公開中
第2話 夕立の後のサイダー
ジリジリと照りつける太陽が、アスファルトから熱い陽炎を立ち上らせている。
「あー、最悪だ……」
大学生の大輝(だいき)は、肌に張り付くTシャツの襟元を引っ張りながら、大きくため息をついた。
さっきまであんなに晴れていたのに、空は一転してどす黒い雲に覆われ、バケツをひっくり返したような夕立が街を襲っていた。にわか雨なんてレベルじゃない。
慌てて飛び込んだのは、見覚えのない古いビルの隙間――細い裏路地だった。
激しい雨音に追われるように走る大輝の目に、ぽつりと温かい、琥珀色のランプの灯りが映る。
木製の小さな看板には『喫茶レトロ』。
大輝は吸い寄せられるように、真鍮のドアノブを回した。
カランコロン。
涼やかなカウベルの音と共に、ひんやりとした心地いい冷気と、深く香ばしい珈琲の香りが大輝を包み込む。
「いらっしゃいませ。ひどい雨になりましたね」
カウンターの奥から、白いシャツに黒いエプロンを纏った、穏やかな佇まいの青年――店主の蓮(れん)が微笑みかけてきた。
渡された温かいおしぼりで濡れた顔や手を拭きながら、大輝は窓際の席に腰を下ろした。外では、激しい雨がガラス窓を激しく叩いている。
蓮がそっと置いてくれたメニュー表を開き、大輝は首を傾げた。
『初恋のほろ苦ブレンド』『お日様のホットケーキ』『夕立のあとのサイダー』……。
「すみません、この『夕立のあとのサイダー』をください」
「かしこまりました」
蓮が静かに一礼し、カウンターの奥で氷の涼しげな音がカランと響く。
待つ間、大輝はスマートフォンを強く握りしめ、液晶画面を見つめた。そこに映っているのは、高校時代からの大親友である「拓海(たくみ)」の連絡先だ。
大学に進学し、お互い新しい環境になってから、少しずつ価値観のズレを感じ始めていた。一ヶ月前、小さな意見の食い違いから、思わず「お前とはもう合わないわ」とキつい言葉を投げつけてしまったのだ。
すぐに謝ればよかった。なのに、つまらないプライドが邪魔をして、連絡できないまま時間だけが過ぎていた。
「お待たせいたしました。『夕立のあとのサイダー』です」
蓮が置いたのは、すりガラスの美しいグラス。
透き通るような淡いブルーの液体の中で、無数の小さな泡が、きらきらと星のように湧き上がっている。
添えられたストローを口に含み、大輝はそれを一気に吸い込んだ。
シュワッ。
喉を刺激する強い炭酸と、レモンのような爽やかな酸味。
その瞬間、大輝の頭の中で、パチンと泡が弾けるような音がした。
視界が、急にセピア色から、抜けるような夏の青空へと変わっていく。
耳の奥で、激しい雨音ではない、別の音が聞こえ始めた。
――セミの圧倒的な大合唱。
――遠くから聞こえる、野球部の掛け声。
『おい大輝! 早く走らねえと、夕立が来るぞ!』
頭の中に、はっきりと声が響いた。
高校二年の夏休み。突然のゲリラ豪雨に襲われ、二人で一つのカバンを頭の上に乗せて、大笑いしながら走ったあの日の通学路。ずぶ濡れになって飛び込んだ近所の公園の東あずまやで、拓海が「ほらよ」と手渡してくれた、冷たい缶サイダー。
『お前がどんなに変わっても、俺はずっと親友だからな』
笑い合いながら、一本のサイダーを分け合って飲んだ。
あの頃の二人の間には、見栄も、プライドも、遠慮も、何一つなかったはずなのに。
「……なんだよ、アイツ」
大輝の視界が、急に滲んだ。大学に入って少し大人ぶって、親友の前でカッコつけて意地を張っていたのは自分の方だった。
どんなに環境が変わっても、アイツと過ごしたあの真っ直ぐな時間は、何一つ変わらない宝物だ。
大輝はスマホの入力画面を開き、メッセージを打ち込んだ。
【こないだは、ごめん。今日の夜、ちょっと空いてる?】
送信ボタンを押すと、胸のつかえが、サイダーの泡のように消えていく気がした。
ふと気づくと、外の雨はすっかり上がっていた。
雲の切れ間から、夏の夕暮れの、強いオレンジ色の光が路地に差し込んでいる。
大輝は残りのサイダーをぐっと飲み干し、席を立った。
「ごちそうさまでした。……最高に美味しかったです」
「それは良かったです。素敵な『忘れ物』が見つかりましたね」
蓮はお代を受け取り、いつものように穏やかに微笑んだ。
「はい! ちょっと、アイツと会ってきます!」
店を飛び出した大輝のスマホが、ぶーと震えた。拓海から【おう、いいぞ。いつもの公園な】と短い返信が届いていた。
カランコロン。
静けさを取り戻した店内で、蓮はカウンターの隅の日記帳を開いた。
――『夕立のあとのサイダー。男子大学生。親友との絆の記憶』――
万年筆の文字を眺めながら、蓮はぽつりと呟く。
「僕の失われた記憶の空にも、いつかこんな綺麗な青空が広がるのかな」
蓮は静かに日記帳を閉じ、次の客を待つために、ネクタイを少しだけ整えた。
第2話です!!前回より少し短くして読みやすくしようとしたのですがちょっと無理でした、、笑