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梅雨空と不在証明
なぜそのタイトルにしたか:小説の内容を端的に表すものだから
こだわったポイントは何か:日常の謎のリアリティ、九条皐月の可愛さを引き出すこと
ジャンルは?:ラブコメ、ミステリー、日常の謎
ネットニュースによると、気象庁は関東地方の梅雨入りを発表したそうだ。
昼休みの時間帯だというのに外は薄暗く、じっとりと湿気を帯びた空気が肌にまとわりつく、耳を澄ませばシトシト降る雨音が聞こえてくる、まさしく梅雨だ。
「九条さん、この辺りも梅雨入りしたって」
「……知ってる、気象庁が発表しなくても私が梅雨入り宣言する」
国立翠明大学新校舎の片隅、備品倉庫兼僕の所属するサークル、何でも屋『ひゃっか』の部室は、普段の喧騒が嘘のように静まり返っている。
薄暗い部屋の隅、特等席である古いソファには、艶のある黒髪をボブカットにした美少女がクッションを抱えるようにして丸まっていた。
文学部史学科二年の九条皐月だ。
「うぅ……頭が重い……。低気圧のバカ……」
ソファの隅で、皐月はこめかみを白い指先で押さえながら、小さく唸り声を漏らしていた。
彼女はロービジョン――社会的盲導を必要とするほどの視覚障害を抱えている。いつもは凛として、どこか超然とした雰囲気を纏っている彼女だが、梅雨時の気圧変化には弱いらしい。
いつもの眼精疲労に加えて重い低気圧頭痛が襲っているようで、完全に省エネモード――いや、機能停止寸前になっていた。
僕は彼女のために部室の蛍光灯のスイッチを切り、部屋の隅にある小さな間接照明だけを灯した。部屋全体がぼんやりとしたオレンジ色の光に包まれる。
「九条さん、大丈夫? そんなにしんどいなら今日はもう帰った方が……」
「……帰りたい、でも五限目は必修なの、それに昨日夜更かしして作成したレポートも提出しないと……」
消え入りそうな声で呟く彼女を見つめる、彼女のことは心配だがしてあげられることは多くない。
なので僕はなるべく大きな音を立てないように長机に突っ伏して過ごすことにした。次の講義の予習でもすれば良いのだろうが僕も何だかやる気が出ない。これもきっと梅雨のせいだ。
「悠太、寝てるの? 起きて?」
――それから、どうやら僕は寝ていたようだ、皐月に呼ばれて目を覚ます。どのくらいの間寝ていたのか、壁に掛けられた時計を見ると三十分くらい経っていた。
「あれ僕、寝てた?」
「うん、寝息が聞こえた。悠太ちょっとこっち来て」
「わかった今行く」
瞼を擦りながら僕は皐月に呼ばれるまま彼女の座るソファに腰を下ろす。彼女の右隣はレジュメや資料を代読する時の僕の定位置だ。
僕が定位置に着いたことを確認した彼女は膝の上のスマートフォンから機械的な合成音声を流した
「――カフェインは、脳の血管を収縮させ、低気圧による頭痛の痛みを軽減する効果が……」
どうやら、スマホの音声検索機能を使って頭痛の対処法を調べていたらしい。
皐月はスマホの画面を伏せると、ふぅ、と熱い吐息をこぼした。そして僕の方へ顔を向ける。
焦点の合いにくい、けれど吸い込まれるように黒く澄んだ瞳が、僕の姿をぼんやりと捉えていた。
彼女は上目遣いのまま、少し照れくさそうに自分の指先をもぞもぞと動かした。
「ねぇ、悠太……」
「うん? どうしたの?」
「コーヒーに含まれるカフェインが頭痛に良い影響を与えることがあるわ。だから……その」
彼女はそこで言葉を区切り、ほんのりと頬を桜色に染めた。そして僕のシャツの袖をきゅっと掴んで少しだけ声を潜める。
「このあと、一緒にアイリスに、コーヒーを飲みに行かない?」
「――っ!」
その瞬間、僕の心臓がどくんと大きく跳ね上がった。
『アイリス』
それは、キャンパス裏手にあるアンティーク調の落ち着いた雰囲気が人気の老舗喫茶店だ。薄暗い照明と、マスターこだわりの自家焙煎コーヒーが評判で、内装のロマンチックさも手伝って、学生の間では「あそこに行く男女はほぼカップル」と噂されるような、少し特別な場合だった。
(一緒、に……アイリス、でコーヒー……!?)
脳内を激しい動揺が駆け巡る。
それって、つまり……僕と九条さんが、二人でデート……いやいや、落ち着け僕! 深呼吸だ!
彼女は頭痛対策としてカフェインを摂取したいだけだ、勘違いするな僕。ただ、ロービジョンだからアイリスまでの付き添いが欲しいだけ。たまたまこの場所に居たのが僕だからで、玲奈先輩でも晴人でも凪でも誰でも良いんだ。
そう自分に言い聞かせるけど、目の前で僕の袖を掴んだまま、じっと返事を待つ皐月の姿はあまりに破壊力が高い。
「……今のは、ため息? それとも深呼吸? 嫌なら無理する必要はないわ、あそこなら私一人で――」
「嫌じゃないよ! 行く、喜んで行くから!」
慌てて叫んだ僕の過剰な反応に、皐月は目を見開いた後、ふっと嬉しそうに、けれど少し意地悪そうに微笑んだ。
「よかった。じゃあ、雨が弱まるまでもう少しここで――」
パチ、という音と共に部屋が明るくなる。
「田中先輩、居るなら電気くらい点けましょうよ。で、どこ行くんすか?」
「あ……」
一瞬にして現実に引き戻された。
翠明大学一年の小鳥谷晴人は、僕と皐月のツーショットを目に留めるとニヤニヤと下品な笑みを浮かべた。
「おっと、これはあれっすか? ラブコメっすか? いや~、梅雨のジメジメを吹き飛ばす熱々のラブコメ、ごちそうさまっす」
「ち、違うよ、九条さんは頭痛が――」
「えーでも、顔真っ赤っすよ、先輩?」
ニヤニヤ顔のまま晴人はパイプ椅子にどっかりと腰掛る。
「う、それは……」
言葉に詰まる、美少女の隣で慌てた声を出して顔を真っ赤にしている今の状況は、客観的に見てかなりラブコメチックだ。
「ほ、ほら九条さんも何か言ってやりなよ!」
晴人の誤解を解いてくれることを期待して僕は皐月に声をかけるがその期待も空しく、皐月は目を細めて「眩しい……」と一言呟いてクッションに顔を埋めるだけ。
それから、僕は晴人の誤解を解くため、事の次第を説明する羽目になった。もちろん心の内は隠したままだ。
結論から言うと誤解は解けた、しかし「女の子と喫茶店に行くくらいで大げさっすよ」と若干冷ややかな視線を向けられるのだった。
「まぁ、大体事情はわかったんで、雨が上がるまでの暇潰しに俺のちょっと奇妙な話でも聞いてくださいよ」
晴人は表情を少し改め、怪談でも話すようなトーンで声を潜めた。
雨足は依然として強いまま、外に出るのを躊躇うような雨だ、僕は晴人の話を聞くことにした。
「実は、今日の二限の話なんすよ。法学部の『大林教授の講義』なんですけど。大林教授って、出席にめちゃくちゃ厳しくて有名な鬼教授のやつっす」
「あ、聞いたことある。出席カードの代返とかピ逃げを徹底的に取り締まってる教授だよね」
「そう、それっす!」晴人は頷く。「それで、俺の親しい法学部の友人、マコトって奴がいるんすけど。そいつから昨日の昼休み、必死の形相で『どうしても外せない用事があって明日は来れない。ICカードを預けるから、カードリーダーに代わりにタッチしてくれ』って代返、――この場合は代ピっすね、それを頼まれたんす」
大林教授の、というよりこの大学の講義の出席判定は、講義開始前の十分間に教室の前方に設置されたリーダーに学生証のICカードをタッチするシステムだ。
晴人は頼まれた通り、マコトから預かったICカードを受付時間内にタッチし、自分の席である教室の前方の席に座って講義を受けた。
「マコトのカードは、ずっと俺の胸ポケットに入ったままでした。だから当然、マコト本人はその講義には出ていない、別の場所にいるはずだったんすよ」
「それで? 何が起きたの?」と、僕は先を促した。晴人は、そこで一拍置き、人差し指を立てて本格的に怪談話のトーンになった。
「ところが、講義が終わって、学生がぞろぞろと出ていくとき、ふと後ろのドアの方を見たんすよ。そしたら……いたんす」 「マコトが?」 「いや、マコトそっくりの奴っす! 服装も、髪型も、ガタイも完全にマコト。ただ、黒いマスクで顔を半分隠して、フードを目深に被って、誰とも目を合わせないように足早に階段教室を去っていったんすよ」
僕は首を傾げた。
「それ……単にマコト本人が、後ろの席で受けてたんじゃないの? 外せない用事が向こうの都合で先伸ばしになったとか」
「俺もそう思ったんすよ! だから教室を出てすぐにマコトにLINEしたんす。『お前、実は教室にいたのか? 後ろから出ていくの見たぞ』って。そしたら、あいつなんて返してきたと思います?」
晴人はスマートフォンの画面を僕に見せてきた。
そこには、マコトからの必死な様子のメッセージが残されていた。
『いや、出てない。マジで出てないから、そもそも俺は今日、大学に来ていない』
『別の場所にいた。絶対に教室には行ってない。おまえが見たのは別人だ』
画面の文字を読み取ることはできない皐月だったが、僕が「……絶対に教室には行ってない、か。ずいぶん頑なだね」と呟くのを、じっと耳を澄ませて聞いていた。
「不思議じゃないっすか?」晴人は楽しげに笑う。
「もし、俺の目撃したマコトが本人ならなんでわざわざ代返なんか頼んだんすかね、普通に講義受ければ良いのに、ていうか大学に来てるなら早くカード返したいんすけど!」
「なるほどな」
僕はあごに手を当てた、確かに奇妙な話だ。
晴人が目撃したいないはずのマコト君が本人なら、なぜ晴人に代返を依頼したにも関わらず、講義を受けていたのか。
もし大林教授が途中で指名質問をするタイプの教授なら、本当にサボって教室にいないのはハイリスクすぎる。だからマコト君は、なんとか教室に忍び込んで後ろの席に隠れていた......?
いや、それだとカードを預けて、晴人にタッチしてもらう意味がなくなる。
「マコトが本当に大学に来ていないならあのマコトそっくりの奴は何者なんだって話っす。これって、ドッペルゲンガーとか、あるいはマコトが双子の兄弟と入れ替わってた的なやつなんじゃないかって、ちょっとゾクッとしたんすよね。いやー、大学って広いと奇妙なことがあるもんだなーって!」
晴人はただの世間話として、このジメジメした梅雨の暇つぶしにしたかったのだろう。しかし、その無邪気な話を、ソファの隅にいた本物の探偵が、にべもなく一蹴した。
「そんなの、オカルトでも推理小説のトリックでも何でもないわ」
気怠げに、しかし確固たる自信を持った皐月の声が部室に響いた。
彼女はクッションから頭を離し、背筋を伸ばす、こめかみを軽く揉んで、閉じていた瞳をゆっくりと開く。
「えっ、九条さん?」 「九条先輩、何かわかったんすか!?」
晴人が期待に満ちた顔で椅子から身を乗り出すが、皐月は意に介さない。彼女の脳細胞が、低気圧の頭痛に抗うようにして、高速で回転し始めているのが空気の張り詰めで分かった。
「悠太」
「うん、何?」
「私は法学部棟の教室に入ったことがないわ。その教室の構造とレイアウトを説明して」
「あそこは古い講堂を改装した、かなり斜度の急な階段教室だよ」
僕は頭の中に、大林教授がよく使う301教室の立体図を描き出し、それを言葉に変換した。
「出入り口は教壇のすぐ脇、前方に一つと、後ろの最上段の席のすぐ近くに一つ。前方の入り口には出席用のカードリーダーが設置されているけど、後ろの入り口には設置されていない。古いドアだから静かに開けないと軋むけど、教壇から見ると後ろの席はかなり高い位置にあるし、教授が黒板に向かっている隙を狙って後ろのドアから入れば、死角になって入退室しても気づかれにくいんじゃないかな?」
僕の説明を、皐月は頭の中で再現するように静かに聞いていた。そして、ふっと満足そうに微笑んだ。
「つまり、教室に入る学生のほとんどは前のドアから入り、前の席から埋まっていく、だから後ろの方は空席が多い、そうでしょ?」
「そうっすね」
晴人は短く首肯する。
「小鳥君、あなたの友達は教授にも学生にも気づかれにくい入り口を使って教室に侵入し授業を受けたの、恐らくマコト君は大林教授の授業を受けたかった、でも大林教授の講義を受けていると知られたくない面倒な相手がいた。そういう人物に心当たりは?」
皐月の問いに、晴人は「あ」と何かを思い出したようにポンと手を叩いた。
「そういえば......! あいつ、うちの大学でちょっと有名で凶悪な体育会系サークルの幹部、剛田先輩って人に気に入られて、目をつけられてるんすよ。その先輩、下級生を呼び出しては『暇だろ? 今から俺のパチンコに付き合え』とか『麻雀に付き合え』って、強引に連れ回すことで悪名高いんす」
「……十分ね。小鳥君、あなたの友達は、あなたを最も都合が良く、最も騙されている、無垢なアリバイの証人に仕立て上げたのよ」
「え……? 証人、っすか?」
皐月は確信に満ちた笑みを浮かべ。晴人が目を丸くする。
「そうよ」
「マコト君が求めていたのは。その剛田先輩という、絶対に断れない、かつ捕まりたくない相手に対する完璧な不在証明(アリバイ)だったのよ」
「どういうことだい、九条さん?」
僕は尋ねた。
「昨日、剛田先輩からマコト君に連絡が入ったはずよ。『明日オレに付き合え』とね。でも、大林教授の講義を休めば単位を落として留年してしまう。かと言って『講義があるので行けません』と断れば、『じゃあ講義が終わった後なら問題ないよな』と講義終わりに連行される。だから、彼は嘘をついたの。『明日はどうしても外せない用事があって来れない』と、先輩と言えどいない人物を自分の趣味に付き合わせることは出来ない」
皐月の凛とした声が、しとしとと降る雨音を背景に、謎の核心を解き明かしていく。
「マコト君としては本当にサボれるならサボりたかった、怖い先輩に嘘は吐きたくないからね。でも、大林教授の講義の単位も、落とせば留年確定で絶対に落とせない。そこで彼は二つの問題を同時にクリアするための『身代わりアリバイ』を計画したの」
皐月は人差し指をすっと立てた。
「ここで問題になるのが、小鳥君、あなたの存在よ」
「俺っすか?」
晴人が我が身を指さす。
「そう。あなたは学内に広いネットワークを持ち、マコト君の親しい友人でもある。もし剛田先輩が、マコト君の嘘を疑って、彼の友人であるあなたに『今日マコトはどうした? 大学で見かけなかったか?』と探りを入れてきたらどうなるかしら?」
「あ......」
晴人の顔色が変わる。
「俺がもし、普通にマコトが大学に来てるのを知ってたら、『あ、マコトなら二限の講義に出てましたよ』って、悪気なく本当のことを言っちゃうかもしれないっす......」
「その通り。悪意のない身内の証言ほど、嘘を暴くのに強力なものはないわ。マコト君が一番恐れた
のは、あなた経由で実は大学に来ていたという事実が剛田先輩に漏れることだった。だから彼は、あなたに対して自分は用事があって、今日は大学に来ていないという状況を信じ込ませる必要があったの。マコト君が欲しかったのは、あなたの騙されているからこそ生まれる、曇りのない“あいつは今日、大学に来ていません”という証言だったのよ」
僕も晴人も、なるほどと、同じタイミングで息を漏らした。
「だから彼は、カードをあなたに預けた」皐月は続ける。
「カードを預ければ、あなたは確実に『あいつは今、手元にカードがない=物理的に大学に来ていない』と信じ込む。その上で、彼は大林教授の抜き打ちチェックを回避するために、マスクで顔を隠し、カードリーダーを通らずに後ろの死角のドアからこっそり教室に忍び込んだ」
「......つまり」僕が整理する。
「大林教授に対しては『カードタッチによる出席記録』と『本人がこっそり後ろにいる実態』で単位を守り、剛田先輩に対しては、晴人を騙すことで『欠席のアリバイ』を作って、呼び出しを回避しようとした、ということか」
「その通りよ。あなたに『お前、教室にいただろ』と問い詰められたとき、彼が頑なに『出てない』と言い張ったのも同じ理由。そこで『実は出てたんだ、内緒にしてくれよ』と白状してしまえば、万が一、あなたの口から剛田先輩に漏れるリスクが残るから。彼は最後まで、あなたに対して完璧な不在の証人であってほしかったのね」
「す、すげえ......! 完璧に辻褄が合ったっす!」
皐月の鮮やかな推理によって代返依頼の真相が解き明かされ、晴人は手を叩いて感嘆の声を上げた。
僕は背筋が寒くなるのを感じた、あの草むしりの時と同じだ。拡大読書器を使わなければ手に取った本のタイトルすら読めない彼女だが、頭の中ではマコトと先輩のやり取りが鮮明に浮かび上がっているに違いない。
皐月とは入学以来、一年半ほど一緒にいるけどまだまだ底が見えない、そんな彼女に僕は強く惹かれてしまう。
「教授の抜き打ちチェックを警戒しつつ、出席カードのタッチは俺にやらせて、自分は後ろの死角で講義を受けてた……。めちゃくちゃ回りくどいっすけど、言われてみればあいつの性格ならやりかねないっす!」
晴人は感動したように叫ぶと、すぐにスマホを操作してマコトにメッセージを送信した。
すぐに、晴人のスマホが激しく振動した。画面には、青ざめたマコトからの『まじで、まじで剛田先輩には内緒にしてください! 捕まったら明日まで解放されません! 命がかかってます! 今度美味いもん奢るから!』という悲痛な懇願スタンプが連打されていた。
「あはは、あいつ、完全に観念したっす。これで次の焼肉はマコトの奢りで決定っすね!」
「疑問が解けたなら良かったわ。これであなたの頭のモヤモヤも晴れたでしょう」
いつの間にか、先ほどまでの激しい土砂降りはすっかり収まり、しとしととした静かな小雨に変わっている。どんよりとした雲の隙間から、柔らかい薄光が差し込み、雨粒に濡れたサークル棟前の紫陽花をキラキラと濡らしていた。
皐月はゆっくりとソファから立ち上がると、愛用しているベージュ色のトートバッグを手に取り、僕の方を振り返った。
「雨も弱まってきたわね。……悠太、さっきの約束、覚えてかしら?」
「え? あ、うん! アイリスだよね」
僕が答えると、皐月は満足そうに小さく頷いた。
「ええ。カフェインを補給して、この重い頭痛を吹き飛ばしに行きましょう。……もちろん、あなたと二人でね」
語尾に付け加えられた一言と、ほんのり頬を染めた皐月の横顔に、僕の胸が再びドクンと音を立てる。
(やっぱり、覚えててくれたんだ……! 二人きりでアイリス……!)
「それじゃあ行きますか、あ、アイリスはチーズケーキが美味しいって知ってます? スイ研の先輩が絶品だから在学中に一度は食べとけって言ってたんすよ!」
舞い上がる僕の隣で、晴人は目を輝かせ、行く気満々といった様子で椅子から立ち上がる。おい晴人! 空気! 空気を読んでくれ!!
心のなかで絶叫する僕をよそに、晴人は「三人で行けば賑やかで楽しいっすよー!」と完全にノリノリだ。
だが、そんな晴人の無邪気なアピールを、氷のような冷ややかな視線が貫いた。
「断るわ」
一瞬の躊躇もなく放たれた皐月の即答に、晴人は「ぶほっ!?」と変な声を上げた。
「く、九条さん!? なんでっすか! 俺、何か気に障ること言いました!?」
「アイリスはクラシック音楽が流れる静寂と落ち着きを楽しむ喫茶店よ。賑やかさなんてこれっぽっちも必要ないの。あなたの存在そのものが、あの店のコンセプトと真っ向から衝突するわ」
「存在そのものが衝突!? 俺、そんなに騒音兵器扱いっすか!?」
「それに――」
皐月はすっと指を立て、凛とした声で言葉を継いだ。
「私はただでさえ低気圧で頭が痛いの、あなたの声を聞きながらだとカフェインの効果も半減するわ。……それに、私は悠太に『二人で』行こうと誘ったの。割り込むような野暮な真似は遠慮してもらえるかしら」
「ぐはっ……! や、野暮……!」
皐月の容赦ないストレートパンチに、晴人は胸を押さえて崩れ落ちた。
完全にノックアウトされた弟分を見て、僕は申し訳なさと同時に、皐月の「悠太に二人で行こうと誘ったの」という言葉に心臓がバックバクに跳ね上がっていた。
(九条さん……そこまでハッキリ言ってくれるなんて……!)
「さあ悠太、行きましょう。あなたには、この部室の鍵閉めと、ゴミ捨てという重要な任務を与えます」
「了解っす……。俺は大人しく部室の掃除して帰るっすよ……。田中先輩、末永くお幸せに……」
「おい、変な言い方すんな!」
また、顔が真っ赤になっているのを感じつつ、僕は皐月の隣に立つ、彼女はすっと白い手を伸ばし、僕のシャツの袖口をきゅっと掴んだ。
いつもの、僕に目としてのサポートを求める合図。けれど、今日のその手は、いつもより少しだけ力がこもっているように感じられた。
きっと、僕はこの先もこうして九条皐月に振り回されるのだろう。そんな幸せな未来を思い描きながら、僕たちはひゃっかの部室を後にした。