閲覧設定
名前変換設定
この小説には名前変換が設定されています。以下の単語を変換することができます。空白の場合は変換されません。入力した単語はブラウザに保存され次回から選択できるようになります
1 /
目次
第1話:演算外の来訪者
「……おい、梅宮、誰だ、あいつ」
桜遥は、風鈴高校の屋上で、怪訝そうに視線を投げた。
「獅子頭連」との激闘を終えて数日。傷が癒え始めた|多聞衆《クラス》の面々が屋上に集まっていたが、そこには見慣れない背中があった。
屋上の縁に腰掛け、夕日に照らされているのは、ハンサムショートの髪をなびかせた人物だ。
風鈴の学ランを肩に羽織っているが、その下は白いシャツにネクタイ。そして——。
「……男? いや、スカート履いてますし」
楡井秋彦が戸惑った声を出す。その声に反応し、その人物はゆっくりと振り返った。
薄ピンク色の瞳が、無機質に桜たちを射抜く。整いすぎた中性的な顔立ちに、桜は思わず息を呑んだ。
「おっ、来たか! 紹介するよ、うちの『軍師』で『お医者さん』。|茉莉 蒼《まつり あお》だ」
梅宮一が、野菜に水をやる手を止めてパッと顔を輝かせた。
だが、紹介された蒼は、挨拶を交わすどころか、鋭い視線で桜を上から下まで眺め始めた。
「(……全治、あと二日ってところか)」
「……あぁ!? 何ジロジロ見てんだよ!」
苛立つ桜を無視し、蒼は淡々と、しかし確信に満ちた声で言い放つ。
「……桜遥。あんた、喧嘩の筋はいいけど、着地の時に膝を使いすぎ。……非効率だよ。そんな戦い方、そのうち自壊する」
「テメェ……初対面でいきなり何様のつもりだ!」
桜が詰め寄ろうとしたその時、ずっと黙っていた杉下京太郎が、地鳴りのような声で呟いた。
「…………女、だったのか」
「「「お前も知らなかったのかよ!!」」」
桜と楡井のツッコミが響く中、蒼は呆れたように肩をすくめた。
「……杉下。あんたとは一昨年の冬からの付き合いだけど、まさか私の身体構造すらスキャンできてなかったなんてね。……観察眼不足。後で再教育ね」
「……悪い。強かったから、男だと思ってた」
あの杉下が、気まずそうに視線を逸らす。その光景に、多聞衆の面々は戦慄した。梅宮以外にこれほど杉下を黙らせる人間が、この学校にいたのか。
「……軽く自己紹介。梅宮からこの学年の各教科、及び体調管理を担当するよう指示されてる、茉莉 蒼。……以上。これ以上言っても時間の無駄だから、質問は受け付けない」
蒼はそう言い捨てると、手元のタブレットに視線を戻した。その徹底した合理性と冷徹なまでの美しさに、場が静まり返る。
「へぇ……勉強も教えてくれるんだ? 楽しみだなぁ。……よろしくね、蒼先生」
不敵に口角を上げたのは、蘇枋隼飛だった。
蒼はその瞬間、持っていたタブレットを一瞬だけ強く握りしめ、すぐに顔を背けた。
「……っ。蘇枋、あんたは……別途、特別メニュー。……あと私を先生って呼ぶな。演算の処理速度が落ちる」
「おや、どうしてかな?」
「……うるさい。非効率な会話はそこまで」
蒼は救急箱を傍らに引き寄せ、鋭い声で命じた。
「……全員、そこに並びなさい。あんたたちのボロボロな体を、今から一秒でも早く『効率的』な状態に戻してあげる」
こうして、風鈴高校に史上最も美しく、最も冷徹な「軍師兼医者」が君臨した。
それが、蒼の止まっていた時間が、再び動き出す合図だった。
🔚
第2話:神医者のスキャンと仮死の眠り
「……桜、あんたから。そこに座りなさい」
蒼の声は、一切の反論を許さない響きを持っていた。
桜は毒づきながらも、梅宮の「蒼の言うことは聞いとけよ」という苦笑いに押され、渋々コンクリートの床に腰を下ろした。
「触んなよ、これくらいほっときゃ治る――」
「黙って。非効率」
蒼が桜の細い手首を掴み、指先を滑らせる。
その瞬間、桜はゾクりとした。蒼の薄ピンク色の瞳が、自分の体の中を直接覗き込んでいるような、奇妙な感覚に襲われたからだ。
「……|橈骨《とうこつ》に微細なひび、大胸筋の過伸展。呼吸音に雑じりあり……獅子頭連の抗争、相当無理したね」
「……っ!? なんで、触っただけで……」
「あんたの体、悲鳴を上げてるよ。筋肉の炎症指数が正常値の三倍。……ほら、ここ、痛むでしょ」
蒼が桜の脇腹を軽く押さえた瞬間、桜は「っ……!」と息を呑んだ。自分でも気づいていなかった、鋭い痛みの核心。
「……私の指先は、あんたたちの体の『不協和音』を拾う。……骨、筋肉、血管。隠しても無駄。……次、楡井。あんたは内出血が酷い。杉下、あんたは拳を使いすぎ。……全員、私のトリアージに従って」
蒼の手際は圧倒的だった。
救急箱から取り出される特製の湿布や漢方薬。彼女の指先が触れるたびに、疼いていた傷口が不思議と静まっていく。多聞衆の面々は、その「神医者」と呼ぶにふさわしい技量に、言葉を失い圧倒されていた。
「……へぇ。触れるだけで全部わかっちゃうんだ。……じゃあ、僕の健康状態も、わかってるのかな?」
最後に順番を待っていた蘇枋が、楽しげに手首を差し出す。
蒼はその指先が蘇枋の肌に触れた瞬間、一瞬だけ指を跳ねさせた。
「(……脈拍、正常。血圧、安定。……なのに、なぜ私の演算にノイズが……!?)」
「おや、どうしたのかな? 僕、どこか悪い?」
「……異常なし。蘇枋、あんたは、……自分で何とかしなさい」
蒼は突き放すように蘇枋の手を離すと、全員の処置を終えたことを確認し、深く息を吐いた。
その瞬間、彼女の顔から急激に血の気が引いていく。
「……処置終了。……二時間後に、起こして……」
「え? おい、茉莉!?」
桜の呼びかけも虚しく、蒼は糸が切れた人形のように、その場にバタリと倒れ込んだ。
慌てて駆け寄る楡井たちが目にしたのは、死んだように深く、動かなくなった蒼の寝顔だった。
「……あはは、驚かせてごめんね。蒼、スキャン能力を使いすぎると、脳がオーバーヒートして『仮死状態』みたいに眠っちゃうんだよ」
梅宮が慣れた様子で自分の上着を蒼にかけ、優しく笑う。
最強の軍師で、無敵の医者。
けれど、その実力と引き換えに、彼女は誰よりも脆い一面を抱えていた。
処置を受けた桜は、自分の傷を癒やしてくれた少女の、無防備すぎる寝顔を複雑な気持ちで見つめるしかなかった。
🔚
第3話:茉莉塾、開講
「……いい、一回しか言わない。この公式を演算回路に叩き込め。できない奴は、効率の悪いゴミとして屋上から投棄する」
風鈴高校、放課後の空き教室。
黒板の前に立つ蒼の声が冷たく響いた。教壇に置かれたタブレットには、多聞衆全員の小テストの結果が赤裸々に映し出されている。
「……っ、茉莉! 喧嘩に関係ねぇだろ、こんなの!」
桜が机を叩いて立ち上がるが、蒼は眉一つ動かさない。
「関係ある。あんたの戦い方は反射神経に頼りすぎ。……脳の処理能力を上げれば、相手の死角が今の1.2倍は鮮明に見えるようになる。……座れ、桜。赤点の分際で口を動かすのは時間の無駄」
「……あ、赤点って言うな!」
顔を真っ赤にして座る桜の隣で、楡井は必死にペンを動かし、杉下は梅宮に「蒼の教えを乞え」と言われた忠誠心だけで、慣れない数式と格闘している。
これが、風鈴高校で最も恐れられる「茉莉塾」だ。
「……蘇枋。あんた、さっきからペンが止まってるけど。演算終了?」
蒼の視線が、余裕の笑みを浮かべて窓の外を眺めていた蘇枋に向けられた。
「おや、バレたかな。……僕、暗算で終わっちゃったんだけど。……ねぇ蒼、正解してたら、何かご褒美くれる?」
蘇枋がひらひらと回答用紙を振る。蒼は無言でそれを奪い取ると、一瞬だけ目を通した。
「(……全問正解。それも、最も効率的な解法。……やっぱり、こいつの脳は読み切れない)」
蒼は僅かに唇を噛むと、蘇枋に背を向けて短く告げた。
「……へぇ。やるじゃん」
その瞬間、教室の空気が凍りついた。
桜たちが驚愕の表情で蒼を見る。
「……おい、今……茉莉が『やるじゃん』って……」
「風鈴の生徒にとって、茉莉さんの『やるじゃん』は一生の誉れだって聞いてたけど……本物だ……!」
楡井が感動で震える中、蒼は耳を微かに赤くして、バシッと手で黒板を叩いた。
「……騒ぐな! 次の問題。制限時間は三秒。演算開始!」
厳しすぎる指導の裏にある、稀に見せる「肯定」。
効率を愛し、無駄を嫌う彼女が、ほんの一瞬だけ見せる「慈愛モード」の片鱗に、不良たちは毒気を抜かれていく。
授業を終え、疲れ果てた生徒たちが去る中、蘇枋だけが居残って蒼に近づいた。
「……ねぇ、さっきの『やるじゃん』。……本心かな?」
「……うるさい。あんたの脳は『非効率』にできてる。……私の演算を狂わせるために」
蒼はそう吐き捨てて荷物をまとめたが、その指先は微かに震えていた。
サヴァン症候群の彼女が、どうしても「計算」できない存在。
窓の外では、夕焼けが二人を赤く染めていた。
🔚
第4話:重力を嗤う茉莉花
「……桜。あんた、パトロール中なのに心拍数が上がりすぎ。無駄な緊張は筋肉を硬直させる。非効率」
「うるせぇ! 茉莉、なんでテメェまでついてきてんだよ!」
放課後の商店街。パトロールに勤しむ桜たちの隣には、風鈴の制服を着崩した蒼の姿があった。
彼女は進学校の特待生だが、放課後はこうしてボウフウリンの「脳」として街を歩く。
「……街の安全はデータの蓄積から。不審な動向、地形の死角。全部スキャンし直す必要があるから」
蒼が淡々と答えたその時だった。
路地裏から「ひったくりだ!」という叫び声が上がる。
「っ、あっちか!」
桜が即座に駆け出そうとしたが、逃走犯はすでに高いフェンスを乗り越え、複雑に入り組んだ廃ビルの屋上へと逃げ込んでいた。
「チッ……あんなところ、追いつけねぇ……!」
「……桜、あんたは下を。……上は、私がやる」
蒼が呟いた瞬間だった。
彼女は助走もなしに、垂直な壁を蹴り上げた。
「なっ……!?」
桜の目には、彼女が重力を無視しているように見えた。
壁を蹴り、エアコンの室外機を足場にし、わずかな窓枠の突起を利用して、蒼の体は吸い込まれるように上空へと昇っていく。その動きはしなやかで、まるで獲物を追う猫のようだった。
「……演算終了。三秒で叩き伏せる」
屋上の縁に手をかけた蒼は、そのままアクロバティックな一回転を決め、逃走犯の脳天に正確な踵落としを見舞った。
ぐしゃり、と犯人が崩れ落ちる。
「……確保。桜、回収して。時間の無駄だから」
下から見上げる蒼の姿に、桜は呆然としていた。
ただのガリ勉でも、ただの医者でもない。その身のこなし、重力を利用した戦い方……。
「(……あいつ、どこでそんな動き覚えたんだ……?)」
桜の脳裏に、ボウフウリンの伝説として語り継がれる男——焚石の影がよぎった。
「……茉莉、お前……その動き」
「……言ったでしょ。効率を突き詰めれば、重力なんてただの計算式の一つ。……あぁ、演算使いすぎた。……心拍、乱れてる……」
蒼はそう言って、少しだけ遠い目をした。
かつて5歳の頃、自分を「重力の外」へと導いてくれた、あの人の背中を思い出すように。
「……やるじゃん。今の着地、少しは様になってたよ、桜」
「……褒めてんのかよ」
桜は毒づいたが、蒼が見せた一瞬の「寂寥感」が、胸にざらりと残った。
その夜、蒼は夢を見た。雪の降る神社で、誰かの温かい背中を必死に追いかける、幼い自分自身の夢を。
🔚
第5話:神医者の慈愛と苦い飴
「……柊さん。あんた、さっきから胃の付近の筋肉が痙攣してる。……不摂生、あるいは精神的過負荷。非効率の極み」
ボウフウリンの四天王の一人、柊登馬は、蒼に突然袖を掴まれて面食らっていた。
「……茉莉か。いや、これはいつものことだ。気にするな」
「気にする。……私の管轄内で、患者が放置されるのは演算の美学に反する」
蒼は無表情のまま、救急箱から茶色の小瓶を取り出した。
「……これ、私が調合した漢方。飲みなさい。……一分で痛みの波が引く」
「あ、ああ……恩に着る」
柊がそれを口にした瞬間、その顔が激しく歪んだ。
「……っ! に、苦い! 砂利を煮詰めたような味が……!」
「良薬は口に苦い。……それとも、もっと苦い注射がいい? 演算してあげる」
「……いや、これでいい。……っ、だが、確かに楽になった。……サンキューな茉莉」
柊が少しだけ安堵の表情を見せると、蒼はフイッと顔を背けた。
「……別に。……あんたが倒れたら、多聞衆の統率が乱れて、私の仕事が増えるから」
その「ツン」とした態度を、横で見ていた桜は鼻で笑った。
「……素直じゃねぇな、お前」
「うるさい、桜。……あんたも、さっきの子供を助けた時に擦った肘、消毒してあげる。……来なさい」
蒼の「慈愛モード」は、弱者や負傷者にだけ無意識に発動する。
商店街を歩けば、「あお先生!」と近所の小学生たちが駆け寄ってくる。蒼は「服が伸びる」「非効率」と文句を言いながらも、その子たちの頭を優しく撫で、栄養バランスの悪いお菓子を食べていないかスキャンして回る。
「……蒼は、本当に優しいね。……特に、自分を頼ってくる相手には」
蘇枋がいつの間にか隣に並び、蒼の覗き込んでいる子供の頭を一緒に眺めていた。
「……優しくない。……ただの、資源管理。……この街の|未来《子供》が損なわれるのは、損失だから」
「ふふ、そういうことにしておこうか。……でも、僕も少しだけ胃が痛いんだけど。……僕にも、さっきの漢方くれる?」
蘇枋が冗談めかして腹を押さえると、蒼は一瞬だけ蘇枋の腹部に手を触れ、すぐに弾かれたように離した。
「……蘇枋、あんたは嘘。……心拍数も体温も、私の演算をかき乱すためだけに動いてる。……不治の病。……処置不能」
「おや、手厳しい。……でも、顔が赤いよ? 先生」
「……っ、うるさい! 全員、演算停止!」
蒼は真っ赤な顔で救急箱を抱え、逃げるように走り去った。
その背中を見送りながら、梅宮は屋上から穏やかに笑っていた。
(……蒼、お疲れ様。……お前が笑える場所、ちゃんとここにあるからな)
蒼が手に入れた、かつての修行時代にはなかった「平和」。
けれど、その平和を切り裂く影が、少しずつ彼女の背後に迫っていた。
🔚
第6話:特待生の休日、演算外のノイズ
風鈴高校から電車で三十分。県内屈指の進学校、私立秀英高校。
そこに、風鈴での「軍師」の影を一切消し、完璧な「特待生」として机に向かう蒼がいた。
「……茉莉さん、この前の模試、また全国一桁だったんだって?」
「……別に。効率的に解いただけ」
クラスメイトからの羨望と敬遠の混じった視線を、蒼はいつもの無機質な顔で受け流す。ここでは彼女はただの「天才」であり、誰も彼女が放課後に不良たちの傷を縫い、屋根の上を跳ね回っているなどとは夢にも思わない。
(……非効率。……早く終わらせて、ポトスの新作メニューの成分解析でもしたい)
そんなことを考えていた土曜の午後。校門を出た蒼の目に、あり得ない色彩が飛び込んできた。
「……やあ、お疲れ様。特待生様」
街路樹に背を預け、ひらひらと手を振るのは蘇枋隼飛だった。私服姿の彼は、進学校の厳格な空気の中で、毒々しいほどに異質で、目を引いた。
「……蘇枋!? なんであんたがここに……演算外、想定外」
「おや、抜き打ちテストは苦手かな? ……せっかくの休日だ、僕と『非効率』な時間を過ごしてみない?」
そうして半ば強引に連れ出されたのは、賑やかなショッピングモールだった。蒼は、色とりどりの商品や人混みに、早くもキャパオーバーの兆しを見せる。
「……蘇枋、ここ、情報量が多すぎる。……視覚データの処理が追いつかない」
「大丈夫、僕だけ見てればいいよ」
蘇枋は事も無げに言うと、蒼の手首をそっと掴んだ。
その瞬間、蒼の脳内で警告音が鳴り響く。
「(……心拍数、急上昇。血圧、変動。……蘇枋の体温、摂氏36.5度。……私の指先から、思考が溶ける……!)」
「……っ、離して! 蘇枋、あんたの存在自体が、私のスキャン機能をバグらせる……!」
「ふふ、バグってる蒼も可愛いよ。……ほら、これ。君の瞳の色に似てると思って」
蘇枋が差し出したのは、薄ピンク色の小さなジャスミンの刺繍が入ったハンカチだった。
「……|茉莉花《ジャスミン》。……私の名前」
「平和、癒やし、……そして『私はあなたについていく』。……君にぴったりの花言葉だね」
蘇枋が耳元で囁く。蒼は顔を林檎のように赤く染め、ハンカチをひったくるように奪い取った。
「……っ、花言葉なんて非論理的。……でも、……このハンカチの吸水率は良さそう。……もらっておいてあげる」
「あはは、素直じゃないなぁ」
二人の影が、夕暮れの街に伸びる。
蒼は、蘇枋から贈られたハンカチをポケットの中で強く握りしめた。
演算では導き出せない、胸の奥の疼き。
けれど、その帰り道。蒼は街角に貼られた写真の前で、足を止めた。
そこに記された名前を見た瞬間、彼女の瞳から光が消え、深い闇が降りる。
「……師匠」
呟きは、雑踏の中にかき消された。
平和な休日を切り裂く、過去の足音がすぐそこまで来ていた。
🔚
第7話:逆鱗、あるいは静かなる修羅
「……ははっ、見ろよ。風鈴の軍師様が、進学校の鞄持って歩いてら。滑稽だな」
放課後、風鈴への帰り道。蒼は他校の不良数人に囲まれていた。彼らは蒼が「風鈴の脳」と呼ばれていることを知り、その鼻を明かそうと待ち伏せていたのだ。
「……どいて。あんたたちの筋肉量とIQを演算したけど、私と関わるのは時間の無駄。効率が悪すぎる」
蒼は無表情で通り過ぎようとするが、一人の男が彼女の鞄を蹴り飛ばした。中から、蘇枋にもらったばかりの茉莉花のハンカチと、古い喘息の吸入器がこぼれ落ちる。
「おっ、なんだこれ? 喘息持ちかよ。……へぇ、そんな欠陥品でよく風鈴に居られるな。師匠に捨てられたのも、その弱っちい体のせいじゃねぇの?」
その瞬間、周囲の空気が凍りついた。
蒼の瞳から、それまでの冷徹な理性が消え、深い闇が底からせり上がってくる。
「(……心拍数、臨界点突破。リミッター、解除)」
「……今、なんて言った?」
「あぁ? 欠陥品だって――」
言い終わる前に、蒼の体がブレた。
重力を無視したような低空の踏み込み。医学的に最も効率よく「骨を砕く」角度で、蒼の|掌底《しょうてい》が男の顎を跳ね上げた。
「がっ……!?」
「……一撃。|下顎骨《かがくこつ》骨折。……次」
蒼の動きは、もはや人間のそれではなかった。壁を蹴り、空中で体を捻りながら、敵の関節、急所、神経の集まる場所だけを的確に、そして容赦なく破壊していく。
「ヒッ、化け物……!」
「……化け物でいい。……私の過去を、師匠との時間を、その汚い口で汚した罰。……全身複雑骨折で、死ぬまで後悔しなさい」
そこには、桜たちが知る「優しい先生」の姿はなかった。5歳から地獄の修行で叩き込まれた、焚石直伝の「殺しの技術」。
最後の男の首を絞め上げ、地面に叩きつけようとしたその時、背後から強い力が蒼を抱きしめた。
「……もういいよ、蒼。……演算が、壊れてる」
蘇枋の声だった。彼の腕の中で、蒼の激しい呼吸が、次第に苦しげな喘鳴(ぜんめい)へと変わっていく。
「……は、……ぁ、……離して、蘇枋……。あいつら、殺……」
「ダメだよ。君の綺麗な手は、僕たちの傷を治すためにあるんだから」
蘇枋は蒼の手から血が滲んでいるのを見つけ、優しく、けれど拒絶を許さない力で彼女を包み込んだ。
蒼は、自分の肺がヒューヒューと悲鳴を上げているのを感じながら、蘇枋の胸の中で意識を失った。
その夜、蒼は寝言で何度も「師匠」と呼び、涙を流していた。
5歳の頃から自分を守り、鍛え、そして消えたあの男。
焚石。
その名前が、まもなく風鈴高校に嵐を呼ぶことになる。
🔚
第9話:【回想】神様のいない神社で
ある年の今、冷静沈着な軍師として知られる蒼の脳裏には、決して消えない「原風景」がある。
それは、雪が降り積もる神社の境内。当時5歳だった蒼は、自分の体に起きている異変に耐えかねて蹲っていた。
幼い彼女の感覚は、周囲の音や情報を過剰に拾い上げ、そのストレスが喉を締め上げる。
親戚たちは「可哀想に」「長くは生きられない」と効率の悪い同情を投げかけるだけ。そんな絶望の中に、その男は現れた。
「――おい、ガキ。そんなに苦しいなら、意識を集中させろ」
見上げた先にいたのは、獣のような鋭い瞳をした男。焚石だった。
「……集中……?」
「お前の意識は、散漫になりすぎている。……俺だけを見ろ。俺の声を聞け。……動くな。俺が『動け』と言うまで、余計な思考を止めろ」
焚石が蒼の小さな肩に手を置き、低く、力強い声で話しかける。
不思議なことに、焚石の隣にいる間だけ、蒼の周りのノイズは一瞬で凪いだ。
「(……音が、消えた。……頭の中が、静かになる)」
それから中2の冬まで、約9年間にわたる厳しい訓練が始まった。
焚石は蒼を甘やかさなかった。重力を無視して壁を駆ける技術、解剖学に基づいた打撃。そして何より、「自分の意志を焚石に預ける」という絶対的な信頼。
周囲の親戚たちは不思議がった。
「焚石さんと一緒にいる時だけ、蒼ちゃんの具合が良くなるなんて。不思議ね」
けれど、蒼だけは知っていた。
自分にとって焚石は、何よりも確実な「拠り所」なのだ。
「……いいか、蒼。お前の名前は『茉莉』だ。……花言葉は知ってるか?」
訓練の合間、神社でお参りをする焚石が不意に尋ねた。
「……知らない。非効率。覚える必要ある?」
「『私はあなたについていく』……だ。……お前らしいな」
焚石が乱暴に蒼の頭を撫でる。その手の温かさこそが、蒼の人生のすべてだった。
「……うん。……私、ずっと師匠についていくよ」
そう答えた蒼の無邪気な願いを、神様は聞いていたのだろうか。
その翌週、中2の三学期。焚石は一通の手紙を残して、蒼の前から姿を消した。
『――お前は強い。もう、俺はいらない』
その日から、蒼の時間は止まった。
焚石という「師」を失った彼女は、再び混乱に侵食され、一時は廃人のように塞ぎ込んだ。
そんな彼女を、無理やり現実に引き戻したのは、あの真っ直ぐすぎる男――梅宮一との出会いだった。
🔚
第10話:【回想】明日を奪う最後の一週間
中2の三学期、その一週間は異様なほどに「普通」だった。
焚石は、一週間前から自分が去ることを決めていた。けれど蒼には、その演算結果を一切悟らせなかった。
「……師匠、今日のメニューは?」
「いつもの倍だ。……ついてこれなきゃ置いていくぞ」
焚石はいつも以上に厳しく、蒼に技術を叩き込んだ。重力移動の角度、関節を破壊する際の指先の角度。それはまるで、自分が去った後も蒼が独りで「死なない」ための、最後の手向けだった。
蒼の両親や親戚には、焚石は密かに会っていた。
「蒼の喘息は、もう大丈夫だ。……本人が『自分は強い』と信じている限り、発作は出ない。……あいつを、頼む」
そんな準備が進んでいるとも知らず、蒼は神社の境内で、最後の一日を過ごしていた。
「……終わったか。お参りしていくぞ、蒼」
焚石に促され、二人は並んで手を合わせた。
焚石の願いは一つ。
(二度と喘息が出ず、明日から俺なしで生きていけますように)
それは師匠としての、最後の「マインドコントロール」。
蒼の願いも一つ。
(また明日も、師匠の隣にいられますように)
それは茉莉の花言葉そのもの――「あなたと一緒にいたい」という、無邪気な祈り。
「……師匠、また明日。明日は何時から?」
「……さあな。明日になればわかるさ」
焚石は、蒼のハンサムショートの髪を一度だけ、ひどく乱暴に、けれど慈しむように撫でた。
翌朝。
蒼がいつもの場所に駆けつけると、そこには誰もいなかった。
道場にも、神社にも。
ただ一通、古びたベンチの上に置かれた手紙だけが、冷たい冬の風に揺れていた。
『――お前は強い。もう、俺はいらない』
「……嘘。演算、ミスしてる……」
蒼の指先が震える。心拍数が跳ね上がり、パニックが脳を支配しようとする。
けれど、不思議なことに、喘息の発作は出なかった。
焚石がかけた最後の暗示――「お前は強い」という言葉が、彼女の肺を、無理やり正常に動かしていた。
「……っ、クソが……ッ! 勝手に終わらせるな……! 私は、まだ……『動け』って言われてない……!!」
蒼は雪の上に崩れ落ち、声を上げて泣いた。
一週間も前から準備されていた「さよなら」を、自分だけが知らなかった。
明日を信じていたのは、自分だけだった。
この日、蒼の心は氷に閉ざされた。
誰も信じない。効率だけを信じる。
そう決めて「軍師」としての仮面を被った彼女の前に、一人の男がボロボロの体で現れるのは、それから数日後のことだった。
🔚
第11話:梅宮一という、温かなノイズ
焚石が消えてから、数日が過ぎた。
蒼は、まるで魂が抜けたような顔で街を彷徨っていた。喘息の発作は出ない。けれど、自分の意志で呼吸をしている感覚もない。ただ、焚石が遺した「お前は強い」という呪いのような暗示だけで、かろうじて肉体を維持している状態だった。
「(……非効率。師匠のいない世界で生きるなんて、演算が成立しない……)」
どんよりとした曇り空の下、路地裏を通りかかった時だった。
激しい打撃音と、複数の男たちの罵声。
その中心に、ボロボロになりながらも、信じられないほど穏やかに笑っている男がいた。
「……ははっ、いい拳だ。でも、まだこの|街《家》には入れさせないよ」
梅宮一だった。
彼はたった一人で、街を荒らそうとする他校の集団を食い止めていた。その体は、素人の目から見ても限界に近い。
蒼の瞳が、無意識に「スキャン」を開始する。
「(……内臓損傷の疑い、右肋骨二本の亀裂、左肩の脱臼。……心拍数、アドレナリン過剰。なのに、なぜこの男の|精神《バイタル》は、こんなに安定している……?)」
蒼の演算回路が、初めて見る「矛盾」に火を噴く。
焚石のような冷徹な強さではない。この男から感じるのは、太陽のような、ひどくお節介で、非効率な「熱」だった。
「……おい、あんた。死ぬよ」
蒼は思わず、物陰から姿を現した。
梅宮は、血を拭いながら蒼に気づくと、パッと顔を輝かせた。
「おっ、お疲れ様! 君、この街の子? 危ないから、あっちに行ってなよ」
「……あんたの方が危ない。演算結果を言うね。あと三分、その姿勢で心臓に負荷をかけたら、あんたの余命はゼロになる。……非効率の極み。今すそこをどいて」
「……ははっ、厳しいなぁ。でも、俺がどいたら、後ろにあるパン屋のじいちゃんが泣くんだよ。……だから、どかない」
梅宮はそう言うと、最後の力を振り絞って敵をなぎ倒し、その場に膝をついた。
静かになった路地裏。蒼は駆け寄り、反射的に梅宮の手首を掴む。
「(……脈拍、微弱。なのに……温かい。……師匠の隣にいた時とは、別の意味で、息がしやすい……?)」
「……君、お医者さん? 助かったよ。……お疲れ様」
梅宮が、泥だらけの手で蒼の頭をポンと叩いた。
焚石の乱暴な撫で方とは違う、慈しみに満ちた、壊れ物を扱うような手。
その瞬間、蒼の瞳から、我慢していた涙が溢れ出した。
「……バカじゃないの。……死にかけのくせに。……お疲れ様、なんて……」
「……君、名前は?」
「……蒼。……茉莉、蒼」
「そうか、蒼。……俺は梅宮。今日から、ここがお前の居場所だ。……いつでも、遊びに来いよ」
この出会いが、蒼の「演算」を根底から変えた。
孤独な修行者から、街を守る軍師へ。
「焚石」という過去を抱えたまま、彼女は「梅宮」という新しい光を信じて、再び歩き出すことを決めたのだ。
🔚
第12話:黒髪の狂信者と、冬の邂逅
梅宮と出会い、彼が守る「街」の形を知り始めた中3の春。蒼は風鈴高校の近くにある古い神社で、一人の少年と出会った。
長い黒髪、周囲を威圧する鋭い眼光。杉下だ。
彼は梅宮の背中を追って風鈴にやってきた、いわば梅宮の「一番の狂信者」だった。
「……おい。そこで何をしてる」
杉下の低い声が、静かな境内に響く。蒼は梅宮から頼まれた「屋上の菜園に使う肥料の配合データ」をまとめていた手を止めた。
「……データの集計。あんたこそ、そんなところで殺気を振り撒いて、野鳥の生態系を乱すのは非効率だよ」
「……あぁ?」
杉下が詰め寄る。蒼の薄ピンク色の瞳が、無意識に目の前の大男を「スキャン」した。
「(……凄まじい筋密度。骨格の頑強さは、この世代ではトップクラス。……でも、重心が左に偏ってる。梅宮さんを追いかけすぎて、自分の体の限界を演算できてない)」
「……あんた、杉下でしょ。梅宮さんから聞いてる。……あんたのその左足の踏み込み、今のままだと梅宮さんに追いつく前に膝が壊れるよ」
「……お前に、俺の何がわかる」
杉下が拳を握りしめたその時、背後から「やめなよ、二人とも!」と明るい声が響いた。
梅宮一だ。
「梅宮さん……!」
杉下の表情が一瞬で「忠犬」のそれへと変わる。蒼はそれを見て、内心で「……なるほど。演算するまでもない、重度の梅宮依存症」と結論づけた。
「杉下、紹介するよ。蒼は俺の恩人なんだ。……これからはみんなで、この街を、風鈴を守っていくんだから」
梅宮が二人の肩をポンと叩く。杉下は不服そうに蒼を睨んだが、梅宮が「恩人」と呼んだことで、その殺気を無理やり飲み込んだ。
「……梅宮さんがそう言うなら、従う」
「……へぇ。やるじゃん。……その忠誠心だけは、効率的でいいと思うよ」
蒼が少しだけ口角を上げると、杉下はフイッと顔を背けた。
この時から、二人の奇妙な共闘関係が始まった。
進学校に通いながら「脳」として戦略を練る蒼と、梅宮の「盾」として最前線で拳を振るう杉下。
性別すら意識させない蒼の圧倒的な有能さと、梅宮への真っ直ぐな献身に、杉下は次第に「……茉莉は、男か女か知らんが、信頼に値する『同志』だ」と、独自の演算(勘違い)を完結させていく。
「(……杉下。あんたは私の『弟』みたいなもの。……あんたが梅宮さんを守れるように、私が最高のメニューを組んであげるから)」
蒼の「慈愛モード」が、不器用な弟分――杉下にも向けられ始めた、今へと続く大切な記憶の1ページ。
🔚
第8話:遠い目、あるいは焚石の残響
「……あ、おい茉莉! またペンが止まってるぞ。非効率なんじゃねーのかよ」
風鈴高校の屋上。桜の声に、蒼はハッとして手元の参考書に目を落とした。
「茉莉塾」の最中だというのに、彼女が「演算」を忘れて虚空を見つめる回数は、ここ数日で明らかに増えていた。
「……別に。日射角度による視覚情報のノイズを解析してただけ。……桜、あんたはここの因数分解、三回連続で間違えてる。……脳の再起動が必要?」
「んだとテメェ! 普通にぼーっとしてただろ!」
いつもの言い合い。けれど、傍らで見ていた蘇枋の目は笑っていなかった。
蒼の視線の先――それは、この街の境界線の向こう、あるいは、数年前の「過去」を見ているように見えたからだ。
その日のパトロール中、街の空気がざわついていた。
「……聞いたか? 多聞衆のナワバリの端で、獅子頭連の残党がまとめてノされたらしいぞ」
「あぁ。犯人は一人。風みたいに現れて、一瞬で全員の関節を外して消えたって……」
その噂を耳にした瞬間、蒼の足が止まった。
指先が微かに震え、呼吸の音がわずかに鋭くなる。
「(……関節の外し方。……無駄のない足跡。……演算するまでもない。あいつらが見たのは、私の知っている『風』だ)」
「……蒼? 顔色が悪いよ」
蘇枋が心配そうに覗き込むが、蒼はそれを撥ねのけるように歩き出した。
「……何でもない。ただの、非効率な噂話。……先に帰る」
「蒼!」
呼び止める蘇枋の声を背に、蒼は一人、あの神社へと向かった。
中2の冬、焚石と最後にお参りした場所。
「……動くな、と言われた。あの日から、私はずっとここで、あなたの『動け』を待ってる。……バカみたい。非効率の極み」
蒼は神社の階段に座り込み、膝を抱えた。
自分の名前、茉莉花(ジャスミン)。
その花言葉の通り、自分はまだ「あなたについていく」という呪縛の中にいる。
その時、背後の森から、カサリと乾いた葉の音がした。
蒼の全細胞が、かつての「恐怖」と「歓喜」を同時に思い出す。
「……演算……不能。……心拍数、計測限界突破」
振り返った蒼の瞳に映ったのは、夕闇に溶けそうな、けれどあまりにも鮮明な「師匠」の影だった。
🔚