、よくわからないが……。
無防備なアザラシを零の手中に収めるとグドラに変化があった。予想通り、と思いきや、想定外の場面転換である。
株を引っこ抜くかのように、地中からぼこっと塊が現れた。まるで地下茎のような横長に広がった物体である。
グドラの根に絡まったそれは、グドラと同じく、それ以上に漆黒だった。
グドラとその塊は細やかな根で繋がっていて、まるでゆりかごのように揺れていた。塊の表面がひび割れたように細かい根が張り巡らされる。その隙間から光が漏れる。きらりと白く光った。有精卵に光を当て、中の様子を見るようだった。
零の目に移る土色の塊はその一瞬の変化を切り取った。透視するがごとく中身が分かった。黒きゆりかごのなかに白い光の形……、人の形をしている。
女性のようなシルエットデザインだった。片膝を伸ばし、もう片方を軽く折り曲げ、上体を起こした姿勢のまま座っていた。それから振り返り美人のようにこちらに顔を向けようとした。表情は不明。シルエットだから。黒く塗りつぶされた女性が優雅にくつろいでいる。
長い髪。髪先は筆で払ったかのようにきめ細かい。
黒いシルエット。美しい女性のような骨格。脚線の美光で透けるゆりかご。
こちらを見つめるような仕草。
首を傾げ、そして――襲ってくる!
と思っていたのだが。そのとき自覚のない瞬きでもしてしまったのだろうか、目を見開いていたのだが、それで中の女性は消え去ってしまった。発光も徐々に弱まっていく。
目を凝らそうとするや、グドラは慌しく退却した。
不協和音が滝つぼのように叩きつけられる。もともと大樹の壁面に丸のみされた、修練場だった壁を豪快に突き破った。石壁と樹皮が粉々に砕け散り、音も飛び散った。引っこ抜かれた塊はぶちぶちと根からちぎれ、謎の女体の過ごしていたゆりかごはここに置いていった。
グドラは雄たけびをあげて、逃走した。残されたしっぽは、もう光は発していない。ただの地下茎である。トカゲのしっぽ切り。そのようなもの。
世界に散らばる分身体のうちの一つだがあの巨体だ。零は逃げられるとは思っていなかったので、拍子抜けした。どうして逃げたのかすらよくわからない。ただしこれが鍵であったことは事実だ。
とりあえず、ひと安心ではあるのだろう。
「ん、あれ?」
零は抱きくるめていた白いアザラシがいつの間にかいなくなったことに気付いた。
どこにいるのかと思っていたら、近くにいた。悲しげな鳴き声が聞こえてくる。
「きゅう……。第一村人さん……」
白いアザラシは、鳴き声というより泣き声に近かった。
40 疑似餌
「ムー、ここに来る前、決めてたぷる……」
白いアザラシは、いじけていた。
前ヒレに持った少し長めな木の棒で、力なく地面の瓦礫の一部をつんつんとつついていた。
「『第一村人さんとなかよしになる』って、ムー決めてたぷる……。『第一村人さん』ぷるはね、ムーが一番目に会った者ぷる。〝じゃれじゃれ〟にも約束したぷる。必ず仲良しさんになるから見ててって。
順調だったぷる。最初にあいさつして、しりとりして、一緒に散歩して……「お手」も教えたぷる。だから次に「じゃんけん」を教えることにしたぷる。ムーたち、平和にしてたぷる。誰も邪魔してなかったぷる。なのに、のに……」
白アザラシはぷるぷる震えていた。素早く零に振り向く。
「どうして邪魔するぷる! ムーー!」
木の棒で、ぺしぺしぺしぺし、しだした。怒りを表現しているらしい。ただかわいいだけである。
「順調だったぷる! もう、驚いて逃げちゃったぷるよ!」
「……襲われてたわけじゃねえのか」
零は頭をかきながらいった。相手の憤慨度が増幅した。
「違うぷる! どう見ても『仲良く』してたぷるよ!」
ぷんぷんしている白アザラシによれば、その『第一村人さん』というのがグドラになるのだろう。
仲良くしていたらしい――という事実。どう考えても信じられない。襲われる寸前だっただろう、という顔を零はしたのだが、「信じてないぷるね。ムーにかかれば誰でもお友達ぷるよ?」と主張した。
一応転がっている地下茎に近づいた。不意をついて……という可能性も視野に入れて中身を斬ってみたが、何もなかった。からっぽである。あの人影は、幻想だったのだろうか。零は眉をひそめる。
どういうことなのだろう。何もない、わけがない。
グドラは、ここにいて、動こうとはしなかった。いったい何を守ろうとしていたのだ……?
「うー、もう、ムーのこと嫌いになっちゃったぷる……?」
白アザラシの方を見ると、みるからにしょぼんとしていた。零に背を向けている。
アザラシが見つめているものは、ぽっかりと空いた大穴だった。グドラが突き破ったことで出来たものである。
その先は暗い空。空が見える。ここが地下ではないことを示す唯一の証拠だった。修練場に覆いかぶさって黒い樹帯を形成している。その中心に位置している場所にいるのだった。
「うー、〝じゃれじゃれ〟……第二村人さんに『お仕置き』してほしいぷ……ム?」
アザラシはひとりでに会話していて、何かに気付いたようになった。
腹ばいの身体をずりずりしながら零に向き直る。アザラシ特有の、猫のようなひげは無く、代わりにクッション性の高そうなほっぺたが膨らんでいる。
「見知らぬ御方さんは、第二村人さんになるぷよね?」
「何だ村人っていうのは」
「そうぷる! 二番目に出会ったぷるから『第二村人さん』でいいぷる!」
なんか話が勝手に進んでいるらしい。零のことを『第二村人さん』と呼ぶことになってしまった。
「決めたぷる! 次は第二村人さんと「なかよし」になるぷるー!」
「俺は零というんだが――」
「第二村人さん! 第二村人さん!」
まったく話を聞いていない。
「第二村人さんは、どうしてここにいるぷる?」
零は不本意にも事情をいった。この世界に降り立ったことと、この世界に住む者たちについて。それから自身の事情……この世界から出る方法を探している旨を。
おそらく一割も分かっていなさそうだったが、自信たっぷりにうんうんと頷いていた。そういう難しいのは、〝じゃれじゃれ〟に全部任せればいいぷる!――と、自分の飼い主らしき人物に丸投げしていた。そのままの勢いで自己紹介した。
「ムーの名前はムーって言うぷる! これといって何にもできないぷるけど、毛並みはいいぷるよ! 毎日〝じゃれじゃれ〟にブラッシングされてるぷる!」
「その〝じゃれじゃれ〟っていうのはどこにいるんだ?」
「今〝じゃれじゃれ〟はどこかにいるぷる!」
ムーは自信満々に答えた。その「どこか」を聞きたかったのだが。
「ふふん、ムーはここには第二村人さんと「なかよし」になるために来たぷる!」
「『来た』ってことは、アンタも別の世界から来たのか」
「ム? ムー……、そんな感じになるぷるのかな。も、もちろん、第一村人さんともなかよしになるぷるよ。早く見つけて仲直りしなきゃぷるよ」
ムーは、ふんすと鼻息が漏れていたが零はあの樹の化け物に引き合いたくないなと考えていた。ムーには敵対していないが、零とは戦ってしまった。敵とみなしていることだろう。とはいえ……。目線を下に向けて、ムーを見る。こいつ、戦えないよな。
「さあ、第二村人さん! とりあえずその『地下拠点』とやらに行くぷるよ!」
「ああ、そうす」
――るか。と気を落ち着けたところだった。どこからか声がした。頭上からだった。
「呼んだかムー」と、クナイを落とすかのように、そう語り落としていた。
41 圧倒的な力
「きゅ?」
うつ伏せのムーはその声に従い、上向きになった。アザラシ故に首がなく肩もない、頭と胴体がそのままの太さでつながっている小動物なので、両方の前ヒレを地面について一生懸命上を向いている。ムーは頭を斜めにしていた。
「……〝じゃれじゃれ〟?」
謎の声は、だいぶ頭上から聞こえてきたようだった。
グドラが|修練場《ここ》に生えていたときは、そこから生首の果実が落ちてきたのだが、今は実体のない闇の天井が広がっているのみだった。空は見えず、空間に底はあるのだろう。故に、限界値まで見上げるようにした。どこまでいっても深い闇しかなかった。
「そこじゃねえよ」
「きゅー……。はっ、そこぷるか!」
ムーはきょろきょろと周囲一帯を探していたのだが、零の目線を真似して、そこにヒレを突き立てた。ムー自身が第一発見者のように手柄を横取りしようとした。
「ククッ、あーあ、ばれちったかぁ」
「きゅー、ムーにとってはバレバレぷる!」
ムーは木の棒をぴしぴしと振った。
一方、零の目線はずっと、グドラの開けた穴を見ていた。天井は見ることさえしなかった。予測に先立ち構えている。鞘に手を添えていた。
横の、真新しく出来た大穴に釘付けになっていた。
夜空の向こう側を見る巨大な望遠鏡を覗く構図だが、それは違う。
暗いだけが取り柄の曇天の空。それでもうっすらとした白さがあった。
その中央に、目を凝らさなければ見えないほどの黒い点があった。そこから『圧倒的な力』を感じた。
バキリ、と空間が割れた。
ピキピキ……、と続けて鳴る音。絶望の雲がさらに脱色するように、ガラスにひびが割れるように。ひと皮むけていく。絶望が新たな絶望を呼ぶように、遠景が手前側に|剥《む》けていく。|掃《は》けていく。
距離は思ったよりも手前だったらしい。外ではなく、この修練場の区画にいると思われた。
ヒビの中心点てある黒点が大きくなっていく。丸い点から|歪《ひず》みが生じ、ひび割れの隙間が大きくなった。脈々と、そこから黒い枝が外側へ、力強く伸びていく。めりめりと音を立てながら広がっていく。
中央付近が耐え切れずに欠片としてはがれた。小さな破片は、落ちる前に霧散した。大きな破片は、空中では形をともなっていたが地面に達するや無音のまま消え去った。地面に這う黒い霧……。架空の個体が着地すると幻影の霧と変じ、音もなく架空に戻っていく。
架空の霧となった破片。その生まれいづるところには、人影が。一人分の人影が、見え隠れしている。
グドラの地下茎のなかは、女性の影をしていた。今度は男性の形をしていた。
圧倒的な力。圧倒的な力。
隙間の向こう側は圧倒的な力が漏れ出していた。
肘かけで右ひじを曲げ、その手は頬杖をついている。
王族の座するような、豪奢な椅子に座っている。背もたれが長い。布の色は赤で、縁を彩る骨組みの色は黄金。
そこに座る王のような人物は、想像よりも若めな印象。零よりひと回りも若い。
小さな腕。小柄な皇太子。お世継ぎさま。それ以下の、まだ継承権のない子供のような。
また一つ破片が落ちた。空中でかき消え、霧消する。
今度は組んでいる足が見えた。体躯は小さく、人間の脚の形をしていた。
落ちゆく破片の反射で逆さに映る口元。薄ら笑いを浮かべていた。
大きな隔たりのピースがはがれ落ちる。少年は立ち上がり、途端、豪勢な椅子は、板が後ろに倒れるように、つゆのごとく消える。
少年は一歩踏み出す。
空間を侵略する黒いひび割れは、黒い縁のみが残った。破片の縁取りのみが残った。またひと欠片落ちる。
だが、それは他とは違い、空間の外へは消えなかった。また一つ。さらに二つ。
比較的大きな破片。それらの動きがある一定の法則に従って停止する。
零の目からすれば、意味もない欠片に見えていたが、「少年」が踏み出し、「少年」の足が乗ることでその意味が分かった。
階段だった。黒いガラスの破片。階段の足場を作っていた。線で囲まれた空間。いびつなる空間の足場。
下へ。斜め下へ。零の手前側へ。
そこを、少年は歩いていく。それを下りていく。一歩ずつ降りていく。階段の先が創られていく。
謎の存在、圧倒的な力。
モズや、グドラや、拠点のリーダーのラビッドや、零の出会って来た者たち。
この世界『ネグローシア』にくる以前に会った者たちを加味しても。
それらをはるかに超える、圧倒的な力が目の前に顕在していた。
強者の風格。それ以上の存在。
皇帝、英雄、魔王。世界を救ったとされる勇者。それよりも――
大仰な感じで。もったいぶった感じで。
一歩ずつ、一歩ずつ。降りていく。
これは幻覚か? そうではない。
|喚《よ》ばれたのだ。
召喚者に喚ばれたから来たのだ。
空虚と空間から出現したのは少年だった。
零よりも、はるかに身体年齢は下で、六歳から八歳ほどの子供の見た目だった。
少年が地面まで達すると、もはや役目を失った|階段《かけら》は、空間の向こう側へと消えた。
服は白と黒のツートンカラーで、身体の中心線の左右でくっきり切り分けられている。向かって左が白。右が黒というように。ズボンや靴すらも対象的な黒白だった。冬服のように毛皮のコートを羽織っている。首元の回りには白と黒のファーが。グレーは存在しない。もちろんこれも中心線で分かれている。
シルエットは人間のようである。
が、人間ではないのだと容易に悟った。
これは……神性の部類である。これまで見た天使よりはるかに強力な存在だった。
その目が、零を一瞥したのみだった。
一瞬のアイコンタクトで零のすべてを見通したかのように、零の興味は失せ、すぐに|召喚者《白アザラシ》の方へ向かっていった。
42 神殺しの少年
この話を入れて、第一部は残り三話です。
「もう用事は終わったぷる?」
「さあな。途中で切り上げてきたし」
少年はムーの方に向かった。零のことなど、最初から存在がなかったことにされている。
袖に腕は通している。見えない。さきほど見えていた手はだぼだぼな袖口の中に隠れてしまった。
髪色も同じく白と黒のツートンカラー。少し長めなカット。髪は中心線の白と黒がせめぎ合っている。うざったそうにするくらいの長さ。その前髪を手でいじっていた。
「まあ、いつも通り〝呼ばれた気がした〟から来たわけだが」
「きゅ? ムー、〝じゃれじゃれ〟のこと呼んだぷるか?」
「あ? 『お仕置きしてほしい』とか、言ってただろ?」
少年は怪訝そうな目で、ムーを見つめた。
「そんなこと言ったぷるか?」ムーは覚えてない首の傾げ方をした。
「あー、やっぱり? なら帰ろっかな」
そんな二人に這い寄りし者。すでにカタナを抜いて一気に近づいていた。
少年は油断の後ろ姿を向けていた。まだ向けていた。「だが――」
気づかれた。殺気は完全に消していたはずだったが、漏れていたかもしれない。
「一瞬貸せ」
「む? ――あわわっ」
ムーの持っていた木の棒が勝手に飛んで、少年の元へ。それをキャッチして口角をあげる。
悠然と振り向いた。と同時に、零は少年に向けて一太刀目を浴びせた。枝とカタナが合わさる。
するどく針を刺す音。長く長く伸びる金属音。
鳴る。響く。広がる。
澄んだ音が広がり続ける。
空間が歪み、死にあえぐ老人の、声にもならない種類の余韻の色あい。
まだ続く。まだ消えない。音が消えない。
カタナと木の棒。素材の違うもの同士だというのに、少年は軽く受け止める。音だけきけば互角の材質だ。
少年と目が合う。その目は、人間であれば白目にあたる部分が光のない漆黒に染まり、瞳の色は金色だった。夜空に浮かぶ黄金の満月が浮かんでいるようだった。
こいつはヤバイ……
『想像以上の存在である』
そのことを一瞬で感じ取る。零は対峙をいったん中止し、少年から離れた。
「こいつが……『異世界の神』?」零はひとりでに呟いていた。
「へぇ。朽ちた枝とはいえ、さすがは世界樹。褒めてやるよ、いい枝を見つけてきた」
先端をつまみ、枝をしならせて離す。弦をはじくようにして枝の具合を確かめている。
目の前の少年――『|異世界の神《それ》』が、今まさに降臨したのだと推量すれば、これはかなりの難敵である。
「ムー! それ、ムーが見つけたぷる! ムーのモノぷる!」
「わかったよ、ほら」ぺいっと返す少年。
「キズは……、ほっ。ついてないぷるね」
ムーは返却された枝で地面をぺしぺしした。鳴らす音に、傷の有無が確認されなかった。その枝でぺしっと少年に向けた。
「〝じゃれじゃれ〟、だめぷる。ムーと第二村人さんと『なかよし』するぷる!」
「でもなぁ、なぜだかヤル気だぜ、相手さん」少年はやれやれと|頭《かぶり》を振った。
「む?」零の臨戦態勢を見るや、ムーは慌てた。枝を持っていない、片方のヒレも同様にぺしぺしする。
「だ、だめぷる! 第二村人さん! 〝じゃれじゃれ〟には勝てないぷる! やめた方がいいぷるよ!」
「言ったって聞かねぇよ」
焦るムーの一方、少年は楽しげである。口角をあげて一歩前に。
「どけ、ムー」
「きゅー、誤解してるぷるー。違うぷるー」
少年の長い裾に抱きつこうとするも、少年はたたずまいを直した。勢いよく、
「うるせえ、やらせろっ」
「きゅーー!」
|外套《服》を引っ張ったせいで、長い裾に抱きついていたムーは、ころんとあお向けになった。
カメがひっくり返ると手足をばたばたさせるだけのように、ムーもこうされると何もできなくなる。同じように手足をばたばたさせている。
「きゅー! もとに戻してぷるー!」
「さてさて、何で遊んでやろうかな」
少年はひっくり返ったムーのことなど頭にないようだった。
目の前にことに興味が移っている。うざったそうに、左手で前髪を軽く触った。白と黒がせめぎあっているところ。
零のことを待っている様子だった。零はカタナを握って念じている。精神統一して目をつぶっている。
しばらく興味ありげに見ていたが、長くかかりそうだ。
「ほらよ、手伝ってやるよ」
少年は指を鳴らした。少しこの世界の『|理《ことわり》』をいじくっただけで、それ以外に何もない。
それでもまだ準備に時間がかかるらしい。今の零は無防備であるが、少年から先制攻撃を仕掛ける様子もなかった。
「ムー、しりとりしようぜ」
「な、なぜぷる?」絶対に起き上がれないことが分かっているはずなのに、横方向に倒れて健気に起き上がろうとするムーに、のんきな提案をする。
「百五〇だ、百五〇続いたらひっくり返してやる」
「――! きゅー! やるぷる!」
少年とムーはしりとりをして時間を潰している。そこに緊張感のかけらもない。
一方零の周りに不穏な空気が垂れ込めていた。少年はたっぷり待つ気でいた。彼は力の開放を試みているのであると。無駄なあがきはするかしないかといえば、したほうがいい。
「さてさて、武器はどうしよっかなぁ」
少年は適当にしりとりをしながら、零の準備を待つかのようにその辺りを歩いている。完全にそっぽを向いて、実り豊かな緑の散策路にいるかのよう。ムーとのしりとりは五〇は越えていた。
「お、いいのあるね」
しりとりを続けながら、地面に落ちていたものの一つを拾った。
それはグドラが生成し損なった、生首だった。落ちたはいいが、黒き眷属にできなかった出来損ないである。
正確には、この場所にあった三十個で一つを構成する『|三角刑の生首塚《サクリファイス》』の一つだった。それを手に取り、にやりと笑う。
もう片方の手を意味ありげに動かすと、近くにあった生首が少年の見えない力で引っ張られ、ころころと地面を転がり、やがて宙を飛び、少年の周りに浮かぶようになる。
「おもしれえなぁ。一体何を見せてくれるのかな?」
子供のように、少年はけらけら笑う。片手でポンポンとジャグリング。目線は自身と同じ色合いをした、黒と白の着流しに向けられていた。零の周りには怨念のような黒い霧が、集約していった。
43 妖刀解放
この話を入れて、第一部は残り二話です。
目の前に現れた少年を見ると、ノアが話していた『異世界の神』を彷彿とさせた。
記憶が立ち昇る。|NightCrawler《ナイトクローラー》のそばであらゆる分野の書物を読み、|道標《みちしるべ》を授けるとのたまった彼女の姿が。
紫のドレスを着こむ|彼女《ノア》によれば、|NightCrawler《ナイトクローラー》は小物の神であると断言していた。『異世界の神』に比べれば、はるかに格下の存在であると。
『異世界の神』――かつて、『ネグローシア』にて女神をいたぶり、簡単に排除した古き神。
神話級の存在。あの時は話を聞き流していたが、今対峙すれば、まったくもってその通りだと判断できる。
目の前の少年――『|異世界の神《それ》』が、今まさに降臨したのだと推量すれば、これはかなりのものである。最悪の事態、そう捉えてもいい。本気を出さねばならないと確信に至った。急いでカタナの力の解放を試みていた。それ以外に勝ち目がないと思っていたのだ。
零の周囲に黒い霧が取り囲んでいた。力の源泉はすべて、腰にあるカタナより漏れ出たものである。
精神統一を図り、目を閉じた。零が行っているのはある種『封印を解くこと』であった。
だが、肝心な重要なことを忘れていた。この世界では、時間が止まっているほどの遅延速度で進んでいるということに。
「ああ、そういやこの世界、あれだったな」
少年は、王者の風格のように待っていた。思い出したように指を鳴らす。
「ほらよ、手伝ってやるよ」
すると、一気に時間のスピードが著しく回復した。実質259,200倍に速くなった。一秒が一秒として機能するようになった。
それでもなお、この妖刀の『本来の力』の解放には、時間がかかるものである。その間、攻撃はできず、無防備であるが、零は問題にはしない。予測通り、少年は待っている。王族の、娯楽を待ち望むような、余裕のある空気。それを纏っている。
鞘に収めたカタナから青黒い|瘴気《しょうき》が発生し続けていた。地面を這い、一定の量を吐き続けていた。この地を埋め尽くしている者よりもはるかに危険度が高いものだ。
瘴気は零を取り囲み、着流しの色はすでに丸呑みとされている。零を包み込むように繭を作る。その過程は、薄闇の小さな雷雲がか弱き月を飲み込むようだった。
その中で、機が熟すのを待っていた。
一方、少年たちはその辺を散歩しながら、しりとりをしていた。やる気はなさそうに見え、油断と隙がみえみえである。いつでもどうぞ、と手にした三十個の生首をジャグリングしていた。
――機は熟した。
濃紺となった繭から声がする……
☆
「……|某《それがし》に斬れぬものなど無し……」
繭のなかから低い声がした。一人称さえも変わっている。
「お、強キャラ感出してくるねぇ」
一方少年は余裕の笑みとともに要らない茶々を入れた。おびえる様子は全くもってなく、おまけに愉悦の口角が上がった。茶々には続きがあった。
「なら尚更、知ったほうがいい。この世界に来るまで、今まで無敗だったのだろう、今まで無敵だったのだろう。『不死』という名の無敵の鎧。
でもね、その鎧は今までひびを入れられたことがなかっただけで、ひびは知っているのだ。もうすでに傷つけられている。君だけが知らない。オレだけが知っている。
だから、早く知ったほうがいい。君にだって越えられぬ壁があることを。その壁はこうして……、突然現れるということをね」
「きゅー! じゃれじゃれの番ぷるよ!」
ムーはしりとりを催促した。「『わ』、『わ』ぷる!」
「わりぃ、考えてなかった」
「なら、待つぷる!」
その瞬間が合図となった。
「奥義、『海鳴り』……!」
繭の内側から風船のように膨らみ、何かが飛び出す。ひと振りの剣圧が飛んだ。
光のごとくそれは到達し、少年は何もできずに身体が斬られ――るわけではなく。ただ微笑を浮かべながら、斬られた少年は単なる生首一つのみになり、地面に転がった。少年のものではない。
それ以外は姿が消えた。残された生首は、空中分解されてドロドロになるほどにみじん切りにされた。殺傷能力の高い強風の余波が通り過ぎ、壁に激突。壁はべとべとの粘液に侵食されていた。
グドラが作った大穴のその先、少年は遠くの空に転移していた。
繭から二度目の攻撃がはじけ飛ぶ。荒々しく前に突き進む、三日月を思わせる斬撃の形をしている。転移先と寸分の狂いもなく特定され、少年を襲う。
「おっと」
首を後ろにのけぞって僅差で避けた。少年は後ろをちらり。
少年の背後にある、薄墨の空模様はその衝撃の生贄となる。文字通り、真一文字。地表から反対側の地表まで空が割れたのである。
「ふーん、やるじゃん」少年は口を斜めにした。
「『|海燕《かいえん》』」
空のどこかに濃紺の影が浮かんでいた。そこからまたも剣圧が。相手も転移したのだろう。
雨のような猛攻撃。光のごとくに動かされる突きの連続性。それも、少年は紙になったようにひらりひらりと避けていった。
二人は空にて戦いを演じた。一方は攻撃のみで、もう一方は回避に専念している。
「どうした、この程度か?」少年はいった。
零は、その挑発に乗るように、空ごと割るような大技を繰り出す。
『|空涙《そらなみだ》』
これは、今までのように中・遠距離攻撃ではない。近距離攻撃。居合切りである。至近距離まで接敵していって、カタナをそのまま当てる、零のなかでは最強に近い種類の攻撃方法だった。今までこれで斬れなかったものはない。
が、|相手《少年》はまったく効かなかった。剣先は〝とあるもの〟が阻んでいた。
「くくく、どうしてそんなに驚いている」
少年は|嫣然《えんぜん》としていた。ぎりぎりとカタナと噛みあっていた物がある。
「その様子だと『今まで斬れたものはなかった』とでも言いたげだね」
零は黙っていた。紺よりの黒い霧をまとう剣先は、一つの生首で防がれた。手に持った首は、口を横に開いて歯を見せていた。その歯で、猛攻の刃をガードしているのである。
「最初に斬れなかったものが〝生首の八重歯〟が、そんなに気に食わないかい?」
生首を残して、少年は消えた。
不意を突かれた。腹に少年の蹴りを食らう。おそらく衝撃のみが伝わって、蹴られた事象には気づかなかっただろう。飛ばされた零は垂直方向に高速で進み、地面に激突した。ひび割れが広がるほどの衝撃を受ける。空にいるのは一人。
「さてと、形成逆転だな」
地上と空。空には少年のみがいた。
何も持っていない手を広げ、そこに光が灯された。手でその光をぎゅっと握るようにしながら唱えた。
「『|光よ、捕縛しろ《スレイブ》』」
零の四囲の地面より、文様が広がっていく。それが浮き上がっていって、触手のように自在に動き、零を拘束する。
「ぐっ……」それだけでもう動けない。
「児戯はここまででいいかな。あーあ、久々に身体を動かしたから気分がいいや」
空高くにいるというのに、少年の声は物理的な距離を度外視している。まるで数センチしか離れていない、空間が短縮しているように思えた。その場で囁かれたかのように、言葉は明瞭に聞こえる。雲泥の差の忠実性。
「なんか君みたいにさぁ、すべてに勝てると勘違いしている人を見るとね、何だか昔を思い出すんだよ。だから――褒美を与えよう」
少年は笑みを浮かべた。「君の願い、叶えてやろうか。今すぐにでも死にたいんだろう?」
44 本物の雷
本来なら一瞬で済むはずなのに。ありえないほど遅い詠唱速度だった。わざと遅くして、相手の恐怖感を増幅させているように。瀕死の、虫の息の小動物に、いつまでも眺めて観察するように。
零は地面に生えた光の|蔓《つる》に拘束されて動けないでいる。少年から見下ろせばアリのごとくか弱き生物だった。そこに、最後の鞭の|打擲《ちょうちゃく》を下そうとしている。まさに天罰。それに類する攻撃を準備している。
少年の、浮遊する手のひらに集まる光。台風の雲の|模型展示《ジオラマ》のような感じで、少し渦を巻いている。時間経過とともに、無慈悲を攻撃に変換させている。
実は、すでに詠唱は終わっており、身体を包み込むオーラのようなものは形だけの|視覚効果《エフェクト》だった。この手で動いている光の模型も単なる演出だ。
少年は無駄なことが好きなタイプである。絶体絶命のピンチに陥った勇者一行にとどめを刺すような悪役。絶望の表情を浮かべ、一行を蝕む負の感情。それが増幅し、身体中に走馬灯が廻っている……それを心待ちにしている悪役になりきっている、自分はそうするべき立場にいる。
「あ」
無駄な時間を過ごしていると、少年はあることを思い出した。
それですぐに指を一回鳴らした。周りを取り囲む生首たちの一個に変化があった。
虚空から白い毛玉のようなものが落ち、ほかの生首と同じように浮かんだ。「きゅー」と目を回しながら、身体も高速で回転していた。
「きゅう……。きゅー?」
無重力状態のまま、回転スピードだけが遅くなり、停まった。しばらく目を回していたのだが、その後ムーはあたりを見回した。しばらく当惑していた。先ほどまで地上にいたのに、どうして少年の隣にいるか分からないでいるようだった。
場所を入れ替えられて保護されたのである。代わりに消えた一個は交換の犠牲となり、地面に転がったのだろう。
「わりぃ、いるの忘れてた。これじゃあ巻き添えだもんな」
声をかけるとかわいい調子を取り戻す。少年の肩にぶら下がるように抱きつき、ぷんぷんと抗議する。
「そんなことはいいぷる! ムーとしりとりするぷる!」
「でも、自由に動けるようになったろ。もうしりとり、やらなくて良くね?」
「む? むー、たしかにそうぷるね」
白紙に戻されたように抗議は撤回された。少年は「だろ?」と言い、自分の頭の上にムーを乗せる。後頭部につばの長い、ちょっとした白い帽子を被ったようになった。
ムーは少年の頭から世界を眺めることができた。『ネグローシア』で最も高いところから見下ろすことができた。
天は、数分前までは分厚い雲の層の鍋ぶたが覆いかぶさっていたのだが、零の攻撃を避けたことで驚くほどに変化している。空に大きな切れ込みが入った。それで、数百年ぶりの光が地上にもたらされていた。
『|学院《プリズン》』を照らす神々しい光の線が注いでいる。すべてではないが、闇を横に切り裂く太い線が明確に区切られていた。闇と光。敷地内の一部が光の領域にあり、輝いていた。
ムーは、遠くにある光の領域の一部に目が留まった。
建物は円形で、いわゆるドーム状のものだった。ムーはその場所がどういったもので、それから〝何が〟乗っていたのかは知らなかったのだが、どうしてか前に見た時よりも色が変わっていると思った。と同時に、少年の周りにあった生首がいつの間に消えていたことに気づく。
|残滓《ざんし》は、広げられた少年の手のひらを目指す軌跡になっていた。|相手《零》の攻撃を防いだ八重歯の印象的な生首もそこに捧げた。校舎内にあるものだけでなく、『ネグローシア』散らばるすべての|生首《サクリファイス》が消失したのだった。
捧げられた生贄は実体を失い、エネルギーに変換されていく。空気の流れのようなゆるやかなカーブを描き、少年の手のひらの光に吸い込まれていった。集まれば集まるほど光は強靭に集約されていった。それで光に傷がついたように表面に線形の模様がついた。無垢の、神々しき光は、それらと混ざって少し暗くなった。
頭の上から心配そうな声で忠告する。少年の頭をぺしぺししながら。
「〝じゃれじゃれ〟、ちゃんと手加減するぷるよ?」
「……これが手加減かどうかは、相手が決めるべき問題さ」
その光玉は自発的に動いた。
天高く、少年やムーよりも高く、上へ上へ。飛び上がるように。
神々しき光は空高く、高度を増す。小さくなったとしても明確な存在値を放っていた。昼でも月が見えるほどに、目で認識できる程度の光の強さがあった。
しばらくして、キラッとひと際強く光ると、空の傷跡は、単なる切れ込みから『召喚門』に変化する。空はみるみるうちに暗くなり、切り裂く前と同色の、暗褐色の雲の色にまで落ち込んだ。切り裂いた部分から、なにやら力を感じた。少年と同量の存在……。
「……ああ、起こしてしまって悪かったな。だが、まあまあな|贄の量《おやつ》だったろ」
気安い調子に応えたかのように、空に顕現した『眷属』の気配は強くなる。
「満足したなら、見せつけてやれ。オレが許可する」
空間概念と時間軸、それから――
|標的《地面の者》の周囲に神々しい光が及ぶ。
円形の重なった魔法陣。積層型魔法陣と呼ばれるものが幾重にも重なり、その上から。
はるか上から。
ありとあらゆるものを、はるかに超越した強さが。
積層型魔法陣は強力な照準であり、標的を逃がさまいとする強靭な拘束であり。
闇よりにじむ光の強まり方。闇の耐久値が潰えると、そこから先は兆速であった。
光の斧が振り下ろされた。
「付与してやれ。絶雷の――を」
少年の言った最後の言葉はかき消された。
始原魔法。|雷魔法《サンダーフェニックス》。
詠唱もなく少年は見届けた。
本物の雷が通過する。一瞬。
うるさすぎて、眩しすぎて、ムーは「きゅー」とかわいらしい声を上げた。
音も色も、立体も架空も。森羅万象が|白《ムーと同じ色》でかき消された。
白。それ以外に言葉の要らない光景。
★
自分の意識が刈り取られる。
遠ざかっていく意識。初めて訪れる死の予感だった。
動くことのできない時間が長くあって、その上から光の蝶が葉の上に舞い降りる程度のやさしさを感じた。
永劫回帰の|劫罰《こうばつ》。
瞬く間に視界の色は白一面となる。
白。それ以外に言葉の要らない光景。
見覚えがある。『ネグローシア』に降り立つまえに見た、あの光景と同じだ。
その記憶をなぞるようにして、色が取り除かれる。天使のはねよりも純白さを持つ光が辺りに霧散する。光の濃度が薄らいでいき、そこに影が差す。人のような影が。左半分しかなかったが、その影がしゃべる。
「やはり、君は運が良いようだ」
少年の声色である。その半身は黒色のまま。光の量が薄くなり、光に飲まれていた部分も徐々に縁どられていく。
「可能性は低かったが、どうやらここの『女神』に気に入られたようだ」
「女神……?」自分の声が聞こえた。いやに客観的だった。
「そう、女神さ」
黒い靴、白い靴。片方ずつしか履いていない。その少年は近づいた。
「どうだ、生まれ変わった気分だろう?」
「俺は、死んだのか?」
「ああ、そこか」
そのころには視界の色は元に戻った。自分たちは地面にいた。空高くにいた少年も、今は自分と同じ地点にいる。『ネグローシア』の地にいる。自分はまだ、生きていた。
「それは……、『君次第』だよ。ゲームはまだまだ続くからね。君を『端役』で終わらせるには、もったいないだろ?」
彼の絶望ナイトメアは、まだまだ続いている。(第一部 完)
第一部最終話です。次は第二部に至ります。
(しばしお待ちを)
第一章 ネグローシアの統治神
Isn't the color of despair somewhat similar to the color of tea?
絶望は、どことなく紅茶の色に似てませんか?
---
In this way, God often rests in his room.
The overall trend, humans are hard workers.
神は寛ぐものです。人間は働き者ですからね。
第二章 ネグローシアの女神
Why are humans hard workers? It has a limited lifespan.
なぜ人間は働き者なんですか? 寿命があるからだよ。
第三章 夜闇の支配者
Why is life limited?
Think about it from God's point of view.
If you live long, you'll be annoyed.
どうして人間に寿命があるんです?
よく考えてごらん。長生きされたらムカつくだろ?
第四章 異世界の神
Why is it annoying? Just like humans, gods also have emotions……
どうしてむかつくのです? 人間と同様、神にも感情があると……
---
There are probably more important things to do than asking such questions. Holding out until you die?
そんなことよりも気になることがあるだろう。 死までの時間稼ぎのつもりか?
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If so……, let me ask you instead directly.
Can I give you the blessing of death.
……なら、代わりに訊いてあげようか。
君の願い、叶えてやろうか。