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第1話 初恋のほろ苦ブレンド
冷たい秋の雨が、アスファルトを黒く染めていた。
「はぁ……」
傘を叩く雨音に混じって、佳織の口から重たいため息がこぼれる。
時計の針は、すでに夜の九時を回っていた。
デスクの上に積み上がった書類と、上司からの容赦のない叱責。
「君の企画には熱意が足りない」と言われた言葉が、冷えた雨のように頭の奥でリフレインしている。
(熱意、か。そんなもの、とうに擦り切れてなくなっちゃったよ)
佳織は小さく首を振ると、いつもとは違う裏路地へ足を踏み入れた。駅への近道のはずだった。けれど、角を二つ曲がったところで、完全に見たことのない景色に出くわしてしまう。
街灯もない、静まり返ったビルの隙間。
その奥に、ぽつりと温かい琥珀色のランプが灯っていた。
木製の小さな看板には、掠れた文字で『喫茶レトロ』と書かれている。
冷え切った指先が、吸い寄せられるように真鍮のドアノブに触れた。
カランコロン。
涼やかなカウベルの音が、雨の音をかき消す。
ドアを開けた瞬間、鼻腔をくすぐったのは、驚くほど深く、香ばしい珈琲の香りだった。
「いらっしゃいませ」
カウンターの奥から、穏やかな声が響く。
白いシャツに黒いエプロンをきれいに着こなした、若い男の人が立っていた。年の頃は二十代後半くらいだろうか。柔らかい黒髪の隙間から、どこか見透かすような、けれど優しい瞳がこちらを見つめている。
「……あ、すみません。あの、まだやってますか?」
「ええ、もちろんです。お好きな席へどうぞ。ひどい雨ですね。今、温かいおしぼりをお持ちします」
マスターと呼ばれた青年――蓮は、静かに微笑んだ。
佳織は奥のボックス席に腰を下ろした。使い込まれた革のソファが、疲れた身体を柔らかく包み込んでくれる。店内に流れるのは、静かなジャズと、チクタクと時を刻む大きな柱時計の音だけ。
差し出されたおしぼりで手を温めていると、蓮がメニュー表を置いてくれた。
「当店のメニューは少し変わっていまして。もし迷われましたら、直感で気になったものをどうぞ」
手渡されたメニューを見て、佳織は目を丸くした。
そこにはブレンドやアメリカンといった文字はなく、不思議な名前が並んでいたのだ。
『夕立のあとのサイダー』
『お日様のホットケーキ』
『初恋のほろ苦ブレンド』
「初恋、のほろ苦ブレンド……?」
「そちらにされますか?」
「あ、いえ……なんだか今の私には、一番遠い綺麗なものに見えて。……じゃあ、それでお願いします。少し苦めがいいです」
佳織が自嘲気味に笑うと、蓮は「かしこまりました」と深くお辞儀をした。
カウンターの向こうで、蓮が丁寧に豆を挽き始める。
かりかり、と小気味いい音が店内に響き、先ほどよりもいっそう濃い香りが満ちていく。
お湯を注ぐ蓮の手元は、まるで精密な時計の針のように無駄がなかった。
「お待たせいたしました。『初恋のほろ苦ブレンド』です」
目の前に置かれたのは、藍色の綺麗なカップ。
立ち上る湯気と一緒に、なぜか胸の奥がキュッと締め付けられるような、懐かしい匂いがした。
佳織はカップを両手で包み込み、そっと口をつける。
(――あ、苦い)
けれど、ただ苦いだけではなかった。
その奥から、ほんの少しの甘みと、鼻に抜ける爽やかな香りが追いかけてくる。
その瞬間だった。
ドクン、と心臓が大きく跳ねた。
(……え? なに、これ……)
視界が、急にセピア色から鮮やかな色彩へと変わっていく。
耳の奥で、雨の音ではない、別の音が聞こえ始めた。
――ザザザ、と風に揺れる校庭の木々の音。
――放課後の図書室の、古い紙の匂い。
『なぁ、佳織。将来さ、どんな服作りたいの?』
頭の中に、はっきりと声が響いた。
夕日が差し込む夏の図書室。机いっぱいにデザイン画を広げた、高校生の自分がそこにいた。
隣でノートを広げて、自分の拙い夢を「すごいじゃん、絶対形にしてよ」と真っ直ぐな目で応援してくれていた、初恋の男の子の笑顔。
『私ね、自分が作った服で、世界中の人を笑顔にしたいんだ!』
目を輝かせて、大きな夢を語っていた。
あんなに純粋で、あんなに熱かった、かつての自分。
「あ……」
佳織の目から、ぽろりと大粒の涙がこぼれ落ちた。
カップの珈琲に、小さな波紋が広がる。
「私、忘れてた……」
仕事の忙しさに追われ、数字や効率ばかりを気にしているうちに。
「人を笑顔にしたい」という、自分の原点だったはずの、一番大切な熱意を、どこかに置き忘れてきてしまっていたのだ。
ボロボロと溢れる涙を、佳織は止めることができなかった。
蓮は何も言わず、ただ静かに、新しいおしぼりとコースターをそっと机の端に置いた。
十分ほど経っただろうか。
泣くだけ泣いてすっきりした佳織は、残りの珈琲をゆっくりと飲み干した。
不思議なことに、身体の芯からじわりと元気が湧いてくるのがわかった。
「……ごちそうさまでした。不思議な珈琲ですね。なんだか、ずっと忘れていた大切なものを、思い出した気がします」
バッグを肩にかけ、立ち上がった佳織は、店に入った時とはまるで見違えるような、凛とした笑顔を浮かべていた。
「それは良かったです。素敵な『忘れ物』が見つかりましたね」
蓮はお代の五百円玉を受け取ると、いつもの穏やかな笑みを浮かべた。
「明日、もう一度、自分の作りたい企画を上司にぶつけてみます。私、やっぱり服で人を幸せにしたいから」
「いってらっしゃいませ。またいつでも、雨宿りにいらしてください」
カランコロン。
再びカウベルが鳴り、佳織は夜の街へと歩き出していった。その足取りは、もう重くはなかった。
静かになった店内で、蓮は佳織が使っていたカップを愛おしそうに洗う。
そして、カウンターの隅にある、古びた革製の日記帳を開いた。
ページには、万年筆の文字でこう書き留められる。
――『初恋のほろ苦ブレンド。OLの女性。忘れていた夢の記憶』――
蓮は、そっと自分の胸に手を当てた。
「……誰かの忘れ物を淹れるたびに、僕の忘れ物も、いつか見つかるのかな」
失われた、自分の三日間の記憶。
それを探し出すまで、この裏路地の喫茶店は、今夜も静かに灯りを灯し続ける。