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幸福論
『9:00になりました。業務交代を行ってください。一日ありがとうございました。今日も一日、ご幸福を』
カラフルなコード、青みがかった不思議な光沢を持つ金属のフィルター、轟音を響かせる大きな装置、煤けた何本ものパイプ、暗緑色のプール──。ごちゃごちゃとしたその空間に、機械的な声が響いた。
「夜勤お疲れ様です」
「はぁい、どうもー」
そのごちゃつき一つ一つを映し出したディスプレイが大量に配置された大部屋で、人が一斉に入れ替わる。
入社三年、既に僕には見慣れた光景だった。
「あ、確か今日から人気俳優のスキャンダルが載るはずだから、特別燃料ゲージが増えるかも」
「了解です。一応ですが通常燃料満タンですか?」
「満タン満タン。今日一日中通常燃料だけでもいける」
「ならどちらでも安心ですね」
それまで被っていた、制服である白いマスクの紐を外して水を飲む先輩の報告に応じる。
一日中賄える域なら大丈夫だろう。今日もこの処理場は稼働できる。伝達事項を確認し終わったため、先輩は長い黒髪を揺らしてコントロールルームを出ていった。それを見届けると同時に、配給されているマスクを身につける。
ディスプレイ横に貼られたメモにも目を通しつつ業務用チェアに腰をかけた。今日の担当は燃料プールの監視だ。一番変化がないが、一番重要でもある。
この処理場を動かすにも、この国を動かすにも。
この国──“言葉”の国は、“言葉”を重要視した政策を行なっている。教育は勿論、討論会の多さ、表現の解放、等々。
けれどもその中で、最も知られず、謎が多いのが僕の職場だった。
『陰性処理場』
妙にネーミングセンスが悪いこの名前こそが、僕の勤める場所だ。
老若男女問わず、表現の場を開放し促進しているこの国では、SNS上で様々な言葉が日夜飛び交い、呟かれている。
その言葉は『推しの新ビジュアルが色気ありすぎて心臓に来る』だとか、『今日偶然入ったパン屋さんのパンが焼き立てだった、ラッキー』といったポジティブなものが大半。写真や小説などの芸術分野の表現も数多くある。
ただ、光あるところには影がある。
暗いプールから目を逸らし、隣人のディスプレイに目をやる。目を凝らしてみると、今ちょうど、『希死念慮(自己顕示系統)』のパイプから色付けされたガスが下部へ流れていくのが見えた。
簡単なことだ。どんなに見た目が綺麗でも、ちょっと深くを覗いてみれば、ヘドロが溜まっている。下部へ流れていくガスをぼんやりと見つめていると、『死にたい』『どうせ今日も一人だし誰も見てない』という言葉が小さく見えた気がした。新たに開いたガス管からは、どぎついピンク色に混じって、『〇〇、信じてたのに。不倫してたなんて』『〇〇、ブス。絶対整形美人』とかいう“独り言”が流れていっている。種類からして、あの管は『嫌悪(崇拝系統)』だろう。
溢れていくたくさんの“独り言”。
他の国ならば、どうってことない概念の中だけの話だろう。だが、この国ではそれは現実に形を作り出した、死活問題だった。少子化、物価高騰以上の問題。
この国では言葉の教育に力を入れている。それは確かだ。僕自身、ディベートだとか、作文だとかを散々やらされた記憶がある。事実、自己表現が増えると言うのは良い面だろう。
けれど、政府がそれを行うのは自己表現の確立のためではない。国民を守るためだ。
国内史で、昔見たことがある。黒い靄に包まれた都市部のある街の写真。
名も知らない少女の口から、新たに黒い靄が発生している写真。
口から出した言葉は黒く。スマホに打ち込んで投稿した言葉は、LANを辿って黒く黒く吐き出される。
不思議な現象だと首を傾げていた黒い気体は、突如、不幸を引き起こした。
黒い気体を、直接吸っていたある人々が、日に日に衰弱、そして死亡する。死者数は日に日に拡大。このままではならない、と政府は黒い気体の回収方法を確立した。
──黒い気体が、何か。国民には明かさぬまま。
当時はその対応に批判が集まったらしい。確か訴訟問題にまで発展していたと習ったはずだが、結果はよく覚えていない。どうせ、国民と政治家の靄に塗れて、見えなくなってしまったに違いない。
とにかく、我々の科学技術が追いついていない、ということを言い訳に、正体は隠されたままとなった。
気体の正体は、僕たち、陰性処理場の職員だけが知っている。
黒い気体とは、“ネガティヴワード”だ。言葉の通り、消極的で陰性の言葉たち。
概念として存在していたそれらが、何が理由か、実態を持ってヒトを害するものとなったのだ。
僕のディスプレイで、目に見えない物質が通っていったのだろう、プール内部がきらり、とターコイズブルーに光っていった。
その光をじっと見ていると、闇夜も真っ青な漆黒で、“消えろ”という文字が見えた気がした。悪意、絶望、憤怒──そういったものの純度が高い、真っ黒な“ネガティヴワード”は、感情が濃い部分のみ抽出されて、水に溶かされ、分裂を繰り返す。分裂と共にエネルギーが放出される。ある上限を超えると分裂は止まるため、役目を終えたそれらは、感情の薄い上澄と共に施設外に排出される仕組みだった。
放出されたエネルギーは利用され、国の電力を賄っていく。
この発電法を行っている施設が、『陰性処理場』だった。──開発した電力は生活に、スマートフォンに使われて、再びネガティヴワードを作り出していく。反対側のディスプレイで、不純物が多い、ただ吐き出しただけの自認系発言が、結晶化して流されていっていた。
歪んだそのサイクルにため息をつきたくなるが、グッと堪える。
マスクというフィルターがあるとはいえ、“厭気”が溶け込んだため息を吐き出すなど解雇処分にまで発展する問題だ。
職員の決まりとして、守秘義務ともう一つ。ネガティヴワードを吐き出さない、というものがある。
入社したばかりの頃、職務中に吐き出した先輩を見たことがあるが、翌日にはその姿を見かけなくなった。
だから、僕たちは弱音を吐かない。
吐いたら、消えなくてはならないからだ。
睨んだ画面の端で、再び蛍光が瞬いた。
守秘義務があるから、SNSにも書き込めない。
吐き出せるのが羨ましい。僕たちにはもうできない。
吐き出せば吐き出すほど、残る幸福が濃くなるでしょう? でもその幸福は小さく感じるから、また吐き出したくなるでしょう? よく知ってるよ。羨ましい。
この仕事に就いたのは、勧誘だ。おそらく勤めている皆がそうだと思う。
就活に失敗し、SNSにその苛立ちを綴った。バイト先の愚痴を呟いた。
気づいた時には、真っ白い服を着た謎の職員に家を訪ねられ、自分もその服を身につけるようになっていた。
きっと。有害物質を、生産していた僕たちをこちら側に引き込むことで削減しているのだ。
ああ、頭がガンガンと痛い。眠い。
(あの人たち、元気にしてるかな)
時たま、ビール片手に見ていた病みアカの持ち主は。自称鬱系アカは。もしかすると、今、ディスプレイを監視している誰かかも知れない。もう知る術はない。興味もないし。
(……もう一つの仕事もしなくちゃ)
僕は自分のスマホを取り出すと、有名SNSアプリケーションを開く。
今日は、どのユーザーが一番ネガティヴワードを使うのか、監視して報告しなくてはならない。
今日の伝達メモには、『古株の人が溜息をついた』とあった。
新しい職員を探さなくてはならない。
(あ、この人なんか良いかも)
──数秒、手を止める。
真っ暗なアイコン。何も書かれていないプロフィール。それでも鍵もつけていない。所謂“病みアピ”だ。
雑念が多く、エネルギーになりにくいネガティヴばかりを吐き出している。
僕はその人物の文字列をメモすると、暗緑色の画面横に貼り付けた。ビビットな黄色い付箋に書かれた、事務的な字列が、自分に迫ってくるように感じる。それまで無意識に曲がっていた口角が、元に戻るのを感じた。
無機質な重みが、喉まで迫り上がってくる。
はぁ。
声にはならなかった。
さて、皆さま、良い幸福を。