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目次
#01
--- ある日の食堂 ---
食堂の隅っこ、ガヤガヤとした喧騒がまるで遠い世界のことのように聞こえる場所で、レイラはザンカが作ってくれたカツサンドを頬張っていた。カリカリの衣と肉のジューシーさ、ソースの味がじんわりと口いっぱいに広がる。いつも通りの味なのに、どこか今日のカツサンドは特別な味がした。
「おぉい、レイラ!」
弾むような大きな声に呼ばれ、視線を向ける。そこには、いつものメンバーであるエンジン、リヨウ、ザンカ、そして、その隣に見慣れない男の子が立っていた。
「……遅いぞ」
レイラがぶっきら棒に言うと、エンジンはへらへらと笑いながら答える。
「あははは、わりぃわりぃ。こいつらが揉めててな」
「あっそ」と呟き、再びカツサンドに意識を戻そうとしたそのとき、ふと、横に立つ男の子に目を留めた。どこか冷たい瞳をしているのに、その奥には強い意志が宿っているように見える。
「そういえば、あんたは……」
レイラが問いかけると、男の子は少しだけ警戒した様子で、しかしはっきりと名乗った。
「俺は……ルド」
「ルドねぇ」
レイラは、その響きをそっと口の中で転がす。なぜか懐かしく、そして少し切ないような、不思議な感覚が胸をよぎった。
「ルドっていう名前の響き、ええなって思うんじゃけど、ザンカはどう思うん?」
レイラがふと、隣に座るザンカに尋ねた。
「ん? なにがじゃ?」
きょとんとしたザンカの返事に、レイラはムッとする。
「はぁ、ぶっちゃけんそ」
「ふざけとらんわ! なんで俺が、お前の頭ン中のことまで読まにゃいけんのんじゃ」
レイラとザンカのいつもの口げんかが始まると、エンジンが呆れたようにため息をついた。
「お前ら、まだそんなガキみたいな喧嘩すんのかよ」
エンジンの言葉が、なぜか胸に刺さった。何が気に食わないのかもわからず、レイラは不機嫌そうに小さくため息をつく。——まだ“ガキ”なのは、お互い様じゃないか。そんな言葉が喉まで出かかったが、彼女はそれを飲み込んだ。
「…チッ、なんじゃとそんなん俺が一番分かっとるわ」
ザンカは吐き捨てるようにそう言い、不機嫌そうに顔をそむける。
--- レイラの部屋にて ---
食堂での喧騒が嘘のように、部屋の中は静まり返っていた。ベッドに腰掛けて、レイラはぼんやりと天井を見上げる。
「ふぁあぁ、暇だべぇ……」
ぽつりと呟く。先ほどの食堂での出来事が頭の中でぐるぐると巡っていた。
(そういえば……人器の手入れ、したっけな)
暇を持て余したレイラは、いつものように人器である刀に手を伸ばす。柄を握りしめ、その刃を丁寧に磨き始めた。静かに刀を磨く手元を見つめていると、不意に、遠い昔の祖父の声が脳裏に蘇る。
---
『お主は、今は名を持たぬが……いつか、名を与えてくれる者が現れる』
祖父の温かい声。優しく、そして力強く語りかけてくれたその言葉が、今も鮮明に心に残っている
---
「……っくす。あんなふうに言うたくせに、じいちゃんも名前なんてなかったくせに……」
ポツリと、誰に聞かせるでもなく呟く。祖父への慕情と、名を持たなかったことへの寂しさが複雑な感情が入り混じり、レイラの胸を締め付けるが彼女は刀を磨く手を止めなかった。
--- 数分後 ---
刀の手入れを終え、レイラはベッドから立ち上がる。
「……さすがに1人は暇やなぁ」
窓の外に広がる、いつもの奈落の景色。その光景を眺めながら、レイラの心は決まっていた。
「……散歩でも行ってくるっしょ」
レイラは、静かに部屋を出た。
🔚
#02
--- 夕方 ---
廊下で、ルドとエンジンが顔を合わせる。
「なぁルド、レイラのこと嫌わないでやってくれ」
エンジンはいつもの調子で言う。ルドは「は?」と不審そうな顔をした。
「なんでだよ」
エンジンは少し目を伏せて、言葉を続けた。
「昔、レイラはずっとザンカ以外の人と交流がなかったんだ。だから、あいつのことを……」
言葉を遮るように、ルドが尋ねた。
「そういや、レイラとザンカを保護したのって何年前なんだ?」
「なんだよ、いきなり」
「なんだって……ザンカは17歳で、レイラが16歳だろ?だから、気になっただけだろ!」
エンジンは一瞬呆れたような顔をして、ため息をついた。
「……お前、ザンカの年まで知ってんのキモいぞ」
ルドはムキになり、エンジンの胸ぐらに掴みかかった。
「レイラから聞いたんだよ!」
「ふっ。ザンカとレイラ、同い年だぞ」
その言葉に、ルドは固まる。
「はぁ!? あの女、嘘つきやがって!」
「んまぁ、ルド。これだけは覚えとけ。あいつは嘘なんてつかねぇぞ」
「は?」ルドは理解が追いつかない。
エンジンの口元が弧を描く。
「レイラの誕生日、あと数ヶ月先だぜ」
「はぁ! ふっざけんな! てめぇ!」
ルドが叫び、エンジンに殴りかかろうとする。エンジンはそれをひらりとかわし、からかうように笑っていた。
ルドは叫びながらエンジンに殴りかかろうとするが、エンジンはそれをひらりとかわし、笑い声を響かせた。
「はぁ、怒るなよルド。どうしたんだよ、そんなにムキになって」
「うるせえ! 嘘つきは嫌いだ! レイラは俺に嘘をついた! ふざけやがって!」
「だから、あいつは嘘なんてついてねぇって言っただろ?」
ルドは息を荒くして、エンジンを睨みつける。
「嘘じゃねぇか! あいつは俺に16歳だって言ったんだ!」
「16歳だろ?」
エンジンの返答に、ルドは一瞬言葉を失った。
「は……?」
「16歳だよ。ただ、誕生日がまだ来てねぇって話だろ」
エンジンは肩をすくめて、ルドをからかうように続ける。
「お前、レイラに年齢聞いた時、ザンカにも聞いたのか?」
「……いや、レイラだけだ」
「だろうな。あいつはザンカの年齢まで言ってないし、お前も聞かなかった。だから、お前は勝手にレイラがザンカより年下だと思い込んだだけだ」
「ぐっ……!」
ルドは言い返せず、悔しそうに歯を食いしばる。エンジンの言葉が、ぐさりと胸に刺さった。自分が勝手に勘違いしていたのだと理解し、怒りの矛先を失った。
エンジンはルドの様子を見て、笑いをこらえきれずに、腹を抱えて笑い出した。
「あははは! お前、マジで面白いな!」
「うるせえっ!」
ルドは顔を真っ赤にして、恥ずかしさでいっぱいになった。
「てめぇ、俺を馬鹿にしてんのか!」
「いやいや、馬鹿にはしてねぇよ。ただ……」
エンジンは笑いながら、ルドの肩をポンと叩いた。
「ほら、言ったろ? あいつは嘘なんてつかねぇって。ただ、お前が勝手に勘違いしただけだ。それをあいつのせいにするのは違うだろ?」
ルドは何も言い返せず、俯いた。エンジンの言葉に、何も言い返せないほど正論だった。
「ま、いいじゃねぇか。レイラの誕生日、楽しみにしとけよ」
そう言って、エンジンはルドの横を通り過ぎていった。
ルドは一人、廊下に立ち尽くし、悔しさと恥ずかしさでいっぱいになっていた。そして、レイラに会った時に、どういう顔をすればいいのか分からなくなっていた。
🔚
#03
ルドは一人、廊下に立ち尽くしていた。エンジンが去った後も、自分の顔が熱いのがわかる。怒り、恥ずかしさ、そして少しの情けなさ。それらがごちゃまぜになって、胸の中で渦巻いていた。
「くそっ……俺が勝手に勘違いしただけ……か」
呟いた言葉が、廊下に虚しく響く。
(そうだ。あいつは何も嘘をついていない。俺が勝手に……)
そう頭では理解しても、どうにも釈然としない。レイラの態度を思い返せば、別に年齢をごまかそうとしている風には見えなかった。ただ単に、ルドが聞き足らなかっただけ。だが、その結果、自分が盛大に勘違いし、エンジンに馬鹿にされたのだ。
「ああ、最悪だ……」
壁に背を預け、ずるずるとしゃがみ込む。レイラの顔を思い浮かべると、どうにも気まずい。次に会ったら、どんな顔をして接すればいいのだろうか。
「……別に、謝る必要はないだろ」
そう自分に言い聞かせる。謝るべきことなど何もない。ただ、自分の勘違いを彼女に知られるのが恥ずかしいだけだ。
「……いや、待てよ」
ふと、ルドは閃いた。
(このまま、なかったことにすればいいんじゃねぇか?)
(そうだ。俺が勘違いしたことなんて、レイラも知らない。エンジンはバラすようなやつじゃないだろう。このまま何事もなかったかのように振る舞えば、何も問題ない)
よし、そうしよう。そう心に決め、ルドは立ち上がった。
その時、背後から声がした。
「ルド?なして、こんなところさ」
ゾワリと、背筋が凍りつく。
振り返ると、そこにはレイラが立っていた。手に何かの荷物を持っている。
「っ、レイラ!」
「……顔、真っ赤だよ。熱でもあると?」
レイラは不思議そうに首を傾げた。その表情はいつもの通り、無感情で、ルドの動揺など少しも知らないといった様子だ。
「ち、違う! なんでもねぇ!」
「そうけ……? けったいなやつ」
レイラは興味なさげに、ルドの横を通り過ぎようとする。ルドは慌てて、彼女の腕を掴んだ。
「お、おい! お前、今からどこに行くんだ!?」
「ザンカのところに、荷物を届けに…なんもさ」
「いや……なんでもねぇ!」
ルドは掴んだ腕を離し、再び口を閉ざした。どうにも言葉が出てこない。この場で「誕生日、いつなんだよ」なんて聞けるわけがない。
レイラは小さく首を傾げた後、再び歩き出した。その背中を見つめながら、ルドは心の中で叫んだ。
(ああ、もうダメだ……やっぱり、恥ずかしい……!)
🔚
#04
--- 翌朝 ---
食堂にて
「ルド、悪いんじゃけど、レイラ起こしてくれん?」
ザンカが言うと、ルドは
「はぁ!? なんで俺が!」
と反発した。
「悪いけど、俺は今からアイツのカツサンドを作ってやらんといけんのじゃ。あれがないと、朝からキレるんよ、アイツ」
ザンカの言葉に、ルドは
「だ、だったらエンジンかリヨウに頼めばいいだろ!」
と反論する。
だが、当のエンジンとリヨウは顔を見合わせ、苦笑しながら答えた。
「俺があいつの部屋に入ると、出てけって言われるんだよな」
「私が部屋に入ろうとすると、警戒されるのよね」
「おいおい、お前ら昔っからの付き合いだろ!」
ルドが言うと、ザンカが困ったように返す。
「昔っからいるって言われても困るわ。エンジンから聞いたと思うが、レイラは俺以外のやつと仲良くできなかったやつだからな」
「っ…あー、もう、わかった!」
そう言って、ルドは食堂を後にし、レイラの部屋へと向かった。
「あいつ、大丈夫か?」
エンジンの心配そうな声に、ザンカが|鷹揚《おうよう》に答える。
「大丈夫だろ」
「ま、正直、あいつ朝は機嫌悪いからなあ」
そうエンジンが言ったらリヨウは面白そうに笑いながら、そう付け加えた。
--- レイラの部屋の前 ---
(アイツの部屋の前まで来たのはいいけど、なんか気まずいな……)
ルドは内心そう思いながら、ノックをする。ドアの向こうから物音が聞こえたが、返事はない。
痺れを切らしたルドがもう一度ノックをしようとした、その時、内側から再び激しい物音が響いた。
「おい、レイラ!開けるぞ!」
ルドは勢いよくドアを開けた。ベッドの横に、レイラが倒れ込んでいるのが見える。
「おい、お前!どうしたんだよ!」
ルドが駆け寄ると、レイラは顔をしかめ、不機嫌そうに答えた。
「だぁもう……あんべわりい、あんべわるい!」
「は?何言ってんだお前」
「あー、うるさい、ボケ!」
レイラは叫ぶと、床に散らばっていた本をルドに向かって投げつけた。ルドは間一髪でそれを避ける。
「はぁ!? お前、何してんだ!」
「今は機嫌悪いんじゃい!」
ルドは「はあ!?」とキレ気味に言い返した。
「そういや、ザンカがお前にカツサンド作ってくれるって言ってたぞ!」
「カツサンド……?」
ルドは戸惑いながら言ったが、レイラの反応はそれだった。
「あ、あぁ」
「ザンカが……作ってくれたカツサンド……?」
「そうだって言ってんだろ」
その言葉を聞いた途端、レイラの目がまんまるになり、部屋を飛び出して食堂へと向かっていった。
🔚
#00
名前: レイラ
年齢:17歳
性別:女子
身長:165cm
人器:マフラー 刀
所属:掃除家「アクタ」
誕生日:7/1
容姿:ザンカと同じ前髪だが、逆向きにセットしており襟足がぴょこんと跳ねている
服装はザンカと同じデザインのズボンを着用でウエスト部分には、エンジンからもらった大切なマフラーを身につけている。
マフラー
人器名
「風読み」
能力: 遠距離・広範囲の|人通者《ギバー》マフラーを触媒とし、マフラーの切れ端や糸を無数の刃物のように飛ばして操り、風の流れを読み取り、相手の動きや能力を予測する索敵能力にも優れている。戦闘時は、マフラーの糸を張り巡らせて結界を作ることで、侵入者を捕縛したり、糸で切断したりする
---
刀
「刻風(ときかぜ)」
能力: 近距離・一点突破の|人通者《ギバー》。風の流れを読んだ情報をもとに、一瞬の隙を突いて正確な斬撃を放ち斬撃はただ切るだけでなく、風の流れを操り、相手の動きを鈍らせたり、人器の能力を一時的に無効化させたりする効果を持ってる
#05
レイラが食堂に飛び込んできたとき、ザンカはまさにカツサンドを仕上げているところだった。
「ザ、ザンカ!」
目を輝かせながら駆け寄るレイラに、ルドが呆れたような顔で後を追う。
「なんだよ、さっきまであんなに機嫌悪かったくせに!」
レイラはルドを無視して、ザンカの作業台に視線を釘付けにする。
「カツサンド、ホンマに作ってくれたん?」
「お、おう。ちょうど今できたとこじゃ」
ザンカが差し出した皿の上には、こんがりと揚がったカツが挟まれた、分厚いカツサンドが乗っていた。
レイラは無言でそれを受け取ると、大口を開けて豪快にかぶりつく。
「んんん!やっぱこれやないとアカンわ!」
満面の笑みでカツサンドを頬張るレイラを見て、リヨウとエンジンが顔を見合わせる。
「やれやれ。朝のカツサンドが、レイラの機嫌のバロメーターなのね」
「まったくだ。あいつの機嫌を直せるのはザンカだけか」
呆れ顔のルドがザンカに声をかけた。
「おい、ザンカ。お前、あいつの機嫌の取り方、よくわかってるな」
「まぁな。昔から、これでどうにかなるから楽なんじゃ」
ザンカはそう言いながら、レイラの隣に座った
その様子を見ていたルドは、少しだけ羨ましそうな表情を浮かべる。
(俺も、いつか…)
そんなルドの視線に気づいたリヨウが、そっと声をかける。
「ルド、大丈夫よ。いつかあなたにも、そういう特別な人ができるわ」
「な、なに言ってんだよ!」
ルドは顔を赤くして反論するが、リヨウはからかうように笑うだけだった。
食堂には、カツを揚げる音と、カツサンドを頬張るレイラの幸せそうな音、そして仲間の軽口が響き渡っていた。
🔚
#06
ザンカが隣に腰を下ろしたことで、レイラはさらに機嫌が良くなった。カツサンドを一口食べ、もう一口と頬張る彼女は、まるで小さな子供のようだ。その無邪気な姿を、ザンカはどこか満足げな表情で見つめている。
「ねぇ、ザンカ」
口いっぱいにカツサンドを頬張りながら、レイラが話しかける。
「今度さ、もっとでっかいカツサンド作ってくれへん?」
「欲張りなヤツじゃのう」
ザンカは呆れたように笑いながら、しかしその声はどこか嬉しそうだ。
「どんだけでかいのがええんじゃ?」
「んー……そうやな、僕の顔くらいのでっかいヤツ!」
レイラはそう言って、両手で自分の顔の輪郭を描いてみせる。
「ハハ、そりゃまた大作じゃな。腕がなるわ」
ザンカの言葉に、レイラは嬉しそうに飛び跳ねた。
そんな二人の様子を、ルドはやっぱり少し羨ましそうに見ていた。特別なカツサンド。特別な笑顔。特別な関係。自分にはまだ、そんな「特別」が何なのか、どうすれば手に入るのか、まだよくわからない。
そんなルドの心情を察したリヨウが、再びそっと寄り添う。
「ね、ルド。いつかあなたも、誰かの特別な存在になれるわ」
「はぁ!できねぇよ」
「そう?あなたには、あなたの良さがあるのに」
リヨウはそう言って、ルドの頭を撫でる。
不意打ちの優しさに、ルドはますます顔を赤くして、恥ずかしそうに俯く。
「な、なんだよ、リヨウ……!やめろって!」
そんなルドの様子を、エンジンがからかうように見つめていた。
「お?ルドもすっかりリヨウに懐いてるじゃないか」
「う、うるせぇ!」
ルドの反論もむなしく、食堂には笑い声が響く。
レイラのカツサンドを頬張る音、ザンカの優しい視線、リヨウの温かい手、エンジンのからかうような声。
それぞれの「特別」が重なり合い、食堂は温かな空気に包まれていた。
いつもの日常。いつもの仲間。
奈落の底から這い上がってきた彼らにとって、この穏やかな時間が何よりも尊い宝物だった。
ルドは、いつか自分も、誰かにとってそんな特別な存在になれることを信じて、カツサンドを美味しそうに頬張るレイラを改めて見つめるのだった。
🔚
#07
ルドは照れくささから、さらに深く俯いた。リヨウの優しい手が頭から離れ、少し寂しさを感じたが、それを悟られないよう、カツサンドを頬張るレイラのほうへと視線を向ける。
「な、なんか、カツサンドが美味しそうに見えてきた……」
ルドがぽつりと呟くと、それを聞いたレイラは、はっとしたように自分の持っているカツサンドをまじまじと見つめた。そして、何かを決意したかのように、そのカツサンドを半分に割る。
「はい、ルド!」
差し出されたカツサンド。レイラの口元には、かすかにソースがついている。
「え、でも、お前のだろ?」
「ええねん!半分こや!」
にこやかに微笑むレイラに、ルドは戸惑いながらも、そのカツサンドを受け取った。
「あ、あぁ……ありがとな」
一口食べると、ザンカが腕によりをかけて作ったカツサンドは、驚くほど美味しかった。カリカリに揚がった衣に、ジューシーな豚肉。そして、絶妙な甘辛さのソースが、口いっぱいに広がる。
「うまっ……!」
「やろ?」
誇らしげに胸を張るレイラ。そんな二人を、ザンカは優しい笑顔で見つめている。特別なカツサンドを、特別な相手と分かち合う。そんな小さな出来事が、ルドの心に温かい火を灯した。
「ほら、ルド。お前も負けてられねぇぞ」
エンジンが、ルドの背中をポンと叩く。
「お前には、お前を特別に思ってくれるヤツが、きっと現れる」
エンジンの言葉に、ルドはリヨウをちらりと見る。リヨウも、ルドを見て、にっこりと微笑んでいた。その笑顔に、ルドは再び顔を赤くする。
「な、なんだよ」
「なんでもねぇよ。ただ、お前の笑顔が見たくなっただけ」
リヨウの言葉は、ルドの心をくすぐる。照れ隠しにカツサンドを頬張るルドの姿を見て、また、食堂に笑い声が響いた。
奈落の底から這い上がってきた彼らの日常は、特別じゃないかもしれない。でも、この温かな日常こそが、何よりも特別な宝物なのだ。
それぞれの「特別」が重なり合い、温かい空気に包まれた食堂。ルドは、いつか自分も、誰かにとってそんな特別な存在になれることを信じて、残りのカツサンドを頬張った。その味は、いつにも増して、甘く、温かく感じられた。ルドは照れくささから、さらに深く俯いた。リヨウの優しい手が頭から離れ、少し寂しさを感じたが、それを悟られないよう、カツサンドを頬張るレイラのほうへと視線を向ける。
🔚
#08
ルドがカツサンドを飲み込むと、遠くで食堂のドアが開く音がした。振り返ると、そこにはタムジーが立っていた。いつも通り無表情だが、その視線はまっすぐにルドたちに向けられている。
「タムジー、もうご飯の時間か?」
ザンカが声をかけると、タムジーは静かに首を横に振った。
「掃除道具の点検だ。ルド、お前も来い」
タムジーの言葉に、ルドは慌てて残りのカツサンドを口に放り込む。
「おう、わーったよ!」
リヨウがルドの頬についたソースを拭うと、ルドはまた顔を赤くして俯いた。
「もう……!」
「ほら、早く行きなさい。遅れるわよ」
リヨウの言葉に背中を押され、ルドはタムジーの後を追う。
タムジーは無言で歩き続け、ルドも無言でその後を追う。静かな廊下に、二人の足音だけが響く。
「……なぁ、タムジー」
ルドが意を決して話しかける。
「ん」
タムジーは、振り向くことなく答えた。
「俺、いつか、あんたにも特別なもの作ってやるよ」
ルドの言葉に、タムジーの足が止まる。タムジーはゆっくりと振り返り、ルドをじっと見つめた。
「特別、か」
タムジーは静かに呟くと、ふっと口元に笑みを浮かべた。
「……期待してる」
その言葉に、ルドは驚き、そして嬉しくなった。特別じゃないかもしれない。でも、この温かな日常こそが、何よりも特別な宝物なのだ。
廊下を歩く二人の背中に、いつものように優しい光が降り注ぐ。この穏やかな時間が、いつまでも続くようにと、ルドは心の中で願うのだった。
🔚
#09
タムジーの後ろを歩きながら、ルドは不意に口を開いた。
「なぁ、タムジー」
「…なんだ」
タムジーは無表情なまま、淡々と答える。
「俺、いつか、あんたにも特別なもの作ってやるよ」
ルドは、食堂で見たザンカとレイラのやり取りを思い出していた。特別なカツサンド。特別な笑顔。自分にも、誰かに特別なものを作ってあげられるかもしれない。
「…特別なもの、か」
タムジーの足が止まる。
「別にいらない」
「なんでだよ!」
「…必要ない」
タムジーは、冷たく言い放つ。
「そんなこと言うなよ!俺が作ってやるんだから、いいだろ!」
「…お前の特別なものなど、必要ない」
タムジーは、ルドに背を向けて再び歩き出した。
「待てよ、タムジー!」
ルドは、タムジーの背中に向かって叫んだ。
「俺は、あんたに、特別なものを作ってやりたいんだ!」
タムジーは、立ち止まり、静かに振り返った。その表情は、いつものように無表情だったが、ルドは、その奥に、ほんの少しだけ、感情の揺らぎを感じた。
「…好きにしろ」
タムジーは、それだけを言い残し、再び歩き出した。
ルドは、その背中を見つめながら、拳を握りしめる。
「見てろよ、タムジー。いつか、あんたにも、俺の特別なもの、食わせてやるからな!」
ルドの言葉は、静かな廊下に響き渡る。
奈落の底から這い上がってきた彼らの日常は、特別じゃないかもしれない。でも、この温かな日常こそが、何よりも特別な宝物なのだ。
それぞれの「特別」が重なり合い、温かい空気に包まれた廊下。ルドは、いつか自分も、誰かにとってそんな特別な存在になれることを信じて、タムジーの背中を見つめるのだった。
🔚
#10
--- 数日後 ---
車の中でどこかへ移動していた
「そういえば今日どこに行くんだ」
とルドがザンカに答えた
「俺が知るかよ」
「そうだそうだ僕ら20分前に起きたばかりなんじゃ__あぁ頭が回らん__」
と眠そうに答えるザンカとレイラだった
「お前らほんっとうに昔からかわんねぇな」
そう運転してるエンジンが言った
「え、そうなのか」
と目を丸く言った
「あぁ‘’特に‘’レイラはな!」
「はぁ!ふざけんなエンジンお前も大概やぞ」
「なんだと!」
「いつもだけどお前の部屋の向かい僕やけんいつもいびきうっさいねん」
「全然うるさくねぇわ!」
と喧嘩が始まった
「…レイラ明日カツサンド作ってやらんぞ」
そう言うとレイラは急に黙り込む
---
とある廃墟
「お姉ちゃん、早く遊ぼぉヨォ」
幼さが残る見た目の男の子が、甲高い声で言った。
「久しぶりに会えたって言うのにさ」
男の子は不満そうに続ける。
「ねぇ、早く遊ばないと、君の大切な仲間が死んじゃうけど、いいのかなぁ?」
そう言って、男の子は無邪気な笑顔で後ろに立つルドを指差した。
「……お前に、こいつは殺されん」
レイラは低く、静かな声で応じた。
「こいつは『掃除屋』にとって、僕らにとって、逸材で大切な仲間じゃ」
その口調と、背筋を伸ばした立ち姿は、まるでザンカを彷彿とさせた。
「そっかぁ。じゃあ、その男の子傷つけたらどうする?」
その言葉がレイラの耳に届いた瞬間、彼女の中で何かが壊れる音が聞こえそうになった。途端、後ろから2人分の足音が聞こえてくる。
「こんなところにいたんじゃな」
「全くだな」
呆れ声と共に現れたのは、エンジンとザンカだった。
「何ぃ?お姉ちゃん、男まで作ってたの?」
「……?男?なんのこと?」
「お前、どんだけ天然なんだよ」
ルドが思わず突っ込む。
「うっさい、ルド!マジで一回引っ込んどけ!」
「はぁ!?ふざけんな!」
「……君の質問に答えるなら、半分そうじゃな」
ザンカが何かを考えるように顎に手を置き、呟いた。
「?お前らどういう関係なんだよ」
ルドが小声で詰め寄る。
「ん?ねぇザンカ、『男まで作ってた』の意味、何?」
「お前、ザンカと同い年だろ」
エンジンが呆れたように言った。
「お前ら、目の前に敵がいんだぞ!いいのかよ!」
ルドの叫びに、レイラは「あ、そうだった」と間の抜けた声を上げた。
「でもまあいいや。そこのお姉ちゃんにしか興味ないんだぁ」
男の子がそう言った後、ルドが叫ぶ。
「このクソガキ!」
「ルド、落ち着け。一旦冷静になれ。ここは教育係2人の動きを見とけ」
エンジンがルドを制止する。
「ん?教育係2人?どういうこと、エンジン?」
「ん?お前も一応、教育係だぞ」
「はぁ!?そんなん知らん!僕、エンジンとザンカが教育係なのはわかるけど、僕まで!?」
そう言うレイラに、ザンカは厳しい目を向けた。
「さっさとやらんと、明日のカツサンドはなしじゃ」
🔚
#11
「ザンカお前何考えてんきもい」
「昔のこと考えてた」
といい少年に向かって行った
「あ!ずるい僕も!」
「全くあいつら変わらねぇな」
「あ、おい待て」
とエンジンとルドが行った
ーー
ザンカの部屋。
ベッドに横になり、天井を見つめながら呟いた。
「懐かしいな、長髪の時のレイラ……可愛かったな」
「///いやまぁ…………今も、だけど」
その時、ドアがノックされた。
「……どうぞ」
「ザンカぁ、髪とかしてくれへん?」
レイカがひょこっと顔を出す。
「またか。ほら、こっち来い」
「……髪短いから、わざわざとかさなくてもいいだろ?」
ザンカはレイラの髪にブラシを通しながら言った。
「髪は女子にとって武器なんやで?」
「はぁ、女心ってのは分からんもんだな」
「ザンカひっど!僕ら15歳からずっと一緒におるのに!」
その言葉に、ザンカは少し顔を引き攣らせて「そうだったな」と応じた。
ーー
「(( _ _ ))..zzzZZ」
「おい、レイラ……まさか寝てるのか?」
優しく声をかけるが、起きる気配は全くない。
「はぁ、相変わらず手のかかるやつめ」
ザンカは、眠ってしまったレイラを抱き抱えて自室を出た。廊下は静まり返っており、他のメンバーはまだリビングか、それぞれの部屋で休んでいるのだろう。ザンカはゆっくりと、レイラの部屋へと向かった。
ーー
「んぅ……」
「起きたけぇ?」
ザンカの声に、レイラは瞼をこすりながら身動ぎした。いつの間にか、ザンカのベッドではなく、見慣れた自分のベッドの上に寝かされていた。
「あれ……僕、寝ちゃってた?」
「全くじゃ、人の話を子守唄代わりにしとるんじゃけぇ」
ザンカは呆れたように笑い、ベッドサイドの椅子に腰掛けた。
「ごめんてばぁ。ザンカの声、心地いいんだもん」
レイラは悪びれもせず微笑んだその無邪気な顔を見て、ザンカはまた少しだけ昔を思い出した。
「そういや、昔のこと考えてたって言ってたけど、何考えてたん?」
レイラが興味深そうに首を傾げる。
ザンカは少しだけ視線を逸らし、頬をポリポリとかいた。
「……お前が長髪だった頃のことじゃ」
「えぇ!?」
レイラは驚いて飛び起きそうになったが、すぐに恥ずかしさで顔を真っ赤にしてベッドに沈み込んだ。
「///……な、なんで急にそんな昔のこと……」
「なんとなくな。あの頃は色々あったから」
ザンカはふっと優しい目をして、レイラを見つめた。
「まぁ、短い髪も悪くない」
「〜〜っ!」
レイラはもう何も言えず、布団に顔を埋めてしまった。その耳まで真っ赤に染まっている。
「さて、明日も早い。もう寝る時間じゃ」
ザンカは立ち上がり、部屋の電気を消した。月明かりが窓から差し込み、部屋を淡く照らす。
「おやすみ、レイラ」
「……おやすみ、ザンカ」
布団の中から、くぐもった声で返事が返ってきた。
ザンカは静かにドアを閉め、自分の部屋へと戻っていった。
ベッドに横になったザンカは、頬の熱が冷めないレイラの姿を思い出し、一人静かに微笑んだ。
「……ほんと、変わらねぇな」
外は静かな夜だった。
🔚
#12
--- 翌日 ---
リビングはいつもより静かだった。テーブルには、ルドとエンジン、そしてなぜかぐてぇっとしたレイラが座っていた。いつもなら一番に起きて朝食の準備を始めているはずのザンカの姿がない。
「……珍しいな、ザンカが寝坊なんて」
ルドが焼き魚をつつきながら呟く。エンジンの「何かあったのか?」という視線が、頬杖をついてテーブルに突っ伏しているレイラに注がれる。
「さぁ? 昨日もいつも通りやったでしょ」
レイラは力なくそう応じたが、その顔はほんのり赤い。昨日まで「ザンカの声は子守唄」と言っていた本人が、今日は寝不足でぼんやりとしているのだから、一同は訝しんだ。
その時、階段を降りてくる足音がした。全員の視線がそちらに向かう。
「……はよ」
ザンカが、普段より少しだけ低い声でリビングに入ってきた。髪は少しだけ跳ねており、いつもの完璧に整えられた姿ではない。明らかに寝坊していた。
「ザンカ! お前が寝坊なんて、明日は槍が降るな!」
エンジンが面白そうに言う。
ザンカは皆の視線を受け流し、いつもの席レイラの隣に腰掛けた。そして、ぐてぇとしているレイラを一瞥する。
「お前こそ、ぶち顔色悪いじゃろ。人の話を子守唄にしとる奴が、寝不足なんか?」
ザンカの言葉に、レイラはびくりと肩を震わせた。その指摘は図星だった。昨晩、布団の中でザンカの言葉や昔の思い出を反芻しすぎて、結局あまり眠れなかったのだ。
「あー、うるさいわ! ザンカこそ寝坊したっしょや!」
「全くじゃ。人のこと言えんわな」
ザンカは呆れたように笑いながらも、どこか嬉しそうな表情を隠しきれていない。その表情に、レイラはまた顔を赤くして、慌てて残りの朝食を口に詰め込み始めた。
そんな二人の様子を、エンジン、ルド、そして遅れて起きてきたリヨウは、ニヤニヤしながら観察していた。
「おいおい、なんか今日の二人、空気感違わね?」
とエンジンが肘でルドを小突く。
「昨日、ザンカとレイラが二人でどっか行ってたのは知ってたけどさぁ」
とリヨウが妖しげな笑みを浮かべる。
「もしかして、ついに一線超えちゃった感じ〜?」
「なっ!?」
「はぁ!?」
ザンカとレイラは同時に声を上げ、顔を真っ赤にして三人の方を睨みつけた。
「アホなこと言うな! いつも通りじゃ!」
ザンカが怒鳴る。
「そうや!ただ髪とかしてもらっただけやもん!」
レイラも負けじと反論するが、「髪をとかす」という行為が、かえって二人の親密さを際立たせてしまった。
「うっわー、朝からイチャイチャじゃん!」
「青春だねぇ」
「ザンカ、やるじゃん!」
エンジン、リヨウ、ルドの三人は、面白がって囃し立てる。ザンカは「うるさい!」と怒鳴りながらも、どこか満更でもない表情をしていたし、レイラはもう恥ずかしさで布団に顔を埋めたい気分だった。
「ほら、さっさと食わねぇと今日の仕事に遅れるぞ!」
ザンカが無理やり話題を切り替えて急かすと、三人は笑いながら「へいへい」と朝食に戻った。
いつもの賑やかな朝の風景。けれど、その中心にいるザンカとレイラの関係は、昨日の夜から少しだけ、確実に変化していた。
🔚
#13
朝食を終え、それぞれが仕事の準備に取り掛かった後、ルドとレイラは二人でゴミを捨てにアジトの外へ出た。
道すがら、ルドはふと朝の騒動を思い出し、隣を歩くレイラに尋ねた。
「…そういえば、レイラ」
「ん?なしたんだい、ルド」
「お前の名前って、誰がつけたんだ?」
ルドの問いかけに、歩いていたレイラはぴたりと足を止め、振り返った。その顔には「どうしてそんなこと聞くや?」とでも言いたげな困惑と、わずかな動揺が浮かんでいた。
「あ、いや、別に言わなくても……」
ルドが言い訳を探して言葉を濁そうとした、その時。
「ザンカが付けてくれた」
レイラは淡々とそう答えた。
「は? ザンカに?」
「うん。“レイラ”って」
そう言うと、レイラは視線を遠くへと向けた。その瞳は、どこか悲しみを湛えているようでもあり、同時に懐かしい記憶を愛おしむようにも見えた。
「ザンカって、意外にセンスあんだな」
「そーそー。あぁ見えて、結構世話してくれんねん」
「まあ、実際自分でもその名前、結構しっくりきてんねん」
ルドが「どうして」と尋ねると、レイラは少し口ごもりながら答えた。
「さあ、過去の記憶はできるだけ無くしてるから、よう分からん」
「覚えてたとしても、僕の家系が“特殊”だったっていうことだけ」
「そんな家が嫌すぎて、自分でここへ堕ちた」
レイラはそこで言葉を切り、再び歩き出した。ルドも慌てて彼女に追いつき、隣を歩く。
「……その過去のこと、触れないほうがいいか?」
ルドの気遣わしげな声に、レイラは少しだけ頬を緩めた。
「…僕はあんま言いたぁない主義でな。気になんなら、ザンカに聞いたらええじゃろ? あの子だけは僕の生い立ち知っとるけん」
「…そっか」
🔚
#14
「…そっか」
ルドはそれ以上追求せず、再び隣に並んで歩き出した。ゴミ集積場までの道は、朝の騒動が嘘のように静まり返っていた。
アジトに戻る途中、ルドは次の仕事の打ち合わせがあると言って、ザンカたちのいる作業場へと向かった。
レイラは一人、自室へと戻る廊下を歩いていた。ルドとの会話が、彼女の中で無理やり蓋をしていた記憶の箱をこじ開けようとしているのを感じていた。
「過去の記憶はできるだけ無くしてるから、よう分からん」とルドにはそう言ったが、それは嘘だった。忘れたいだけで、消えたわけではない。
自室のドアノブに手をかけた、その瞬間。
頭痛と共に、視界が歪んだ。
(ああ、まただ)
レイラは壁に手をつき、歯を食いしばる。脳裏に、鮮明すぎる光景がフラッシュバックした。
---
純白の神殿。足元には冷たい大理石。どこまでも続く階段の上には、巨大な月のレリーフが祀られている。子供の頃の自分が、白い衣を纏い、祈りを捧げている姿。
「我らが始祖、|月読命《ツクヨミ》の御名の下に――」
詠唱が聞こえる。自分のものではない、けれど聞き覚えのある声。敬虔な信者たちの声だ。
---
そして、その光景は一変する。
「お前は穢れている!」
「奈落へ堕ちろ」
白い神殿は血と炎に包まれ、人々が自分を指さして叫んでいる。なぜ自分が責められているのか分からない。ただ、神殿の最上階から突き落とされる感覚だけが、生々しく蘇る。
---
(うるさい、うるさい……!)
レイラは頭を振った。記憶はいつもここで途切れた。落下する感覚と、ザンカと出会い、冷たい奈落の空気。
彼女の家系は、地上でも「特殊」だった。月の神を信仰し、天界人の血を引く者として、独自のコミュニティで生活していた。しかし、その「特殊性」ゆえに、何らかの理由でコミュニティを追放され、奈落へ落ちることになったのだ。
「……っ」
息が詰まる。レイラは深く息を吐き、乱れた呼吸を整えた。記憶が呼び起こされるたび、胸の奥が締め付けられるように痛む。
彼女は震える手でドアを開け、自室に入り、ベッドに腰掛けた。
(ザンカは、僕の名字以外全部知ってる、僕が自分自身で奈落に落ちた理由も……)
『レイラ』
ザンカが付けてくれたその名前。もしかしたら、過去の自分を縛るものではなく、奈落で生きるための、新たな「月」という意味を込めてくれたのかもしれない。
遠い記憶の中の月は冷たく輝いていたが、奈落から見上げる月は、なぜか少しだけ温かい色をしていた。
レイラは顔を上げ、窓の外――地上からの光が差し込む空を見つめた。彼女の瞳の奥には、過去への複雑な想いと、奈落で生きるという決意が混在していた。
🔚
#15
レイラは顔を上げ、窓の外――地上からの光が差し込む空を見つめた。彼女の瞳の奥には、過去への複雑な想いと、奈落で生きるという決意が混在していた。
そして、衝動に駆られた。
彼女は部屋の隅に転がっていた、使い古しのスプレー缶を手に取った。アジトの皆が使っている、ありふれたゴミ。蓋を開け、壁に向かう。
白い神殿、血と炎、突き落とされる感覚……。それらの記憶を塗りつぶすように、無心で手を動かし始めた。
シュッ、シュッと乾いた音を立てて、黒い塗料が壁に吹き付けられる。最初は無秩序だった線が、次第に形を成していく。
描いたのは、満月だった。
冷たく輝く天界の月ではなく、奈落から見上げる、少しだけ輪郭が歪んだ、けれど確かな存在感を放つ月。過去の自分を縛り付けた象徴であり、同時に、ザンカが与えてくれた新しい名前の象徴でもあった。
どれくらいの時間が経っただろうか。レイラがようやく手を止め、完成した巨大な月を見つめていた、その時だった。
「――っ!?」
ドアの外から、驚いた息を呑む音が聞こえた。
振り返ると、そこにはルドが立っていた。彼は次の仕事の打ち合わせが終わったのだろう、作業着姿で、手に持っていた弁当箱を落としそうになりながら、壁の月とレイラを交互に見つめている。
「……ルド」
レイラの声が震える。彼にだけは、こんな弱い姿、過去に囚われている姿を見られたくなかった。
ルドは、普段の好奇心旺盛な笑顔を完全に消し去り、ただ茫然と、壁の月を見上げていた。その表情には、驚愕と、戸惑いが混在していた。
「それ……」
ルドが絞り出すように呟いた言葉は、それ以上続かなかった。静寂が部屋を支配する。奈落の片隅の小さな部屋に、巨大な月と、二人の複雑な感情だけが取り残された。
🔚
#16
ルドが絞り出すように呟いた言葉は、それ以上続かなかった。静寂が部屋を支配する。奈落の片隅の小さな部屋に、巨大な月と、二人の複雑な感情だけが取り残された。
その重苦しい空気を切り裂いたのは、コンコン、というノックの音だった。
「レイラ、おるか」
ザンカの声だ。いつもと変わらない、落ち着いた響き。
レイラは弾かれたようにドアの方を見た。ルドもハッとして、ザンカの声のする方へ視線を移す。
「ああ、ザンカ、あのな――」
ルドが何かを言いかけようとした、その瞬間。レイラはルドの腕を掴み、彼を背中に隠すようにしてドアに向かった。
「な、なんだよ」と戸惑うルドを無視して、レイラはドアを少しだけ開けた。
「……ザンカ。今、ちょっと」
「ああ、大丈夫だ。話はすぐに終わる」
ザンカはそう言うと、遠慮なくドアを押し開けて部屋に入ってきた。そして、部屋に入りきった彼の視線が、壁に描かれた巨大な月に注がれる。
ザンカの表情は、ルドのように驚愕に染まることはなかった。むしろ、一瞬だけ、微かな懐かしさすら浮かんでいるように見えた。彼は何も言わず、ただ月を見つめる。
「ザンカ、これ、レイラが……」
ルドが慌てて説明しようとするが、ザンカは静かに手を上げた。
「……いい」
ザンカは月を見つめたまま、ポツリと呟いた。
「あんた、この色よう好きじゃったのう」
その言葉に、ルドは目を見開いた。レイラもまた、息を呑む。ザンカは全てを知っている、そう思ってはいたが、具体的な記憶の断片を目の当たりにすると、その深さを改めて思い知らされる。
ザンカはゆっくりと振り返り、レイラを見た。彼の目は、過去を懐かしむ色から、現在の彼女を深く見つめる色へと変わっていた。
「そろそろ、他のもんらにバレる前に消した方がええじゃろ」
彼はそう冷静に告げると、ルドの方に向き直った。
「ルド、悪いが、外壁補修用の白いスプレー缶を数本持ってきてくれ。急ぎで頼む」
「えっ、あ、おう!」
ルドは状況に飲み込まれながらも、ザンカの指示に従い、慌てて部屋を出て行った。
部屋に残されたのは、レイラとザンカ、そして壁の大きな月だけ。
「……見られたくない、とは思っていたんだ」
レイラが絞り出すように言うと、ザンカはふっと口元を緩めた。
「そうじゃのう。じゃが、ここに描き残しときたかったんも、あんた自身じゃ」
ザンカは、まっすぐにレイラを見つめた。
「過去は消えん。じゃが、それをお前がどう塗りつぶすか、あるいは受け入れるか。それは、今のお前が決めることじゃ」
ザンカの言葉は、冷たいようでいて、どこまでも温かかった。彼が自分に「レイラ」という名を与えた意味を、彼女は改めて噛み締める。
窓の外の奈落の光が、壁に描かれた黒い月に静かに降り注いでいた
🔚
#17
「……見られたぁない、とは思うとったんじゃ」
レイラが絞り出すように言うと、ザンカはふっと口元を緩めた。
「そうじゃのう。じゃが、ここに描き残しときたかったんも、あんた自身じゃ」
ザンカは、まっすぐにレイラを見つめた。
「過去は消えん。じゃが、それをお前がどう塗りつぶすか、あるいは受け入れるか。それは、今のお前が決めることじゃ」
ザンカの言葉は、冷たいようでいて、どこまでも温かかった。彼が自分に「レイラ」という名を与えた意味を、彼女は改めて噛み締める。
窓の外の奈落の光が、壁に描かれた黒い月に静かに降り注いでいた。
レイラは、その光景を静かに見つめながら、ずっと胸の奥に抱えていた疑問を、衝動的に口にしていた。
「……ねえ、ザンカ」
「なんじゃ?」
「なんで、あん時」
レイラはザンカの方に顔を向けた。記憶の中で、奈落の底で震えていた自分に手を差し伸べてくれた、あの時の光景が蘇る。
「なんで、あん時僕と仲良くしてくれたん?」
ザンカは少し驚いたように目を見開いたが、すぐにいつものクールな表情に戻った。彼は壁の月に再び視線を戻し、少しの間、沈黙した。
「……あんときのお前がのう」
ポツリ、ポツリと、言葉を選びながらザンカは続ける。
「一人でおるんが、かわいそう思うたからじゃ」
飾り気のない、ぶっきらぼうな答え。
しかし、その言葉に、レイラの胸は熱くなった。ザンカは多くを語らない男だ。その彼が、「かわいそう」という感情を素直に口にした。それは彼なりの最大限の優しさだったのだろう。
「……そっか」
レイラはそれ以上何も言えなかった。ただ、ザンカに向けられた瞳は、確かな光を宿していた。過去の記憶の月は冷たかったが、今目の前にいるザンカの存在は、奈落の底で生きる自分を照らす、温かい光だった。
ルドが白いスプレー缶を抱えて戻ってくる足音が聞こえてくる。
レイラは壁の月を見つめた。もう過去に怯えるだけではない。この月は、今の自分を形作る一部だ。
彼女は心の中で呟いた。
(僕は、僕の月を塗りつぶすんじゃない。僕の月を、僕の色にするんだ)
🔚