一話完結等の短めの話を纏めています。
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目次
白衣の検査印
港町・潮崎にある老舗洋菓子店《ル=ブラン》は、毎朝五時には灯りがともる。その日も焼き上がったスポンジの香りと、溶かしたバターの湯気が、まだ青い夜明けを柔らかく押し広げていた。
だが、その甘い匂いのただ中で、ひとりの男が冷蔵庫の前に倒れていた。
品質管理責任者─|倉科《くらしな》|修一《しゅういち》、四十二歳。
白衣の胸ポケットには、検査用の赤いスタンプ。そのスタンプは、今朝も押されるはずだった。しかし彼の口元には、微かな泡と、アーモンド臭。
毒殺だった。
倉科は店の"良心"と言われていた。原材料の産地、保存温度、製造ラインの衛生状況─どれも厳格に管理し、僅かな異物混入も見逃さない。
その厳しさ故に、店員からは半ば煙たがられていたが、客からの信頼は厚かった。
死因は、検査前に口にした試食用カスタードクリーム。その容器には、彼自身が"合格印"を押している。
─つまり、検査をすり抜けた毒。
事件を担当する刑事が呼んだのは、警察の嘱託としてしばしば協力している女性探偵、|白鷺《しらさぎ》|澪《みお》だった。
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白鷺澪は三十代半ば。淡いグレーのスーツに、無機質なほど整った佇まい。
「検査の流れを教えてください」
彼女は低く、落ち着いた声で尋ねた。
副店長の|高坂《たかさか》|真理子《まりこ》は、きちんと結い上げた髪を揺らしながら説明する。
「朝五時に製造開始。六時半に倉科が各ロットからサンプルを抜き取り、温度と成分をチェックします。その後、合格印を押す。それがないと販売できません」
「試食は?」
「彼自身が必ず一口、口にします」
「誰かが手を加える余地は?」
「…ありません。材料は前夜に仕込み、冷蔵庫で保管。鍵は倉科と私だけが持っています」
澪は冷蔵庫の取っ手に指を滑らせた。
うっすらと、粉。
「これは?」
若いパティシエの|藤堂《とうどう》|航《わたる》が答える。
「…アーモンドパウダーです。昨日、タルトを作ったので」
「粉は昨日の夜から付着していましたか?」
「いえ…朝、気づきました」
澪は僅かに目を細めた。
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【証言】
<1.藤堂航(25歳・パティシエ)→「倉科さんは厳しい人でした。でも正しい。昨日も、僕の仕入れた卵の温度管理を指摘されました。正直、腹は立ちましたけど…殺す理由にはなりません」彼は真面目で、少し神経質。>
<2.高坂真理子(38歳・副店長)→「彼は理想主義者でした。利益より品質。けれど今月、コスト削減の話が出ていて…」《誰が提案したのですか?》「店長の…安西です」>
<3.|安西《あんざい》|隆《たかし》→「うちは家族経営だ。品質は守るさ。ただ、原材料を少し見直すだけ。海外産に変えるとか、ね。倉科は反対した。だがそれだけだ」安西は柔和な笑みを浮かべるが、その指先は落ち着かずテーブルを叩いていた。>
<4.|小宮山《こみやま》|瑠唯《るい》(31歳・配達員・目撃者)→「朝五時半頃、裏口で副店長を見ましたよ。何か白い袋を持ってた」《どのくらいの大きさですか?》「手のひらサイズ。粉っぽかったな」>
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澪は製造記録を一枚ずつ確認する。
「試食用クリームは、どのロットから?」
「昨日の夜に仕込んだ分です」
「…検査前に、容器は開封されています」
「え?」
「蓋の内側に指紋が二種類。倉科さんのものと、もう一つ」
警察の鑑識結果が届く。
副店長・高坂の指紋。
「わ、私は確認しただけです!」
「確認とは?」
「冷却温度が心配で…少しだけ開けました」
澪は静かに首を振る。
「アーモンド臭。青酸系の毒物です。粉末状で、アーモンドパウダーに紛れ込ませやすい」
厨房の粉。白い袋。冷蔵庫の鍵。
「品質検査は、製造後に行われる。しかし、試食用サンプルだけは事前に取り分けられている。そこが盲点でした」
澪は続ける。
「つまり─検査そのものを逆手に取った。倉科さんは"自分が安全を保証する"と信じて疑わなかった。だからこそ、自分の口に入れるものに警戒しなかった」
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高坂は崩れるように椅子に座った。
「彼は…店を守ろうとした。でも、理想ばかりで…」
「利益が出なければ、従業員は解雇される可能性もあった」
澪の声は静かだ。
「あなたは安西店長と、原材料の変更を進めていた。しかし倉科さんは内部告発を考えていた」
証拠は、彼のノートに残されたメモ。"消費者庁へ報告予定"。
「…私は、店を守りたかっただけ」
「守るとは、誰を?」
その問いに、彼女は答えなかった。
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事件は解決した。だが、《ル=ブラン》は一時営業停止となった。
澪は店の前に立つ。
「品質とは、信頼の積み重ねです。検査印はただのスタンプではない」
刑事が問う。
「あなたなら、どう守りますか」
「…少なからず、人を殺して守れる品質など、存在しません」
港から吹く風が、甘い匂いを運ぶ。それはまだ、どこか痛みを含んでいた。
白鷺澪は振り返らずに歩き出す。
検査という制度の隙間に落ちた罪。だが真実は、必ず浮かび上がる。
白衣に押された赤い印は、もう二度と使われない。
それでも─誰かが、正しく押し直さなければならないのだ。
最後まで読んでくださりありがとうございます。
何のトリックもない簡単なお話でしたが、今後もゆっくり活動を続けていきますので、どうぞよろしくお願いします。