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深夜2時のナースコール
その病院の小児病棟には、古い噂があった。
『夜中の2時になると、誰もいないはずの412号室からナースコールが鳴る』
医療現場において、原因の分からない怪奇現象ほどタチの悪いものはない。最初は機材の誤作動だと言い訳が立ったが、何度点検しても配線に異常はなかった。コールが鳴るたびに当直の看護師が青い顔をして部屋へ駆けつけるが、そこにあるのは綺麗にベッドメイクされた無人の空間だけだった。
やがてスタッフの間で、こんな仮説が囁かれるようになった。
「……あそこ、一週間前に亡くなった美緒ちゃんの部屋だよね」
背筋が凍るようなその一言に、誰も反論できなかった。
中学生の姫宮美緒(ひめみやみお)、13歳。
難病を患い、長い闘病の末にその病室で息を引き取った少女だった。生前の彼女は、抗がん剤の副作用や終わりの見えない痛みに耐え続け、心を閉ざしかけていた。
だが、その硬く閉ざされた扉をこじ開けた男がいた。この病院に赴任して間もない、新人看護師の木村柾哉(きむらまさや)だった。
「ねえ、柾哉くん。私、死んだらどうなるの」
ある夜、鎮痛剤が切れて冷や汗を流しながら、美緒は震える声でそう尋ねたことがある。
まだ二十五歳の柾哉には、その問いに上手く答えることができなかった。綺麗事の励ましなど無意味だと分かっていたからだ。だから彼は、ただ黙って美緒の細い手を握りしめ、自分が夜勤のときはいつでもカーテンの隙間から顔を出して、馬鹿げた冗談を言ったり、美緒の好きな小説の話をしたりした。
美緒が心を開いていたのは、病院中を見渡しても柾哉だけだった。
「私ね、柾哉くんと話してるときだけ、病気じゃない普通の女の子になれる気がする」
そう言って照れくさそうに笑った彼女の笑顔を、柾哉は今でも鮮明に覚えている。だからこそ、美緒の死を受け入れることができず、彼女の担当だったというだけで、胸が締め付けられるような罪悪感に苛まれていた。
その夜も、当直の柾哉をあの音が襲った。
「ピン、ポーーーン……」
深夜2時。静まり返ったナースステーションに、電子音が冷たく響き渡る。
「……またかよ」
同期の看護師が顔を引きつらせて呟く。誰も行きたがらないその部屋へ、柾哉は重い足取りで向かった。逃げ出したい恐怖と、美緒への申し訳なさがないまぜになり、心臓がうるさく脈打つ。
412号室の前に立つ。ドアの小窓からは、暗がりしか見えない。
柾哉は震える手でドアノブを回し、踏み込んだ。
部屋に入った瞬間、肌を刺すような異常な冷気が柾哉を包み込んだ。
暖房が効いているはずの室内は、真冬の屋外のように凍てついている。心電図モニターの電源は当然落ちており、部屋の隅にあるベッドのシーツは、ピシッとシワひとつなく整えられていた。
誰もいない。やはり、ただの怪談だ。そう自分に言い聞かせようとした時だった。
カチッ。
ベッドの枕元に備え付けられたナースコールのボタンが、自重で押し戻されるような音がした。
そして、誰もいないはずの空間で、ベッドのきしむ音がしたのだ。
「っ……!」
柾哉の足がすくむ。しかし、恐怖の奥から、懐かしい記憶がフツフツと湧き上がってきた。この部屋の匂い、この暗がり、そしてこの重苦しい空気。
柾哉は恐怖を振り払うように、震える声を絞り出した。
「……美緒、なのか?」
その瞬間、誰もいないベッドの脇の机に置かれていた、美緒が生前使っていたスケッチブックのページが、誰も触れていないのに「バサッ」と激しくめくれた。
柾哉は息を呑み、一歩ずつベッドへ近づいた。そして、開かれたページに目を凝らす。
そこには、鉛筆の先が折れそうになるほど強い筆圧で、乱暴に、しかし必死に書き殴られた文字があった。
『柾哉くん、痛くて眠れない』
『怖いよ』
『1人にしないで』
ページをめくる。次のページにも、同じように震えた文字が並んでいた。
『でも、隣がうるさい』
『女の子が、ずっと泣いてる』
『寝かせてあげて』
柾哉の体が、激しく震えた。
隣の部屋。そこには、数日前に新しく入院してきた、まだ五歳ほどの幼い女の子がいた。その子は夜になるたび発作の苦しみと恐怖で、一人で声を殺して泣いていたのだ。
すべてを悟った瞬間、柾哉の目から大粒の涙がこぼれ落ちた。
美緒が鳴らしていたナースコールは、自分が死んで寂しいからでも、誰かを怖がらせるためのものでもなかった。
自分がもう動かない体になり、声を出すこともできず、冷たい闇の中でどれほど恐怖に震えていたとしても――それでも美緒は、自分のことよりも、隣の部屋で泣いている小さな命の苦しみに気づいていたのだ。
「助けてあげて」「誰か、あの小児病棟の小さな子を抱きしめてあげて」
生前、柾哉と交わした「困ってる子がいたら、教えてね」という約束を、美緒は死後もずっと、たった一人で守り続けていたのだ。自分の痛みを堪え、わずかに残る執念だけで、毎夜、ナースコールを押し続けていた。
「みお……ごめん、ごめんよ……!」
柾哉は誰もいないベッドの端に崩れ落ち、子供のように声を上げて泣いた。
もう冷たくなったはずのシーツを両手で優しく包み込み、自分の頬を押し当てる。
「ひとりにしてごめん。気づけなくてごめん。よく頑張ったな、もう怖くないから、もう泣かなくていいから……!」
柾哉がそう叫んだ瞬間、部屋を支配していた凍てつくような冷気が、嘘のようにスッと消え去った。
代わりに、窓の隙間から、夜明け前の冷たくも柔らかな朝の光が差し込んでくる。
パチン、と乾いた音がして、ベッドの上のナースコールのランプが静かに消灯した。
それ以来、412号室から夜中にナースコールが鳴ることは二度となかった。
ただ、その日の夜から、隣の部屋で怯えていた少女は、なぜか穏やかな顔でぐっすりと眠れるようになったという。柾哉は今でも夜勤のたびにその病室の前を通り過ぎる時、心の中でそっと呟く。
――お疲れ様、美緒。今日もみんな、守られているよ。