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目次
Scale of Us
健人死んでます。黒田パッパも死んでます。黄海お姉さんも死んでます。青木生きてます。
時間軸としてはエピローグ後の1〜3年の間に健人が死んで、それからまた1年経った頃です。
口調分からん。
私は猫である。
名前は──いや、はっきりとありますね。
黒田健人です。にゃあとしか鳴けない現状と、その名前の持つ重さの乖離に、若干の理不尽さを覚えながら、しかし妙に冷静な自分がいるあたり、どうやら精神構造はそのままらしい。
なるほど、転生というのはもう少し劇的なものかと思っていましたが、案外雑な処理で済まされるものなのですね。せめて説明くらい欲しいものです。何ですかこれは。説明書も無しに異世界放り込みですか。ブラック企業でももう少し丁寧ですよ。
とりあえず、状況整理からいきましょう。
私は死にました。恐らく。
直前の記憶は曖昧ですが、確か、とある事件を追っていたような気がします。対象は……まあ、どうでもいいでしょう。アンドロイドの犯罪者です。刃物を持っていたか、あるいは銃だったか。いや、どちらでも大差はない。重要なのは、その末に私は致命傷を受けた、という一点です。呆気ない死でしたよ。元々、私は寿命が尽きるか自殺するかでしか死なないと言っていたのに、これでは示しがつきません。
そして現在。
地面がやけに近い。いや違う、私が低い。視界が低すぎる。身体が軽い。四足歩行。毛。尻尾。
はい、猫ですね。完璧です。疑いようがありません。ついでに言うなら、状況は最悪です。
天気は雨。冷たい。非常に冷たいです。毛が水を吸って、体温が奪われていく。これ、普通に死にますね。二度目の人生、あるいは猫生と言うべきか、スタート地点がこれですか。もう少し配慮があってもいいのでは?いえ、文句を言う相手がいない以上、これはただの独り言ですが。
それに加えて、痛い。
前足。いや、これは脚と呼ぶべきでしょうか。とにかくそこがずきずきと痛む。恐らく怪我をしている。骨まではいっていないと思いたいですが、素人判断は危険ですね。いや、そもそも今は猫ですから、医療知識を活かす場面もないのですが。
……あまり良くないですね、この思考。
人間だった頃の自分を思い出すと、どうにも不快な感覚が混じる。あの時の痛み。血の匂い。床に広がる感触。あぁ、いけません。思考を切り替えましょう。今はそれどころではない。生き延びることが最優先です。
周囲を見渡す。
空き地。廃材。水たまり。最悪です。雨をしのげる場所が見当たらない。いや、奥の方に何かありますね。段ボール……は、既にびしょ濡れ。使い物にならない。ではあの鉄板の影に……いや、風が通ります。却下。
──詰みでは?
いやいや、諦めるのは早い。私はまだ死にたくないです。せっかくもう一度生を得たのですから、こんな序盤で終了するのはあまりにも割に合わないですよ。
よって、移動します。
とぼとぼと歩く度に、足が痛む。雨が冷たく、視界が滲む。これは中々に厳しい。猫というのはこんなにも過酷な生き物だったのですか。人間社会の庇護を受けている飼い猫との差が酷い。
──ああ、そういえば。
アミは、元気にしているでしょうか。
ふと、そんなことを考える。
死ぬ直前、あの人は近くにいなかったはずです。私達は二手に分かれたため、お互い単独行動だったのでね。ならば、巻き込んではいない。そこは安心していいでしょう。あの性格です、私が死んだと知れば、まあ泣くでしょうね。あるいは怒るか。両方かもしれない。
どちらにせよ、もう会うことはない。
そのはずだったのですが。
「わっ……猫ちゃん……!」
聞き覚えのある声が耳に入る。
いや、そんなはずはない。こんな都合の良い展開があってたまるものですか。そう思いながらも、足が止まり、顔を上げる。
視界に入ったのは、透明なビニール傘。そして、その向こうに、人影。雨音が少し遠のく。どうやら、傘がこちらに傾けられたらしい。
「酷い怪我……どうしよう……」
その声……間違いないですね。
聞き慣れているどころではない。日常の一部として存在していた音。
思考が、一瞬だけ止まる。いや、止まったのではない。むしろ逆に、妙にクリアになる。
ああ、そうですか。そう来ましたか。なるほど、世界はここまで雑に出来ているのですね。笑えます。
視線を、ゆっくりと上げる。
緑の髪。水色の瞳。
雨に濡れたその姿は、以前と何も変わらないようで、けれどどこか、柔らかい。
「大丈夫ですか……?今、助けますからね」
──アミ。
お早い再会ですね。
いえ、本当に。もう少し段階を踏んでいただいても良かったのですが。
いや、しかし、生きていたのですね。
それだけが、ずっと引っかかっていた。
最期まで確認できなかったことが、一つだけあった。それが、今ここで、こんな形で回収されるとは。
人生――いや、猫生とは分からないものです。
「……にゃ」
意図せず、声が出た。
ああ、なるほど。こうなるのですね。言葉は出ない。出るのは鳴き声だけ。まあ当然です。猫ですから。
だが、それでも。
………良かった。
心の中で、そう呟く。
伝わるはずもない言葉を、静かに噛みしめながら。
さて、拾われました。あまりにもあっさりと。
もう少しこう、葛藤とか、躊躇とか、あるものではないのですか普通。野良猫ですよ私は。しかも怪我しているし、汚れているし、雨で濡れている。衛生面という概念はどこへ行ったのか。いえ、相手が彼女である時点で、その辺りの常識を期待する方が間違っているのかもしれませんが。
視界が持ち上がる。正確には、身体が。
両脇──いや、前足の付け根あたりを支えられて、ふわりと浮く。なるほど、抱き上げられているわけですね。人間の手というのは、こうも簡単に生き物を持ち上げられるものなのかと、妙なところで感心してしまう。
「大丈夫、大丈夫ですからね……」
近い。声が、やけに近い。
耳元で直接響くような距離。温度がある。人の体温ですね。雨で冷えきった身体には、少々刺激が強い。いや、正直に言えば、かなり心地が良いです。
……なるほど。猫が人間に懐く理由が、少し分かった気がします。
腕の中に収められる。視界の大半が、彼女の服で埋まる。布の匂い。わずかに甘い香りがする。洗剤か何かでしょうか。以前からこんな匂いでしたかね。記憶を辿ろうとするが、どうにも曖昧です。嗅覚の精度が上がっているせいで、逆に比較が難しい。
そして、揺れる。歩いているのでしょう。一定のリズムで上下に揺れる感覚。足取りはやや早い。焦っているのが分かる。まあ当然ですか。目の前で怪我をした猫を拾えば、普通はそうなります。
「すぐ病院、行きますからね……」
病院。
それはありがたい。非常にありがたいですが。
同時に、少しだけ引っかかる。
動物病院、というやつでしょうか。となると、私は“患者”になるわけですが、果たしてその診断に耐えられるのでしょうか。いや、身体的には問題ないでしょう。問題は中身です。もしも、万が一にも“中に人間の意識がある猫”などと診断されたら、それはそれで面倒なことになる。いや、そんなことはあり得ない。あり得ないはずです。現代の医学はそこまで万能ではない。
多分、おそらく……きっと。
考えれば考えるほど不安になるのは何故でしょうね。
ふと、視界の端に車が映る。
黒いボディ。見覚えがある。いや、あるどころではない。乗ったことがありますね、何度も。助手席に。あるいは運転席に。仕事の移動中、雑談をしながら──いや、正確には、揶揄い合いを。
ドアが開く音。金属の擦れる軽い音と、ゴムの密閉が解ける感触。
「ちょっとだけ我慢してくださいね……」
我慢。何をでしょうか。
そう思った瞬間、身体の向きが変わる。腕から離される。いや、正確には“移される”。柔らかい布の上に、そっと置かれる。助手席ですね。シートの感触。クッションが沈む。体重が軽いせいか、沈み込みは浅い。
そしてすぐに、別の布がかけられる。乾いているタオル。暖かい。恐らく車内に置いてあったものでしょう。手際がいい。準備が良すぎる気もしますが、まあ彼女ならあり得る範囲ですね。
身体を包まれる。濡れた毛が、布に吸われていく。水分が奪われる感覚と同時に、じんわりと温度が戻ってくる。これは、思っていた以上に快適です。
……危険ですね。このままでは、普通に飼われる猫になってしまいそうだ。
ドアが閉まる。外の雨音が、一段階遠くなる。完全には遮断されないが、それでも先程までとは比べものにならない。閉じた空間。エンジンがかかり、低い振動が座席を通して伝わってくる。
ゆっくりと、滑るように車が動き出す。
「大丈夫ですよ……すぐ着きますから」
視界の先、運転席。ハンドルを握る彼女の横顔が見える。真剣な表情で、少し眉が寄っている。口元は固く、いつもの明るさはない。
……なるほど。本気で心配しているらしい。
それはそうでしょうね。拾ったばかりの猫が死にかけていれば、普通はこうなる。
だが、それでも。
その表情を見ていると、妙な感覚になる。
以前にも、似たような顔を見たことがある気がするのだ。あれはいつだったか。
怪我をした時か。無茶をした時か。
あるいは──
いや、やめましょう。
今は思い出す必要のないことです。
車内は静かで、ワイパーの音だけが、一定のリズムで響く。シャッ、シャッ、と水を弾く音。規則的で、どこか落ち着きます。視界の外では、雨が降り続いている。
タオルの中で、身体を丸める。自然とそうなる。猫の本能か、それとも単に寒いからか。どちらにせよ、悪くない姿勢です。痛む足も、少し楽になる。
瞼が、重くなる。温かさと、揺れと、一定の音。
条件が揃いすぎている。
これは、眠気を誘うには十分すぎる環境です。
いえ、寝てはいけない。
状況はまだ安定していない。ここで意識を手放すのは──
「……頑張ってくださいね」
小さな声。独り言のようなそれが、耳に届く。
それを聞いた瞬間、妙に安心してしまった自分がいる。
……まあ、少しだけなら。
そう思ったところで、意識がふっと沈む。
ワイパーの音が遠くなる。エンジンの振動が、子守唄のように感じられる。
次に目を覚ます時。そこは恐らく、動物病院の中なのでしょう。
できれば、もう少しマシな状況であってほしいものですが。贅沢は言えませんね。
何せ私は、猫なのですから。
目が覚めました。いや、正確には、覚まされました。ふわりとした浮遊感が消え、代わりに安定した硬さが背中に伝わる。この感覚、恐らく診察台というやつでしょう。冷たい。非常に冷たい。先ほどまでタオルに包まれていた身としては、温度差が少々厳しいですね。
視界がぼやける。光が強い。上から照らされる白い照明。ああ、これは完全に“それ”ですね。病院です。間違いない。匂いもそれっぽい。消毒液の、鼻に刺さるような匂い。人間の時にも何度か嗅いだ記憶がありますが、猫の嗅覚だと数倍に感じる。これは慣れるまで時間がかかりそうです。
「……よし、大丈夫そうですね」
低めの声。落ち着いたトーン。視界の端に白衣が映る。なるほど、この方が獣医ですか。人間の医者と大差ない見た目ですが、対象が違うだけでこうも印象が変わるものなのですね。
「外傷はありますが、命に関わるような状態ではありません。少し衰弱していますね。栄養不足と、あと冷えでしょう」
淡々とした説明。的確です。まあ、その通りでしょうね。異論はありません。むしろ、その短時間でそこまで把握できるのはさすがと言うべきでしょう。
「ほ、本当ですか……!よかった……」
隣から、安堵の声。はい、聞き慣れていますよ、その声色。少しだけ震えているあたり、本気で心配していたのでしょう。
……いえ、分かってはいましたが、改めて実感すると妙な気分になりますね。
身体に何かが触れる。指先。そっと毛並みを撫でる感触。
あぁ、検査の一環でしょうか。あるいはただの確認か。どちらにせよ、抵抗する気力はありません。義兄さんに逮捕される時も、私は抵抗しませんでしたからね。好きにしてください。
「この子、飼い猫ですか?」
獣医が問う。ごく自然な流れですね。
まあ、見た目からすれば野良でしょう。どう見ても野良です。否定の余地はありません。
「いえ……空き地で見つけて……多分、野良猫だと思います」
正しい判断です。ええ、その通りです。私は野良です。少なくとも今は。戸籍も何もありませんしね。
「そうですか。首輪もありませんし、その可能性が高いですね」
首輪。なるほど、あれが身分証明のようなものなのですか。便利と言えば便利ですが、同時に管理されている感も強いですね。自由を取るか、安全を取るか。猫社会も中々にシビアです。
「猫、飼ったことは?」
「……いえ、ありません」
少しだけ間があった。正直ですね。嘘をつく理由もありませんし、ここで取り繕っても意味はない。それに、彼女は元々嘘をつくのが苦手な人ですから。
「そうですか。じゃあ少し説明しますね」
獣医が姿勢を変える。説明モードに入ったらしい。声のトーンがわずかに変わる。業務的でありながら、どこか柔らかい。
「とりあえず、この子は数日しっかり休ませてあげてください。食事は消化の良いものを少量ずつ。無理に食べさせる必要はありませんが、水分は切らさないようにしてください」
なるほど。至極真っ当な指示です。人間と大差ないですね。回復の基本は同じ、ということですか。
「あと、傷口は一応処置しておきますが、あまり触らせないように。舐めすぎると悪化することがありますから」
舐める。……ああ、猫はそういう習性がありましたね。完全に忘れていました。危ないところです。無意識にやってしまう可能性がある。気を付けなければなりません。
「はい……分かりました」
素直な返事。声に迷いはない。覚悟を決めたような響きです。
「このままこちらで入院させることもできますが……」
獣医が言葉を区切る。選択肢の提示。ここからが本題でしょう。
「どうします?預かりますか、それともご自宅で様子を見ますか」
さて。これは、少しばかり重要な分岐ですね。
入院。つまりここに留まるか。
それとも──
「……私が、預かります」
即答だった。迷いがない。ほとんど反射に近い速度での返答。
……そうですか。そう来ますか。
正直、もう少し考えるかと思っていました。初めて猫を飼う人間にしては、決断が早すぎる。普通はもっとこう、躊躇とか、責任とか、その辺りで逡巡するものでは?
いや、相手が彼女である以上、その常識は通用しないのでしょう。
「いいんですか?飼うとなると、それなりに手間もかかりますよ」
「……はい。それでも」
短い返答。だが、十分すぎるほどの意思が込められている。
……なるほど。どうやら私は、このまま流される形で“飼われる側”に回るようです。
少々複雑な気分ですが、現状を考えれば悪くない選択でしょう。少なくとも、雨ざらしの空き地で野垂れ死ぬよりは遥かにマシです。
「分かりました。では、お薬と注意点をお渡ししますね」
話がまとまる。淡々と、無駄なく。
診察台から持ち上げられ、再び、あの腕の中へ。 温度。安定。そして、妙な安心感。
「よろしくお願いしますね」
獣医の声が背後から聞こえる。
「……はい」
小さく返す声。その直後、ほんの少しだけ。
私を抱く腕に、力がこもった気がした。
……なるほど。
どうやら私は、完全に保護されたようです。
さて。これからどうしたものか。
考えるべきことは山ほどありますが──とりあえず、今はこの状況に甘えるとしましょう。
何せ私は、ただの猫なのですから。
車が止まった。エンジンの振動が途切れ、代わりに静寂が流れ込んでくる。この“止まった後の空白”というのは、妙に意識に残るものですね。人間の時もそうでしたが、こうして猫になってからも、それは変わらないらしい。むしろ、余計に強く感じる気すらします。
ドアが開き、外気が流れ込む。雨は、どうやら先ほどより弱まっているようですね。それでも湿った空気が肌──いや、毛に触れる感覚はあまり好ましくない。できればもう濡れたくはありませんね。
「着きましたよ」
柔らかい声と共に、身体が持ち上げられる。タオルごと、すくい上げるように。相変わらず手慣れた動きだ。初めて猫を扱うとは思えない。いや、単に雑なだけでしょうか。どちらにせよ、落とされなければ問題はありません。
数歩、足音が聞こえる。玄関の前で一度止まる。
鍵の音。カチャリ、と軽く回る音がして、扉が開く。
その瞬間。
ふ、と。鼻先に届いた匂いに、思考が止まりかける。見覚えがある、どころではない。知っている。はっきりと。
ここは──。
中に入り、靴を脱ぐ気配。足音が変わる。硬い外から、柔らかい床へ。廊下を進む。その間も、匂いが、空気が、じわじわと過去を引きずり出してくる。
そして、リビングに入った瞬間。確信に変わる。
ここは、私の家だ。いや、“だった”と言うべきでしょうか。もう私のものではない。私自身がいないのだから当然です。視界の端に、ソファが映る。テーブルに、壁際の棚。配置はほとんど変わっていない。
懐かしい、という感情が先に来るかと思っていましたが。実際は、もっと静かなものだった。
ただ、そこにある。ただ、知っている。それだけ。
「とりあえず、ここに……」
そっと、身体が下ろされる。床ではなく、ソファの上。柔らかく、沈み込む。タオルごと置かれるあたり、まだ“扱いが分からない”様子が見える。だが、それでいい。むしろその方が、変に気を遣われるよりは楽です。
「少し待っててくださいね。すぐ戻りますから」
慌ただしい声。足音が速い。何かを探すように視線が動く気配。
棚を開ける音。引き出し。何かを取り出し、また戻す。
落ち着きがないですね。
……まあ、無理もありませんか。
拾ってきた猫をいきなり家に連れてきて、必要なものが何もないと気づいたのなら、こうもなるでしょう。
「えっと……ごはんと、お水と……あと、寝る場所……」
ぶつぶつと呟いている。完全に独り言ですね。整理が追いついていないらしい。
やがて、足音が玄関の方へ向かう。
「すぐ戻りますから、いい子にしててくださいね」
そう言い残して、扉が閉まり、再び、静寂となる。家の中に、自分だけが残された。
……さて。
状況を整理しましょう。
私は猫になり。その私を、アミが拾い。そして今、元自宅に連れてこられている。
加えて、義兄さんも、義父さんも、そして私も、もういない。
この家に住む人間は、誰もいなくなる。だからこそ、ここを彼女引き取った。
そう考えるのが自然でしょう。合理的です。えぇ、とても。
──だからこそ、少しだけ。
胸の奥に、引っかかるものがある。
理由は分かりません。分かりませんが、確かにある。それを言語化するのは難しいので、ひとまず放置しておきます。
代わりに、視線を動かし、リビングを見渡す。
テーブル。椅子。ソファ。テレビ。
どれも見覚えがある。どれも、使っていた。そして、その配置のまま、あの時間が思い出される。
夕方、仕事から帰ってきて。適当に荷物を置いて。リビングに入ると、既に誰かがいる。
義兄さんが、適当に椅子に座っている。義父さんが、夕飯を用意している。
会話は、あったりなかったり。特別なことは何もない。ただ、そこに“日常”があった。そして、テーブルの上に並ぶ夕食。まだ“仲のいい家族”を続けていた、あの日々───。
……………いけませんね。少々、長くなりすぎました。過去に浸る趣味はないはずなのですが、場所というのは厄介です。勝手に引きずり出してくる。
身体を動かそうとし、前足に力を入れる。
──痛い。
やめましょう。無理は禁物です。今の私は、ただの怪我をした猫なのですから。結果、動くのを諦め、ソファの上で、身体を丸める。
視線だけで、リビングを眺める。
……静かですね。あまりにも。以前は、もう少し生活音があったはずです。
人の気配、物音、生活の流れ。
それが、今はない。代わりにあるのは、空白だけ。そしてその中に、自分がいる。
……不思議なものです。
あれだけ寂寥感を感じていた場所に、こうして戻ってきている。しかも、この姿で。
皮肉と言うべきか。それとも、単なる偶然か。
どちらでも構いませんが。
とりあえず、今は何もする気が起きない。
探索も、後回しでいいでしょう。足も痛いですし、無理をする理由もない。
よって、私はただ、そこにいることにします。
何もせず。何も考えず──いや、それは無理ですが。少なくとも、動かずに。静かなリビングを、じっと眺め続けることにしました。
扉の開く音で、意識が浮上します。鍵の回る乾いた音に続いて、外の空気が一瞬だけ流れ込み、すぐに遮断される。帰ってきたようですね。予想よりも早い。行動力に関しては、相変わらず無駄がありません。
「ただいま戻りました……」
誰に向けたわけでもない言葉。それでも口に出すあたり、習慣というのは抜けないものです。返事はない。分かっているはずなのに、それでも言ってしまう。その小さな違和感が、この家の“今”を端的に示している気がしました。
足音が近づく。少しだけ慌ただしい。何か袋の擦れる音も混じっている。どうやら本当に必要なものを一通り買い込んできたらしい。準備の早さは評価に値します。
「お待たせしました、大丈夫でしたか?」
覗き込むように顔が近づく。視線が合う。
あぁ、その表情。少しだけ緊張していて、それでもどこか安心している。私がここに“いる”ことを確認して、ほっとしたのでしょう。
……なるほど、随分と手厚い扱いですね。
彼女はすぐに作業に入る。袋から次々と物が取り出されていく。小さな器。水。何かのパック。柔らかそうな布。簡易的な寝床まで用意しているあたり、抜かりがない。初めてにしては上出来です。
「えっと……まずはお水からですね」
器が置かれる。水の匂い。喉が乾いている自覚はありましたが、こうして目の前に出されると、妙に意識してしまう。少しだけ顔を近づけて、舌を伸ばす。
……なるほど。猫というのは、こういう飲み方をするのですね。効率は悪そうですが、まあ仕方ない。
「ちゃんと飲めてますね!よかったぁ……」
安堵の声。いちいち反応が大きい。ですが、それが彼女らしいとも言える。過剰なくらいでちょうどいいのかもしれません。
次に、傷の確認。タオルが外され、包帯の上からそっと触れられる。痛みはあるが、先ほどよりは幾分マシだ。処置が効いているのでしょう。
「痛いですよね……ごめんなさい」
謝る必要はありません。むしろ感謝すべきでしょう。ですが、言葉にできない以上、どうしようもない。代わりに、抵抗しないことで意思表示としましょう。……伝わるかは分かりませんが。
一通りの世話が終わる。水を飲み、簡単な確認をされ、寝床も整えられた。彼女はようやく一息ついたようで、ソファの端に腰を下ろす。
「……ふぅ」
小さく息を吐き、肩の力が抜ける。緊張が解けたのが分かる。先ほどまでの慌ただしさが嘘のように、部屋が静かになる。
その静寂の中で、ふと。
「あ……」
思い出したように、声が漏れる。
「名前……」
そう。それは確かに、必要なものです。
猫として、この家で過ごす以上、呼び名がなければ不便でしょう。合理的な判断です。
問題は、その内容ですが。
「どうしましょう……」
悩み始める。視線が宙を彷徨い、顎に手を当てる。典型的な思考ポーズですね。
「えっと……色的には黒っぽいから……クロ……?」
安直ですね。非常に安直です。却下でお願いします。
「でもそれだとそのまま過ぎますし……」
自分で否定しました。よろしい判断です。
「じゃあ……」
──しばらく沈黙。考えていますね、真剣に。
その横顔を、ぼんやりと眺める。
こうして見ると、本当に変わっていない。
外見も、仕草も、声も。あの頃のまま。
……いや。少しだけ、違うかもしれませんね。
あの頃よりも、ほんの少しだけ、雰囲気が“重い”。理由は、分かります。分かってしまうのが、少々厄介ですが。
「……ケントさん」
ぽつりと。決まったように、言葉が落ちる。思考が、一瞬だけ止まる。
……なるほど。そう来ましたか。
予想外ではありません。むしろ、ある程度は想定していました。彼女の性格からして、完全に無関係な名前を付けるよりも、何かしら“繋がり”を持たせる可能性は高い……ですが。
「ケントさん……」
もう一度、確かめるように呟く。その声音が、わずかに、揺れる。
「……これで、いいですよね」
自分に言い聞かせるような、小さな声。
そして、ほんの少しだけ、視線が落ちる。
「…………健人は、もう……」
言葉が途切れる。最後まで言わない。言えないのか、言わないのか。
まぁ、どちらでもいい。十分に伝わります。
──死んだ。そういうことでしょう。
ええ、その通りです。私は死にました。そして今、ここにいるのは猫です。彼女にとっては、完全に別の存在。だからこそ、“健人”ではなく、“ケントさん”。
そこに線を引く。混同しないために、壊れないために、境界を保つために。
……合理的です。非常に。感情的な判断のようでいて、実際にはよくできている。その線引きがなければ、恐らく彼女は壊れるでしょう。だから、あえて距離を取る。名前という形で。
……なるほど。意外にも賢いですね。そして、少しだけ不器用だ。
「ケントさん……」
もう一度、呼ぶ。今度は、ほんの少しだけ柔らかい声で。
手が伸び、頭を優しく撫でる。まるで、壊れ物を扱うように。
私はその感触を、受け入れる。拒否はしない。
できない、という方が正しいかもしれませんが。まあ、どちらでもいい。
とりあえず、名前は決まった。私は、“ケントさん”らしい。
……悪くありませんね。少なくとも、“クロ”よりは。
それに、その名前で呼ばれる限り、彼女は、まだ私を完全には切り離せていない。そういうことなのでしょう。
ならば、今はそれで十分です。
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時間というものは、曖昧です。特にこの身体になってからは、なおさらその感覚が薄れている気がします。時計を見る習慣もなければ、仕事に追われることもない。ただ、日が昇り、日が沈み、眠って起きてを繰り返すだけ。
とはいえ、感覚的には、およそ一週間ほどは経過したのでしょう。
怪我は、かなり良くなりました。まだ完全ではありませんが、少なくとも“動けない”という状態ではない。歩けますし、軽く跳ぶこともできる。痛みは残っていますが、許容範囲です。
つまり──暇です。非常に。
これはいけません。あまりにも平穏すぎる。刺激もなければ、張り合いもない。人間の頃であれば、適当に仕事をしていれば時間は潰れましたが、今はそうもいかない。
そして何より。
──彼女を揶揄えない。
これが一番の問題です。言葉が通じない以上、いつものように皮肉を言うことも、遠回しにからかうこともできない。実に不便で、非常に不本意です。ですが、だからといって諦める理由にはなりません。手段が変わるだけです。
そう、例えば。
目の前にある、このコップ。
テーブルの端に、絶妙なバランスで置かれている水の入ったガラスのコップ。非常に良い位置です。少しだけ力を加えれば、簡単に落ちるでしょう。
前足を伸ばし、そっと触れる。コップが、わずかに揺れる。
──いいですね。
もう一度、ちょい、と。ほんの少しだけ押す。
僅かに傾き、水面が揺れる。そして──落ちる。
ガシャン、と軽い音が部屋に響き、水が床に広がる。
「うぇぇっ!?」
すぐさま反応が返ってくる。キッチンの方から、慌てた足音。彼女は顔を出し、状況を確認する。
床に散らばる水。倒れたコップ。そして、そのすぐそばにいる私。
「ケントさん!?」
はい、私です。分かりやすいでしょう。
視線が合う。彼女の表情が、驚きから理解へ、そして軽い怒りへと変化する。
「もおぉっ!何してるんですかぁっ!」
ですが、その奥にあるのは、純粋な怒りではない。どちらかと言えば、困惑に近いでしょう。
……いいですね。非常に。久しぶりの感覚です。
これです。これですよ、私が求めていたものは。
口角が上がりそうになるのを、どうにか抑える。猫の顔でどこまで表現できるかは分かりませんが、あまり露骨だとバレかねません。
もちろん、これで終わりではありません。
別の日。廊下の角。死角になる位置に身を潜める。一定のリズムで、軽い足音が近づく。彼女だとはっきり分かりますね。
そして、角を曲がったその瞬間──飛び出す。
「わあぁっ!?」
見事な反応です。肩が跳ね、身体が引く。完全に不意を突かれていますね。
「びっくりしたあぁ!もう、ケントさん……!」 胸に手を当てて、少し息を整えている。これはやりすぎたかもしれませんね。ですが──実に楽しい。
言葉はなくとも、反応は返ってくる。それだけで十分です。
こうして、私は別の形で彼女を揶揄うことに成功しました。猫なりの方法で。ええ、非常に合理的でしょう。そんな日々が、しばらく続く。コップを落とす。物陰から脅かす。わざと足元にまとわりつく。その度に、彼女は驚き、呆れ、時には軽く叱る。その一連の流れが、妙に心地よい。変な話ですが。以前よりも、分かりやすい。言葉がない分、反応がそのまま伝わってくる。それが、案外悪くないのですよ。
そして、ある日のこと。
いつものように、ちょっとした悪戯を仕掛けた後。彼女がぽつりと、呟いた。
「……なんだか」
彼女は手に持っていたものを置き、少しだけ、視線を落とす。
「健人みたいですね」
──思わず、思考が止まる。
………なるほど。そう来ますか。予想していなかったわけではありません。行動パターンとしては、明らかに似ていますからね。気付く可能性は、十分にあった。ですが、こうして直接言葉にされると……少しだけ、困ります。
「すぐそうやって、意地悪するところとか……」
苦笑するような声音。怒っているわけではなく、むしろ、どこか懐かしんでいるのが分かる。
──やめていただきたいですね。そういうのは。非常に反応に困ります。
私は猫です。ケントさんです。健人ではない。
そのはずです。そのはずなのですが。
…………。
視線を逸らし、何もなかったかのように、毛づくろいを始める。
無関係を装う。それが今できる最善でしょう。
「……ふふ」
小さく、笑う声。それ以上は何も言わない。深追いはしないらしい。というより、彼女は冗談のつもりで言ったのでしょうけど。
……助かります。正直に言えば。
今のは、少々危なかった。このまま続ければ、いずれどこかで破綻する。その可能性は、理解しています。
ですが、それでも。やめるつもりは、今のところありません。何せ、久しぶりに、この状況を楽しいと感じているのですから。
人間だった頃よりも、観察という行為に時間を割くようになりました。やることが少ない、という現実的な理由もありますが、それ以上に、この身体は“見ること”と“感じ取ること”に向いている気がします。音、匂い、気配。そのどれもが以前より鮮明で、そして誤魔化しが効かない。
だからこそ、分かることがあります。
例えば──彼女のこと。
アミとこうして過ごし始めてから、ある程度の時間が経ちました。日数は相変わらず曖昧ですが、生活のリズムは把握できている。起きる時間、出かける時間、戻ってくる時間。そして、その合間に見せる表情の変化。その中で、一つ気づいたことがあります。
──彼女は、“健人”の話をしない。ほとんど、全くと言っていいほどに。
最初の頃、名前を付ける時に一度だけ口にしたきり。それ以降、その名前が出ることはない。意図的に避けているのか、それとも単に機会がないだけなのか。おそらくは前者でしょう。この家には、痕跡が残っている。
家具の配置も、生活の名残も、完全には消えていない。
それでも彼女は、それについて触れない。過去を語らない。
結果として、私は自分のことをほとんど知らないままです。どう死んだのか。どこに埋葬されたのか。墓があるのかどうかすら、分からない。
まぁ、死んだ当人がそれを気にするのも妙な話ですが。それでも、少しばかり興味はあります。自分の最期というものに。
ですが、聞く術がない。言葉が通じない以上、どうしようもありません。仮に通じたとしても、彼女がそれを話すかどうかは別問題でしょうが。 ………いえ。おそらく、話さないでしょうね。
そういう顔を、している時がある。ごく稀に。
本当に、稀にですが。
彼女がふと、手を止める瞬間がある。何かをしている最中に。
料理の途中や本を読んでいる時、あるいは、ただ座っているだけの時。そのどれもに共通しているのは、ほんの一瞬だけ、視線が遠くなること。
そして、ほんの少しだけ──寂しそうな顔をする。
声は出さないし、涙も見せないが、ただ、表情だけがわずかに沈む。
その理由は、考えるまでもないでしょう。
……なるほど。やはり、完全に切り離せているわけではないらしい。当たり前ですが。あの程度の線引きで、全てを整理できるほど、人間は単純ではない。だからこそ、そういう時。私は、動くことにしています。別に、特別なことはしません。そもそもできませんし。
ただ、静かに、足音を立てずに近づく。そして、その隣に座る。あるいは、身体を寄せる。それだけです。
「……ケントさん」
当然のように気づかれる。ここまで近づけば、いくら鈍くさい貴方でも分かるでしょう。
視線が落ちてくる。その表情は、先ほどまでとは少し違う。驚きと、わずかな緩み。
「……どうしたんですか」
返事はあるはずもない。それでも、彼女はそれ以上何も聞かない。
その代わりに、そっと手を伸ばし、頭に触れる。 優しく、ゆっくりと撫でるその動きは、どこか慎重で。同時に、少しだけ頼るようでもある。
「……ありがとうございます」
小さな声。誰に向けたものかは、明白です。
……礼を言われるようなことはしていませんが。
まあ、いいでしょう。否定する理由もありません。
そのまま、しばらくその場から動けず、彼女の手が一定のリズムで動く。
……静かな時間ですね。
何も起こらない。ただ、そこにあるだけの時間。
……ですが、それで十分らしい。
彼女の表情が、少しずつ元に戻っていく。 完全ではありませんが、先ほどのような沈みはない。 ……なるほど。これで、いいのですか。あまりにも簡単で、あまりにも、ささやかですが。それでも、意味はあるらしい。ならば、しばらくはこのままでいいでしょう。
私は猫で。彼女は人間で。言葉は通じない。
それでも、こうして隣にいることくらいはできる。
それで十分だと。
少なくとも、今はそう思っている自分がいます。
---
季節の移ろい、というほど大げさではありませんが、少なくとも“時間が経った”と認識できる程度には、日々は積み重なったようです。
体の傷は、ほぼ完治しました。動きに支障はない。高い場所にも登れるし、走ることもできる。つまり、完全に“猫としての生活”に適応したと言って差し支えないでしょう。
そして、そんなある日。
私は再び、あの車の中にいました。以前と同じ助手席です。ただし今回は、タオルに包まれているわけではない。簡易的なクッションの上に座らされ、比較的自由な状態で外を眺めることができる。ドライブ、というやつでしょう。
「たまには気分転換もいいですよね、ケントさん!」
ハンドルを握りながら、アミは軽い調子でそう言う。
……気分転換。なるほど。猫にそれが必要かどうかはさておき、彼女なりの配慮なのでしょう。
外の景色が流れる。建物…道路……信号。どれも見慣れたはずのものですが、この高さ、この速度、この視点で見ると、妙に新鮮に感じる。悪くありません。車内は穏やかだ。エンジン音と、タイヤが路面を擦る音だけが一定のリズムで続く。彼女も特に何か話すわけでもなく、ただ運転に集中している。平和です。非常に。
……まあ、こういう時間も悪くないでしょう。
そう思った矢先。
短く、鋭い電子音が鳴る。着信です。
彼女の視線が一瞬だけ揺れる。すぐに道路へ戻すが、気にはなっている様子。ハンドルを片手で支え、もう片方で操作をする。
「はい、アミです!」
通話が繋がる。スピーカー越しの音声が、車内に響く。
『アミ!今大丈夫ですか!?』
聞き覚えのある声。間違いありません。青木ですね。こうして名前を聞くのは、随分と久しぶりな気がします。
「青木さん?どうかしましたか?」
落ち着いた返答。いつもの調子です。先ほどまでの穏やかさを保ったまま、仕事用の声色に切り替わっている。
『アンドロイドによる事件が発生しました!今データを送ります!』
短く、要点だけを伝える声。
緊急性が高いのが分かる。そして、その内容。
──アンドロイドによる事件。思考が、わずかに引っかかる。……そうですか。またですか。別に珍しい話ではありません。この世界では……特に、彼女及び私が所属していた課であれば。
ですが、それでも。どこか、妙に引っかかる。
「分かりました、確認します!」
彼女の返答は迅速だ。その直後、別の電子音。データの受信通知ですかね。視線を一瞬だけ落とし、内容を流し見る。表情が、ほんのわずかに引き締まる。
「……了解しました。すぐ向かいます!」
迷いはなく、即答。通話が切れ、車内に再び静寂が戻る。
だが、それは先ほどまでのものとは違う。空気が明らかに変わり、緊迫したものとなった。
「……せっかくのドライブだったんですけどねぇ」
小さく、残念そうに呟く。ほんの一瞬だけ、肩の力が抜ける。だが。
「……でもまぁ、仕方ないですよね!」
すぐに、切り替え、視線が前を向く。
ハンドルを握る手に、力が入る。アクセルが踏み込まれ、車の速度が一気に上がる。
穏やかだった景色が流れ始め、日常から非日常へ。その境界を、あっさりと越えていく。
……相変わらずです。
いざとなれば、迷いがない。感情を挟む余地がない。以前と、何も変わっていないですね。
──いや、もしかすると。少しは、変わっているのかもしれませんが。少なくとも、今の私には、それを判断する材料が足りない。
ただ一つ、確かなのは。この車が向かっている先が、“現場”であるということ。そして、そこに、“アンドロイドによる事件”があるということ。
………さて。どうなりますかね。
本当に、少しだけですが──退屈しのぎには、なりそうです。
車が止まった。ブレーキの感触と共に、わずかな前傾。エンジン音が落ち着き、外のざわめきが相対的に強くなる。
人の声に無線のノイズ。複数の足音。どうやら、既に現場はそれなりに動いているようですね。
窓越しに見えるのは、古びた建物。廃ビル、と呼ぶのが適切でしょう。外壁はくすみ、窓はところどころ割れている。人が常住するには向かない環境。だからこそ、こういう場所は“使われやすい”。
警察車両も数台停まっている。規制線。立ち入りを制限するテープ。制服の人間が周囲を固めている。……なるほど。規模としては中程度、といったところでしょうか。
「ケントさん、ここで待っててくださいね!」
当然の指示です。むしろ、連れて行かれる方が問題でしょう。猫ですからね、私は。
ドアが開き、外気が流れ込む。そして、彼女はそのまま現場へと向かっていく。完全に“仕事モード”ですね。
私といえば、車内に一人寂しく取り残されてしまいました。
………さて。どうしましょうか。選択肢は二つ。
ここで大人しく待つか。それとも──動くか。
答えは決まっています。待つ理由がありません。 むしろ、動かない理由がない。
何せ──久しぶりに、“仕事の時間”なのですから。
身体を起こす。助手席から窓へ。
ロックは……かかっていませんね。彼女のことですから、そこまで意識は回らなかったのでしょう。あるいは、そもそも“開けられるはずがない”と考えているのか。甘いですね。
少しだけ力を込め、押す。
カチリ、と小さな音がし、そのまま、ぐい、とパワーウィンドウスイッチを押すことにより、隙間ができる。これだけあれば十分です。
体をねじ込む。狭いですが、問題ない。猫の身体はこういう時に便利ですね。するりと抜け、外へ。見事に地面に着地。衝撃は軽い。問題なしですね。
周囲を一瞥。誰もこちらを見ていない。人間は基本的に、足元の小さな存在には注意を払わない。盲点ですね。
そのまま、低く身を落としながら移動する。
目標は一つ。彼女──アミの後を追うこと。
建物の中へ入ると、廃ビル特有の空気が広がる。
埃。湿気。古いコンクリートの匂い。
足音が反響する。複数の人間が出入りしているため、完全な静寂ではないが、それでも外よりは閉鎖的だ。視界の先に、彼女の背中。他の警官と軽くやり取りをしながら、奥へ進んでいく。
「まだ見つかってないんですか」
「はい、建物内に潜伏しているのは確実なんですが……」
短い会話。状況は単純。
犯人はこの中にいる。だが、見つからない。典型的な“かくれんぼ”ですね。
アミは一部屋ずつ確認していく。ドアを開け、内部を確認し、次へ。動きに無駄はないが、それでも時間はかかる。
そして───やはり、見つからない。
……ふむ、単純に隠れているだけではない、ということですか。
私は足を止め、耳を澄ます。
音。気配。匂い。
この身体の利点を、最大限に使う。人間だった頃には拾えなかった情報が、今は手に入る。
遠くで、微かな擦過音。規則的ではない。何かが、動いている。
そして──匂い。油のような、金属のような。
生物とは違う、無機質な匂い。
──アンドロイド、ですね。間違いない。
方向は──上。……階上ですか。なるほど。“見つからない”理由が分かりました。
この階をいくら探しても、意味がない。視線を上げる。暗く、廃棄物で塞がれた階段。使われていないのか、照明もほとんど機能していない。よく目を凝らさなければ、階段があることにすら気付かないでしょう。
ですが、痕跡はある。わずかな埃の乱れ。踏まれた跡。明らかに最近のもの。
……分かりやすいですね。少なくとも、今の私には。
さて、どうしましょうか。このまま彼女に知らせる方法はない。鳴く?論外です。そんなことで意図が伝わるとは思えない。
ならば──先に行く。それが最も効率的でしょう。
音を立てずに、廃棄物の隙間を潜り、階段へ。一段ずつ、慎重に。
……久しぶりの感覚ですね。
状況を読み、情報を繋ぎ、最適解を導く。
やはり、悪くありませんね。こういうのは。
むしろ、少しばかり楽しいとすら思っている自分がいます。
──結論から言えば、予想は当たりました。
階段を上がりきった先。崩れかけたフロアの一角。壁の陰、視界の死角になる位置に──それはいました。微動だにせず、息を潜めている。……いや、息はあまりしていないのでしょうが。音も、ほとんどない。
間違いありませんね、コイツが犯人でしょう。
幸い、こちらにはまだ気づいていない。
ならば、選択は一つです。
前足に力を込め、背を低くする。そして──
「──フシャアッ!!」
威嚇。鋭く、短く。空気を裂くような音。それは、静寂を一瞬で壊すには十分でした。
アンドロイドの頭部が跳ねるようにこちらを向く。視線が合い、わずかな遅延の後、状況を認識したのか、身体が大きく動く。
──パニック状態。そう表現するのが適切でしょう。次の瞬間、そいつは暴れ出した。無秩序に。 周囲の瓦礫を蹴り飛ばし、壁にぶつかり、逃げ場を探すように動き回る。だが同時に、こちらへの警戒も解いていない。視線が外れない。
……なるほど。“追い詰められている”状態ですね。だからこそ、予測がしやすい。こちらに向かってくる。
私は反射的に、走り床を蹴る。軽い身体は、この状況では利点だ。狭い隙間をすり抜け、崩れた棚を飛び越え、壁を駆け上がるようにして回避する。背後で、何かが壊れる音。追ってきていますね、執拗に。
……ええ、分かっていますよ。囮です。自覚はあります。
だが、それでいい。時間を稼げれば、それで十分です。
再び飛び、配管の上へ。細い足場ですが、人間なら不安定な場所でも、この身体なら問題ない。バランスを取り、方向を変える。下で、アンドロイドが手を伸ばす。わずかに届かず、その差が、致命的になる。
下階から、音が、響く。複数の足音。
そして──
「……っ、こっちです!」
彼女の声。来ましたか。タイミングとしては、ほぼ理想的です。
そして、次の瞬間。視界の端に、彼女の姿が映る。
「ケっ……ケントさん!?」
驚愕。当然です。車に置いてきたはずの猫が、なぜか犯人と同じフロアにいるのですから。
ですが、その驚きは一瞬で消え、すぐに視線が切り替わる。対象は、犯人へ。表情が変わり完全に、“戦う顔”。
ショットガンを構える、その無駄のない動き。変わっていないようで安心しましたよ。
彼女は引き金に指をかける。
「動かないでください!」
警告。意味があるかどうかは別として、手順は踏む。だが、相手は止まらない。むしろ、こちらへと向きを変える。
標的の変更。……当然の判断です。人間の方が脅威ですから。そして、発砲と轟音が狭い空間に反響する。衝撃と共に犯人の身体が揺れる。
だが、まだ倒れない。まぁアンドロイドなので、そう簡単には負傷しないでしょう。
想定通りですが、それでも厄介です。
続けて、もう一発。距離を詰める。間合いを管理する。彼女の動きは、明らかに洗練されている。心無しか、私が生きている頃よりも動きが素早くなっている気がしますね。
アンドロイドが反撃に出る。腕を振るう──だが、当たらない。
紙一重で回避。彼女の足運びは軽く、重心がぶれない。……見事です。
激戦の末、やがて、アンドロイドの動きが鈍る。
出力の低下、損傷の蓄積。もう限界が近いのでしょう。そして、最後の一撃。乾いた音が響き、そして──崩れる。
完全に、沈黙。動かない。
……終わりですね。
「……確保、しました!」
短く、無線に向けて告げる。外部とのやり取り。 状況報告。必要な手順。
それを終えて──彼女は、こちらを向いた。
視線が合う。数秒間、何も言わずに。ただ、見ている。
──そして。
「……っ」
次の瞬間──距離が一気に詰まり、抱き上げられる。……思っていた以上に抱きしめる力が強いですね。
「よかったぁぁ……」
震えた声。先ほどまでの冷静さが、嘘のように崩れている。
「無事で……本当に……」
腕に、さらに力がこもる。離さないように……失わないように。そのまま、額が触れる。
「……また、いなくなるんじゃないかって……」
ぽつりと、落ちる言葉。
……なるほど。そういうことですか。理解はしていましたが……実際にこうして聞くと、少しだけ、重いですね。
手がわずかに、だが、確実に震えている。
……仕方ありませんね。前足を、そっと伸ばし、彼女の腕に触れる。軽く、ほんの少しだけ。それ以上はできません。言葉もないですし、慰める術も限られている。それでも、伝わるかどうかはともかく。“ここにいる”ということだけは、今の私でも示せるのでね。
「……ケントさん」
小さく、呼ぶ。声が、少しだけ落ち着く。
呼吸が整っていき、腕の力が、ほんの少し緩む。
……ええ。今は、それで十分でしょう。少なくともら、この瞬間だけは。私は、失われていないのですから。
事件が終息した後、私は再び彼女の腕に抱えられ、そのまま車へと戻されました。現場の喧騒はまだ続いていましたが、彼女は必要最低限の引き継ぎだけを済ませると、それ以上そこに留まることなく運転席へと乗り込み、エンジンをかけた。
特に行き先を告げることもなく、ただ静かに車を発進させる。その様子は、いつもの彼女とはどこか違っていて、先ほどまでの緊張が抜けたというよりも、むしろ何かを抱え込んだまま沈んでいるような……そんな重さがあった。
助手席に置かれた私は自然と彼女の横顔を見ることになりますが、その表情は普段の柔らかさを欠き、どこか神妙で、思考の奥深くに沈み込んでいるように見えます。だからでしょうか。車内には会話が一切生まれませんでした。エンジン音と走行音だけが一定のリズムで響き、時間だけが淡々と流れていく中で、彼女は一度も口を開かず、私もまた無理に何かを起こす気にはなりませんでした。こういう沈黙は、嫌いではありませんが、今日は少しばかり質が違うように感じます。
やがて街並みが途切れ、視界の先に緑が増えていき、道路は緩やかにカーブを描き始める。どうやら山道に入ったようですね、と判断した頃、ようやく彼女が小さく息を吐き、そしてぽつりと口を開きました。
「……あのね、ケントさん。この世界には、“健人”っていう人がいたんですよ。」
その名前が出た瞬間、空気がわずかに変わるのが分かりました。これまでほとんど触れられることのなかった話題。それを自ら切り出したという事実だけで、彼女の中で何かしらの整理、あるいは決意のようなものがあったのだろうと察せられます。
視線は前を向いたまま、しかし言葉はゆっくりと紡がれていく。
「あの人は……私の、大切なパートナーで。
それでいて……私の、大切な幼なじみだったんです」
えぇ、知っています。何せそれが私ですので。
……あの頃は、本当に酷いことをしましたね。幼馴染であった貴方に、甚だしい言葉を投げかけて。
……嗚呼、だから、私はこんなにも早く死んだのでしょうか。これが罪を犯した結末というやつですかね。
「でも………あの日。
右足と……胸を、銃で撃たれて……雨の中、一人で倒れていたそうです」
淡々とした語り口でしたが、その一文一文にはわずかな震えが含まれていて、完全に感情を切り離せているわけではないことが伝わってきた。
なるほど、と私は内心で納得します。
右足と胸、銃創、雨の中での発見──断片的ではありますが、十分すぎる情報です。少なくとも、楽な死に方ではなかったということは確定しましたし、何より「一人で倒れていた」という点が妙に引っかかります。助けは来なかったのか、それとも間に合わなかったのか、その辺りは分かりませんが、いずれにせよあまり愉快な結末ではありませんね。
「……それで」
彼女は少しだけ言葉を区切り、ハンドルを握る手にわずかに力を込めながら、話し続ける。
「ケントさんを見つけた時、なんだか……その時と重なってしまって」
横顔を見れば、目はしっかり前を向いているのに、焦点は少しだけ遠くにあるように見える。
「あのまま放っておいたら、また……って思ってしまって」
なるほど、そういう理由ですか。空き地で雨に打たれていた猫、満身創痍で動けない状態、そしてそれを見つけた彼女の記憶にある“過去の光景”。確かに、条件は揃っています。重なるのも無理はない。だからこそ彼女は迷わず手を差し伸べた。理屈としては非常に分かりやすい。
……ただし、それを“偶然”と片付けていいのかどうかは、少々判断に困るところですが。
「……だから」
彼女は小さく息を吐きます。
「今回は、ちゃんと助けられてよかったです」
その言葉には安堵が含まれていましたが、同時にどこか自分に言い聞かせるような響きもありました。失った過去と、今ここにある存在、その二つを無理やり結びつけることで、何かを埋めようとしているような、そんな印象です。私は何も言えませんし、言う必要もないでしょう。ただ静かにその話を聞きながら、車が進む先を眺めていました。やがて道はさらに奥へと入り、木々の間を縫うように続いていきます。人の気配は薄れ、代わりに静寂が支配する空間へと変わっていく。
そして、しばらく進んだ先で、視界が少し開けた。
遠く、木々の隙間から見えるのは、どこか見覚えのある整然と並んだ石の列。墓地、ですね。言うまでもなく。
車はその方向へとゆっくり進んでいく。
……なるほど。そういうことですか。ようやく、目的地が分かりました。
車はやがて、静かな場所で止まった。エンジンが切られ、外界の音が一層はっきりと耳に届くようになる。風が木々を揺らす音と、どこか遠くで鳴く鳥の声。それ以外は、ほとんど何もありません。
彼女はゆっくりとドアを開け、私を抱き上げると、そのまま迷いなく歩き出しました。足取りは一定で、けれど決して軽くはなく、どこか一歩一歩を確かめるような重さがある。視線の先には、規則正しく並ぶ石碑の列が広がっており、その中の一角へと向かっていくのが分かりました。やがて彼女は、とある場所で足を止めます。そこには三つの墓が並んでいました。一つは、比較的新しいもの。もう一つは、その隣にある、少しだけ古びたもの。そしてさらにその隣、小さめの石碑が寄り添うように建っている。配置からして、関係性は明白でしょう。それに、何度か来たことがあります。
「……ここですよ」
小さく呟くと、彼女はその場にしゃがみ込み、私を腕の中から下ろしました。視線の高さが下がり、石碑の文字が目に入る。
──なるほど。これが、“黒田健人”の墓ですか。
そして、その隣にあるのが……私達の元同僚であり、彼女の姉の黄海と、そのペットであった犬のシロウ。記憶にありますが、こうして並んでいるのを見ると、妙に現実味が増すものです。どうやら、私の墓はその隣に建てられたらしい。
……いや、“私”ではなく、“健人”の墓、ですが。
彼女は墓の前に腰を下ろし、少しだけ姿勢を整えると、ふっと表情を緩めました。先ほどまでの神妙さが嘘のように、意識的に明るさを作っているのが分かる笑みです。
「健人、来たよ」
軽やかな声。まるで、そこに本人がいるかのように。続けて、私の方へと視線を向ける。
「それで、こっちの方はケントさん!」
……紹介、ですか。なるほど。逆もまた然り、というわけですね。
「ケントさん、この人が健人です。私の……幼なじみで、相棒で、えっと……ちょっと性格の悪い人です」
軽く笑いながら、そんなことを言う。
……否定はしません。事実ですので。
「すぐ人をからかうし、意地悪だし、でもちゃんと助けてくれるし……あ、でもたまに本当に面倒くさい時もあってですね」
言葉は自然に続いていく。まるで日常会話の延長のように。今ここにいないはずの“健人”へ向けて、そして同時に“ケントさん”へ向けて、その二つを行き来するように話が進んでいく。時々、彼女が“健人”へ向けていた思いもぽつりぽつりと話していた。
………すみませんね。貴方の気持ちには気付いていたのですよ。ですが、私はそこまで優しい人ではありませんでしたので。いつか、キスの1つでもして揶揄ってやろうかと思いましたが、そんなことは叶わずに死んでしまいましたがね。
「最近はね、この子がよくイタズラするんだよ!
コップ落としたり、急に飛び出してきたりして……本当に、毎度毎度びっくりさせられるよぉ……」
ちらりと私を見る。その目は、確かに楽しげで、どこか懐かしさを含んでいる。
「本当に、なんだか……健人みたいで」
……やはり、そうなりますか。
話は尽きない。あんなこともあった、こんなこともあったと、彼女はぽつりぽつりと語り続ける。仕事の話。日常の話。どうでもいいような小さな出来事まで、丁寧に拾い上げては言葉にしていく。その姿は、どこか必死で、そして同時に穏やかでもありました。──ですが。ある瞬間、ふと。その流れが、途切れる。
「……それで………」
続くはずの言葉が、来ない。ほんの一瞬の沈黙。
ですが、それは明確な“途切れ”でした。私は顔を上げ、彼女を見る。
……あぁ。そういうことですか。
彼女の目から、静かに涙がこぼれていた。声は出ていない。けれど、確かに流れている。先ほどまで無理に作っていた明るさが、そこで完全に崩れたのでしょう。
「……っ」
小さく息を吸う音。次の瞬間、堰を切ったように、感情が溢れ出す。泣き声は大きくはない。むしろ抑えようとしている分、余計に苦しそうに聞こえる。
「……ごめん……ごめんね、健人………」
震える声。貴方が謝る必要はありませんよ。むしろ謝るべきは私の方です。あぁ、そんな顔をしないでください。せっかくの綺麗な顔が台無しですよ。
「ちゃんと……助けるって、約束したのに……」
途切れ途切れに紡がれるそれは、誰に届くでもなく、ただ空気の中に溶けていく。
………さて、どうしますかね。
私はゆっくりと立ち上がり、彼女の方へと近づく。そして、ほんの少しだけ背伸びをして、その頬へと顔を寄せる。
涙の筋。温度。塩の味。ぺろ、と。軽く舐める。
「……ケントさん」
私に気付き、視線が落ちてくる。涙で滲んだ目が、こちらを見る。当たり前に、私は何も言えません。言葉はなく、ただそこにいるだけです。それでも、彼女は、ほんの少しだけ表情を緩めた。
「………ありがとう、ございます」
---
時間というものは、最期に近づくほど、やけに静かに流れるものらしいです。
かつて人間だった頃、終わりというものを意識したことは何度かありましたが、そのどれもが唐突で、乱暴で、考える暇もないままに引きずられていくようなものでした。他人も、自分も含めて。
ですが──今は違う。緩やかに、終わりへと向かっているのが分かる。抗う理由もなければ、抗える余地もない。ただ「あぁ、そろそろですか」と、妙に納得している自分がいるのですから、不思議なものです。
最近は、体を動かすだけでも疲れるようになりました。ほんの少し歩くだけで息が上がり、高い場所へ飛び乗ることも億劫になる。かつては当たり前にできていたことが、一つずつ削がれていく感覚は、決して愉快なものではありませんが、それでもどこか受け入れている自分がいる。猫としての寿命を考えれば、むしろ十分に長く生きた方でしょうし、何より──この時間は、悪くなかった。
彼女と過ごした日々は、穏やかで、少し騒がしくて、そして何より、退屈ではなかった。言葉は通じず、正体も明かせず、それでも隣にいられた時間は、妙に満ち足りていたように思います。人間だった頃には理解できなかった距離感というものを、この身体になって初めて知ったのかもしれません。……皮肉な話ですが。
その日は、特別な何かがあったわけではありませんでした。むしろ、いつも通りの一日だったと言っていいでしょう。彼女は仕事から戻り、少し疲れた様子で靴を脱ぎ、それでも私の姿を見ると、わずかに表情を緩める。その一連の流れも、もう何度繰り返したか分からないほど、日常の一部になっていました。
「ケントさん、ただいま」
柔らかい声。
私は返事の代わりに、ほんの少しだけ顔を上げます。以前のように駆け寄ることはできない。ただ、それでも彼女は何も言わず、ゆっくりとこちらへ歩み寄ってくる。
「……今日は、ここにいるんですね」
床に横たわったままの私を見て、彼女はすぐに何かを察したようでした。無理に抱き上げようとはしない。ただ、その場にしゃがみ込み、そっと手を伸ばしてくる。その手の動きは、いつもよりもずっと慎重で、壊れ物に触れるかのように優しい。
頭を。背を。ゆっくりと撫でられる。
その感触を、ぼんやりと受け止める。
「……大丈夫……大丈夫ですよ……」
彼女が、誰に向けて言ったのか分からない言葉を、ぽつりと落とす。
「ここに、いますから」
その声は少しだけ震えていましたが、それでも崩れないように保たれていました。泣いてはいない。けれど、その一歩手前で踏みとどまっているのが分かる。
……強い人です、本当に。
──視界が、少しずつぼやけていく。
音が遠くなり、感覚が、ゆっくりと薄れていく。
ですが、不思議と不安はありません。恐怖もない。ただ、静かに沈んでいくような感覚だけがある。
最後に、ほんの少しだけ力を振り絞り、前足を動かし、彼女の手に、触れる。
アミは、その手を、優しく包んでくれた。
「……ありがとう、ケントさん」
その言葉が、最後に聞こえたものでした。
──ああ。そうですか。これで、終わりですか。
悪くない。
むしろ、十分すぎるほどに──満足です。
……嗚呼、こんな私でも、最後くらい、望んでもいいのでしょうか。
………どうか。
どうか───“来世も、貴方と共にいれますように”。
---
……結論から申し上げますと。
どうやら私は、また猫になったようです。
……ええ、三度目です。正確には“二度目の猫生”と言うべきでしょうか。人間→猫→猫、という経歴は我ながらなかなかに奇妙ですが、もはや驚きはありません。むしろ「またですか」といった程度の感想しか浮かばないあたり、順応性というのは恐ろしいものです。おまけに、今世も黒猫。私ってそんなに不吉な人間……いや、猫ですかね。
ですが、幸いにも、今回の環境は非常に恵まれています。まず第一に、私は野良ではありません。れっきとした“飼い猫”です。食事は定期的に提供され、寝床は暖かく、危険に晒されることもない。前回のように雨の中で瀕死、などという展開とは無縁です。これは大きな進歩と言えるでしょう。
そして第二に、飼い主です。
これがまた、興味深い人物でして。
前前世──つまり私が人間だった頃、事件の調査の過程で一度関わったことのある少年。あの時はまだ幼く、状況に振り回されるだけの存在でしたが、今ではすっかり成長し、立派な成人男性になっている。時間の流れというものを、こういう形で実感することになるとは思いませんでした。
さらに言えば、その彼の隣には、常に一体のアンドロイドがいます。
補助、あるいはパートナーといった位置付けでしょうか。詳細な事情までは分かりませんが、少なくとも二人の関係は良好で、ぎこちなさや不信感といったものは見受けられない。むしろ、自然に会話し、互いを気遣いながら生活している様子は、ある意味で“理想的な共存”とすら言えるかもしれません。
……なるほど。
時代は、確実に変わっているらしい。
そんな環境の中で、私は毎日を過ごしています。特に使命もなく、義務もなく、ただ撫でられ、食べ、眠る。時折、飼い主に抱き上げられては『かわいいねぇ』と意味のない褒め言葉を浴びせられ、アンドロイドには丁寧にブラッシングをされる。
平和です。拍子抜けするほどに。
ですが、不思議と退屈ではない。このまま、ここで一生を過ごすのも悪くはないでしょう。
そんな、ある日のことでした。
玄関の方から、やけに弾んだ足音が聞こえてくる。
「ただいまー!」
明るい声。いつもより少しだけ高い。明らかに機嫌がいいですね。
私は窓辺で丸くなっていましたが、その様子に違和感を覚え、ゆっくりと顔を上げました。
「よかったねぇ、健人!家族が増えるよ〜!」
……今、何と?家族が増える?
なるほど。つまり、新たな同居人が加わるということですか。人間か、それとも──
思考がそこまで至った瞬間。
──玄関から聞こえてくる、もう一つの、足音。
軽く、静かで。だが、確実にこちらへ近づいてくる。
私はゆっくりと立ち上がり、廊下の方へと向かいました。
角を曲がり、視界が開ける。
そこに、いたのは──猫。
茶色いベースに黒の縞模様の毛並み。いわゆる、キジトラでしょう。
そして、小柄な体格。どこかわんぱくそうな佇まい。
一見すれば、ただの新入りです。
ですが………視線が合った瞬間に、分かる。
貴方は──
『………健人!!』
声が、聞こえた。
いや、正確には“鳴き声”のはずです。傍から見れば、ただの「にゃあ」でしょう。ですが、その中に含まれる意味を、私は理解してしまう。
……なるほど。そう来ますか。
『………お久しぶりです、アミ』
こちらも同様に、ただの鳴き声として発せられる言葉。だが、意味は通じているでしょう。
一瞬の沈黙。そして、距離が、縮まる。
ゆっくりと、確かめるように、互いに歩み寄る。
身体が、額が触れ、温もりが伝わる。
──あぁ、そうですか。
また、会えましたか。こんな哀れな私の願いでも、神は叶えてくださるのですね。
今回は、言葉も立場も違う。過去のように複雑な関係でもない。ただの猫同士。
ですが、それでも……分かるものは、分かります。
飼い主は私たちを撫でながら微笑む。
「もう仲良しだねぇ」
楽しそうな声。当然というかなんというか、何も知らないのでしょうね。
ですが、それでいいです。むしろその方が都合がいい。
私と彼女は、互いに鼻をちょんと合わせた。
傍から見れば、ただの猫同士の挨拶。
ですが、その内側では、静かに再会の喜びを分かち合っていた。
───今度こそ。
少しくらいは、貴方に私の本心を伝えられますかね。
『貴方のことが───どうしようもなく、好きでしたよ』
**口調分からん!!!!**
**ノリと勢いと性癖!!!!**
**ド深夜に二日連続で徹夜し続けて書いたから絶対変なとこある!!!見直してないから知らんけど!!!!!!!**
あとタイトル元の曲ぜひ聞いてみてね⬇
https://www.nicovideo.jp/watch/sm45950299
健人の猫のイメージ姿は⬆のMVに登場するネコです。
にゃんこってかわいいね。
実は、最後のシーンの健アミ(アミ健)の猫の容姿は、アミちゃんの中の人の家の猫を参考にしていたりいなかったり。
情報組用授業サボりルーム⬇
https://ccfolia.com/rooms/NQKj4GYyN