編集者:藤空日一郎
ただ単に書いた小説です。短いものもあれば、長いものもあります。書きたいものを書きます。
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目次
守らないという選択
朝の廊下は、いつもより少し冷えていた。
「葉菜、遅い」
月雪結菜は灰色の制服パーカーのポケットに手を突っ込み、壁にもたれて待っていた。
白いロングヘアの先が、歩くたびに揺れる。いつものことだ。
「ごめん、お姉ちゃん」
葉菜は小走りでやってきて、胸に抱えた本を持ち直す。
結菜は何も言わず、その本を受け取った。
「また読みながら来たんだろ」
「……うん」
小さく笑う妹の横を、結菜は歩き出す。
半歩前。
それが、ずっと当たり前だった。
猫が校門近くで丸くなっているのを見つけて、結菜は足を止める。
「猫」
「本当だ。眠そう」
「授業サボりたい顔だな」
「お姉ちゃんみたい」
「失礼だな」
そう言い返しながら、結菜は少しだけ口角を上げた。
それで十分だった。
姉として、ちゃんとやれている証拠だったから。
---
その日の放課後。
自販機の前で、結菜は一人立ち尽くしていた。
何を飲むか、決められない。
別に喉が渇いているわけでもない。
「……」
缶を取ろうとして、手が止まる。
「月雪」
後ろから声がした。
周防福利。
無愛想で、優柔不断で、少し距離のある先輩。
「……何」
「いや。たまたま」
福利は自販機に硬貨を入れ、缶を取り出す。
沈黙が落ちる。
先に口を開いたのは、福利だった。
「……月雪さ」
結菜は振り向かない。
「もう、強くないよな」
それだけだった。
慰めでも、責めでもない。
ただの事実みたいに、置かれただけの言葉。
結菜は、何も言えなかった。
反論も、冗談も、怒りも出てこない。
胸の奥で、何かが音もなく崩れる。
「……そう」
やっとそれだけ言って、結菜はその場を離れた。
福利は追いかけなかった。
正しかったはずだ、と自分に言い聞かせながら。
---
それからの結菜は、前に出なくなった。
決めない。
引っ張らない。
笑って誤魔化さない。
気づいたのは、葉菜だった。
「お姉ちゃん、荷物持つよ」
「……ああ」
その返事に、力がない。
放課後、ベンチに並んで座る二人。
結菜は地面を見ている。
「無理しなくていいよ」
葉菜がそう言った瞬間、結菜の肩が揺れた。
それが、限界だった。
「……ありがとう」
その言葉は、感謝じゃなかった。
降参だった。
葉菜は、それに気づかないふりをして、姉の袖を引く。
「帰ろう」
この日から、
守る役と、守られる役が、静かに入れ替わった。
---
夜。
部屋の灯りはついているのに、どこか暗い。
結菜はベッドの端に座り、スマホを握ったまま動かない。
「……お姉ちゃん?」
葉菜がお茶を差し出す。
「ありがと」
声が低い。
向かい合って座る。
沈黙。
「……葉菜」
「なに?」
結菜は一度、口を閉じた。
いつもなら、ここで笑って誤魔化す。
でも、今日は違った。
「最近、何もできてない」
葉菜は遮らない。
「強いフリも、姉らしい判断も」
「……全部、無理」
マグカップを握る指が白くなる。
「怖かったんだ」
「葉菜が壊れるのが」
「私のせいになるのが」
結菜は、葉菜を見ない。
「でもさ」
「今は、私のほうが先に壊れてる」
謝らない。
頼らない。
ただ、事実を置く。
「弱いままでも」
「ここにいていい?」
それは懇願じゃなかった。
確認だった。
葉菜は、少しだけ考えてから、隣に座る。
「……うん」
短く、迷いのない声。
「守れないかもしれないけど」
「それでも、一緒にはいられる」
結菜は、目を閉じた。
「……それでいい」
その夜、二人は並んで座ったまま、何も話さなかった。
でも、嘘はもうなかった。
---
少し未来。
結菜は窓際で、校庭を眺めている。
前に出ない。
でも、消えてもいない。
壊れたまま、止まっている。
葉菜は本を閉じて、姉を見る。
「大丈夫?」と聞かないことを、選ぶ。
守らない。
隣にいる。
それが、今の距離。
校門の外で、周防福利は二人を見かける。
並んで歩いている。
でも、前とは違う。
彼は、それ以上近づかなかった。
近づく資格がないと、思ったからだ。
何が起きたかは知らない。
確かめもしない。
ただ、イヤホンを耳に入れて、視線を逸らす。
正しかったのかどうかは、今も分からない。
世界は続く。
壊れたまま。
それでも――
これ以上、壊れない。