男の苦悩。「部屋が狭い、壁が黄ばんでいる、ゴミ袋が動いている。」何が現実で、何が幻覚か。それを、理解するすることは、呼吸をしないことと同じほどに苦しい。
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粗大塵
目を覚ますと、部屋はいつもより狭かった。天井が低いというより、空気が沈んでいる。夜のあいだに、重たいものが静かに積み重ねられたみたいに。
布団から起き上がろうとすると、身体の内側で何かが遅れて動いた。骨ではない。内臓でもない。説明しづらいが、記憶に近いものが、ぐずぐずと起き上がる準備をしている感じだった。僕はそれを待つ癖がある。待たないと、うまく立てない。
六畳一間。流し台。黄ばんだ壁紙。窓は閉め切ってある。外の音は聞こえないはずなのに、どこかで車が詰まっているような気配だけが、絶えず部屋に滞留していた。クラクションの代わりに、低く濁った唸り声が、壁の向こうから滲み出してくる。
昨日、ゴミを出したかどうか思い出せない。ゴミ袋は台所の隅にある。口は縛ってあるはずなのに、わずかに開いていて、そこから甘ったるい匂いが漏れている。果物が腐る手前の匂いに似ている。でも、果物を買った覚えはない。
匂いを嗅いだ瞬間、喉の奥がひくりと動いた。吐き気ではない。飲み込みたい衝動だった。自分でも理由がわからない。嫌悪と欲求が、同じ方向を向いている。
床に目を落とす。畳の縁のあたりに、細い影がいくつも集まっている。光のせいだと思おうとしたが、カーテンは閉まっているし、照明もつけていない。影だけが、勝手に増えて、勝手に重なり合っている。
近づくと、それらは影ではなく、影のような「動き」だった。具体的な形を結ばないまま、這うという行為だけを反復している。進んでいるのか、足踏みしているのかもわからない。ただ、渋滞している。僕は目を逸らした。見ると、確かめてしまう気がしたからだ。
代わりに、壁の染みを数えた。一つ、二つ、三つ。途中から数が合わなくなる。染みが増えているのか、僕の数え方が歪んでいるのか判断できない。判断しようとすると、頭の中が詰まる。さっきから聞こえている唸り声は、もしかすると僕の思考が滞っている音なのかもしれなかった。
ふと、時計を見る。針が動いていない。電池が切れたと記憶してない。でも、記憶そのものが、今は信用できなかった。昨夜、ちゃんと眠ったのかどうかも怪しい。布団は温かいのに、夢の残骸がどこにも見当たらない。その代わり、腹の奥が妙に落ち着かない。何かが孵る直前のような、圧迫感。
ゴミ袋の方から、かすかな音がした。擦れるような、湿った音。交通事故のニュース映像で、マイクが拾ってしまう、路面の音に似ている。
僕は動かなかった。動けば、流れが変わる気がした。この部屋の中で停滞しているものが、一斉にこちらへ向かってくるような、根拠のない確信があった。だから、ただ座っていた。渦の中心に、自分がいることを、薄々理解しながら。
雑怨
雑音は、確実に増えていた。耳を澄ます必要はない。澄ませば澄ますほど、音は輪郭を失い、ただの圧として頭蓋の内側に溜まっていく。冷蔵庫のモーター音。水道管の中を流れるはずの水の気配。どこか遠くで車が進めずにいる、あの低い唸り。
それらが互いに譲らず、部屋の中心で押し合っている。渋滞は解消されない。信号が存在しないからだ。僕は流し台の前に立った。シンクは乾いているのに、底のほうが濡れて見えた。水ではない。光の反射でもない。「濡れていた記憶」が、そこに張り付いているように見える。指を伸ばしかけて、やめる。触れれば、その記憶が僕に移る気がした。
背中がむず痒い。掻いても届かない位置。まるで、皮膚の内側を何かが方向転換しているような感覚。それは移動というより、渋滞中の車列が少しずつ詰め直される感じに近かった。部屋は、僕の身体の延長なのかもしれない。そう思った瞬間、思考が止まった。「止まる」というより、先頭車両が事故を起こし、後続が次々と追突していく映像が頭の中で再生された。
だから考えるのをやめた。きっと僕は、やめることにも、慣れているはずだから。
半額
ゴミ袋は、確実に膨らんでいた。昨日より、という比較はできない。昨日が存在するかどうかも曖昧だからだ。
それでも、袋の表面に浮かぶ皺の数が増えていることだけは、直感的にわかった。皺は規則的に寄り集まり、また離れていく。呼吸しているようにも見える。
近づくと、匂いが濃くなった。甘さは後退し、代わりに鉄に似た気配が前に出てくる。僕はなぜか、それを「懐かしい」と感じた。袋の口から、何かが零れ落ちている。
中身ではない。中身から剥がれ落ちた、概念のようなもの。土留色の液体。床に落ちたそれは、形を持たないまま、畳の目に沿って伸びていく。進行方向は定まらず、何度も詰まり、何度も引き返す。
その動きは、どこかで見覚えがあった。通勤時間帯の交差点。誰も悪くないのに、誰も動けない瞬間。僕は思い出した。この部屋に来る前のことを。
箱
以前、僕は外にいた。 それがいつだったのかは思い出せないが、外という概念だけは、まだ輪郭を保っている。人が多く、音が多く、流れが常に滞っていた。進んでいるようで、何も前に進まない場所。
そこで僕は、立ち止まっていた。立ち止まることしか、できなくなっていた。理由はない。あるいは、理由が多すぎた。身体の内側に、処理しきれないものが溜まり続け、排出口が見つからなかった。
誰かに話せばよかったのかもしれない。でも、話す言葉もまた渋滞のように詰まった。気がつくと、僕はこの部屋にいた。逃げ込んだのか、流れ着いたのかはわからない。ただ、この部屋は、外よりも正直だった。
詰まっているものを、詰まっているままにしてくれる。
ドッペルゲンガー
最近、鏡を見ると違和感を覚える。映っているのは確かに僕なのに、動きが微妙に遅れる。瞬きをすると、遅れて瞬き返してくる。まるで、鏡の向こうでも遅れあるみたいだ。腹の奥の圧迫感は、もはや痛みではない。それは不快だが、同時に安心でもあった。何かが、確かにそこにいる。空ではない。
床の「動き」は、部屋全体に広がっていた。しかし、数は増えていない。増えているのではなく、散らばっているだけだ。それを見て、僕は理解した。これは侵入ではない。分散だ。僕の中にあったものが、外に滲み出し、部屋という容器に広がっている。
渦巻き
ある時から、世界から音が消えた。正確には、区別できなくなった。唸り声も、擦過音も、心臓の鼓動も、同じ層で重なり合い、一つの低い振動になった。ゴミ袋は、もう気にならない。それはゴミではなく、僕が思い悩んだ記憶だ。床の上を這っている「それら」も、怖くはない。あれは移動していない。ただ、佇んでいるだけだ。僕は布団に横になった。天井は、もう低く感じない。部屋と僕の境目が、曖昧になっている。外に出なければならない、という考えが、一瞬だけ浮かんだ。だが、その考えはすぐに詰まり、動かなくなった。ここは渦の中心だ。流れる代わりに、溢れもしない。目を閉じる。何かが這う感覚が、身体の内と外で重なる。それが現実なのか、妄想なのかを確かめる理由は、もうなかった。渦巻きは続く。静かに、確実に。
おわり