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グリーンジェイル
「……やっぱり悠太の声、好き。聞き取りやすくて、落ち着く」
不意打ちだった。心臓が跳ねる。
向かいのソファに深く腰かけた美少女――『ひゃっか』の主こと九条皐月は、感情の読めない涼しげな瞳を僕――田中悠太に向けたまま、とんでもない台詞を口にした。
「な、えっ……?」
窓の外、五月の大型連休明けの空は青々とした初夏の色に染まっている。差し込む午後の陽光は一段と暖かく、僕らの額に汗をにじませる。けれど、顔が熱いのはきっと日射しのせいではない。
レジュメが指から滑り落ちそうになり、追っていた活字の列を見失う。
「だって、読み方が丁寧だし、優しい感じ。……読み上げ機能よりずっといい」
「そ、そう、ありがとう……。ちょっと待って、すぐ続き読むね」
僕は彼女から目を逸らすように視線をレジュメに落とす、グラビアアイドルかモデルとして活動していてもおかしくないルックスの女の子からの純粋な好意の言葉に、僕は心臓が高鳴るのを止められなかった。
きっと高校時代はモテまくったに違いない。だって普通にめっちゃ可愛いもん、玲奈先輩が「生まれてきてくれてありがとう」、とか言いたくなる気持ちがちょっとだけ分かる、あくまでちょっとだけ。僕にはまだ、先輩の領域に踏み込む勇気は無い。
余計な思考を頭の中から払い除けて、レジュメの続きを読み上げようとしたその時だった。
「悠太、耳赤いよ?」
「――!」
突然耳元で囁かれた、今日一番心臓が跳ねた瞬間だった。
僕は慌てて顔を上げ、声の方向を向く、そこには拡大読書器越しに僕の顔を覗き込む皐月がいた、息がかかるほどの至近距離。心臓の音、聞かれたかも。
彼女は僕が慌てふためいていることなんてお構いなしに、わずかに首を傾げた。その動作に合わせて、艶やかな黒髪のボブがさらりと流れる。
「声好きって言われたのがそんなに嬉しかった? それとも私が近くにいてドキドキしてるだけ?」
「……どっちもです、そこまで分かってるなら聞かないでくださいよ。……拡大読書器(それ)、心も読めるんですか」
「ふふ、これまともに買ったら二十万近くするからね」
そう言うと皐月はテーブルの縁に手をついて定位置のソファに戻って行った。ていうか拡大読書器ってそんなに高いの!?
九条皐月はロービジョン――視覚障害の一種で、全く見えないわけではないが、視力が極端に低い。
だから、彼女の代わりに僕がこうして講義のレジュメや資料を音読するのが、ここ最近の『ひゃっか』における僕の主要業務になっていた。
翠明大学の新校舎、その片隅にある備品倉庫が、僕の所属するサークル、学生生活支援会『ひゃっか』の部室だ。
|あらゆる分野《百科》の困り事に対応し、学生生活に百花の彩りを添える。そんな御大層な理念を掲げているが、実態は大学内の雑用引き受け所だ。
他サークルの手伝い、校内の清掃作業、学食の皿洗い、浮気調査、まぁ、とにかく何でもやるサークルだ。
とはいえ、僕にとって『ひゃっか』は居心地のいい場所だった。頼まれごとの山は決して楽ではないけど、玲奈先輩を始め、メンバーはみんな個性的で、そして何より温かい。
「この足音、小鳥くんと凪ちゃんだね」
皐月が呟いた、数秒遅れて僕の耳にも足音が届く。彼女は目が不自由な代わりに耳と記憶力は抜群に良い、レジュメだって一度音読すれば内容をほとんど覚えているほどだ。
「お疲れさまでーす! お、悠太先輩早いっすね! クッキー食べます?」
「お、お疲れ様です……」
勢いよくドアが開くと、皐月の言葉通り金髪にピアスのチャラ男系後輩、小鳥くん、本名は小鳥谷晴人(こづや はると)とおずおずした態度のメガネ女子、一ノ瀬凪(いちのせ なぎ)が入ってきた。
何かと対照的な二人だが、お互いの苦手な部分を補い合うような関係で、バランスが取れていると僕は思う。
「あら、珍しい全員揃ってる」
続いて入ってきたのは、可愛い子好きで有名な部長の千石玲奈だった。
その後ろには見知らぬ女子が居た、目が眩むようなネオンカラーのTシャツにミニスカート、ピンク色の派手なネイル、まさにギャルを絵に描いたような女子学生だった。
「紹介するわ、こちら軽音サークルのリカちゃん、依頼人よ」
「あたし、リカって言いまーす、バンドじゃベースやってまーす、よろしくね~」
「はい! オレ、小鳥谷晴人っす! 小鳥に谷でこづやって読みます名前だけでも覚えて帰ってください!」元気一杯な晴人の自己紹介が響く。
「あ、どうも一ノ瀬です……」凪も消え入るような声で挨拶をして、深々と頭を下げる。
「経済学部二年の田中悠太です」
僕は簡単な自己紹介だけして軽く会釈をする、隣の皐月は眉ひとつ動かさず、ただ音のした方へわずかに顔を向けただけだった。
「それじゃ、リカちゃん、みんなに依頼内容を説明してあげて」
玲奈先輩に促されたリカは全員を一瞥して口を開いた。
「あたしが、ひゃっかの皆さんに依頼したいのは――」
全員の視線がリカに集中する、リカは言葉を続けた。
「草むしりっす、あの旧講堂あるじゃないっすか、その裏の空き地? そこの草むしりやって欲しいなって」
草むしり。
あまりに地味な、そしてあまりに切実な響きに、僕は思わず皐月と顔を見合わせた。もっとも、皐月の視線はリカの足元あたりをぼんやりと捉えているようだったが。
晴人と凪はポカンとした表情でリカを見つめている、既に依頼内容を聞かされているはずの玲奈先輩は、いつもの穏やかな笑みを浮かべていた。
「キツい依頼なのは重々承知なんだけどさ、明日あそこで友達とすっごい映える写真撮りたいから、なる早でお願いっ! これ報酬ね!」
リカが机の上に置いたのは、デパートの有名な洋菓子店の紙袋だった。中からはバターの芳醇な香りが漂ってくる。
「え、これエトワールのじゃないっすか!?」
真っ先に反応したのは晴人だった、彼はひゃっかとスイーツ研究会というサークルを掛け持ちするほどの甘いもの好きだ。
「そう! エトワールのマドレーヌ、これめっちゃ旨いんだよ! めっちゃ高いけど」
「知ってます知ってます、マドレーヌって他のお菓子と使ってるバターが違うんすよ! プロのこだわりって感じでアツいっすよね!」
「え、マジ!? バター違うの? 初めて知ったわ」
「玲奈先輩、この依頼受けましょう、スイーツ研究会の一員としてこのマドレーヌを逃す訳にはいかねぇっす」
興奮を隠しきれない様子で玲奈に詰め寄る晴人、マドレーヌでそこまで盛り上がれるか、本当に好きなんだなお菓子。
隣で皐月が「スイーツ研の人が言うなら間違いないわ」と呟く、どうやら彼女はスイーツ研究会に全幅の信頼を置いているようだった。
一方の玲奈先輩も「いいわ、引き受けましょう!」とかなり乗り気だ。
「いや~、マジ助かるわ、ひゃっかのみんなサンキュー」
リカは僕たちに頭を下げると、部室から去って行った「あ、そうだ空き地結構広いからみんなで行くのおすすめね」と言い残して。
「田中君も受けるわよね?」
玲奈先輩は僕に問い掛けた、答えはすでに決まっている、どうせ午後から講義はない。
「ええ、午後から暇なんで」
「決まりね、みんな作業開始~!」
---
こうして、僕たち『ひゃっか』のメンバーは、急遽草むしりに駆り出されることになった。
ただ一人、必修科目のある一ノ瀬凪だけは講義後に合流することになった、彼女の合流は九十分後、いや移動時間を考慮すれば百分後か。
玲奈さんに送り出された凪は、何度も頭を下げながら去っていった。必修科目を優先するのは当然のことなのに申し訳なさそうにしている辺り凪らしい。
残された僕たち四人は、旧講堂の裏手に到着した。この場所はキャンパスの北の端に位置する。
現場に到着して、僕は言葉を失った。
旧講堂裏。そこは確かに空き地と呼ぶには広大すぎた。膝まで伸びた名もなき雑草たちが、初夏の風に吹かれてザワザワと波打っている。
「これ……今日中に終わるかな……」
僕は渡された鎌を手に、途方に暮れる。
メンバーは、僕、玲奈先輩、そして晴人の三人。凪は講義中だ。そして皐月は――。
「……悠太。この辺りに日陰はある?」
――いつもの調子で居心地の良い場所を探していた。
皐月は強い日差しを嫌う。コントラストが強すぎると、彼女の限られた視界はさらに白飛びしてしまい、何も見えなくなってしまうからだ。
「えっと、空き地の端に大きな楠があるね。そこなら涼しいし、レジャーシート敷くから待ってて」
僕は手早く準備を整える。
彼女は木陰に腰を下ろすと、僕が渡したポータブル扇風機を起動させ、すっと目を閉じた。
皐月はひゃっかの依頼人であり、部員ではない、よって僕たちを手伝うことも邪魔をすることもない。その辺りの線引きはきちんとしている。
「皐月ちゃん、隣にお茶とかタオルとか置いておくわね。みんな、水分補給はこまめにね、五月だからって油断してると熱中症になるわよ」
「了解っす!」
「さて、やりますか!」
気合いを入れて、僕は広大な草の海に最初の一太刀ならぬ一鎌を振るった。
猫の額ほどの面積がきれいになった、僕は気が遠くなった。
金髪をなびかせた晴人が、不似合いなほど手際よく草を刈り始める。根は真面目な彼のことだ、仕事に手抜きはないだろう。
玲奈先輩は、勉強以外何でも出来ると言われるだけあって、圧倒的な早さで草を刈っていく。
皐月は楠の幹に手を当てて樹皮の手触りを確かめているようだった。
---
――作業開始から一時間半が経過した。
三度目の休憩の時間だ、休憩は三十分毎にとっているが、休憩を経る毎に皆の口数が減っていく、
さすがに疲れた。五月の太陽はゆっくりと、しかし着実に僕らの体力を削っている。
ただ一人、九条皐月だけは涼しげな顔をして木陰でオーディオブックを聴いていた。そんな彼女に僕は休憩のたびに音だけではわからない周囲の状況を説明していた。
「九条さん、今だいたい四割終わったところだよ、晴人も玲奈先輩も真面目に作業してた」
「そう……日没までには終わりそう?」
「うん、もうすぐ一ノ瀬さんも合流するし、何とか終わりそう」
「よし、休憩終わり~! 働け働け!」
元気が有り余っているかのような玲奈先輩の掛け声と共に僕たちは再び作業へ戻った。
息を切らした一ノ瀬凪が合流したのはそれから五分ほど後のことだった。
――作業開始から二時間が経過した。
三十分ぶりの休憩時間、レジャーシートの上に全員が集まる、僕のシャツは汗でぐっしょりと張り付き、晴人は「もう無理っす、マドレーヌじゃ割りに合わねぇ、焼肉食わせろ~」と地面に這いつくばっている。
玲奈先輩は、流石の体力で黙々と鎌を振るっていたが、さすがに疲れが出てきたようだった。今は皐月に膝枕してもらってご満悦の表情を浮かべている。正直うらやましい。
「……寝ちゃダメですよ、玲奈先輩。はい、九条さん冷たいお茶です」
「……ん。ありがと、悠太。ねぇ、周囲はどんな感じ? 音、変じゃない?」
「音? うーん、風の音と、遠くで車が走る音くらいかな」
皐月は時折、耳を澄ますように少し首を傾げる。彼女は情報の八割を聴覚から得ている。僕たちが見落とすような微細な変化を、彼女の耳は逃さない。
「今、空に雲はある?」
「西の方に綿菓子みたいなのが一つだけ。あとは突き抜けるような青だよ」
皐月は空を見上げて、眩しそうに目を細める、頭の中で青空を思い描いているのだろうか?
ふとした仕草すら絵になる、そんなことを思いつつ僕は皐月を見つめていた。
「……やっぱり、何か変じゃない?」
突然、玲奈先輩が上体を起こした。
「先輩、どうかしました?」
「さっきのリカちゃんのこと。あの子、依頼する時『明日、映える写真を撮る』って言ってたわよね。でも、この場所より映える場所ならたくさんあると思わない? 」
……確かにそうだ、SNS映えする写真を撮りたいなら他の映える場所を探す方が手っ取り早いのに、なぜリカは高級なマドレーヌという報酬まで用意して僕たちにこの場所の草むしりをさせたのだろう?
「あー、やっぱり部長もそう思うっすか? 俺もギャルと草むしりって結び付かないなって思ってたんす」
「……ねぇ、みんなで推理してみない? リカちゃんの本当の目的。第一回ひゃっか推理大会開催よ!」
玲奈先輩は、空のペットボトルを掲げ推理大会とやらの開催を宣言する、いきなり大会が開催されるのはこのサークルの伝統らしく、卒業した前の部長もこうして大喜利大会やクイズ大会を開催していた。
晴人の目が、好奇心でキラキラと輝き始めた。彼はこういうお祭り騒ぎの予感が大好きだ。
「先輩! 優勝商品はどうします?」
「優勝者は一番真相から遠かった人から夕飯奢り、とかどう?」
「いいっすね、それ! じゃあ俺から行くっす!」
晴人が勢い良く手を挙げた、こういう時率先して手を挙げるのはいつも彼だ、玲奈先輩は空のペットボトルを晴人に渡す、晴人はそれをマイク代わりに推理を披露し始めた。
「リカちゃんにとって重要なのはこの空き地じゃなくて、こっちじゃないっすか」
晴人は空き地の片隅に集められた雑草の山を指差した。
「リカちゃんはこの雑草をペットのヤギか何かの餌にしたいんすよ、きっと自宅近辺の雑草を食いつ尽くして餌不足になってしまった、だから雑草が大至急必要だった、どうっすか! この推理!」
「うーん、筋は通ってるかも知れないけど、映える写真を撮るって嘘は説明できないわね、却下」
「う、結構辛辣っすね……」
「次、凪ちゃん!」
見るからに落胆する晴人からペットボトルを取り上げると凪に渡す。凪も前例に倣っておどおどしつつも話し始めた。
僕の順番が近付いてくる、僕の懐事情は金欠というほどではないが他人に奢る余裕がある訳でもない、とにかく晴人には勝たないと、焼肉を奢らされる事だけは避けたい。
空き地に目を向けた、広い、これだけの広さがあれば何が出来る……。
「えっと、私は……、そうですね、リカさんの目撃証言から話して良いですか?」
「どうぞ」
「はい、リカさんなんですがここに向かう途中、西門の駐車場に何台もトラックが停まっていて、リカさんと軽音サークルメンバーがトラックの運転手と親しげに話しているのを見かけました、これが今回の依頼と繋がっているのであれば……」
しばしの沈黙の後、凪はメガネのフレームを指で押し上げる。
「リカさんたちは、ミュージックビデオの撮影をしたかったのではないでしょうか? トラックには撮影のための小道具などが積まれていたと推測します、それに、この場所は旧講堂の裏です、人通りも少ないですし演奏の音も旧講堂が壁になって新校舎側にはあまり届かない」
晴人は「なるほど~、ありそうっすね」と呑気に手を叩いているが、自分の置かれている状況を理解しているのだろうか、このままだと凪に奢ることになるんだぞ?
「MVの撮影と言わなかった理由ですが、リカさんはサークルの誰かにサプライズがしたかったのだと思います、私たち経由で情報漏洩するリスクを避けたかったのではないでしょうか」
自らの推理を語り終えると凪は一礼してペットボトルを僕に手渡した。
「さすが凪ちゃん、小鳥くんとは大違いね! こっちおいでなでなでしてあげる!」「あ、遠慮しときます……」
玲奈先輩が女の子に甘いのは最初から分かっていた事だが、さっきと態度が違いすぎる。
しかし彼女の推理はかなり筋が通っているというのも事実だ、小鳥谷晴人のヤギの餌説を超える推理をしなければ。
僕は預かったペットボトルのキャップをいじりながら、自分なりに筋の通った現実的なラインを探った。
やはり、依頼者リカのサークルが軽音サークルという点は見逃せないだろう、この依頼は音楽に関係している、そう直感した。
「えっと……僕は、凪ちゃんの説と似てるんだけど、リカさんたちがここに野外ライブ用特設ステージを作ろうとしてるんじゃないかと思うんだ」
「こんな辺鄙な所に?」
「玲奈先輩、辺鄙な所だから許可されたんです、大学に。凪ちゃんの言ったようにこの場所は旧講堂が防音壁になります」
なるほど、と玲奈先輩が頷く。
「きっと、リカさんは自分たちで草をむしる時間が無いから、僕たちを業者代わりに使って、ステージを組む下準備をさせているんじゃないかな」
現に作業開始から二時間以上経っているがまだ草は残っている、仮に作業終了まで三時間かかると仮定して考える、ライブの開催となれば草むしり以外にもやることは山積みのはずだ、三時間もの時間を費やせるほど軽音サークルも暇ではないだろう。
「凪ちゃんの見かけた西門のトラックも、ライブ用のアンプとか機材を積んでるなら辻褄が合う。そしてリカさんが嘘をついた理由ですが、僕たちに期待を持たせたくなかったのだと思います、大学からの許可は一応下りている、あるいはまだ交渉段階でリカさんが先走ってしまったか、いずれにせよライブは中止になる可能性もあった、だから彼女は嘘をついた『映える写真を撮る』とね」
我ながら、かなり説得力がある気がした。晴人も「おおー、田中先輩、それっぽいっす!」と拍手を送る。
しかし、その拍手を遮るように、木陰から涼やかな声が響いた。
「……悠太、50点。でも、現実はカフェオレみたいに甘くないわ」
皐月が、ゆっくりと目を開けた。
50点か、どうやら僕の推理は全くの見当外れという訳ではなさそうだ、奢りも回避出来ていれば良いが。
――待て、50点?
背筋に冷たいものが走った。どうして彼女は、僕の推理に点数なんてつけられるんだ? どうして現実は甘くない、なんて言えるんだ?
僕は晴人と凪の推理に点数を付けられなかった、自分自身正解を知らないからだ、それは他の皆も同じだろう、だが皐月は50点という具体的な点数を出した。つまり、彼女の頭の中にはすでに百点満点の正解が存在していることにならないか?
恐る恐る僕は皐月に尋ねる。
「九条さん、僕の推理は何が間違っていて何が正しかったの?」
「……野外ステージを作るという目的は合ってる、でも場所と時間が違う」
「場所と時間?」
「そう、場所は西門付近の広場、時間は――今、もうあちらのステージは完成してる」
「……九条先輩、それは飛躍しすぎっす」
今まで黙っていた晴人が、我慢できなくなったように皐月に食ってかかった、手にした鎌を突きだし、納得いかないとばかりに顔をしかめる。
しかし皐月は平然としていた、そよ風でも浴びているかのような態度で晴人の言葉を受け流す。
「あら、聞こえないの? ステージを組み立てている音」
「組み立てている音……?」
僕は思わず耳を澄ませた。けれど、僕の耳に届くのは、初夏の湿り気を帯びた風が草を揺らす音と、遠くの幹線道路を走る大型車の走行音だけだ。
隣で晴人が釈然としない様子で頭を掻いた。
「西門付近の広場って……じゃあ、この空き地はどう説明するんすか? 俺達が汗だくになって草むしりさせられた理由は?」
「リカって子があなた達に草むしりを依頼したのは、この場所にステージを作りたいからじゃない、あなた達ひゃっかを、この緑の監獄に数時間単位で拘束するためよ」
「でも、それなら俺たちにステージ設営の手伝いをさせれば良いじゃないっすか!」
「そうね、正式に許可されたイベントなら、その選択肢もあったでしょうね」
皐月は立ち上がり、すっと白い日傘を差す、視線をどこに向けるでもなく、しかし確実に真相を捉えているような横顔で言葉を紡ぐ。
「でも、これから彼女たちがやろうとしているのは無許可のゲリラライブ。あなた達ひゃっかは大学側の依頼も受けていて信頼も厚い、それに面倒事に積極的に首を突っ込んでくるお人好し集団でしょう? だから、放置という訳にもいかなかった」
「つまり、リカさん達は僕達ひゃっかが邪魔だったから、……会場から遠く離れたこの空き地に心理的に拘束した……」
すとん、腑に落ちたと同時に、脳裏に冷や汗がにじむ。
全ては無許可のライブイベントを成功させるために。
僕の推理に足りないものは、ほんの一つまみの悪意――いや規律を出し抜くための学生特有の打算だったのだ。
ぞくり、と皮膚が粟立つ。
何も見えないはずの皐月の瞳がその瞬間だけ全てを見透かしているように見えた、皐月は冷ややかな視線を僕に向ける。
「悠太はさっき『この場所にステージを作れば旧講堂が防音壁になる』って言ったけど、逆も言えるんじゃない? ――西門の騒ぎもここまでは届かない」
頭の中でパズルのピースが填まっていく、僕たちが『誰も来ないからライブ会場に好都合だ』と思い込んでいたこの空間は、言い換えれば厄介者の隔離場所だったのだ。
「……ねぇ、悠太。今から答え合わせに行ってみない?」
言うが早いか、皐月は白杖を手にして、冷徹な探偵の顔から一転、いたずらを思いついた子どものような笑みを浮かべた。
その、急激な表情の変化に、僕の心臓は、また妙な跳ね方をした。
「答え合わせって、九条さん……無許可のイベントなら、すぐに大学の事務局に通報して止めないと……」
その言葉に、玲奈先輩がハッとした顔でスマホを取り出し、どこかへ電話をかけ始めた。事務局か、あるいは警備室だろう。
「行くよ、悠太。早くしないと始まる」
足取りも軽く、皐月は歩き出した、地面を叩く白杖のリズムが彼女の内面を物語っているみたいだった。
こういうときの皐月の行動力は凄まじい、見えてないんだからゆっくり歩いてよと思いつつ僕は溜息をつき、彼女の隣に並ぶ。
両手が塞がった皐月から日傘を受け取ると、空の左手が僕のシャツの袖をきゅっと掴んだ。
「……九条さん、もしかしてワクワクしてます?」
「うん、こういうの初めてだから。それに、危険を冒してまで鳴らしたい音に興味がある」
皐月は再びいたずらっ子の笑みを浮かべた。
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西門の広場は、混沌の渦中にあった。
そこにはすでに人だかりができていた。即席のステージ中央には、巨大なアンプやスピーカーが並べられ、軽音サークルのメンバーたちが慌ただしくケーブルを繋いでいる。その中心で、僕たちに草むしりを依頼したリカさんが、マイクを持って指示を出していた。
「すごい……」
ライブの開始を今か今かと待ちわびる観客、ステージ上を縦横無尽に駆け回るバンドマン達、僕は、彼らの熱気に圧倒されてただ呆然と立ち尽くしていた、皐月がステージの方に吸い寄せられるように歩いていくのすら気付かないほどだった。
「リカちゃん!」
玲奈先輩の凛とした声が響く。マイクを握っていたリカさんは肩をびくりと震わせ、ゆっくりとこちらを振り返った。
その顔は、驚愕と焦燥の入り混じった思考停止一歩手前と言った顔だった、先程までの覇気はもう微塵も感じられない。
「っ、え……なんで、ここに……。草むしりは……!?」
「悪いけど、うちのかわいい探偵さんが優秀すぎてね。……種明かしは済んでいるわよ」
玲奈先輩は腕を組んだまま広場の特設ステージへと詰めよ寄っていく。
「すぐに撤収しなさい。警備員さんがここに来るまで、あと三分もないわ」
玲奈先輩の言葉に、設営していた学生たちが凍りつく。
「え、撤収?」「え~ライブやんないの?」「警備員来んの、不味くね?」観客の学生からも動揺と落胆の声が上がる。
「まだ、音出しもしてないのに……っ」
しかし、この場で一番落胆していたのは紛れもなくリカ達だった。リカは膝を突き、抱えていたギターを重そうに地面に置いた。彼女の大きな瞳から、ぽろぽろと涙がこぼれ落ちる。
「……だって、もう今日しかないんだもん……。あいつら、明日には帰っちゃうんだよ……!」
その後、三分も掛からず警備員と事務局の職員が駆け付けた、学生達がステージの前から散り散りに去っていく
無許可のゲリラライブは、演奏が始まる前に完全に差し止めとなった。
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それからの一時間は大騒ぎだった、大人達に物凄い剣幕で怒鳴られた彼女達はシュンとした表情でステージの撤去を始めた。
ライブ会場の後片付けはひゃっかのメンバーも動員して急ピッチで進められた、もっとも草むしり後の重労働はかなり堪えたけれど。
軽音サークルは、本来ならサークル活動停止処分になってもおかしくない状況だったけけれど、幸い、まだ音出しをしていなかったことと、何より勉強以外何でも出来る玲奈先輩が上手く事務局と交渉してくれたおかげで、厳しい処分は免れた。
僕と皐月、そして玲奈先輩は西門近くのベンチに腰を下ろし、夕暮れ時の涼しい風に当たりながら、依頼人のリカから事の真相を聞いた。
「本当に……ごめんなさい。みんなを騙して、草むしりなんかさせちゃって……」
リカさんは、泣き腫らした目でうつむきながら、小さくなって僕たちに頭を下げた。
「あいつらのサークルはね、活動資金が不足したり、メンバーの脱退があったりして、今日を最後に解散することが決まっちゃって、それが知らされたのが三日前。それで最後に、あいつらと対バンライブすることになった。お互いの音楽をぶつけ合って、笑って終わりたかったの」
彼女の指が、自分のデニムをきゅっと握りしめる。
「でも、大学の正式なステージ使用申請って、二週間前までに書類を出さなきゃいけないじゃん? そんなの間に合うわけない。でも、今日を逃したら、もう二度とあいつらとライブなんてできないかもしれなくて……。だから、ゲリラでもいいから強行しようってなっちゃったの」
「それで、僕たちひゃっかが邪魔だった、と」
僕がそう言うと、リカさんは消え入りそうな声で「うん……」と頷いた。
「ひゃっかはフットワークが軽いし、学内の変な動きにすぐ気づくから。もし西門でライブの準備をしてるのがバレたら、絶対に止めにくるって思った。だから、『一番遠くて、広くて、夕方まで絶対に終わらない講堂裏の空き地に閉じ込めよう』って話になって……。みんなに嫌な思いをさせるつもりはなかったの……」
打算の中にあった、彼女なりの切実な理由。
それを聞き終えた僕は、これ以上彼女たちを責める気にはなれなかった。
「どんな理由があれ、無許可は無許可。今回はお姉さんの顔に免じて手続きを裏で通してあげたからお咎めなしだけど、次は絶対に正規の手順を踏みなさい。分かった?」
「はい……。玲奈先輩、本当にありがとうございました……!」
リカさんは何度も頭を下げた後、機材を片付けている他校のメンバーたちの元へと戻っていった。 その背中は寂しそうだったけれど、さっきまでの覇気が戻ってきたようにも見えた。
ベンチに残された僕たち。
皐月は感情の読み取れない澄ました表情で、傾けた日傘をくるくる回していた。
「……残念だった?」
僕が小声で尋ねると、皐月はしばらく沈黙した後、ゆっくりと首を横に振った。
「ううん。……生ライブが聞けなかったのは残念かも知れないけど、玲奈先輩のおかげで彼女たちはまたライブが出来る……。ありがと先輩」
隣で玲奈先輩が顔を赤くしている。一方の皐月は、いたずらっ子を通り越した邪悪な笑みを浮かべていた。
「ねぇ、玲奈先輩。軽音サークルはひゃっかに返しきれない恩があるわ、だから……彼女達に焼肉でも奢ってもらいましょう?」
晴人は大賛成すると確信できる提案だった。確かに玲奈先輩はサークルの恩人かも知れない、でも、皐月さんそれはやり過ぎだって。僕は皐月に恐怖すら感じた、きっと彼女は本気で奢ってもらおうと思っている。
「うーん、わたしだったらキャンパス中の草むしりさせるかな~」
さらっと恐ろしい事を言って玲奈先輩は立ち去って行った、向かう先はまだ後片付けを手伝っている晴人と凪の所だった。
西日が残された僕達二人を照らしている。僕もみんなを手伝おうか、そう思って立ち上がる、スッと伸びた手が僕のシャツの袖をきゅっと掴んだ。
「私も行く」
「行くってどこに?」
「悠太の行くところ」
皐月は僕の袖を掴んだまま、ぐっと顔を近づけてきた。焦点の合いにくい、けれどビー玉のように綺麗な黒い瞳が、僕の目をじっと見つめる。
夕暮れの光のせいだけじゃない。僕の顔は、確実に今、昼間の炎天下よりも赤くなっている自覚があった。
「そう言えば推理大会の賞品、小鳥くんが九条さんに夕飯奢ることになるのかな」
「私はひゃっかのメンバーじゃないから、悠太が奢ってもらえば良いわ」
それか、うやむやのまま終わらせれば良い。そう言って皐月はシャツを掴んだまま歩き出す。
「……やっぱり悠太が好き……。間違えた……間違ってはいないけど」
不意打ちの言葉に、心臓が痛いほど跳ね上がる。
未だ熱気の冷めやらぬステージ跡に向かう途中。皐月は、僕にしか聞こえないような小さな声で、けれどはっきりと言った。
「どっちだよ」
僕が苦笑すると、彼女は照れ隠しのように、すっと僕から視線を逸らした。
けれど、僕の服の裾を掴んだままの指先は、さっきよりも少しだけ、力強く握られているような気がした。
平凡な大学生、田中悠太の日常は、素直クールな美少女、九条皐月の存在によって、間違いなく鮮烈な彩りが加えられた。