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狂った世界を愛せた日。
屋上の縁に立ち、一つの封筒を足元に置いた。
その封筒は──遺書。
僕は今日ここで、十数年の短い人生を終わらせる。
顔を少しだけ前に出して、下の様子を窺う。
早足で歩いていく人。自転車で颯爽と通り過ぎていく人。街路樹の下のベンチに座って街を眺めている人。
そのどれもが小さくて、自分がいる場所の高さを知った。
ここから落ちれば即死するだろう。
僕は深呼吸を一つして体を前に傾けた。
その時───
「ねぇ、ちょっと待ってよ」
可愛らしい声がした。
ゆっくり後ろを振り向くと、同い年くらいの一人の女の子がいた。
僕が何も言わずにじっと見つめていると、女の子は僕の方に近づいてきた。
目の前まで来ると、僕の手を取って微笑んだ。
「少しだけ話さない?…死ぬ前にさ」
女の子にそう言われ、僕はよくわからないまま無意識に頷いていた。
塔屋の壁にもたれかかって、2人並んで座った。
僕が、この子は誰なんだろう、と考えながら女の子の顔を見つめていると、女の子は僕の視線に気付いたのか、こちらを向いて頬を緩めた。
「そんな不思議そうな目で見ないでよ、恥ずかしいじゃん」
「……君は誰なの? どうして僕に話しかけてきたの?」
僕がそう聞くと、女の子は僕の目を見つめて口を開いた。
「私が誰かなんてどうでもいいじゃん。君に話しかけたのは‥‥死ににきたら先客がいて気になったから、かな」
「死にに、きた…?」
予想外すぎる言葉に僕は目を見開いた。
女の子からは、死のうとしている雰囲気なんて少しも感じられなかったから驚いてしまったのだ。
「そうだよ。だから、君が死ぬのを止める気なんて全くないから安心して」
「安心って…。君は、死にたいの?」
「うーん、死にたいというか‥‥生きる意味を見失っちゃったからさ」
女の子はそう言うと、どこか遠くを見つめた。
僕も同じように遠くを見つめる。真っ白な雲が青い空に浮かんでいた。
「ねぇ」
僕は、女の子に呼び掛けた。
「うん?」
僕が今から言うことは、常識で考えたら本当にあり得ないことだと思う。
でも、今隣にいるこの子だったら否定せずに受け止めてくれる、そんな気がした。
僕はゆっくりと口を開いた。
「僕と一緒に、死んでくれない?」
数秒の沈黙の後、隣から小さな笑い声が聞こえた。
女の子の方を見ると、女の子は優しい微笑を浮かべて僕を見つめていた。
「ふふっ、そんなこと言われると思ってなかったよ。でも、そうだな‥‥私も一緒がいいな。君と一緒に、死にたい」
女の子はそう言って、僕に手を差し伸べた。
僕はその手を優しく握って立ち上がった。
2人で一緒に屋上の縁へと向かう。
今までのことを思い起こしながら、悪い人生じゃなかったな、なんてのんきなことを考えながら歩いた。
2人で並んで屋上の縁に立つ。手は繋いだままで、女の子の手の温もりが凍った僕の心を溶かしていく。
「あ!」
突然隣から大きな声が聞こえて、僕は思わず肩をビクッと震わせた。
「聞くの忘れてたけど、君はなんで死のうとしてるの?」
女の子にそう聞かれて、僕はあぁ、と声を漏らした。
女の子に聞いただけで、僕は何も言ってなかったことに気付いたのだ。
「僕も君と同じだよ。生きる意味を見失ったんだ。別に死にたいってわけじゃないけど、生きるのも辛いから」
女の子を誘ったのも、女の子が僕と同じ悩みを抱えていたからだ。死にたいわけじゃないけど、生きていたくもない、そういう悩みを。
「そっか」
女の子はそれだけ言うと、僕の方を見て微笑んだ。
僕も女の子の顔を見つめて微笑み返す。
「じゃあ、行こっか」
「うん」
僕たちは、2人同時に何もない空中に足を踏み出した。
今も手は繋いだままで、1人じゃないことに安心する。
地面に向かって落ちて行きながら、僕は思った。
この世界に苦しめられてきたけど、今だけは、世界に対してありがとうと思える。
死ぬ間際に素敵な出会いを与えてくれてありがとう、と。
僕は初めて、この世界が好きだと思った。
狂った世界を愛せた日、僕は新しい未来へと飛び立った。
数分間の輝く時間と、優しい仲間の笑顔と共に。
死ぬことを止めずに認めてくれる、そんな人がいたらいいのにと思います。
死ぬことを、新しい未来───来世に向かっていくことだと思えたら幸せですね。