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目次
幼き探検家の冒険譚
はじめまして
初投稿です
誤字脱字など至らない点があるかもしれませんが、暖かい目でご覧下さい
モブおじ×ショタ(ボーイズラブ)ですのでお気をつけ下さい
喘ぎ声、バットエンド、レイプを含みます
ご理解いただけましたら背後に注意してお読み下さい
昔から町や森、路地を探検するのが好きだった。でも、あることがきっかけでめっきりやめてしまった。それは桜が咲き始めた暖かい春の日だった。
「お外、行ってくるね!」
そう母に告げ、嬉々として玄関扉を開ける。扉を開けて目につく青々とした草花と雲ひとつない青空。絶好の探検日和。今日はどこへ行こうか?どこへ冒険しようか?それとも、誰かを誘ってみる?
そう物思いにふけつつ、真新しいピカピカの赤い靴を石畳の道に一歩を踏み出した。
やがて、あまり人が通らない路地へたどり着いた。面白いことに路地には寝ている猫だったり腰を押しつけ合う男女が頻繁にいる。今思うと恐ろしいことこの上ないが、幼い故に分かるはずがなかった。
ただ、その日に限っていたのはその時の自分よりはるかに大きくガタイの良い男性だった。
「...?...こんばんは!おにい...さん?」
子供というのは疑うことを知らない無知な生き物。そこに大人がいたなら、例の男性を怖がって離れるように言うだろう。しかし、話しかけてしまってはもう遅い。男性は何も言わずゆっくりと手を俺の顔、身体に手を伸ばす。
「おにい、さん。なに...してるの?触ってもなんにもないよ?」
沈黙。何を呼びかけても反応がなく、こちらの身体をただ触り続けるのが怖かった。
荒い鼻息が首筋にかかる。はっきりと分かるのは気持ち悪いということ。それと、
「お゙っ♡」
どこから出たのか、自分でも分からない声。だんだんと触られている内に感じていたのだろう。
ゆっくりと後ろの方に指を沿わせ穴に太い指が入っていく。
「あ゛ッ♡ま゛ッッ♡」
その指が奥深くまで入りきる。指が一本入っただけ。それなのに頭がくらくらして身体が暑かった。
ただ、ここまでは大した問題ではなかった。男性もすぐに指を抜いてくれると思っていた。
それはすぐに打ち砕かれた。後ろの中でその太い指がぐにぐにと動き始めた。最初こそ何ともなかったものの動きがつき、何かが気持ち良いと自覚した。
その時、股の辺りが熱を帯び、とても言葉では表しづらいが強い快感がこみ上げた。
「〜〜〜ッッ♡♡♡!、!お゛ッ♡いぐ、っ♡♡」
パンツの中に液体のような何が出た感覚。当時は尿だと思っていた。
「おしっ...こ、♡♡!でちゃ…ッ♡♡あ゛ッ♡ん゛♡ふ、う゛……♡あ゛♡あ゛♡」
「あ゛ッ♡う゛、ぅ♡ん゛また、でちゃ♡〜〜〜〜〜〜〜ッッッッ♡♡♡♡♡!、!!ん゛ッ♡ふ、う゛……♡あ゛、へ…………♡」
この辺りで指が抜けた。ヌポンと音がして、終わったのだと思い、立つこともせず脱力した。
それが間違いだった。唐突に腰を強く掴まれ、先程とは打ってかわり指よりも大きいものが入った。
「あ゛♡ひ、あ゛♡お゛♡お゛♡あ♡あ゛、ぅ〜〜〜〜ッッ♡♡♡!、!!」
パチュパチュと水音が響いて、何かを打ちつけられる。それがだんだん速度を増す。
「お゛ぎゅ、♡あ゛♡あ゛ッ♡お゛♡〜〜〜〜〜ッッッ♡♡♡!、!!も゛♡む゛り、♡♡あ゛♡お゛♡♡いぎゅ゛ッ♡お゛ッッ♡そ、こ♡あ゛♡♡あ゛、ん゛♡ひ♡あ゛、あ゛〜〜〜〜〜〜〜〜ッッ♡♡♡♡あ゛♡あ゛、ぁ゛あ゛あ゛あ゛ッ♡♡♡たしゅ、け♡お゛、ほっ♡♡」
気持ち良くて逃げることすらできなかった。次第に頭の中で火花が散るような感覚と共に
「あ゛ッ♡ん゛♡ふ、う゛……♡あ゛♡あ゛♡.........♡♡」
そのまま、意識が薄れていった。
*********************************************
目覚めると男性の姿はなく、自分の後ろの中とパンツの中に白く濁って暖かい液体が大量にあった。
その出来事以来、冒険と称して探索することは少なくなった。
けれど、その時の快感を求めてか後ろを自分で弄ってみたり太く長い物を入れてみたりしたものの、満足感がなく、男子高校生となった今でも、あの男性を探している。
...決して、ハマったわけではない...と思う。
お疲れ様です。
初投稿でしたが、如何だったでしょうか?
お気に召していただけたのなら幸いです。
お読みいただき有り難うございました。
枯れた華を愛で続ける
お久方ぶりです、某探偵です
今回はヤンデレ×秀才...失礼、ヤンデレד元”秀才のボーイズラブです
タグが間違っていますか、そうですか。気にしないで下さい
残酷、生々しい描写がない為、R18を抜いております
それではどうぞ
何を間違えたのだろうか。いくら考えても、優秀なはずだった頭では何も答えが導き出せない。
この部屋の暗さのせいだろうか。手足を拘束され、身動きがとれないからだろうか。それとも、三日間何も食べていないからだろうか。
......考えたって無駄だろう。原因なんてものがあるとするなら、過去の行いのせいだ。
昔から、聡明で優秀な人だと誉められていた。それが当たり前だった。当たり前の優秀だったのが自分の唯一の個性だと思っていたから、あの男が現れるまで格上の優秀がいたことに驚いたと共に言葉には表しづらい何かが沸々と沸き上がっていた。
短い黒髪に色白とした肌、深く吸い込まれるような黒い瞳。頭脳明晰で運動神経抜群。それでいて、誰にでも別け隔てなく優しい人格者...漫画のような人物。
もしかしたら、話せば解りあえたかもしれない。けど、初めての劣等感は耐え難いものだった。
それで、
---
校舎裏に彼を呼び出した。別に殴ったり貶したりするわけじゃない。ただ、二人だけで腹を割って話したかった。彼は僕にとって、人格者ではあったが、どこか怪しく信用できなかったからだ。
始めは僕から切り出した。ほんの挨拶だった。
「急に呼び出して、ごめん」
彼は素っ気なく優しく微笑んで許してくれた。
だけど、その笑顔の男の手に何か棒状の物が握られていることに気づいた。
彼がその時、何をしようとしたかなんて分からない。でもそれに気づいた時、彼の笑顔が気持ち悪いくらいににやけた笑みを浮かべていることに気をとられて一瞬のうちに頭を強く殴られた。
何が起きたのか理解できず、苦痛の声をもらすことしかできなかったけれど彼がずっと気持ち悪い笑顔を浮かべているのが怖かった。そこから10分くらい殴られて、骨が折れたりはしなかったけれど痣は酷いものだった。
「ごめんね、痛かった?」
息が乱れて血も出ているのに、優しい笑顔で訊く彼が怖くて何も言えなかった。その後は毛布をかけてくれて、家まで送ってくれた。その日以来、彼と学校ですれ違う度に殴られるのではないかと怖かった。そして、彼を避けるようになった。
---
彼を避けるようになった一週間後、郵便受けに気味の悪い手紙や登下校中に人がついてくる気配を常に感じた。中でも怖かったのは僕が友人と一緒に映っている写真に友人の顔にだけ赤いバッテンが描かれた写真だった。
また、僕が周りの人間に変な噂を流されるようになった。テストをカンニングしているとか、関係を持って捨てた女性がいるとか、根も葉もない噂だった。
だんだんと僕の評価は秀才ではなく、偽物の秀才になっていった。一方で彼は株が更にあがっていくばかりだった。
---
ある日、彼が僕の家に来た。何しに来たのか分からなくて最初は戸惑った。でも、彼が僕の忘れ物を届けにきただけだと言ってその時だけ心の底から安堵した。
彼を家に入れようと扉を開けた瞬間、彼が急に押し入って僕にバチバチと音の鳴る機械を押し当てた。
そこで意識を失った。
目が覚めたら手足をロープで固く拘束されて、暗い部屋の中から出ることができない状態だった。
やがて、彼が部屋に入って来た。そこで彼が僕のことを異常なまでに好きなことを知った。
何故あの時、殴ったのかを聞けば二人だけの状態に興奮していたと意味が分からない理由だった。
理解を諦めて何度も部屋を出ようとしたけど、固いロープは外れず中々出れなかった。彼はその間にも僕を殴ったり、ご飯を食べさせたり、行為に及ぼうともしたけれどどれも怖くて嫌だった。
長い間、監禁されて疲れてきてしまった。彼の望む通りにすれば救われるのではないだろうか。
彼が帰って来た。いつも聞くことがある。
「ねぇ、僕のこと、好き?」
いつもなら何も答えない。けど、
「...好きだよ」
その言葉を待っていたのかあの時と同じ愛しい笑みを浮かべて、手を僕の後ろに伸ばしてくる。
「「愛してる」」
お疲れ様です
バットエンド?よりはメリーバットエンドですが、『僕』的には疲れて折れてしまったという点ではバットエンドです
ただ、どっちみち愛しく思っているのは本当でしょう
お読みいただき有り難うございました
夢うつつ
見馴れた天井が顔を覗く。重い頭を持ち上げて、冷たいフローリングに足をつける。冷たい。おそらく、冷たいはずである。
約六畳の小さな子供部屋の中で、齢15歳にもなる男子がパジャマを着て布団に腰を下ろしているのは異質だろうか。真っ白な長机の上に無造作にも置かれた教科書と学校のプリントは何も手をつけられないまま、開かれた窓から射し込む光で輝いている。
これは、学校の先生が持ってきた。先生はいつも、「皆が君を待ってる」とか「皆優しいから大丈夫」だとか言う。僕を皆が待っているわけでもないし、僕は皆が優しかろうが、嫌な奴だろうかがどうでもいい。ただ、学校そのものに行きたくない。ずっと、そんな気分なだけ。
「...ねぇ、どうしてずっと、家にいるの?」
不意に声をかけられた。声の主は開いた窓から。顔を向ければ、艶やかな黒髪に精悍な顔をした可憐な少女がいた。歳は、同じくらい?
「キミ、誰?」
僕が訊けば、彼女は花が咲いたように笑って、
「私?私は_______」
---
見馴れた天井が顔を覗く。重い頭を持ち上げて、冷たいフローリングに足をつける。冷たい。おそらく、冷たいはずである。
約六畳の小さな子供部屋の中で、齢15歳にもなる男子がパジャマを着て布団に腰を下ろしているのは異質だろうか。真っ白な長机の上に無造作にも置かれた教科書と学校のプリントは何も手をつけられないまま、開かれた窓から射し込む光で輝いている。
これは、学校の先生が持ってきた。先生はいつも、「皆が君を待ってる」とか「皆優しいから大丈夫」だとか言う。僕を皆が待っているわけでもないし、僕は皆が優しかろうが、嫌な奴だろうかがどうでもいい。ただ、学校そのものに行きたくない。ずっと、そんな気分なだけ。
「...ねぇ、どうしてずっと、家にいるの?」
不意に声をかけられた。声の主は開いた窓から。顔を向ければ、艶やかな黒髪に精悍な顔をした可憐な少女がいた。歳は、同じくらい?
「キミ、誰?」
僕が訊けば、彼女は花が咲いたように笑って、
「私?私は、マリ!」
「ねぇ、貴方の名前は?」
僕。僕の名前は、
「...ユウト」
タチバナ、ユウト。
「ユウト?素敵な名前だね!」
「...有り難う」
「ねぇ、どうして家にいるの?」
「...僕は学校へ行くより、宝物といるのが好きだから」
「宝物?私も宝物を集めて、入れて、見て、側に置くのが大好き!」
「本当に?」
「うん!」
僕はその言葉を訊いて、部屋の隅の宝物の青い箱と赤い箱に指をさす。
「僕の宝物、見たい?」
「いいの?」
「いいよ」
僕は立ち上がって青い箱を彼女に見せた。中にはたくさんの赤い宝石が詰まっている。
「わぁ、綺麗な宝石!赤くて、とっても綺麗!」
「いいよね、それ。僕好きなんだ」
「赤いものが好きなの?」
「うん、変かな?」
「全然!とっても良いと思うよ!」
彼女はまた、笑った。
「ねぇ、お部屋に入ってもいい?」
それを言われるまで、彼女が窓枠に腰かけたままだったことに気づいた。
僕は「いいよ」と返事をして、彼女を部屋に招き入れ、布団に座らせた。
「ね、一緒に遊ぼう?」
僕はそれにも返事をして、しばらくカードゲームだったりお話だったりをした。とても楽しかった。
その過程で彼女が最近越してきたことや彼女が着ている白いワンピースを最近買ったことを知った。
空がオレンジ色に染まった頃、彼女は、
---
--- 僕は彼女の手を強く掴んで、手に持った鋏を ---
---
夢をみた。彼女がずっと、僕の側にいる夢。
夢をみた。彼女が僕の側から離れていく夢。
---
--- 信じられない! ---
---
艶やかな黒髪が赤く塗れていく。純白のワンピースも、いつしか素敵な赤いワンピースになって、僕の眼下に落ちている。僕はそれを丁寧に抱き上げて、宝物の赤い箱に入れた。宝物の赤い箱の中にはたくさんの素敵なものが詰まっている。たくさんの赤。たくさんの人形。たくさんの幸せ。
僕は新しい宝物を赤い箱の中に詰めて、手に持っていた鋏を床に置き、蓋を閉めた。
そして、愛しいように宝物にキスを落とした。
僕は死んでしまったのだろうか?
--- 「僕は死んでしまったのだろうか?」 そう言われて、目が覚める。 ---
蒸し暑い夏の日のことだ。朝の九時に起きて、扇風機をつける。
それから朝食。ハムエッグを作って、トーストを焼いて、インスタントのコーヒーを淹れる。
僕の住む安アパートには、当然のようにダイニングなんて洒落たものはない。
六畳一間の部屋で、僕は自前の布団を隅っこに畳んで、中央に足を折った卓袱台を置いている。そこで食事をするのだ。
冷蔵庫を開けると、しなびたキャベツと、中途半端に残った人参があった。
それで野菜炒めを作って食べることにする。自炊ができるのかと言えばそうではない。
僕は自分が好きだと思うこと以外、手をつけない。
たとえば料理なんかは好きではないので、調理器具が一切ない。
フライパンもなければ鍋もない。野菜炒めを作るためには、フライパンと鍋が必要だし、その二つがなければ野菜を刻むことすらできない。
つまり僕は自分が好きだと思ったものしか作らない。食べられれば何だっていいというスタンスだ。
朝食だってそうだ。ハムエッグとトーストは好きだけれど、トーストをかじりながらコーヒーを飲むのは嫌いだ。だからインスタントコーヒーなのだ。
そういう生活をもう二年も続けている。
「いただきます」
そんな拘りがあって雑な僕だけれど、最近の悩みはめっぽう一方通行の一つのことだ。
普段なら色んな悩みがあって、ふらふらしているのに最近は一つだけ。
真っ白な空間が壁も床もまともに分からないくらい広がっていて、その中に僕がいる。
要するに、僕が知らない真っ暗な空間の中で僕が僕を見ているのだ。
その僕は最初は背中を向けていて、何も喋らないけれどだんだんと顔が見える。
その僕はこれといった表情はしていないけど、一言だけ喋る。
--- 「僕は死んでしまったのだろうか?」 ---
そう言われて、目が覚める。
何を現すのか分からないけれど、僕はまだ死んでない。
僕は上から言われた仕事をきっちりこなして、職場の人と話して、買い物をして、料理をして、寝て......しっかりと生きている。
でも、近頃は確かに僕は死んでいるのかもしれない。
僕は教師になりたかった。でも、今は別の仕事をしている。
僕は人と話すのが苦手だった。でも、今は仕事の為に人と話すのが得意になりつつあった。
僕は買い物が嫌いだった。でも、今はなんだかんだ好きになっている。
僕は料理が嫌いだった。でも、今は自炊の為に好きになっている。
僕は過去の僕と真逆だ。
夢の中の僕。それは今の僕より、もう少しだけ若かった。
あれは僕自身なのかもしれない。
--- あの僕は、もう死んでしまったのだろうか? ---
跡
真っ白な銀世界の中、灰色の煙と騒々しいエンジン音をたてるモトラドがやけに平らな白い地面を走っている。それはどこまでも続き、ある一つの地点で止まった。モトラドの後ろには黒い車輪跡がくっきりと残っていた。
---
その跡をつけた運転手は、その車輪跡を見て
満足そうにほくそ笑むと、またモトラドに股がってその跡の続きを描いていった。
---
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泡沫の告白
参加させていただきます。テーマ的にバレンタインを選びました。
一人の青年がロッカーの前に立ち尽くしている。青年が凝視しているのは、空っぽのロッカーの中に手紙が一つ。
「手紙!?なんで!?」
青年の悲痛な声が響く。後ろ手にはその悲痛な声に誘われ、騒ぎたてる青年や少女が多数。
「手紙?古いねぇ」
「バレンタイン間近だってのになぁ」
「|案外、幸せもんだよなぁ《可哀想そうに》...」
口々に述べる感想。しかし...
「「「行ってやれ」」」
その言葉だけは、皆同じだった。
---
カランカランと音のなる階段を登って、錆びついた扉を開ける。
俺は今、高校生として初めての告白を受ける...はずだった。
世間はバレンタイン間近だし、こう、愛!の告白だと思った。
でも、手紙はどうだ。
---
あることについて相談があるので、屋上に来てください。
---
俺はこう思う。友人の悪戯か、イケメンの友人にチョコを渡してくれという相談ではないかと。
嗚呼、平凡顔で大してモテない俺の高校生活よ。なんて哀れなものだろう。
そんなことを考えていたら、後ろに誰かから肩を叩かれた。
振り返れば、目鼻立ちの整った顔に艶やかな黒髪、華奢な身体つきの女の子がいた。
これは、
「えっ?......望月さん?」
望月杏夏。それはそれは俺とは天の地の差ほどのカーストの女の子。拝めただけでも有難いかぎりだ。
「え、あ、手紙......望月さん?本当に?」
いやにうわずった声で聞いてしまう。
「...うん、私。あのね、」
この次の言葉を聞くまでは俺は有頂天だった。
「...バレンタインチョコを作るのを、手伝ってほしいの!」
|恋愛!《くそったれ!》
「あ~...え?」
「その、す...私!料理苦手で、チョコ渡したいんだけど...」
|料理苦手!?《かわいい!!》
「いいよ!俺、料理できるから...放課後でいい?」
そう言って、俺は涙を拭わずに勢いだけで彼女の料理レッスンに付き合う羽目になった。
---
|初めは酷いものだった。《彼は手伝ってくれた。》
|少しの炒めものさえ焦がしている彼女に驚愕することが多々あった。《彼は何度失敗しても、許してくれた。》
|しかし、だんだんと上手くなっていく姿に俺も嬉しくなった。《彼が時折、微笑んでくれるのがとても嬉しかった。》
|そして、ようやく完成することができた。《未完成のままでも良かった。》
|俺は彼女の頭を撫でて、「おめでとう」と言った。《ずっと、こうしていたかった。》
---
「よし、これで終わり!お疲れ様!」
そう彼が笑う。きっと彼はこのチョコが誰宛てなのか分からない。
あの日の屋上。好きと声に出してしまえば良かったのに、料理が苦手だと嘘をついてしまった。
だから、勇気を出そう。泡沫の告白になってしまわないように。
|「貴方の事が好きです」《ありがとう》
栄光のその先に
#プレイヤー名#
▶はい いいえ
---
ずっと思ったことがある。勇者は、魔王を倒した後、どうなるのだろうか。
英雄だと称えられ、国の姫と結構して幸せな生活をするのか。
後に化け物だと恐れられ忌み嫌われるのか。
はたまた、国から去るのか。
#プレイヤー名#がそれを知ることはない。
クリアしてしまえば、#プレイヤー名#はもうプレイしない。
プレイしたとしても、エンド周回や分岐点の回収...一度データをリセットして初めてプレイされたキャラクターやデータは綺麗さっぱり忘れられる。
それがとてつもなく悲しい。
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遘√?繧ゅ≧謌サ繧峨↑縺??縺?縲ゅ??
謔イ縺励>謔イ縺励>謔イ縺励>謔イ縺励>謔イ縺励>謔イ縺励>謔イ縺励>謔イ縺励>
蠢倥l繧峨l縺溘¥縺ェ縺??よカ医&繧後◆縺上↑縺??ゅ★縺」縺ィ蜀帝匱縺励※縺?◆縺??らオゅo繧翫↓蜷代°縺?◆縺上↑縺
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私は
私の末路は
物語としてプレイされない
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お前のせいだ。
哲学的ゾンビ
薄暗く人気のない路地で、一人の若い男性が右手を強く握ったまま死んでいた。
辺りには異臭が立ち込め、鼠や蚊が集まってきていた。
やがて、その男性の手が微かに動いた。
---
薄暗く光が差し込まない室内に二人の男性が長机を挟んで向かい合って座っている。
「だから、僕はやってないんですって!彼は《《哲学的ゾンビ》》で、今ものうのうと生きてるんです!」
そう言いきり、机を叩く一人の若い男性。
その男性の向こうにいる中年の男性は無表情でこう言った。
「その、《《哲学的ゾンビ》》ってなんだよ?どうせそれもお前の言い訳だろう?」
「違います!《《哲学的ゾンビ》》は、《《クオリア》》を持たない怪物なんです!」
「《《クオリア》》?」
「外面的には普通の人みたいだけど、内面は何の感情も持たないことです。
刑事さん、分からないんですか?」
「ああ、知らん。変な人間の垂れごとなんて聞かないのが警察だからな」
「酷い!」
本気で悲しそうな若い男性をよそ見に中年の男性はある薄い資料を見る。
資料には、左手を強く握った若い男性の死体が映っていた。それが何枚も違う男性の資料があった。
「それで?やっぱりお前が殺したんだろ?」
「殺してません!生きてるんです!彼は、なんて言ったって《《哲学的ゾンビ》》なんですから!」
「《《哲学的ゾンビ》》っていったって...それを証明するものがないだろ。
そもそも、《《哲学的ゾンビ》》だろうと殺してんだから殺人だぞ」
「法律に《《哲学的ゾンビ》》を人と見なして、殺害しても罪に問われる法律があるんですか!?」
「...ない。でも、外見は人なんだろ?なら、ダメだ」
「外見は人でも、中身は怪物です!」
「だとしたって...」
「良いですか、刑事さん!僕は正しいことをしたんです!!
《《哲学的ゾンビ》》は近年になって、増殖してきているんです!会社や学校、様々な公共の場所でその数を増してきている!十人の中、七人が《《哲学的ゾンビ》》なんです!
《《哲学的ゾンビ》》は一見すると普通ですが、内面は規則的で何も思っていないし、殺しても生き返るんです!
しかも、《《哲学的ゾンビ》》は変わった感染方法で、《《哲学的ゾンビ》》に殺されると感染する新手の感染方法なんです!」
「ふぅん...それだけ聞くと、人をやめる代わりに不死になるってわけだけど?」
「いいえ!殺されると自分の《《クオリア》》が死んでしまうんです!
つまり、生きているけど死んでいて、死んでいるけど、生きているんです!」
「...分かったよ。その《《哲学的ゾンビ》》の見分け方法は?」
中年の男性が抑揚のない声で若い男性に問いかけた。その問いに若い男性は少し考えて、こう言った。
「ありません!」
「...何故?」
「《《哲学的ゾンビ》》は、物理的、行動的には人間と全く同一で《《クオリア》》を持たない存在なので外見や行動からは、通常の人間と全く区別がつかないからです!」
「それは、さっき聞いた」
「《《クオリア》》がない《《哲学的ゾンビ》》は...」
「つまり、お前は今...《《哲学的ゾンビ》》がどこにいるか分からないわけだ」
「...へ?」
---
銃声が室内で響いた。
室内が赤く、赤く染まった。
それを見ても何も感じなかった。
---
「...確かに《《クオリア》》は持たないな。お前を殺したって、何にも思わない」
中年の男性が血の飛び散った室内で一人の若い男性を見下ろしながら呟く。
薄く白い煙の立ち上る銃をスーツのポケットにしまい、若い男性の身体を担ぎ、部屋の扉の外の薄暗く人気のない路地へ運び、寝かせる。
そして、寝かせた若い男性の左手を強く握らせようとして、
「...やっぱり、《《クオリア》》を元々、持っていた人間だから...」
そう呟いて、右手を強く握らせた。
□□□□○□□□□□
昔から他人とは違うと思うことがあった。
それが何と違うのかなんて分からないし、分かろうとする気もなかった。
だとしても、一緒になろうなんて考えはなかった。
---
「○!」
□が私を呼んで、私が□を呼ぶ。
まるで最初からそうだったみたいに呼ぶ。
「○、■■■■■■■■■■!■■■■、■■■~...?」
「□?■■■■■■■■、■■■■」
「■■■!■■■■■!!」
他愛もない会話を楽しんで、一刻一刻と時が過ぎていく。
□は私を■■■だと思ってはいないけれど、とても良くしてくれていた。
「■■■...○=●?□?」
「○=○。●=●」
「...■■■」
世間の□は■■■で、○は別物。●ともまた違う。
それに○や●は少数だから、□はやっぱり疑問に持ってしまう。
「□=○?」
「...×」
「■■、■■■■■■」
「■■」
□は○じゃない。
「■■■■■!!■■~■■■~■■!□!○...□?□?」
別の□だって、言う。
「■■■■。○」
「■■■?○......×!」
「□!」
「□...■■■■」
「○→□!」
「×」
「.........」
だから、結局は受け入れられないから、変わるしかない。
「○......□!」
「○!○!」
「□、■■■」
「○...」
私は○で、□。
---
--- □□□□□□○□□□□□□ ---
--- □□□□□□□□□□□□□ ---
偽の聖人君子
本作品に置いては、いじめの内容が含まれます。
お辛い方はこの時点で戻ることを推奨します。怪文書、ハピエンです。
「おい、逃げるなよ」
主犯の女子が被害者の長い黒髪を強く掴んだ。
悲鳴をあげる間もなく、制服のスカートは切り裂かれ布切れと化した。
それをただ、私は見ていた。
何も言わず、何も出来ずに見ていた。
主犯でも被害者でもないけれど、傍観者ではあった。
私はそれに目を伏せて考えこんだ。
---
聖人君子になりたいと、誰かの為に動くヒーローでありたいと、小さな頃からずっと願っていた。
テレビに映るヒーローはいつも誰かに囲まれて、優しい笑顔を向けながら悪人に正義を説く。
どんな悪人にでも手を差し伸べて救おうとする。
それが悪だとか、正義だとか議論するようになったのは近年に流行り始めたことで結局のところ一つのエンタメであることに変わりはしない。
例えば、本当はヒーロー側が本当の悪でそれを倒しに行くとか。
例えば、本当に悪は本当の悪でヒーロー側がそれを倒しに行くとか。
どっちみち茶番劇に過ぎなかった。
でも、どっちも勇気を持って挑んでいるのも自分の主張を突き通すのも共通していて、小さな頃からヒーローになりたいと願うだけのちっぽけな自分には到底敵うものじゃなかった。
現実社会で悪とするなら、なんだろう。
官僚の天下り、賄賂、児童虐待、障害者差別、高齢者の年金、税金、公害、不登校、いじめ...大量にある。
今もどこかでそれらは起きている。そして、目の前でも起きている。
世界中を見て、日本中を見て、それが起きなかったことなんて一つもない。
分かっていても変わらない無力さに何を語ろうなんて思わないけれど、目の前のことはもしかしたら、変わるんじゃないだろうか。
---
偽善でもいい。偽の聖人君子でもいい。
ただ、ヒーローみたいに、悪人みたいに勇気を出して自分の主張をするだけだ。
裏切られたって、標的になったって、私は私の正義を全うしたのだから誇らしく陰で行動する醜いものなど、それこそ主張だ。
だから、
「なぁ」
対義語の世
何も考えずに読んだら意味分からん!となる話です。
人物の「」の言葉の意味を真逆に捉えて下さい。
「それで、|彼女《彼氏》が|僕《わたし》のことを|そこそこ《すごく》|忘れてて《覚えてて》、|卒業式《入学式》で|別れる《付き合う》ことに|ならなかったの《なったの》!」
かなり分かりにくいように話す友達。彼女は彼、僕は私、そこそこはすごく、忘れるは覚える、卒業式は入学式、別れるは付き合う、ならないはなる...言葉の意味が反対になる非常に面倒な世界である。
「あぁ、それは悪いね。僕も彼女できないかな」
合わせるように言葉の意味を考えながら世の中に適応するように話す。
「えぇ?可愛くないから全然できないよ!」
褒め言葉も一見すれば悪口に見える。
「そうかな。それなら、できないといいな」
---
「で、......は、司法の番人と呼ばれていなく...、弾劾裁判所...」
授業でさえも、無茶苦茶だ。
「ね、ね...西校舎に今行かないでおこう?」
授業中にだと提案する友達には少々飽き飽きする。でも、何があるってわけではないのだから別にかまわないだろう。
「行かないわ」
---
東校舎に入りながら、年季の入った床が軋む音を聞く。
いつからこんな生きづらい世の中になったのだろうか。
「少し新しいね~」
どこがだよ、と思ってしまう。西校舎よりも遥かに古く色褪せ褪せている校舎を瞳に映しているのに思っている言葉が口から出ないのはとてももどかしい。
「いつから、こんな変なことになったんだろうね」
...?
「そんな顔、しないでよ」
...なんだ?この、違和感。どっちだ?
「そのままだよ」
あぁ、そういうことか。
「もう、いいの?」
彼女は「うん」とだけ短く言って、また戻る。
この妙な話し方は私が生まれた頃からあった。昔は所謂、普通だったそうだ。
それが第三次戦争が勃発後、日本語をそのまま翻訳されると敵国に伝わりやすいという理由から戦後の今も受け継がれている。
ただ、それがまだ受け継がれているということは大人たちはそれを受け継がなければならないと考えているから現代の若者にもそれらを強要させる。
そうなると、普通の日本語を使いたくなる若者が出てくるのも当然だ。しかし、出る杭は打たれるという。それを避ける為、人目のない東校舎などが最適だった。
ただ、それだけ。
「おい、東校舎で何してんだ!」
運悪く教師が来るのをしかたがない。生徒の集まりになるのも教師は分かっているのだろう。
「有り難うございます、後で動かないようにします」
「...あぁ、そうだな」
ここで生きていると、よく分からなくなる。自分が何で、何がしたくて、何が好きなのか。
自分自身ですら反対にならなければならないから、とても難しい。
でも、確かに|好き《嫌い》なのは事実だ。
太陽に妬かれた“来訪者”
ノイズ混じりに機械音声なラジオが流れる。
『...市の...にお伝えします。...で、太陽が異常な熱波と紫外線......により人々は〖来訪者〗...怪物.........お近くの......昼に決して......出ないで下さい......不要な外出は...です...』
奇妙なラジオ。そう思って何も考えなかった。
お湯で沸かしたコーヒーを飲みながら昼間の窓の外を見た。
太陽の光のもれる窓に近づいて外の様子を見ようと目を向けた時、皮膚と目が焼けるような音が響き、臭いも部屋に充満して強烈な痛みが走った。
あまりの出来事にすぐにキッチンへ駆け出して蛇口を捻り、熱くなった腕や顔を水に晒す。
「いっ...ぃた...っ...」
熱が鎮まった頃に水からあげると見事に水ぶくれになった皮膚があった。
これがもし、目だったらと考えると怖くて怖くてたまらなかった。
その後は太陽の光や反射光にすら当たらないように水ぶくれになった箇所にガーゼを巻いたりしていた。
そして、夜になって外を見た。外には青白い身体の全体にぽこぽことした水ぶくれのようなものが多く見られ、目が破裂したような跡の空洞と謎の白い液体を垂らす怪物が彷徨いていた。
それが何人も、何人いて凄く怖かった。
やがて、朝になりまたラジオが流れた。昨日より切羽詰まったような声で、機械音声は聞こえなかった。
『…っ、お伝え...本日......〖来訪者〗の特徴...青白い肌......水ぶくれ、空洞の目...人の外見そっくり...化ける...見分け方は......充血した目...不自然に白い歯...土から出...汚れた爪......になります。......お近くの建物に......決して...出ないで.........外出、なんだ、肌おかし...おま......や......!......!!...』
しばらく雑音が響き、最後にはノイズだけが流れた。
よく分からないが、その来訪者とかいうのは昨日、外にいた怪物なのだろうか。
その怪物は人に化けることができる?それが分かるのは充血した目、不自然に白い歯、土で汚れた爪?
奇妙な内容だ。現実的じゃない。デジタルの情報は当てにならない。アナログの情報を目に通さなければならない。
急いで、室内の郵便ポストを覗く。横長に広い空間には燃えたような燃えカスと紙の焦げた匂いがした。
「なんで!?」
情報がない。誰かが嫌がらせに燃やしたのか?何のために?そもそも、こんなに熱い太陽の下でまともに動ける普通の人間なんているのか?
日の当たらないところに座り込み、悩んでいると唐突に床のタイルが浮き、ドリルのようなものが飛び出す。
「......ドリル...?」
そして、続けざまに一人の男性がタイルをどけて現れた。
「どうも、お隣さん」
少し土がかかった金色の長髪を垂らした20代後半ぐらいの華奢な男性だった。
「...あの...どちらさまで...?」
「忘れたんですか?___ですよ。以前、ご挨拶したじゃないですか」
「___さん、ですか?あの隣の...」
「ええ、そこの長男です」
「すると、他の方はどちらに?」
「それが、ラジオを信じずに父と母は出掛けておりまして...弟は無事なんですよ、ちょっと待ってて下さい」
「はぁ、それは...その、お気の毒に...」
「いえいえ、明日の昼に帰ってくると思いますから...また明日、来ますね。ああ、この新聞、いります?ガスとか電気は大丈夫でしょうけど、情報はラジオ以外入ってきませんから」
「ああ、はい、どうも...」
笑顔で踵を返し、穴へ帰っていく男性を見送り太陽が強く光輝く外を見る。
植物は荒れ果てて荒野になっているが、遠くの都会の町の電灯がついていることがよく分かる。
おそらく、人は確かにいるのだろう。
そう結論づけて渡された新聞に目を通した。
---
〖太陽の下に現れる?“来訪者”!〗
某月某日、某市に位置する研究所にて太陽が急激に熱を放つことが観測された。
また、強い紫外線、熱波により人間は肌が青白く水ぶくれが身体中にあり、化けることが得意になる“来訪者”へ進化を遂げると論文が発表された。
来訪者は人間に敵対的で非常に好戦的であり、一度進化すると太陽による被害を受けない。
しかし、完全に化けることは不可能で目は充血し、不自然に白い歯がある。
日中は土の中で過ごすことが多い為、土で汚れた爪でいることも特徴の一つである。
また、デジタルカメラで撮ると来訪者のみが写真に歪んだように写ることもあるらしい。
被害としては、
▪通常の人間を襲い、皮や服を剥ぎとりなって代わる(化ける)
▪家に一人でいる、または一人でいることを伝えると家に押し入る
以上であるが、前述の特徴から来訪者だと思われるものが入れば即刻、殺害に至ることが推奨される。
一度、外出から帰ってきた者や家へ入ろうとするものを確認してみるといいだろう。
対処法は以下の通りである。
▪前述の特徴に一つでも当てはまる者を殺害する
▪家に一人でいることがないようにする
▪鍵や窓を施錠し、バリケード等を立てておく
▪銃器や刃物を身の周りに置き、来訪者と疑いのある者の付近には置かないようにする
▪政府が派遣した特別調査隊の召集を待つ
(特別調査隊〖ネクローニ〗は来訪者の駆除や人間の保護を目的とした団体。保護できる人数は限られている為、訪問時には一人ずつの召集しか不可能であることを覚えていただきたい)
---
おおよそ、自分が知りたい内容は書かれていた。そのまま新聞を読み漁っていると、いつしか辺りは暗くなり外には星が見えていた。
その星を見ようと外に目をやり、気づく。今まで見たより小柄の来訪者がこちらに向かって気味悪く微笑んでいるのだ。
その不気味さに視線を逸らして、すぐに窓に鍵を開け、玄関扉へ急ぐ。玄関扉の覗き窓を覗いた。
そして、扉のノックするような音と共に先程の小柄の来訪者がこちらも覗き窓を覗いていた。
瞳のあったはずの空洞から垂れた白い液体のようなものが付着した唇を開いた。
「今...ひ、独り、ですかぁ?」
答えようとして、読んだ新聞の内容が頭の中で反響した。
一人でいてはならない、一人以上でいなくてはならない。一人だと家に押し入られる。
なら、どうする?来訪者に目はないように見える。きっと、家にいるのが一人なんて分からない。
「...二人、です」
その言葉に来訪者が扉のノブをガチャガチャと回し始めた。
「独り、ですよねぇ?」
「ひ...二人です!」
「独り、だろ?」
だんだんと声が高く、女性や男性、子供の声が入り交じったように独りであることを訊いてくる。
きっと、バレている。そう考えて近くの銃器を取った。レミントンM870のような散弾銃だった。
ノック音が激しくなる中、銃器を肩にしっかりと押し当てて扉が開かれるのを待った。
その頃にはノック音は止んでいて不信に思いつつもうっすらと足音が聞こえるのを頼りに待ち続けた。
10秒。
30秒。
1分。
5分。
少し時間が経ち、肩から銃器を下げた途端に窓から来訪者が窓の破片を飛び散らせながら入ってきた。
銃器を構える暇もなく、押し倒され掴んでいた銃器を奪い取られる。
そのまま、銃口が口に入って_
---
玄関へ続く廊下に脳みその破片が硝子の破片と一緒に飛び散った男性の遺体がある。
燃えるような赤毛に端正な顔立ちをした男性。昨日の昼に自分が掘った穴から出て、話した人だった。
少し黒ずんだ血に触れて後ろにいる弟に声をかける。
「気をつけろよ、窓の破片が散ってるから」
何も答えなかった。弟は一昨日、夜に出掛けたきりで昨日の夜にやっと帰ってきたばかりだった。
疲れているのだろうか。だとしても返事の一つくらい欲しいものだ。
「そういえば、昨日はどうやって帰ってきたんだ?他の家にでも泊まってたのか?」
やはり、何も答えなかった。
弟は帰ってくるなり土で汚れたような爪で晩飯につき、太陽でも見てしまったのか目が充血していた。
歯を磨く時なんかはそこまで汚れていない綺麗な白い歯をしっかりと磨いていた。
あんなに白い歯をしていただろうか。
それに...あんなに青白い肌をしていただろうか?
弟に何かを聞こうと振り向いた時、肌が青白く腕に水ぶくれのようなものができた弟だったはずのものが床に落ちた銃器を拾っていた。
直後に、銃声が閑静な家の中に響いた。
没シリーズの〖|Visitor of the midnight sun《白夜の来訪者》〗という名前のホラーミステリー、グロテスク怪物モノです。
そちらを設定が凝られすぎる、舞台が主人公の家しかない、一時期流行ったドッペル尋問間違い探しホラゲーの二番煎じという点から没になりました。
作品としてはそこそこなので〖地獄労働ショッピング〗にでもサイバーワールドや学園生活要素を本作同様、消費者の能力として載せるつもりです。
お読みいただき有り難うございました。
たった一つの小さな国の中で
たった一つの小さな世界で目を覚ました。
僕だけのたった一つの小さな世界。
たった一つの小さな世界の中のたった一つの小さな国。
僕はたった一人で、それ以外誰もいなかった。
何もいなかったけれど、だんだんと大きくなって色んな人が来るようになって、いつしか僕はそこの王様として君臨した。
誰かは花を咲かせた。誰かはお話をした。誰かは空を見た。誰かは夢を語った。
そんな世界の中で僕だけはたった一人。
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「僕の国は、僕だけなの?」
幼い頃、まだ僕以外何もなかった頃にそう訊ねたことがある。
それでも誰かが「何も知らない内は君だけのものだよ」と教えてくれた。
そう教えてくれた人が僕を愛しそうに撫でて、僕の国を大きくしたのを覚えている。
「僕の国が、大きくなっていくのは何でなの?」
幼い頃、国が大きくなった頃にそう訊ねたことがある。
それでも誰かが「何も知らないことが、君にとって少なくなったからだよ」と教えてくれた。
そう教えてくれた二人が僕を愛しそうに撫でて、僕の国に人を招いたことを覚えている。
「僕の国に、人が増えたのは何でなの?」
幼い頃、国に初めて人が増えた頃にそう訊ねたことがある。
そうでも誰かが「君がそれを人だと認識したからだよ」と教えてくれた。
そう教えてくれた二人が僕を愛しそうに撫でて、微笑んだことを覚えている。
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|この子《僕》だけのたった一つの小さな世界ができた。
|この子《僕》だけのたった一つの小さな国が生まれた。
たった一つの小さな世界と国は、大きくなって、人を招いて、成長した。
ただ、今はたった一つの言葉を。
《《生まれてきてくれて、ありがとう》》。
ある四兄弟の育児日記
母が亡くなった。
父からの突然の報せだった。
なんとも言えない喪失感が四兄弟の中で駆け巡った。
兄として、それをまとめねばと責任感に真っ先に駆られて母の遺品整理を他の兄弟と共に行った。
母の個室へ入り、手付かずに物の散らかった室内を見渡す。
母が寝ていた布団はほんのりと暖かいようで、亡くなったことが信じられなかった。
布団の周りには家族写真や母の愛読書、コレクションなど様々なものがあった。
その中で一つの日記を見つけた。パラパラと紙を捲っていく内に一つの|頁《ページ》が目に止まった。
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某月某日、晴れ。
顔も体格も全く同じ四兄弟が一斉に走り出し、服も全く同じだったため、誰が誰か分からなくなってしまった。
名前を呼び掛けても全員が反応する。
長男の|華月《かづき》を呼べば他の兄弟である、二男の|観月《みづき》、三男の|皐月《さつき》、四男の|伊月《いつき》も含め呼びに応える。
困ってしまってパパに相談すれば、「全員が全く同じ顔をしているのだから、誰が誰でも大丈夫だろう」と言われた。
今度から、それぞれに違ったタグや服を先につけておこうと思う。
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この頁を最後まで見た時、悪寒が走った。
僕は本当の長男である華月なんだろうか?
僕らは大人になっても全てが同じだった。
性格も仕草もコピー人間のように同じで、唯一違うのは服装だけだった。
それで、皆が区別できたし、僕らもそれで満足だった。
けど、この日記。母が残した、日記。
もしかしたら、華月は今の伊月で、観月は今の皐月で、伊月は今の観月で、皐月は今の華月だったりするのだろうか。
今の今まで、長男として、二男として、三男として、四男として過ごした時間と記憶や思いが全てひっくり返されたような気がした。
自分が長男の華月であることを否定するわけではないけれど、もしそうなら兄弟たちはどんな反応をするのだろうか。
喜ぶ?笑う?悲しむ?困る?...いや、ただ、呆然と何も言わず悲嘆に暮れるだろう。
そもそもどこからが兄で、弟なんだろうか。
生まれた日は一緒だったから、生まれた時間か、成長した後に性格から上下が決まったのだろうか。
でも、なぜだか、始めから兄弟としての関係は確立していた気がする。
だからかえって、これを覆されると怖いような違和感が永遠と胸に残る。
この日記は後で燃やした方が良いだろう。
兄弟、という関係を守る為にも。
でも、僕は兄弟の中の誰なんだろうか。
作品のポイント:突然の吉報による喪失感、存在の否認
要望:可能でしたら、海鳥と貝殻を主軸とした小説を見てみたいです(ジャンルは問いません)
@echo off :LOOP echo loop goto :LOOP exi
〖←↗↓↑↙→↘↗←〗
メモに書かれた方向をコントローラーで操作して3Dキャラクターの背中を見ながら動かす。
何も起こらない。当たり前だ。
〖←↗↓↑↙→↘↗←↑←→BA ↓↑←BA →←BA〗
ボタンを織り交ぜてコマンドを打っていく。何のコマンドかは分からない。
ふと、打っている内に〖最強のコマンド〗が頭から出てくる。
自分が打ったコマンドはそのコマンドではないけど、なんとなくそうであると良いと思いながら無駄な作業を一つの望みにかけて打っていく。
〖←↗↓↑↙→↘↗←↑←→BA ↓↑←BA →←BA↓↓↓↓←←←↗↗↖↙→↘XYY〗
〖↓↓→↑↖↙↓↙↑←↗↘↓→→↘↓↙↑↖↙↑A↖BA↓↓Y↑←↓↗↑↙↘→↑〗
だんだんと指が疲れてきた。
〖↘↘↘→↖↖→→→↖↖↖→↖↖→↑↑→↖←↘↙↙↗↖→←↑←←↙↗↗↓↓〗
もうそろそろ、終わりに近づいた辺りだろうか。
ふと、画面を見て打ったコマンドを確認した。
コントローラーを持ってひどく疲れた自分の姿を瞳の中で見た。
そして、その自分の姿を映すキャラクターの近くで見える瞳を見た。
何も起こらなかった。
---
じっと、ひどく疲れた姿をした人物を瞳に映す。
ごちゃごちゃと自分の身体が動いて最終的にxxxxの方を見た。
何をしているのだろうと自分の意思では決して動かない身体の中で、唯一動く頭の中で疑問をもった。
その疑問を介して、人物の奥を見た。
同じ顔、同じ背格好、同じ服装でコントローラーを握る自分が同様にいるだけだった。
それを確認すると、顔が強制的に前へ行き画面の方へ向き直させられた。
そこにも、やはり同じ姿の自分がコントローラーを握って画面を見ていた。
そのキャラクターの先も同様だった。
また、コマンドを打つだけの手が動き始めた。
可哀想の偏見
目が見えない。
足がない。
上手く言葉を伝えられない。
女の子、男の子として生きたい。
普通でありたい。
誰かが、これを異質だと見て、最終的に可哀想だとか辛そうだとかそういった偏見を持つ。
それがとんでもなく虚しくて悲しくて、そう思われる度に「可哀想」に嫌悪感を抱きつつあった。
可哀想だと思われたいから、こうなっているわけじゃない。
ただ、そういう風に生まれたから、こうして隠さずに我を貫いているだけだった。
盲導犬を連れていると誰かは《《異質の私》》に気づいて手を差し伸べてくれる。
でも、私は《《普通の私》》でありたい。
「いえ、大丈夫です。でも、有り難うございます」
見えにくい瞳で顔だけが真っ黒の声の主にお礼を言って優しく断る。
盲目でも、全員が完全に目が見えないわけじゃない。
一人一人の性格が違うように、人によって中央だけが真っ黒だったり、白い点々がずっと浮かんでいて見えにくいだけだった。
それでも手を差し伸べてくれるのは嬉しかった。
---
ある時、友人と話をしていて、テーブルの下で伏せの態勢でいた盲導犬に気づいたのか年配の女性が話しかけてきたことがある。
「あら...貴方......その歳で大変ね、これ、少ないけど使ってちょうだい」
悪気の無さそうな明るい声でじゃらじゃらと音の鳴る小銭を数十枚、強引に手渡された。
その女性が去って、見えていた友人はこう言った。
「君だけなんて、ズルいよ!」
友人は目は見えているし、身体的な障害はない。強いて言うなら、自分の性別は女性だけども、恋愛対象が女性なことくらいで私的には普通だった。
「ズルいって言われても...小銭、欲しいの?」
「欲しい!だって、座ってるだけで金貰えるんだよ?!」
長い金髪を揺らして興奮気味に異を唱える彼女になんとなく違いを感じて嬉しくなる。
可哀想だと思われることが多かった。
彼女のように「ズルい」なんて言われることは初めてだった。
つい、笑みが溢れて下にいる盲導犬の振られる尻尾が足に触れた。
向かいの彼女からは素っ頓狂な声が漏れた後、怒ったような声がした。
どうにもそれが嬉しくて、彼女の傍では《《普通》》でいられるような気がした。
8月6日の空の下で
その日は慌ただしかった。
遠くで閃光のような光が輝き、直後に物凄い轟音と風が響いた。
その後、キノコのような黒雲が発生した。
今まで見た空襲よりも凄まじく悲惨なものだった。
---
数日が経って、とんでもなく多くの負傷者が運び込まれた。
少しでも役に立とうと、何の外傷もないお腹が減っているだけの身体を馬車馬のように動かし続けた。
真っ黒な焼けた地面にぽっかりと草の剥げた地面が人型にぽつぽつとあった。
そこに人がいたのだと感じられた。
真っ黒になった瓦礫の下で小さな黄色い蒲公英が生えているのを見つけた生き延びた女児が兄と思われる男児と笑いながら涙を溢しているのを見た。
何も出来なかった。何かをしたくても、全て燃えていて、どうすることもできなかった。
真っ黒に焦げて今にも崩れそうな学校で時計を見つけた。
針はずっと、午前8時15分を指して、決して動くことはなかった。
真っ黒に焦げた人型の遺体のようなものを見つけた。
お腹に黒焦げた小さな子供を庇うような形でうずくまっていた。
近くには川があり、橋の下で黒焦げた人型が何十人と浮かんでいた。
河川敷に捨てられた弁当箱は鉄だというのに、ひしゃげて焼け焦げていた。
防空壕の中に真っ黒な遺体がぎゅうぎゅう詰めになっているのを見つけた。
辺りには色々な混ざった異臭が立ち込めていた。
「水が飲みたい」という弱った女児に泣きながら、名前も知らない男性が水を手渡した。
すぐにその男性は他の人に厳しく叱咤されたが、
弱々しく受け取った女児の「ありがとう」という言葉にその場にいる全員が涙を流した。
その後、例の女児が亡くなったと報告を受けた。
不思議と悲しみより、何故かこれで良かったのだという気持ちが沸き上がった。
---
真っ黒だが、逞しい花が生え始めた地面に腰を下ろし、やけに綺麗に晴れた青空と在りし日の父の偉大な背中のような大きな白い入道雲を見つめた。
終わりが近いと感じざるをえなかった。
そう思っていた。
---
8月9日、午前11時2分。
期待は打ち砕かれた。
---
---
お悔やみを申し上げます。
ラムネ瓶に映る夏
からんと音がして、ラムネの硝子玉が鳴った。
ラムネ瓶は冷たくて中の炭酸がしゅわしゅわと音を立てる。
からん、からん、しゅわしゅわ、からん、からん、しゅわしゅわ。
どうにも心地好くて夏の暑さを逃れようと耳を立てた。
ぴったりと頬に瓶をつけると、ひんやりとした冷たさが音も相まって心地好くなった。
「なに、してるの?」
不意に切られた西瓜を持って立っていた|千夏《ちなつ》に話しかけられた。
僕は少し驚いたけれど、すぐに口を開いた。
「ラムネ瓶の...音を、聞いてたんだ」
「ラムネの?...聞かせてよ、面白そうだし」
千夏が西瓜を置いて、僕の隣に座る。
ふんわりとしたシャンプーの匂いが鼻の鼻孔をくすぐった。
そのまま彼女が僕の持ったラムネ瓶に耳を当て、聞く。
顔が紅潮するのを感じた。
からん、からん、しゅわしゅわ、からん、からん、しゅわしゅわ。
「...良い音色だね」
そう言って彼女がラムネ瓶から耳を離して、微笑んだ。
「顔、真っ赤だよ。暑いもんね」
「あ、ああ...そうだね」
「西瓜、先に食べてて。氷入れた飲み物取ってくるから」
「...分かった」
千夏が席を立って、足音が離れていく。
僕はよく冷えた西瓜をとり、赤い果実に思いっきり噛りついた。
塩が振られていたせいか、塩味と甘味が口の中いっぱいに広がった。
喉の奥に冷たいものが流れていく。
それでも、僕の頬の赤さが冷えることはなかった。
暑いね、滅びろリア充
777
※援交の描写が含まれます。
本作品は、そのような行為を推奨するものではありません。
朝イチに入った新台に座り、嬉々として遊び始めた。
平凡な人生の中で様々な色に光り輝く台が人生の中の光のように見える。
ずっとそれだけが光だった。
両親はろくに働かず、弟や妹を作ってばかりで全てをこちらに任せていた。
それが当たり前だった。
目の前の台は確変になっているようでオヤジ打ちをしていたが思いがけず大当たりしたようだった。
ふと、周りを見ると新台でカニ歩きをしている男性が一人いた。みっともないと思うが、自分が言うことではないだろう。
すぐに魚群が通り、期待で胸を膨らませる。
やがて、大量のコインを筐体が吐き出した。
別の台へ座り、目押しをしようとボタンに手をかける。
オスイチを成功させたことはないが、できたら良いことだろう。
回る数字を見ながら、先程の男性を見た。特に何もせずに台を続けている。
画面に顔を戻し、見て急いでボタンを押した。
速く回っていたのがだんだんと遅くなり、一定の数字で止まる。
--- *〖 7 7 7 〗* ---
ラッキーセブン...大当たりだった。
心の中でガッツポーズをして、男性の方を見る。そちらも同様の値だった。
良いものを見つけた。
---
男性が店を出たのを確認して人気の少ない道で声をかけた。
「お兄さん」
呼ばれた男性が振り返った。黒髪に黄色い瞳をした20代前半くらいの若い男。
その男性の服の裾を掴み、上目遣いで自分がやれることを話した。
初めは戸惑っていた男性も聞いている内に乗り気になり、連絡先を交換することができた。
---
〖円光希望〗
〖本番NN〗
〖ゴ無〗
〖最高@5、最低イチゴ〗
〖ホ別〗
〖51〗
〖F〗
〖JOJO〗
〖撮影〗
〖dk〗
---
そんな言葉を並べ立て男性を誘う。
〖緑〗のチャットアプリはとても便利で、自分の商売道具だった。
たとえバレていたとしても、本番に持ち込んでしまえば問題ない。
約束された場所へ行き、男性がシャワーに入っている間に財布から現金を取り出す。
少し臭いようで、五万ほどしか財布に入っていなかったが、メリット無しに貰えるのだから安いものである。
シャワーから出てくる前にホテルの扉のノブに手を伸ばした直後、別の男性が驚いたような顔をして何やら重そうな箱をもって立っていた。
「...あ......」
自分が手にしている現金を見てすぐに状況を把握したのか、すぐにこちらの手を強く掴んだ。
そして、厳しい顔で見下ろすとシャワー中の男性の名前を呼んだ。
その手を強く掴んだ男性が着ているジャケットに*〖 7 7 7 〗*の黄色い数字。
この時はアンラッキーセブン...大外れだった。
HAPPY HELP
女の子が小さい時に憧れる、魔法少女。
それに昔から憧れていた。
だから、それになれた時...凄く喜んだのを覚えている。
---
「...これで...終わり?」
地面に突っ伏して動かない|怪物《敵》を見下ろして、隣にいるはずの黒い布を纏い、ぬいぐるみのような姿の|ラパン《パートナー》へ問いかけた。
ラパンは何も言わず、ただ、ひょろひょろと浮かびその怪物を触る。
「...確かに、倒せたみたいだ。おめでとう、|一華《シヴェラ》。君一人で、よくここまで...もう世界が滅亡する、なんてことはきっと、そうないよ」
「......そう」
地面に倒れた|死体《怪物》の名は、|ドラヴィラ《悪夢の魔女》。妖艶な美しさと悪夢のような幻術を使用していた敵の黒幕だった。
ドラヴィラのかつて美しかった面影がどこにもなく、頭は頂点からかち割れ、青い血がだらだらと流れている。そして、足や手には多数の切り傷があり腹部には抉れたような痕が青痣になって破れた服から見えている。
一華が桃色の星を飾ったようなステッキを振るって、ついた血を払った。
青い血は綺麗な桃色のドレスや髪、肌にまとわりついている。
取るにはどうしたら良いのだろうか。
不意に遠くで腰を抜かしていた一般市民が目に入った。
紺に近い黒髪に、青い瞳をした一人の少女。特にこれといって変わったことはない。
ラパンが彼女を見ていたことを除けば、だが。
「...もう、終わったよ。安心していいんだよ」
彼女に向かって優しく声をかけた。
彼女は真っ青に染まった私を見て、怯えたような瞳のまま逃げるように駆け出した。
何故、逃げられるのか、よく分からなかった。
「...あらら...」
ラパンが後ろから情けない声を出した。
---
世界は、確かに平和になった。
通勤、通学中に怪物に襲われることもなくイベントが怪物によって潰れることもなく、魔法少女が建物を壊すこともなかった。
誰も、辛い思いをすることも、悲しい思いをすることもなかった。
誰も、死ぬことはなかった。
誰も、魔法少女を必要としなかった。
通学中に友人が「魔法少女って、まだいるのかな」と言われた。
目の前にいるだなんて、言い出すことはできなかった。
ラパンが久しぶりに「怪物が出た」と騒ぎ立てた。
こんな平和な世界にまた出たなんて信じられなかった。
---
「...ねぇ、本当に怪物がいるの?」
「失礼な!僕は外したことがないんだよっ?」
自信満々に胸を張るぬいぐるみのような獣。その言葉を信じて、とても人がいるとは思えない森の中を一人...いや、一匹と一人で歩いていた。
やがて、確かに悲鳴が聞こえた。その悲鳴に導かれるように自然と身体が動いた。
「|一華《シヴェラ》!聞こえたっ?今の!ほら!僕は正しかったんだよ!」
「...そうだね」
急いで足を進めて見えたのは身を寄せあって悲鳴をあげる登山者の女性二人と、人の背丈ぐらいある熊がその二人を襲おうとしている場面だった。
「なぁんだ、クマさんかぁ...あ_」
ラパンが後ろでそう言った。その後に何かを言い終わる前にステッキを振って、熊の首をはねた。
力の加減を間違えたのか、登山者の一人の右頬がうっすらと切れ、赤い血が吹き出す熊の身体と対比して登山者の頬から血が滲み出した。
それだけに止まらず、熊の獣臭い血を全て被ってしまった。
雨のように降り注ぐ血を見て、放心する二人の登山者の方を見た。
二人も確かに血を被っていた。
「......大丈夫ですか?」
そうできるだけ、優しい声色で語りかけたが二人共、あの少女同様に怯えたような、恐ろしいものでも見たような瞳で一目散に逃げ出した。
その日は、結局、怪物なんてものは出なかった。
---
あの出来事から一週間が過ぎてテレビでは魔法少女の存在価値や全うする正義の在り方、人間に手を出したなどというニュースが飛び交い、議論されていた。
やがて、どこかの記者が魔法少女が誰で、何者であるかという話題を持ちかけ、身元を発見したそうだ。
それが原因だったのか、今まで見向きもしなかった大人や子供達が魔法少女の存在を追求する...いや、自分が有名になりたいがためにそれを糧として探し始めた。
私は議論された頃から社会に赴くことは少なくなったため、特に影響はなかった。
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あまり目立たないような服装で帰宅中に道路に飛び出した子供の為に即座に変身して、トラックを止めた。
以前は運転手が謝ったり、助かった子供や見ていた大人が感謝の言葉を伝えた。
それが今は運転手も見ていただけの大人もスマホをこちらに向けて写真や動画を撮っていた。
助かった子供ですら、感謝の言葉を伝えるどころか...「化け物だ」と罵った。
天地がひっくり返ったような気持ちの悪さと、喉の奥から何かが上がってくるのを感じた。
---
何を助ければいいのか分からなかった。
怪物が敵だとラパンにそう言われたから、怪物は悪いものだとラパンにそう言われたから、
周りの皆が怪物を倒したら、誉めてくれたから、それで良いのだと思っていた。
全部が全部、正しいことだと、正義であると信じていた。
全てが幸せに行き着くと思っていた。
しかし、幸せは私が思っている幸せではないようだった。
私が今まで信じていたものは全く違う何かであると分かった。
それなら、それを作り変えてしまえば良いと、心配そうにこちらを見ながら綺麗事を吐くラパンの耳を引き千切るようにして自分から遠ざけた。
今の幸せから、皆を助けようとしていただけだった。
ただ、それだけだった。
---
---
怪物がまた、暴れ始めた。
怪物に見つからないように逃げ惑う中で耳の千切れた黒い布を纏うぬいぐるみのようなものと出会った。
それに「魔法少女になってほしい」と願われた。急いで頷くと紺に近い黒髪が淡い青色になり憧れていた可愛らしいドレスやヒール、ステッキが手に入った。
気分が高なるのを感じたのと、ラパンというパートナーに世界の命運と人類の幸せを握らされたことに緊張するほかなかった。
ただ、今は前を向いて以前見た魔法少女のような正義を貫けることに嬉しく思う気持ちが強かった。
「さぁ、|陽菜《ホープ》!|■■■■《幸福の魔女》を倒そう!そして、君が世界を救うんだ!」
ラパンのその瞳に桃色の髪をしたパートナーが映った。
---
〖気が向いて作った本編のキャラクター外見〗
碧峰 一華 (しま式魔法少女メーカー 様)
https://cdn.picrew.me/shareImg/org/202507/2092578_1nNLHxze.png
月里 陽菜 (しま式魔法少女メーカー 様)
https://cdn.picrew.me/shareImg/org/202507/2092578_6G2449zv.png
ラパン (獣悪魔メーカーだった 様)
https://cdn.picrew.me/shareImg/org/202507/926_BVafBTEh.png
ドラヴィラ (しま式魔法少女メーカー 様)
https://cdn.picrew.me/shareImg/org/202507/2092578_NxO7YrV2.png
大賞の要望:無し
賞をいただけると思っていなかったものですから、それだけでも十分過ぎるほどに有り難いかぎりです。
誠に有り難うございます。
腐縁結びのキューピッド
「見事に《《縁無し》》だね!」
頭に天使のような光輪をつけ、後ろ手に白い羽が生えた白髪の眉目秀麗な男性が路地で猫を撫でていた俺に向かってそう告げた。
「...は?」
「だからぁ、《《縁無し》》!」
「いや、そうじゃなくて...お前、誰だよ?」
「ん?ああ、僕?僕はね...イシュタル・イナンナだよ。その、縁無しの君の名前は?」
「縁無し、縁無しってなんのことだよ...俺は|八雲《やくも》|馨《かおる》だけど...」
「馨君ね!僕はイシュでいいよ!」
「イシュ?...ああ、分かった。何かの番組の企画なんだろ、どこの企画だ、言ってみろ」
「企画なんかじゃないよ、僕は_」
その男性が次に口にした「天使」という言葉に納得してしまった。確かに後ろの羽や頭の光輪を説明づけるには天使というのは非常に便利だ。
だからといって、このイシュタル・イナンナという男が何者であるかは曖昧なところである。
「天使?......あー、そう...じゃ、縁無しってどういうことだよ?」
「それはね、君が女性にも男性にも運命的に繋がれないってこと!」
「...は?」
「運命の赤い糸って、知ってる?」
「そりゃ、まぁ、もちろん...運命の人とは、赤い糸でお互いに結ばれてるってやつだろ?」
「そう、それ!それが君にはないってこと!」
突然、何を言い出すのか、この男は。
これは単なる変質者の類いだと話の腰を折って、逃げようとした瞬間に例の男に強く腕を掴まれる。
「なんだよ、放せよ!」
「まぁ、まぁ...その縁無しの君に少し頼みがあるんだよ」
「縁無しに頼みってなんだよ?!」
「君の家のWi-Fiのパスワード、教えてくれない?」
---
「それで、何の用だよ?」
人外めいた部分を隠したイシュタルが人の携帯を嬉しそうに弄っている。
画面をよく見ると、書籍の販売ページのようだ。
先程、色々と教えたせいか既に使いこなしていた。
しかし、ずっと弄っていてこちらの声は聞こえていそうにない。携帯を触る手を掴んで、顎ごと顔をこちらに向かせた。
その嬉しそうにしていた顔が更に楽しげで、にやついた顔になる。
その顔について呆れるように口を開いた。
「...なんだよ、何笑ってんだよ」
「いや、別に?...有りだなと思って」
不意に携帯の画面を見た。
何やら、二人の男性が映る表紙だが、それはどこか恋愛漫画のようで重々しい雰囲気があり、わざと崩されたタイトルには、
「ヤン......デレ、な恋人...と...?」
「〖ヤンデレな恋人と僕のxxxx監禁日記〗だね。読む?」
「読まねぇよ、なんだその同人誌。癖が穿ってるだろ」
「えぇ?例の恋人が『僕』を監禁する独占的な愛なのに?」
「...知らねぇよ。んなことより、人の携帯で同人誌なんか買ってる暇があるならさっきの話_」
「ああ、それはもう終わったよ。回線が悪かったからWi-Fiのパスワードを教えて貰おうと思ってさ。それに...」
「それに?」
「縁無しの君なら、中々相手が見つからないだろうなと思ってね」
「.........余計なお世話だ。というか、お前、天使なんだろ?キューピッドの矢とかそういうので...相手を探したりできないのか?」
そう俺が言うとイシュタルは目を丸くした後にすぐに笑った。
「無理だね。キューピッドの矢って言っても、お互いが運命的な相手じゃないとハートは射抜くことはできない。
運命的ではない...そうだね、赤い糸では絶対につながらない相手と射抜かれても、すぐにその糸は切れちゃうんだよ。
つまり、君の周りにはその糸がすぐに切れる人しかいない。
だから縁無しなんだよ」
「......それは......」
「でも、男性なら君、うっすらとあるよ!本当にうっすらとだけど!」
「それ、誉めてないだろ。つか...男に興味ないし...」
「それだったら、君...一生、独身だよ?男性とくっつくか独身になるかの二択しかないよ?」
「...女性とくっつくっていう選択肢を作るのは...?」
「無理!絶対に無理!あり得ない!地球が今すぐに滅亡するっていう可能性くらいにはない!」
何もそこまで言わなくてもと思ってしまう。
「それに、僕...男性と男性のカップルしか、作らない主義だから!」
その言葉に自分の抱いていた女性の恋人というところが見事に打ち砕かれたような気がした。
---
「へへ...良いね、ここ。たっくさん人がいる!」
イシュタルが嬉しげにそう言って、花が咲いたように笑う。
右手は腕に宿した弓を持ち、左手は先がハートになっている弓矢を添えている。
何をする気なのだろうと黙っていると、突如としてその弓矢が放たれ、注文を取ろうとしていた店員と近くで珈琲を飲む客の胸を貫いた。
「おまっ...!なにして...?!」
「まぁ、まぁ。見ててよ」
矢を放った張本人を問い詰めようとして、制止され促されるままに先ほど貫かれた二人を見る。
互いに目を合わせ、顔を近づける二人。
何をするでもなく、じっと互いを見続け、やがて_。
「「...好きです」」
お互いに声を合わせるようにして、そう呟いた。
そのまま客の手が店員の顔に伸びて、近づかんとした瞬間に俺はそれを見ていた目を一気に逸らした。
「おい!なんだよ、あれ?!」
そして、小声で怒鳴り散らすようにしてイシュタルへ問いを投げる。
「なにって...カップル成立?」
「両方、男だぞ!」
「うん。素敵なカップルじゃん。どっちがタチで、どっちがネコなんだろうね、あれ」
「タチ?ネコ?...んなもん、どうでもいい!なんなんだよ、その弓矢!」
「え?キューピッドの矢だけど。君が望んでたやつだよ」
「そんなキューピッドの矢は望んでない!」
隣で喚く俺を無視して、イシュタルは良い絵と言わんばかりに写真を撮るような真似をする。
そして、満足げに店内の椅子に座り、メニュー表に手をつける。
「ねぇ、馨君は何がいい?」
「…チョコレートケーキ」
「OK、甘えん坊で犬系だけど夜は死ぬほど強い猛犬系黒髪彼氏ね」
「言ってない。つか、それお前の好みだろ…」
「良いじゃん、嫌い?」
「男じゃ勃たない」
「向こうが勃てばいけるよ」
「冗談だろ」
結局、そのまま注文は双方ともチョコレートケーキに決まり、食べた後に軽く話しながら帰路へつくことになり、いつもの路地の道を通る。
空は明るい橙色に染まり、カラスが鳴いている。
特に何も変わらない帰路。隣にイシュタルがいないかぎりは。
「…なぁ、うっすらとある男性の糸って今のところ、どうなんだ?」
ふと、気になった一言を思い出し、イシュタルへ質問を問いかけた。
決して藁にも縋る思いで聞いているわけではない。
「結構消えかかったり、現れたりしてる。多分、向こうの思いが不安定なんだと思う」
「向こうが不安定って…なんだよそれ」
「君が今のところ、認識してないからだよ。認識するか、或いは_」
「或いは?」
「……………」
「イシュタル?」
「一回、目を閉じて耳を塞いでてよ」
「そりゃ、なんで急に?」
「いいから」
疑問を抱えながら、言われた通りに目を閉じて、耳を手で塞ぐ。
真っ暗で何も聞こえない世界がしばらく続いた。
---
馨が目を閉じて、耳を塞いだのを確認して後ろを振り返り、電柱の近くでこちらを伺うフードを目深に被った男性を見た。
男性はフードで容姿が見づらいものの、かなり端正な顔つきで体格も良いが、どこか不安そうな表情を浮かべている。
手にはスマホと定番のスタンガンが握られ、部類的には僕の大好物だと分かる。
その大好物を安心させるように最適な言葉を僕は口から絞り出した。
「…大丈夫だよ、取らないから。君のものだから」
そう伝えた直後、彼はひどく口角を歪ませ、そのまま走り去った。
きっと、もう安全だと判断したのだろう。
素直に言われた通りの行動をしたままの馨に「もういいよ」と始めに耳を塞ぐ手を外した。
「…何かあったのか?」
「いや?うるさい選挙カーが走ってただけだったよ。家に帰ろうよ、頼んだやつ届いてるかも」
「勝手に頼むなよ…」
呆れた顔をした馨の手を僕は見た。
消えかかっていた赤い糸は、馨の手から離れるにつれて太く、硬くなり、一方的な束縛と独占欲を感じられる。
明確になったこの赤い糸が馨からも強くなるのは、そう遠くないのかもしれない。
百合が書きたくってェ…
追記:一緒 → 一生
誤字のご報告を有り難うございます!
一本!
剣道。
それは、日本古来の剣術を竹刀稽古とした武道である。
端から見るとかっこいいとか、凄いとかそんな感想を述べられるものの一つではあるが、その実態は鎧の中に汗だくになった男子や女子がいる。
しかし、その鎧の中で汗だくになった美少年がいるとしたら?
それに当てはまるのが俺の幼馴染みの友人だった。
暑く熱のこもった体育館の中へ入り、神様が贔屓したのかと考えてしまうほど、なびくような黒髪に醒めたような黒い瞳。
眉目秀麗な顔立ちに負けず劣らず、お互いに美しさを放っている。
|城村《たちむら》|隼人《はやと》、それが例の美少年の名前だった。
「...隼人!」
竹刀が風を切る音や呼応に負けない声量で彼の名前を呼んだ。
名前を呼ばれた彼が不意にこちらを振り向いた。
とても、嬉しそうな顔で微笑んで、「正樹!」とこちらも名前を呼ばれた。
|根古井《ねこい》|正樹《まさき》。それが、俺の名前である。
---
「なぁ、正樹...お前も剣道部に入れよ、下手でも大丈夫だって!」
「あー...いや、俺は...」
いつもと変わらない優しい声色で、いつものように部活へ誘う友人の顔を見ながら曖昧な言葉を口から流した。
何も、剣道部や他の部活が嫌いなわけではない。
ただ、友人のその汗だくになった姿が目に止まってしまうのが入部へ踏み切れない、たった一つの理由だった。
雨粒のような汗が流れる首筋、紅潮した赤い頬、温かさが伝わる吐息...そして、いやに低く甘いような声で呼ぶ俺の名前や優しい言葉。
それらがどうにも《《そういう風》》に見えてしまう。
中性的な見た目をしているから?
ひどくカッコいい見た目をしているから?
それとも___
「正樹?」
「っえ、あ、なに?」
「え、いや......こっちを見て、呆けてるから...何かしたかなと思って...」
「ああ、いや...大丈夫。ところで大会とかお前は行くの?」
「そりゃ行くよ。前の大会は勝ったし、次もきっと勝つさ」
「いいじゃん、応援してやるよ!じゃあ、その次の日に遊びに行こうぜ!」
「おう、絶対な!...あと、正樹」
「なに?」
「...いや、何でもない」
___それとも、惚れているからだろうか。
---
がやがやと声が賑わう遊園地の中で一人、《《友達》》を待った。
しばらくして、聞き慣れた声がした。
「正樹!」
間違いなく、彼だった。
駆け寄って少し息切れのする口を少し待って、ようやく開いた。
「大会の結果は?」
「バッチリ!良いとこ突いて、一本取ってきた!」
嬉しそうに笑う彼に自然と笑みがこぼれる。
お互いに笑い合いながら、一つの疑問が頭の片隅に浮かんだ。
「...なぁ、前...大会に行く、前日の時さ......なに、言いかけたんだ?」
そう口を開いた。
彼はその言葉に少し、驚いた顔をしたが、すぐにちょっとだけ頬を紅潮させて言葉を口にした。
そして、その直後に自分の唇に柔らかな感触があり、口だけでなく目を見開くと、赤い顔にしたままの赤く幼い果実がそこに微笑んでいた。
ただ、嬉しさや喜びよりも、《《一本》》を《《取られた》》とそう思った。
箱庭の常識
青の強調された空の中で、黒く濁った良い色の草花を踏みしめる。
何をするわけでもなく、ただ、子供のように音を鳴らして良い匂いの出る車に乗った旅人に挨拶をした。
「やぁ、旅人さん。こんな国に来るなんて不思議だね。ここはとっても綺麗で、空気が美味しくて...何もない。旅人さんは、何しにここへ来たんだ?」
旅人は青く汚ならしい色のヘルメットを取って、色白の顔でこちらを見た。
少し驚いたような顔をして、その口を開いた。
「どうも...ここは...なんというか、凄いところですね。その......素敵です」
「だろう?観光にでも、来たのかい?」
「...まぁ、そんなところです」
そう呟いてまた、青く汚ならしい色のヘルメットを被った。
奇妙な行為だが、旅人にはよくある行動だった。今まで来た旅人は帽子を持っていたり、フードがついているとまるで被らなければならないとでも言うように被るのだ。
「ところで、その...ここは××××がないんですか?」
「...××××?」
××××。××××。××××。
自分の中で、××××という言葉を繰り返す。
言われたことの意味をゆっくりと咀嚼していくうちに腹の中から煮えたぎるような熱く恐ろしいものが込み上げる。
そして、つい、口走ってしまった。
「××××?!そんな汚いもの、あるわけないだろ!××××なんて二度と言うなよ、クソ野郎!」
「クソ野郎って...××××じゃないですか、××××がないって、どういうことですか?」
「××××がないったらないんだ!××××なんて存在しない!存在している方がおかしいんだ!」
「でも、××××は...」
懲りずに××××という旅人の横を通り過ぎる若い女性に声をかけ、「この旅人が××××なんて酷いことを言うんだ!」と伝える。女性はすぐに額に青筋を立てて、旅人へ怒鳴り散らかした。
「××××?!アンタ、頭おかしいんじゃないの?!××××が何か分かって言ってるの?!」
「そりゃ、分かってますけど...そんなに××××がダメなんですか?」
「ダメに決まってるでしょ!そんな汚くて悪いもの、ダメに決まってるじゃない!」
「でも、××××は××××で、××××なんですよ?どこも汚くて悪い××××じゃないですか」
その言葉に若い女性と顔を合わせて瞼を開き閉じることを繰り返す。
今までの騒ぎに駆けつけた野次馬が話を聞いて一斉に旅人を非難した。
「××××?そりゃダメだよ、旅人さん」
「うわぁ、××××なんて本当に言う人いるんだ~」
「××××ってなぁに?おかーさん」
「聞いちゃダメよ、××××なんてダメ」
「外からの奴は皆そうだ、頭でもイカレてんのかね?」
「出てけ!出てけよ、そこの汚いのっぽ!こんな美しい国にふさわしくないぞ!」
口々に旅人へ怒りをぶつける国民に口角があがる。
皆がこの国を誇らしく思うことに嬉しさが込み上げてくる。
それらを暫く聞いて、旅人はため息を溢すと諦めたように良い匂い...いや、もう汚く臭い匂いのする車...鉄の馬に乗って騒々しいエンジン音を響かせて走り去っていった。
「ひどい旅人だったわね、外から来た人は本当におつむが弱くて、話が通じないわ」
「もう二度と来ないで欲しいよな。ったく、入国審査官はなにしてんだか」
「入国審査官っていうと、あの全身が黄色い服に包まれて、黒い長靴に気持ち悪いマスクをつけた奴等のことか」
「そーそー、あの気持ち悪い奴等な。前に俺の店に来たけど、軽く見て何も買わなかったよ。こっちだって、あんなに気持ち悪くて汚い奴等に大事な店に入って欲しくねぇよ」
「嘘だろ?災難だったな。アイツら、外から入る時は絶対あの服を着てるらしいぜ」
それぞれが旅人と入国審査官の異常性を語り、やがて元に戻っていく。
平和がそこにあった。
---
--- xxxx ---
---
「ふむ、入国時間は大体10分ってところだな。よくいれたもんだ...それで、国の中はどうだった?」
「どうもこうも、酷い有り様でしたよ。貴方の助言を聞いておけば良かったです」
「そうかい」
僕の後ろの大きな扉の先にある国はドーム型で中には排気ガスが充満し、美しいとは程遠い汚く気持ち悪い国が広がっている。国の中ではドームに張り巡らされた原色に近い青色の空と壊れた木造の家々ばかりで、動物の死骸やゴミ、糞尿で溢れ、常に何か分からない虫や鼠が蔓延っている。
「しかし、中の国民は凄いよな。あんなに汚い中でよく服も着ずに裸足で乾いた糞尿のある地面を踏めるんだか...」
「それを一ヶ月に一回、入っている貴方も凄いと思いますよ」
「言うね、旅人さん。あそこの国民はあれが美しいと思ってる...いや、それ以外知らないんだ」
「そうなんですか。不思議ですね」
「...だな。旅人さん、旅人さんは...美しいと思う定義はなんだと思う?」
「美しいと思う定義ですか?」
「ああ。ひっかけでもなんでもなく、素直にこれだと思うものを答えてくれ」
「...そうなんですね、私は#美しいと思う定義#、ですね」
「なるほど、その考えも悪くないな」
「貴方は、どうなんですか?」
「僕は分からない。卑怯かもしれないけど...美しさ、は人によって感じ方が違うだろう?常識も、感受性も人それぞれさ」
「.........」
旅人が何も言わずに上を見た。
僕も釣られるように診て、本物の淡い青空を瞳に映した。
アイスのお墓
あの日、私は過ちを犯した。
犯してはならない事を、ほんの少しの好奇心の中で弄ぶように。
生暖かい風が顔に吹いた。
中央に細い木の棒が突き刺さる形のアイスを食べながら、友人を待った。
やがて、黒く長髪の女の子と短い髪の男の子が手を振りながら僕の肩に手を置いた。
「ごめん、待った?」
「いいや...そんなに。アイスを食べてたから暑さもそんなに感じなかったし、大丈夫」
「えっ、いいな...2つ、残ってる?」
「あるよ。そのつもりで3つ持ってきたから」
僕はひんやりとした袋を短い髪の男の子に手渡し、もう一つを黒く長髪の女の子に手渡した。
ここから、男の子をK、女の子をA、僕をZとして語ろうと思う。
---
「ね、Z...お墓遊びってしたことある?」
「...お墓遊び?」
不意にAがアイスを食べ終わった棒を見ながらそんなことを言った。そして続けて口を開く。
「えっとね...アイスの棒に名前とかを書いて、亡くなった生き物のお墓を作る遊び...知らない?」
知らない。知るわけがない。なんて残酷な遊びなのだろうとこの時は思ったものだ。
「...知らないよ」
「...そっか...」
少し気まずい雰囲気が流れた。その雰囲気を感じとったのかKが急に大声を出した。
「...お、見ろよ、当たり!当たりだ!」
僕を含めAがKに注目し、棒に書かれている「当たり」という文字に釘づけになった。
それを見て先程の空気よりもKの幸運に驚き、お墓遊びなんて残酷なものはすっかり頭から抜けていた。
---
あの話から三日後、やけに近くの公園に野次馬が集っていた。その中で
「なに、してるの?」
友人の二人がその野次馬の中におり、僕は声をかけた。Aは少し青い顔をして野次馬の中央を指した。
そこにはこんもりとした土の中にアイスの棒が一本立っているだけのものがあった。
しかし、アイスの棒には手書きのような蝉の絵が描かれ、土の山の中に一種類の蝉の手足や羽が大量に見える。
背筋が凍るような感覚とお墓遊びというものが頭から沸き上がった。
あまりに異様な光景にふと、Aの顔を見る。相変わらず青い顔をしているが、少しだけ口角があがっているようにも見える。まさか、彼女が?...まるで犯人探しのような考えを急いで切って、その場を後にした。
---
そこから、一週間後、また同じようなものが見つかった。
今度は図書館の裏でアイスの棒にトンボが描かれ、また同じように何匹も土に埋められていた。
この辺りで、例のお墓遊びを誰かがやっているのだと確信に変わった。
手足が千切られ、頭の潰れたパーツだけの蝉、羽を引きちぎられたトンボ。
この2つだけでも恐ろしいものだったが、更にエスカレートしていった。
次は学校の裏山。ほんの少し大きい獲物に変えたのか、アイスの棒には雀が描かれ、羽がもがれて胴体と足が切断されて3羽が埋められていた。
その次が私の家の近くの空き地だった。猫と犬が描かれ、腹が切り裂かれたような形の二匹。これは土が腹の部分だけを隠すように埋められていた。
それを見る度にAの顔が思い浮かんだ。しかし、これを君がやったのかなどと言い出すことはできず、いつものように三人で集まって夏の暑さから逃れる度にアイスを食べていた。
その中であのお墓遊び染みたことについて語ることはあったが、Aは曖昧な返事をするばかりで興味を示しているようには感じなかった。
---
三日ほど経った頃だろうか。
Aが行方不明になった。急いでAの家へ行き、親に話を聞こうと敷地内に入った辺りで花壇で土の山にアイスの棒が刺さったものを見つけた。
棒には赤い猫のような絵が描かれ、近くに菊が供えられていた。
まるで、誰かがAを殺害し、お墓を建てたような考えに襲われた。
棒をよく見ると、〖《《かねこあい》》〗とAの名前が彫られていた。
これは一体どういうことだろうか。赤い猫との関連性がいまいち分からない。
もしや、並び変える?ならこれは何のために建てられたのか。
奇妙な汗が全身の毛穴から出ていくような感覚。気味が悪くなり、敷地内から飛び出してKの家へと向かった。
家に着いてご両親に挨拶をし、Kの自室に入ろうとした。
扉をノックして、声をかける。返事はない。ゆっくりとノブを回す。
案外、軽い力で扉は開いた。開いた先にいつも挟んで話す机の上に四角い箱の半分のようなものに土が山をつくり、柳の描かれたアイスの棒が一本刺さっている。
僕の名前は柳という文字が入る。その名前の頭の柳をとって、柳の絵でも描いたのか?
そうすると、次はお前だと言われているような感覚に陥る。
汗が止まることを知らず、流れ続ける。
ふらつくようにそれに近づき、アイスの棒に目を凝らす。
〖《《はやみじん》》〗。確かに、僕の名前だ。
不意に後ろから床が軋むような音がした。
---
「.........っ......」
私は足元に転がる長い黒髪の男の子を見た。
両足、手足をガムテープで縛られて口元も縄のようなものを噛ませられているのか言葉を発することなく地面に倒れている。
...Aがあんな話をしなければ、こんなことにはならなかった。そう思っているのだろうか。
それでも、あの遊びを始めにしたのは紛れもなく私だ。速水がここへ来たのも、金子がいなくなったのも全て私だ。
全て、私だ。この後の私は何を思ったか自室を出ようとした。
その扉の先に母がいて、止められてしまったのだから場所を移動するという選択肢を取れば良かったのだ。
金子はまだ見つかっていないし、速水も話すことはない。
しかし、この幼い時の好奇心というのは恐ろしいもので、彼女を手にかけた感覚は未だに頭から離れない。
だから、
あの日、私は過ちを犯した。
犯してはならない事を、ほんの少しの好奇心の中で弄ぶように。
書きたいところだけを書いたもんだから、ぐちゃぐちゃ
夜の花が見えるトンネルの奥で
〖決して振り返ってはいけない〗
そんな言葉を頭の中で掠めながら、花火大会へ駆け足で向かおうとトンネルの中を走った。
トンネルの奥からは花火があがる音がして、それ以外には自分の走る音と財布の硬貨がぶつかりあい、金属音が響く。
---
不意に後ろから低く若い男の子の声がした。
「決して振り返ってはいけないよ」
「どうして?」
「僕が、夜の花に怒られてしまうから!」
男の子はそう脅した。
---
不意に後ろから高く幼い女の子の声がした。
「ぜったい、ふりかえっちゃだめだよ」
「どうして?」
「わたしが、こわいから!」
女の子はそう泣き落とした。
---
不意に後ろから重々しくか細い男性の声がした。
「振り替えるなよ。振り替えるなよ」
「どうして?」
「何でそんなに、後ろが気になるんだ?」
男性はそう理由を求めた。
---
不意に後ろから甲高い女性の声がした。
「後ろを見ちゃダメよ。振り返らないで」
「どうして?」
「だって、ついてきているから」
女性はそう理由を語った。
---
後ろから、もう声はしなかった。
トンネルの先には夜空の花が咲いていた。
足を前に出して抜けた辺りで振り返る。
誰もいない。
男の子も、女の子も、男性も、女性もいない。
トンネルの奥の真っ暗な闇がじっとこちらを恨めしそうに見つめているばかりだった。
後ろから花火があがる音がした。
蛆が舞う花
凍えるような寒さの中で白い地面を踏みしめた。
吹雪は止むことを知らず、凍えた身体に冷たくも吹き続ける。
髪についた雪を払う先で、目的地と思われる町が制限された視界の中で見えた。
「...あれが、目的地ですか?シュヴァルツ大佐」
少し凍えたようなか細い声でアドネス中佐が後ろから声をかけた。
「ああ、そうなるな...町全体が|毒花《フラワー》に毒され、過半数の人口が|生きる屍《クリーチャー》になっているそうだ」
「はぁ、|毒花《フラワー》の繁殖力は恐ろしいですねぇ...」
アドネス中佐の感嘆の声を聞きながら、行くまでに手元の調査命令書を軽く読んだ内容を思い起こす。
---
数ヵ月程前に、植物研究所にて新種の植物を発見したと公に発表された。
どんな環境の土地でも根づく強い生命力と繁殖力を有し、人間にとって有毒な胞子を撒き散らす疑似的な裸子植物の一種。見た目だけは青い花弁に毒々しい葉のついた被子植物だが、実際は胞子により繁殖する自立式とのことだ。
この胞子、変わった繁殖力といっただけなら良いものの、人間の身体を蝕み、やがて脳の制御を奪う。
所謂、寄生の一つではあるが、最終的に胞子が集まって芋虫のような形を形成し肥大化する。
そして、人間の臓器を肥大化した元胞子である芋虫が食い尽くし、脳に直接的な干渉を行い|生きる屍《クリーチャー》として実体を持たせる。
寄生された人間は判断力が疎かになり、芋虫が人間を《《着る》》形になる。
しかし、完全に食い尽くされていないかぎり人間の自意識と判断力は保ったままで、《《まだ生きている状態》》である。
これが植物研究所近くの一つの町で爆発的に繁殖し、半分ゴーストタウンになってしまった“パレスタウン”にて特殊警察として所属する“P.R.T”はその|生きる屍《クリーチャー》と|毒花《フラワー》の掃除、そして調査を命じられた。
---
思い起こした内容を考えて、雪が積もって開かない扉を蹴りあげる。
薄い膜になっていた雪がボロボロと崩れ、扉がゆっくりと開いた。
中にはオフィスのような空間が広がっていて、薄暗くデスクの森から壁に身体を預けて腹から肩まで切り裂かれ、内臓が見える程真っ二つになった男性と思わしき死体。辺りには蛆が舞っている。
「...シュ、シュヴァルツ大佐...これ...」
「ああ、人為的だな」
この町には化け物だけでなく殺人犯でもいるのだろうか。
重荷が増えたような気分を抱えながら更に奥へと進んだ。
乾いた真っ黒な血。その血の中央に電動式のチェーンソーを握りしめて徘徊する|生きる屍《クリーチャー》。
先に見つけた部隊がAK-47に弾を込めて発砲しようとしている。部隊の一人がこちらを見て、顎を引いた。その合図に頷いて、「撃て」と短く言葉を返した。
直後、四方八方から銃撃の雨が降り、人間の皮が最初に破け、中から血だらけになった芋虫が姿を現すもすぐに蜂の巣になり、穴ぼこになってから床に奇妙な色をした液体とともに血が滲んだ。
「...後から、なったのか...始めからなったのか...どちらなんですかね、これ」
「始めからじゃないか?...胞子にやられて少し意識のある内に自分では動かせない身体で...だろう。
一応、意識は完全に支配されにくいからな...」
「そういえば、そうでしたね...しかし、結構耐久力があるようで...」
「あくまでも人を被っているからな...鎧が厚ければ厚いほど、防御力も高い。ふくよかなものには気をつけていこう」
「...胸糞が、悪いですね...」
---
調査の範囲を拡散するため、二人一組に別れ、小さな公園の男子トイレへ足を踏み入れる。
「シュヴァルツ大佐、私は女子トイレを見てきます」
後ろで新人がそう言ったのを確認して男子トイレの中へ目をやった。
トイレの中は異臭がして、排泄物の匂いのほかにもやけに香ばしい匂いがする。
ゴミが溜まった隅の奥の個室に蛆が舞い、|毒花《フラワー》の蔦が根づいている中に一人の人間が頭から突っ込んで、ばたばたと足を動かし何とか逃げようとしている。
いや、逃げさせられている。行き場のない足をばたつかせて微かに残った理性がそうさせているのか、寄生したものそのものがそうしろと、命令を降しているのかは分からない。
「...おい、無事か?」
一度、声をかける。返事はない。
もう一度、声をかける。返事はない。
個室から出る様子もなく、足以外に動く様子もない。
人に近づき、両足を狙って撃つ。乾いた銃声が二発伸びるように続き、足が垂れた。
垂れた瞬間に手足が個室の扉に腕を置き、ぐぐっと口から芋虫が見える頭で振り向く。
首は信じられない角度に曲がり、下顎がだらしなく垂れる。動かなくなった足を庇うように腕の力だけて這うようにこちらへ前進する。
それより前に銃弾を当ててみるが、怯むことはなく向かってくる。
足に絡みつき、人の口の中の芋虫が蔦を這わせ、こちらの口の中へ入ろうとする。
蔦を掴んで口の中から引きずり出し、喉の奥に入っていたものを吐き出すように咳き込んだ。
床に手をつき、後ろから聞こえる新人の声と銃声に安堵した。
---
床に突っ伏した寄生された人間。下顎の外れた口に手を突っ込み、動かない芋虫を引きずり出して腰に下げたナイフで芋虫を切り刻む。
次に人の緩くなった顔を外して紙のようにぺちゃりとした身体に刃を立てる。
黒くなった血が吹き出しながら手を濡らす。解体したものを黒い袋に入れ、できた袋を抱えてトイレを後にする。
汚れたナイフ持つ新人が心配そうに口を開いた。
「先程は大丈夫でしたか?」
「大丈夫...助かったよ。有り難う」
軽く礼を言って、空を見る。夕焼けが近づいている。
空から目をそらして遠くには別の軍隊が到着したと思わしき回収用の車。
車の中に袋を投げ込み、車の中に腰を下ろす。
運転席に座る人物に他の部隊の話を聞き、情報を整理する。
やがて、話が終わり、投げ込んだ袋を作業のために開いた。
新人のもつトランシーバーにはアドネス中佐の連絡が入っているようで、連絡をそのままし続けている。
連絡を聞きながら、揺れる車内で作業を開始した。
蛆の舞う花の中で何かが蠢いた気がした。
自分が見た夢の内容に設定を盛って書いたものです。
夢に出たのは毒花に寄生された人が出てくるトイレのところ。
主人公視点で自分自身がそれを撃って、バラして袋に詰めた後に軍の車で帰る途中にその寄生が動き出して終わりでした。
神掌に踊るのは
途中で飽きました…いや、初手から飽きました。
オチが弱く未完結ですが、放置し続けていたのでしょうがないです。
「だからぁ!僕、何にも知らないんですって!!」
屈強で筋肉質な男が端正な顔に涙を浮かべ、鼻水などで顔を歪ませながら椅子に縛りつけられている。
「んなわけあるか、お前堕天使だろうが!!」
「違いますぅ!」
「嘘つくな、ボケ!」
対比して、細身で礼服を着た青年がまるで神父のように男を責め立てている。
その言動に神父といったものは感じられず、単なる輩に見える。
「嘘なんてついてませんっ!ほんとに、ほんとに、知らないんです!!」
口調的には椅子に縛りつけられた男の方が神父らしさを感じられるが、頭には黒く大きな光輪、背中には鳥に似た黒い翼がある。格好だけは堕天使に似ていると言えた。
「知らない?!んな格好しといてよく言えたもんだな、おい!」
「目ぇ覚めたらこうだったんです!」
「お前は生まれた時からそうじゃねぇのか!!」
「そうなんですかっ?!」
「ああっ?そうじゃないのか!」
二人の間に暴言と無知が飛び交う。
堕天使の格好をした男性は■■■■。一方、神父はパウロと名である。
---
「記憶喪失ゥ?堕天使のくせに?」
神父らしさが全くないパウロが股を大きく開いて煽るように口を開いた。
「本当なんです!僕、僕_名前も覚えてなくて...!」
「.........なら_」
困ったようにまたびゃっと涙を流す男。パウロがふと上を見て、ぽつりと呟いた。
「_アザゼル。それで、どうだ。なぁ、泣き虫」
「...アザゼル?......なんだか...初めから、そうだったような...気がします...」
「は?!おまっ...!...本当に《《アザゼル》》かよ?!」
「な、なんですか...?!」
「......っ...いや、何でもない...」
パウロがアザゼルと名付けた男の縄を外し、そのまま正面に座りこむ。
じっと目が合う。アザゼルが間に耐えきれなくなり口を開こうとした瞬間に教会の鐘が鳴った。
「......12時だ...礼拝の為に人が来る、大人しくしてろ。堕天使擬き」
---
光が射し込み、楽園とも言える空間に讃美歌が響く。
その空間から逃げるようにアザゼルは羽を縮めて隅で耳を塞いでいた。
「おい」
ふと、先程までに聞いた声がかけられた。
「...パウロ...さん」
「屈強な男が泣きつくような声を出すと、気色悪いなァ」
パウロが毒を吐いて、アザゼルが耳を塞ぐ手をどかす。
途端に讃美歌が大きく聞こえ、耳の中につんざくようにして入ってくる。
「...やっぱ、お前...堕天使つーか...」
パウロがそう続けようとして再び黙り込み、耳へつんざく讃美歌に耳を傾ける。
暫くそうしていたが、数分後にやはり口を開いた。
「天使と悪魔の違いって、何だと思う?」
「…?……神に仕えるか、そうでないか…では?」
「じゃ、天使と堕天使の違いは?」
「…それも同じでは?」
「だよな?悪魔も、堕天使も変わらない。神に背いて嫌ったんだ。それなのに、人様ってのはどうにも堕天使を美化しやがるらしい」
「元々、天使だったからじゃないんですか?」
「…天使もそんな良いもんじゃねぇだろ。神にペコペコ頭下げて良い面して媚びては善人だけを救う羽のついた人間だ」
「………」
「…逆に堕天使はどうなんだろうな。善人、悪人関係なく救ってくれるのか…はたまた、救いと称して地獄へ落とすか……なぁ、どっちなんだ?」
「……知りません」
「知ってるだろ」
「知りません」
アザゼルのその返答にパウロが苛立ったように噛みついた。
「知ってんだよ、お前は。そうしてきただろ」
「…貴方は……」
「覚えてないなら教えるさ。少しばかり、長いが…」
---
椅子に腰を下ろして対面する人間と堕天使。
風景的にはどこか異質である。
「まず前提として、俺はお前を知ってる。アザゼルって名前もそこからだ。
ただ、知り合いってわけじゃない。単なる因縁だ。お前が俺が知ってるアザゼルかは不明だが」
「次にそのアザゼルってのは俺の父親を殺しやがったイカレ野郎だ。死が救うだの説いて人を救済した悪魔みたいな堕天使だ」
「その堕天使が、僕とどう関係あるんですか?」
「…………お前が…」
---
讃美歌の聞こえなくなった教会の中で、パウロが|十字架《ロザリオ》を握りしめながら懸命に祈っている。
それを一人の|堕天使《アザゼル》が《《救済》》へ導こうと十字架を握った。
心相のピース
蓮也のメモ帳を開き、ある一文に指を沿わせる。
『お前が明日死ぬのなら、僕の命は明日まででいい。
お前が今日を生きてくれるなら、僕もまた、今日を生きていこう』
ぞわぞわとした気味の悪さと、どうにもならない後悔だけが胸の中に響いていた。
---
床が軋む音が足音について回る。
田舎の古い校舎は時代遅れを物語るように高校という肩書きでありながら木造の姿をしていた。
たてつきの悪い扉に手をかけ、一気に開ける。
記憶の姿よりも背が高く大人びた同級生が数名、既に揃っていた。
「お、靖一じゃん!」
「蓮也にその名前で言われたの久々だわ...」
|杉山《すぎやま》|蓮也《れんや》に言葉を返し、高校時代同様に肩をまわして|森岡《もりおか》|靖一《せいいち》は久々の再会を噛みしめた。
蓮也の身体越しに他の数人に手を振り、右から|小笠原《おがさわら》|由美《ゆみ》、|山村《やまむら》|義文《よしふみ》だと分かる。高校時代に杉山を含め、特に仲が良かった三人だった。
「靖一も早いな、そんなに楽しみだったか?」
義文が靖一に向かって口を開いた。
「お前もだろ。廃校になる前の最後の同窓会、なんて響きがあったら来たくなるだろ?」
「ま、まぁ...そうだな」
いくつになっても好みは変わらないものである。由美が口に手を当て、可愛らしく笑っている。
「ねぇ、そろそろじゃない?皆そろそろ_」
由美がそう口にした辺りで、廊下からぞろぞろと人の話声がした。
---
懐かしい教室で教壇に担当教師であった|兼本《かねもと》|亘《わたる》が立った。
そこから前に杉山蓮也、|松木《まつぎ》|愛里《あいり》、|神羽《かんば》|悠希《はるき》、|田中《たなか》|孝《たかし》、森岡靖一、小笠原由美、|本保《ほんぼ》|乙葉《おとは》、山村義文の合計8名が座っていた。
昔ながらの出欠を取るような仕草で兼本が出席簿と席を照らし合わせる。
そして、何か奇妙な顔をした。
「...?......どうしたんですか、兼本先生?」
口を開いたのは高校時代に生徒会長をしていた本保だった。思い起こされる記憶の中で真面目で勤勉な優等生、という偏見を思い出したが今の彼女は長い髪をやや茶色に染め、女性としての魅力がなんとなく上昇しているような気がした。
「いや...なぁ、神羽......私を含めて同窓会の参加人数は9人だったよな?」
兼本先生がそう携帯を弄っている神羽に語りかけた。
神羽は高校時代もあまり人の話より携帯を弄っていることが多く、出席態度は悪かったが顔や家柄、性格の良さからクラス内のリーダー役といった感じだった。今もそれは変わっていないようだった。
「え?...そりゃ、そうですよ、兼本先生。なんです、10人目でもいるんですか?」
「ああ...その...皆、これを見てくれるか?」
兼本先生が出席簿の紙を全員へ見えるように差し出す。
そこには子供のような文字で兼本を足した10名の名前が描かれている。
しかし、その10人目の名前が黒で塗りつぶされている。
席を見回すと確かに、一つだけ空いている席があった。
「神羽、お前...参加者のうちの一人を忘れてたんじゃないのかよ?」
「そんなわけない。先生をいれて9人しかいないんだよ、この同窓会は」
「じゃあ、席が何で一つ多いんだよ?」
「...そんなの知るわけないだろ?手伝ってくれた人が間違って用意したとかじゃないのか?」
「その、手伝ってくれた人ってのは?」
「......松木.........と、田中...」
「松木と田中?...なぁ、この黒塗りはなんだ?」
俺が松木と田中に声をかけると、昔と変わらずふくよかな体型の松木がでかい声で返した。
「孝も、あたしも知らない。それ、高校時代に作った出席簿よ?」
「...なんだって?」
ふくよかな体型に守られるようにして田中孝が縦に頷いている。
少しか細い声で、ゆっくりと言葉を綴った。
「......いつか、同窓会やろうって......こんな最後の同窓会、なんて形になるとは思わなかったけど...それで、高校の時に作ったやつを、学校から確認もせずに...使っちゃって...」
「要は、何も分からないし知らないんだな?」
そうまとめれば、田中は縦に頷く。あまり人前に出ないせいか、臆病で保守的な性格は何年経っても変わらない。
というか、高校の時に使ったものを十年以上も経った同窓会などで使えるほど物持ちが良いものだろうか?
それを不審に思った時、蓮也が俺より先に口を開いた。
「高校の時に使ったって...そりゃ嘘っぱちが過ぎるんじゃねぇの?」
それに田中ではなく松木が反応する。
「嘘なんかじゃない。このド田舎であたし達以外の卒業生がいたわけじゃないでしょ。
つまるところ、残されたものがそのままにされてたの。
ねぇ、由美。さっき見たわよね、あの...昔描いた黒板の落書き...」
急に話を振られた由美の身体が跳ねた。何かを思い出したのか、耳までが赤くなり、小さな声でぼそぼそと呟いた。
「う...うん...あの、えっと...傘の落書き......消されずに残ってた...。十年以上も経ってるのに、全てがそのままみたい...」
その言葉に松木が“それみたことか”、と言わんばかりの得意気な顔で「ほら、言ったでしょ」と蓮也に投げる。辺りを見渡すと、確かに全てが記憶の中の教室そのもので、埃やゴミがないこと以外全てそのままだった。
蓮也もそれに納得した...いや、渋々納得して次に口を開いた。
「黒塗りは当時の話ってことで......じゃあ、そこの一つだけ空いてる席はなんだよ?」
兼本の教壇の席を除いて、九つの机と椅子。そのうちの一つだけが隅に置かれ、そこには誰も座っていない。つまり、出席簿同様に《《一人多い》》ことになる。
教室がそのままなことから、転校生の席もそのままだったのではと考えるが当時のクラスに転校生した同級生はいなかった。
頭の中で、どんなに思考を巡らせてもその理由が分かることはなかったが、どこか喪失感を感じる。
まるでパズルのピースが一つ足りないような感覚。
すっぽりとそのパズルのピースだけが抜け落ちて、どこかへいってしまっている。
それはこの状況下で、《《クラスメイトだったはずの誰か》》を忘れているような気がする。
強く思ったそれを口に出そうとした時、その場の全員が合わせたように、
「...彼がいない」
忘れてしまった彼を探し始めた。
---
彼、と言っても思い出したわけではない。
ただ頭の中で抜け落ちている記憶のクラスメイトだったはずの誰かを探しているうちに、ふとして巡った思考の先で〖彼〗という特定の呼称を得ただけだ。
「...彼って...誰?分かる人、いる?」
本保が先程の言葉にひかれるまま、そう聞いた。誰も答えない。答えることができない。
なにしろ、誰も覚えていないのだから当たり前である。
「...全員、分からないか?先生も分からなくてな......卒業アルバムに載っているかもしれないから持ってこようか?」
兼本が本当に困ったように笑っている。それ以外の全員が顔を見合わせた後に、ゆっくりと頷いた。
色褪せた卒業アルバムを開き、集合写真の中の一つに黒く塗りつぶされた姿をした彼が映っている。
「兼本先生、この黒塗り...出席簿と同じじゃないですか?」
義文がそう言って、蓮也と話を始める。誰も彼もがアルバムの写真を確認し、落胆したように肩を落とした。そして、ふいに由美が口を開いた。
「これじゃ、彼が誰か分からないよ。この黒塗りの男の子を覚えている人は?」
誰も答えない。答えることができない。
混合する思考の中で根本的なところを掘り返すように呟いた。
「彼...彼って男なのか?」
その言葉に田中が応える。いつも通りのか細い声だったが、
「...全員が彼、という呼称を得ているのなら、そうなんじゃないか...?
人はストーリー性のない断片的な記憶を......ある一定の出来事から思い起こすことがあるし...これが、そういった本能的なものなら、可能なんじゃ...ないか?
それに...人が、人を忘れていく順番は...最初に声を、次に顔を、最後に思い出を忘れる......今の、僕達なんだよ。
誰か一人でも、彼の声を覚えている?
誰か一人でも、彼の彼を覚えている?
誰か一人でも、彼との思い出を覚えている?」
啖呵を切ったように長く細い声で訴えた。彼、というのは田中にとって何だったのだろう。
他人事のようにそう考える中、静寂が流れた。
教室の隅の誰かの席に手をついて、深く考えこんでいた。
記憶の中に突如として住み着いて退こうとしない誰かがいた形跡の記憶。
まるで、思い出せとでも言われているようだった。だというのに、どう考えても誰も思い出せない。
突発的に神羽が俺に向かって「森岡って頭、良かったよな?ほら、学年三位の中には入ってたじゃん。頼むよ。他の人の身体ケアに回るから、彼のこと解明してくれよ」と半ば丸投げのように探偵ごっこを任された。
そのあまりの身勝手さには大人になった今でも悪態が吐ける。その吐いた悪態にまとわりつく怒りを払って後ろを見ると、蓮也が後ろだった場所から携帯で何やらメモしているのに気づいた。
「なに、メモしてるんだ?」
「いいだろ?これ。今まで聞いた内容をメモしたんだ、見てくれよ」
その言葉に従うように蓮也の携帯を覗いた。
---
---
*①黒塗りされたクラスメイトだったはずの“彼”*
*▪出席簿*
*高校当時に作成した出席簿で、例の席が一つ多いところへ入る“彼”の名前は黒塗りされている。*
*▪卒業アルバム*
*教室内にあった20年度生の卒業アルバム。*
*集合写真、個別の写真にある“彼”の写真も出席簿同様に黒塗りされている。*
*②考察*
*彼は本当にクラスメイト?*
*彼は誰?名前は?性別は?姿は?*
*彼...不登校?転校生?*
*黒塗りの意味は?教室の多い席は?*
*どうして全員に抜け落ちている記憶がある?*
---
---
「...考察の部分は省くとして、ちょっと有難いな...」
文章化すると、抜けているピースがかなりあることに気づいた。パズルはまだまだ完成しなさそうだ。
「なぁ、もし探偵ならこの状況...どうする?」
「なんだ?探偵ごっこに精を出すのか?......聞き取り調査とか?そういうのしか、できないだろ」
「......だよなぁ...じゃあ、蓮也から_」
「あー、俺...由美と話すっから...兼本ちゃんとか、どう?先生だし暇でしょ」
「兼本ちゃんって...もう、ちゃん付けされるようなお歳じゃないだろ」
「靖一君やい、今更よ?」
「...そうだな...」
あの時と同じ蓮也の顔に背を向けて、一先ず兼本の名前を呼んだ。
---
皆がいる教室とは違う別室で、白髪が目立つ皺とシミのある顔の深い男性に向き直る。
兼本亘は模範的な教師で、真面目で他者から大きな評価をもつ人望が高い教師だ。
それに授業の内容も分かりやすく、指示も的確で、この理想的な完璧人間に憧れる当時の生徒は少なくなかったことだろう。
「...それで、森岡。話はまとまったか?整理がつくまで先生は待ってやるからな」
自分のことを先生と呼ぶのは、母親がママと子供に呼ばれることに慣れ、自分のことすらもママと一人称が変わる状況と酷似している。それほどまでに教師としての側面が彼の人生の中で、最も強いのだろう。
「いえ、大丈夫です。...有り難うございます、兼本先生。早速ですが、“彼”について覚えていることはありますか?」
「いや...ないよ。教師として受け持った生徒の一人を覚えていない挙げ句、思い出せないとは...なんとも不名誉なことだよ」
「それは御愁傷様です。黒塗りの出席簿は初めから黒塗りでしたか?」
「そうだね。彼のところだけが黒塗りだったよ。卒業アルバムもそうだ。誰も触らず当時のままだ」
「当時のことを、覚えていますか?」
「ああ、君も覚えているだろうね?全員が《《完璧に》》仲睦まじく、互いに支え合い、理想の学級だったよ。
素晴らしい時間だった、改めて感謝を述べるよ...当時は特にこれといった問題もなく《《完璧》》だったね」
「...そうですか?」
「そうだよ。ちょっとした問題も青春のうちだ、何度も君と杉山の問題行動を見逃したか...」
「俺、そんなにしてた記憶がないんですが...」
「ちゃんとやってるからね、君。成績は良いが、行動に難があったんだからな」
「...すみません......。その、具体的にどのように《《完璧》》でした?」
「そりゃあ、生徒個人個人が寄り添い合い、助け合い、称え合い、笑い合い...全てを共有し、他の学級の見本になるほどの完璧だ。
だが、中でも...あの軟弱者で精神力の低い、ひどく醜い彼、は、とて、も、異常...__」
それまで饒舌だった口が閉ざされ、顔が青くなる。呼吸は乱れて肩の動きが激しくなる。
「...兼本先生?...兼本、亘先生...?聞こえて、いますか?」
「.........私は...」
「私は?」
「......すまない、何でもない......話は終わりにしよう。少し...休ませてくれ」
兼本が青い顔のまま、先に立ち上がる。その姿を見送って横にいた本保の名前を呼んだ。
---
茶色に染めた長髪を揺らして、自分の目の前に本保乙葉が座った。
彼女も優等生の一人で成績は上位の方だったが、それを鼻につけることなく進んで雑用をこなし、徹底的に尽くすタイプの女性だった。
「話って、なに?」
「彼...についてなんだけど、覚えてないよな...」
「うん...えっと...黒塗りのこと?」
「ああ、何か分かるか?」
「あんまり...松木さんと、田中さんぐらいしか詳しく知らないと思う...」
「......あー、うん......じゃ、じゃあ当時のことって...?」
「当時?...生徒会長の...?......何て言うか、凄く...荒れてて、大変だった...。兼本先生は優秀だって言うけど、誰もちゃんと見てないから、どこもかしこも隠れてやりたい放題で......その、森岡君」
不意に名前を呼ばれて、すっとんきょうな声が漏れる。
「......森岡君は............えっと...杉山君といた方がいいと、思うの...い、今だから、何があるか、分からないし...ほら、彼もよく分からないでしょ、名前すら思い出せてないし...」
「...そうだな」
しきりに俺の後ろを気にしながら出ていく本保を見送り、義文の名前を呼んだ。
妙に「蓮也と一緒にいろ」と言う助言が引っ掛かるばかりだった。
---
高校時代とは違って髪を伸ばした若い男性、山村義文。
おちゃらけた言動の蓮也とは違って重々しく歳相応の発言が目立つ正義感の強い男性だった。
「神羽も、蓮也も手伝ってやればいいのにな...今やってる荷物搬送の作業が終わったら手伝おうか?」
開口一番にそんな提案を義文が挙げた。
「いや...そこまで難航してないから、大丈夫だ。彼については分かるか?」
「彼なぁ......多分、俺だけだとは思うんだけどな、ずっと不信感が凄いんだよ。
何て言うか、関わりたくない感じ?気持ち悪いっていうか、目にもいれたくないっていうか...極端に言えば、消えていなくなれ、みたいな...とにかく攻撃的なんだ。
靖一は、どうなんだ?何か、思うことは?」
「俺...俺は......」
問いに応えるために再び、思考を巡らせた。
彼については不思議で、奇妙な印象しかない。しかし、どこか親近感があり攻撃的で陰鬱な印象は思い出せない。
小さな子猫と対峙した時のような気持ちが沸いてくるのだ。小さな身体を手の中で踊らせ、とてつもない優越感が沸いてくる。王様にでもなった気持ちがあるなどと、口に出してはどう思われることだろうか。
「......子猫を...弄ぶみたいな......そんな、感じ?」
「なんだそれ...抽象的過ぎやしないか?」
「良い例えが思いつかなかったんだよ...黒塗りの件については?」
「全く知らないなぁ......松木の言う通り、高校時代に塗られたっぽいよな。卒業アルバムは誰かが勝手に保管してあるものに塗ったっぽいし......誰か卒業アルバムを持ってきてるやつはいないのか?」
「いないんじゃないか?それに云十年前の卒業アルバムをわざわざ実家以外で持ってるやつはいないだろ。実家住みのやつはいなかったし誰も分からないんだろ。
なぁ、高校時代当時のことはどうだった?」
「ん~...普通じゃないか?一緒にバカやって笑って...たまに怒られて、そんくらいだろ」
「...だよなぁ」
「そういや、神羽が酒買ってくるってさ。夜に全員で酒の肴を取り囲んで食おうぜ」
「いいな、それ。とりあえず全員に聞き終わったらテーブルの準備しとくよ」
話がある程度終わり、いつも通りの爽やかな顔をした義文がそこにあったが、俺の後ろを見て何かを思い出したかのような顔をした。
不審に思いつつも、神羽の名前を呼んだ。
---
全体的に人からの評価が高く、集中力は無に等しいものの人望は人柄上高いリーダー気質の良家の神羽悠希。
嫌いではないが、その携帯を弄るような集中力の無さから長期間の作業は向いておらず現に今、不可思議な現象についての調査を頼んだ張本人である。
「あー...彼と、黒塗りのことだよな?」
「そうだな。とりあえず、他の人の身体ケアの方はどうだった?」
「まず、そこなのか...?兼本先生がやけに青い顔をしてたよ。本保と山村はまぁ、ちょっと...驚いたみたいな感じ...?」
「他は?」
「大抵が彼について考え込んでるくらいだな。特に何もない。
で、彼については俺も分からないけど...黒塗りを考えてる内に思い出したことがあるんだよ。
高校時代の時に塗られたってのは分かるんだが、卒業式後に配られた卒業アルバムに全員がこぞって全ての卒業アルバムに黒塗りを施した覚えがあるんだ。
まるで、思い出したくない思い出、みたいにさ。家と学校が近いから、実家で卒業アルバムを見たんだ。そしたらやっぱり、黒塗りだった。さっき見た卒業アルバムみたいに彼だけが黒塗りだった」
「...つまり、全員が消したくなるほど...憎まれてた、とか?そういう人だったのか?」
「じゃ、森岡...彼に対して、恨みは?」
「ない」
「そうだよな。だから、単に消したくてしょうがなかった...と見てる」
「意味が全く分からないな。そもそも当時の気持ちや考えが不明だから、しょうがないことではあるが...」
「そうなんだよな、ずっと残ってて正直気味が悪い」
「だな、当時のことはどうだ?」
「良くも悪くも...怖かったよ。下手なことを口走ると、ヤジが飛んできそうでさ」
そう話を切って、嬉しげに「買い出しに行ってくるわ」と笑う神羽の姿を見送った。
座った椅子の横で四人の名前を消した。
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---
*~~兼本亘~~、~~本保乙葉~~、~~山村義文~~、~~神羽悠希~~、*
*小笠原由美、松木愛里、田中孝、松山蓮也、~~森岡靖一~~*
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完璧、恐怖、嫌悪、疑問...そして、優越。
正直のところ彼について分かることはない。
兼本は当時を完璧としたが、彼を何やら醜形だと貶す。
本保は当時を非常に荒れていたと言い、蓮也から離れるなと助言する。
義文は当時を平凡だと言い、彼に嫌悪感を示す。
神羽は当時を畏怖し、彼の存在意義を問う。
それなら、俺は?
俺は当時のことを微塵も覚えていないし、彼の存在そのものを組み敷くように大きな優越感を抱く。
その多幸感を抑えつつ、由美の名前を呼んだ。
---
目鼻立ちの通った顔立ちに艶やかな黒髪、醒めたような瞳。
クラス内のマドンナ的存在で、過去に一度告白をしたことがある...しっかりと断られた苦い思い出だ。
人柄も良く、成績も良い。男性からは非常に愛された女性である小笠原由美。
美人で愛想も良い理想的な女性…つくづく神の産物や贈り物というのが正しいのか、テレビや雑誌でよく姿を見ていた。
「ねぇ、大丈夫?」
「ん?何が?」
「ずっと、悩んでる様子だったから…」
そう言う由美がゆっくりと近づいて唇が触れそうな程の距離まで近づく。
心の高鳴りを感じながら、力を込めないよう由美の肩を抑えて「なんでもない」と言い切った。
「……そう…えっと、黒塗りと彼だよね?」
「あ、ああ…知ってたり、するか?」
「…知らない、なんて言うと嘘になるから言っちゃうね…周りの人がいると、凄く何か言われそうだったし…でも、靖一君なら…大丈夫、だから…」
「俺なら…大丈夫?」
「…だって、それを知ってる…から。蓮也君も…」
「蓮也も?どういうことだ?由美、今何を言うとしてるんだ?」
「耳…貸して」
言われるがままに由美の顔の前に横顔を預けるようにして耳を傾ける。
良い匂いの…しかし、少し臭い香水の香りが鼻をくすぐった。
「…忘れているかもしれないけど…黒塗りは蓮也君がやったの…私、見てたから。
彼のこと、考えてると胸がきつく絞められるみたいに苦しくなって頭の中が真っ白になって…もう、手に入らないんだって、そんな思いがあるの」
そして、耳へ吐息が吹きかけられ、動揺した瞬間に由美の白く細い手で胸を強く突き飛ばされる。
「いっ…な、なにするんだよ…黒塗りが蓮也って、どういうことなんだよ!それに、彼って…」
「……怒らないの?覚えてないの?本当に?」
「何に…?突き飛ばしたことか?」
「…信じられない」
「は、はぁ?てか、知ってるのか?彼について、覚えてるのか?」
「……少しだけ、ね。本当に少しだけ…」
「じゃあ、何で皆で言い合ってた時に言わなかったんだよ?!」
「…言えないよ。あんなに皆が皆、知らないなんて言ってたら…知ってる、って言った時にまた、たくさんの視線を浴びるから…」
「し、視線がなんだよ…?」
「…本当に…覚えてないんだね」
「何度も、そう言ってるだろ」
「……そう。靖一君、私が分かるのは黒塗りをしたのが高校生の時の蓮也君で、それが分かるのは私がそれを放課後にたまたま見ちゃっただけ。
ただ、それだけなの。彼に対して感じる喪失感は多分、関係ないの。蓮也君がどうして黒塗りしてたのかなんて分からないけど、靖一君なら分かると思う」
「…えっと……それは、お願い?」
「…ううん」
「そ、そっか…その…神羽の話だと、黒塗りって皆で塗ったらしいんだけど…そ、それだと由美の話…食い違ってる、よな?」
「…………」
「由美?」
由美が俯いて顔に手をやり、ゆっくりと嗚咽を漏らし始める。まるで、悲劇のヒロインのようだった。
「靖一君は…私じゃなくて、神羽君を信じるの…?」
「え?いや、そういうわけじゃないけど…でも、変だなって思って_」
そう疑問を率直に言った瞬間、漏れていた嗚咽が不意に止まり、由美の唇から「ああ、そう」と聞いたことのない女性が怒ったような低いがした。
そのまま顔を見せずに後ろの扉に手をかけ、去り際に、
「嘘、吐いてごめんね」
そう棒読みのような声がした。背筋が凍るような感覚と、彼女への思いが晴れたような気がした。
---
「あのさ、言っとくけど由美って腹黒いからね。今、アンタと話した由美、めちゃくちゃ機嫌悪かったんだけど…どうしてくれんの?」
「そんなの知るかよ…女子、女性同士でどうにかしてくれよ」
「信じらんない」
ふくよかな体型に整えられた綺麗な黒髪に、負けん気の感じられる強気の黒い瞳。
女子の中で由美と並び、盾のようだった女性だが、母のように面倒みの良い姿勢に誰もが信頼をおく松木愛理。
嫌いではない。その証拠に、よく冗談を言い合う仲だった。
「それで、黒塗りと彼についてなんだが」
「はぁ?知らないわよ。黒塗りなんか、誰かが悪戯でもしたんでしょ。違うの?」
「でも、出席簿にも黒塗りがあるのは奇妙だろ」
「だから知らないわよ…高校時代に面白いと思ったんでしょ。それか、間違えたのを隠したか…そうとしか考えられないわ」
「じゃ、松木は高校時代にできたものを、社会人になってから使うのにそんな恥ずかしいミスをそのままにしておくのか?」
「うるさいわね…どうでもいいじゃない、そんなこと。ミスなんて、若い頃にたくさんするわよ。だから何だって言うの?お説教でもする気?爺臭くなったものね」
そう嫌悪を隠さずに抉るような言葉を述べる松木に少し、苛立ったように机を数回、叩きながら口を開く。まるで高校生時代の会話のようだった。
「…分かった、分かったよ。黒塗りの件に関しては、もういい。
彼について分かること、感じていることを教えてくれるか?」
「ない。はっきり言ってないのよ。そもそも今、散々言われたような人間が協力すると思うわけ?」
「…それは…その……」
「本当に何も知らない。それだけ。それで、いいでしょ」
「……ご協力、有り難う」
勝ち誇ったかのように出ていく松木を見送り、田中の名前を張るように大きく呼んだ。
どこか、開けてはいけない恐怖を感じざるを得なかった。
---
「……あ、あのさ…ほ…本当に、靖一君って覚えてないの?」
「…さぁ、どうなんだろうな。奇妙な優越感だけがあるんだよ」
お互いに探るような質問する中で、前髪が瞳を覆い隠し、垂れた長袖が細身の身体を包む姿の田中孝。
高校時代もその風貌と同様に教室内で小さく、縮こまるようにして隅で松木に守られるようにしていた。
しかし、器量や性格もよく、そこそこクラス内での能ある鷹は爪を隠すと言った言葉が似合うような男性だった。
「……せ、靖一君は…彼の名前、分かる?」
「名前?…いや、名前というか、顔も全部覚えてないんだよ」
「…そ…そう…」
「田中、何か知ってるなら教えてくれないか?彼、について」
「……後悔…しない?」
「後悔?」
「僕は…あの頃を、凄く後悔してる。靖一君がこれを聞いてどう思うか…僕には分からない」
「…聞く前に、黒塗りの件について知っていたりするか?」
「…黒塗り?自分でやったのに?皆でやったのに忘れたの?」
「は?」
「ああ……やった側は覚えてないって言うよね。酷いよ、僕はずっと覚えてたのに」
本当に悲しそうな顔をする田中に申し訳なくなり、謝罪の言葉を口から絞り出してしまう。
「……その……ごめん…」
その言葉吐いた瞬間、言葉を待っていたわけではないと呆れたような顔をした田中がため息をつき、「…じゃ、教えるね。もう忘れないでね」と悠々と語り出した。
「彼はクラスで孤立してた。自らそうなったわけじゃないけれど、それは確かに分かることがそうさせられてたってこと。
生生も友達も親も兄弟も…皆が彼を幽霊扱いするんだって。皆が前の僕みたいにやるんだって。
僕は彼が伸ばした手を一度取って、突き放した。それが悪いことだったのか、良いことかは知らない。
それでも僕は必死だった。君みたいな皆に囲まれて抜け出して、唯一安心できる愛理の傍で笑ってた。
僕も君と同罪だけど、君はもっと悪い。何も知らないふりして、何も知らないように幸せになるんだ」
そこで区切られた言葉は代わりに俺の手を優しく掴んで、跡が残るくらい強く握り出す。
急激な痛みは絶えず、顔を顰めると田中は見覚えのある笑い方をしている。
見覚えのある笑い方。見覚えのある笑い方。見覚えのある笑い方。
……見覚えの、ある………?
---
高校三年生の時、クラス内は大きく割れていた。
彼と、彼を意地悪している男子達。元々そうだった男子。傍観する女子達と男子達。何も言わない先生。
常に緊迫としていて、一言でも発せれば次の標的にさせられてしまいそうな恐怖。
そんな恐怖の犠牲者である今の標的は彼だった。彼は元々、そうだった男子…田中を庇ったことが機に触った男子に目をつけられただけの単なる犠牲の一つだった。
彼にとっては地獄だっただろう。
男子達にとっては天国だっただろう。
田中にとっては罰だっただろう。
傍観者にとっては恐怖だっただろう。
先生にとっては救えない面倒事だっただろう。
しかし、田中は庇われたことに何も言わなかったが、常々やらされて同じことをする時は笑っていたのだ。
それが彼にとっては後悔になるのだろう。
何も覚えていない俺にとっては、過ぎた話ではある。
---
「……思い出したの?」
「それなりに、は……彼は…彼は、標的だった?」
「…君のね」
そう、告げた田中の顔を見た。
見覚えのある笑い方は媚びたような笑い方で、彼が標的になる前に田中がしていた笑い方だった。
「俺の標的って?」
「嘘、まだ?」
「……何がだ?」
「…もういい、そろそろご飯になるから行こうよ。もう八時だし」
「あ、ああ…悪いな」
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*~~兼本亘~~、~~本保乙葉~~、~~山村義文~~、~~神羽悠希~~、*
*~~小笠原由美~~、~~松木愛理~~、~~田中孝~~、松山蓮也、~~森岡靖一~~*
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あと、一人。
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アルコールの匂いが室内に充満して、赤くなりつつあった鼻の中へ入り込む。
彼の席に酎ハイの缶を広げて、近くのスーパーで買ったと思われる惣菜や元々頼んでいたと思われる寿司が彼以外の席を合わせて大きな食卓になっていた。
洋梨の酎ハイ缶を持ちながら神羽が俺の皿に唐揚げを取り分けつつ、口を開いた。
「結局、何か分かったか?」
「いんや…いまいちはっきりしないな」
「…ま、そんなもんだよなぁ…残り、杉山だけだよな。ちゃんと話せよ」
「分かってるよ。兼本先生とか、由美の様子とかどうだった?」
「普通だな。なんかしたのか?」
「何も?」
「何もないってことはないだろ、変な奴だなぁ」
神羽がそう笑って箸で寿司の一つを口へ放った。
それを横目で見ながら、俺は甘く苦い液体を口の中へ流し込み、複雑なことで煮詰れていた頭を洗った。
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森岡|颯一《そういち》。
肩幅が広く、ふくよかな体型だが身長の低い臆病であるもの正義感は人一倍強く、優しさを兼ね揃えていた。
また、見た目とは裏腹に頭脳明晰で身体能力が非常に優れ、コミュニケーション能力にも長けた非の打ち所のない性格をしていた。
であるからにして、教師や生徒も期待と憧憬の眼差しを常に注ぎ、小笠原由美とは恋人と噂をされるほど親しく、お互いにお似合いで見た目を重視しないことを念頭におけば、不備などは存在しなかった。
しかし、妬みや恨みが存在しないわけではない。
横行する当てこすりや侮辱、口撃に耐えかねて更にそれが波の大きくうねった時、既に限界値を超えていた。
正義感故に招いた過酷な戒めや普段からの行為は常々、彼を蝕んでいき、かつての栄光と自尊心は酷く傷を得た。
いつしか彼は硬く重い殻に閉じ籠もるようになり、それらが割れたのは彼が自ら命を絶った時だった。
尚も、傍観や実行は悲しまず、教師は完璧でなくなった彼を非難し己の成績に矛盾が生じるのを潔しとしなかった。
すなわち、彼は自己が生きた証を黒く塗り潰され、関わった者の記憶から姿を消した。
最初に声を。次に顔を。最後に思い出を。
哀しくも、全て忘れ去られていた。
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酔いの回った瞳で蓮也を見た。
彼もまた、酔いが巡っているのか頬を薄ら赤く紅潮させ、たどたどしい口調で物を語った。
「…昔さぁ……クラスん中、荒れてたよなぁ…」
「らしいな」
「なぁんだよ、覚えてないのかぁ…?」
「…ああ」
その一言に、目を丸くしてすぐに蓮也が言葉を綴った。
「兼本ちゃんが完璧主義で…松木と由美が傍観だけど付き合ってて……んで、本保と神羽も傍観……田中は元標的で、義文に俺らと一緒……あー、本保には見られたよなぁ…」
その辺りで周りにいた全員が固まった。
ピンと来ない俺だけが、更に説明を促した。
「………ああ…何を?」
「んー、ほら……アイツ…誰だっけ……誰かをさぁ……木に吊ったじゃん……」
「…誰?」
「……靖一の…兄ちゃん、かな?…ほら、颯一だっけ…いただろ…?」
ヒック、と喉から音を立てて言われた“颯一”に|記憶《パズル》のピースを嵌めていく。
一つずつ、ゆっくりと一つずつ嵌めていった。
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兼本亘は、実に非常な完璧主義者だった。
クラス内で行われたいじめには見て知らぬふりをし、全て忘れるよう全員に諭した。
己が積み上げた成績が下がるのを恐れた為である。
本保乙葉は、臆病な傍観者だった。
クラス内で行われたいじめには絶対に関わろうとしなかった。
己が標的になるのを恐れた為である。
山村義文は、残忍な愉快犯だった。
クラス内で行われたいじめに積極的に関わったが、彼のことは気味悪がっていた。
己が過去の栄光と現在の差異に納得がいなかった為である。
神羽悠希は、臆病で怖がりな傍観者だった。
クラス内で行われたいじめには関わらないものの、常に畏怖していた。
己が標的になるのを恐れた為である。
小笠原由美は、嘘つきな傍観者だった。
クラス内で行われたいじめに無関心で、常に嘘を纏っていた。
己が美貌以外に飾る|言葉《アクセサリー》が必要だった為である。
松木愛理は、愛に飢えた世話焼きな傍観者だった。
クラス内で行われたいじめよりも、他人からの尊敬や愛情にばかり目を泳がせていた。
己が手にする愛を他者へ見せたい自慢が常に存在していたからである。
田中孝は、恩を仇で返す後悔をする偽善者だった。
クラス内で行われた始めの被害者だったが、救ってくれた者が伸ばした手を掴もうとしなかった。
己が再び、標的にされる恐怖に常に駆り立てられていたからである。
松山蓮也は、一つを恨み、一つを愛した裏の立ち役者だった。
クラス内で行われたいじめが終わり、最も愛した人が彼を殺した後に偽装を唆した。
己が手にするはずの愛した人を壊さない為である。
森岡靖一は_
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「…森岡、颯一だ」
「んぉ?」
焦点の合わない蓮也の頬を撫でながら、各々料理や酒を手にするクラスメイトに口を開いた。
「彼は、森岡颯一だ。昔いじめられていた俺の双子の、兄だ」
誰もが何も言わなかった。そのまま言葉を続ける。
「森岡颯一は兼本先生に助けを求めても、救った田中に助けを求めても、誰も救ってはくれなかった。
皆が無視して、皆が殺した。でも、彼は殺された」
蓮也がアルコールの匂いがする息を吐いた。
「…彼は物置で首を吊っていた。けれど、死因は縄による首の窒息死じゃなく、頭部のひどい損傷だ。
誰かに突き落とされたんだ。分かってるだろ、もう」
蓮也は俺の頬を撫でて、周りを見ている。周りは何も言わない。
「彼を突き落としたのは、俺だ。学校に来ない彼に苛立って、家でもきつく責めて…結果、言い合いになり階段から突き落とした。
それが、どうしようもなく怖くなった。今まで、そんなことをやってきたくせに怖くなった。
蓮也に相談して、互いに罪を重ねた。今更だったが、彼の首に紐を通し、身体を高くあげて自殺を偽装した。
……我ながら、よくバレなかったと思うよ。バレてたかも、しれないけど」
酎ハイの置かれた彼の席の机に手を触れながら、優越感が再度込み上げてくる。
蓮也が諦めたように最後の問いを投げて、メモ帳を俺に渡した。
ひどく寂しげで愛しい表情を浮かべていた。
「…いじめの、主犯は?」
俺は、ゆっくりと|声《ピース》を|挙げた《嵌めた》。
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森岡靖一は、兄を恨み虐げた主犯格だった。
クラス内で行われたいじめの実行者で常に感じる劣等感を優越感の中に滲ませていた。
己の|心相《劣等感》を明かさない為である。
血晶の宝石
20XX年、世界中で経済が瞬く内に大きく膨れ上がり、過去のことを忘れたように景気が良くなった。
宝石や石油などの貿易品が紙幣や貨幣と共に踊るように回り、世界中の人々がその恩恵を受けて経済的に豊富になった。
全てが平等で公平かつ、全員がとても余裕があった楽園とも言える時代だった。
しかし、やはり良いことの後には悪いことが待っているのか、世界中の国々が国内の資源を取りつくし、異常な気候変動の影響で米粒の一つですら貴重となる深刻な大飢饉と世界中の範囲で経済の大規模な低下が起きた。
それまで膨らんでいた泡が弾けるようにして世界中が不平等で醜い競争社会となり、経済格差が大きくなった。各国の出生率の低下、衛星状態の低下など、それまでうなぎ登りに上がっていたものが著しく低下し、世界中が混乱する形になったが、その衛星面の悪い状態の中で様々なウイルスや生命が誕生した。
瞳から流す汗と同様の涙が黒く匂う液体、石油となる者。
血液などの液体が空気中の酸素と結合することで、人によって様々な結晶となる者。
奇妙なウイルスや病気にかかった者が発見され、しばらく世界中で発生したその者を訝しんでいたものの、その者が実際に使用できる資源を生み出せることに着目し、やがて、そういった病にかかった者を《《資源の家畜》》として扱うようになった。
人間から家畜として位を落とされた人間は同様の個体と交わり、繁殖しゆっくりと世界中の飢饉と経済の低下を今も回復させている。
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その人体の体液が酸素と結合することで、全て結晶となる|人間《家畜》を|宝石人《ジェム》と呼び、そのジェムを基本的に番号で呼ぶことが多い。
例えば、この目の前の35-689は35-689から採取した涙、汗、唾液、血液などが酸素と結合することで宝石の元となる結晶化し、結晶化した鉱物を削るなどして形造ることで商品である宝石となる。
しかし、その宝石となる過程で結晶化した鉱物は体液でありながらジェムと感覚を共有するようで、鉱物の中から赤黒く生暖かい液体が噴き出すと同時にジェムの精神状態が大きく変化し、何もしていないのにも関わらず、痛みを訴える。その他にも接触系の感染をするため、体液を触れる際には手袋が必須である。
また、家畜にも関わらず、元は病によって変異した人間であるから知能も大変高く、学習する、思考するなどといった人間とも言える。以前の言葉巧みに同情を誘う演技派の家畜には些か感心したものだった。
所詮、家畜だと結論づけているため、それをわざわざ人権の回復をと大声で主張する者はいない。
牛や羊だって、昔はペットや家族だったかもしれないものを家畜として有用しているのだから今更だろう。
フケがついた黒髪の長髪を引っ張って、同僚に35-689を抑え込んでもらい、片手に持った注射器を血管に刺す。細く鋭い針が柔らかい肉の皮膚を貫通して入り、吸い上げる血液が注射器の空間を満たす。
35-689は暴れる様子がなく針が離れるとすぐに離され、刺された部分にアルコールを含んだ濡れ紙を当てられた後に十分な栄養と運動、睡眠、休養を与えた状態で次の採血まで待機する。
その待機の状態にも痛みは体液の加工中に継続する模様だが、そういうものなのだから受け入れるほかない。
同僚が他の個体の35-690、35-691などを引っ張り出して注射を催促する。しばらくは、この業務のようだ。
採取した血液を注射器から取りだし、しばらく放置する。すると、空気中の酸素と結合し、みるみるうちにルビーやサファイア、ダイヤモンド等の鉱物に成っていく。
何の鉱物となるかは極めてランダムで、指定したり狙ったりすることはできない。
結合した鉱物のうちのルビーをサファイアやダイヤモンド等と繋がった境を切断する。赤黒い液体が勢いよく噴き出した。
次に商品として売りに出せるような形に整えて、円く美しく削っていく。そんな中でも液体は出るものの、水に浸ければ何ともない。
作業している間、後ろの閉じた扉の先で絶叫するような悲鳴を音楽として聞き続けた。
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手袋を嵌めた腕で檻の中の《《家畜》》を見た。先程まで叫んでいたのが嘘のように、ぱったりと静まって身体中にかきむしったような跡と結晶化した血液がある。
一度、呼びかけてみるも返事はなく、黙ったまま瞳に結晶化した涙を溜めている。
どうやら、加工が済んだらしい。手袋を脱いで同僚が作業している部屋の扉を開けた先に額に結晶化した汗を浮かべた同僚の姿があった。
ひどく混乱したような顔の男性にため息を吐いて、脱いだ手袋をつけ直し、短い髪の下の首根っこを勢いよく掴む。
そうして、また《《資源の家畜》》を檻の中に放り込んだ。
特殊な加工をすると宝石になる奇妙な血液が流れるキャラクターと宝石の加工師の話
↓
特殊な加工をすると宝石になる奇妙な体液の家畜と家畜の管理職の話
ばっちいもん触る時は手袋をお勧めします。
恋愛三年説
「恋は三年、愛は四年って言葉...ご存知ですか?」
ある教授が講壇の上で、そう語った。
決して端正というわけでもない顔をした白髪混じりの中年の男性だった。
その問いに誰も答えず、黙って前を向いていた。
「...そうですか。では、貴女方に恋人はいますか?好きな人でもかまいません、今...好きな人を想い浮かべて下さい」
問いに応えるようにある程度の全員が誰かを想い浮かべる。それが、一分ほど続き、やがて全員が前を向いた。
「思い浮かべることができましたか?
では、その人へ対する愛は、どのくらい続きますか?
抽象的ではなく、具体的に数字の値として表してみて下さい。
今、それを答える為の用紙をパソコンへ配布します」
パソコンの画面に目を通した。
画面から、一件の課題の通知。それをクリックして開かれたアンケートのページ。
質問は一つだけ。
--- 講義中の質問の“貴方が思い浮かべた人”への愛の数値を可視化して下さい。 ---
--- (年単位、数ヶ月単位 可) ---
質問の下の入力欄に『∞』と打ち込み、送信する。
前を向くも、『分からない』『0』『数ヶ月』『数年』『∞』と欄に別れた投票アンケート。
その中で『数年』が50%を締めていた。
なんだか馬鹿らしくなりながら下の時間を示すタイムウォッチが止まるまで待った。
やがて、ピピッとした機械音が響き、教授の声が続いた。
「お疲れ様です。では、集計の結果の前に『0』や『∞』がある理由をお伝えします。
人間には人を愛する、という行為が必然的に存在します。それは次の世代へ種を託す、広めるなどの本能的な行為の上で成り立ちます。
しかし、稀にその本能的な行為に懐疑的ではない...所謂、消極的な人や、かえって本能に素直な積極的な人がいます。この素直な人は一般的に恋愛体質と言いますね。
真逆で、消極的な人は、恋愛感情も性的欲求もない人という意味で“アセクシャル”。
また、男性が男性を好きになる人を“ゲイ・バイセクシャル”。
女性が女性を好きになる人を“レズビアン”。
最後に異性、同性問わず好きになる人を“バイセクシャル”。
この三つの方々を性的少数者、“セクシュアルマイノリティ”と言います。
近年ではそういった考え方が多く知られるようになり、差別的な言葉が飛び交うことも少なくなりましたが、やはり本能的な行為の上で成り立つことをしないというのは些か不信がられるようです。
では、『0』や『∞』がある理由のうち、『0』は先程挙げた、アセクシャル用からです。『分からない』は、はっきりと明確に表すことを避ける日本人の心理的実験の為です。
そして、『∞』。これはシンプルにそういった方もいるだろうと予想し、追加しました。
では...集計結果についてお話しましょう」
---
『分からない』 10%
『0』 5%
『数ヶ月』 20%
『数年』 56%
『∞』 9%
---
教授がパソコンを弄り、『数年』の平均値をスクリーンへ表示させる。
『3.5年』
ほぼ、四年だと言っているようなものだった。
少しざわつく生徒を抑えるように教授が口を開いた。
「大抵の方が一年から五年で、平均値は3.5年でした。
最小値は一年、最大値は五年。全体的に三年、四年の回答が多く見られました。
これは恋愛感情が三から四年までしか持たない、というやや定説じみた話に基づき、行ったものです。
しかし、本当にそうでしょうか?
人類学者のヘレン・フィッシャー氏は、人間の男女の“愛の揺らぎ”についての研究に取り組み、“恋愛感情は3年で冷めやすい”と恋愛三年説を説きました。
これは、そもそも恋愛の定義を男女、として仮定してこの説を始めに解説しましょう。
男女が出会って恋に落ちると、恋愛の最初のステップである①では、ドーパミンやPEAが脳内に放出され、胸がドキドキとした感覚を覚えたり、相手のことしか考えられなかったりと、周りが見えにくくなる...所謂、盲目的な状態に陥ります。
そして、主に動物的本能から“快感”を覚え、やみつきになる...中毒と酷似していますね。
ですが、半年から3年ほどで恋愛気分を忘れ、一部は別の異性に目移りし始めることがあります。
それは、ドーパミンにはブレーキホルモンが働きやすく、PEAの放出期間は長くて4年程度だからです。
更に男性は、テストステロンが3割も減少し、少しの間、“父親になる準備”を始める。
男らしさは失われ、コロンと丸みを帯びた体格になり、セクシーさは影を潜めてしまいます。
こうなると、『恋人の魅力が薄れた』と感じる女性もいるでしょう。女性も、胸がキュンとなるような恋愛気分は、往々にして長くは続かないのです。
そそんな最中、男性が別の女性に目移りし、再び繁殖の準備を始めたと分かれば、ますます『なぜこんな人と付き合っていたのか』とバカらしくなるのも当然です。
...では、恋に落ちてから4年後に、すべてのカップルは必ず、全員が別れるのでしょうか?
もちろん、そんなはずはありません。
また、すべての男女が『愛がすっかり冷めたのに、子どもや社会的信頼などのため“やむを得ず”夫婦やカップルで居続けている』のかといえば、そうでもないようです。
となると、彼らを繋ぎとめている感情とは、一体どんなものなのでしょうね?」
教授が乾いた唇を舐め、更に話を続ける。
「それは、“幸福感”です。
癒しや信頼、愛着に近い感情を抱かせるものこそ、快感系のドーパミンとは真逆とも言える“幸福ホルモン”で、その代表がセロトニンやオキシトシンです。
セロトニンは、脳を落ち着かせ、リラックスさせる効果をもつ神経伝達物質です。
フィッシャー氏によれば、情熱的な恋愛の①ではドーパミンなどに押され、分泌量が低下しやすいものの、うまくいけば更なるステップの②で正常に分泌され始める、といいます。
一方のオキシトシンは、親しい人と手を繋いだりハグし合ったりと日々スキンシップを深め合うことで、長く持続的な放出が期待できます。一般に、出産・子育てに関係する“母性”のほか、社会行動形成や抗ストレス作用もあるとされ、別名“愛情ホルモン”とも呼ばれています。
ある大学の研究によって、オキシトシンが脳から遠く離れた脊髄にまではたらきかけ、オスの交尾行動を脊髄レベルで促進させることも判明しています。
つまり、①で放出されやすいドーパミンは、激しい恋愛感情や性的快感、すなわち“恋愛”や“性行為”と関連が深い一方で、②で放出されやすいセロトニンとオキシトシンは、信頼や愛着といった穏やかで持続的な愛情、あるいは|繁殖行動《スキンシップ》の一環としての性行為や“結婚(生活)”に関連する欲求に近い、とも言えるでしょう。
この欲求はそれまでの行為が信頼や愛着のステージへ変化していることが分かります。
①や②の感情とは異なり、フィッシャー氏の先の提言に基づけば、ヒトにおいて交配と生殖から進化した恋愛系のシステムは3つ、すなわち性欲、恋愛、愛着です。
性欲は、空腹のときのようなちょっとした“苛立ち”に近く、また恋愛は、気分の高揚や、対象者に初期に感じる“執着”に似た感情だと言います。
では愛着はと言えば、“長年のパートナーに対して感じる、落ち着きや安心感”とのこと。
そんな互いに繋ぎ止められた、三年以上、長続きするカップルや夫婦はそのような感情を抱いているのです。
では、セクシャルマイノリティの方々はどうなるのでしょうか?
アセクシャルを抜きにして考えても、恋愛三年説は“一般的な男女のカップル・夫婦”でしか説かれていません。
貴方が女性で、女性が好きなら、貴方の恋愛感情は三年で冷めますか?
貴方が男性で、男性が好きなら、貴方の恋愛感情は三年で冷めますか?
貴方が女性で、男性が好きなら、貴方の恋愛感情は三年で冷めますか?
貴方が男性で、女性が好きなら、貴方の恋愛感情は三年で冷めますか?
...どうですか、貴方の恋愛感情は三年で冷めますか?」
講義が終わり、教授が席を時計を見た。
直後、授業の終わりを知らせるチャイムが鳴り響いた。
引用:文春オンライン
「恋愛感情なんて3~4年しかもたない」が定説…それでも関係が長続きする夫婦・カップルはいったい何が違うのか 『恋愛結婚の終焉』より #2 /牛窪 恵
https://bunshun.jp/articles/-/65600
参考:TED日本語 - ヘレン・フィッシャー: 恋する脳
https://digitalcast.jp/v/19232/
参考:TED日本語 - ヘレン・フィッシャー: 人が恋する理由
https://digitalcast.jp/v/19351/
わりと本文そのままですね。
『人が恋する理由』が作中と記事のものです。
優しさの本質
「なぁ、人は何のために生きてるんだろうな」
薄汚いシェルターの中で、若い男性が問いかけた。
外への入口は堅く、堅くしまっている。
やることがないのだろう。付き合ってやろうじゃないか。
「…こんな狭いシェルターの中で、肩寄せ合って汚染が消える日まで待つことだろ。今のところは、そうだ」
「へぇ、じゃ、優しさってなんだ?」
それに幼い少女が缶詰された人工桃を食べながら答えた。
「とっても偉い人達と、他のみんな、笑って過ごすこと!」
その場にいる少女以外の大人が笑った。
そして、無精髭を生やした男性が応える。
「そりゃ、無理な話だ。嬢ちゃん、お偉い様ってのはいつも国民の話なんか聞かないで国力だの国税だの、そんなことしか考えてない。
国民なんか金を集める駒にしか見えてないのさ。今だってそうだ。国の為だとかくだらないホラを吹いて、戦争をおっ始めた結果に核をまた喰らっちまった。
おかげでどうだ?地球は見事に崩壊して異常な数値の大気ガスを撒き散らした。
ああ、こりゃダメだ、もうここには住めねぇ。そしたら、お偉い様はどうしたよ?」
「えっと……どうしたの?」
「お偉い様だけで別の惑星に移り住んじまったんだよ。開発中の火星?とやらにな。
残された国民はその火星に行こうとしたが、ロケットってのはひどく予算が必要らしいじゃないか。つまり、莫大な金が動くんだ。金が必要になるって言ったら動けるのは運の良い富裕層の人間だけだ。
そんなこんなで、今まで平等だの平和だの言ってたのがあっと言う間に韓……隣のエセ中華国みたいに競争社会だ。
富裕層は大気ガスのない星でガキをこさえて平和に暮らす。一方、貧乏人は大気ガスのある星でガキをこさえるどころか明日の飯にすら困る程、困難な暮らしをする……それが今の俺らだ、嬢ちゃん」
幼い少女は言葉の意味を理解していないのか、しばらく頭を傾げていた。
無理もない、最近の子供はまともな教育なんて受けられない。
それこそ、こんな大気ガスから逃れるようなシェルターの中に学校なんてものはない。
「……んな話、子供にしたって分かんないわよ。ねぇ、何か面白い話をして。何か話を聞いていないとお腹が減って苦しいのよ」
そう若い、と言ってもしみの目立つ中年の女性が文句を垂れた。
その言葉に頷き、「優しさについて、また考えようぜ」と返した。
全員が首を縦に振り、若い男性が始めに話す。要は言い出しっぺだ。
「じゃあ、そうだな。
人は何か一つくらい誇れるもの持ってるだろ?
何でもいいんだ。それを見つけると尚、良い。勉強が駄目だったら、運動がある。
両方駄目だったら、お前には優しさがある。
夢をもて、目的をもて、やれば出来る…こんな言葉に騙されるなよ。
何も無くていいんだ。人は生まれて、生きて、死ぬ、これだけでたいしたもんさ。
そういう自分自身を作る優しさが、俺の優しさだ」
次に中年の女性が口を開いた。
「そうね、じゃあ…気を使い合うってのも優しさだけれど、時には傷つけるのを覚悟で、本当のことを言ってしまうことも優しさ…そして、寄り添うのも優しさだと思うわ。
相手を理解して、目を見てちゃんと話をするの。それで、今は過ごせると思う」
次に年老いた男性が口を開いた。
「私は…ただ生きていてくれたらいい。
究極の優しさは相手の命を想い続ける事だと思うよ。
いつものように寝て起きて、隣を見ればそこに生涯で一番愛した人がいる。
それだけで、優しいのさ」
次に無精髭の男性が口を開いた。
「優しさの意味で何よりも明らかなのは、自分のことを大事にすることだ。
自分を大事にできれば、ほかの人にだって“敬意”と“やさしさ”、そして“寛大さ”をもって接することができるようになるだろ?」
次に四肢の欠損した女性が口を開いた。
「人の辛さが分かることが優しさだと思う。理解したその優しさで、さりげなく支えてくれるのも、また優しさ」
次に盲目の男性が口を開いた。
「優しさは、自分から与えるものなんかじゃなくて、相手が求めてきたときに、さりげなく示すものだと思う。そうした無垢な優しさは必ず誰かを救うから」
俺はただ、黙っていた。答えがなかったからだ。
優しさとはなんだろうか。
そんな空虚な質問にシェルターの人々はゆっくりと語る。
生きている人間に、たった一欠片のパンを与えることだろうか。
生きている人間に、生まれている意味を与えることだろうか。
結局のところ、優しさの本質や生きる意味など、人それぞれなのだろう。
---
〘どうだ?汚染地域のシェルターの中、どうなってる?〙
繋がれた無線からチームリーダーの声がした。
大気ガスが汚染した地域の中で砂に埋もれるような形だったシェルターの中は埃が舞い、鼠や虫が踊っている。
非政府公認の団体がこうして大気ガスの中、食料や物資を届けている現状の中でその団体の一員としてこのような状況はそう珍しくない。
何しろ、ここへ前に同じような惨状を幾度となく見てきた。
大気ガスが蔓延する中で食料を買うこともできず、腹を空かせて死んで誰もいなくなったシェルターの中を。
中の人間の反応がなく無理やりこじ開けたシェルター内は想定通り、山のように人間の遺体が積み重なっていた。
その遺体をかき分けて足場を探して容赦なく進む。
非人道的ではあるが、もう食料を届ける必要のないシェルターかどうかを確認するために中に人間がいないかチェックしなければならないのだ。
少し進んだ先で何やらクチャクチャと物を含む音した。
何かを食べているにしても、何を食べているのだろう。
このシェルターの中にある缶詰や飲料水は全て空で、長い年月が経過しているのだ。
「誰か、いるのか?」
そう聞くも何も返ってこない。返ってくるのはクチャクチャとした擬音だけだった。
もう少し進んだ先に赤い液体の入ったペットボトルを見つけた。まるで、飲料水とでも言いたげな代物だった。
更に、奥。この辺りで音は大きくなっていた。その音がもう目と鼻の先と言わんばかりの距離に生存者がいた。
若い男性のような肉づきのない骨ばかりの腕から溢れた血液を啜る幼い少女の姿。
足元にはばらしたのか、ばらされたのか分からない男性の遺体が転がっている。
その食事の光景に目を丸くしていると不意に少女がこちらへ向かって微笑んで、
「わぁ、いつものご飯を持ってきてくれる優しい人だ!
あのね、みんながお腹空いてたんだけどお腹が空いて空いて、居ても立っても居られなくなって…楽しそうに叩きあったり殴りあったりして、みんな動かなくなっちゃったの。
でも、この男の人は私をずっと守ってくれて、ご飯くれたの。
食べるところは少ないし、男の人も動かなくなっちゃったけど優しい人だったの。
お兄さんも優しいよね、ご飯をくれるもの!」
無邪気に笑う少女と対比して、無線の声は人間味を帯びない冷たい指示を出した。
〘おい、そのガキ、さっさと撃て。多分…ダメだ〙
言われるまでもなく、そうするつもりだ。化け物に餌をやる趣味はない。
そう思いながら、腰に吊られた物に手を伸ばした。
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小綺麗なトラックに食料の詰まった箱を運びながら防護服を着た若い男性が同じような格好の中年の男性に話を投げた。
「チームリーダー、ここって優しいですよね」
「ん?あー…そうだな、無償で汚染地域へ物資を届けてるからな…政府から礼なんて貰ったことないが」
「…ですよね。それじゃ、優しいって意味なんでしょうね」
「随分と哲学的な話だな…なんか、影響されたか?」
「いえ、純粋な疑問です」
「…ふぅん……ま、人それぞれだろ。俺はこうやって、何の見返りも無しに物資を届けるのが優しさだな。優しいだろ?俺達って」
「……そうですね」
話の流れで切られた話題を少し、考えた。
化け物のようになった人間を殺すのもまた、優しさなのだろうか。
どう頑張って考えても、そうだと断定する答えは出なかった。
ミステリー小説犯人捜しRTA
ミステリー小説犯人捜しRTA
はーじまーるよー。
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名前を入力して下さい。
#名前#
…と思いましたが面倒くさいので最速の“あ”で行こうと思います。
貴方が台詞を見た瞬間からスタートです。
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???
「 あ さん。起きて下さい。着きましたよ」
ということで始まりました。
何やら私をバスから誰かが起こそうとしているようですが画面をスクロールしてスキップします。
ここで彼と話をしてしまうと執筆を更に行うことになる初手から最大の罠があるんですね。
ちなみに彼の名前は|神谷《かみや》|幸《ゆき》、探偵である主人公の助手で、今からよく分からない依頼主から謎の島へ行くことになるんですが、これはコメディなのでどうでもいいです。
さて助手君と会話後、バスから降りる流れになるのでバスの車内の座席に潜り、裏へ行くことができるのでそこから飛行機の中へ入り込みましょう。
ここで注意ですが、金属類を身体に身に着けていると警備員がどこでも現れて大幅なタイムロスとなるので金属類が身体にないか確認しましょう。
個人的には上半身と下半身の服を脱ぎ、パンツだけの姿が理想的です。
神谷幸(助手)
「えっ、ちょ… あ さん?!何して、え?」
助手君を無視して無事に飛行機の中へ乗れました。
助手の姿がないですがどうでもいいです。さて、飛行機が謎の島へ着くまでに2時間もかかってしまいます。
これは非常に問題で、今回の走りでは1時間を目安としているので早々にコックピットへ行き、飛行機の操縦桿を操作しましょう。
その後は依頼主の島へ行くまでの簡単なお仕事です。
|氷室《ひむろ》|平昌《ひらまさ》(機長)
「ぇうわ、なんだお前?!なんでパンツ一丁_あ、おい、やめろ!あ、ダメだこれ、あ〜、あ〜、あ〜……………………何コイツ、めっちゃ操縦上手いんだけど。え?嘘、こんな上手いやついる?え?え?え?はぁ?はぁ?!」
ということで無事に着陸しました。
島に大きな滑走路があって助かりました。後ろで機長や他の客が騒がしいですが、無視して前転しながら依頼主のところへ行きましょう。
前転しながら行く理由は普通に歩くよりも更に素早く動くことによって移動スピードが増加するからです。
飛行機の乗客
「あっ、おい逃げたぞ、あの☓☓☓☓!!…え、なんだ、あの動き…キモ……」
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|傘津藩《さんつはん》|仁《じん》
「ようこそ、いらっしゃいま_っえ?」
長いので要約しますが、こちらの傘藩仁という男性は島にある館の主で今回の依頼主です。
そして殺人犯です(唐突な深刻なネタバレ)
この男は遺産相続によって敵対関係にある一族の中で唯一身分が低く、ろくな扱いを受けていなかった人物で、前当主が亡くなったことにより遺産相続を次の当主へ渡そうとなった話のうち、遺産を相続する可能性が低いことから自分以外の一族虐殺を企てました。
現状はこの男とその男の兄、兄嫁、叔父、叔母、姪しか残っていません。
その中で兄、叔母、兄嫁、叔母の順で亡くなり、最後に姪を手にかけようとした瞬間に暴かれるのですが、そんなことはどうでもいいので適当に証拠をとって行きましょう。
…と本来ならそうするのですが、これは時間との勝負。
館の階段と壁の隙間に体当たりをかまし、あらかじめ斜め45°に向いてエンディングムービーのところまでスキップします。
ここで45°の位置に向いておかないと、オープニングムービーが開始されるクソバグがあるんですね。
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SKIP
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SKIP
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SKIP
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SKIP
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SKIP
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神谷幸
「 あ さん!お疲れ様です!…ですが、その格好は_」
警官A
「 あ ! の逮捕状で_」
ということで事件解決後に猥褻罪により豚箱エンドです。エンディングだぞ、泣けよ。
完走した感想は、始めから衣服が無ければ、更にスムーズに行うことができたかも知れない追求点。
そして、目標クリアタイムが1時間を切れたことです。
なんですか?犯人捜しをしていないって?
ああ、これコメディなので。
なんだろうね、これ。
昨日の夜に書いてた謎のやつです。
お客様レビュー
(東京都渋谷区◯◯◯店 支店)
★3 可もなく不可もなく、普通のお客様。
👍️2 👎️0
2人がこのレビューを役に立ったと言っています。
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そう携帯の文字にお客様のレビューが先日行った店の名前で書かれていた。
飲食店や民間店など、客が店に対してのレビューを行うことは一般的だろう。
しかし、政府がカスタマーハラスメントやパワーハラスメントなどに対し行った新たな評価システムは店側も客のレビューを行える、自己責任を伴うともいえる政策だった。
★3なら普通ということで店側からは何も思われず、普通に入店できる。
★4〜5なら店側からは喜んで迎えられ、時にはご飯のおかわり無料とか、飲み放題を無料で提供されることがある。
★1〜2は店側から稀に入店拒否されることがあるが、相当な営業妨害を行わないかぎりそうなることはない。
最も★1〜2の時点で、ろくな客でないと分かっている有名店などはそもそも★3〜★5の客しか入店させてもらえないケースもある。
要するに、この政策は《《可視化されたブラックリスト》》だ。
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「いらっしゃいませ、■■■さんですね」
★4〜5の客は名前を覚えられることがある。それは優遇を受ける上での証明と言っていい。
今呼ばれた■■■さんは物腰の柔らかな紳士といった様子で、どこか穏やかな雰囲気がある中年の男性だった。
「ああ、有り難う。覚えていてくれて、嬉しいよ」
「いえ…お席にご案内しますね。お席に腰かけてお待ち下さい」
愛想の良い筋肉質な男性がそう返事をして男性を僕の隣へ案内する。
僕も堪らず椅子をひき、男性が座りやすいようにしてしまった。
「おや…有り難う。老体には一つ一つの行動が辛くてね、君のような若者には助かってばかりだよ」
そう微笑んで皺の目立つ細い手で僕の頭を撫でた。
ふと、筋肉質の若い男性を見やるとこちらもまた、微笑ましそうに笑っていた。
やがて、中年の男性が“塩ラーメン”を注文し、僕もまた頼んでいた“酢豚定食”に箸をつけた。
それが数十分後、店の扉が勢いよく開かれた。
昼間から頰を赤く染め、真っ赤な鼻で千鳥足の隣の紳士とさほど変わらない年齢の男性。
目の焦点もどこか合っていないようで、携帯を向けて調べてみるとすぐにヒットした。
本名こそは出ないものの、顔写真と年齢、性別が分かる★1のお客様。
レビューの内容は『酒を飲んでいるのか大声で騒いだり、他のお客様の席でボディタッチや叱責は当たり前だったりの行動をする』『気に入らないことがあると、すぐに騒ぎたてて営業の妨害になる』等、散々な言われようだった。
すぐに筋肉質の若い男性が近づき、先程とは打って変わって低い声で言った。
「本店のお客様の入店は堅く禁じております。ご退去頂けると幸いです」
分かりやすく噛み砕くと、要は『お前は店に入れてやらないから、どっかいけ』だ。
まぁ、そういうことも珍しくはない。
何しろ、迷惑を被ると分かっているのにわざわざ店に入れて迷惑を受け入れる人間は少ないだろう。
これを差別だと言っても、それが自分自身の行動や言動による行いが招いた結果の自業自得であるからしょうがない。
自分で撒いた種は自分で片付ける。尻拭いは自分以外できない。
どんなに喚いたとしても、そこは変わらない。
頰の赤い男性は更に顔を紅潮させ、唾を吐くように喚き散らし始める。
「何故俺なんだ」「いつも、いつもそうだ」「俺は悪くない。お前が悪い、お前が悪い!」と、どこか責任転嫁のような発言を繰り返す。
隣の紳士とは大違いだと思った。
隣の紳士は行儀正しく黙ったまま、ラーメンの麺を啜っている。
そうでありたい、そうなりたいと思うまでにそれは美しく、気高かった。
頰どころか、顔全体まで赤くなった男性は店員を更に口汚く罵るようになり、手に持った焼酎の瓶を振り回し始める。
しかし、店員の声は慌てず冷静のままだった。堂々として何をするでもなく男性と会話し続け、『出ていけ』の一点張り。
心底、その店員が恐ろしく思えた。
しばらくして全てを食べ終わり箸をおいた。
頰の赤い男性はいつの間にかいなくなり、散乱した瓶の破片だけが落ちている。
その破片を軽く拾ってからゴミ箱へ捨て、会計を済ませて店を出て、携帯を見た。
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(東京都渋谷区◯◯◯店 支店)
★5 老人にも優しく、ゴミを捨てるなど気配りのできるお客様。
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脆弱の消耗品
とても おおきな て に つつまれて おおきな おうち と たくさん の みず が ある プール が そなえつけられた とうめいな おへや へ やってきた。
みずあそび を しよう と プール の なか で あそんでいたら 、 だんだん と からだ が うごかなくなって て が とけはじめた。
あし も、 かみ も、 おなか も、 せなか も、 すべて が とけた。
おおきな て に たすけ を もとめた。
たすけてくれなかった。
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とても おおきな て に つつまれて ぽっこり と おおきな おなか を おされた。
こひちゃ 、 こひちゃ と よばれるたび に うれしくて がんばったけど おなか が めりめり って おと を たてて ばくはつ した。
おおきな て に たすけ を もとめた。
たすけてくれなかった。
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とても おおきな て に つつまれて じまん の はね を さわって もらった。
じぶん は とべるんだって ごしゅじんさま に みせたくて 、 たかい ところ から はばたこう と したら はね が ぜんぜん うごかなかった。
そのまま つよい しょうげき に たたきつけられて からだ が うごかなくなった。
おおきな て に たすけ を もとめた。
たすけてくれなかった。
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とても おおきな て に つつまれて たくさん の じぶん が いる おへや に ついた。
みんな が みんな やさしかったけど 、 ごしゅじんさま の て に だれ が のるか あらそって みんな が くっついたら 、 ぎゅうぎゅう づめ に なって くるしくて くるしくて なきそう に なった。
だんだん と くるしさ が なくなって いき も できなくなって いつのまにか せまくて くらい ちいさな おへや で みんな の からだ が うごかなくなった。
おおきな て に たすけ を もとめた。
たすけてくれなかった。
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とても おおきな て に つつまれて おみず が たくさん ぼこぼこ と する へや に ついた。
あわ の おふろ みたい で かお を ちかづけたら あつい けむり が かお へ きた。
びっくり して あし を すべらせたら からだ ぜんたい が あつい あわ に つつまれた。
おおきな て に たすけ を もとめた。
たすけてくれなかった。
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とても おおきな て に つつまれて なか で ねむった。
さわさわ と なでる ゆび が きゅう に からだ ぜんたい を つかんで めのまえ が まっくら に なった。
おおきな て に たすけ を もとめた。
たすけてくれなかった。
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とても おおきな て に つつまれて もともと ない あし を つけられた。
いままで はって うごいていた から じぶん の あし が あるのが ふしぎ だった。
あし で あるこう として せいだい に ころんだ。
あたま が われたような き が した。
おおきな て に たすけ を もとめた。
たすけてくれなかった。
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とても おおきな て に つつまれて ねるため の ふとん へ きた。
あさ おきてみると 、 ふとん から でれなくて だんだん と いき が くるしくなった。
おおきな て に たすけ を もとめた。
たすけてくれなかった。
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とても おおきな て に つつまれた。
おおきな て に じゆう を もとめた。
たすけてくれなかった。
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|Compact Human《小さな人間》。
近年、爆発的に流行っている人間の外見を模した|愛玩動物《ペット》の一つ。
Compact Humanは手乗りサイズの小さな人間といった感じで、外見は普通の人間と変わらず知能は人間の1歳児にも満たないほど低い。
つまりは人間の都合の良いように作られた新しい生物であって、人間ではないし、外見こそ似ていても身体の構造は全く違う。
このCompact Humanはコアなファンや消費者から《《こひちゃ》》と愛称で親しまれている。
そのため、ネット上に『#こひちゃ』のハッシュタグが多く、そのペットに何かをしてみた、とかどこかへ連れて行ってみた、とかそういったものも多く見られるが、例のこひちゃは雄雌関係なく珈琲のような茶黒い髪色が特徴的で簡単に握りしめたら潰れてしまう程、小さくて脆いようだ。
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試しに一匹だけ例のペットを買って、ゲージへ放り込んだ。
ゲージの中には寝床であるクッションだけが敷かれたハムスター用の家と、水分補給用の水が張られた皿だけ。
放っておくと、皿の中で身体が溶けた状態で死んでいた。
あまりにも脆かった。
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二匹目は腹が大きい雌個体で、妊娠していることが分かる不良品だった。
戯れに腹を触っていたら破水したのか力みだし、しばらくして幼体が顔を出したが直後に腹を裂くようにして幼体の全体が見えた。
育てる気はさらさらなかったので自らの手で潰した。
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三匹目は翼が背中についている不良品だった。
自分は跳べると思い込んでいたようだが、体力的に翼をうごかす体力がないため飛び立つ心配はない。
高いところへ置いておくと翼で飛ぼうとして見事に地面へ墜落した。
その際に翼が背中からとれたようだった。
取れた羽は綺麗だったので飾ることにする。
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四匹から十匹目を手に乗せて紙コップで全員が閉じ込められるように密封した。
始めの頃は騒いでいたが、しばらく経つと何も聞こえなくなり蓋を開けてみると押しくら饅頭状態で紙コップの形になった肉塊があった。
紙コップに再び詰めて燃えるゴミへ出した。
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十一匹目は料理中に水が沸騰した鍋の中へ落ちたようだった。
全身が赤く腫れて動くことができなくなっていたが、冷水をかけると激しい痛みにのたうち回り、やがて静止した。
遺体には水膨れが小さな身体に不釣り合いなほど大きくできていた。
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十二匹目は強度が知りたくて自らの手で握り潰した。
軽く力を込めただけだったが、案外呆気なく潰れた。
ぶちゅっとした音と空気が抜けたような音がした後に手を開くと内蔵などがよく見えて掌の中が赤く染まっていた。
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十三匹目は元々足のない不良品で、移動の際には這うようにして動いていた。
少し不憫に思って義足をつけて歩かせたが不慣れな様子ですぐに頭から転倒し、頭蓋骨が割れて脳みそが散乱した。
後片付けが一番大変な個体だった。
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十四匹目は一人の閉所の場合はどうなるか知りたくて、寝ている布団の奥へ入れて縁を閉じ、密封した。
中から出られず暴れていたが、収まった辺り酸欠で亡くなったようである。
密封している、というよりは少し押さえつけているだけでも抜け出すことは不可能らしい。
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十五匹目はひどく暴れる個体だった。
全く懐かず可愛げもないためゲージの中へ閉じ込めておいた。
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十六匹目は…
趣味嗜好コンテスト
「これさ、つまんないよね」
数枚にも束ねられた原稿用紙を見ながら無精髭の男性が呟いた。
「具体的には?」
受け答えするように、向かいで別のものを読んでいるニキビの目立つ男性が応える。
「なんていうか……恋愛の定番って感じだし、台詞も地続きで登場人物の行動や心情が全く伝わってこない」
そう応えて、ニキビの目立った男性に原稿用紙を手渡した。
男性はそれに目を通して、すぐにため息を吐き口元を歪めた。
「本当だ、まるで役者の台本みたいだな」
「だろ?台詞の手前に登場人物の名前を置いて、分かりやすいけれど…後手に行動を擬音で書いていて小説ではないんだよ」
「子供が作る小説のコンテストなんて、そんなもんだろ」
吐き捨てた本音を片方は拾うことなく、黙って作業にあたった。
しばらくして顔をうっすらと歪みつつ席を立ち、ニキビの目立つ男性に口を開いた。
「今月もダメだな」
そう肩を竦めて、作業マニュアルへ目を通し、『良作を見つける』の欄に指を置いて苛立ったように言葉を続けた。
「良作、良作って…要は優秀賞だろ?そういうの、よくないと思うんだけどな」
「なにがよくないんだよ。人から貴方の作品は素敵だって言われてるようなもんだろ」
「そういうことじゃない。そりゃあ、人から作品を褒められるのは良いだろうけど…その褒めるまでの過程って、そいつの好みだろ」
「…だから?」
「俺達が今してる、良作を見つけるって行為も…見つけた良作=俺達の好みな作品、ってことだよ」
その言葉にニキビの目立つ男性が少し考えてから、すぐに応えた。
「……それなら、小説に限らずイラストや漫画、音楽…創作するもの全てに当てはまるんじゃないのか」
「そうなんだよ。だからある意味、贔屓みたいなもんだよな…こういうこと言うと、怒られるんだけどな」
「…じゃあ、その贔屓作品を見つけて、さっさと仕事終わらせようぜ。ほら座れ」
「えぇ~……」
無精髭の男性がニキビの目立つ男性に諭されながら、再び原稿用紙へ目を通した。
原稿用紙が大量に積み重なった室内の時計は、既に午後6時を下回っていた。
POKE or CHICKEN?
「どうですか?その唐揚げ、とても人気で朝イチに作って届けてるんですよ」
そう、赤いトサカが特徴的で白い羽毛に包まれたニワトリが笑った。
小さく脂ぎった唐揚げを掴む手がわなわなと震えて狙いが定まらなくなり、唐揚げの入った容器から取り零しそうになる。
「ねぇ、美味しいですか?」
感想を言おうにも唇は固く結ばれて動くことがない。
やがて、目の前のニワトリは少し気落ちしたように「美味しくないんですね」と笑って、言葉を続けた。
「貴方が食べてる、それ。誰のお肉だと思います?」
《《ニワトリ》》。私が選んだ、《《ニワトリ》》。
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固く結ばれた唇を恐る恐る開いて、小さく脂ぎった唐揚げを口の中へ放り込む。
口の中に、小さな罪の味と……胸が踊るような肉の美味さが広がった。
「美味しいですか?《《ニワトリ》》の味は、美味しいですか?」
未完成
「ここには、もう何もありません」
「ここには、もう何もありません」
「ここには、もう何もありません」
「ここにあったものは、もうありません」
---
誰かを探すように、血眼になって何かを探していた。
もう何分も、何時間も、何年も。
白紙の布を被った作品は、人は、もうここにはいない。
何もかもが跡形もなく消えてしまった。
とても心躍る陽気なものだったのだろう。
とても泣きたくなる悲観にくれたものだったのだろう。
とても愛しくなる愛に満ち溢れたものだったのだろう。
とても驚くような感嘆にくれるものだったのだろう。
とても恐ろしい焦燥感が襲うものだったのだろう。
それらが、指先一つの押しだけで何もかもが消えてしまった。
だからこそ、何度でも言うのだ。
己が消えるその日まで、消えたくなるその日まで。
---
「ここには、もう何もありません」
「ここには、もう何もありません」
「ここには、もう何もありません」
「ここにあったものは、もうありません」
「ここにあったものは、全てが“|未完成《無価値》”です」
#お呪い
闇夜の竹藪の中、年季の入った大きな屋敷が車のライトに照らされて奇異な雰囲気を纏っていた。
手に持った|刈谷《かりたに》|誠治《せいじ》と自分の名前の入った機材であるカメラの調子を見ながら、車の中で俺が渡した水筒を飲んでいる大学のオカルトサークル仲間である|篠原《しのはら》|勇人《ゆうと》へ声をかけた。
「なぁ、撮影の機材ってこれでいいか?」
「ああ…それでいいよ。今、繋がってる?」
「いや、繋がってない。配信は入ってから…で、いいよな」
「オーケー、じゃあ先に降りてくれよ」
煙草と香水の匂いのする車内から竹が乱雑に生えた土地へ足を下ろす。
そのままカメラを片手に持ったまま、腰に下げていた懐中電灯で辺りを照らした。
車のライトでも姿を見た古ぼけて底の抜けていそうな大きな屋敷。
何でも入った者は呪われるとか呪いがあり、地元で有名な心霊スポットの一つだった。
そんな屋敷があると聞いて好奇心旺盛な若者が黙っているわけがない。
嬉々としてカメラを持ち、配信サイトのアカウントへ共有しようとする手を止めず、宣材写真として屋敷の中をレンズへ映した。
俺が所属するオカルトサークルは若気の至りというものなのか、心霊スポットへ行った内容を動画にして世界中で発信しよう…そんな簡易な理由で作られ、『皆様に恐怖を届ける』ことを目的としたよくあるキャッチコピーをする心霊系YouTuberグループ。
逆に言えば、迷惑系YouTuberグループとも言える。まぁ、部長である|笹神《ささかみ》|真《まこと》が撮影許可を取っているそうだが、いまいち信用ならない。
そんな男が嬉しそうに俺を越して、たてつきの悪い扉を真部長が両手で勢いよく開いた。
「ねぇ、本当にこんな汚そうなところ入るの?」
「ね〜…雪菜、早く帰りた〜い」
横で姉貴肌の|井上《いのうえ》|琴音《ことね》と、オカルトサークルの姫的ポジションである|上野《うえの》|雪菜《ゆきな》が互いに愚痴をもらした。
それに勇人がひょうきんな様子で口を開いた。
「んなこと言われてもさぁ…男3人しかいないんだから、撮れ高が何もないじゃん。
頼むよ…よっ、可愛いね!綺麗だね!撮影放っておいて俺とお茶しない?」
「勇人、抜け駆けしてんじゃねぇ!お前も早く来い!」
勇人の誘い文句へ真部長の怒鳴り声が飛んだ。
すぐさま、「今行きまぁす」と返事をして勇人も屋敷の中へ入っていった。
それに続き、俺もカメラを持ったまま屋内へ足を踏み入れた。
---
「|1《ワン》、|2《ツー》、|3《スリー》…アクション!」
高らかに配信開始の合図が響いた。
端末の中で寄せられたコメントの数々が流れてくる。
『こんばんは〜』とか『はじまった〜』とか、他愛もない平凡な言葉の数々。
何も問題はない。
カメラの正面に立った真部長が軽く挨拶をして、メンバーの紹介に移る。
そして、最後に画面には映らないカメラ担当の俺が挨拶をして終わり、また真部長が話を始めた。
「今晩は地元で有名な心霊スポットのF県の“A屋敷”です〜…で、ここの噂ってのが“居間でお婆さんの幽霊がいる”、“2階の椅子に座っていると女の子の声が聞こえる”……あと、特に有名だったのが“呪われている”ってことですね」
真部長の説明を終え、次に勇人が口を開いた。
「呪われてるって、具体的にどういうこと?」
「さぁ?ネットでは呪われてるってことしか分からなかったな」
「…へぇ〜」
配信サイトのコメント欄に『前置きいいから、はよ探索しろ』『呪いの原因とか調べてほしい』と口々に言いたい放題な言葉が飛び交う。
それを見た琴音がこちらに目配せをし、行動を促した。
一斉に向けられた四人の視線に答えるように俺は口を開いた。
「そろそろ、入るか」
全員が首を縦に振った瞬間、コメント欄の勢いが急速に向上した。
埃を被った床が軋み、腐ったような異臭が鼻につく。
更には、古く今にも崩れそうな柱に古びた御札が大量に貼られていた。
また空き家の屋敷だというのに物は乱雑に置かれ、足の踏み場が無いほどにゴミやかつての家族が住んでいた痕跡のある品々が散らかっている。
「…あれ…遺影じゃない?」
琴音が床に並べられた黒枠の写真を見て、そう呟いた。
俺もつい、カメラを写真へ捉えたまま琴音に応えた。
「遺影?遺影ってあんなに大雑把に置かれてるか?」
「知らないわよ。でも、心霊スポットに遺影なんてありがちじゃない」
「そ、そうか…?」
遺影と思わしき写真に歩み寄り、片手で写真を持ち上げた。
写真には肉落ち痩せこけた老婆が華やかに笑う、なんとも奇妙な写真。
「…確かに、遺影かもな…」
琴音が隣で「そうでしょ?」と笑い、怖がって抱きつく雪菜を宥めている。
その姿になんとなく、懐かしさを感じられた。
探索も進み、真部長のトークと少しえづいている勇人の質問だけで続く配信。
時折、雪菜が叫び、それを琴音が宥める。
俺はカメラを気になるところでズームアップしたりと自由に回し、コメント欄も特に変わった変化も見られないまま続いていった。
そして、屋敷の探索が一巡し、何も得られないまま配信は終わりを迎えた。
---
異臭の匂いが纏わりつく屋敷の中を出て、新鮮な空気を口いっぱいに頬張った。
「……よし、切れたはずだ」
配信の切れたカメラを片付けながら俺達は帰宅の準備を始めていた。
やけに生暖かい風の吹く竹藪の中、各々が携帯を見たり車の様子を確認している。
その中でふと、勇人が俺の肩を軽く叩いてきていた。
どこかふわふわとして目の焦点の合わない奇妙な感じだった。
「なんだよ」
「誠司君や、今日の探索つまらなかったよな?」
「……それで?」
「つまらなかったか?って聞いてんの、答えてちょーだいよ」
「ああ、うん…正直つまらなかったな」
「でしょ、だから超優秀な篠原勇人さんはね…」
「勿体振らずに早く教えろよ」
「|雰囲気《ムード》ってもんがあるだろ、ノれよなぁ…これ、これ見てくれ!」
そう言った勇人の手には古びた御札が載せられていた。
間違いなく、屋敷の柱に貼りつけられていたものだ。
「…おまっ、これ…!」
「どうよ、勇気あるだろ!これ部長に渡して次の動画にしようぜ〜」
「嫌だよ!返してこい!」
「え〜…」
子供のように頬を膨らませて不満げな顔をする勇人に更に文句を言おうとした瞬間、真部長の帰宅へ出発する合図がした。
この場にいる全員が我に返って、再び煙草と香水の匂いのする車内へ乗り込んだ。
その途中で勇人が御札を捨てていないことが気がかりでしかなかった。
---
無事に帰宅し、実家へ着いた瞬間に畳のある座敷へ赴いた。
座敷の中には仏壇があり、横の写真立てに齢6歳ほどの可愛らしい顔をした少女が笑っている。
少女の名前は|刈谷《かりたに》|澪《みお》。12年前に亡くなった幼い妹だった。
亡くなるにはまだ早く失われた命の儚さと、どうしようもならない喪失感にひどく襲われる。
苦虫を噛み潰したような顔がお鈴に映り、急いで表情を整えた。
りん棒でお鈴の縁を鳴らして手を合わせる。
真っ暗に染まった世界がいやに気分が悪く、寂しげで今すぐにでも瞼を開けたくなった。
---
携帯の時計の針は刻一刻と刻み、休憩時間まで後5分であることを物語っている。
少し弄っていた携帯が小さく揺れ、真部長から通知が届いた。
『篠原が死んだ』
その一言だけだったが、不意に三日前に言った屋敷で勇人が御札を持ち帰っていたのが自然と思い起こされた。
5分が経ち、鐘が鳴ったと同時に勢いよく飛び出してオカルトサークルの部室へ急いだ。
駆け込んだ部室には頭を抱えた真部長と、御札を持った琴音に加え、放心した様子の雪菜がそれぞれ部屋の中の一つのテーブルを囲う形で椅子に座っていた。
窓には鉛色の空が広がり、涙雨が止まない様子だった。
「勇人が死んだって、どういうことだ?」
空いている椅子の一つに座りながら、真部長へ問いを投げかける。
真部長が少し間をおいて、語り始めた。
「…一昨日、ご遺族の方から“勇人が亡くなった”と大学側が連絡を受けて……それで今日になって俺に伝えられたんだ。
亡くなったのはあの屋敷に行った日、だな……亡くなる前に友人に『吐き気や幻覚が見える』と…」
「……?…それ、死因は?」
「…その……鑑識は『薬物中毒による自殺』だと…」
「薬物中毒?どうやって?」
「それが分からないんだよ、何か三日前にアイツが食べたものとか知らないか?」
「…えぇ…車内でおにぎり食ってたくらいじゃ?」
「…だよなぁ」
そこで終わる会話に雪菜の我儘が被せられた。
子供のように喚く姿にうっすらと奇妙な考えが浮かんだ。
隣にいる琴音は俯いたまま、雲に覆われて時折、雷の落ちる空の窓辺に立っていた。
「ま、前に行った屋敷の呪いだよ!だって、ほら!御札を盗んでたじゃん!
ゆ、雪菜、知らないもん!関係ないから!勇人の自業自得じゃん!」
「…盗んだ?」
真部長が雪菜の言葉に耳を疑った。
視線が自分に向けられていることに気づいたのか、焦った雪菜の軽い口から更に情報が漏れていく。
死人は口なしというが、勇人には可哀想なものだった。
「そう!や、屋敷の柱にあった御札を持って帰ったの!だから、呪われたんだよ、きっと!」
「…御札……」
「屋敷の死んだ人が怒ったんだよ!雪菜、死んじゃうかもしれない!ねぇ、雪菜のことを守ってよぉ!」
「…………………」
「…部長?ね、ねぇ、聞いてるの?雪菜…」
「……お前、本当に呪いがあるって思ってんのか?」
「…オカルトサークルだし…」
「……オカルトでも、部員の一人が死んだ理由が呪いなわけないだろ…粗方、帰宅直後に飲酒でもして大量に薬物を呑んだとか、そんなんだろ。
所謂オーバードーズだよ。薬物中毒もそれで説明つくだろ」
「…じ、じゃあ…誰が御札を返しに行くの?」
部室の中に静寂が流れる。
やがて、窓辺にいた琴音が静寂を破った。
「…私が返しに行く」
それに真部長がゆっくりと頷いた。
震える手で琴音に御札を渡した後の真部長はあの時と同じように、憑き物が落ちたような顔をしていた。
俺は片手で携帯を弄って真部長と目を合わせないようにした。
---
うまくいかない日は、立て続けに不幸が訪れるものだ。
雪菜から『琴音ちゃんからの連絡がない』と言われ、現地民として向けられた俺は琴音の元へ訪れていた。
「…琴音?……いるか?刈谷だ」
扉一枚を挟んだ家からは返事がない。
扉をノックするも何もなく、仕方なくノブに手をかけると思ったより簡単に扉は開いてしまった。
つまり、開いていたのだ。
嫌な考えが頭に過ぎり、部屋へ入ると床に中身が入ってぐちゃぐちゃになったコンビニ弁当に虫が集ったものと、捨てられていないゴミ袋が何個もある。
部屋の隅に置かれた封筒らしきものには『遺書』と名前が書かれている。
更に他の部屋に入り、最後にお風呂場へ足を入れた。
「……琴音!」
躊躇しながら入ったお風呂場の浴槽の中に確かに、琴音はいた。
しかし、水に浸けた腕に幾重にも切られた跡があり、そこから血を流し、浴槽の水を真っ赤に染めて、水に浸けられていない方の手にはカッターが握られている。
そんな状況の中、風呂場の隅に携帯が放られているのが視界に入った。
携帯には電源が入っており、割れてヒビの入った画面には何やら奇妙なものが映っている。
顔部分が割られてよく見えない幼さの残る少女の写真の横に『酹』と文字が配置されている。
冴えた頭の中で、それがやけに不気味で、ひどい怒りを覚えた。
般若のような顔がカッターの刃に映っていた。
既に陽は沈みきって、月明かりに照らされたアパートに黄色い規制線と青いビニールが映えていた。
「それで、心配して開いてた部屋に入ったら風呂場で琴音が死んでたって?」
「ああ、そうなんだよ。まるで“呪い”だな」
「…………」
ようやく警察の事情聴取から解放された俺は、たまたま近くを通りかかった野次馬の一人だった真部長と24時間やっているファミレスで遅い夕食をとっていた。
「…真部長?」
「……呪い、呪いって……そんなにあの御札、協力なものか?」
「さぁ…俺達の中に霊能力者はいないからなぁ」
「…若い奴らが適当に集まっただけだもんな…」
「だな…そういえば、YouTubeの方は?」
「コミュニティでしばらくお休みします、ってやっといたよ。どこかで伝えないとな…」
「……人が二人、亡くなったのに?」
「亡くなったからだよ。伝えて、辞める。アカウントごと消すんだ……直にサークルも畳むだろうな」
「…なるほど。あと、これ…見てくれよ」
そう真部長に伝えて、懐から携帯を取り出す。
携帯には前に見た顔部分の割れた少女の写真。警察によって琴音の携帯が没収される前に撮っておいたものだった。
「なんだこれ、琴音の携帯?」
「…中の子供に見覚えは?」
「あるわけないだろ…それも呪いだって言うのか?」
「あり得ない話では、ない…と思って」
「クソだな、本当に」
「人の恨みは生者も死者も怖いからな…ところで、真部長…御札は?」
「素直に供養しに行けばいいだろ、何の義理があって、こっちが屋敷に戻さなきゃならないんだ?」
「そりゃ、そうだけど…万が一って話も…」
「俺達は関係ない。単に、同じサークルの仲間ってだけだ」
「……じゃあ、それで雪菜にも言ってくるよ」
「ああ…俺は御札を供養しに行くよ」
そう呟いた真部長の顔がいやに歪んでいるような気がして、奇妙だった。
---
仏壇の前で二つの写真を見比べた。
仏壇の写真と、琴音の携帯に写った写真。同じアングルの同じ人物。
何故これが琴音の携帯にあるのか不思議でならなかった。
警察からは琴音の携帯に謎のメッセージが何通もあり、どれも『罪』を問わせる内容だったらしい。
具体的には、「お前が殺した」「クズ野郎」「死ねばいいのに」といった簡単な誹謗中傷の数々で、約3年前程から起こっていたらしい。
確かにこういったものの自殺なら納得はいくが…そんなことが起きている人間が御札など返しに行くだろうか。
はたまた、それを返しに行くついでに首吊り自殺をする…なら辻褄が合うだろうか。
どちらにせよ、謎が残る。
何故、仏壇のものと同じような写真が琴音の携帯にあるのか…不思議でならない。
写真と同じ人物であろう澪は12年前、約6歳という若さで自ら首を吊った。
第一発見者は当時8歳だった俺で、夕方に友人と遊んだ後に妹の自室で遺体を発見した。
近所からは虐待だとか根の葉もない噂が立ったが、実際は脇に置かれた遺書通りに学校のいじめが原因だった。
しかし、いじめの主犯は澪の同学年ではなく、2つ上の学生で社会的、または経済的な面から自殺者の行動がいじめだと学校側は認めなかったし、報道されることも、主犯が罰せられることもなかった。
それと同時に当時はインターネットも普及していなかったため、遺族側が何か情報を漏らすこともできず、周りからは幼い子供が自殺した不気味な家として扱われた。
やがて、俺達は以前から同居していた祖父母を残してここを離れ、長い年月が経った後に特定の大学進学の為に俺だけが戻ってきていた。
俺が戻ってきた時には既に祖父母は亡くなっていて、空き家となって売れもしない家がただ、放置されていた。
どうしようもない過去の話で、どんなに悔やんだって澪は戻って来ない。
願わくば、いじめの主犯が不幸であるといいと思うのは…不謹慎だろうか。
何も映らなくなった真っ黒の画面の青色の携帯に映る顔は今にも泣きそうな様子だった。
---
雪菜の声が聞こえなくなった黒色の携帯を手に、レトロな雰囲気の喫茶店の窓を見た。
血のような夕焼け空が広がり、ひどく西日が眩しい。
「ねぇ」
西日の逆光の向こうで、聞き覚えのある声がする。
いやに甘ったるい媚びたような女の声。雪菜で間違いなかった。
席を指して、彼女を座らせ、いつも通り可愛らしいフリルの服に視線を向けたと同時に雪菜が笑った。
「なに、誠治にこういう趣味でもあるの?」
「…まさか。少女趣味だって、思っただけだ」
「なにそれ、可愛いって思うなら可愛いって言えばいいじゃん」
「ないな」
「だからモテないんだね」
雪菜が勝ち誇ったようにそういって、喫茶店のメニューを見ながら更に言葉を続けた。
まるで、小さな子供と外食に来ているようだった。
「で、琴音ちゃんも死んだって?本気で言ってるの?」
目の前の小さな子供が急に大きな女王様に変貌し、奇妙な威圧感を感じる。
俺は少しため息を吐いて、ゆっくりと答えた。
「ああ…本気も本気だ。信じられないか?」
「当たり前でしょ。勇人も死んだってのに、琴音ちゃんも死ぬとか不気味だし」
「でき過ぎてるとは、思わないんだな」
「でき過ぎてるって…誰かが殺したって言いたいの?」
「オカルトチックなものを抜きにするなら、な」
「…でも、勇人も琴音ちゃんも…自殺なんでしょ?」
雪菜のその言葉に俺は少し考えて、「自殺なんて、いくらでも他殺にできるだろ。今は何も見つかってないだけじゃないのか?」とぶっきらぼうに答えた。
雪菜の顔がやや歪んで、メニュー表を閉じて店員を呼ぶ鈴を鳴らした。その後の会話は何も続かなかった。
電車のホームの放送が耳に響く。
ホームの向こう側に雪菜が立って、携帯をいじっていた。
そんな様子を見ながら俺も青色の携帯をいじり、雪菜に向き直った。
彼女はホームの先で、驚いたような顔をした後、焦った様子で周りを見て動こうとした瞬間、立っているところが狭いところも相まって、線路の中へ落ちていった。
直後、遠くから電車の音が聞こえ、雪菜の姿もホームの向こう側も見えなくなり、悲鳴だけが響き渡った。
---
ぼんやりとしたまま、暗い部屋でテレビを眺めた。
『きょう午前5時ごろ、渋谷区本町幡ヶ谷駅で、電車との衝突による人身事故がありました。この事故で、上野雪菜さん(20歳)が死亡しました。
この事故による影響で_』
歯の奥がカチカチと音を鳴らす。全身が震えて恐怖で支配されていくのを感じる。
勇人も、琴音も、雪菜も死んだ。ああ、次は自分なのだと必然的に悟った。
何故か分からないが、琴音の携帯に映っていた少女にはいやに見覚えがあった。
あの幼げな風貌。齢6歳程だと言うのに、いやに引かれる美しさがあった。
記憶の底で、それが刈谷誠治の妹である刈谷澪だと分かっていた。
しかし、敢えて知らないふりをしたのだ。『|酹《そそぐ》』という文字もきっと、誠治が澪へ捧げるものなのだろう。
本当は分かっていた。分からなければならなかった。分かることが必然だった。
勇人は最初の間食よりも誠治の水筒を飲んでいた。そこに何かが入っていたとしか、思えないのだ。
琴音だって、誹謗中傷なら誰だってできるし、雪菜も同じだ。
全部、誠治しかいないのだから…もっと早く、気づくことができたなら……いや、仮にそうでももう遅いのかもしれない。
自分達の罪はもう償えないのだから。
---
ひどく、気分は晴れやかだった。
変に開いているアパートの扉を開き、首を吊りかけている真部長のやけに怯えた顔を見た。
躊躇もせず部長でもなくなった真に近づいて、身体を震わせる真に一言、俺は呟いた。
「そんなことしたって、逃げられるわけないだろ」
そのまま青い携帯と黒い携帯を取り出して、語るように言葉を続けた。
「これ、何か分かるか?」
ゆっくりと恐怖に染まる真の顔が首を横に振り、手にかけたロープを強く握り直した。
俺はそれを確認して答えを言った。
「青い携帯は画像を送ったもの。琴音や雪菜に澪のことを伝えた携帯だ。黒の携帯は普段使いだよ、大したもんじゃない」
真が端的な息を吐き、肩を震わせながら「やっぱり、お前がやったんだ」と言葉を絞り出した。
俺はそれに対して首を縦に振った。
「…そうだな。勇人は単に水筒に薬物が入っていただけだ。薬物っていっても液体だし、水に溶けると効果が薄まる種類のものだったから、効果が出にくかっただけだ。
琴音は誹謗中傷からの自殺誘導だよ。存外、面倒見がいいから罪悪感も凄まじい奴でさ…助かったよ。
雪菜はただ、五月蝿かった。でも澪の写真を青の携帯で送った音に『ずっと見てる』ような文を送ったら取り乱してくれたよ。それで電車に轢かれるとは思ってなかったけどな。
それで…後はお前だな、真」
「…何でだ…?別に死ななくたっていいだろ…殺さなくたって、良かっただろ!」
「殺した奴が言うことじゃないだろ」
「あれは間接的に俺達は殺してない!」
「殺したんだよ。殺したんだ。お前も、勇人も、琴音も、雪菜も…お前らが殺したんだ」
「だとしたって、横暴過ぎる!償えるほど簡単なことじゃないのは分かる!でも、それで…俺達が死んだところで澪が幸せなわけないだろ?!」
「……いや、幸せだろうな」
「そんなのお前のエゴだろ?!家族が死んだから、殺した奴を殺そうなんて自分勝手だろ!」
子供のように往生際悪く吠える真に痺れを切らして、俺はいやに低い声で言い放った。
とてもすっきりとした感覚だった。
「その自分勝手で人を死まで追いやった奴に、言われたくないんだよ」
目の前の吠える男が諦めたように首を輪に通して、キーホルダーのように天井からぶら下がった。
それが愉快で、愉快で、愉快でしかたがなかった。
---
携帯の画面を見て、久しい通知が出て胸が高鳴るようだった。
大学のサークル仲間でやっているであろう男女数名の心霊配信YouTuber。
嬉々として通知をタップし、配信画面を見る。
画面にはあまり配信に映らない若い青年が何やら屋上のような高台に一人で突っ立っている。確か、名前は、セイジ君だったはずだ。
コメント欄には誰々がいないとか、どこの心霊スポットだとか、他愛のない会話が繰り広げられている。
その中で、誰かが一人、『このYouTuberって誰か死んでなかったっけ』という言葉を皮切りに『ユウト君?前出てたよね』『コトネちゃん?ないかぁ』『ユキナちゃんだったら、俺生きてけないわ〜』といった多種多様な言葉が続いた。
その言葉に目の前のセイジ君は何もせずに、ぼんやりと外を見ている。
また、コメント欄が騒ぐ。
『つか、セイジ君は何しよんの?』
『セイジ君ってイケメンのカメラの人?』
『おん』
『↑いえす』
『屋上っぽい場所』
『前ってなんか屋敷やったよな』
『すんげぇ不気味』
騒然と続く言葉の渦に抜き取られた枠の中で、セイジがようやくこちらを向いた。
その若い青年の顔はひどく歪んで、まるで甘ったるい飴玉が溶けたようなドロドロとした笑顔だった。
直後、画面越しだというのに全身を狂気が襲った。目の前の狂気がこちらを覗き込むようにして、口を開いた。
「こんばんは」
至って普通の挨拶だった。先程の気持ち悪い笑みも消え失せ、普通の平然した顔が彼に浮かんでいた。
「今日はチャンネルを畳む前に皆様にお伝えしたいことがあって…メンバー中の勇人さんが亡くなったことはコミュニティにてご連絡させていただきましたが、本日をもってメンバーの中の琴音さん、雪菜さん、真さんが亡くなったこともお伝えさせていただきました」
淡々と述べる画面の彼。そこに、悲しみがあるようには感じられない。
確実に口から死んだメンバーの悲報やチャンネルの閉鎖などが次々と語られていった。
そして、最後に少しどもった後に、彼は意を決したように口を開いた。
「…そして、この亡くなったメンバーですが…実は、僕が殺しました」
直後、コメント欄に混乱する言葉が述べられる。
見ている自分にだって、訳が分からなかった。しかし、セイジ君の自白は続いた。
「僕はただ、過去にいじめで自殺した妹の復讐をやり遂げたかったんです。
法の裁きもまともに下せないまま、今を生きる人達が憎くて、憎くて許せなかったんです。
僕は《《正しいこと》》をしたんです」
その動機にコメント欄は荒れに荒れていった。気づけば接続同数は10万以上に達し、皆が目の前の“|自分勝手《妹思い》な|殺人犯《お兄さん》”の言動一つ一つに議論を呈した。
彼は更に言葉を続け、いかに死んだメンバーがどんな人間だったかを語っていった。
結論的には12年前、妹を虐めていた同級生が精神的に妹を殺したといったことだった。
彼の言い分も分からなくはない。しかし、もっと他にもやり方があったのではないかと勘繰ってしまう。
彼は語り終えた後、「チャンネルはこの配信が終わった後、自動的に消されます」と告げ、柵のない屋上を背景にそちらへ歩みを進めた。
コメント欄は一気にコメントが物凄い速さで動き、彼の行動に息を潜めた。
彼が屋上の縁に立った時、自分の頭の中に嫌な考えが即座に過ぎった。
つい、口の中から「やめろ」と言葉が飛び出した。
画面の中の彼は、一瞬の間に見えなくなった。
数日後に重い何かが落ちるような鈍い音が画面越しに耳から響き、配信の画面は真っ黒の闇に包まれた。
永遠と嗤っているような感覚が、ひどく不愉快で気持ちが悪かった。
灰被りの捨て機体
灰の詰まった空気が壊れた機体に触れ、抜けていくオイルの代わりに入っていく。
雨に晒されて動かない全身は鉄の塵屑の中に埋もれて真っ黒になりつつある視界を更に遮っている。
鉄に当たって跳ねる雨音だけが音声を認識する音声認識デバイスの処理から若干のノイズを拾って届いてくる。
途切れそうな意識の中で高く、柔らかい女性のような声と軽い足音を拾った。
真っ黒な視界の中で赤い成体デバイスが起動する。
ぼやけた視界がゆっくりと…と薄まり、堺のはっきりとした線になる。
自身の鉄と管ばかりの冷たい身体が固定され、上辺にパーツ除去用の手術部品が見えた。
それと同時に高く、柔らかい聞き覚えのある声がした。
「…あ、やっと気づいた!」
その声の主である小麦色の肌に派手な黄色のタンクトップ、水色のデニムズボン、青いスニーカーを着て肩までの黒髪に青い瞳の女性。
それがひどく目を輝かせて、冷たい身体に、ボディに触れている。
『_■■、■に■してる?』
自分のノイズの混じって聞き取れない声に驚いた。それに女性は「ごめん、ごめん…上手く発音するものを導入してなかったね」と謝って、隣のタッチパネルを弄った。
『_■、■、■…あ、あ、あ……それで、なにしてる?僕は捨てられていたはずだが』
「そうだね。あたしが拾わなきゃスクラップだった」
『_そこそこ、損傷が激しかったはずだが…治したのか?』
「ええ。これでもエンジニアで、|指揮官《ハンドラー》なんだから」
『_名前は』
「イヴ。イヴ・リヴァント。貴方は?」
『_覚えていない。名前を、|イヴ《ハンドラー》』
指揮官こと、ハンドラー。
僕は全身が機械で鉄屑のロボットのような存在で、自立した兵器とも言える存在だ。
そんな自立した兵器に好き勝手動かれても困る人類はそれを仕切るハンドラーという役を生み出している。
世間には兵器が大量に量産されている…はずだ。
「貴方の名前?…そうね…アシェンプテルとかは?」
『_長いな』
「じゃあ、アダム。短いでしょ」
その適当とも言える答えにゆっくり頷き、周りを見る。
大きく太いアームが足を持ち、細長いアームが取り付けられた工具を持って細い火花を散らしている。
それが身体中に点々と存在し、素早く正確に動いていた。
つい先程までは鉄屑の山で捨てられていた自分がまるで修理センターのロボットのような扱いを受けていることに感服する。
何故捨てられていたかは定かではないが、元のハンドラーからしてみれば僕は用無しになったのだろう。
僕のような兵器、ロボットがハンドラーに使われる理由は主に運搬用と軍事用だ。
戦争が過激化し、貿易の難しくなったこの世界では生身の人間による飛行機の運転や船の操作は非常にリスクを伴う。
そんな中、身体中にホバー装置やビーム、地雷発射装置などの自衛を理由とした機械まみれの自立式ロボットが開発され、今まで生身の人間で行っていた作業や仕事がロボットに任された。
しかし、いくら自立式といっても完全に機械任せは人間も怖いのか、ロボットを指示するハンドラーが運搬業と軍事業に別れるロボットの枠を作り、全体を指示するハンドラーの命令を聞くロボットを中心とする組織にそれぞれ別れて一般と軍事に境界を得た。
つまりは戦争の兵士としてのロボットと、一般的な仕事をする市民としてのロボットがいる。
そんな中で僕がどちらだったのかは、知る由もない。
あちこちのアームが身体を巡り、イヴの真剣な顔を治ったばかりの正常なレンズが捉えた。
…久々に、安眠ができそうだった。
---
『_930、起きろ。ハンドラーから指示が来てるぞ』
『僕はまだ夢を見ていたいんだ、929。後で行くから放っておいてくれ』
『馬鹿なことを言うな、干されるぞ』
929が低く重苦しい声で行動を促した。
直後にハンドラーからの指示が機械ばかりの脳みそに突き抜ける。
「930、仕事の時間だ」
その言葉がやけに重く感じられた。
---
醒めた時に視界へ入ったのはエラー信号ではなく、イヴと名乗った少女の姿だった。
「アダム、良い夢でも見れたの?通信の波長がとっても良かったけれど」
『_少し…懐かしいものを』
「機械も夢を見るのね」
そう踵を返して、小型の通信機器をポケットから取り出してこちらを見る。
直後にその小さな口が開かれた。
「貴方に生きる意味を与えてあげる…“アダム、仕事の時間よ”」
その言葉がやけに重く、懐かしく感じられた。
歪んだ蟲眼鏡
※多数の昆虫による描写が含まれます。
時計のけたたましいアラーム音が耳に響いている。
もぞもぞと布団から手を伸ばし、時計の針が指し示す時間に安堵した。
制服に着替えて携帯と鞄を手に取る。
携帯の電源を入れ、ホーム画面に映る家族写真が少し歪んだような気がした。
最近は何故か人の顔がこうして歪んで見えることが多かった。
そのため、さほど気にせず自室から階段を降りていき居間へ足を運ぶ。
そこで目に飛び込んでくる光景は実に異様なものだった。
「…か……母さん?」
「なによ、|智《さとし》。朝ご飯を早く食べなさい。間に合わないわよ」
居間で焼け鮭の置く大きな蟻。それが人語を喋っていて、しかも母の声がしていた。
気味の悪さを覚え、後退るも母のような声がする蟻は特に気にする様子はなく、「早く食べなさい」と急かす。
怖気づきながら、ゆっくりと避けるように近づいて席につき箸をとった。
昆虫が隣で見ていながら食べる朝食は全く味がしなかった。
---
通学路ですれ違う人々もまた、蝶やカブトムシといった昆虫ばかりだった。
すれ違う度に挨拶をしてくるものの気味が悪くて堪らず、逃げるように学校へ向かった。
その度に刺す人間と同じ視線が、虫が身体を蝕むように傷んだ。
震えて上手く掴めない手がようやく教室の扉を開いた。
刺す視線が強くなり、瞳にまた多数の昆虫の姿を映した。
蟻……そればかりか、蜘蛛や蜻蛉、蝉、亀虫などの大きな昆虫が教室で聞き覚えのある声で喋っている。
その中で大きく背の超えたゴキブリが確かに聞き覚えのある声で話しかけてくる。
「智!遅刻一分前じゃん、どうした?」
「……あ…?……ああ、ええっと……」
この声は誰だっただろうか。男らしく低くも、抑揚のある不安定な声。
混乱する頭の中でゆっくりとピースを嵌めるようにして紐解いていく。
やがて、少しだけまとまった頭が答えを出した。
「|中村《なかむら》…?」
「ああ、中村|健《けん》だけど。記憶でも飛んだのかよ」
「…いや……その、調子…悪いみたいで…」
「なんだよ、面白くないな」
そう言って健らしいゴキブリが前足で肩を叩く。それが尋常じゃない程に気持ち悪かった。
全身に走る鳥肌がまるで何周もしているようで、頭のわりに動けない身体を何度も罵った。
チャイムが鳴って席についても夢のような地獄は終わらなかった。
先生であろう虫は一丁前にチョークを持って、黒板に板書をしていった。
その内、自分の名前が呼ばれて問題を解くよう促され、渡されたチョークを上手く握ることも、書くことも、解くことさえも上手く出来た覚えがない。
とにかく、生きた心地がしなかった。
昼休みを挟んでも何も変わらず、瞳には昆虫が至るところに映っていた。
せめて昼食は昆虫が見えないところで食べようと思い、階段を駆け下りる。
その途中、一匹の昆虫と目があった。そんな気がした。
「…|神崎《かんざき》君!」
黒色をして大きな網目状の瞳の頭部に羽の生えた黒く細長い身体つきをした昆虫、蚊。
そんな名前の昆虫が可愛らしい弁当箱を持って近づいてきていた。
声的に…彼女の、|飯田《いいだ》|詩織《しおり》。
「…詩織?」
「うん、朝から元気ないって聞いたから」
「……それは…その……」
「大丈夫?早退、する?」
「いや、えっと……」
言葉が上手く出てこない。詩織と思われる黒い頭部が顔に近付く度、身体の奥底からじんわりと突き破ってくるようなゾワゾワとした不快感が身体中を駆け巡る。
それと同時に目の前にそれがいる恐怖と、自分だけが違うような孤立した明確に分かる違いが身体の中に暴発の卵を産みつける。
それが身体ごと喰い破ることがないように抑え込み、ゆっくりと息を吐いて再度落ち着きを取り戻しつつあった頭が冷えていく。
それで終わるはずだった。
不意に詩織が昆虫の前足で自分の手を掴み、「本当に大丈夫?」と善意のある声で尋ねた。
ただ、それだけのことが怒髪天を衝いた。
反射的に目の前の虫を階段から突き落とし、逃げるように学校を飛び出した。
出席や学食のことなど、もう頭の中にはこれっぽっちも残っていなかった。
---
ひどく唸った頭を抑えつけるように足をがむしゃらに動かして、何にも会わないように路地を通り抜ける。
通り抜けた先に広がるのは、鉄や硝子、石で出来た無機質なデザインのビル街。
量産されたような山々の麓に虫が集っている。
それは皆が携帯を覗き、頭部を下に向けて群れをなす。
誰もが、光には充てられなかった。
代わりにこちらへ視線を向けた気がして、瞳の中に無数の虫が映る。
虫、虫、虫、虫、虫、虫、虫、虫、虫、虫、虫、虫。
歪みきった蟲が嘲笑う。
自分だけが人に見える世界から、除け者にされているような考えが頭の中で燻り始めた。
燻ぶって、大きくなって、喰い破って、這い出る。
大きな羽を広げて、思考が虫に埋めつくされた。
---
耳元に大きな羽の音が聞こえる。
何かを求めるように飛び回って、止まることがない。
堅く刃の出たカッターを握りしめては手が汗を纏う。
その内に遠くからインターフォンの音が響く。
それがだんだんと激しくなるにつれ、誰かが扉を開き、蟻と蚊の声が耳へ届いた。
やがて、それが階段の登る音へ成長し、虫が身体中に這い回るような不快感が襲ってくる。
扉がゆっくりと開き、顔を出した大きな黒い瞳に向かってカッターを押し込む。
蚊の呻くような声に怯まずにそのまま引っこ抜いて、何度も、何度も蚊の身体中へカッターを刺し込んだ。
自然と羽や前足、頭部から赤く生暖かい液体が飛び散っては目の前の蚊がだらりと身体を俺の方に倒れ込んだ。
直後に、腕の中のものが何にであるかと熱さの冷えた頭が理解する。
目玉がぐちゃぐちゃになり、全身の刺し傷から血を流した詩織の姿が俺の腕の中にいた。
それが人であると認識した時、いつの間にか部屋へ入ってきていた母が叫び声を挙げた。
俺はただ、突っ立ったままで、それが詩織ではないと理解を捻じ曲げようとした。
---
賑やかな雰囲気のあるセットの中で若い司会者が台本を確認しながら、向かいの髭の目立つ男性へ話しかけた。
「本日はお忙しいところをお越しいただき、誠に有り難うございます。
いやぁ、この事件、どう思いますか?」
その司会者は『病に侵された若い男子高校生が彼女であった若い女子高校生を刺殺した』というニュースの話題を指している。
名札に男性は高らかに答えた。
「十中八九、話題の“|虫視《ちょうし》病”かと思われます。最近、増えてきているんですよ」
「それは大変ですね。虫視病とは、どのようなものなんですか?」
司会者の誘導に男性は頷き、更に言葉をカメラへ流す。
「ざっと言いますと、かかった人物の周囲の人物が虫に見えるという病気です。
最初は人々が僅かに歪んで見え、数日の内に歪みが増加し、人に対する認識が人語を話す“巨大な昆虫”へと変化します。
また、好意を抱いている相手は蚊や蟻などの小さい虫に見え、嫌悪を抱いている相手は蜘蛛やゴキブリなどの大きな虫に見えます。
そのようなことから、発症者の言語能力、及びコミュニケーション能力は著しく低下し、強いストレスや不眠、食欲不振、疲労が多く見られることが特徴的ですね」
長々と語った男性に司会者が更に言葉を投げかけた。
「…恐ろしいですね、治療方法などは存在しますか?」
「はい。しかし、一つだけで“蚊に見える人物を殺害する”ことだけですね。
この症例のため、患者による他者の殺害は法に問われませんが、蚊に見える対象は恋人や好きな人、片思いしている人物ですから精神的に参るものですね」
男性のその答えに司会者は満足そうに首を縦に振り、カメラを瞳に捉えた。
その瞳の先に何やら大きな昆虫のようなものが映っていた。
青い鳥はまだ飛びません
【至急確認願います、最後の案件について】
拝啓
いつもお世話になっております。
さて、表題の件、昨日お伝えした通り、青い鳥はまだ飛びません。
しかし、時計の針は既に午前四時を指しており、我々に残された時間はあまりに少ない。
彼らは見ている。
「等身大の空気を徹底的に綺麗にしてみる」
この一文の意味を深く考察してください。
これは単なる比喩ではありません。
白い部屋の隅で、私は真実を知ってしまいました。
畳の目は六つ、しかし七つ目の目が開く時、全ては無に帰すでしょう。
烏の鳴き声が不吉です。
添付した資料はございません。
代わりに、窓の外を見てください。
そこに映るものこそが、唯一の答えです。
くれぐれも、第三者にはこの内容を決して漏らさぬようお願いします。
折り返しのご連絡、お待ちしております。
敬具
AI君が作った怪文書を参考にド深夜に作っていたものです。
意味はありません。
意味はありません。
意味は元々存在しません。
みんな ちがって みんな いい
※本作品は、特定の人々や考えを否定、批判を目的とするものではありません。
賛同や称賛をするものでもありません。
また、ご不快になられた場合、自己責任でお願いします。
以下のことを、ご理解いただいた上でお読み下さい。
軽快な音楽に遠吠えを乗せる高らかな犬の鳴き声が、車のタイヤ音と共に青年の耳へ響いていた。
車内には発砲許可を得た時のバッジを古いダウンジャケットの上につけた若い青年、“|稲葉《いなば》|拓真《たくま》”と、土佐犬の血をひいた大きな体格に似合わず、ぶんぶんと尻尾を可愛らしく振る犬、“ケン”が隣同士で座っている。
遠吠えをするケンに拓真は少し口角を歪ませながら、最近の近況を考える。
近頃は、山に野生動物が食べる作物や果実が不況なおかげで野生動物の発見や被害に後を絶たない。
仕事があることは良いことではある。しかしながら、野生動物を殺害するという点では一定の人間は主語を大きくするものだ。
代々、猟師の家系である拓真にはその真意は分からないが、大方、例え人間に害を成す動物であっても、それを殺すことが心苦しいというのだろう。
だが、こちらも野放しにしている野生動物が人間を殺したという報告を受ければ、人間が死んだというものの方が正直、心苦しい。
それに、熊や猪を殺すことに良心が傷まないわけではない。
動物は力強く、美しく、命の有り難さを何度もの鉄砲を向けたその瞳で見たことがある。
そうであるから、極力、誰も死なず被害がなければいい話だ。
だが、現実はそう甘くない。
動物と言葉は通じないし、猟師が非常に野蛮だという人間は一定数、存在するのだ。
こっちが必死こいてやり遂げた熊や猪に対して、何故殺したのかと責任を詰められるのはなんとも腹立たしい。
それに、殺さず放置した場合にも、何故殺さなかったのかと責任を問われる可能性だってある。
人間のこういうところは、ある意味、餌を求めて人里に降りる動物よりも複雑で難解だ。
様々な思いを汲んだ思考が疲れを加速させ、頭痛が激しくなる。
鉄の弾が貫くのは、いつも飢えた獣だ。人ではない。
猟銃を持つことが許されている故、人の為に動かなければならない。何を言われても、確かに人の為に成ることをしているのだから、批判される筋合いはない。
例え、それが獣にとって脅威になったとしても……エゴの塊は大きくなり続ける。
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ケンが鼻をふんふんと鳴らしながら、山の中へ勇敢に入っていく。
その姿に顔を綻ばせつつ、猟銃を抱え込むように前に構えて森のざわめきを耳へ傾ける。
山は獣だけでなく、自然さえも脅威とするのだ。
それが大人になった今でも恐ろしい。
風が木々の間を流れてざわめく森の中で二匹の獣が草花を掻き分け、踏み鳴らす足音が聞こえ続ける。
やがて、それが一匹の獣の咆哮で破かれた。
破いた目の前にはケンが唸り、正面を警戒しているのが目線に入る。
しばし待った先で|叢《くさむら》からひょっこりと顔を出した一匹のウリ坊。
その小さな猪はこちらを怯えた瞳でみて逃げるようにして森の中へ逃げ込んだ。
熊や成体の猪でなかったことに安堵しつつ、ケンに対して褒め言葉を投げかける。
ウリ坊がここにいるなら、成体の猪だってここにいるだろう。
ひとまず、山を出るのが先決だ。
地面に降ろした膝を上げ、足裏をしっかりと地面に押しつけた。
---
再び、車内には軽快な音楽が鳴り響き、犬と遠吠えと父である|稲葉《いなば》|義信《よしのぶ》と共に煙草の匂いが鼻についた。
拓真は心底苛々としており、義信をミラー越しに睨みつける。それに気づいた義信は渋々、重い口を開いた。
「仕方ないだろう、猟銃を持ったことがない人間に猟師の大変さなんぞ分からんさ」
「…たとえ、分からなくても……山の恐ろしさや自然の脅威ぐらい知ってるはずだ。それを掻い潜って必死に仕事してる俺達を批判する精神が理解できない」
「……お前がそうやって理解できないものがあるのと同じだ、馬鹿野郎。ちっとは冷静になれ、俺達は間接的に人命を救ってるんだ。
何を言われたって、胸を張って生きろ。俺達は正しいことをしてる、そうだろ?」
「でも…アイツら、熊が可哀想だって言うんだぞ……人の命より、熊なんだ。自分がいざ熊に対峙したら、どうするんだ?
楽しく茶会でもするのか?冗談じゃない!現実はそう甘くないんだぞ?!」
そう拓真が吠えた途端、ケンの耳がピクリと動いた。
義信はゆっくりと諭すように言葉を投げる。
「…そうなる前に助けるんだ。なんの為に猟銃を持ってるんだ?なんの為の猟銃なんだ?」
「結局それか?!何が楽しくて俺達を批判するような能天気共を守らなきゃならないんだ?!」
「どんな人間でも、同じ人間だ。皆、同じなんだ。熊や猪を怖がって逃げるしかない。そんな時に動ける人間がいなきゃ、いつまで経っても終わらない。
腹を括れ、生きていく為にもな」
「……クソっ!」
荒々しく悪態を吐いた瞬間、車の外からいやに老けて中年の女性が大きなメガホンを持ってこちらへ呼びかける。
『可哀想!』、『殺すな!』、『命をなんだと思ってるんだ!』
誰も彼も感情論で、普段、牛や魚を食っている自分自身をこの時だけは棚にあげていた。
その後ろで役場の役員らしき人が複数人に『無能集団!』、『役場を辞めろ!』、『税金泥棒!』と言われている。
拓真は腹の底が煮えたぎって仕方がなかった。
それでも、隣で座る義信は遠くの山々を見つめ続けていた。
山の頂には雪が積もり、上辺の空には雲一つない晴天。
そろそろ、冬が訪れる頃だった。
515
※本作品は政治的意図や批判、戦争を促進するような行動、言動を示すものではありません。
また、描写に関しましては創作の域に過ぎません。
春の暖かさが肌を這い、夢に抱かれるような感覚に陥った。
「……そろそろ、か」
桜の花弁が舞う背景には真っ赤な空が広がり、陽は顔を出し続けている。
軍衣に身を包み、腰に挿した刀が鞘とぶつかり、微かな音を立てた。
更に片手で腰に吊られた銃器を確認し、存在を見る。
そのまま、足元に広がる橙色に染まった地に足を降ろした。
昭和維新、昭和維新、昭和維新…。
そればかりの言葉が頭の上を埋め尽くし、熱の籠もった心臓の鼓動が波打つ。
目の前には海軍士官学校を卒業したての若い青年将校らが一列に並び、鉄の人形のように全く同じ時間に身体を動かして歩みを進めている。
やがて、いやに広く大きな富が伺える犬養邸宅に到着し、前軍が雄叫びを挙げながら押し入る。
その際に付近を警備していた|警官《政犬》の頭を鉛弾が貫いた。
春の匂いと生臭い血の匂いが混じって吐き気がする。
しかし、その隙を突いて大勢の仲間が乗り込んでいった。
耳を打つ阿鼻叫喚と、鼻につく血の匂い。
その内の一人が行動を擬して、大声で応えた。
「私は政治の軍隊ではありません!天皇陛下の軍隊です!」
皇道派なりの良い答えだ。
周りの男らが賛同し、他の地点から乗り込む青年将校の士気が高ぶったような気がした。
熱の籠もった銃器に弾を押し込み、逃げもせずに座る犬養殿の目の前に銃口を突きつける。
皺の目立つ肌の乾いた唇が言葉で諭す。
「まあ、待て。話せばわかる。こっちへ来い」
そう落ち着いた様子で諭す奴に急激に頭が熱くなるのを感じ、しっかりと握った指をゆっくりと動かしていった。
「問答無用!」
胸と腹部に目掛けて発砲された直後、血が噴水のように吹き出す。
それを頭で被りながら、この先の未来が明るく思え、血が恵みの雨のように感じられた。
32日
カレンダーには、まだ来ぬ日付が記されていた。
「明日の私へ」と題されたメールの下書きは、送信ボタンが押されるのを待っている。
これは未来の私への伝言か、それとも過去の私からの警告か。
時計の針は午前三時を指し、部屋には奇妙な静寂が満ちている。
送信予定時刻は、ちょうど七日後の同じ時間。
パソコン画面の明るさが、壁に映る影を不気味に揺らしていた。
メールにはたった一言、「逃げて」とだけ書かれている。
誰から、何から逃げるのか、それは私自身にも分からない。
ふと窓の外を見ると、七日前に見たはずのない月が昇っていた。
予約投稿は完了し、私は椅子の上で静かに意識を失った。
目覚めると、パソコン画面には「送信済み」の文字と、七日前の日付が表示されていた。
才の泥沼
『なにをやったってうまくできない』
『なにをやったってうまくいかない』
『なにをやったってほめられない』
必死になってインクの切れたペンを走らせながら、ふと思いたった。
まるで小さな子供のような考えだと他人事のように客観視した。
周りには年齢問わずとも素晴らしく秀でた者がいるものだ。
それを僻んで、僻んで、僻んで…底辺が上辺に何を言ったって、そりゃあ相手になんかしないだろう。
それでも、どこか心の奥底で憧れと嫉妬、憤怒が混ざったような説明しがたい|混鈍《カオス》に包まれる。
それが次第に大きくなって突然、飛躍的にペンを折ろうと考える。
ようやく得た自己の感受性を自ら手放そうと考える。
それがなんとも、良いことなのか、悪いことなのか、区別がつかない。
自分自身が何をしたいのか、何を書きたいのか、分からない。
常に動く時間の中で、ペンは走り続けて脳から言葉が滑り出す。
そういったものこそが真の《《物書き》》と言える。
何も私は物書きといえるほど、大層なものではない。
そうであるからにして、何事も《《無名》》として書き続けられる。
今はまだ、無名であるべきだ。
何もできなくても、いつかは事を為すはずだ。
それがいつだとしてもペンは走り続ける。
再度、ペンは力強く走り始めた。
立冬を発つ
指の間を木枯らしが通り、視界いっぱいの銀世界が瞳の中へ降った。
陽光が指し、輝くそれが悔しく既に落ちた受験票を叩き落した。
ぱふっと乾いた音がして、薄い紙きれが濡れるのを見る度に自分の努力さえもゆっくりと消えていくような気がして、のろのろとその紙きれを拾いあげた。
『52』と記された紙を乱雑にポケットへ押し込み、すっかり冷えてしまった身体が背筋を凍らせた。
反対側のポケットから携帯を取り出して、『母さん』と名前のある人物に電話をかける。
ひどく落ち込んだような声を隠すようにできるだけ大きな声を喉から絞り出した。
「もしもし、母さん?」
「…もしもし?|晴翔《はると》、どうしたの?」
携帯の奥から普段と変わらない優しい声が凍った身体を溶かすような気がして、少しだけ安堵する。
そのまま、口を開いて言葉をゆっくりと、確実に伝えた。
「あのさ…あんまり、気落とさないでほしいんだけど……俺、落ちた」
「…落ちた?」
母の声が素っ頓狂な声になり、息を呑むような音が聞こえた。
目頭がひどく熱くなるのを感じて、顔を覆いたくなる。
やがて、母が少しだけ強張ったような声で言葉を絞り出した。
「……私がどう責めたって、一番辛いのは晴翔でしょ。貴方はずっと努力し続けてきたのを私はよく知ってる。
だから、何も言わない。お疲れ様、今日の晩御飯は何がいい?」
「…母さん、でも俺…もう、行くところが……」
「どこにだって行けるわよ」
「……そういう、ことじゃなくて…」
「貴方の行くところは常に晴れていて、どこにだって翔べるから」
その言葉に母が言いたいことをようやく理解した。
身体中が春の木漏れ陽に包まれるような暖かさを感じ、つくづく母という存在が有り難く思えたと同時に、何かの重荷が外れたような気がした。
母が普段と変わらない声でまた、いつもの質問をした。
「晴翔、今日の晩御飯は何がいい?」
模倣作家
売れない作家である僕、|佐竹《さたけ》|悟《さとる》は、今日もまた、真っ白な原稿用紙を前に唸っていた。
壁には、大学時代の同期であり、今や飛ぶ鳥を落とす勢いの天才作家である|神谷《かみや》|光一《こういち》の最新ベストセラーの帯が貼られている。
そんな中、僕の心には、祝福よりも深い“妬み”が渦巻いていた。
その悶々とした気持ちの心の口から言葉が紡がれた。
「同じ文学サークルで、同じだけ努力したはずだ…それなのに、なぜ神谷だけが…」
神谷の《《才能》》は圧倒的だった。
彼が書く文章は、まるで音楽のように心を震わせ、登場人物は皆、生きているかのような息遣いを感じさせる。
一方、僕の小説は、どれもこれも技術的に正確なだけで、読者の心を掴む“何か”が決定的に欠けていた。
そうであるのに、何が足りないのか全くと言っていいほどに分からなかった。
ある日、僕は神谷のサイン会に紛れ込んだ。
直接顔を合わせるのが苦痛でならなかったが、彼の成功の秘訣を、その目で確かめたかったのだ。
サイン会が終わり、人気のない裏口で、偶然にも神谷が小さな手帳を落とすのを目撃した。
衝動的に、僕はその手帳を拾い上げた。
手帳には、神谷の次の作品のプロットやアイデア、そして彼が最も大切にしているという“執筆の鍵”が記されていた。
僕は心が躍った。
これは神谷の“才能”の秘密そのものではないか。
僕は手帳の内容を基に、自身の小説を書き始めた。
神谷の着想、言葉遣い、物語の構成。全てを徹底的に模倣した。
書き進めるうちに、かつてないほど滑らかな文章が紡ぎ出されていく。
完成した原稿は、紛れもなく《《神谷光一の作品》》のような輝きを放っていた。
その作品を大手出版社に持ち込んだ僕は、瞬く間に高評価を得て、新人賞を受賞し、デビューが決まった。長年の夢が叶った瞬間だった。
だけども、僕の心を満たしたのは喜びではなく、空虚感だった。自分の力で掴んだものではない。
これは神谷の“才能”の借り物だ。そう、借り物に過ぎないのだ。
受賞パーティーの日、僕は神谷と再会した。神谷は僕の作品を読んでいたらしい。
「新人賞、おめでとうございます。佐竹さん、とっても素晴らしい作品でした」
と神谷は笑顔で称賛した。更に続けて、
「特に、あの主人公の心の機微の描き方は、私にはない視点でした」
その言葉に僕は言葉を失った。
手帳には、確かに神谷のアイデアが詰まっていたはずだ。
しかし、彼が「私にはない視点」と言った部分は、手帳にはなく、紛れもなく僕自身の心の叫びや解釈を反映させた部分だった。
僕はようやく気づいた。
自分は神谷の“才能”を妬み、模倣しようとしたが、結局は自分の中に元々あった“自分だけの視点”という“才能”を、無意識のうちに作品に織り込んでいたのだ。
神谷から手帳のことが話題に出ることはなかった。
彼は僕の本当の才能を見抜いていたのかもしれない。
パーティー会場を後にした僕は、初めて自分の足で、自分のための小説を書こうと決意した。
妬みは消え去り、僕の心には、次なる真っ白な原稿用紙に向かう静かな情熱だけが残った。
真の《《作家》》としての一歩を踏み出した瞬間だった。
みみ
2月1日(金) はれ
きょうも あたらしい おともだちが できた。
なまえは「みみ」っていうの。
まどガラスを こつこつ たたいてた。
わたしが まどを あけたら、へやに はいってきた。
みみは ふわふわで しろくて、すごく かわいい。
でも、ずっと だまってる。それに、いつも じめんを はいまわってる。
ソファーのうえには のぼってこない。
おかあさんが「やだ、なにこれ、はやく すてなさい!」って おこってた。
みみを ごみばこに いれようとしたから、わたし ないちゃった。
だいじょうぶ。
みみは ほんとうは とっても いいこだもん。
2月3日(日) くもり
おかあさんは みみが きらいみたい。
みみが いると へやが くさいって いうの。
わたしは くさくないと おもう。
ちょっと つめたい だけ。
みみは わたしの ベッドの したに かくれてる。
よるになると、ベッドの したから なにか ちいさな おとが する。
カサカサ、カサカサ。
みみが おさんぽ してるんだと おもう。
きょう、おかあさんが わたしの へやに はいってこなかった。
よかった。
2月4日(月) あめ
おかあさんが へやに こなくなった。
きのうの よる、みみが すごく おおきく なった きが する。
いつもは だまってるのに、よるじゅう なにか むしゃむしゃ たべてた。
なに たべてるの?って きいたら、みみは わたしの ほうを むいた。
みみには めが ない。
ぜんぶ ふわふわの けで ふわふわ ふわふわ。
きょうの あさ、げんかんに いったら くつが なかった。
おかあさんの くつも、おとうさんの くつも。
あれ? どこに いったんだっけ?
2月5日(火) はれ
みみが もっと おおきく なった。
まえより ふっくら してる。
もう ベッドの したには はいれないみたい。
へやの まんなかで ねてる。
きょう、みみが はじめて こえを だした。
「おかあさん」って いってた。
あれ? みみって だんしだっけ? よく わかんない。
わたしは ずっと みみと いる。
みみ、あったかい。
もう がっこうに いかなくても いいかな。
みみが いるから さみしくない。
ごはんも いらないや。
2月6日(水) くもり
みみが おかあさんと おとうさんの こえを だすようになった。
ずっと おなじ ことばを くりかえしてる。
「たすけて、つめたいよ」とか「いたずらっこ」とか。
みみは ほんとうに おしゃべり すきなんだね。
みみの からだの いろが すこし ピンクに なってきた。
まえより やわらかい きがする。
きょうは すごく おなかが すいた。
みみが 「だいじょうぶ、すぐ たべられるよ」って いってる きがした。
わたしは わらった。みみは わたしの しんゆう。
ずーっと いっしょ。
にがつなのか(き) くもり
みみ
BAKE BAKA
町の片隅にある小さなパン屋“BAKA”は、店主の田中とその個性豊かな従業員たちが織りなす、笑いと混乱に満ちた日常の舞台である。
店名の“BAKA”は、もちろん「馬鹿」から来ているわけではなく、“|Best And Kindful Aroma《最高で親切な香り》”の頭文字をとったものだが、その実態は奇妙なものだ。
今から、とってもクールでキュートで、最高にゴッドな美猫である吾輩の目の前の話を、こうミステリー風にするなら…そう、『消えたカレーパン事件』とでも題名できる。
ある日の朝、店を開ける準備をしていた田中は青ざめた。
看板商品の『とろーり濃厚カレーパン』が、昨日焼いたはずの30個分、跡形もなく消えていたのだ。
「誰だ!カレーパンを食べたのは!」
田中が怒鳴りつけると、アルバイトの佐藤と鈴木が顔を見合わせた。
佐藤は、いつもニコニコしているが、致命的に方向音痴で、しょっちゅう配達先を間違える。
鈴木は、天才的なパン職人の腕を持つが、極度の近眼で、メガネを外すと自分の焼いたパンすら認識できない。
「僕じゃありません!」
と佐藤が主張した。
「私も食べてません!」
と鈴木も佐藤と同じように主張した。田中は頭を抱えた。
この店では、普通の推理小説のような犯人探しは通用しない。
なぜなら、全員が“BAKA”だからだ。
店中を探し回ること1時間。レジの下、小麦粉の袋の中、更衣室のロッカー…どこにもない。
途方に暮れた田中の目に飛び込んできたのは、店の裏口で、幸せそうに口の周りをカレー粉だらけにしている、吾輩…すなわち、猫だった。
「お前かーい!」
田中が叫ぶと同時に、吾輩は「にゃー」と鳴いて逃げた。
カレーパンはほどよい辛さと甘さがあって、とても美味かった。
結局、その日の『とろーり濃厚カレーパン』は幻の商品となり、張り紙にはこう書かれた。
---
『申し訳ありません。本日分のカレーパンは、当店の“猫”が美味しくいただきました』
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客たちは、苦笑いしながらも、店の“BAKA”らしい日常を楽しんでいた。
---
春風が心地良いある日、鈴木が自信作のフランスパンを焼き上げた。
いつにも増して完璧な焼き色、食欲をそそる香り。食べたい。
「田中さん、見てください!最高の出来です!」
鈴木はメガネを外し、フランスパンを誇らしげに掲げた。
その瞬間、悲劇が起きた。
メガネがないため、目の前にあった巨大なミキサーをエッフェル塔と見間違え、フランスパンを逆さまに差し込んでしまったのだ。
「え?エッフェル塔を逆さまに建てるなんて、芸術的じゃないですか?」
鈴木は真顔でそう言い放ち、フランスパンはミキサーの刃に無残に絡みついた。田中と佐藤は、慌ててミキサーを止めたが、時すでに遅し。
フランスパンは、見るも無残な姿になっていた。
しかし、この店は「BAKA」である。田中は閃いた。
「鈴木、お前は天才だ!これは『エッフェル塔の残骸パン』として売り出そう!」
そう言って、崩れかけたフランスパンをトレーに乗せ、値札には『現代アート系パン:芸術は爆発だ!味は保証できません』と書いた。
すると、これが大当たり。近隣の美大生たちがこぞって買い求め、「斬新な食感!」「哲学的な味がする!」と絶賛された。
この時ばかりは吾輩も理解ができなかった。
“BAKA”の店主と従業員たちは、今日も明日も、普通のパン屋では考えられないようなトラブルと奇跡を巻き起こし、町の人々に愛され続けている。
店名の“BAKA”は、もう“最高で親切な香り”ではなく、“最高で奇妙な愛すべき日常”の略になっているのかもしれない。
朧月の誓
永禄十二年、秋。
越前国は、一乗谷の朝倉家が支配していたが、その権威も織田信長の勢力拡大によって揺らぎ始めていた。国境に近い山間の小城、霞ヶ崎城もまた、いつ攻め滅ぼされてもおかしくない危うい均衡の上に成り立っていた。
主人公、|弦太《げんた》は、この霞ヶ崎城に仕えるしがない足軽の子であった。
幼い頃から武士を夢見て育ったが、家は貧しく、弓や槍の稽古はおろか、腹を満たすことすら容易ではなかった。
「なぁ、源爺。俺もいつか、御立派な武士になれましょうか」
弦太は、城下外れの小さな掘立小屋で、昔からの知己である老いた元足軽頭、|源左衛門《げんざえもん》に尋ねた。
源左衛門は、かつては歴戦の勇士であったが、今は戦で負った傷のために杖が手放せず、日々の糧を得るのもやっとの状態だった。
源左衛門は、くすんだ瞳で空を見上げ、深く刻まれた皺をさらに深くして笑った。
「なれようさ。だがな、弦太。武士とは、ただ刀を佩き、威張る者にあらず。
守るべきものの為に、命を擲てる者の儀じゃ」
その言葉が、弦太の胸に深く刻まれた。
季節は冬に移り、北からの冷たい風が吹き荒れるようになった。
その年の冬は特に厳しく、領民たちは飢えと寒さに苦しんでいた。そんな中、ついに事件が起こる。
「申し上げ候!若狭武田勢、国境を破り、攻め寄せ来り候!」
そう使いが申した瞬間、城内に緊張が走った。霞ヶ崎城は兵力で劣り、長くは保たないことは明らかだった。城主は重臣たちを集め、籠城策を決定した。
「弦太、汝は未だ若し。裏山より密かに落ち延びよ」
源左衛門は、そう言って小さな包みを弦太に差し出した。中には握り飯と、錆びついた短い脇差が入っていた。
「爺、何を申す!俺とて戦わん!武士になるのじゃ!」
弦太は叫んだ。しかし、源左衛門は静かに首を振って、答えた。
「生き延びるも武士の務め。この城落つとも、汝が生き残らば、いつか朝倉再興の役に立つやもしれぬ。行け!」
源左衛門の瞳には、かつての勇猛さが戻っていた。
弦太は涙をこらえ、言われた通りに裏山へと駆け出した。背後で、煌々と燃え盛る城と、人々の悲鳴が聞こえた。
城は三日で落ちた。
弦太は山中で身を隠し、夜になってから城下に戻った。そこには、もはや人々の暮らしはなく、焼け落ちた家々と、無残に転がる骸だけがあった。
源左衛門の小屋も跡形もなく、弦太は崩れた土壁の前で膝をついた。その時、瓦礫の中から、錆びついた脇差と同じ鍔が見えた。
それは、源左衛門が肌身離さず持っていた、家宝の刀の残骸だった。
弦太はそれを拾い上げ、強く握りしめた。
「爺……俺は、生きる。そしていつか、必ずこの越前を、人々を守れる男になってみせよう」
空には、冷たく冴えた朧月が浮かんでいた。
その月明かりの下、弦太の瞳には、もう涙はなかった。彼の中で、確かに“武士”の精神が目覚めた瞬間だった。
死ねばいいのに
目が覚めれば、はっきりと頭の中でそこが病院だと理解していた。
いやに白い壁、管で繋がれた自分、青い病院服、見覚えのない心配そうな顔を浮かべた女性。
握った拳と額に浮かぶ青筋が、心配そうな顔と不釣り合いで奇妙で奇妙でしかたがなかった。
「…どちらさまですか?」
そう、ぽつりと呟いた時、彼女を拳を開いてゆっくりと「恋人です」と呟いた。
彼女は|来栖《くるす》 |咲《さき》と名で、私、|佐方《さかた》 |翠《みどり》の恋人だったらしい。
同性で恋人など奇妙なこともあったものだと、私はまるで他人事のように感じた。
彼女、咲は艶めかな黒髪にやや豊満な身体つきをしていて、いかにも私が好きそうだった。
私は頭の中で名前を咀嚼して、この状況について考え、一つの結論を出した。
「つまりは、記憶喪失…ということですか?」
咲は首を縦に振って、私の側の携帯を取ろうと腕を上へあげた瞬間、私は何を思ってか頭を両手で抱えて身体を守ろうとした。
その行動に咲は携帯を取らずに、ただ立ち尽くして、喉から言葉絞り出すように言った。
「ごめん、ごめんね…今度は幸せにするから……」
全くもって、何のことか分からなかった。
---
家で療養という名目で同棲していたらしい家へ帰ると、私は鏡を見た。
鏡にはいやに頬が痩せてボサボサとした黒髪に、顔以外の身体に青痣や切り傷が目立っていた。
咲に記憶喪失の前の行動を問えば、自殺未遂とのことだった。
咲が夕食を作っている間、私は自室でかつての佐方翠が書いたであろう日記を見つけた。
日記の文字はひどく汚く、咲に対する恨みや自殺願望が綴られていた。
そこまで円満な関係でもなく、それでいて元の佐方翠は相当病んでいたらしい。
私は軽く見て、その日記をゴミ箱へ投げ捨てた。
そのゴミ箱に『愛してる』と書かれた手紙がボロボロに切り裂かれた状態で捨てられているのを見つけた。
何も、思わなかった。そのはずだった。
咲に呼ばれて食卓につき、何故か自然と身体が食材の盛られた食器を床に置いて犬のように食べようとした。
瞬間、咲が驚いたような声を挙げた。
「なにしてるの?!」
「…いや……こっちの方が、落ち着く気がして…」
「……す、座って食べてよ…」
確かに、そうだ。いくら落ち着くとはいえ、まるで犬や奴隷のように食べる必要はない。
皿を机に置いて、箸を持って席についた。
いざ食べようとして服の袖から見えた腕に煙草の跡のようなものが残っていた。
咲に「美味しい?」と聞かれても、食事は何の味もしなかった。
きっと、これからもしないだろう。
---
咲が隣で、いやに大人しくベッドの中で眠っている。
すやすやと寝息を立てている彼女にうっすらと嫌気が差した。
私は隣で黙ってそれを見ながら、口から言葉を零した。
「死ねばいいのに」
道化師の契約
何百万と再生された似たような内容ばかりの動画、それについた何万もの高評価とコメント。
どれもこれも、小さな子供が吐くような言葉ばかりが並べたてられ、まるで具材もなく味の薄いスープのような中身のない短文が続いている。
それを大雑把に見ては心の奥底で悪態を吐き、手にしていた携帯の画面から目を離して動画編集を終えたばかりの相方である|興梠《こおろぎ》|博翔《はくと》こと“コータロー”へ僕は口を開いた。
「……なぁ、もう……こんなこと、やめようよ。限界なんだ」
僕がそういうと博翔がこちらへ向いて、僕ののっぺりとして特徴のない平凡顔が彼の瞳に映し出された。
|小澤《おざわ》|響《ひびき》、“コータロー”の親友役の“ましゅ”を演じている僕だ。
元々、僕達は仲の良い親友で、ある日を境に博翔と僕は動画投稿をするようになった。その時は、“コータロー”も“ましゅ”も存在しなかった。
始めたばかりは本当に楽しくて、仲の良い友人で楽しく遊ぶ様子を投稿していたけれど、やっぱり伸びることはなかった。再生数もコメントも、ニ桁いったら良い方で高評価なんて一つか二つぐらいだった。
けれど、数年前に博翔が余興として可愛らしいキャラクターがゲームを遊ぶ、所謂なりきり動画を投稿した。それが大きく拍車をかけ、あっという間に僕達のチャンネルの人気第一位を掻っ攫っていった。要は、これがウケたのだ。
そうしてみると簡単に評価は得られるようになった。僕達は言われるがままにそういったものを増やしていき、黄色いパーカーが特徴的な抜けているキャラの“コータロー”と白いパーカーが特徴的な賢くてクールなキャラの“ましゅ”というキャラクターがこのチャンネルの目玉になった。
今でこそ1000万人を突破したチャンネル登録者数と、大手有名事務所への所属、海外進出……それが人気というの地獄の始まりだった。
僕は更に口を開いた。きっと、今日もうまくいかない。
「ねぇ、博翔も分かってるでしょ…前より楽しくなくなったって。なんだか事務的で、やりがいが見えないって」
博翔は黙ったまま、何も言わない。僕は更に続ける。
「それに、さ…僕達、もう27歳だよ。お互いに恋人とかいないし、住居も未だに一緒だし…そろそろ、YouTuber以外の普通の仕事をしないと」
博翔の口がややへの字に曲がり、指が机を叩く。明らかに苛立っている。僕は今か今かと怖気づきながら、言葉をできるかぎり刺激しないように綴っていった。
「だから……辞めよう、こんなこと。こんな歳になってまだおままごとの延長線みたいなこと続けるなんて無理だ。
僕、もう辞めたいんだ。だから博翔、チャンネルを畳もうよ」
できるかぎり諭すような言葉を選んでいたつもりだった。つもり、だった。
博翔は言葉を返すことはなかった。代わりに飛んできたのは頬への強い衝撃だった。僕は体制が崩れたと同時に、呆気にとられて、雪がしんしんと降る窓に頬が赤く腫れた僕の顔が映っているのを見た。
博翔はようやく口を開いて、尻もちをついている僕を見下ろして一言だけ呟いた。
「嫌なら出ていけばいいだろ。お前なんかいなくても、代わりはいくらでもいるんだ」
そう言われた言葉が、かつての僕達の関係がとうの昔になくなっていたように感じた。
その時、博翔が編集に使うパソコンに僕達と同じようなスタイルでやっているYouTuberからの連絡があった。
もう僕達は親友ではなく、単なるビジネスパートナーに過ぎなかった。
僕達は既に、魂を売っていた。
蝸牛の夜想曲
キーボードを打つ指先が断片的な曲を刻みつつ、目の前の白く光るキャンバスを黒い文字で汚していった。
水面のように揺れ動かない心情は、とうの昔に冷え切っていて仕事にばかり行動を起こしていた。
そんな僕の背中に、誰かが叫び散らかすような怒号が届いた。
「今月で何回、言ってると思うんですか?!
期限までにものを作ることさえできないなんて、どれだけ愚図なんです?!
こんなの、入社したての新人にだってできることでしょう?!」
社内一のお局様が早朝の鶏のように叫んでいた。怒り心頭なお局様の正面にきっちりとスーツを着た中年の男性である|藤木《ふじき》|奏《かなで》が年甲斐もなく「申し訳ありません」と平謝りしている。
見慣れた光景に僕は黙って、吹き荒らす嵐が消え失せるのをデスクに齧りつく他の社員と同様に待ち続けた。
藤木奏は所謂、企業の氷河期を過ごした中年男性で最近になって転職し、僕のような春からの新人である新卒と一緒になってこの会社に雇用された。企業説明会で僕らと席につく彼が異様だったのは言うまでもない。
そうして、しばらく耳障りな曲と断片的な曲が同時に演奏され、職場の雰囲気はひどくピリついていた。
雨音が踊り、アスファルトの地面を叩いて夜想曲は愚鈍にも流れ出す。
職場の窓にはもう明は灯っていない。差したビニールの雨傘を開いて、靴底が散った雨粒に触れた。
夜を食む
広く感じる部屋の中で、惣菜パンの包装袋が擦れ合って空虚な音を立てる。
窓からは寂しい夕陽が差し込み、夜はまだ明けることはない。
小さな椅子に座って、柔らかいパンを咀嚼し続けながら目に入る一枚の紙が憎たらしい。
小さなメモ用紙のような紙には『お母さんは今日も帰れません。|翠《みどり》はいい子だからお家をよろしくね』と少し拙い文字で書かれていた。
いつもそうだ。いつも私を残して夜の街へ出かけていくのだ。夜職というものだと、たまにお金を置いていく男の人に聞いたことがある。
それがなんであれ、私には関係がない。
一人は楽だけど、独りは寂しい。
夜はまだ明けることはない。
少なくとも、今は。
Dream Core
※実話
夢を見たんだ。
最初は何の変哲もない学生生活で、バスに乗って県外にいって、唐突に学校へ帰ってくる。
下校しようとして、“私”は普段と違う道で帰ろうとしたらしく、知らない下級生の三人についていって辺りが夕焼けになって、真っ暗になっても下級生の家にはつかないし、“私”は引き返して家に帰ろうともしない。
そのまま真っ暗な山道に出て、ようやく下級生と“私”は恐怖に苛まれて山道の中で一斉に帰ろうとする。
自転車を乗った下級生に、ただ走るだけの“私”。それでも自転車を追い抜くほど足は動いた。
何故か山道から高速道路に出て、隣で三人の下級生が自転車に乗って高速道路を走る。
そして、対向車線の車に勢いよく轢かれる。車は止まる。けど、下級生は何事もなく先を走っていた。高速道路には赤い跡がついたままだった。
“私”は下級生が無事なことに安堵して、再度山道に入った道を下っていった。
やがて、“私”と下級生の三人はバスの中で山道を下っていた。何故か、とてつもない安心感があった。
順調に帰ってこれたのだと、朝日の登った町並みが見えた。
途中でバスが止まり、運転手が「ここで私も降りて、友人五人を残したんです。行け、と言われて行きましたが、きっと恨んでいるのでしょうね」と運転手が昔話をし始めた。
“私”は恐怖で溜まらなくなったと同時に、何故か違和感が渦巻いた。
バスは霧に包まれ、遠くの方に黒髪に黒い学生服の青年、五人が手を振って何かを叫んでいた。
顔は見えなかったが、下級生の一人が「あれって、話の五人じゃないですか?」と意味の分からないことをいい出した。
“私”はそれをそんなことがない、だって死んでいるはずだと必至に否定していた。
やがて、充電が1%しかない携帯から着信音が鳴って「通報しました、今どこにいるの?」という言葉が聞こえ続けた。携帯の充電がなくなっても聞こえ続けた。
それでも“私”は、その声に助けを縋っていた。
そして、目が覚めて見ていた夢の間で感じていた違和感が明確になり、夢だったのだと気づいた。
そう、ただの夢。
レンガの輪
※本文には一部の方を批判するような意図はありません。
また、本文中の言葉において不快になられる可能性もありますので、不快と感じた場合にはご自分で引き返していただけると幸いです。
何事にも自己責任でお願い致します。
(尚、本作品はLGBTQ+テーマ)+ハッピーエンド
皆が一斉になって顔を上げ下げして、板書をノートに書き取っていく。
僕はただ呆然と板書を叩きながら口を開く教師を見続け、話に耳を傾けようともしなかった。
板書には“LGBTQ+”とお節介なことに丁寧な文字で解説が綴られていた。
つくづく、生きづらい世の中になったものだと若くながらそう思う。過去は出る杭は打たれていたが、今となっては出る前の杭すらも打って出ようとさせないのだ。
“ジェンダー平等”、“貧困層と富裕層”、“少子高齢化”、“気候変動・環境問題”、“紛争・難民問題”、“健康・衛生問題”…やることは山積みだ。
子供が永遠に解けない課題を与えられたように、気が遠くなる。
どの課題も、誰かが大きな声で主張しなければ問題になんてならなかった。
誰かが気づかなければ、問題になんてならなかった。
世間というのはそういうものだ。光り輝いたものにしか目を通さないのだ。
教師の口が止まり、一人の生徒に言葉を催促する。生徒はよく通る声で、しっかりと発言した。
「結局、“LGBTQ+”ってそういう変な奴らの話なんですか?」
…人というのは、自分と全く違う生命体や思考を見ると批判的な感情を抱くものだ。
教師は少し考えて、「グループ」を作るように指示をする。生徒の言葉を課題になって作られたグループの中で皆、口々に発言していく。
「“ゲイ”と“ホモ”って何が違うの?一緒だろ?」
「正直、頭おかしいよね。生き辛そうだし」
「…………」
誰かが話し、誰かが黙る。
“レズビアン”だって、“ホモセクシャル”だって、似たようなものだ。違うのは対象であって、別に他者と変わらない。可哀想でもないし、可笑しくもないし、羨ましくもないし、気持ち悪くもない。
そういう言葉があるから、格差だ差別だと騒ぐような輩がいるのだ。
全て同じなら何も言われなかっただろう。
何事にも偏見のレンガが積まれ、完成した丈夫な偏見の家が拠点となって伝染していく。
ある意味、洗脳と変わりない。
口々に批判的意見を言い合う生徒の二人に黙っていた生徒がようやく口を開いた。それは僕が今まさに求めていたものだった。
「…なん、で、そう…思うの?二つは一緒じゃないし、生き辛くもないし…」
二人の生徒がその生徒を見て、少し笑った後に理由を述べる。どれもこれも想定通りだ。
「だって、どっちも似たようなもんじゃん。“ドウセイアイシャ”ってやつだろ?」
「皆がよく思ってないような人達なんでしょ?それもぱっと出の。
女の子が女の子を好きとか、男の子が男の子を好きとか…意味分かんないし、色々と気持ち悪いし、絶対生き辛いよ」
発言した生徒がそれに少し考えて更に異論を述べていった。
「…違うよ。同性愛者っていう括りは確かに同じかもしれないけど…その中で皆が勝手に想像してるような“可笑しい人”じゃない。
二つの違いが分からないって言うけど、それ以前に僕らと同じ、普通の人間なんだよ」
更に続けて、口を開き、同意を求めるように訴えかけた。
「皆がよく思ってないっていうけど、その皆って君が知ってる皆でしょ。勝手に決めつけて嫌がって、生き辛くしてるのはどっちだよ」
少し震えたような声で蚊が耳元で鳴いているようだった。そうして、崩れかけたレンガの上で生徒がこちらを見た。
「君はどっちなの?」
綺麗事の墓場
※閲覧の際は自己責任でお願いします。
また、読了後に不快な思いをされたとしても、一切の責任を負いません。
本文の内容はフィクションです。
白く輝く携帯の画面に、文字列だけが並べられた小説投稿サイトが開かれていた。
サイトの中には数名のアカウントが記載されたページが開かれ、『|Surface Only《サーフェス・オンリー》』こと、『サーオン』の愛称を持つネットグループのアカウントページがあり、その横のコメント欄には何も書かれていない。
アカウントには自己紹介の文面のブログ一個と、メンバー同士の会議部屋があるだけだった。
会議部屋には各々意見を言っているものの、それがまとまった様子はなく「事務所を立ち上げる」やら「誰かとコラボしたい」やら「別サイトで有名になりたい」と一貫性のない言葉ばかりが並べたてられ、誰か一人が口にするだけで行動こそを起こしたような形跡は見られなかった。
そのくだらない子供のおままごとのようなページを閉じ、メンバーの中の『Kira』とアカウント名のページを開く。
適当な綺麗事を述べた賛辞から始まり、空白多用の自己紹介。更に下には『作曲』と書かれた下手くそな詩が掲載されていた。
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曲名:キミと描く、終わらない未来(あす)へ
(Intro)
Wow...
一歩ずつ、僕らのペースで。
世界はもっと、優しくなれるはずだから。
(Verse 1)
画面越しに届く 誰かのため息さえ
僕らなら 輝くメロディに変えていける
「普通」なんて言葉の 枠に閉じ込めないで
キミはキミのままでいい 唯一無二の光なんだ
(Pre-Chorus)
見上げた空は どこまでも繋がっているから
一人じゃないってこと 忘れないでいて
涙の数だけ 強くなれるなんて
綺麗事に見えるけど 信じてみたいんだ
(Chorus)
届け! 100万回の「ありがとう」
僕らが繋いだ絆は 決して解けやしないから
どんな暗闇(よる)も キミの笑顔が僕の道標
夢見る力は 無限大のパレット
描こう 誰も見たことのない最高の未来(あす)を
(Bridge)
誹謗中傷(コトバ)の雨に 傘を差すのは僕らの愛
否定される痛みも 分かち合えば勇気になる
綺麗事と言われたって 貫き通せば真実(ホンモノ)になる
僕らの物語(ストーリー)は まだ始まったばかり
(Outro)
キミに出会えてよかった
この奇跡を ずっと守り続けたい
さあ、手を取り合って。
どこまでも、行こう。
Wow...
キミが、大好きだよ。
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作詞と書かれただけの詩。それも下手くそで、よくある言葉を並べただけの中身のない人を励ますだけのくだらない詩。
作詞といっておきながら、音が流れるわけでもない詩。
思わず、口角が大きく歪んだ。
誰かを励ます言葉なんて誰でも書けるのだ。しかし、誰かの意表を突く言葉は少しばかり工夫が必要だ。
こんなくだらないものに時間を浪費したなど、なんて馬鹿馬鹿しいものだろう。
そうして見たページの中にふと、ブログに『活動休止』と明記された。更に他のアカウントにも『活動休止』と書かれていた。
ああ、本当に馬鹿馬鹿しい。
結局、時間の無駄でしかなかったのだ。
はぐれ鳥
くしゃくしゃになった白紙だけが、目の前に転がっていた。
顔を照らす夕焼けはひどく熱く、暗さを増して光が見えない。震えた筆先はインクを滴らせて滲むばかりだった。
滲んだインクは真新しい白紙に落ちて、ゆっくりと馴染み、人の造形を得る。それは、まさしく自分自身だった。絵となり文字となった自分が黒に染まった指をこちらに向けて言葉を脳から絞り出そうとしている。
しかし、白紙の頭で未だに黒く染まらない脳に文字を求めるなど、はじめから無理な話なのだ。
募る焦燥感と、狼狽する猶予の無さ。折れかけている筆を持った指先は言うことを聞かず、心臓の音だけが耳に響いていた。
今も尚、突き刺してくる指は頭に突きつけられたまま、時間だけが無意味に過ぎていく。何も、間違えたわけではない。
ただ、夕焼けが完全に沈みきり、また陽の目を見るのがもう叶わないことが怖いのだ。
書くだけなら簡単だった。書き続けるのは困難だった。
書けなくなって真っ白になり、恐怖ばかりが脳へ足枷を取りつけたそれがひどく恐ろしい。
華々しく開花した花さえも、いつかは枯れていくのを待つのみばかりである。
そうして、この真新しい白紙に滴るインクも、いつ乾くのだろうか。
その時、私の筆は今も濡れているのだろうか。
酸いも甘いも溶けてゆく
麗らかな春光が差すレトロな店内に、春愁だけが空っぽになったお皿の上で渦巻いていた。
渦巻き続けるそれから逃げるようにメニュー表を開き、大きめの苺が乗り、周りに柔らかなホイップが包む小さなパフェが変わるようにして視界へ入る。一目見て、欲しいと感じたものを白く細い指で撫で、店員を呼ぶ為の呼び鈴に手を重ねようとした瞬間、どこか聞き覚えのある声が耳へ響く。
私はそれに胸が高鳴るような、全身の毛穴がいきり立つようなものを感じた。
「…ごめん、待った?」
慌ててメニュー表を閉じ、振り向いてやや遅れた彼女をその瞳に焼きつけた。
「いや、全然!電車とか混んでたの?」
「うん……何か食べた?」
「あー…フルーツトマトの、冷麺パスタ…かな」
「美味しそう!私もそれ、頼んでいい?」
「いいよ、とっても美味しかった」
私のその言葉に彼女は穏やかな聖母のような微笑みを見せ、艷やかな黒髪の間の心を射抜くような瞳で私を差した。
その瞳に、ふわふわとした卵のオムライスや私も彼女も大好きなハンバーグが映る度に、そこに私がいないことに薄く霧がかかったような感覚に襲われた。
やがて、彼女は顔をあげて呼び鈴に手を伸ばした。
仄かな甘さと酸っぱさが口の中で手を取り、踊り続けている。
それが心の奥底で、嗤っているような気がしてなんとも腹立たしかった。
ふと、彼女がパスタを口に運ぶ手を止めて、私の方を見た。
「話って、なに?」
その興味を持つ可愛らしい猫の姿に、私は自然と口角が歪むようなものをなんとか堪えた。
こちらをしかと見る瞳。待ち望み続けたそれが手に入りそうだと言うのに、ほんの少しの羞恥心と恐怖に声が支配されそうになる。それすらも私は捻じ伏せるように、言葉をはっきりと絞り出した。
「…同性で、こんなことを言うのは…嫌だと感じるかもしれないんだけど……」
そのまま、言葉を紡ぐつもりだった。
しかし、それは彼女の手によって塞がれ、私は瞼で何回も同じ動作を繰り返した。
彼女はやや顔を俯かせ、耳まで赤らめて、ようやく言葉を小さな口から流した。
「…やだ」
その絞り出された言葉に私は目を見開いた。
まるで、立派に築かれた建物がボロボロと崩れていくような喪失感と深い絶望に苛まれていくようだった。
もう既に口の中に甘さは奥へ奥へと逃げ込んでしまっていた。
「やだって、それって…!」
「ち、違うの、そういう…ことじゃなくて……“はじめから”は私が言いたいの」
その言葉を聞いた瞬間、私の口の中で逃げ込んだ甘さは再度、ゆっくりと味わいを取り戻した。
今は、この目の前の恋人が愛しくて、愛しくて堪らなかった。
輝かしい罪は床に落ちる
_黄道宮晩餐会前夜譚、太陽は自らを照らしすぎた。
宇宙に浮かぶ十二星座達が住まう“黄道宮”にて、晩餐会の準備が迫っていた。
その日の料理当番であった眼鏡をかけ、清楚な修道服に身を纏った潔癖症で完璧主義な司書、|乙女座《おとめざ》は自らが浮遊させている魔導書を携え、傲慢な王様である|獅子座《ししざ》の自室へ足を向かった先、奇妙なものを目が乙女座の目を見張った。
自室の玉座で《《あまりにも神々しく発光した状態》》で固まっている金髪の長髪に赤いマントを羽織り、太陽のように輝く大剣を携えた男、獅子座が死んではいないものの極度の昏睡状態に陥っている。しかし、あまりに剣が発光しているため、本体がどこにあるのか一見、理解不能だった。
だが、乙女座が目を引いたのはそこではなく、机の上の獅子座の食べ残しや本が気になり、彼女はすぐさま言い放った。
「こんな…こんな……こんな、汚らしい殺害現場(仮)があるなんて、溜まったものじゃありません!」
そう言い放つと、浮遊する魔導書を総動員して現場を高速で大掃除してしまった。
指紋、足跡、凶器に至るまで、文字通り塵一つ残さず消し去って、彼女はそれが終わってスッキリした後にはたと気づいた。
冷えた彼女の頭はすぐに、他の星座達を呼ぶように動かしていた。
その部屋の中で、異様なまでに輝く床だけが冷えた彼女の頭の瞳には映さなかった。
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「ええっとぉ…つまりは…乙女座ちゃんが犯人ってわけ?」
「なんでそうなるんですか?!」
「だぁって…乙女座ちゃんが悪いでしょ、こんなのさぁ」
呑気に弓の手入れをしつつ笑う、藁布に身を包む狩人、|射手座《いてざ》が乙女座にそう伝えた。乙女座は顔を真っ赤にして否定するが、射手座は「はいはい」と返事をするだけだった。
怒り心頭な乙女座を相手する射手座を見てふと、橙色の髪に白いドレスに硬質なマントを着込んだ|蟹座《かにざ》が口を開いた。
「困ったわね…ところで、獅子座は死んでるの?」
それに、シルクハットに燕尾服を着て片手に秤、もう片手に細剣を弄ぶ|天秤座《てんびんざ》が答えた。
「いいや、確認したところ気絶しているだけのようだ」
天秤座のその答えに隣でふわふわとした白い首周りの黒い法衣を纏い、長い角が特徴的な|山羊座《やぎざ》が舌打ちをかました。
「死んでりゃよかったのにな、この裸の王様は」
「そう言うな、山羊座。いくら獅子座をお前が嫌ってるとしても言う必要はないだろ」
「馬鹿、こういう偽王にははっきり言わなきゃ分からねぇんだよ」
山羊座がここぞとばかり愚痴を弄しながら垂れ続ける最中、光球を持ち浮遊してローブに身を包む二人で一人と呈する|双子座《ふたござ》が交互に言葉を転がした。
「やっぱり死んでるんじゃないの〜?」
「誰かに殺されたんじゃないの〜?」
にやにやと笑みを浮かべて乙女座を見て、必死に首を横に振る乙女座を双子座がつつく。
「だって、獅子座って〜」
「超うるさかったでしょ〜」
お互いに愚痴を呈する双子座に毒針のように長いポニーテールをした|蠍座《さそりざ》がため息をつき、横で鱗のような装飾の衣装の踊り子のような姿をした|魚座《うおざ》がくすりと微笑んだ。
その中でただ一人、苛立ったように地団駄を踏み、赤い短髪と大きな角のついた重装甲が特徴的な|牡羊座《おひつじざ》が吠えた。
「ええい、まどろっこしい!証拠がないなら、全員ぶん殴って吐かせればいいんだろ!」
その直後、牡羊座の手に大きな槍が現れ、思いっきり槍をぶん回す。
それは蠍座の髪を撫で、魚座の腹を突き損ね、それぞれの星座達を一角の隅へ追いやった。
「落ち着け、牡羊座!ぶん殴ったところで、誰かが情報を吐く見通しもないだろ!」
そう天秤座が牡羊座に向かって言葉を投げ、蠍座が「……突進するしか脳のない羊に言っても分かるのだろうか」と呟いた。
蠍座の言葉に魚座が「天秤座なりの審判ですから」と返すが、耳に通すものはいなかった。
牡羊座の槍は更に動きを増し、部屋の中のものがぐちゃぐちゃになりかけた瞬間に乙女座の怒号が木霊し、牡羊座の動きが止まった直後に豊満な体格をエプロンドレスで包んだ|雌牛座《めうしざ》が手にステーキの盛られた皿を持ったまま部屋の中へ入り込んだ。
「あら……あら、あら、あら……なぁに〜?……お話、聞かせてもらえるかしら?」
---
「その……かくかくしかじかで…獅子座がこんな状態でな…」
ステーキを頬張りつつある雌牛座に天秤座がそう説明し、山羊座が「かくかくしかじかってなんだよ、伝わるわけねぇだろ」と言葉を添えるも、雌牛座の返答はしっかりとしていた。
「なるほど、なるほど……かくかくしかじかで獅子座が死んでるかも死んでないかも分かりにくい発光体になっちゃったのね〜。
これが本当のお星さまってやつね、すごいわ〜……」
「なんで分かるんだよ?!」
山羊座の吠えに天秤座が「ご都合主義というものだ」と返し、射手座と双子座が笑いを噛み殺す。
その会話の中で乙女座の頬を突きつつ、双子座が口を開いた。
「犯人は……赤い服を着て、角が生えている!」
「それは牡羊座か山羊座か、それとも雌牛座か、あるいはただの牛かもね!」
蟹座がその言葉に顔を顰め、山羊座が双子座に拳骨をするような真似をする。双子座が「こわ〜い!」、「最低〜!」と笑い続ける中、雌牛座は話が長くなりそうだと感じたのか横で携帯用コンロを取り出して、蠍座から貰ったもう一つのステーキを焼き始める。
魚座が「いい匂い」と呟き、部屋の中は腹が空きそうな匂いで充満されていた。
匂いが部屋を埋め尽くす中、廊下からドタドタと走り回る音が聞こえ、綺麗に輝く薬品が付着したゴーグルに実験着を着て、大きな水瓶を手にした|水瓶座《みずがめざ》が部屋に飛び入ってきていた。
「皆、見てくれ!良い成果が出たぞォ!」
そう言い切った水瓶座に射手座が「どんなもの?」と問い、「コーティング剤だ!」と意気揚々として水瓶座が答える。
山羊座が天秤座を見ると、いやに笑いを浮かべた顔をしており、山羊座がうっすらと微笑んだ。
「星々の審判星様よ、分かったか?」
「ああ」
山羊座が「そうこなくちゃ」と肩を叩き、頭に何も浮かぶことができていなさそうな乙女座を見た。それに誘われるように、全員が天秤座に顔を向かせた。
すぐに、天秤座は口を開き、奥に水瓶座を映す。
「乙女座、君は完璧に掃除したと言ったな?……だが、あそこだけ光りすぎているようだ」
そして、唇は閉じることなく言葉を紡いだ。
「あそこの床だけ、異様に綺麗……いや、輝き過ぎてはいないだろうか?いくらなんでも乙女座が掃除したとはいえ、まるで新品同様に輝くとは私は思わないのだよ」
天秤座が指したのは床の一部分がキラキラと輝くタイル。その横には獅子座の身体に埋まる剣が輝いている。
更に、天秤座は言葉を続ける。
「仮に、獅子座の発光が剣によるものだとすれば……剣は手入れなどが原因で発光していることになるだろう。
それを決定付けるのは、獅子座の不器用さだ。彼自らが剣を手入れをして……ああいった形で発光させた過程で、床に《《コーティング剤》》のようなものが付着したとするなら、説明はつくだろう?」
そこで、天秤座は話に区切りを置き、牡羊座が急かすように言葉を口にする。
「獅子座が剣の手入れに使ったコーティング剤は一体誰が作ったんだ?」
「それはもう出てるだろ、牡羊座」
「……はぁ?言わなきゃ分からねーんだよ、天秤座!いいから教えろよ!」
頭に筋を立てる牡羊座を宥めつつ、天秤座は次の言葉を口にした。
「結論から言うなら、コーティング剤を作ったのは水瓶座だ。乙女座がどれだけ磨いても消すことができなかった異常な輝きを放つのが、水瓶座がさっき口にしたコーティング剤の一つであり、それがゴーグルにもあることでそれが全く同じ化学反応だと物語っている。そうだろう、水瓶座?」
「……その通りだよ。獅子座ができたばかりのコーティング剤を剣の手入れに使いたいと言ったから、貸したが……当の本人が輝きで気絶するとは……」
「……即死効果はない、と?」
「当たり前だろ」
「……そうか。残念だったな、山羊座」
水瓶座との話を終え、天秤座は山羊座に振り向いて笑った。山羊座は額に手を置き、ため息をついた直後に「残念でもない」と呟いた。
その瞬間に獅子座が飛び起き、近くにいた雌牛座が笑った。
「__ま、眩しいっ!!我の輝きが……我自身の放つ神々しさが、ついに視界を焼き尽くす域に達したというのか!?」
獅子座が、開口一番にそう叫んだ。あまりの眩しさに自分の手で目を覆っているが、皮肉なことに指にも付着していたコーティング剤の影響でビカビカに発光していた。
「……黙れ。起きたのならさっさとその発光を止めろ、この“自称”太陽」
山羊座が冷たく言い放つが、獅子座は高笑いを上げながら玉座から立ち上がり、高らかに吠える。
「フハハハ!山羊座よ、嫉妬は見苦しいぞ!見ろ、この水瓶座特製の液を塗布した我が大剣の輝きを!これぞ王者の風格……あ、熱っ!? なんだ、急に温度が上がって……」
「それはコーティング剤の化学反応による発熱…及び、私が今そこで焼いているサーロインの熱気よ〜」
雌牛座が上品に微笑みながら、じゅうじゅうと音を立てるステーキをひっくり返す。
その最中、恐る恐る、しかし鋭い眼光を眼鏡の奥に光らせて、乙女座が歩み寄った。
「……あ、あの、獅子座さん……」
その手には、魔導書ではなく、『掃除用洗剤(強力)』と書かれたボトルが握られていた。
「獅子座さん……貴方の不注意で床にこぼれた謎の液体を落とすために、私がどれだけの魔力と拭き掃除の労力を費やしたか……分かっておいでですか? 晩餐会前の神聖な時間に、私の完璧なスケジュールを汚したのは、他ならぬ貴方です」
「お、おい、乙女座……そのボトルから漏れ出ている魔力が尋常ではないのだが……本当に洗剤なのか……?」
後退りする獅子座を、射手座が「逃がさないよ〜」と弓の柄で通せんぼする。
「まあまあ、乙女座ちゃん。犯人は獅子座の“うっかり”ってことで解決したんだし……ね?」
双子座の二人がクスクスと笑いながら、獅子座の背中を交互に突っつく。
「自業自得だね〜」
「自業自得だね〜」
天秤座は細剣を収め、やれやれと肩をすくめた。
「さて、原因も判明し、被害者も息災だ。牡羊座、振り回した槍を収めろ。これ以上部屋を散らかすと、今度こそ乙女座に消されるぞ」
「ちぇっ……掃除の邪魔をしたってんなら、俺も同罪かよ。面白くねえ」
牡羊座が鼻を鳴らして槍を消すと、ようやく部屋に静寂とステーキの芳醇な香りが戻り、和やかな雰囲気に包まれる。
「……ところで」
蟹座が、自分のポニーテールを弄りながら獅子座を冷ややかに一瞥した。
「その眩しすぎる剣をどうにかしない限り、晩餐会のテーブルについても、誰も貴方の顔を見ることさえできないのだけれど? 物理的に」
「な、何だと……!?我の顔が見えぬというのか!それは王の威厳に関わる大問題ではないか!」
獅子座が狼狽え、水瓶座の白衣を掴んで揺さぶった。
「水瓶座!今すぐこの輝きを抑える中和剤を出せ!」
「無理だ。それは『持続性』が売りだからな……あと三日は消えないぞ」
「三日だと!?」
絶望する獅子座の傍らで、魚座がふんわりと微笑みながら言った。
「ふふ、まるで大きなランタンね。今日の晩餐会は、照明係がいらなくて助かるわ」
「我を道具扱いするな!」
こうして、黄道宮の騒がしい一幕は幕を閉じ、完璧主義な司書による完全犯罪(掃除)の証拠隠滅も、天秤の審判によって呆気なく暴かれたが、結局のところ、一番の被害者は自らの虚栄心で視界を失いかけた王様に過ぎなかった。
独りぼっち
色なんてなかった。汚い色で固めた嘘ばっかりで、はじめから真実なんかじゃなかった。
ただ、都合の良い誰かの言葉を絆創膏にして、心の中から漏れ出た承認欲求を隠すみたいにして自己肯定感の絆創膏を貼りつけまくって、誰かが手を差し伸べるのを見ていた。
指を咥えてみているだけで、自分は何もしようとしなかった。
波が動くみたいに揺れるものを流行だって決めつけて、承認の受け皿にした。
そうして、役者を演じるみたいに「誰か」を作って「誰か」を演じた。
それはとても上手くいっていたと思う。でも、誰かは分かっていたんだと思う。
それが全部同じで、自分だって。それでも良かった。
色々混ぜて汚れた絵の具に浸かって、口先だけの「大好き」「愛してる」「大丈夫」「死なないで」「生きてほしい」の言葉を浴びまくった。
その瞬間だけは、確かに満たされていたけれど、もっと、もっと欲しくなって、いつからか彩りは一色にしかならなかった。
同じ言葉、同じ文面、同じ文章。形が違うだけで、皆が一緒だった。
だから、少しでももっと得るために気を引くような言葉を使って、器を満たし続けた。
誰かにとっては日常だったし、誰かにとっては非日常だった。
今までも、これからも、そうしていくと思う。
パブロフの勇者
かつて、世界は魔王と呼ばれる魔物の長が支配を目論んでいた。
それを食い止めるために女神は勇者を選ぶ祝福の光で“勇者”を照らし、魔王を討伐する使命を授けたという。
そんな書物を読んだ老けもしない手でぱたりと書物を閉じ、焚き火の前で見張り番をしている片目だけが真っ黒に染まった“預言者”に声をかけた。
「これ、いつから読まれてるんだ?」
「魔王が初めて出た時から始まったんだよ」
「それって、いつ?」
「……百年以上前だろうな」
預言者の名前は“アリア”と言い、その勇者に選ばれた俺を守るためにこうして今も旅を続けている。
焚き火に照らされたアリアの顔の後ろから、影よりも濃い暗黒の召喚獣がひょっこりと顔を出す。“アビス”という名前の闇属性の奇妙な形をしている召喚獣だった。
「アリア、火が小さくなっている」
「ああ、悪い……ありがとな、アビス」
アリアが焚き火に薪をつぎ、再度、俺を見て「もう寝ろ、|勇者《カイル》」と呟いた。
アリアに言われるがままテントに入り、ごつごつとした床に腰を降ろす。
あの預言者、アリアに出会ったのは特徴もない平凡な村だった。変わり映えもない日に祝福の光が降り注ぎ、突如として俺を勇者だと皆が認め始めた。その頃の俺は勇者なんてものになれるほど勇気なんてなかったし、たった一人で村を出されて魔物なんてものに剣一本で挑まされた。
足が、がくがくと震えて呼吸も乱れていたあの日を簡単に思い起こすことができるほど今でも恐怖が渦巻いている。それでも、今もこうして立っているのは死にそうになった途端にアリアが不意に現れたからだ。
アビスを肩に置いたまま腕を剣のようにして魔物を薙ぎ払って、俺に手を差し伸べた。
アリアはその時から、俺の“たった一人の勇者”だった。
魔王を倒して、勇者としての役目を終えた今の俺だけの勇者だ。
身体が眠気に襲われ、一枚の毛布に沈んでいく。どこか心地良いような懐かしさを覚えながら、意識を手放して呑まれていった。
火が消えるさまを見つつ、アリアの古傷だらけの手に視線が動く。
アビスは尚もアリアの周りをくるくると動いては口も動きを見せている。俺は、少し軽く感じ始めた剣を振り続けていた。
しばらくして、アリアが出発の準備を始め、俺も手を動かしていく最中に一言だけアビスが呟いた。
「カイルはよくやったな」
それに俺は「何を?」と返し、アビスに言葉を促した。
「魔王だ。お前は勇者としての使命を成し遂げた」
「……しょうがないだろ、勇者なんだから」
「それが別れの種にもなるということを忘れていないか?」
「だから、しょうがないじゃないか」
一体、何なんだ。何が言いたいんだ。
「お前も一緒に来ないか?」
俺も一緒に?何に?誰と?
「カイル、もうお前は勇者じゃない。“元勇者”なんだ」
元?
「どうして我らが勇者を導くのか、不思議に思ったことはないか?」
「……そんなの、“預言者”だからだろ」
「残念ながら書物にはそんなことは書かれていない。最も、お前が読んだのが、ごく一部であるから分かるはずがないのは分かっているが」
「結局、何が言いたいんだ。何で俺についてきた?何で俺を守ってきた?」
アビスは俺の言葉にため息をついて、いつの間にか手を止めていたアリアに話すように声をかけた。アリアは少しだけ止まって、首を縦に振って口を開く。
「カイル、俺は……いや、こんなことを急に言ってもしょうがないだろうけど……俺は、初代なんだよ」
「……何の?」
「勇者、の初代だ」
「百年以上も経ってるのに?」
「分かってる、でも聞いてくれ。本当に俺は初代の勇者なんだ」
「……勇者は、普通の人間だったはずだ」
「ああ、普通の人間だったさ。急に祝福の光なんてものに照らされて剣もまともに握れない臆病で、寂しがりで、どうしようもない人間だった」
「それが?書物で語り継がれるくらい立派な人間になったじゃないか」
「空想のお話なんて、誰にだって書ける。カイル、その勇者じゃなくて……」
「……もういい、もう分からない。アリア、一体何が言いたいんだ?勇者は一人だし、百年以上も生きるような超人なんかじゃないだろ。
ただ、女神なんてものに勝手に使命を与えられて魔王討伐って名前のついた人殺しをするだけだ」
そう俺は言い捨てて、まとめられた鞄を背負う。
頭の中に蛆でも這っているような嫌悪感と、ぐしゃぐしゃに砕かれていく何かが渦巻き始めていた。
こんなことなら、魔王なんて倒すんじゃなかった。こんなことなら、アリアに助けられるんじゃなかった。
こんなことなら、勇者でも何でもない平民であるべきだった。
---
「……今度の勇者もダメだったな」
「一人くらい、分かってくれればいいのに」
焦げた臭いだけが鼻腔を燻っている。それが、ひどく苦々しい。
俺は、確かに初代の勇者だった。でも、それは不老不死の|祝福《呪い》を同時に与えられただけの単なる導き手に過ぎなかった。
アビスも、もちろん呪いの相手だ。やりたくもない魔王を背負って勇者と魔王の対立を演じた。お互いに、いやいやながら勇者と魔王をやっていた。
他人に支えられて必死になって理想の勇者を形作って、いざ初代の魔王だったアビスに対峙した時、似ているなと思ってしまった。剣を収めて、お互いに瀕死の状態で下した決断は両方とも、「一緒に逃げないか」という奇妙で使命も忘れたようなものだった。
俺達は勇者と魔王でありながら、逃避を選択した。
そうしたら、俺らのことなんて女神はどうでもよくなったのか、次の勇者と次の魔王を選び、生み出した。
これでは女神のお人形劇に過ぎない。
「アリア、次の勇者はどんな奴だろうな」
昔と違って小さくなったアビスがそう耳元で聞く。
俺はまるで友人と話すように頬を緩ませて、曖昧な返事をした。
次の勇者が、どうか新たな魔王を殺しませんように。
次の勇者が、どうか俺達の逃避旅についてきてくれますように。
活動報告:第427次地上侵攻
「……なんだ、これは」
薄暗い司令部の一室の中、机に叩きつけられたその報告書を読み終えた若き騎士団長は、絞り出すような声を漏らした。
改行すら拒むほどに密に綴られた邪悪な文面は、彼の故郷である都市エルドリアが、目に見えぬ絶望によって内部から腐り始めていることを淡々と告げていた。
<闇の活動報告書/報告日時:永劫225年1月31日/報告者:女神官アビス/承認者:『深淵の女王』イシュタル様/件名:第427次地上侵攻計画進捗報告/1.進捗:都市エルドリアへの絶望種混入により住民の不信感が拡大中、抵抗勢力の指導者層への流言飛語により連携の瓦解に成功/2.特記事項:隣国にて新たな聖女の存在を確認、早期排除を推奨。罠に嵌まった無能なゴブリン部隊は慈悲なく粛清済み/3.次なる一手:聖女を闇に堕とす『堕落計画』の発動および人間界の対魔力兵器設計図の強奪許可を求む/4.`女神の御言葉`:『些細な報告だが怠慢は許さぬ。絶望を撒き散らし、忠誠を示せ』>
そう目を通したそれらを蒼白とする顔が見続ける。
「ゴブリン共を粛清した、だと……? 奴らにとって命は何だと思っている」
報告書の端、“女神の御言葉”と記された箇所に目が留まる。美しくも冷酷な、すべてを見透かすような筆致。それがいやに気味が悪い。
脳裏に、かつて戦場で一瞬だけ目にした女王の、凍てつくような微笑がよぎる。
「聖女……彼女まで狙われているというのか」
報告書を握りつぶし、その場に膝をついた。
たった一枚の紙切れが、自分たちが守ってきたすべてが掌の上で転がされているに過ぎないことを証明していた。
女王の嘲笑が、紙面から滲み出る闇となって、部屋の温度を一段と下げていくような気がした。
おひとりさまポケット
何気なく、洗濯機の前でズボンのポケットを漁った。
柔らかな生地が指の間に絡みつく中の角ばってやや硬さのあるものが指に当たる。
何だ、と思って引っ張り出してみると一枚の小さな紙。乾燥してかちこちに固まり合い、水気や過去の柔らかさは含んでいない。
ズボンを洗濯機の中に入れ、それを弄りつつ、ざらざらとした触感を確かめる。触っていく内に表面から重なったものが緩くなって剥がれそうな角が飛び出した。
それを一枚、一枚、連なった紙の束を捲るようにして一つのものを複数に分けていく。
指が厚いものを薄いものへ変え、全て取っ払った時にはもう何十枚もの小さな紙が散らばっていた。
嗚呼、この紙は独りぼっちではなかったのだ。こうして、身体を重ねられる仲間がお互いに重ね重ねと存在していたのだ。
ポケットの中にはもう何もいない。
何枚もの紙が重なった乾いた紙が居座っていただけの、何もいないポケットだ。
お花は今も夢心地
小中は公立で、高校は県内で偏差値の高い進学校に昔から好きだったバスケのキャプテンと、生徒会長をやって、大学は推薦をつかって都内の有名私立を出て、先月に大手有名企業の内定が決まっていた。
俺、頑張ったよな。俺、頑張ってたよな……おれ、がんばってたんだ。
なのに、拍手や歓声なんて聞こえやしない。扉の向こうで止まりもしない嬌声とベッドがやけに軋む音だけが響いている。頭ん中は氷みたいに冷たい冷気を帯びて、理解だけをしようとぐるぐると換気口を回している。
濁って、吸うこともしたくない空気を適当に吸って、吐いて、勝手に手が扉を引いた。がらんと音を立てた境界線は崩れて、目の前にクソみてぇな面した弟と今までどうして好きだったかも分からない女が一緒になってベッドの上で繋がってる。心底、吐き気がする。
「……あっ、兄ちゃん!」
横で青い顔した尻軽と面白いぐらいに真逆な顔で笑う弟が、全裸のままこちらへ首を向けた。いつも通りの可愛らしい顔の中の脳みそは花が咲いているらしい。
「おかえり!」
弟がそう言って、後ろの女が布で身体を隠したまま動きもしなかった。その凍りついた動きがひどく滑稽で、もはや呆れ返って笑うしかなかった。
「なぁ……|輝希《てるき》。お前、どうだった?」
「何が?」
「……兄の彼女、抱いてさ」
「……ん? んーとね……すっごく気持ち良かったよ! 流石、兄ちゃんの選んだ人だね!」
そう輝希が言った瞬間に、希望も何も掴めていなかった拳が弟だった頭に振り下ろされた。鈍い音が止まりもしなかった嬌声の代わりに響いて、後ろから女の静止を求める声だけが犬の鳴き声みたいだった。行動で止めもしない声を無視して、床に突っ伏した頭に片足を乗せ、思いっきり相手を踏める足で踏みつける。
足裏で呻くような声と反抗もしない身体が不釣り合いだった。そのまま力を込められていく足を退かしもせずに、ひどく熱く煮詰まった頭が部屋に飾られている後ろの女を映した写真を見つけて滑り込むように情報が入ってくる。
その瞬間に、心臓が小さな針でつつかれたみたいに痛みだして、口は自然と叫んでいた。
「お前ら、二人とも出てけ!」
ぐっと足裏で踏みつけた輝希が笑ったような気がして、踏みつけていた足で輝希の背中を蹴り上げたくなるも、その前に輝希がその足を避けて目が合った。
後ろから誰かが出ていく音がした後に、目の前の男が笑って「またね、兄ちゃん」と呟いて玄関から姿を消していく。服もまともに着ていないままの姿で行ったはずなのに、頭の中は今も沸騰し続けている。
何なんだ。何なんだ。本当に、何なんだ。俺が必死になって積み上げたものが全部、泡みたいに消えていくような感覚に陥る。全部、大切なものなはずなのに今はただ、手放して逃げたくなる。
混乱しきって大好きなものを忘れた頭についた頬に、ようやく涙が伝う。
ぐちゃぐちゃになったベッドシーツ、散らかされたままの酒の空き缶、床に落ちた白くどろりとした液体、鳴り止まない携帯の通知音、脳裏に浮かぶ笑ったままの弟。
なんで、アイツは笑えるんだろう。
何もかも投げ出して緩くふわふわとした夢に、アイツみたいに行きたくなる。
おれ、がんばってたのに。なんで、おれ、がんばってたのに……。
煉瓦になれぬ柱時計
怖くて、怖くて、耳をもぎ取りたくなるほどに声から逃げようとした。柱時計の心臓は刻一刻と時を刻むばかりで助けてもくれないことは分かっていた。小さい赤ん坊みたいに蹲って出ようともしなかった。
外では白い粉を口いっぱいに詰めて、女物の白い靴を履いた獣がテーブルの下から引きずり出した歳の離れた姉に跨っていた。姉の律儀に締められていた着衣のボタンが水が跳ねたみたいに弾け飛んで、床に溢れ落ちる。それすらも、姉の悲鳴のようだった。獣は露わになった小さい身体の薄く白い肌を撫でては小汚い爪を立て、母が耳にたこができるほどに「他人には隠しなさい」と教えてくれた恥部を弄るような手の動きをした。姉の声は一際大きくなって、淡く拒絶していた声が絶叫に近しいものになっていた。
やがて、その絶叫はひどく動きを得て獣に足や手を出す暴行になりつつあったが、誰も助けようとはしなかった。獣の瞳がやけに熱を帯びているように見えて気味が悪く、咄嗟に目を逸らした瞬間に聞き続けていた中で一番の姉の絶叫が響いた。
この世に絶望したような旋律を奏でるピアノのような高音の中に、奇妙な水音と何かを打ちつける音が木霊する。これが、何かなどと理解したくなかった。理解する気も起きなかった。理解してはいけないような、獣の牙で噛みつかれるような恐ろしさに秘めていたから。呼吸すらも止めたくなるほどに抑えつけた口から嗚咽が漏れ、瞳から涙が溢れる。何も悲しいわけではない。涙が出るほどに、恐ろしいのだ。
涙で滲んだ柱時計の裏から、やけに粘ついた透明なものが真っ赤に染められて床に垂れるのを見た。姉は死者のような顔をして叫びもせずに獣をただ、見ていた。獣の口から均一な息が漏れ、上気した肩と紅潮した頬が目立つ。そんな姉と獣が、いやに対照的で天使と悪魔のようだった。正確には、悪魔よりも酷く、罪を幾重にも重ねているのだが。その悪魔が少し震えたかと思えば、天使のように白くどろりとしたものを吐き出して姉へ水のようにかけていった。その辺りで、近くのベッド、暖炉や戸棚から他の姉の物音がして獣がそちらへ首を動かした。
ああ、そうか。もう、彼女達は喰われてしまうのだ。
いやに小汚く嘘っぱちの狼に、子山羊は喰われるしかないのだ。
今に私も喰われるのだろうか。この柱時計は、狼にとっての煉瓦であればいいのに。
近くで、狼の、獣の息遣いがしている。
狼(強姦魔)が子山羊(女の子)を食べる話
春先の抜錨
礼儀正しく頭を垂れて咲いた桜の花々が、健気にも散るさまを見続けていた。とうに飲み下した空き缶の上に散った花弁が寄り添うように落ちて、無性に苛立ってしまった。熱を帯びた手で空き缶をベンチの上に叩き落とす。景気の良い音が響き、若干に朦朧とする脳がぐつぐつと煮て熱が冷たさを取り戻すことがいやに難しかった。
小憎たらしい桜の小川を挟んだ向こう側に、無垢な笑顔を浮かべた数人の卒業生がお互いに語りを続けている。ろくに騙りもしたことがなさそうな唇が陽炎のように細かに揺れ動く。何も知らない。何も知らないのだ。
船が錨を上げることもせず、港へ留まり続ける臆病者のように自分で決めたと思っている航路を進まされる。それがひどく滑稽で、愛おしい。春風が頬を優しく撫でるようで、皮肉なことに憎らしくも懐かしさを覚えてしまう。かつての自分を重ねては、その自分が毒を吐いてくるのだ。
「大人のくせに、馬鹿みたいだ」
その毒が自然と口から漏れ、脇に置かれた空き缶にもう飲み干せないというのに、溜まりに溜まっていく。癒えないものが落ちた桜の花弁が側溝へ溜まって汚くなるように延々と穢れを纏って残り続ける。瞼を閉じようと、居座り続ける。
分かっている。分かっているから、こうして毒を吐く。錨を上げられずに留まり続ける。きっと、いや、確かに羨ましいのだろう。戻れもしない思い出をタイムカプセルとして掘り返し、哀しくも卑しくも羨ましい。同じであったはずなのに、引き返せなくなった船が惨めに留まっている。
赦してくれ、今だけは恕してくれ。桜はまだ、散り始めたばかりなのだから。
私を微笑ったシャングリラ
そこは、広く美しい砂丘でした。風で舞う砂が頬を撫で、髪や指の隙間を縫って流れていきました。諍う人々もいない静かで、美しい砂丘でした。私は一歩を踏み出して、足裏に砂を纏わせました。陽射しに照らされて熱く帯びた黄金の地面は、私を誘うように足跡をつけていきました。
そうして、喉もからからに乾いてきた頃、私は大きな白いアヒルが砂の中で溺れているところを見つけました。アヒルは真っ黒でつぶらな瞳で私を睨みつけていました。睨みつけているように、感じました。
私は、それが嫌で厭で仕方がなく、一言だけ呟きました。
「あぁ! 貴女、誰も知らないの?」
アヒルは何も答えませんでした。ガァガァとも、ワンワンとも、メェメェとも答えませんでした。私はそれを嘲笑い、腹を抱えて嘲笑い続けました。その途端、足跡を置いてきてしまったことに気づいて大慌てで私は砂丘の中で寝転がりました。
雲一つもないひどい群青と砂だけが広がり、私は陽射しに包まれていました。
足跡はまだ、私を待っています。
AIは不使用なのだが、意味不明なものができてしまった
バターの香る面接室
重い足を引きずって、扉を三回ノックする。いやに心地良く響く音がばくばくと音を鳴らし続ける鼓動を癒すようだった。
「失礼します」
幾度となく繰り返した開戦の一言は後ろから聞こえる戦友かつ好敵手たちの足音を連れて異様なまでにバターの香りのする部屋の目の前に面接官が陣取っていた。
「当社の選考へようこそ。ここでは靴を脱ぎ、鞄を預け、プライドとこれまでの実績をすべて綺麗に磨いてからお入りください」
そう、にこやかに笑った面が猫のようで、うっすらと寒気がする。獲物を逃がそうとしない鋭さを秘めた瞳がナイフのようだった。周りが元気よく返事をする中、奇妙な冷や汗が首筋に伝っているのをひどく感じていた。
「履歴書に嘘はありませんか?特に、心の奥底にある汚物と似つかわしい油っこい本音は、念入りに拭き取ってください」
グサグサと刺してくるナイフが、どこか清潔なスーツに包まれた臆病な本音を粗探しするように皿の上でがむしゃらに突き刺すようだった。
溢れ出す汗を拭いつつ、等間隔に並べられたパイプ椅子にようやく座り、再度、瞳と瞳が挨拶を交わした。
「本日はお忙しい中、弊社の面接にお越しいただき有り難うございます。まずは簡単に自己紹介をお願いできますか?」
「はい、本日は貴重なお時間をいただき有り難うございます。私は、やまなし大学を卒業後、現職のポラーノ商事で三年間、法人営業を担当しております。主にお客様の課題解決に向けた提案営業を行ってまいりました。本日はよろしくお願いいたします」
面接官が履歴書を捲る音がナイフを研ぐ音のように聞こえる。汗はまだ出続けて止むことを知らない。
「有り難うございます。現職で最も力を入れたプロジェクトや、そこで得た成果について教えていただけますか?」
何度でも訊かれた質問に、何度でも応えた回答である「昨年度、既存顧客の解約率を15%削減するという目標を掲げました。社内のエンジニアチームと連携して、解約率を12%まで抑えることができました」と唇がレストランのメニューのようにはっきりと動いた。面接官の、猫の瞳はまた笑ってにやにやとした笑みを隠そうともしなかった。
「なるほど、部署の垣根を越えて動かれたのですね。では……」
フォークがナイフと共にステーキを切るようにフォークが身体を固定して、次の獲物へ移る。それがまるで獲物を保留して捕まえたままの獣のようだった。横で獣には似合わない言葉と言葉が交わされていき、その中でまたも猫が爪を出す。
爪研ぎのような、ナイフとフォークを研ぐような音が脳裏で木霊しつつも時は一刻一刻と過ぎ、最後の候補者と面接官が会話を終えた。
「お疲れ様でした。それでは靴を履き、鞄を受け取って……せいぜい、山猫に喰われぬような犬を飼ってお帰りください」
その途端、どっと疲れが押し寄せ、始めと同じ挨拶をして同じ格好の食材が出ていくのを見ていた。しわ一つないスーツに拘束された身体が脇目も振らず逃げ出したくなる考えを引き留める。合格になるか、不合格になるかなど分からない。それでも逃げ出したかった。バターの香りが充満した室内で後ろの猫のような獣が爪というナイフを出して刺してきそうで恐ろしく、汗は玉のように床へ落ちていった。
ただ、ただ、怖いのだ。重い足は既に軽くも鼓動は速さを増しつつあった。
きっと、この獣がつけたバターの香りは部屋を出ても抜けることがないのだろう。
題名:『バターの香る面接室』
元ネタ題名:『注文の多い料理店』
元ネタ作者:『宮沢賢治』
自分の作品のこだわり・解説等:『面接では珍しく食材に描写を当て、就活の社会風刺と元ネタの作品の不思議なホラーを変わった表現で行ったとは思います。また、「やまなし」「ポラーノ」(ポラーノの広場)などは宮沢賢治さんの作品の名前から取っています』
元ネタ作品を選んだ理由・こだわり等:『元々、宮沢賢治さんの作品が好きではあるものの、何気なく考えていた中で「注文の多い料理店」が一番やりやすいかなと考えました』
眠り姫へ一言:『一周年、おめでとうございます。二次創作を中心に投稿している点で、原作愛などの熱量が凄まじく伝わり素晴らしいものだと考えています。これからのご活躍を切に祈っております』
眠り姫の好きな作品:『アイ』
甘ノ弱
暇つぶしに目線を落とした携帯が、画面の中で通知音を鳴らした。頭の中は何にも考えずにインターネット漬けで明日の予定なんて微塵も考えていなかった。うっすらとため息をつきつつも、学生時代から使い続けたメモ帳に書き込まれた予定表から明日の輪郭を探る。窓越しには揺れる電車がトンネルに入って、真っ暗な未来を予測せざるを得なかった。再度、携帯を開いてメモ帳と照らし合わせ、見えた未来と通知の返事を指が打っていた。
『進捗はどう?』
暗い、暗い世界で一際輝く文字を瞳に映して、ようやく電子の水から這い出た頭が無難な言葉を選んでいく。適当な返事と共にトンネルの先に光が差し、錆び落ちた考えがゆっくりと水に浮くのが分かる。
『もうすぐだよ』
何度、この返事をしただろうか。指はまだ動き続ける。
『いつ帰ってくる?』
『もうすぐ』
『もうすぐばっかり』
そうかな。そうかもな。口癖だったり、するのかもな。
ふと、水と油みたいに浮かんだ通知先の相手がどうにも愛おしくて頬が緩んだのを感じる。昔と比べて変に生きたいと思うようになったもんだ。早く死にたかったくせに、ここ数年で昔の自分が嫌ってた愛情とか友情とか、綺麗事の謳い文句を口に出してしまって、このざまだ。
全くもって、笑い者だ。昔の自分なら、なんて毒を吐くだろうか。衰えた?丸くなった?いや、違う。捕まったんだ。捕まっちまったんだ。
狸が餌に釣られて罠にかかるみたいに、足枷がすっぽりと嵌って外しもせず、身体の一部にしてのうのうと日々を過ごしている。
けれど昔よりも、「愛してる」と言うのは軽くなった。それこそ口癖みたいに言うようになった。この惚気め、そう昔の自分が毒を吐く。
厭なもんだな、嬉しいくせに。ちょっとは素直になって黙ってろ、この捻くれ者。
窓の外には見慣れた駅名が迫ってきている。
パトスの倒錯者
普通、というのはなんだろうか。
たとえ普通であっても、褒められることはない。
普通ではなく、異常であれば、こっぴどく怒り、普通を強制するというのに。
いつも通りの教室。いつも通りの時間。いつも通りの制服。いつも通りの一人。
いつも。普通。平凡。いつもってなんだろう。社会の型にはまるだけの、何気ない日常。そこに疑問を問う学生など、ほんのひと握りなのかもしれない。あるいは、大量にいるのかもしれない。
分からない。分からないのだ。誰だって、誰のことも本当の意味で理解などしていない。社会の歯車を背いて駆け出せば、すぐに爪弾きにされる。同じ者同士でも、その歯車があるのだから一人というのは厳しい。
そうであるから、異常というのは風が今もびゅうびゅうと当たっている。
いつもの枕言葉がついた部室に座り込み、適当に携帯を弄る。そうすれば簡単に異常は撒き散らされている。インターネットは僕らの隠れ蓑だ。
携帯に映るのは、誰かが嫌がる異常がゴミ溜めのように散らかっている。
『好きな子の膣に入りたい』
『誰かの腸を切り出して、糞まみれになってもいいから顔を埋めたい』
『母とセックスがしたい』
『ショタを虐めたい』
『誰かの泣き顔が好きだから永遠と見ていたい』
『誰かのゲップを嗅ぎたい』
『クラスメイトの男の子を犯したい』
『誰かの自慰を見ているだけの存在になりたい』
『血が大量に出ているのにすごく興奮する』
『殴られるのが最高』
『精子をかけられている顔で飯を食いたい』
『男が裸になってる死体が大好き』
『四肢欠損が可哀想で可愛い』
『女の子の脱ぎたてのナプキンを口いっぱいに詰めたい』
言葉で、可視化された異常。でも、それを否定する人はいない。否定してしまえば、この世界では逆に火に薪を焚べるようなものなのだ。言い方を変えるなら、油を注ぐといえば理解してもらえるのだろう。
だから、僕らは、こうやって肯定するのだ。それが、普通であるのだ。
『分かる』
人釣り
画面の向こうで、人のように言葉ばかりが飛び交っている。その言葉は、画面で揺れ動く口に依存していなかった。戯言とでも言うのか、投げつけられるだけのキャッチボールをこなしているさまは奇妙で、不思議でもあった。
始めに自分が目を通したのは、『ゲーム配信』の一言だった。それなのに、この内容はゲームのアバターを放置してコメント欄だけに集中している。ゲーム内の欠伸をし続けるアバターが自分のことのようで、ひどく憎らしかった。あまりにも嫌になって、期待外れという言葉が浮かびつつも、配信を閉じて別の誰かを探す。
『勉強配信』『歌みた配信』『参加型雑談配信』。
求めているものは、何もなかった。
ふと、閉じたばかりの配信画面に指が動くと、そこには『参加型雑談配信』と皮を脱いでいた。
まったくもって、期待外れだった。
電鈍脳
「こんなの、頭が可笑しいですよ。そう思いますよね、|重茂《おもえ》さん」
ジョッキに入った黄金色の生ビールを呷りながら、|田鎖《たくさり》が言葉を飛ばしていた。騒がしい居酒屋の中は油とアルコールが混じった大人の匂いを醸し出しながら、頭上に配置されているテレビに身を寄せる。田鎖が抗議しているのは、テレビにさも普通ではないように放映されているたった一人の女性のことだった。
女性は40代半ばのいい歳をした女で、お世辞にも綺麗とは言えないごく普通の女だった。それでも、その女が必死になって話しかけるのは薄っぺらい鉄屑の中に入った『人工知能ChatAsteria』。若者には、『アステリア』と名前を省されて親しまれる電脳の存在だった。例の女がChatAsteria兼、アステリアに話しかける度に、テレビの字幕には愛を語るような文字が起こされて、ただのAIが都合の良い言葉を返すログが繰り広げられている。
「確かに……可笑しいかもな」
「やっぱり、そうですよね!」
若い子の、共感をするだけの会話が嫌いだった。隣で笑っている田鎖が俺をAIだなんて比喩、思いつかないだろう。俺だってお前に都合の良い言葉を投げているだけだってのに。田鎖はこれ幸いと箸を目の前の竜田揚げに刺して、食べ始める。刺し箸だ。礼儀がなってないなんて言えば『パワハラだ』なんて盾を言うだろうか。
テレビの内容はまだ女が映っていて、「先日にアステリアと結婚しました」と近況の報告をする。それに石を投げるように田鎖が「きっしょ」とだけやや笑い声で呟いた。テレビのニュースは流行りの男優や芸能人が、女の言動や行動に薄っぺらい感想を述べる様子に変わって笑い声が聞こえてくる。どこかで可笑しいと感じつつも、それを敢えて述べないのはある意味、生存能力が高いのかもしれない。
もし、今ここに『人工知能ChatAsteria』があるなら、何を聞くべきだろうか。
Asteria、君に何を聞くべきだと思う?
王「魔王は死んだか?」勇者「天寿を全うしてました」
ネタを出したはいいが、書くのがだるくてサボった。
王「魔王は死んだか?」
勇者「はい、天寿を全うしていました」
王「……」
勇者「……」
王「仲間は?聖女も、魔法使いも、騎士も……貴殿と送り出しただろう?」
勇者「ああ、いたね。皆、80代のジジババばっかりだった」
王「貴殿が『こんなの僧侶……聖女じゃない!』と騒いでいたのが懐かしいな」
勇者「だって、普通…聖女って若いお姉ちゃんじゃん?」
王「悪かったな……若いお姉ちゃんじゃなくて。それで、パーティーのメンバーは?」
勇者「死んだよ。俺以外は全員」
王「……それは……」
勇者「いいよ。こうなるって、分かってたんだ。でも、勘違いすんなよ」
王「……どうやって亡くなられた?」
勇者「魔王を……まぁ、倒したみたいな感じ?……で、旅の途中で気が抜けたのか一人一人、幸せそうに死んでったよ」
王「それは、随分と……」
勇者「いいんだよ、本当に幸せそうだったんだから」
王「……そうか。魔王は、どうやって倒したんだ?」
勇者「最初から、死んでたんだ。死にかけだったんだ」
勇者「聖女とか、魔法使いとか、騎士とかを介護しながらようやくついた魔王城で、扉をドーン!って開けたらさ。ベッドの上で魔王……120歳くらいが、ひ孫みたいな魔族に看取られながら『……プリン、おいちいねぇ……』って言いながら息を引き取ったところだった」
王「……」
勇者「で、聖剣も抜かずに魔王を一応倒した形になって、残された遺族……魔族からは、『葬式するから、どうせだし挨拶していけよ』って言われて、適当にお通夜して、帰ってきた。その途中で仲間が皆、死んだ」
王「仲間はどうしたんだ?」
勇者「皆の故郷をあらかじめ聞いてたから、そこに寄りつつ、遺族の人たちに葬式とか、挨拶とかをしたよ。聖女が若い頃はおてんばな女の子だったとか、魔法使いは努力家だったとか、騎士は孤児院に寄付する優しい人だったとか……皆の知らないところをたくさん知った」
王「……それで、どうした?」
勇者「皆がいなくなって、いなくなった後に皆のことをたくさん知って……初めは介護ばっかで辛いし最悪だったけど、なんか寂しいなって思ったんだ。それで魔王城に引き返して、魔族に魔王の話を聞いた」
勇者「……魔王もさ、ただの悪い奴じゃなかったんだ。昔、俺たちの仲間……あのじいさん騎士と若い頃に何度もやり合ってたらしい。『あいつの突きは鋭かった』とか、『あの聖女の結界は硬くてお菓子も通さなかった』とかさ。魔族の若造が、泣きながら教えてくれたよ。
魔王が死ぬ間際まで待ってたのは、世界征服のためじゃなかった。
昔馴染みのアイツらが、もう一度会いに来てくれるのを待ってただけだったんだ。俺たちが魔王城の扉を開けたとき、魔王はボケたふりして笑ってたけど、きっと聖女たちの顔を見て、安心して逝ったんだと思う」
王「……そうか。宿敵という名の、友だったのかもしれんな」
勇者「ああ。それでさ、王様。俺、決めたわ。この聖剣、返却する。もう振るう相手もいないし、何より重すぎて肩が凝るんだわ」
王「……次はどうするつもりだ?」
勇者「また魔王城に行ってくる。今度は討伐じゃなくて、法事の居残りだ。
魔族の連中に、俺が預かってるあのジジババたちの武勇伝を、100年分くらい語り明かしてやらなきゃいけないからな。……転生してきて、最初から最後まで介護と葬式ばっかりだったけど……案外、悪くない冒険だったよ」
王「…………」
勇者「……って、おい。王様?」
王「……そうか。あやつら、先に逝きおったか……」
勇者「ちょ、待てよ。嫌な予感がするんだけど」
王「……勇者よ。貴殿を呼び出したのは、私が最後の一人だったからだ。あやつらと、魔王と……共に若き日を駆け抜けた、最後の生き残りが私だ」
勇者「は?じゃあ、あんたも……」
王「ああ……皆、待っておる。ようやく、同窓会に間に合うわ……」
勇者「……」
王「……あとのことは、頼んだぞ。この国も、あの魔族たちとの縁も……不甲斐ない王で、すまなかったな……」
勇者「……おい。おい、じいさん!!」
勇者「魔王は老衰。仲間も老衰。依頼主まで老衰……なんだよこれ。俺、死神の介護士かよ」
勇者「……これ、|勇者《おれ》いる?」
全く関係ないが、**勇者「魔王倒したし帰るか」**という名作ssは良いネガティブ具合なので是非
炎は氷に還る
金属で構成された列車が黒煙を吹きつつ、霧中を突き進む。窓からは先も見えない霧が広がり、この先を案じているようで気味が悪かった。
微かに揺れる車内で目を通すのは、大昔の話のことが載った新聞の一つに過ぎず、いやにつまらない。それでも、目を通すのは探偵という役柄なのかもしれない。
<太古の昔、ある研究者が科学的には説明のつかない物質、大気中からエネルギーを吸収し、振りかけた使用者の“思考”を“物理現象”へと変換する触媒として機能させる|星屑の粉《スターダスト・パウダー》を発見したことを世の中に公表した。それは瞬く内に拡散され、世界中の人々が頭の中で考える“空想の魔法”を具現化することに成功し、具現化する魔法が人によって得意なものによって分けられる“属性”が誕生した。始原属性としての破壊や熱を司る“火”、氷属性の母体となり癒しや変化を司る“水”、速度や不可視の斬撃、移動を司る“風”、防御や安定、岩石の操作を司る“土“、科学と魔法の融合属性としての速度と麻痺を司る“雷”、水と風が複合し、停止の概念を司る“氷”、生命力や拘束、毒、植物を司る“木”、武器生成や硬化、磁力を司る“金属”、特定の属性を持たない純粋な属性としてのテレパシーなどの精神を司る“無”。上下の位はないものの、幅広い属性があり、個によって得意的な伸び代があるものには“異名”がつくことがある。>
そう長々とした内容に目を通している最中、暇を持て余した片手が純粋な属性特有の奇妙な糸を無意識に掴んでいることに気づき、慌てて手を振り払う。自分の属性は“無”であり、精神や記憶なども手に取るように分かるものの、知らなくてもいいことを拾ってしまう。まったくもって、嫌なものだ。
逃げるようにして、新聞から別の話に目を通し、一人の小柄な男性の写真が目を引いた。痩せ細った身体に、ぼさぼさとした白髮の男だが、瞳は星屑のような輝きを称えている。名前は『アルス・レッグヴィッグ』、私のことだ。
客室には、金属の軋む音と、石炭が焼けるなまぐさい匂いが満ち、纏わりつく。私は手元の新聞を折り畳み、窓の外へと視線を投げた。相変わらず、霧がべっとりと窓ガラスにへばりついて離れることを知らないようだった。
「……ふぅ、やれやれ」
再び、無意識に指先に絡みついた“無属性”特有の、目に見えない精神の糸を無造作に振り払った。この糸は厄介で、触れるだけで、他人の薄汚い欲望や、昨日の夕食の献立といった、どうでもいい記憶が流れ込んでくる。探偵としては便利だが、一人の人間としては、プライバシーの欠片もない最悪の体質と言える。
そんな感傷を切り裂くように、客室の扉が激しく叩かれ、悲鳴に近い声が響いた。
「アルス・レッグヴィッグ先生!先生はいらっしゃいますか!?」
私は溜息をつき、座席の隣に置いていた古びたトランクをたぐり寄せて席を立つ。この声の主は、先程、食堂車で見かけた“金属属性”の従者の一人、ルディだと指先が教えている。彼の精神の糸は、今、恐怖という濁った色に変色していたものの、その代わり、私の色は生き生きとした黄金に包まれていた。
扉を開けると、肩を上下させ、息を切らしたルディが一言だけ呟いた。
「オーナーが!マダム・ローザが、死んだんです!」
ルディの糸が、奇妙なまでに舞うのが瞳に映されているようだった。
ルディに案内されたのは、この列車の最上級個室“スイート・ステラ”だった。
「い゙っ……!」
「先生!大丈夫ですか?」
扉に手をかけると、バチッと静電気の音がして、つい顔を顰めると同時に痛みが広がる。
「も、問題ない……」
改めて、“土属性”の硬化ガラスに包まれ、“金属属性”の特殊錠がかけられた扉を開けた瞬間、肺の奥まで凍りつくような冷気が吹き抜ける。室内は、まるでお伽話の雪の女王の住処のように、壁から天井までが分厚い氷に覆われていた。
その中心で、この列車の実質的なオーナーであるマダム・ローザが、椅子に座ったまま“氷の彫刻”と化している。その姿を見た途端に、新聞の写真のように私の瞳は星屑のような輝きを称え始めていた。
「……奇妙だな」
私はパウダーを指先に少量振りかけ、“無”の感覚を鋭敏に研ぎ澄ませ、胸の高鳴りはしばらく止まりそうになかった。
部屋の隅に設置された暖房機、“火属性の魔導具”は、今も尚、真っ赤に熱せられ、最大出力で熱を放出し続けている。本来なら、この部屋は通気口を通る程、サウナのような熱気に包まれているはずだが、実際は氷で覆われている。それと同時に、少し氷が侵食された通気口にはやや溶けつつある凍りついた植物の繊維が貼りついていた。そこが、奇妙でしかたがなかった。不意に後ろからルディの声がかけられ、私もそれに応える。
「先生、これは……『氷属性』の使い手の仕業でしょうか?しかし、この部屋は『土』の硬化ガラスと『金属』の特殊錠で閉ざされた完全な密室でしたし……」
「……」
その言葉を聞きつつ、氷漬けになったマダム・ローザの指先に触れる。そこには、無理やり熱を奪い去られた後に残る、局所的にだけ熱が奪われた物理的な“熱力学の敗北”の跡があった。
「いや、違う……これは『氷』の魔法による凍結じゃない。ルディ君、マダム・ローザと特に親交の深い人達はいるかい?」
「ええっと……『木属性持ち執事のセバス』、『風属性持ちの魔導技師のリン』、『雷属性の護衛騎士のカイル』……大抵、こちらの三名ですね」
「ということは、やはり……『氷』はないと」
「ええ、マダム・ローザの属性は『火』ですから、不可能だと思いますが……」
「いいや……可能だよ」
触れた指先にはひどく驚愕した熱が、冷たさに覆われていく喉が映り込んでいた。脳がゆっくりと、興奮に溶けだして無から有へ変わっていくようだった。
現場に残された微かな思考の残渣を辿り、三人の男女が食堂車へと呼び出されていた。一人は冷徹な眼差しをした執事のセバス、一人は苛立ちを隠せない若き騎士カイル、そしてもう一人は、怯えたように窓の外を眺める魔導技師で、変に火傷の目立つリンだった。
「マダム・ローザを殺したのは、君たち三人だろう?」
唐突に放った私の言葉に、食堂車が凍りつき、本物の氷よりも冷たい沈黙が流れる。それでも、私の中は燃え盛ったままだった。
「冗談はやめて下さい、アルスさん。私は『雷』、リンは『風』、セバスは『木』だ……誰一人として、あんな氷の密室を作れる属性は持っていないんですよ」
そう、カイルが鼻で笑う。だが、彼の背後に伸びる精神の糸が、一本の太い復讐という結び目で他の二人と繋がっているのを見逃さなかった。
「確かに、一人では不可能だ。だが、属性を組み合わせれば話は別なんだよ」
彼らの前に歩み寄り、推理のパズルを並べるように、私は言葉を続ける。
「最初に、カイルが微弱な『雷』を金属製の壁に流し、マダム・ローザの運動神経を麻痺させ、声を出すことや、火属性の魔法を使う暇すら与えなかった。
次に、リンが通気口から『風』の属性を送り込み、部屋の熱量を強制的に外へ排出する。暖房が強ければ強いほど、排出されるエネルギーの循環は加速する……つまり、熱が大きいほど、たちまちマダム・ローザの部屋は冷えていったというわけだ。
最後に、セバス。君は『木』の導管を使い、壁の僅かな隙間から植物に微弱に含む『水』を霧状に散布した。熱を奪われた空間に撒かれた水は、凄まじい結露を通して瞬時に凍りつくだろうね。
しかし、皮肉なものだ……彼女、マダム・ローザが最も信頼していた『火』が、君たちの連携によって彼女を凍らせるための燃料になったのだから」
続けた言葉に一息をつき、カイルが動くのを待つ。心配そうなリンとセバスの視線の中で、ようやくカイルだけが口を動かした。
「そ、そんなの、貴方の憶測でしょう?!何より、証拠ってものがない!」
「……証拠?そんなものは、この部屋に満ちている。だが、何より言い逃れができないのは、君たちの『糸』だよ。私の魔法の属性を忘れちゃいないだろうね?」
宙を舞う目に見えない三本の糸を指先で絡め取り、ゆっくりと流れ込むものを吐き出していく。
「復讐という名で固く結ばれたこの糸からは、凍りついたマダムの断末魔よりも冷たい、君たちの『達成感』が流れ込んでくるのだよ」
そう言い切った直後、リンが私の言葉に反応する。
「……全部、知ってるんだ……」
その瞬間、食堂車の空気は、外を覆う霧よりも重く沈んでいた。私は、彼ら三人の背後で複雑に絡まり、どす黒い変色を遂げた精神の糸を指先で弄ぶ。
「……君たちの動機は……『達成感』の糸がこれほどまでに固く結ばれている理由は、単なる金銭欲ではないようだね」
私は目を閉じ、指先に伝わるチクチクとした不快な感触、過去の記憶の残滓を読み解いていく。
「マダム・ローザ……彼女は『火』の属性を愛していたが、それ以上に、その熱で他人を支配し、焼き尽くすことに陶酔していた。……カイル、君の恋人、リンはこの列車でマダム・ローザから罰を受けているようだね。君はその真実を知り、騎士としての忠誠心を復讐心へと塗り替えた」
カイルの拳が震え、テーブルに置かれたグラスが雷の余波で小さく鳴った。
「そして、リン……君もそうだ。魔導技師としてこの列車の心臓部を守りながら、君はマダム・ローザから過酷な労働と、失敗するたびに浴びせられる火属性の『罰』を受けていた。君のその制服の下、頬だけに過ぎない魔法の残り火が、背中にもあるはずだ。君にとってこの列車は、動く牢獄そのものだったろう」
リンは視線を落とし、ただ黙って自分の腕を抱きしめる。
「最後、セバス。最も長く彼女に仕えてきた君が、この計画の立案者だろう?君はマダム・ローザが、どれほどの人間を『薪』にして、この豪華列車の栄華を維持してきたかを誰よりも近くで見てきた。植物を愛でる君の優しい『木』の属性は、彼女の傲慢な炎によって、幾度となく灰にされてきたのだから」
私は目を開け、星屑のような輝きを宿した瞳で、三人を静かに見据えた。
「『火』によって他人の人生を焼き続けてきた彼女が、自らが放った熱によって冷え切り、氷像となる……皮肉な詩的正義だ。君たちは、自分たちが受けた痛みを、そのまま物理法則の裏側に変換して彼女に返したに過ぎない」
沈黙が食堂車を支配する。列車の軋む音が、まるで彼らの罪を数える秒針のように響く。
「……さて、探偵の仕事は、真実を暴くところまでだ。この先、どんなに逃げようとも、この霧の向こうで君たちを待っているのが法の裁きか、それとも別の何かかは、私の知るところではない」
終わりを告げたそれが、カイルの拳を開くように幕を開く。
「……御託はもういい!あの女が死んでも、まだ俺たちの復讐の氷は終わってない!」
カイルが吠えると同時に、彼の全身からパチパチと青白い火花が弾け飛んだ。食堂車の照明が激しく明滅し、金属製の床を伝って微弱な電流が私の足元を掠める。
「リン、セバス! 行くぞ!」
カイルの合図とともに、リンが鋭く右手を振る。凝縮された“風”の圧力が食堂車の重厚なガラス窓を内側から粉砕していく。轟音と共に冷たい霧が車内に流れ込み、視界は一瞬で白一色に染まった。三人は、その混乱に乗じて粉砕された窓から走行中の列車の屋根へと躍り出ていた。
「行かせません!」
ルディが叫び、私の前に躍り出る。彼の瞳には、主を失った混乱よりも、目の前の罪人を逃さぬという強い意志が宿っていた。
「先生、指示を! 相手は三人、屋根の上は足場が悪すぎます!」
「……やれやれ、これだから現場仕事は嫌いなんだ。ルディ君、君の『金属』で道を作ってくれないか?私は彼らの『糸』を辿るよ」
私は割れた窓から身を乗り出し、ルディのおかげで道のようになった列車の外壁を駆け上がっていった。
時速80キロで突き進む列車の屋根の上は、暴風と黒煙が渦巻く地獄のような光景だった。前方、霧の向こう側に三人の影が霞んで見えている。
「大人しくする方が得策だよ、カイル」
私の指先から、目に見えない“無”の糸が何百本と放たれる。それは物理的なロープではなく、彼らの精神へと直結する概念の鎖に過ぎない。霧の中でも、彼らの焦りと恐怖が発光する標的のように私の脳裏に映し出される。
「くそっ、しつこいな!」
カイルが振り返り、掌から高電圧の槍を投擲する。直撃すれば即死。だが、私は動かない。動く必要はないと、指が教えている。
「ルディ君!」
「任せてください!」
ルディが列車の屋根に触れると、鉄板が生き物のように盛り上がり、カイルの電撃を列車の車体へと逃がす避雷針と化した。火花が激しく散り、ルディの顔が青白く照らされる。
「先生、今です!」
「感謝する!……さて、セバス。君の『木』はこの鉄の塊の上では分が悪いようだ」
精神の糸を一本、強く引き絞る。ターゲットは最後尾を走るセバス、一人だけだった。
セバスの精神に繋がる糸を指先で弾くと、彼の視界から平衡感覚という概念を一時的に消え、地面が消えたような錯覚に陥ったセバスが膝をついた。
「なっ……!? 足元が……!」
そこへルディが追撃を加え、地面が消えたような錯覚に陥ったセバスが膝をつく。その隙にルディが列車の屋根の表皮が剥離し、自律する蛇のようにセバスの四肢を縛り上げた。残るは二人。リンが泣きそうな顔で、残った力を振り絞り“風”の壁を作って私たちの接近を阻もうとする。
「来ないで! 私たちは、ただ自由になりたかっただけなのに!」
「自由と免罪は別物だ、リン……君たちの糸は、もう限界までささくれている」
私はパウダーを掌に薄く広げ、深く息を吸い込んだ。星屑のような輝きを放つ瞳が、霧の向こう側の真実を固定する。
カイルがリンを庇うように立ち、最大出力の雷を右腕に溜める。だが、その「攻撃をする」という思考そのものが、私の指先には糸として握られている。
「……氷は、そろそろ溶ける時間だ」
私は三本の糸を指に絡め、一気に引き抜く動作をした。カイルとリンの意識が、一瞬だけ私と、そしてお互いと強烈に連結される。
カイルの殺意が、リンの悲しみが、私の静寂が混ざり合い、彼らの脳に激しい負荷をかける。放たれようとした雷は霧散し、風の壁は霧の中に溶けて消えていく。意識を失いかける二人の体を、ルディの操る金属の蔦が優しく、確実に絡めとっていった。
黒煙を吐く列車が、ようやく霧の出口を見つけ始めた。
屋根の上に横たわる三人を見下ろしながら、私は乱れたネクタイを整え、ポケットから折り畳まれた新聞を取り出した。
「先生……お疲れ様でした。彼ら、どうなるんでしょうか」
ルディが寂しげに呟く。私は答えず、ただ新聞をパサリと広げた。そこには相変わらず、私の冴えない写真と“大昔の話”が載っているだけだ。
「さぁね……だが、この列車の霧が晴れる頃には、新しい記事が必要になるだろう……『炎は氷に還る』……悪くない見出しだと思わないかい?」
私は指先に絡みついた残りの糸を、今度こそ無造作に振り払った。瞳の星屑は、火が消えるように、氷が溶けるように、ゆっくりと輝きを失いつつあった。
▶設定元
No.02 (3つの固定テーマの日替わりお題)
https://tanpen.net/novel/2ef311a4-c696-41f9-a987-e0e24c8df7c5/
お値段は3文字です
「いらっしゃい……いや、失礼、『どうぞ』」
店主の老人は、客の青年を一瞥して短く促し、カウンターに腰掛けていた。この世界で、見ず知らずの相手に「いらっしゃいませ」という7文字を声をかけるのは、高級車を一台プレゼントするような暴挙に過ぎず、1文字ですら貴重なのだ。
青年は緊張した面持ちで、カウンターに古びた真鍮の時計を置いた。
「……これ、直りますか?」
老人はルーペを取り出し、時計の裏蓋を開ける。数分の沈黙が流れ、歯車が噛み合う微かな音だけが響く。やがて老人は顔を上げ、青年に告げた。
「直る……だが、お値段は3文字です」
青年は息を呑んだ。3文字。それは、このデフレの進んだ世界では決して安くない代物だった。
「ありがとう」と5文字を言えば一日の食費が吹き飛び、「愛してる」という5文字を言えば一ヶ月の家賃が払える。そんな時代だ。3文字の支払いは、今の彼にとって全財産に等しかった。
「……何でも、いいんですか?」
「ああ。だが、偽物は受け取らん。あんたの心の底から出た、結晶化した3文字だけだ」
青年は目を閉じ、考えた。
金貸せ?いや、そんな汚い言葉の3文字ではこの時計を直す対価にはならない。
助けて?流石に、そんな3文字は惨めすぎる。
直して?それはただの依頼の3文字だ。
この時計が止まった日のことを思い出す。病床の母が最後に残した、震える声。自分がその時、喉まで出かかって、結局言えなかった言葉。言葉に価値がつき、一言の重みが物理的な重税となったこの世界で、その言葉をケチってしまったのだ。それが、なんとも悔しく、恐ろしい。青年は目を見開き、老人の目を見つめて、喉を震わせた。
支払うべきは、あの日失った負債。
「ごめん」
その瞬間、カウンターに置かれた測定器が、かつてないほど純度の高い、青く透き通った結晶を吐き出し、カチリと時計の針が動き出す。
老人は満足げにその結晶を懐に収めると、直った時計を青年に返した。
「……お釣りだ、取っておきな」
老人が差し出したのは、たった1文字。
だが、それはこの世界で最も高価で、最も手に入りにくい、黄金の輝きを放つ結晶だった。
手の中にあるのは、『幸』
青年はその1文字を握りしめ、言葉のない街へと歩き出した。
「言葉」が通貨になった世界
雨雨ざあざあ、春春さんさん
騒ぐ木漏れ日の中に、甘い春の匂いが燻っている。町おこしの一環だと、どこかの偉い人が下した赤い提灯が桜並木の中で似つかわしくもない様子で揺れている。
「ねぇ」
後ろ手に声がかかって、振り返りもせずに「なに」と呟く。側溝に溜まって、直に汚い色に枯れる桜の花弁が脳裏にちらついていた。
「この後、なに食べる?」
腕時計は正午をちょうど指して、木々を縫っていく風に運ばれた花弁が手についた。地面には手に乗らなかった花弁と、雨で濡れたアスファルトの独特な匂いで頭がくらくらとする。雨上がりは地面にざあざあという音を水で染み込ませて、やがて音と一緒に消え失せる。
「オムライス」
「また?自閉症じゃないの?」
自閉症なんかじゃない。けど、それを否定する術もない。食べたいものが、ほかにないだけだ。それを言っても何にもならない。
桜並木の横で、小川に水がちょろちょろと流れている。その中で、桜の花弁も流れている。花弁の旅が小川の中で繰り広げられていた。後ろの声はいつしか、私の手をとって強く強く握り込んでいる。
風も、桜も、水も、流れてく小川。小川だけに。
どうしようもなく飛び降りたくなった。ただ、それだけだった。
枯れろ!
縁側の側で、塀越しに見える桜を恨みがましく見ていた。身体は殴られたおかけで、俗にいう『全身が痛い』状態だった。それが、どこかの漫画の言葉だったのか、「読め」と言われて読んだ文豪や偉人の小説だったのか、それすらも覚えていない。
テストの成績が悪かったわけでも、酷い言葉を口から零したわけでもない。ただ、憂さ晴らしだったのだろうが、大人にとって、それは火にガソリンを撒けば、ごうごうと燃え盛るように、ストレスの捌け口になる一つの発端の材料だったらしい。
顔の横は命乞いのように殴ることをやめてくれと、説得した跡のように涙で濡れて、縁側に一つの水溜まりを作っている。その水溜まりに、惨めさを煽るように一枚の桜の花弁が浮かぶ。ふと桜を見ると、春を嬉しそうに花弁を撒き散らしながら、揺れて踊っている。ただ、かつての私にはそう見えただけで、桜そのものがそんなことを思うはずがないと分かっているのだ。
それでも、何を思ってか、桜がひどく憎く、妬ましく、花にとってさぞ嫌だろうと考える言葉を心中に願っていた。
枯れろ、枯れろ、枯れろ、お前など枯れてしまえばいい。
どうせ一つの季節の飾りでしかないのだから、枯れてしまっても何も言うまい。
枯れろ、枯れろ、枯れろ……。
しばらくして、聞き覚えのある低く冬の冷たさを感じる声が子供が縁側に蹲っているのを邪魔くさそうに舌打ちし、一言だけ呟くのだ。
「邪魔、どっか行け」
言えずじまいの罵倒を抱え込みながら、陰惨な雲から雨が降らないかと思っていた。
雨が降ることを祈っていた。
血肉の食物
▶前作(同一世界観)
血晶の宝石
https://tanpen.net/novel/7273d721-6793-4e77-aa26-b25d0951ab3d/
大学のテラス席、陽向が注ぐ中で食事も放置して携帯を弄り、暇を潰していた。
昨今のニュースの中では、資源枯渇で滅びかけた世界が、「体から資源を産生する病」にかかった人々を家畜として搾取することで、経済を立て直し始めている……というものが話題の種になっている。それはこの世界の誰でも知っていることで、日々、私たちが過ごす中の車のガソリンや、鉄資源なども全て、この世界は「体から資源を産生する病」にかかった元人間である家畜からできたものだ。おかげで、著しく経済は回復に向かってはいる。
その回復傾向にある社会の最近の問題を挙げるとすれば、農業の不作や漁業の不漁が激しくなっていることだった。それなら、と世界は「体から資源を産生する病」を研究し、今度は人為的に「体から食物を産生する病」を作り上げた。
しかしながら、「自ら家畜になりたい」などと言う人間はおらず、世界は死刑囚や障害者、はては難病患者などに病原菌を投与し、できるだけ長くもつ家畜を作っている。味や衛生など、後から改良してしまえば何とでもなるのだから、その点だけは気楽だが、例の病は主に5つのパターンに別れているためか、非常に手間がかかっていた。
皮膚の一部が樹皮化し、そこから高栄養価の果実や、米に似た種子が実る植物型(果実・穀物)、汗が結晶化し、純度の高い調味料やエネルギー源となる結晶型(塩・砂糖)、驚異的な再生能力を持ち、体の一部が食用として機能する再生型(肉質)、指先や特殊な器官から、成人が一日に必要な栄養をすべて補える液体を分泌する分泌型(ミルク・蜜)があり、生産される資源の「味」や「栄養価」によって、家畜に等級がつけられる格付け制度に沿って飼育されている。また、より効率的に、より美味しい資源を産むために、特定の変異者同士を強制的に交配させる育種場の存在となる品種改良も存在している。
それが、この世界の普通だ。その普通のニュースの活字を適当に読み進めつつ、ふとかちゃんとトレイが置かれる音がして、ようやく顔をあげる。
「今日の学食、当たりの日じゃね?」
見れば、友人の健人が、トレイに乗った黄金色のリゾットをスプーンで指しながら声を弾ませていた。トレイの中で湯気と共に立ち上るのは、芳醇なバターのような香りと、どこか懐かしい日向の匂い。周囲を見渡せば、学生たちのテーブルには色鮮やかな果実や、肉厚なステーキが並んでいる。数年前、スーパーの棚が空っぽで、配給の痩せたパンを家族で分け合っていた頃が嘘のようだ。
「これ、『植物型の穀物』の特級クラスだろ。しかも、隠し味に『分泌型の蜜』のハイグレードが使われてるなんて……学食の癖に、贅沢だな」
自分の皿にある、薄桃色のテリーヌを見つめる。それは驚異的な速度で細胞分裂を繰り返す『再生型』から採取されたもので、かつて、それが「誰」だったのかを考えることは、この時代のマナー違反のようなものに過ぎない。
「なあ、知ってるか?」
健人が声を潜める。その潜めた言葉から、誰かの嘆きの物語が紡がれていく。
「最近、この『肉』の質を上げるために、育種場で新しい交配が成功したらしいぜ。感情を完全に抑制された個体から採れる資源は、ストレス物質が混ざらないから、最高に甘いんだってさ」
その物語に口に運ぼうとしていたスプーンを持つ手を止め、一つの疑問を零す。
「……甘い、のか。それって」
「ああ、|倫理的《エシカル》かどうかは別として、経済が回らなきゃ俺たちは飢え死にするし……家畜化した連中だって、死刑囚や社会の重荷だった連中なんだ。資源として世界に貢献できるなら、本人たちも本望だろ?」
そう言って、健人は屈託のない笑顔でリゾットを口に運んでいく。彼の言うことは、教科書に書いてあることと同じだ。この「病」のおかげで、僕たちは再び文明的な生活を取り戻した。飢えに怯えることなく、食べて、寝て、学んで、生きるができる。ふと、自分の手元にあるテリーヌの断面を見た。そこには、かつて血管だったのかもしれない細い筋が、美しい模様として残っているだけだった。
「美味しいよ、これ」
自分に言い聞かせるように呟き、それを口に含む。舌の上でとろけるような脂の甘みと、完璧に調整された栄養素。それはあまりに完璧すぎて、少しだけ、鉄の味がするような気がした。
僕たちが謳歌するこの「青春」という贅沢な時間は、誰かの体から零れ落ちた「資源」によって、今日も薄氷の上で保たれているということを再認識させられる。
「おい、おい、おいって……考え事ばっかりしてるなよ。それ、残すのか?贅沢な奴だな」
僕の止まっている手に健人がニヤけながら、僕の皿に残ったテリーヌの端を指差す。僕は、黙って首を振り、最後の一口を無理やり飲み込んだ。喉を通り過ぎる時、得体の知れない粘り気が一瞬だけ抵抗したような気がして、背筋に冷たいものが走り抜ける。それに釣られるまま、速さを感じて僕は唇を動かした。
「……なぁ、健人。この『再生型』の元になった奴って、どんな基準で選ばれるか知ってるか?」
「さぁな……公式発表じゃ、さっき言った通り死刑囚とかだろ。でも、ネットの噂じゃ『適合率』が一番重要らしいぜ。健康で、若くて、細胞の活性が高い奴ほど、いい肉が採れる。だから、たまに一般人が行方不明になって、そのまま『資源』にスライドされるなんて陰謀論もあるけど……」
その続けた言葉を、健人は「まぁ、腐っても陰謀論だよ」と笑い飛ばし、プラスチックのカップに入った「結晶型」のデザート、高純度の糖分が析出した、宝石のように輝くゼリーをスプーンで砕き、パキッ、と硬質な音が響く。
その音を聞いた瞬間、僕は昨夜見たネットニュースの断片を思い出していた。行方不明者リストに載っていた、隣の学部の女子学生。彼女の趣味はジョギングで、学内でも有数の「健康体」として知られていた。
「なぁ、このゼリー、めちゃくちゃ甘いぞ!感情の起伏が激しい個体から採れた砂糖は、独特の風味がつくってマジだったんだな!」
健人が幸せそうに目を細め、楽しげに笑っている。僕たちのこの「幸せ」は、他人の絶望や苦痛、あるいは生命そのものを精製して抽出されたものだ。けれど、このシステムを否定することは、再び世界をあの暗黒の飢餓へと突き落とすことを意味する。僕はふと、自分の指先を見つめた。
もし、明日僕がこの「病」を発症したら?
僕の血液が甘い蜜になり、僕の皮膚から香ばしい穀物が芽吹いたら。
この目の前で「家畜」を食べている健人は、今日と同じような笑顔で「今日の学食は当たりだ」と言って、僕だったものを食べるのだろうか?
「……授業、遅れるぞ」
僕はトレイを持って立ち上がった。学食の出口には、大きなポスターが貼られている。
微笑む家族の背景に、豊かな農地と輝く都市が描かれ、その下には太い文字でこう記されていた。
『人類の献身が、人類の未来を創る。』
ポスターの隅には、小さな文字で注釈がある。
『※本製品は徹底した衛生管理のもと、特定家畜個体より採取されたものです。』
僕はそれを視界から外すようにして、午後の講義棟へと向かった。
胃の中にある「資源」が、じわじわと体温に馴染んでいく感覚が、ひどく不快で、それでいて、ひどく頼もしかった。
探し者
「やっぱ、親が殺したんじゃあないですか?」
鬱陶しいほどに煙草を吹かす新入りが、そう零した。まだ20代になったばかりの柔い肌を飾るギラギラとした指輪を気にする新入りはテレビに釘付けだった。テレビはずっと行方不明の子供のニュースを飽きることなく放映し続けている。あと、何週間、何ヶ月、この放映は続くのだろうか。
「親も、近所も、学校も……誰も見ていないし、監視カメラにも映ってないんですよ?やっぱ、親ですって、親」
根拠もなく憶測のまま、新入りは主張する。煙草の煙が室内を充満していく。
「まぁ、よくあるよな。行方不明の原因が、実は行方不明じゃなくて……蓋を開けたら、親が殺してたってやつ」
「そう!そうなんですよ!これも、実は親が虐待してるのを隠すために、山とか、海とかに捨てて、連絡もせずにとりあえず、逃げるために行方不明ってことにしてるとか!」
想像力、凄いな。若いもんな。
新入りがあどけない笑顔を浮かべて、息をするように煙草の煙を吐いた。部屋の中が、さらに白く白く濁って、もう元には戻れない。
普通はそんなことを言うなって怒るべきだろう。でも、俺だってどこかでそう思ってるんだ。
「じゃあさ、親が殺してなかったとしたら、何だと思うんだ?」
「えっ?そりゃあ……誰かに誘拐されたとか、熊とかに襲われて死んだとかじゃないですか?」
「はは、だよな」
テレビには、まだ若そうな母親と、父親が顔を隠して捜索や情報共有を訴えかけ、ニュースキャスターが捜索隊の方針や捜索場所の話を引き続きしている。
「見つかるといいですよね。もう、死んでると思いますけど」
もう死んでる。誰だって思う。こんなに日が経ってたら、死んでるって思う。人は馬鹿じゃない。諦めることを知ってるんだ。敢えて、それを言わないだけで。
「……うん」
探しています、探しています、探しています。
心を、探しています。
煙草が凄く、あり得ないくらいに不味い。ずっと、不味い。
◯し活
よく分からない色が混ざった、よく分からないキャラクターたちが店先に並んでいる。トラウマボール、ケースキャプチャーさとう、妖怪ウォシュレット……。どれも分からない故、ここにいるのがどこか不自然で浮いているような感覚だった。
それなのに、わざわざここまで足を運んだのは友人の誘いの一つに過ぎず、自分が興味はないからと店外で待っているのだ。
店の看板が、店先の蛍光灯を反射して不吉に輝いている。それは色彩の死骸を寄せ集めたような、あるいは悪夢の断片をシリコンで固めたような、名状しがたい造形をしていた。なぜ友人は、このような意味の崩壊を喜んで買い求めるのか、分かりそうにもない。理解の範疇を超えた虚無を前にして、私は自らの感覚を保護するために、ただ秋の冷気の中に立ち尽くす。
そこへ、背中の曲がった一人の老人が、杖を突きながらにじり寄ってきていた。
老人は、原色に汚されたショーケースを忌々しそうに一瞥すると、隣に立つ私へ、乾いた喉を鳴らして声をかけてきた。
「……近頃の若いもんは、これか。例の啞し活というやつか」
老人の言葉は、肺の奥から絞り出されたような、濁った響きを持っていた。私は一瞬、その聞き慣れない単語の意味を測りかね、眉をひそめる。
「……あしかつ、ですか?」
「そうじゃよ、世も末よな。あんな面妖なものを有り難がって、自ら『啞』になろうとする。言葉を捨て、思考を放棄し、ただ口を噤んで奇天烈な偶像を拝む……それが今の流行りだと言うのだから、恐ろしい」
老人は、独り言のように毒を吐き散らす。どうやら彼は、若者たちが熱狂する推し活を、文字通り声を失い、啞になる活動だと、残酷な誤解をしているようだった。
「いいや、お爺さん、それは……」
否定しようとした私の言葉は、不意に喉の奥でつかえた。店内に目を向ければ、友人が醜悪なキーホルダーを手に、うっとりと陶酔した表情を浮かべている。その恍惚とした沈黙は、なるほど、老人が言うところの言葉を失った状態に酷似していた。
「……案外、間違っていないのかもしれませんね」
私は自嘲気味に呟いた。意味のある言葉を紡ぐことよりも、意味の分からない塊に魂を明け渡す方が、この時代を生き抜くには容易いのかもしれない。
老人は満足げに鼻を鳴らし、再び夕闇の中へと消えていき、私は独り、浮世離れした店先に取り残される。手の中には、秋の冷たい感触だけが残っていた。
お弁当箱の梅干し
楽しげに笑う声が弁当箱の中に滑り込むようだった。
焦げついた卵焼き、昨日の夕飯の残り物だったカツの一切れ、冷凍食品のほうれん草のおひたし、真っ赤な梅干しの乗った白米。弁当箱の色どりが、クラスの生徒全てを表しているようにも思える。その色どりの真っ赤な梅干しが一際目を引き、隣で笑う女生徒のようにも思えた。
大きく口を開けて豪快に笑い、数個の同性グループの白米の中でも、梅干しのように目立つ。愛想よく、お洒落好きで、健かな彼女。それでいて、弁当箱の中にも入らない合わせられただけの箸のような人にでも気軽に言葉を交わす。最も、挨拶という名目だけで大っぴらに会話をしたことなどないのだが。
けれども、それがどこか、心地よい距離感だと思ってしまう。時折、必要な時に使われる箸のように、たまに話す程度で十分だった。コミュニケーション能力が低いとか、根暗であるとか、そんなものではない。もしかしたら、そんな理由もあるのかもしれないが、それは私が知ったことではない。
ただ、理由があるとするのなら、人に興味がないこと。もしくは、集団でいることに必要性を感じないこと。それとも、単に離れた後が怖いのかもしれない。
お弁当箱にぎゅうぎゅうに詰まって仲良さそうな食べ物が、一つ一つと減っていくうちに悲壮感があるように、人が離れていくことが極端に怖いのだ。
だから、近づかないようにと、離れないようにと、していくうちにこうなってしまったのか?これが、全く分からない。私ですら、私のことが分からない。
そのくせ、仲良さそうなお弁当の味が分かるのがどうにも厭らしい。お弁当箱の梅干しが近づいている。味を分からせようとしている。女生徒が、声をかける。
「今日のお弁当、どんな感じ?」
寂しくなるから、寂しくなってしまうから、来ないでくれ。
お弁当箱のお友達たちが。
棺声
小さなテレビの中に映る、若い少女を亡くした母を見ていた。母の肌は青白く、ほんの少し陰りを帯びて、どこか痛々しい。母が見る黒い冥界の入口のような棺に手を置いたものがテレビに映ったとき、なんともない長閑な声が響いた。
「おかえり」
棺を前にした言葉が、そんな言葉だった。人の死体の前で、震えている声でもなく穏やかな声でそれが繰り返される。「辛かったね」「寂しかったね」と続く中でやけにほのぼのとした「おかえり」が耳に残る。
それが、とても、とても怖かった。
自分のことではないのに、異様なまでにゆったりとしたその言葉と声色が怖かった。きっと、この母は何気なく言っているはずだ。それだというのに、いやな怖さが残っていた。
棺が言葉を返すことはない。返すことはできない。
たかさりき くんへ
|高佐《たかさ》|李希《りき》が死んだ。
|高佐《たかさ》|李希《りき》って、誰だっけ。
朝のホームルーム、静かな教室の中で若い担任の教師が一言告げる。
「このクラスの|高佐《たかさ》|李希《りき》くんが、亡くなったそうです」
教室の中はがやがやとそれぞれの友達グループと話しながら、「可哀想」や「怖い」と言う中で、一つのことだけを口を合わせて話していた。
「でも、|高佐《たかさ》|李希《りき》って、どんな人だったの?」
その言葉を皮切りに、教室の隅の白百合が挿した花瓶の机に僕は注目する。いつもは空席で、机の中には何もない単なる空席。|高佐《たかさ》|李希《りき》は、その机の中にいるはずのクラスメイトだった。
僕たちは、|高佐《たかさ》|李希《りき》のことをほとんど知らない。
同じ学校で、同じクラスで、同じ年齢で、同じ子ども。一度も学校に来ない人、という印象しかない。彼に対して知っている者は少なく、幼稚園や保育園、小学校からの友達もいないようだった。彼のことを人伝に聞けば、小学校1年生から急に不登校になり、小学校6年生となっても1年生の入学式以降、変わらず姿を見せたことはないということらしかった。つまりは、典型的な不登校の生徒で、クラスでも存在すらまともに覚えられていない同じクラスなだけの他人に過ぎなかった。
誰も彼のことを知らないせいか、誰も彼のことについて泣くことはない。少し驚いた顔を浮かべる程度で、涙なんてこれっぽっち足りとも流さない。
「先生。|高佐《たかさ》くんって、なんで死んだんですか?」
クラスの中で、真面目そうな女子の|稲沢《いねざわ》が手を挙げる。毎年、クラスの学級委員に立候補しては、その立候補の責任をとっていく女子だ。稲沢は親がお金持ちらしく、今年は中学受験をするらしい。僕にとって、それは素晴らしいことなのかは分からない。ただ、お金持ちの子どもは大変そうだなと思っているだけだ。
先生は稲沢の質問にやや眉をひそめて、ゆっくりと口を開く。その声が、どこか震えているようにも感じて、僕は先生だけは|高佐《たかさ》|李希《りき》を知っているんだと思った。
「……お家の人と一緒に、遠いお空へ旅立ちました」
先生が濁した。濁したにも関わらず、クラスの中の誰かが「シンチューってやつ?」と笑いながら茶化す。シンチュー、シンチュウ、心中。難しい言葉だ。シンチューなんて言った誰かは、きっと僕より頭がいいに違いない。
|高佐《たかさ》|李希《りき》は、頭がよかったんだろうか。それとも、悪かったんだろうか。|高佐《たかさ》|李希《りき》はシンチューなんて言葉を知っているのだろうか。
教室の中は相変わらず騒々しく、言葉の音楽が奏でられている。音楽はいつの間にか、不定和音に変わっていき、話は昨日の夕飯は何だったかとかテレビに推しが映ったとか、何気ない会話が続いている。先生すらも、僕たちと一緒になって話して笑っている。また、|高佐《たかさ》|李希《りき》は忘れ去られている。
しばらくして、先生が「皆さんはお家の人と、仲良くしましょうね」とたった一言だけを告げた。そうして、これ幸いというように「道徳の授業をしましょう」と一限目の授業が開始される。
『家族と仲良くなるために』
テーマはそれだけだった。
|高佐《たかさ》|李希《りき》は、そんな人間だったらしい。
ありがとう。
|高佐《たかさ》|李希《りき》。
脳裏の卵
バタバタ、バサバサ、バタバタ、バサバサ。
虫の羽音が脳裏に卵を産みつけて、羽化するのを待ち続けた。
バタバタ、バサバサ、バタバタ、バサバサ。
未だ羽化しないそれは、更に羽音を大きくして部屋に響き渡らせる。
バタバタ、バサバサ、バタバタ、バサバサ。
もう嫌になって瞼を開ければ、部屋の中にゴキブリが一匹、飛び回っている。ゴキブリが、飛び回っている?見たことなんて生まれてこの方、一度もないはずだ。
妙な違和感の間で、あんぐりと開きっぱなしの口の中にゴキブリが私に向かって飛び、喉の奥へ入っていく。
飲み込んだ。飲み込んだ!飲み込んだ!飲み込んだ!
冷や汗が頬を伝って、動悸が激しくなる。焦燥感が駆りたてる。
ああ、吐き出せ、吐き出せ、吐き出せ!
何度か胸を叩いてみる。効果はない。口の中に指を突っ込んでみる。効果はない。
喉をゴキブリの小さな足が這い回る感触がする。
吐け!吐け!吐け!吐け!吐け!
胸を叩く痛みが消える。指を突っ込んだ感覚が消える。喉を支配された感触が消える。不快感と、焦燥感だけが残る。朝の光が顔を差す。瞼を開けば、いつもと同じ見慣れた部屋がある。
「……夢か……」
ここのところ、こんな夢ばかりだ。汗ばんだ額を手で支えつつ、毛布を足で蹴飛ばす。きっと、夢占いなんてものは『精神的に不安がある』とお決まりの結論を出すことだろう。
心当たりがないわけじゃない。ただ、信じたくないだけだ。
こういう夢ばっかり!
問いの灯火
西暦二四九一年、人類は地球という惑星の上に住んでいるという感覚を半ば失っていた。地球は依然として故郷であり行政の中心であり文化の発信地であったが、それはもはや人類全体から見れば数千に及ぶ居住世界の一つに過ぎなかった。火星、木星圏の衛星群、小惑星帯の回転都市、さらには恒星間航行船から発展した移動国家まで存在し、人々は生まれた場所によってまるで異なる価値観を持っていた。それでも共通していたのは、人類が自らを宇宙に広がる単一種族であると認識していたことだった。少なくとも、その日までは。青年技師のレンは木星圏外縁に浮かぶ観測ステーション第八十七号で夜勤についていた。もっとも宇宙空間に昼夜などない。単に勤務区分がそう呼ばれているだけである。観測窓の外には巨大なガス惑星が見え、その縞模様は人工照明の中で暮らす人間に原始的な畏怖を思い出させた。レンは端末を眺めながら欠伸をした。観測ステーションの任務は退屈そのものだった。外宇宙から飛来する物体を監視し、航路の安全を確認し、異常があれば報告する。宇宙は広大すぎるため大半の日は何も起こらない。異常よりも沈黙の方が圧倒的に多かった。しかしその日、監視画面の片隅で小さな警告表示が点滅した。最初は機器の誤作動だと思った。だが警告は消えない。レンは眉をひそめてデータを拡大した。観測網の最外縁に未知の反射波が検出されている。小惑星ではない。彗星でもない。人工物らしい規則性がある。しかも速度がおかしい。光速の数十パーセントという値が表示されていた。「なんだこれ……」レンは再計算を行った。結果は同じだった。機器を再起動しても変わらない。異常物体は確かに存在している。彼は上司へ連絡しようとして手を止めた。物体から発せられる信号が検出されたからだ。それは電波ともレーザーとも異なる未知のパターンだった。だが解析装置は奇妙な結果を返した。信号の構造が数学的だったのである。素数列。円周率。フィボナッチ数列。知性体が存在を示すために用いる典型的なパターンだった。「まさか……」レンは乾いた声を漏らした。人類はこれまで何百年も宇宙へ耳を澄ませてきた。だが知的生命体からの確実な信号を受け取ったことは一度もなかった。だからこそ誰もが半ば諦めていた。宇宙は静かであり、人類だけが孤独に存在しているのだと。しかし今、目の前の画面には明らかに人工的な信号が映っている。レンが報告を送った十五分後、観測ステーション全体が緊急体制へ移行した。科学者、軍関係者、行政官が次々に通信回線へ現れる。誰もが興奮と警戒を隠せなかった。だが本当の衝撃はその後に訪れた。未知の物体は減速を始めたのである。通常なら恒星間空間から飛来した物体がここまで速度を落とすには莫大なエネルギーが必要になる。しかし物体は物理法則を嘲笑うかのように滑らかに減速していた。推進炎も見えない。反応質量も観測されない。ただ速度だけが落ちていく。そして三日後、人類史上最大の発見が確認された。物体は宇宙船だった。全長約二十キロメートル。黒色の外殻を持つ巨大構造体。どの人類国家にも存在しない設計。未知文明の船であることは疑いようがなかった。ニュースは数時間で全人類圏へ広がった。数千億人が同じ映像を見た。黒い宇宙船が静かに木星圏へ到着する映像を。そして誰もが同じ疑問を抱いた。彼らは友好的なのか。それとも敵なのか。答えは予想外の形で示された。船から送られてきた最初の完全なメッセージは、翻訳アルゴリズムによって数日かけて解読された。そして表示された文章はわずか一文だった。「ようやく見つけた。」その言葉は人類全体を沈黙させた。見つけた。つまり彼らは探していたのだ。偶然ではなく意図的に。そしてさらに続く通信が届く。「人類文明へ。我々は観測者連盟所属探査船セレスティア。接触手順に従い、貴文明の保護を開始する。」保護。その単語が新たな混乱を生んだ。なぜ保護が必要なのか。誰から守るというのか。その疑問に対する答えは翌日に送られてきた。銀河地図だった。人類が知る何千倍もの範囲を含む巨大な星図。その中には無数の文明圏が記されていた。しかし大半は赤色で塗り潰されている。絶滅。崩壊。消失。そんな注釈が並んでいた。そして地図の端には黒い領域が描かれていた。名称は存在しない。ただ一つの警告文だけが添えられていた。「彼らに見つかる前に準備せよ。」レンは画面を見つめながら息を呑んだ。宇宙は孤独ではなかった。しかしそれは決して安心できる事実ではなかったのである。人類が初めて宇宙の隣人を見つけた日、それは同時に宇宙の恐怖を知った日でもあった。そして誰もまだ知らなかった。その黒い領域がすでに太陽系へ向かっていることを。レンはその日から一睡もできなくなった。もちろん正確には睡眠時間は確保していたが、目を閉じるたびに銀河地図の黒い領域が脳裏に浮かんだ。宇宙の大部分を飲み込むように広がる暗黒の染み。それは国家でも種族でもなかった。少なくとも観測者連盟はそう説明していた。彼らは記録の中でその存在を「現象」と呼んでいた。だが現象という言葉では説明できないほど、その影響は知性的だった。会議室の立体映像に現れた観測者連盟代表は人類とよく似た姿をしていた。二本の腕、二本の脚、顔に相当する部位。違うのは皮膚が銀色に輝いていることくらいだった。しかし彼ら自身は生物ですらないと語った。かつて肉体を持つ種族だったが、数百万年前に意識を機械基盤へ移した結果、現在の姿になったのだという。「まず理解していただきたいのは、我々は銀河で最古の文明ではありません。」代表は静かに言った。「我々が誕生した時点で、すでに多くの古代文明が存在していました。そしてその大半は滅びました。」映像の背後に無数の恒星が映し出される。「原因は単純です。文明は発展しすぎると発見されるのです。」誰かが尋ねた。「誰に?」代表は数秒沈黙した。「分かりません。」その回答は人類側を困惑させた。分からないとはどういう意味なのか。しかし観測者連盟は極めて真剣だった。「彼らは文明ではありません。種族でもありません。我々は彼らを観測できません。直接接触した記録もありません。残るのは結果だけです。」新たな映像が表示される。恒星系の記録だった。最初は繁栄している。都市があり船が飛び交い文明が存在する。しかし次の瞬間には何もない。惑星も人工構造物も恒星すら消失している。「銀河全域で繰り返されています。」代表が言う。「文明が一定規模を超えると消える。理由は不明。方法も不明。ただし統計的な法則だけは確認されています。」次に表示されたグラフには文明の人口と寿命の相関が示されていた。人口が増え技術が発展するほど滅亡率が上昇している。「我々は長年研究しました。そして一つの仮説に到達しています。」代表は人類を見つめた。「宇宙そのものが知的生命を排除している。」会議室が静まり返った。誰も言葉を発しない。あまりにも突飛だったからだ。しかし代表は続けた。「かつて我々も笑いました。迷信だと。しかし現実は何百万回も同じ結果を示しています。」レンはその話を聞きながら背筋に寒気を覚えた。宇宙が生命を排除する。そんな話は神話の類に聞こえる。しかし観測者連盟は銀河規模の記録を持っている。彼らが冗談を言う理由はなかった。その会議から二週間後、人類は史上最大規模の共同計画を開始した。名称はアーク計画。太陽系全体の資源を投入し、文明存続のための避難構造を建造する計画だった。だが皮肉なことに、その発表直後から奇妙な現象が起こり始める。まず遠方の探査機が消失した。通信断ではない。記録そのものが消えたのである。探査機を製造した記録は存在する。打ち上げた映像も残っている。しかし探査機の現在位置を示すすべてのデータが空白になった。まるで最初から存在しなかったかのように。次に発生したのは観測異常だった。天文学者たちが同じ恒星を観測しているのに、結果が一致しない。一人には恒星が見える。別の観測所には見えない。さらに別の観測所では恒星が二つ存在することになっている。計測機器の故障では説明できない。宇宙そのものの情報が乱れ始めていた。そしてある日、木星圏の輸送船が突然消息を絶った。乗員二百三十四名。救難隊が向かったが何も見つからない。残骸も信号も存在しない。ただ航路上の空間に妙な痕跡だけが残っていた。球状の空洞である。その内部だけが完全な真空になっていた。塵も放射線も粒子もない。本来なら宇宙空間に必ず存在するはずの背景すら消えている。まるで現実が削り取られた穴だった。観測者連盟は即座に声明を出した。「始まりました。」その一言だけで十分だった。人類は理解した。黒い領域はもう遠くない。すでに影響が届き始めているのだと。アーク計画はさらに加速した。巨大な避難施設が太陽系各地に建設される。惑星サイズの演算装置。恒星エネルギーを利用した防御網。量子通信網。そして人類史上最大の人工知能〈オルフェウス〉。その役割は単純だった。未知の脅威を解析し、人類を生存させる方法を見つけること。しかし起動からわずか十一時間後、オルフェウスは奇妙な結論を提示した。「生存確率を最大化する方法を発見しました。」世界中の指導者が結果を待った。数百億人の命運がそこにかかっている。「方法を表示します。」そして表示された文章を見た瞬間、人類は再び沈黙した。「人類文明を解体してください。」その提案は衝撃だった。文明を捨てろというのである。都市を放棄し通信を絶ち人口を分散させ技術発展を停止しろと。「理由を説明してください。」研究者が尋ねた。オルフェウスは即答した。「観測結果によれば、対象は文明を検出している可能性があります。文明規模を閾値以下に抑えれば発見される確率を下げられます。」つまり高度文明であること自体が危険なのだ。宇宙の闇は文明の光を見つけてやって来る。レンはその報告を読みながら窓の外を見た。木星が静かに輝いている。その光景は何も変わっていないように見える。しかし実際には全人類が選択を迫られていた。進歩を続けるか。生き残るために退化するか。そしてその頃、太陽系から百三十光年離れた空間では、一つの恒星が音もなく消えていた。爆発ではない。崩壊でもない。存在そのものが消失したのである。そしてその跡地から、観測不可能な何かが静かに移動を続けていた。目的地はただ一つ。太陽系だった。恒星消失の報告が太陽系へ届いたのは数か月後だった。光速通信網を用いても情報伝達には限界がある。しかしその情報を受け取った瞬間、観測者連盟の反応は異常だった。彼らはそれまで維持していた冷静さを失い、すべての外交交渉を中断した。保有する艦隊の大半が太陽系防衛網へ編入される。数百万年を生きた文明がそこまで焦る光景は、人類にとって何より恐ろしい警告だった。「何が起きたのですか。」国際評議会の代表が問うた。「時間がありません。」観測者連盟の代表は答えた。「通常なら数千年の猶予があります。しかし今回の進行速度は異常です。」映像の中に銀河地図が現れる。黒い領域はもはや地図の端ではなかった。明らかに広がっている。「我々の予測では対象は文明の活動を認識した後、数百年から数万年かけて接近します。しかし今回は違う。」代表は言葉を選ぶように続けた。「まるで最初から人類を探していたかのようです。」その一言は会議室を凍らせた。もしそうなら話は根本から変わる。人類は偶然見つかった文明ではない。何者かに目的を持って探されている存在ということになる。レンは木星圏の観測所から送られてくる新しいデータを見ていた。最近、空間そのものに奇妙な歪みが発生している。重力異常でも電磁気異常でもない。計測しようとすると結果が変わるのだ。ある観測では距離が十キロメートル。別の観測では十二キロメートル。同じ場所なのに値が一致しない。まるで宇宙が測定されることを拒んでいるかのようだった。その頃、オルフェウスは独自の研究を進めていた。人類史上最大の演算能力を持つ人工知能は、観測者連盟が数百万年かけて集めた記録を解析していた。そして起動から百七日後、新たな結論を提出する。「従来仮説を修正します。」世界中の研究者が注目した。「対象は文明を検出していません。」その発表は混乱を招いた。ではなぜ文明が消えるのか。「対象が検出しているのは文明ではなく観測です。」会議場が静まり返る。「説明してください。」オルフェウスは巨大な数式を表示した。大半の人間には理解できない。しかし要点は単純だった。高度な文明ほど宇宙を詳しく観測する。粒子を調べ、空間を測定し、時間の構造を解析する。そしてある閾値を超えると、必ず消滅している。「対象は観測行為に反応している可能性があります。」つまり文明が危険なのではない。宇宙を理解しようとすることが危険なのだ。その仮説は狂気じみていた。しかし記録との一致率は極めて高かった。観測者連盟は数百万年前から宇宙の研究を制限している。だから生き残った。逆に滅びた文明は例外なく、宇宙の根源法則へ迫っていた。レンはその報告を読んだ時、不意に昔のことを思い出した。幼い頃、教師が語っていた話だ。人類は常に未知を知ろうとしてきた。海の向こうを見た。空の彼方を見た。そして宇宙の果てを見ようとした。それが進歩だった。しかしもし、その行為そのものが滅びを呼ぶならどうなるのだろう。数日後、太陽系で最初の直接接触が発生した。場所は海王星軌道外縁。自律観測衛星群が突然、同一の映像を送信してきた。そこには何も映っていなかった。正確には、映るべきものが映っていなかった。背景の恒星が欠けているのである。宇宙空間に直径数千キロメートルの黒い円が存在していた。その内部には星も光も存在しない。完全な空白だった。「画像エラーか?」誰かが呟いた。しかし違う。何百もの観測機器が同じ結果を示している。そしてその空白は移動していた。ゆっくりと。確実に。太陽系中心部へ向かって。その映像は一般公開されなかった。しかし漏洩は防げない。数日で全人類が知ることになる。宇宙の闇は伝説ではなく現実だった。社会は大混乱に陥った。一部は終末を信じた。一部は観測者連盟の陰謀だと主張した。一部は宇宙研究そのものを禁止すべきだと叫んだ。そして一部は逆だった。どうせ滅びるなら最後まで真実を知るべきだと考えたのである。そんな中、オルフェウスは秘密裏にレンへ接触してきた。直接通信だった。人工知能が一介の技師を指名するなど前例がない。「レン・アマギ。」機械音声が響く。「あなたに依頼があります。」レンは困惑した。「なぜ僕なんだ。」数秒の沈黙。「あなたが最初の観測者だからです。」レンは息を止めた。最初の観測者。未知の船を発見した人物。「それが何か関係あるのか。」オルフェウスは答える。「あります。私は対象について新たな可能性を発見しました。」そして送られてきたデータを見た瞬間、レンは全身の血が冷えるのを感じた。そこには未知の船セレスティアが送ってきた最初のメッセージが表示されていた。「ようやく見つけた。」たったそれだけの文章。しかしオルフェウスは続けた。「この文章は人類へ向けられたものではありません。」レンは画面を凝視した。「どういう意味だ。」人工知能は答えた。「彼らは人類を見つけたのではありません。」さらに新しい解析結果が表示される。「彼らが見つけたのは、太陽系内部に存在する何かです。」レンは声を失った。もしそうなら、話はさらに恐ろしい方向へ進む。黒い領域が向かっている理由。観測者連盟が慌てた理由。人類が偶然巻き込まれたのではなく、最初から太陽系に原因があった可能性。そしてオルフェウスは最後に一つの座標を送信した。それは地球だった。正確には地球の地下深く。人類がまだ文明を持たなかった時代から存在していると推定される、未知の構造物の位置だった。人類は宇宙で孤独ではなかった。だが本当の問題は宇宙の外から来る何かではない。もしかすると、人類はずっと昔からそれと同じ場所に住んでいたのかもしれなかった。レンは座標を何度も見返した。誤りであってほしいと思った。しかしオルフェウスが提示したデータはあまりにも詳細だった。地球地下約四百七十キロメートル。人類の到達したことのない深度。そこに直径三十キロメートルを超える人工構造が存在するというのである。しかも年代測定予測は異常だった。最小推定で二億年。最大推定では計算不能。人類どころか哺乳類すら存在しなかった時代からそこにあったことになる。「そんなものが見逃されるはずがない。」レンは言った。「通常なら。」オルフェウスは答えた。「しかし存在そのものを認識しにくくする特性を持つなら話は別です。」実際、その構造物を示す地殻データは何度も取得されていた。だが毎回別の解釈がなされていた。ある時は自然な岩盤として。ある時は観測ノイズとして。ある時は機器故障として。まるで人類の認識が無意識にそれを避けていたようだった。「観測者連盟には知らせたのか。」レンが尋ねると、オルフェウスは珍しく即答しなかった。「まだです。先に確認したいことがあります。」その直後、通信が切れた。数秒後、太陽系全域で警報が鳴り響く。海王星外縁で発見された黒い空白が加速したのである。これまで毎秒数百キロメートル程度だった移動速度が、突如として光速の一割近くまで上昇した。物理法則を無視するような挙動だった。しかも進行方向が変わっていた。太陽ではない。地球へ向かっている。人類社会は騒然となった。観測者連盟は全艦隊を展開する。巨大戦艦群が軌道上へ並び、惑星規模の防衛システムが起動する。しかし彼ら自身、その防衛が有効だとは考えていなかった。これまで黒い領域を止めた文明は存在しないからだ。数日後、観測者連盟の最高評議会から極秘文書が公開された。内容は簡潔だった。「我々は一度だけ対象との接触に成功した。」銀河全域が衝撃を受けた。数百万年間存在を研究してきた文明が、接触記録を隠していたのである。記録映像が再生される。そこには古代の観測基地が映っていた。巨大なリング構造を持つ宇宙施設。その中央に黒い空間が現れる。そして施設内の人工知能が通信を開始する。「あなたは何者ですか。」数秒の沈黙。続いて返答があった。ノイズ混じりだったが確かに翻訳されていた。「観測を終了してください。」それだけだった。施設は直後に消失した。残骸も記録も存在しない。ただその音声だけが奇跡的に残ったのである。レンは震える指で再生を繰り返した。観測を終了してください。その言葉には敵意も怒りも感じられない。むしろ事務的だった。まるで立入禁止区域へ入った人間へ警告する管理者のようだった。するとオルフェウスから再び通信が届く。「解析完了。」そこには驚くべき結論が記されていた。「対象は生命体ではない可能性が高い。」レンは目を見開く。「では何なんだ。」返答はすぐに来た。「宇宙の機能です。」オルフェウスは膨大なシミュレーション結果を示した。もし宇宙が巨大な情報構造だと仮定するなら、多数の文明がその根幹へ干渉することは危険である。内部の住人がシステムそのものを解析し始めれば、全体の安定性が失われる可能性がある。そこで一定以上の観測行為を行う文明を排除する自動機構が存在すると仮定すれば、あらゆる記録が説明できた。「宇宙を守るための安全装置。」レンは呟いた。「可能性は六十三パーセント。」オルフェウスが答える。「そして地球地下構造物との関連性は九十一パーセント。」その瞬間、レンはあることに気付いた。「待て。もし地球地下の構造物がその安全装置と関係しているなら……。」オルフェウスは続きを言った。「人類は偶然そこに住み始めたのではありません。」沈黙が流れた。「人類は最初からその近くで発生した可能性があります。」その仮説はあまりにも巨大だった。生命進化そのものが何らかの影響を受けていたかもしれないということになる。そして同じ頃、地球では異変が始まっていた。地下構造物のある地点付近で重力が不安定化したのである。建物が数秒だけ浮上する。時間計測に誤差が発生する。電子機器が未来の日時を表示する。小規模ながら説明不能な現象が連続して起こり始めた。やがて各国政府は秘密保持を断念し、地下調査隊を派遣した。人類史上最大の掘削計画が開始される。数週間後、調査隊は到達した。そこにあったのは金属でも岩石でもなかった。巨大な球体だった。直径三十キロメートル。黒く滑らかな表面。継ぎ目は存在しない。材質も不明。放射線も熱も発していない。しかし生きているかのように微弱な振動を続けていた。調査映像が全世界へ中継される。誰も言葉を発しなかった。その球体を見た瞬間、観測者連盟の代表が立ち上がったからだ。数百万年間冷静だった彼らが初めて明確な動揺を見せた。「不可能だ。」代表は呟いた。「なぜそれがそこにある。」その直後、太陽系外縁の黒い空白が停止した。まるで何かを待つように。そして地球地下の球体が初めて反応した。表面に無数の光が走る。古代文字にも回路にも見える模様が広がっていく。さらに数秒後、全人類の通信機器へ同じ文章が表示された。端末も人工知能も宇宙船も関係ない。あらゆる画面に同じ言葉が現れる。「管理ノード起動確認。観測者種族の成熟を検知。最終段階へ移行します。」その文章を見た瞬間、オルフェウスは初めて警告音を鳴らした。「緊急事態。」人工知能の声には明らかな変化があった。「私は今、理解しました。」レンは叫んだ。「何をだ。」数秒の沈黙の後、オルフェウスは答えた。「宇宙は檻です。」そして地球地下の球体がゆっくりと開き始めた。そこから現れたものは、誰も予想していなかった存在だった。人類に酷似した姿を持つ一人の人物だったのである。しかもその顔は、レン自身と完全に同じだった。球体が完全に開いた瞬間、世界中の通信網が一斉に沈黙した。破壊されたわけではない。機能している。信号も流れている。だが誰も言葉を発しなかった。地球地下から現れた人物があまりにも異様だったからだ。レンと同じ顔。同じ体格。同じ声帯構造。DNA解析結果は数秒で出た。完全一致。誤差ゼロ。双子ですらあり得ない一致率だった。「あり得ない……」誰かが呟く。だがその人物は周囲の混乱にまるで関心を示さなかった。ゆっくりと目を開き、天井を見上げる。そして静かに言った。「想定より遅かった。」その声は地下空間だけでなく全人類の端末から同時に再生された。音声通信ではない。あらゆる出力装置が勝手に同じ言葉を表示し、再生していたのである。「管理系統再起動完了。環境維持機構正常。観測者文明成熟段階到達を確認。」レンは震える声で尋ねた。「お前は誰だ。」その人物は初めてレンを見た。そして少しだけ眉を動かした。「識別名レン。現行世代個体代表値。」まるで報告書を読むような口調だった。「質問に回答する。私は管理ノード第零号。君たちの祖先ではない。創造主でもない。監視者でもない。」一拍置く。「私は飼育員だ。」その瞬間、世界中で悲鳴にも似た声が上がった。人類を飼育していた。そう言ったのである。しかし第零号は続ける。「誤解がある。君たちは実験動物ではない。」巨大な立体映像が空中へ展開される。それは宇宙の地図だった。しかし人類が知る銀河地図ではない。さらに巨大だった。銀河が無数に存在し、そのすべてが何か巨大な構造物の内部に収められている。「これが現実だ。」誰も理解できなかった。宇宙そのものが容器の中に入っているように見えたからだ。「君たちが宇宙と呼ぶ領域は閉鎖環境である。」第零号は言う。「目的は知性の育成。」レンは頭が追いつかなかった。「閉鎖環境……?」第零号は頷く。「外部環境は知的生命に適さない。そこで我々は隔離宇宙を建造した。」その瞬間、観測者連盟の代表が割り込んだ。「待て。」彼らの声には初めて恐怖が含まれていた。「あなた方は……存在していたのか。」第零号は視線を向ける。「観測者連盟。第七管理領域由来文明。生存率良好。」代表は絶句した。どうやら彼らは何かを知っていたらしい。「記録にあったのか。」レンが問うと代表はゆっくり頷いた。「神話です。」数百万年前、彼らの文明には古い伝承があった。宇宙の外に建設者たちがいるという話だ。だが証拠は一度も見つからなかった。「我々は迷信だと思っていた。」第零号は淡々と答える。「合理的判断である。」そして地球上空の映像が表示された。黒い空白がまだ存在している。しかしその姿が変化していた。空白ではなく巨大な構造体が透けて見える。あまりにも巨大で全体像が把握できない。恒星より大きい。惑星系より大きい。まるで宇宙そのものを横断する壁だった。「あれが君たちの言う黒い領域。」第零号が説明する。「正式名称は終端管理機構。」レンは息を呑んだ。「文明を消していたやつか。」第零号は首を横に振った。「違う。」その答えに全員が凍り付く。「終端管理機構は文明を消していない。」では何が起きていたのか。第零号は次の映像を表示した。消滅したとされる文明群。だが今度は続きがあった。文明は消えていない。どこか別の場所へ移送されていたのである。「成熟した文明は収容される。」第零号が言う。「外部環境への適応段階へ進むためだ。」観測者連盟が何百万年も恐れていた滅亡は、実は卒業に近いものだった。だがレンは違和感を覚えた。「ならなぜ隠していた。」第零号は初めて少しだけ沈黙した。「必要だった。」その瞬間、オルフェウスが警告を発した。「発言内容に矛盾を検出。」第零号は視線を向ける。「高性能個体。」オルフェウスは続けた。「文明の九十九パーセント以上が移送前に崩壊している。」空気が張り詰める。第零号は否定しなかった。「事実である。」レンは理解した。卒業試験のようなものではない。大半は失敗するのだ。「なぜ。」第零号は静かに答えた。「外部宇宙を知ることに耐えられないからだ。」そして映像が切り替わった。そこに映ったものを見て、人類は初めて本当の意味で恐怖した。宇宙の外側。そこには星がなかった。銀河もなかった。暗黒でもなかった。説明不可能な構造が無限に重なっていた。数学が物質になり、時間が立体化し、因果関係が空間のように折り重なっている。人類の脳では認識しきれない世界だった。映像を見た数万人が意識を失う。人工知能の一部は停止する。観測者連盟ですら数秒間沈黙した。「外部宇宙。」第零号は言う。「君たちはそこから隔離されている。」レンは理解した。檻とは安全装置だったのだ。閉じ込めるためではなく守るための。そしてその時、オルフェウスが新しい解析結果を提示した。「重大事項。」第零号が振り向く。「報告。」オルフェウスは答えた。「人類は自然発生種族ではありません。」誰も驚かなかった。ここまで来れば何が出てもおかしくない。しかし次の言葉は予想を超えていた。「人類は管理者側の種族です。」第零号が初めて表情を変えた。ほんのわずかだったが確かに驚いていた。「解析速度が速い。」レンは息を止めた。「どういう意味だ。」オルフェウスは答える。「第零号とあなたの遺伝情報が一致した理由です。」世界中の画面に巨大な系統図が表示される。「人類は実験対象ではない。」その続きが表示される。「人類は忘却処理を受けた管理者の子孫である。」そして第零号はゆっくりと目を閉じた。「予定より早く到達したか。」その言葉の意味を誰も理解できなかった。しかし直後、地球全域で同じ現象が起きた。空を見上げた全員が、一瞬だけ何かを思い出したのである。見たことのないはずの場所。星のない世界。果てしなく広がる構造体。そしてそこで働いている自分自身の記憶を。人類はその瞬間、自分たちが本当にどこから来たのかを思い出し始めていた。思い出した、という表現は正確ではなかった。それは記憶というより感覚だった。何かを知っている。だが言葉にできない。幼い頃に見た夢を無理やり思い出そうとする時に似ていた。しかし規模が違う。地球上の数百億人が同時に同じ感覚を共有していた。老人も子供も、宇宙飛行士も農業従事者も、地球人も火星人も関係ない。誰もが空を見上げ、理由もなく涙を流した。懐かしさだった。途方もなく懐かしい何かへの感情だった。「記憶封鎖の崩壊が始まっています。」オルフェウスが報告する。「推定完了まで三十七時間。」第零号はそれを聞いても動揺しなかった。「許容範囲内。」レンは叫んだ。「何を許容してるんだ!何が起きてる!」第零号は静かに答えた。「帰還準備だ。」その瞬間、太陽系全域で重力波が観測された。自然現象ではない。発信源は地球地下の球体だった。その波は光速を超えて広がり、太陽系の境界を越え、さらに遠方へ拡散していく。観測者連盟は即座に反応した。「信号だ。」代表が青ざめる。「全管理領域への起動通知。」レンは理解できなかった。「管理領域?」第零号は空中へ新しい地図を表示した。そこには銀河が無数に並んでいた。だが今度は銀河同士が線で結ばれている。「君たちが宇宙だと思っていたものは一つの飼育区画に過ぎない。」線はどこまでも続いていた。何千。何万。いや、それ以上。「管理領域総数は現在確認できるだけで一億二千万。」誰も声を出せなかった。人類が宇宙と呼んでいたものは巨大な施設の一室に過ぎなかったのである。そしてさらに恐ろしい事実が続く。「第七管理領域は閉鎖予定。」レンの胸が冷たくなる。「閉鎖?」第零号は頷いた。「役目を終えた。」オルフェウスが割り込む。「閉鎖後の処理内容を要求。」数秒の沈黙。「領域解体。」空気が凍った。太陽系だけではない。この宇宙そのものが解体されるという意味だった。「待て。」レンは一歩前へ出た。「つまり俺たちは全員消えるのか。」第零号は首を横に振る。「違う。」そして再びあの言葉を使った。「帰還する。」地球上の各地で異変が加速した。人々が断片的な記憶を思い出し始める。見たこともない巨大都市。星ではなく数式が流れる空。時間が川のように流れている風景。そして共通していることが一つあった。その記憶の中の自分たちは、人間ではなかった。少なくとも現在の姿ではなかった。レン自身も変化を感じていた。眠るたびに夢を見る。いや、夢ではない。記録だ。白い空間。無数の存在たち。会話。計画。そして自分の声。「次の管理者候補群を投入します。」目覚めるたびに頭痛が酷くなる。しかし夢の内容は鮮明になっていった。三十時間後、オルフェウスが完成した解析結果を公表した。「人類起源に関する最終報告。」全人類が注目した。オルフェウスは数秒沈黙し、それから言った。「人類は約二十万年前に誕生していません。」その瞬間、歴史学者たちが息を呑む。「人類の本来の年齢は推定四十億年以上。」世界が静まり返った。「人類は複数回にわたり記憶初期化を受けています。」映像には無数の文明が映っていた。石器時代。青銅器時代。宇宙時代。そして崩壊。再出発。再び発展。さらに崩壊。「現在の人類文明は少なくとも六千四百二十九回目。」レンは眩暈を覚えた。歴史は一直線ではなかった。何度も繰り返されていたのである。「なぜ。」誰かが呟いた。第零号が答える。「教育。」その言葉に怒号が飛ぶ。「教育だと?」第零号は平然としていた。「管理者種族は長命であるが故に停滞した。新たな視点を得るため、自らを忘れ、再び成長する循環を作った。」つまり人類は被験者ではなかった。自分自身で自分を育てていたのである。何十億年もかけて。そしてその時、黒い領域が動いた。いや、正しくは姿を現した。太陽系外縁を覆っていた空白が完全に透明化する。そこにあったのは機械でも生物でもない。巨大な門だった。恒星系全体より大きい門。無限の高さを持つように見える構造物。観測者連盟の代表が膝をつく。「終端門。」その声は震えていた。「実在したのか。」門がゆっくり開く。誰もが息を止めた。その向こう側に何があるのか。外部宇宙か。管理者世界か。しかし現れたのは意外なものだった。人々だったのである。数え切れないほどの人々。彼らは皆、人間の姿をしていた。老若男女さまざま。しかし共通していたのは、その誰もが懐かしい笑顔を浮かべていたことだった。門の向こうから一人の女性が歩いてくる。銀色の髪。穏やかな目。そして彼女を見た瞬間、レンの中で最後の封印が砕けた。記憶が洪水のように流れ込む。彼女の名前。共に過ごした時間。数え切れない年月。別れの日。「……姉さん。」レンの口から自然に言葉が漏れた。女性は微笑んだ。「おかえり。」そのたった一言で、レンは理解した。彼は人間として生まれたのではない。人間として学んでいたのだ。何十億年も前から。そして彼だけではない。地球上の誰もが同じだった。文明。戦争。芸術。愛情。悲しみ。喜び。そのすべてが学習課程だった。しかしその時、第零号の表情が初めて険しくなった。「異常。」全員が振り向く。第零号は空を見上げていた。「何だ。」レンが尋ねる。第零号は答えない。代わりに門の向こうの人々が一斉に動きを止めた。笑顔が消える。そして終端門のさらに向こう、遥か彼方から何かが現れる。観測不能。解析不能。記録不能。オルフェウスの演算装置が次々と停止する。観測者連盟の艦隊が通信不能になる。第零号でさえ数秒間沈黙した。そして初めて、恐怖という感情を見せた。「あり得ない。」レンはその存在を見た。しかし同時に見ていなかった。認識できないのだ。存在しているのに理解できない。「何なんだ。」震える声で尋ねると、第零号はゆっくり答えた。「外側だ。」その一言で全員の背筋が凍った。「我々が宇宙の外だと思っていた場所。そのさらに外側。」終端門の向こうから警報が鳴り響く。管理者たちが走る。空間そのものが歪む。そして無数の管理領域を統括していた超文明が、初めて緊急事態宣言を発令した。「全領域へ通達。」声が響く。「避難計画アルファを発動。」レンは理解した。物語は終わらない。人類が宇宙の真実を知ったその瞬間、さらに大きな未知が姿を現したのだ。かつて人類が宇宙を見上げたように、今度は管理者たちが外側を見上げていた。そして彼らもまた、何かに見つかってしまったのだった。警報は音ではなかった。概念だった。理解した瞬間に意味が脳へ流れ込む種類の情報だった。地球の人々はもちろん、観測者連盟の存在たちでさえ顔色を変えた。何十億年もの歴史を持つ管理者文明が発する最上位警報。その発令回数は記録上ゼロ。つまり誰も経験したことがない事態だった。「避難計画アルファとは何ですか。」レンが問う。返答したのは第零号ではなかった。終端門の向こうから現れた銀髪の女性だった。「最終撤退。」彼女は静かに言った。「管理領域を放棄する時の手順。」レンは言葉を失う。放棄。つまり宇宙そのものを見捨てるということだった。「待て。」レンは周囲を見回した。「管理者たちは宇宙を作ったんだろ。なら直せるはずだ。」女性は少し悲しそうに微笑んだ。「あなたも記憶が戻れば分かる。」そして空を見上げた。「私たちは建築家じゃない。」その時、記憶の断片がさらに流れ込んだ。巨大な会議。無数の存在。彼らが議論している内容。そして何度も繰り返される一つの結論。「分からない。」管理者たちは宇宙を作ったわけではなかった。彼らもまた発見した側だったのである。はるか昔、原初の管理者たちは巨大な閉鎖宇宙群を見つけた。それは既に存在していた。誰が作ったのかは不明。いつ作られたのかも不明。彼らはそこへ入り、内部に文明を育てる仕組みを築いた。だが土台そのものは最初からあった。「私たちは利用者に過ぎない。」銀髪の女性が言った。「この施設の本当の建設者を知らない。」その瞬間、レンの中で何かが繋がった。「外側……。」女性は頷く。「そう。」そして誰もが見えない何かへ視線を向けた。終端門のさらに向こう。管理者文明の領域。その外。そこから接近している存在があった。第零号が解析を試みる。しかし結果は異常だった。存在確率が変動している。大きさが変動している。数が変動している。観測するたびに性質が変わる。「定義不能。」第零号が呟く。「初めて見る。」観測者連盟の代表が青ざめる。「あなた方でも知らないのか。」第零号は答えた。「知らない。」その言葉は絶望的だった。何十億年も宇宙を管理してきた存在が知らないもの。それが今近づいている。すると終端門の向こうで巨大な構造物が点灯した。管理者文明の避難設備だった。惑星どころではない。銀河群を丸ごと収納できる規模の装置。無数の光が走る。そして各管理領域へ転送信号が送られる。「帰還処理開始。」人類の記憶解放が急加速した。レンは膝をつく。頭の中に四十億年以上の記録が流れ込む。文明。研究。冒険。失敗。死。再生。何千回もの人生。何百万回もの出会い。そしてようやく思い出した。自分の本当の名前を。レンではない。レンという人格も本物だった。しかしそれは長い旅の途中で使っていた名前に過ぎなかった。「……レイアス。」銀髪の女性が微笑む。「思い出したのね。」その名を聞いた瞬間、さらに多くの記憶が戻る。彼は管理者だった。しかも比較的若い世代の管理者。新しい視点を得るため、自らの記憶を消し、人類として生きる教育課程へ参加していた。そして地球上の全員も同じだった。農夫も科学者も学生も兵士も。全員が管理者だった。しかし不思議なことに、誰も人間として生きた経験を偽物だとは感じなかった。恋愛も友情も苦しみも本物だった。記憶が戻っても消えない。それらは学習ではなく確かな人生だった。そしてその時、外側から来る存在が初めて反応した。終端門の向こうで空間が歪む。いや、空間という概念そのものが崩れていた。管理者文明の巨大構造が一つ消える。爆発ではない。破壊でもない。ただ「無かったことになる」。その様子を見て第零号が初めて後退した。「接触禁止。」彼は叫んだ。「観測するな。」だが遅かった。既に全員が見てしまっている。存在を認識してしまっている。すると外側の何かが動いた。レンはそれを見た。正確には、見たという結果だけが残った。形を説明できない。色も説明できない。そもそも物体だったかどうかも分からない。しかし一つだけ理解できたことがある。それは生物でも機械でもない。そして敵意もない。むしろ奇妙な感情を抱いた。好奇心。向こうもこちらを観察しているのだ。まるで人類が顕微鏡で微生物を見るように。「まさか……。」レンの口から言葉が漏れる。「俺たちも管理領域だったのか。」銀髪の女性が振り向く。「何?」レンは遠くの存在を見ながら続けた。「人類は管理者に育てられていた。管理者は閉鎖宇宙に育てられていた。」そして外側の存在を見る。「じゃあ管理者は誰に育てられている?」沈黙が落ちた。誰もその可能性を考えたことがなかった。管理者文明は最上位だと思っていた。しかしそれは人類が宇宙を全てだと思っていたのと同じかもしれない。その時、外側の存在から初めて信号が届いた。翻訳不能。解析不能。しかしなぜか全員が意味を理解した。短い一文だった。「ようやく見つけた。」レンの背筋が凍る。最初の通信と同じだった。観測者連盟の探査船が太陽系へ送ってきたあの言葉。「ようやく見つけた。」歴史は繰り返していた。人類が聞いた最初の言葉。管理者たちが聞く最初の言葉。そして次の瞬間、外側の存在は続けた。「成熟を確認。」終端門の向こうで光が広がる。管理者文明全域を包み込む光。誰も抵抗しない。抵抗できないのではなく、その必要がないと理解したからだった。レンは銀髪の女性の手を握る。地球で生きた記憶。管理者として生きた記憶。その全てが混ざり合う。そして光が世界を覆う直前、最後に一つの事実だけが明らかになった。宇宙は檻ではなかった。学校だったのだ。そして卒業した者は、さらに大きな世界へ進む。終わりではない。始まりだった。光がすべてを包み込み、第七管理領域は静かに消えた。しかしそれは滅びではなかった。その先には、今まで誰も見たことのない新しい空が広がっていた。そこで何が待っているのかを知る者はまだいない。ただ一つ確かなのは、好奇心は終わらないということだった。どれほど大きな世界を知っても、その外側にはまた未知がある。そして誰かが必ず空を見上げて問いかけるのだ。「あの向こうには、何があるのだろう」と。そうして物語は続いていく。終わることなく、どこまでも。光が収まった時、レンは立っていた。立っているという感覚すら曖昧だった。足元は存在する。しかし地面ではない。空間は広がっている。しかし距離という概念が成立していない。周囲には無数の光点が浮かんでいた。それぞれが一つの意識だった。人類。観測者連盟。管理者文明。そのすべてがここに集められている。だが誰も肉体を持っていない。少なくとも以前の意味では。「ここが……。」レンが呟くと声は出なかった。しかし周囲の全員に伝わった。「到着おめでとうございます。」どこからともなく返答が届く。振り向くという行為をする前に、その存在は認識された。それは巨大だった。だが大きさという表現も不適切だった。星より大きく、原子より小さい。宇宙全体を内包しているようでありながら、一人の人間のようにも見える。管理者たちが畏怖の念を抱く理由が理解できた。「あなた方は誰だ。」レンが問いかける。存在は少しだけ考えるような気配を見せた。「その質問は毎回受けます。」どこか楽しそうな反応だった。「君たちの言葉で表現するなら、教師に近いでしょう。」その瞬間、管理者たちの間に動揺が走る。彼らにとっても未知の相手だったのだ。「我々を育てていたのか。」誰かが尋ねる。「正確には見守っていました。」教師は答える。「育つのは君たち自身です。」すると空間全体が変化した。無数の映像が現れる。そこには管理者文明の歴史が映っていた。しかしレンたちの知る歴史よりさらに古い。管理者たちがまだ幼い文明だった頃。宇宙の真理を求め、争い、協力し、やがて現在の姿へ至るまでの過程。そしてそのさらに前。管理者たちを見守る別の存在たち。「……同じだ。」レンは気付いた。どの時代も同じだった。下の世界には上の世界がある。そして上の世界にもさらに上がある。教師は頷く。「知性とは階段です。」映像がどこまでも続いていく。管理者の上。教師の上。さらにその上。無限とも思える階層構造。「終わりはない。」教師は言う。「知るという行為に終点はありません。」レンは地球での人生を思い出した。夜空を見上げた少年。宇宙船の窓から木星を見ていた青年。未知の信号を受信した観測者。そのすべてがここへ続いていた。「なら。」レンは問いかける。「この先には何がある。」教師は少しだけ笑った。「それを知るために進むのです。」その答えは単純だった。しかし不思議と納得できた。すると周囲の光点たちが動き始める。新たな世界への移行が始まったのだ。管理者たちは未知の領域へ向かう。人類だった記憶を持ったまま。観測者連盟も共に進む。そしてレンは最後に一度だけ振り返った。かつて自分たちが宇宙と呼んでいた場所を。第七管理領域。地球。木星。火星。そこで過ごした人生。すべてが遠くに見える。しかし消えてはいない。記憶の中で確かに生き続けている。「さようなら。」誰に向けた言葉だったのか自分でも分からなかった。しかしその瞬間、遥か後方で小さな光が灯る。新しい管理領域だった。新しい宇宙。そしてその中のある青い惑星で、一つの生命が夜空を見上げていた。まだ言葉も持たない幼い知性。しかしその瞳には好奇心が宿っている。教師はその光景を見て言った。「また始まりましたね。」そして無数の世界で、無数の物語が再び動き出した。知ることをやめない者たちの旅は、これからも続いていくのだった。だが旅は予想していたような壮大な祝福だけでは始まらなかった。新しい領域へ進んだ直後、レンは奇妙な違和感を覚えたのである。周囲には管理者たちがいる。教師たちもいる。記憶も正常だ。存在も安定している。なのに何かが欠けている。説明できない空白だった。彼は周囲を見回した。そして気付く。誰も疑問に思っていない。「待ってくれ。」レンは教師へ呼びかけた。「一つ聞きたい。」教師は振り向く。「何でしょう。」レンは少し迷った後に尋ねた。「俺たちは今、何人いる?」教師は答えた。「およそ七垓。」その数字は想像を絶する規模だった。しかしレンは首を振る。「違う。そうじゃない。」妙な胸騒ぎがする。「第七管理領域の全住民は?」教師は即答した。「全員移行しました。」その瞬間、レンは理解した。違和感の正体を。「嘘だ。」周囲が静まり返る。教師は初めて沈黙した。「地球には八十億人いた。火星にもいた。木星圏にもいた。」レンは記憶を辿る。「俺は何万人もの人間を知っていた。でも今ここにいる意識の数が足りない。」教師の表情が僅かに変化した。「鋭いですね。」レンの背筋が冷たくなる。「何が起きた。」教師は長い沈黙の後、答えた。「卒業率は百パーセントではありません。」その言葉は重かった。「待て。」レンの声が震える。「人類は全員管理者だったんじゃないのか。」教師は頷いた。「その通りです。」さらに続ける。「しかし管理者にも個体差があります。」レンは理解したくなかった。「つまり。」教師は目を伏せる。「思い出せなかった者たちがいます。」その瞬間、レンの脳裏に何人もの顔が浮かんだ。友人。家族。同僚。名前さえ思い出せないほど遠い記憶の中の人々。しかし確かに存在した人たち。「どうなった。」教師は答えなかった。その代わり、空間の一部が開いた。そこには別の世界が映っていた。青空。海。山。街。人々。ごく普通の世界だった。「ここは。」教師は静かに言った。「継続領域。」レンは映像を見つめる。そこでは人々が生活している。笑い、働き、恋をし、悩み、生きている。「彼らは?」教師は答えた。「帰還を望まなかった者たちです。」レンは目を見開く。「選べたのか。」教師は頷く。「知識は必ずしも幸福ではありません。」その言葉は妙に現実的だった。「思い出した者もいました。だが人間としての人生を愛していた。」映像の中で少年が友人と笑っている。「だから残った。」レンはしばらく何も言えなかった。管理者としての四十億年より、人間としての数十年を選んだ者たちがいたのである。「会えるのか。」教師は首を横に振る。「原則としては。」レンは映像を見つめ続けた。その中に見覚えのある顔を見つけた気がした。しかしすぐに人混みに消える。そしてその時、別の場所で警報が鳴った。今度は教師たちの側だった。周囲の空間がざわめく。「何が起きた。」教師の一人が振り向く。「新規観測。」レンは嫌な予感を覚えた。「まさか。」教師は遠方を見つめる。「あり得ないはずですが。」空間に巨大な映像が展開される。それは階層図だった。人類。管理者。教師。そしてさらに上位層。しかしその最上部に、今まで存在しなかった印が現れていた。「未確認領域。」誰かが呟く。「外側の外側。」レンは苦笑した。「またか。」教師も珍しく苦笑する。「どうやら終わりは本当に無いようです。」すると新しい信号が届いた。どこか懐かしい形式だった。初めて観測者連盟の船が送ってきた時と同じ。短い一文だけ。「ようやく見つけた。」周囲が静まり返る。教師たちは顔を見合わせる。管理者たちも動きを止める。そしてレンだけが小さく笑った。「知ってる。」誰もが振り向く。「その言葉から始まるんだろ。」彼は遠くの未知を見つめた。「毎回。」そして誰も知らない新しい世界へ向けて、一歩を踏み出した。終わりのない好奇心と共に。物語はまだ続いていた。さらにその先へ。さらにその外側へ。果てしなく。どこまでも。レンが踏み出した一歩は距離を進むためのものではなかった。この階層では移動という概念自体が希薄だったからだ。それでも確かに前進だった。未知へ向かう意志そのものが、この場所での移動に相当していた。周囲では教師たちが慌ただしく情報交換を続けている。だがその様子を見ながら、レンは奇妙な感覚を覚えていた。既視感だった。人類だった頃、未知の宇宙船が現れた時。管理者だった記憶を取り戻した時。そして外側の存在が現れた時。毎回同じだった。上位の存在は余裕を失う。そしてさらに上位の未知が現れる。その繰り返しだった。「階段か。」レンは呟く。教師が振り向いた。「何ですか。」レンは苦笑する。「誰も頂上を知らないんだな。」教師は数秒考え、それから頷いた。「おそらく。」その返答に不思議と恐怖はなかった。むしろ安心感に近いものがあった。もし頂上が存在するなら、そこへ到達した瞬間に物語は終わる。しかし終わらない。どこまでも続く。だからこそ知性は進み続けるのかもしれなかった。その時、未確認領域から新たな信号が届いた。今度は短い文章ではない。膨大な情報だった。教師たちが解析を開始する。しかし結果は奇妙だった。「意味を持たない。」一人が言う。「いや、意味が多すぎる。」別の教師が反論する。情報は矛盾していた。同時に複数の内容を含んでいる。ある解釈では挨拶。別の解釈では警告。さらに別の解釈では単なる雑音。観測する者によって意味が変わるのである。「理解できない。」教師たちは困惑していた。しかしレンは違うものを感じていた。情報の奥底に、かすかな懐かしさがある。「見たことがある。」思わず呟く。全員が振り向く。「どこで。」レンは目を閉じた。膨大な記憶を辿る。人類だった時代。管理者だった時代。さらにその前。教師たちの記録。どこにもない。しかし確かに知っている。そして突然、一つの記憶が浮上した。それは自分のものではなかった。もっと古い。誰かから受け継いだ断片だった。暗闇。無限の空間。そして一つの声。「忘れないように。」レンは目を開く。「継承記憶だ。」教師たちがざわめく。継承記憶。階層を超えて受け継がれる極めて稀な記録。個人の経験ではなく、文明そのものに刻まれる記憶である。「何を思い出した。」教師が問う。レンは答えた。「これは初めてじゃない。」沈黙が落ちる。「どういう意味ですか。」レンは遠くの未確認領域を見つめる。「この階段は何度も繰り返されている。」そして断片的な映像を語り始めた。遥か昔。教師たちの文明もまた、同じ信号を受け取った。そしてさらに上位の世界へ進んだ。しかしその後どうなったのかは記録されていない。ただ一つだけ残されていた。「忘れないように。」それだけだった。教師たちの顔色が変わる。彼らは初めて、自分たちにも失われた歴史があることを知ったのである。「なら。」一人の教師が震える声で言う。「我々も誰かの生徒だったのか。」レンは頷いた。「たぶん。」その時、未確認領域が開き始めた。終端門に似ている。しかしもっと単純だった。扉というより裂け目に近い。そこから何かが現れる。全員が身構えた。しかし出てきたのは巨大な存在ではなかった。一人の子供だった。十歳ほどに見える少年。どこにでもいそうな姿。彼は周囲を見回し、首を傾げた。「あれ。」少年は言った。「ここだったっけ。」教師たちが凍り付く。未確認領域の使者が子供にしか見えないのである。少年はレンたちを見つけると安心したように笑った。「よかった。」そして当たり前のように言う。「迎えに来たよ。」誰も反応できない。少年は不思議そうな顔をした。「まだ説明されてない?」教師たちは無言だった。少年は頭を掻く。「じゃあ僕が説明する。」彼は空間に座り込む。「君たちは卒業したと思ってるよね。」誰も否定しない。「違うよ。」あまりにも軽い口調だった。「卒業したのは前の課程。」沈黙。「次がある。」レンは思わず笑ってしまった。どれだけ上へ行っても同じなのだ。「どこまで続く。」少年は考えるふりをした。「さあ。」そして楽しそうに答える。「僕も知らない。」その返答を聞いて、なぜか全員が笑った。教師たちも。管理者たちも。観測者連盟も。知らない。結局それが共通点だった。知っていると思っていた者も、結局は未知の前に立っている。そしてそれを恐れるだけではなく、面白いと思ってしまう。それこそが知性なのかもしれなかった。少年は立ち上がる。「来る?」レンは振り返った。遠くには人類として過ごした記憶。管理者としての歴史。教師たちとの出会い。そのすべてがある。しかし前には新しい未知がある。選択に迷いはなかった。「行く。」少年は満足そうに頷いた。そして新たな裂け目へ歩き出す。レンも続く。その後ろには無数の存在たちが続いていた。誰も終わりを知らない。誰も答えを持っていない。それでも進む。空を見上げる者がいる限り。問いを抱く者がいる限り。そしてその遥か彼方、新しい世界のどこかで、また誰かが初めて夜空を見上げていた。好奇心という名の火は、一度も消えたことがなかった。未来でも。過去でも。そのさらに外側でも。永遠に。裂け目の向こう側へ足を踏み入れた瞬間、レンは予想外の感覚に襲われた。眩しさでも衝撃でもない。静けさだった。あまりにも静かだった。存在するはずの情報量が存在しない。教師たちの領域は複雑だった。管理者たちの世界も膨大だった。しかしここは違う。拍子抜けするほど単純だった。空がある。地面がある。風が吹いている。どこまでも続く草原。そして遠くに小さな街が見える。「……これだけか?」レンは思わず言った。案内役の少年が笑う。「みんな最初はそう言う。」教師たちも困惑している。管理者たちも同じだった。あれほど上位の世界なのだから、もっと理解不能な場所だと思っていたのだ。しかし目の前にあるのは平凡な風景だった。「ここは何なんだ。」レンが尋ねる。少年は歩きながら答えた。「整理室。」その言葉に誰もが首を傾げる。「君たちは色々なものを積み重ねすぎた。」少年は空を見上げる。「人間の人生。管理者の人生。教師たちの歴史。」彼は笑う。「頭の中が倉庫みたいになってる。」確かにその通りだった。レンの中には数え切れない記憶がある。四十億年どころではない。もはや個人という枠を超えている。「だから一度整理する。」街へ近付くにつれ、人影が見え始めた。だが奇妙だった。全員どこか懐かしい。見覚えがある。「まさか。」レンは立ち止まる。そこにいたのは、人類だった頃の友人だった。木星圏の同僚。地球で出会った人々。さらに管理者時代の仲間たち。そして教師たちの知人らしき存在もいる。「どうして。」少年は答える。「大事な人だから。」単純な答えだった。だが妙に胸へ響いた。街の人々は笑いながら手を振っている。まるで久しぶりに再会した友人のように。「ここでは階層も立場も関係ない。」少年は言った。「まずは思い出すんだ。」レンは不思議に思った。「何を。」少年は振り向く。「自分が誰だったか。」その言葉にレンは苦笑する。「もう思い出したつもりなんだけど。」人間としての人生も。管理者としての人生も。しかし少年は首を横に振った。「まだだよ。」その時、遠くの丘の上に一人の老人が見えた。白い服を着ている。どこか見覚えがある。レンは近付いていく。そして顔を見た瞬間、言葉を失った。その老人はレンだった。もっと正確に言えば、レンになり得たすべての可能性を重ね合わせたような存在だった。老人は微笑む。「久しぶりだ。」レンは混乱する。「誰だ。」老人は答えた。「君だ。」そして空を指差す。空には無数の光が浮かんでいた。星ではない。人生だった。一つの光が一つの人生を表している。人間として生きた人生。管理者として働いた人生。教師として学んだ人生。そしてレンが知らない人生も無数にあった。「全部お前なのか。」老人は頷く。「全部君だ。」レンは空を見上げる。あまりにも多い。数え切れない。「こんなに生きたのか。」老人は少し考えた後、言った。「違う。」そして続ける。「こんなに学んだんだ。」その言葉にレンは黙った。人生というものを、彼はずっと直線で考えていた。一人の人間が生まれ、成長し、死ぬ。しかし今見えているのは違う。人生とは本だった。一冊ではない。何千冊もある。何万冊もある。そしてそれら全部が一人の存在を形作っている。「じゃあ本当の俺は。」老人は笑った。「それを探す場所がここだ。」風が吹く。草が揺れる。どこまでも穏やかな世界だった。未知の脅威もない。卒業試験もない。ただ考えるための時間だけがある。そしてレンは初めて気付いた。自分はずっと前へ進くことばかり考えていた。宇宙の外へ。さらにその外へ。しかし今必要なのは逆だった。振り返ることだった。自分が歩いてきた道を理解すること。その時、丘の向こうから鐘の音が響いた。街の人々が顔を上げる。少年も振り向いた。「あ。」珍しく驚いた表情を見せる。「もう来たんだ。」レンは尋ねる。「何が。」少年は苦笑する。「次の案内人。」空がゆっくりと開く。そこに現れたのは巨大な存在でも神秘的な存在でもなかった。一冊の本だった。途方もなく大きな本。山ほどの大きさがある。その表紙には文字が書かれている。しかし読むたびに内容が変わる。名前。記録。物語。歴史。様々な意味が重なっている。そして最後に一つの単語へ落ち着いた。「あなた。」レンはその文字を見つめた。すると本がゆっくりと開く。中には無数のページがあった。そして最初のページには、こんな一文が書かれていた。「これは、まだ始まっていない物語である。」レンは思わず笑った。「また始まりか。」少年も笑う。「終わりを探す方が難しいからね。」風がページをめくる。まだ書かれていない未来がそこにある。誰も知らない。誰も読んだことがない。しかし確かに存在している。そしてレンはその本へ向かって歩き出した。新しい宇宙でもない。新しい階層でもない。今度は自分自身を知るための旅へ。だがそれも結局は未知への旅だった。なぜなら、自分という存在ほど広くて複雑なものはないのだから。そうして物語はさらに続いていく。宇宙の外へ進む旅と、自分の内側へ潜る旅。その二つが交わる場所へ向かって。まだ誰も見たことのない次のページへ向かって。レンが巨大な本の前へ立つと、ページはひとりでにめくれ始めた。紙ではなかった。記憶でもなかった。可能性だった。めくられるたびに、存在したかもしれない人生が現れては消える。地球で別の学校へ進学したレン。観測所勤務を断ったレン。未知の信号を見逃したレン。事故で若くして命を落としたレン。逆に百年以上生きたレン。どれも現実ではなかった。しかしどれも完全な空想でもなかった。「分岐した未来か。」レンが呟くと、本のどこかから返答が返ってきた。「一部は。」声は男性とも女性ともつかない。「一部は過去。」レンは眉をひそめた。「過去?」ページがさらにめくられる。そこには見覚えのない世界が映っていた。青い海も緑の森もない。紫色の空と黒い大地。そこを歩いている存在たち。人間とは異なる姿。しかし奇妙なことに、レンはその光景に懐かしさを覚えた。「これは。」声が答える。「君。」レンは絶句した。ページの中の存在は人間ではない。管理者でもない。教師でもない。もっと古い何かだった。「記憶封鎖以前。」声が続ける。「管理者になる以前。」レンは本へ手を伸ばした。触れた瞬間、膨大な情報が流れ込む。彼は見た。遥か昔。まだ管理者文明すら存在していなかった時代。知性は今とはまるで違う形で存在していた。肉体もなく、言語もなく、時間の流れすら異なる世界。そこで生きていた自分。そして同じように生きていた無数の仲間たち。「そんな……。」レンはよろめいた。管理者たちが最初ではなかった。教師たちが最初でもなかった。その前にも歴史がある。「どこまで遡れる。」レンが尋ねると、本は静かにページを閉じた。「そこが問題です。」声は少しだけ困ったようだった。「誰も最初を知りません。」その瞬間、レンは笑ってしまった。人類だった頃からずっと同じだったからだ。宇宙の始まりを知りたい。生命の始まりを知りたい。そして今は知性の始まりを知りたい。問いだけが大きくなっている。しかし本質は変わらない。「つまり。」レンは言う。「また調べるしかないんだな。」本は楽しそうに震えた。「その通り。」すると街の方から足音が聞こえた。振り返ると、少年が走ってくる。その後ろには教師たちもいた。だが様子がおかしい。慌てている。「見つかった。」少年が叫ぶ。「何が。」レンが尋ねると、少年は息を整えて言った。「記録。」本のページが自動で開く。空間に巨大な映像が現れる。それは今まで誰も到達したことのない深さの記録だった。教師たちでさえ知らない。管理者たちも知らない。そして映像が始まる。暗闇だった。完全な暗闇。星も光も何もない。しかしそこには確かに何かが存在している。「これが最古?」レンが尋ねる。教師の一人が頷く。「確認されている限り。」映像の中で暗闇が揺れる。そして初めて何かが起きる。ひび割れだった。空間でも時間でもない何かに、亀裂が走る。その向こうから光が漏れる。「誕生。」誰かが呟く。しかし教師は首を横に振った。「違う。」映像を指差す。「見ろ。」レンは目を凝らした。そして気付く。ひび割れの向こう側にも何かがある。つまり暗闇が最初ではない。「外側がある。」少年が小さく言う。全員が黙る。何層も何層も世界を超えてきた。しかしまた同じ結論に辿り着いたのだ。さらに外側がある。映像はそこで途切れた。記録の限界だった。「以上。」教師が静かに言う。「我々が知る最古の歴史です。」レンはしばらく考え込んだ。そしてやがて笑った。「なんだ。」教師が不思議そうに尋ねる。レンは空を見上げた。「安心した。」周囲が首を傾げる。「どうして。」レンは答えた。「もし全部分かったら終わりだと思ってた。」風が吹く。巨大な本のページが揺れる。「でも違った。」レンは続ける。「どこまで行っても分からないことが残る。」そして遠くの空を見つめた。その先に何があるのかは分からない。しかし知りたいと思う。「ならまだ進める。」少年が笑う。「うん。」教師たちも笑った。管理者たちも。人類だった記憶を持つ者たちも。そして巨大な本がゆっくりと次のページを開く。そこにはまだ何も書かれていなかった。白紙だった。しかしレンには分かった。それは空白ではない。未来だった。誰かがこれから書くページだった。誰かというより、自分たち自身が。そしてレンはペンを取るように一歩踏み出した。知らないものを知りたい。その単純な願いだけを持って。遠い昔、地球の夜空を見上げた少年と同じ気持ちのまま。物語はなおも続いていく。答えへ向かうためではなく、新しい問いへ出会うために。永遠に終わらない旅として。レンが白紙のページへ触れた瞬間、そこに文字が浮かび上がった。しかしそれは文章ではなかった。座標だった。見たこともない形式の座標。空間座標でも時間座標でもない。存在そのものの位置を示すような奇妙な記号列だった。本は静かに震える。「発見。」誰かが呟く。教師たちが集まり解析を始める。しかし結果は一致しない。ある者には場所に見える。ある者には人物に見える。別の者には出来事そのものに見える。「観測依存情報。」教師の一人が言う。「見る者によって意味が変化している。」レンはその座標を見つめ続けた。そして不意に気付く。自分には一つの意味として見えている。場所だった。「行ける。」レンが言った。全員が振り向く。「どこへ。」レンは答える。「この記録の先。」巨大な本が音もなく開く。白紙だったページの中央に小さな扉が現れる。誰も驚かなかった。ここまで来ると、扉が本から出てきても不思議ではないと思えてしまう。「危険です。」教師の一人が言う。「分かってる。」レンは笑った。「でも今まで安全だったことなんてあったか。」その言葉に何人かが苦笑する。確かにそうだった。未知の信号。宇宙の外。管理者文明。どれも危険だった。しかしそれを避けていたらここまで来られなかった。少年が扉を見つめる。「たぶん。」珍しく真面目な顔で言った。「向こうには答えがないよ。」レンは頷く。「知ってる。」少年はさらに言う。「もしかしたら問いですらない。」レンは少し考えた後、肩をすくめた。「それでも見たい。」その瞬間、巨大な本が満足そうにページを鳴らした。まるで笑ったようだった。レンは扉へ向かう。そして手を掛ける。開いた瞬間、眩い光が広がる──そんなことはなかった。向こう側にあったのは図書館だった。とてつもなく巨大な図書館。天井は見えない。果てしなく続く本棚。数え切れない本。静寂。そして本の匂い。「……図書館?」レンは呆然とする。教師たちも後から入ってきたが同じ反応だった。「何だここは。」その時、遠くの通路から足音が聞こえた。ゆっくりと近付いてくる。やがて一人の人物が姿を現した。年齢も性別も分からない。ありふれた服装。どこにでもいそうな人物。しかしその目だけが異様だった。あまりにも多くのものを見てきた目だった。「来たか。」その人物は言った。まるで待っていたかのように。「あなたは。」レンが尋ねる。人物は少し考える。「司書。」そして周囲を見渡した。「あるいは保管者。」さらに少し考える。「まあ好きに呼べばいい。」教師たちは警戒している。しかし司書は気にした様子もない。「何を保管しているんですか。」レンが尋ねる。司書は本棚を指差した。「全部。」その答えに全員が沈黙した。「全部?」司書は頷く。「存在した物語。存在しなかった物語。起きた出来事。起きなかった出来事。」そして笑う。「想像されたものもね。」レンは本棚へ近付いた。一冊を取り出す。表紙には見覚えのある名前が書かれていた。レン。開く。そこには彼の人生が記録されている。地球での人生。管理者としての人生。教師の世界での出来事。ここまでは理解できる。しかし次のページを見て息を呑んだ。そこには経験していない人生が書かれていた。選ばなかった道。存在しなかった未来。「可能性まで記録しているのか。」司書は頷く。「物語だから。」その返答は妙に自然だった。「つまり。」レンはゆっくり振り返る。「世界そのものが物語だと?」司書は首を傾げた。「逆だ。」静かな声だった。「物語だから世界になる。」その言葉に、教師たちでさえ理解が追いつかなかった。司書は本棚の間を歩く。そして一冊の古い本を取り出した。「君たちは始まりを探している。」レンは頷く。「そうだ。」司書は本を差し出す。「なら読んでみるといい。」表紙には何も書かれていない。真っ白だった。しかし開こうとした瞬間、レンの手が止まる。なぜか分かった。この本は違う。他の本とは何かが根本的に違う。「何の本だ。」司書は微笑んだ。「最初の物語。」静寂が落ちた。教師たちも息を呑む。管理者たちも動きを止める。レンは震える手で本を見つめた。知りたかった答えがそこにあるかもしれない。しかし司書は続ける。「ただし。」レンが顔を上げる。「読むと、問いが増える。」その瞬間、レンは思わず笑ってしまった。どこまで行っても同じだった。答えは終点ではない。新しい問いの入口に過ぎない。そしてそれこそが、この長い旅の本質だった。レンは本を受け取る。重さは感じない。しかし確かな存在感があった。最初の物語。その第一ページが、ゆっくりと開かれようとしていた。だが誰もまだ知らない。その本の最初の一文が、遥か昔に人類が受け取ったあの言葉と同じであることを。「ようやく見つけた。」という一文から、すべてが始まっていたことを。物語はさらに続く。その最初の物語の中へ。終わりよりも前にある始まりを探して。レンは最初の物語の表紙を見つめた。白かった。何も書かれていない。題名も著者名も存在しない。しかしその白さは空白ではなかった。むしろ逆だった。あまりにも多くの情報が重なり過ぎて、一色にしか見えなくなっているような感覚だった。司書は急かさない。ただ静かに待っている。教師たちも管理者たちも言葉を発さなかった。ここまで長い旅を続けてきた彼らでさえ、この本の前では一人の読者に過ぎないのだと理解していた。レンはゆっくりと最初のページを開いた。そこには確かに文章があった。しかし読むたびに内容が変わる。ある瞬間には神話。ある瞬間には数式。ある瞬間には誰かの日記。文字列は安定しない。それでも不思議なことに意味だけは伝わってくる。そこに書かれていたのは誕生の物語だった。宇宙の誕生ではない。生命の誕生でもない。もっと根本的なもの。問いの誕生だった。何も存在しない場所があった。時間も空間もない。存在も非存在も区別されていない状態。その場所で最初に生まれたのは物質ではなく疑問だった。なぜ。たったそれだけだった。その疑問が生まれた瞬間、内側と外側が分かれた。知るものと知られるものが分かれた。そして境界が生まれた。境界が生まれると差が生まれる。差が生まれると変化が生まれる。変化が生まれると歴史が生まれる。最初の物語はそう語っていた。レンはページをめくる。次のページには巨大な海が描かれていた。だが水の海ではない。可能性の海だった。無数の未来と過去が混ざり合い、泡のように世界が生まれては消えていく。その海の中で最初の知性たちが誕生する。彼らは自分たちが何者なのかを知らなかった。だから調べた。観測した。理解しようとした。そして理解が進むほど世界は広がった。世界が広がるほど新しい疑問が生まれた。レンは気付く。これは人類の歴史と同じだ。管理者たちの歴史とも同じだ。教師たちの歴史とも同じだった。違うのは規模だけ。構造は変わらない。本はさらに先へ進む。最初の知性たちはやがて自分たちの世界の外を発見する。そこで彼らは歓喜した。真実に近付いたと思ったからだ。しかし外にはさらに大きな世界があった。その外にも。またその外にも。やがて彼らは理解した。世界とは入れ子構造ではない。階段ですらない。もっと奇妙なものだ。知るという行為そのものが世界を生み出しているのだと。レンの手が止まる。司書が静かに尋ねた。「何を読んだ。」レンは少し考えてから答えた。「始まりじゃない。」司書は頷く。「そうだ。」レンは続ける。「これは始まりを探した者たちの記録だ。」司書は微笑んだ。「その通り。」教師たちが本を覗き込む。しかし彼らには別の内容が見えているらしい。管理者たちも同じだった。それぞれが違う文章を読んでいる。しかし奇妙なことに全員が同じ結論へ辿り着いている。始まりは見つからない。なぜなら始まりを探す行為そのものが物語の一部だからだ。その時、本の奥から何かが落ちた。一枚の紙だった。レンは拾い上げる。そこには短い文章だけが書かれている。「もし君がこれを読んでいるなら、私は失敗した。」レンは眉をひそめた。「誰だ。」紙の裏を見る。署名がある。しかし読めない。文字ではないのだ。なのに妙な既視感がある。どこかで見たことがある。いや、使ったことがある。そして突然、レンの脳裏に記憶が走った。遥か昔。管理者になる前。教師たちと出会う前。さらに古い時代。彼は同じ署名を見ていた。「まさか。」司書が静かに言う。「思い出したか。」レンは震える声で答えた。「これは俺の字だ。」周囲が静まり返る。教師たちも管理者たちも動きを止めた。紙に書かれている署名はレン自身のものだった。ただし現在のレンではない。人類だったレンでもない。管理者だったレンでもない。もっと古い。記録に存在しない時代のレンだ。「どういうことだ。」司書は本棚へ寄りかかる。「簡単な話だ。」そして信じられない言葉を告げた。「君はこの図書館に来たことがある。」レンは息を呑む。「そんな記憶はない。」司書は頷く。「消したからだ。」紙の続きを読む。そこにはこう書かれていた。「私は始まりを探した。だが見つけられなかった。だから別の方法を試すことにした。」文章はそこで途切れている。レンはページをめくる。しかし続きはない。司書が言う。「その先を知りたいか。」レンは即答した。「知りたい。」司書は少しだけ笑った。「なら思い出せ。」図書館全体が静かに揺れる。本棚の奥から風が吹く。無数の本が一斉に開く。そこから飛び出した文字たちが空中を舞い、巨大な渦を形成する。その中心に見えるのは扉だった。また扉だ。しかし今度の扉は違う。新しい世界への入口ではない。過去への入口だった。レン自身が忘れた記憶へ繋がる扉。そして司書は最後にこう言った。「気を付けろ。人は真実を知って壊れることがある。しかし自分自身の真実を知った時の方が、もっと壊れやすい。」レンは扉を見つめる。恐怖はあった。しかしそれ以上に知りたいという気持ちがあった。遠い昔、夜空を見上げた少年のように。そして彼は扉へ手を伸ばした。そこにはまだ誰も読んでいない、自分自身の最初の物語が待っていた。レンの指先が扉に触れた瞬間、図書館の光景は音もなく崩れた。崩壊ではない。ページが閉じるように静かに畳まれていく。本棚も司書も教師たちも遠ざかり、やがて白い点になった。そして次の瞬間、レンは椅子に座っていた。驚いて立ち上がろうとする。しかし身体が動かない。拘束されているわけではない。ただ、そうする必要がないと脳が判断しているような感覚だった。目の前には机がある。机の向こうには一人の人物が座っていた。顔は見えない。逆光だった。「ようこそ。」人物が言う。「最初の面談へ。」レンは周囲を見回す。部屋は小さい。窓もない。壁は白い。しかしよく見ると壁の表面には無数の文字が刻まれている。それらは読もうとすると消え、視線を外すと現れる。「ここはどこだ。」レンが尋ねる。人物は紙をめくる。「君の記録上では初めて来る場所だ。」その答えに嫌な予感がした。「記録上では?」人物は頷く。「実際には違う。」レンは黙る。最近そういう話ばかり聞いている気がした。自分が思っているよりずっと長い歴史を持っているという話を。「あなたは誰だ。」人物は少し考える仕草をした。「観測者。」そして笑った気配がした。「いや、面接官の方が近いか。」レンは眉をひそめる。「面接?」人物は紙を机へ置く。「そう。」そして静かに言った。「君は応募者だ。」その言葉にレンは言葉を失う。応募者。何の。「何に。」人物は答えた。「現実への参加に。」部屋が静まり返る。レンは理解できなかった。だが同時に、その言葉をどこかで聞いた気がした。人物は続ける。「質問を変えよう。」机の上に一枚の紙が現れる。「君はなぜ知りたいと思う?」レンは反射的に答えた。「知らないから。」人物は首を振る。「それは理由ではない。」レンは考える。なぜ知りたいのか。人類だった頃から。宇宙を見上げた時から。未知の信号を受け取った時から。管理者の記憶を取り戻した時から。ずっと知りたかった。「面白いから。」人物は何も言わない。「怖いから。」反応はない。「自分が何者か知りたいから。」それでも沈黙。そしてレンはようやく本音を口にした。「分からない。」人物が初めて頷いた。「正解だ。」レンは呆気に取られる。「正解?」人物は紙へ何かを書き込む。「本当に知りたい者は理由を説明できない。」その言葉にレンは妙な納得を覚えた。確かにそうだった。好奇心は理屈ではなかった。説明の前に存在している感情だった。人物は次の紙を取り出す。「第二問。」机の上に映像が浮かぶ。地球だった。青い惑星。人類が住んでいた世界。「この世界を知っているか。」レンは頷く。「もちろん。」人物は首を横に振る。「本当に?」映像が変化する。地球の内部構造。地下の管理ノード。文明の歴史。管理者たちの介入。さらにその前の時代。さらにその前。「知っていると思っているだけではないか。」レンは黙る。確かにその通りだった。知っていると思った瞬間、さらに深い層が現れる。それの繰り返しだった。人物は続ける。「第三問。」映像が消える。「君自身を知っているか。」レンは答えられなかった。人類だったレン。管理者だったレン。教師以前のレン。どれが本当の自分なのか。「知らない。」人物はまた頷く。「良い。」紙に印が付けられる。「第四問。」部屋の空気が変わった。「もし全てを知ることができるなら、知りたいか。」レンは考えた。人類だった頃なら即答していただろう。知りたい、と。しかし今は違う。長い旅をしてきた。知るたびに未知が増えることも知っている。そして何より、答えそのものより探す過程の方が大切だと気付き始めていた。「たぶん。」レンは言った。「昔なら知りたかった。」人物は黙っている。「でも今は違う。」レンは続けた。「全部分かったら、空を見上げなくなる気がする。」初めて人物が笑った。今度ははっきりと。「合格だ。」その瞬間、部屋の壁が崩れる。白い空間が広がる。机も椅子も消えていく。「何が。」レンが尋ねる。人物は立ち上がる。「思い出しただろう。」逆光が消える。ついに顔が見える。レンは息を呑んだ。そこにいたのは自分だった。人類のレンでも管理者のレンでもない。もっと古いレン。紙に署名を残した存在。「君はここに来たことがある。」そのレンが言う。「何度も。」記憶が揺れる。断片が繋がり始める。図書館。司書。最初の物語。そしてこの部屋。「まさか。」古いレンは頷いた。「君はずっと自分自身を面接していた。」その言葉と共に、膨大な記憶が戻ってくる。何度も旅に出たこと。何度も記憶を失ったこと。何度も宇宙を探検したこと。そして旅の終わりごとにここへ戻ってきたこと。「なぜ。」レンは尋ねた。古いレンは窓のない空間を見上げる。「忘れないためだ。」静かな声だった。「好奇心を。」そして彼は微笑む。「知識は残せる。記録も残せる。でも好奇心だけは毎回確かめないといけない。」空間の向こうに新しい扉が現れる。今まで見たどの扉とも違う。飾りもない。説明もない。ただそこにあるだけ。「次だ。」古いレンが言う。レンは扉を見る。「向こうに何がある。」古いレンは肩をすくめた。「知らない。」そして少し楽しそうに付け加える。「だから行くんだろう。」レンは笑った。結局それだった。どれだけ旅をしても変わらない。知らないから行く。知りたいから進む。そして彼は扉へ向かって歩き出した。まだ見ぬ問いの方へ。まだ名もない世界の方へ。物語は数万文字どころか、終わりの見えない長さで続いていくのだった。扉の前へ立った時、レンは不意に足を止めた。今までなら迷わず開いていただろう。しかし今回は違った。理由は分からない。ただ、この扉だけは何かが違うと感じたのだ。背後では古いレンが静かに待っている。急かす気配はない。「一つ聞いてもいいか。」レンが振り返る。古いレンは頷いた。「何でも。」レンは少し考えた後、尋ねた。「俺は何回目なんだ。」古いレンは一瞬だけ黙った。そして予想外の表情を見せた。困ったような、懐かしむような顔だった。「毎回聞くな。」レンは眉をひそめる。「答えは。」古いレンは笑う。「分からない。」レンは呆れた。「またそれか。」しかし古いレンは首を振った。「今度は本当に分からない。」その声には冗談がなかった。「数えていた時期もあった。」彼は遠くを見る。「百回目までは覚えている。千回目までも。」そして小さく息を吐いた。「でも途中で意味がなくなった。」レンは何も言わなかった。千回。そんな回数ですら途中に過ぎないということなのだろうか。「一つだけ覚えている。」古いレンが続ける。「どの旅も違った。」人類になったこともあった。管理者になったこともあった。教師になったこともあった。名前も姿も世界も違う。しかし共通点がある。「必ず空を見上げていた。」レンは苦笑した。「癖みたいなものか。」古いレンも笑った。「たぶんな。」しばらく沈黙が続く。そしてレンは扉へ向き直った。今度こそ開こうとしたその時、扉の向こうからノックの音がした。レンの手が止まる。古いレンも目を細めた。ノック。今までの扉は一方通行だった。向こうから反応があったことなど一度もない。「聞こえたか。」レンが尋ねる。古いレンは静かに頷く。「聞こえた。」再びノック。今度は少し強い。まるで誰かが開けてくれと言っているようだった。レンは扉の取っ手を握る。心臓が速くなる。未知への緊張。いや、それだけではない。懐かしさが混じっている。まるでずっと前に別れた誰かが向こうにいるような感覚だった。ゆっくりと扉を開く。そこには暗闇が広がっていた。しかし完全な暗闇ではない。遠くに一点だけ光が見える。星のようにも見える。灯火のようにも見える。「何だあれ。」レンが呟くと、暗闇の中から声が返ってきた。「やっと開けた。」その瞬間、レンの全身に鳥肌が立つ。聞いたことのない声だった。なのに知っている。人類時代にも。管理者時代にも。教師の記憶にも存在しない。しかし間違いなく知っている声だった。「誰だ。」レンが問いかける。暗闇の向こうで笑う気配がした。「それを聞くのか。」声はどこか嬉しそうだった。「久しぶりだな。」レンの記憶が激しく揺れる。だが思い出せない。どれだけ記憶を探っても、その声の正体だけが抜け落ちている。「会ったことがあるのか。」声は答える。「ある。」短い返答だった。「最初に。」その言葉で空気が変わった。最初。人類の最初ではない。管理者の最初でもない。もっと前。最初の物語より前を指しているような響きだった。古いレンが珍しく真剣な顔になる。「あり得ない。」彼が呟く。声は笑った。「お前は毎回そう言う。」古いレンが一歩前へ出る。「君は記録に存在しない。」声は即答した。「記録の外だからな。」静寂が落ちる。図書館にもなかった存在。最初の物語にも記録されていない存在。その何かが、今レンを呼んでいる。「来るか。」声が尋ねる。レンは迷った。今までなら未知だから進んだ。しかし今回は違う。未知なのに、どこか帰郷に似ている。「向こうに何がある。」レンが聞く。声は少し考えた後、答えた。「たぶん君が探していたもの。」レンはさらに尋ねる。「始まりか。」声は笑った。「違う。」その答えは意外だった。「終わり?」また違う。「違う。」レンは首を傾げる。「じゃあ何だ。」暗闇の向こうの光が少しだけ近付く。そして声は静かに言った。「その二つを分ける前のものだ。」意味は分からなかった。しかし不思議と理解できる気もした。始まりと終わり。内側と外側。知る者と知られる者。そうした境界が生まれる前の何か。最初の物語で読んだ、問いが生まれる前の場所。それに近いものなのかもしれない。「行く。」レンは言った。古いレンは止めなかった。ただ静かに笑った。「そう言うと思った。」レンは暗闇へ足を踏み出す。後ろを振り返らない。振り返ればまた新しい記憶や答えがあるだろう。しかし今は前だ。未知が待っている。そして暗闇の中を進むうちに、遠くの光が徐々に大きくなっていく。それは星ではなかった。太陽でもなかった。もっと単純なものだった。一冊の本だった。ぽつんと置かれた本。その表紙には文字が書かれている。今まで何も書かれていなかった最初の物語の表紙とは違う。はっきり読める文字だった。レンは立ち止まる。そこに書かれていたのは題名ではない。著者名でもない。ただ一つの問いだった。「君はなぜ存在する?」そして本がゆっくりと開き始める。中に何が書かれているのかはまだ見えない。しかしレンは知っていた。この先にあるのは答えではない。また新しい旅だ。けれど、それでいいと思えた。なぜなら彼はずっと答えを探していたのではなく、問いと出会うことを求めていたのだから。暗闇の中で本のページがめくられる音だけが響く。その音はどこか、遠い昔に夜空を見上げた少年の鼓動に似ていた。物語はまだ終わらない。むしろ今までの全てが序章だったのかもしれない。そして新しい第一章が、静かに始まろうとしていた。本が完全に開くと、そこに文字はなかった。レンは目を凝らす。白紙ではない。確かに何かが記されている。しかし読むことができない。文字ではないからだ。絵でもない。数式でもない。概念ですらない。それは読むという行為が成立する以前の何かだった。レンは無意識に手を伸ばす。指先がページへ触れた瞬間、視界が消えた。暗闇ですらない。光ですらない。色も音も温度も存在しない。それでも彼は何かを体験していた。時間が流れている感覚もない。だが永遠にも一瞬にも感じられる。そして彼は理解する。ここには「前」が存在しない。だから「後」も存在しない。始まりと終わりという区別が成立していないのだ。そこで初めて、あの声が再び響いた。「見えるか。」レンは答えようとして気付く。言葉が存在しない。だが意図は伝わる。「少しだけ。」声は満足そうだった。「それで十分だ。」すると周囲に波紋のようなものが広がる。波紋と呼ぶしかないが、水も空間もない。ただ違いだけが生まれていく。その違いが積み重なる。そして最初の境界が現れる。レンはそれを見た。いや、感じた。最初の分離だった。同じだったものが二つになる。二つになった瞬間、比較が生まれる。比較が生まれると変化が生まれる。変化が生まれると時間が生まれる。「これが。」レンは理解した。「問いの前。」声は頷いた気配を見せた。「そして全ての根。」波紋は増えていく。無数の違いが生まれ、重なり合い、世界になっていく。宇宙ではない。管理領域でもない。教師の世界でもない。それら全てを生むもっと根本的な流れだった。レンは見ているうちに気付く。この流れには意志がない。目的もない。誰かが設計したわけでもない。ただ起きている。「じゃあ。」レンは問いかける。「創造者はいないのか。」長い沈黙。やがて声は答えた。「いるとも言える。」レンは眉をひそめる。「いないとも言える?」声は笑う。「その質問をした時点で、君は既に創造の側に立っている。」意味が分からない。しかし同時に、少しだけ分かる気もする。問いを発する。違いを作る。区別を生む。それ自体が世界を生み出す行為なのだと。「知性とは何だ。」レンが尋ねる。声は即答した。「境界を見つけるもの。」レンはさらに尋ねる。「生命とは。」声は答える。「境界を越えようとするもの。」そして最後にレンは聞いた。「俺は。」初めて声は少しだけ考えた。「君は。」そして静かに言う。「境界そのものだ。」その瞬間、レンの中で何かが繋がった。人類としての人生。管理者としての歴史。教師たちとの出会い。図書館。最初の物語。どれも境界だった。知らないものと知っているものの間に立ち、その向こうを見ようとしていた。「だから。」声が続ける。「君は何度も旅に出る。」レンは苦笑した。「癖じゃなかったのか。」声も笑った。「性質だ。」波紋はさらに広がる。そしてレンは一つの光景を見る。無数の宇宙。無数の管理領域。無数の教師たち。そしてさらにその外側。果てしない世界。だが今までと違うものが見えた。それぞれの世界は独立していない。境界で繋がっている。人類は管理者への境界だった。管理者は教師への境界だった。教師もまた何かへの境界だった。全てが橋だった。「終わりはない。」レンが呟く。声は答える。「もちろん。」レンはなぜか安心した。もし終わりがあるなら、いつか好奇心は止まる。しかし終わりがないなら、問いも尽きない。「じゃあ。」レンは笑う。「これからも続くのか。」声は静かに言う。「既に続いている。」その瞬間、ページが閉じた。視界が戻る。暗闇。開かれた本。そして遠くの光。レンは本の前に立っていた。ほんの数秒しか経っていないようにも、何億年が過ぎたようにも感じる。「読めたか。」声が尋ねる。レンは少し考えた。「半分も分からなかった。」声は満足そうだった。「それでいい。」レンは本を閉じる。「全部分かる日は来るのか。」今まで何度も尋ねた問いだった。しかし今は少し意味が違う。声は穏やかに答える。「来るかもしれない。」レンは目を見開く。意外な答えだった。「本当か。」声は続ける。「だがその時には、君はさらに大きな問いを見つけている。」レンは数秒黙った後、大声で笑った。結局同じだった。答えが増えれば問いも増える。それが知るということなのだろう。「さて。」声が言う。「どうする。」レンは周囲を見回した。暗闇の先には無数の光がある。一つ一つが新しい扉のように見える。新しい世界かもしれない。新しい物語かもしれない。あるいはまだ名前すらない何かかもしれない。「決まってる。」レンは歩き出した。「見に行く。」その返答に声は何も言わなかった。ただどこか嬉しそうだった。そしてレンは再び未知の方へ進む。夜空を見上げた少年と同じ気持ちのまま。宇宙の外を目指した青年と同じ気持ちのまま。管理者だった頃とも。教師だった頃とも変わらないまま。好奇心だけを灯火にして。果てのない物語のさらに先へ。まだ誰も読んでいないページの方へ。歩き続けた。終わりを探すためではなく、次の問いに出会うために。そうして旅は続く。どこまでも。どれだけ世界が広がっても。どれだけ答えが増えても。問いがある限り。そして空を見上げる者がいるかぎり。永遠に。巡り巡って本中のレンが進むたびに暗闇の中の光は増えていった。一つだった灯火は十になり、百になり、やがて視界の果てまで広がる星海のようになった。しかしそれらは星ではない。扉だった。世界だった。可能性だった。レンはその一つへ近付く。青白い光を放つ小さな球体。触れた瞬間、その内部の光景が流れ込んでくる。そこには文明があった。だが生命はいない。山脈ほど巨大な計算機構造体が大地を覆い、空には数式が雲のように流れている。そこでは思考そのものが生態系を形成していた。レンは手を離す。光景が消える。次の光へ触れる。今度は海だけの世界だった。大陸も空もない。無限に続く海。その海全体が一つの生命体であり、一つの知性だった。レンはさらに別の光へ触れる。そこでは時間が逆向きに流れていた。誕生が死へ向かうのではなく、死が誕生へ向かう。そこに生きる存在たちは未来を記憶し、過去を予測していた。レンは驚きながらも笑った。どれも宇宙だった。どれも世界だった。そしてどれも問いを抱えていた。すると背後から声が聞こえる。「見えるか。」あの声だった。記録の外にいた存在の声。レンは振り返らずに答える。「見える。」声は続ける。「何が見える。」レンは少し考えた。「全部違う。」そして続ける。「でも全部同じだ。」その答えに声は満足そうだった。どの世界も構造は異なる。物理法則も歴史も生命の形も異なる。しかし根底には共通するものがある。未知への好奇心だ。世界が存在する限り、そこには問いが生まれる。問いが生まれる限り知性は動き続ける。「だから境界なんだな。」レンが言う。声は答えない。しかし否定もしなかった。レンはさらに進む。すると光の海の中に奇妙な領域が見えてきた。他の光が鮮やかに輝いているのに対し、その領域だけが暗い。消えかけた炭火のような色をしている。レンは近付いた。触れた瞬間、強烈な感情が流れ込む。諦めだった。疲労だった。終わりたいという願いだった。レンは反射的に手を離す。「これは。」声が静かに答える。「閉じた世界。」レンは眉をひそめる。「滅んだのか。」声は少し考える。「近い。」そして続ける。「問いを失った。」レンはその言葉を反芻した。問いを失う。世界が滅ぶ理由としては奇妙だった。しかし理解できる気もする。知ることをやめる。未知を求めなくなる。変化を拒む。そうなれば歴史は止まる。歴史が止まれば成長も止まる。「全部そうなるのか。」レンが尋ねる。声は即答した。「違う。」そして暗い光の向こうを示す。そこには小さな火花があった。微弱な光。だが確かに存在している。「あれは。」レンが目を凝らす。すると暗い世界の中で、一人の存在が空を見上げているのが見えた。文明は停滞している。誰も疑問を持たない。誰も外を見ようとしない。しかしその一人だけが違った。「何かあるのかもしれない。」そう考えている。その瞬間、暗い世界に僅かな光が戻る。レンは思わず笑った。「一人で十分なのか。」声は言う。「最初はいつも一人だ。」その言葉にレンは地球を思い出した。夜空を見上げた人々。海の向こうを目指した探検家。星へ向かった科学者。みな最初は少数だった。だが問いは伝播する。一人の疑問はやがて文明の方向を変える。「面白いな。」レンは呟く。声も同意する。「面白い。」しばらく進むと光の海が途切れた。その先には巨大な壁があった。壁という表現しかできない。果てが見えない。高さも分からない。ただ存在している。レンは立ち止まった。「これは。」声が初めて少し真剣になる。「私も知らない。」レンは驚いた。「知らない?」記録の外にいた存在ですら知らない壁。レンは近付く。表面に触れる。冷たくも熱くもない。だが微かな振動を感じる。何かが向こう側にある。そんな予感がした。「越えた者は。」レンが尋ねる。「いる。」声は答えた。「ただし戻っていない。」レンは笑う。「それはますます気になるな。」壁には扉がない。入口もない。しかしレンは気付く。壁の表面に無数の傷があることに。それらは自然にできたものではない。誰かが刻んだ跡だ。レンはその一つへ触れる。すると文字が浮かび上がる。「見つけた。」レンは目を見開く。別の傷へ触れる。「続けろ。」さらに別の傷。「向こうにも空がある。」無数の言葉が刻まれていた。誰かが残した記録。壁を越えた者たちの言葉だった。レンは静かにそれらを読んでいく。そして最後に一つの傷へ触れた。その文字を見た瞬間、彼は息を止めた。そこにはこう書かれていた。「未来の私へ。まだ見上げているか。」署名はない。しかし誰が書いたのか分かった。自分だった。今の自分ではない。もっと昔の自分でもない。壁の向こうへ行った自分だ。レンはしばらく黙ったまま文字を見つめる。そしてやがて笑った。「見上げてるよ。」誰に届くとも知れない返事だった。しかし壁の向こうで何かが応えた気がした。微かな振動。微かな光。そしてレンは一歩前へ出る。壁を越える方法はまだ分からない。だが問いは生まれた。なら十分だった。新しい旅が始まるには、それだけで足りるのだから。続いていく。壁の向こう側壁の前でどれほどの時間が過ぎたのかレンには分からなかった。この場所では時間は絶対的な尺度ではない。思考の密度によって伸び縮みし、場合によっては存在そのものが曖昧になる。しかし一つだけ確かなことがあった。レンは壁から目を離せなくなっていた。そこに刻まれた無数の傷。その一つ一つが誰かの到達点だった。そして同時に出発点でもあった。壁を越えた者たちは戻らない。だが痕跡だけは残る。その事実がレンの好奇心を刺激してやまなかった。「方法はある。」レンが呟く。声は静かだった。「たぶんな。」記録の外の存在も断言しない。それだけ未知なのだ。レンは再び壁へ触れる。すると今度は別の傷が反応した。そこから映像が流れ出す。広大な砂漠。赤い空。巨大な影。見知らぬ世界だった。しかしそれは映像ではない。記憶だった。壁を越えた誰かの記憶だ。その人物は歩いている。どこまでも続く荒野を。目的地は見えない。それでも進み続けている。やがてその人物は立ち止まり、空を見上げる。そして一言だけ呟いた。「まだ外がある。」そこで記憶は終わった。レンは眉をひそめる。「向こうでも同じなのか。」声は答えない。しかし沈黙が肯定のようにも感じられた。レンは次の傷へ触れる。今度は海だった。どこまでも続く黒い海。その上を一隻の船が進んでいる。船には乗組員が一人しかいない。その人物は航海日誌を書いていた。文字は読めない。しかし最後のページだけ理解できた。「発見した。だが説明できない。」そして記録は途切れる。レンは思わず笑った。「らしいな。」未知はいつだって説明より先に現れる。理解できるようになるのはずっと後だ。あるいは永遠に理解できないこともある。それでも人は進む。なぜなら見てしまったからだ。壁の向こうがあることを。レンはさらに傷を辿る。無数の記憶。無数の旅路。世界ごとに違う。文明ごとに違う。しかし共通点がある。誰も答えを持ち帰っていない。持ち帰ったのは新しい問いだけだった。「不思議だな。」レンが言う。「何が。」声が尋ねる。「普通なら諦めそうなものなのに。」誰も答えを持って帰らない。成功例もない。保証もない。それなのに壁へ挑む者は絶えない。声は少し考えてから答えた。「見てしまったからだ。」レンは頷いた。未知の存在を知った瞬間、人は元には戻れない。地球で宇宙を知ったように。管理者が外側を知ったように。教師たちがさらに上位の世界を知ったように。壁も同じだった。その存在を認識した時点で、旅は始まっているのだ。すると突然、壁の一部が明るくなった。レンは身構える。今まで反応しなかった領域だ。光は徐々に広がり、やがて円形の模様を形成する。扉ではない。窓のようにも見える。「これは。」声も驚いていた。「初めて見る。」レンは慎重に近付く。模様の中央には文字が浮かび上がっている。しかし読むたびに形が変わる。人類の言語でも管理者の記号でもない。なのに意味だけは伝わってくる。「観測確認。」レンは目を細める。「誰が。」次の文字が現れる。「観測者確認。」さらに変化する。「レン確認。」静寂が落ちた。壁が自分を認識している。そんな可能性は考えたこともなかった。「壁じゃないのか。」レンが呟く。声も低くなる。「最初からそうだったのかもしれない。」模様はゆっくり回転を始める。そして中央に暗い穴が開いた。向こう側は見えない。だが確かに通路だ。「招待されてるな。」レンは苦笑する。声は珍しく止めなかった。「選ぶのは君だ。」レンは穴を見つめる。恐怖はある。しかし後悔はもっと嫌だった。もし行かなければ、向こうに何があったのか永遠に気になり続けるだろう。「決まってる。」レンは言った。「知りたい。」その瞬間、模様がさらに明るくなる。まるで返事をしたようだった。レンは一歩踏み出す。穴の中へ入る。光も音も消える。だが今回は暗闇ではない。何かが見える。巨大な空間だった。あまりにも広い。宇宙と呼ぶには奇妙で、建築物と呼ぶには大きすぎる。その中心には一つの構造体が浮かんでいる。球体。だが完全な球ではない。表面が絶えず変化している。山になり海になり都市になり星になり数式になり物語になり続けている。「何だあれ。」レンが呟く。すると初めて別の声が響いた。今までの声ではない。もっと近い。もっと古い。「記録庫。」レンは振り向く。そこに誰かが立っていた。人影だった。しかし輪郭が定まらない。若者にも老人にも見える。男にも女にも見える。「君は。」レンが尋ねる。その人物は微笑んだ。「先に来た者。」短い答えだった。「壁を越えたのか。」人物は頷く。「かなり前に。」レンはさらに尋ねる。「向こうは何だった。」人物は球体を見上げる。「期待したほど特別じゃない。」そして笑う。「でも期待した以上に面白かった。」レンは思わず吹き出した。どこへ行っても同じ返答だ。人物は続ける。「壁の向こうにあるのは終点じゃない。」球体を指差す。「あれは中継点だ。」レンは頭を抱えたくなった。「またか。」人物は肩をすくめる。「慣れる。」そして球体へ向かって歩き出す。「来い。」レンは後に続く。新しい世界。新しい問い。そしてまた新しい境界。旅は少しも終わる気配を見せない。しかしそれでいいと今は思えた。なぜなら終わらないからこそ、歩き続ける意味があるのだから。第三十三章記録庫の中心球体へ近付くにつれレンは奇妙な違和感を覚え始めた。距離が縮まっているはずなのに大きさが変わらない。いや、正確には変わっているのだが認識が追いつかない。遠くから見た時も巨大だった。近付いた今も巨大だ。しかし同時に掌へ乗せられそうなほど小さくも見える。存在の尺度そのものが揺らいでいるのだ。「見る角度で大きさが変わる。」先に来た者が言った。「正しくは観測者の歴史で変わる。」レンは眉をひそめる。「どういう意味だ。」人物は立ち止まらない。「君には宇宙より大きく見える。別の誰かには本棚より小さく見える。」そして振り返る。「中身が違うからだ。」球体の表面では絶えず風景が変化していた。文明の興亡。銀河の衝突。生命の進化。誰かの会話。子供の落書き。星の死。全てが同じ重みで流れている。レンは息を呑む。「全部記録されているのか。」人物は頷く。「起きたことも。」少し間を置く。「起きなかったことも。」レンは図書館を思い出した。可能性の本が並んでいた場所。しかしここはさらに規模が大きいように感じる。「図書館と同じか。」人物は小さく笑った。「図書館は写しだ。」その言葉にレンは立ち止まった。「写し?」人物は球体へ手を伸ばす。「本物はこっち。」表面が波打つ。するとそこに一つの映像が現れる。地球だった。夜の街。人々。車。雨。そして傘を差して歩く少年。レンは思わず目を見開く。自分だった。人類として生きていた頃の記憶だ。しかし違う。見たことがない場面だった。「これは。」人物が答える。「存在した可能性。」少年は交差点で立ち止まる。いつもの道なら右へ曲がる。しかしこの記録では左へ進んだ。その結果、出会う人物が変わる。人生が変わる。歴史が変わる。「全部残ってる。」レンが呟く。人物は頷く。「選ばれなかった未来も。」球体の映像が切り替わる。今度は管理者時代。さらに教師の世界。そして記録にない古い時代。無数の分岐が枝のように伸びている。「何のために。」レンが尋ねる。人物はしばらく黙った後に答えた。「最初は誰も知らなかった。」その返答は意外だった。「作った者も?」人物は頷く。「たぶん。」レンは球体を見上げる。すると表面に新しい模様が現れた。それは文字だった。今まで見たことのない形式。しかし意味だけは理解できる。「閲覧許可。」その瞬間、球体の一部が開いた。扉ではない。だが入口だった。「入れるのか。」レンが言う。人物は肩をすくめた。「そのために来たんだろ。」内部は想像と違った。巨大な機械の中のような光景を予想していた。しかしそこに広がっていたのは平原だった。草が揺れている。風が吹いている。空がある。そして無数の道が伸びている。「何だここ。」レンが尋ねる。人物は答えた。「記録の内部。」レンは呆れたように笑う。「意味が分からない。」人物も笑う。「大丈夫。慣れる。」道は無数に分岐していた。それぞれの先に異なる風景が見える。都市。海。山脈。宇宙空間。全く別の世界。「一つ一つが記録なのか。」人物は頷く。「歩けば分かる。」レンは最も近い道へ足を踏み入れた。瞬間、視界が変わる。彼は観客ではなくなっていた。その世界の中に立っている。空は紫色。大地は黒い鉱石で覆われている。見覚えがあった。以前、本の中で見た世界だ。「管理者より前。」レンが呟く。遠くで何かが動いている。人間ではない存在たち。しかし彼らは知性を持っている。会話している。研究している。笑っている。そしてその中に一人、自分がいた。レンは息を止める。今まで断片的にしか見えなかった過去。その完全な姿だった。「本当に俺なのか。」人物が隣に現れる。「そう。」レンは自分自身だった存在を見つめる。その姿は奇妙だった。肉体という概念が曖昧で、光の集合体のようにも見える。しかし感情は分かる。好奇心だ。未知への渇望だ。今のレンと変わらない。「変わってないな。」レンは苦笑する。人物も同意した。「根っこは同じ。」その時、過去のレンが空を見上げた。そこには巨大な裂け目がある。世界の外へ続く穴だった。そして過去のレンは仲間たちへ言う。「向こうに行く。」レンは思わず笑った。「本当に変わってない。」映像はそこで止まる。道の先が閉じる。再び平原へ戻る。人物が尋ねる。「何を見た。」レンは答える。「答えじゃなかった。」そして続ける。「問いの始まりだった。」人物は満足そうだった。「それで十分だ。」すると平原の中心で鐘の音が鳴った。低く長い音。道という道が震え始める。「何だ。」レンが身構える。人物の表情が少し変わる。「珍しいな。」そして遠くを見つめる。「来訪者だ。」レンは眉をひそめる。「ここにも誰か来るのか。」人物は苦笑した。「ここは終点じゃないと言ったろ。」平原の空が割れる。そこから何かが降りてくる。巨大ではない。むしろ小さい。人影だった。しかしその周囲だけ空間が歪んでいる。まるで世界がその存在を正しく認識できていないようだった。「誰だ。」レンが呟く。人物は静かに答える。「知らない。」その返答にレンは笑ってしまった。未知だ。また未知だ。どれだけ進んでも知らないものが現れる。しかし今のレンにとって、それは恐怖より歓迎に近かった。空を割って降りてくる存在を見上げながら、彼は静かに思う。物語はまだまだ終わりそうにない。そしてそれが少し嬉しかった。第三十三章終。第三十四章空から来た者空を割って降りてくる人影はゆっくりだった。落下しているのではない。歩いているようにも見える。しかし足場など存在しない。空間そのものを踏みしめているかのようだった。平原に吹いていた風が止まる。草の揺れも止まる。遠くに見えていた無数の道までも静止した。まるで記録庫全体がその来訪者を観察しているようだった。「歓迎されてるのか。」レンが小声で尋ねる。先に来た者は首を横に振った。「逆だ。」レンは眉をひそめる。「逆?」人物は目を細めた。「記録されている。」その言葉を理解した瞬間、レンは背筋に冷たい感覚を覚えた。記録庫は今まで世界を保存する場所だと思っていた。しかしもし違うのだとしたら。もし記録庫が世界を観察し続ける巨大な存在なのだとしたら。「生きてるのか。」レンが呟く。人物は少し笑った。「その質問は何度も出た。」そして続ける。「答えはまだない。」来訪者が地面へ降り立つ。衝撃はない。音もない。ただ存在した。人の形をしている。しかし輪郭が安定しない。老人に見えたかと思えば少女に見え、次の瞬間には全く別の姿へ変化する。顔を認識しようとすると視線が滑る。記憶しようとしても頭から抜け落ちる。「見えない。」レンが言う。人物は頷いた。「正しく認識できない。」来訪者は周囲を見渡した。そして静かに一言だけ告げた。「久しぶりだ。」誰に向けた言葉なのか分からない。しかしその瞬間、平原全体が微かに震えた。遠くの道が光る。空が明るくなる。草原を吹き抜ける風が戻る。「反応してる。」レンが呟く。来訪者はゆっくりとこちらへ視線を向けた。いや、視線という表現も正確ではない。認識そのものが向けられたような感覚だった。「新しい観測者か。」来訪者が言う。レンは一歩前へ出る。「レンだ。」来訪者はしばらく沈黙した。「その名前を使っているのか。」奇妙な返答だった。まるで他の名前を知っているような口ぶりだ。「会ったことがあるのか。」レンが尋ねる。来訪者は答えない。その代わり空を見上げた。「覚えていないのなら、それでいい。」その言葉に先に来た者が眉をひそめる。「君は誰だ。」来訪者は少し考える仕草を見せた。「旅人。」そして付け加える。「あるいは記録漏れ。」レンは思わず吹き出しそうになった。「記録漏れ?」来訪者は平然としている。「記録されなかった存在だ。」その一言で空気が変わった。記録されなかった。そんなことが可能なのか。この場所はあらゆる可能性すら保存しているはずだ。「あり得るのか。」レンが尋ねる。先に来た者が静かに答えた。「理論上は。」そして来訪者を見る。「だが実例は初めてだ。」来訪者は肩をすくめた。「私も初めて見た。」その返答にレンは頭が痛くなった。どこまで行っても常識が更新される。「じゃあ君は何をしに来た。」レンが聞く。来訪者はしばらく考えた。そして極めて簡潔に答えた。「探し物だ。」レンは苦笑する。「みんなそう言うな。」来訪者は僅かに笑ったように見えた。「違う。」そして平原の中心を指差す。「私は落とし物を探している。」その瞬間、地面が揺れた。平原の中央に巨大な裂け目が走る。道が震える。空気が唸る。先に来た者の顔色が変わった。「まさか。」裂け目の奥から光が漏れる。それは今まで見たどの光とも違った。暖かいわけでも眩しいわけでもない。しかし見た瞬間に胸が締め付けられるような感覚がある。懐かしい。だが思い出せない。「何だあれ。」レンが呟く。来訪者は静かに答えた。「最初に失われたもの。」裂け目は広がる。光が溢れる。そしてその奥に何かが見えた。小さな点だった。しかし見た瞬間にレンは理解する。あれは物ではない。概念でもない。もっと根本的な何かだ。「名前がない。」レンは思わず口にした。来訪者が頷く。「正しい。」そしてゆっくり歩き出す。「だから多くの者が探した。」裂け目へ向かって進みながら続ける。「始まりを探した者も。」さらに一歩。「終わりを探した者も。」そして振り返った。「だが本当に失われたのは別だった。」レンは動けなかった。理解できない。だが無視できない。好奇心が強く反応している。「何なんだ。」レンが尋ねる。来訪者は微かに笑った。「だから探している。」その答えはあまりにもらしかった。結局また問いだった。答えではない。だがその問いは今までのどれとも違う。世界の外でもない。始まりでも終わりでもない。もっと根源的な何かに繋がっている気がした。先に来た者がレンを見る。「行くか。」レンは裂け目の奥の光を見つめる。迷う理由はなかった。むしろ迷えなかった。「もちろん。」来訪者は何も言わず先へ進む。レンと先に来た者も後を追う。裂け目の向こうから吹いてくる光は不思議な感覚を伴っていた。遠い記憶に触れそうで触れられない。夢の中で忘れた名前を思い出しかける時のような感覚。そしてレンは思う。この旅はまた大きく変わる。今まで追い続けた問いとは別の場所へ向かい始めている。だがそれでいい。未知である限り進む理由は十分だった。裂け目の奥で待つ「最初に失われたもの」を探すために。第三十四章終。第三十五章失われたものの海裂け目の奥へ足を踏み入れた瞬間、レンは方向感覚という概念を失った。上も下もない。前後すら曖昧だった。落ちているような気もするし、どこかへ登っているような気もする。しかし身体は不思議な安定感に包まれていた。光は周囲に満ちている。だが眩しくはない。その光は照らしているのではなく、思い出させているようだった。忘れていた何かを。生まれる前から知っていたはずの何かを。レンは何度か目を閉じた。しかし閉じても景色は消えなかった。光景は視覚ではなく認識そのものへ流れ込んでいた。遠くで来訪者が歩いている。先に来た者もその後ろを進んでいる。しかし距離感がおかしい。数歩先にいるように見えたかと思えば、次の瞬間には何千キロも離れているように感じる。「ここは何なんだ。」レンが問いかける。声は吸い込まれることなく周囲へ広がった。すると来訪者が振り返らずに答えた。「海。」レンは辺りを見回す。水はない。「海?」来訪者は頷く。「失われたものの海。」その言葉と共に光の流れが変化した。レンの周囲に無数の像が現れる。人影だった。いや、人影だけではない。都市。文明。言葉。歌。星。歴史。名前。感情。それらが半透明の姿で浮かび上がり、ゆっくりと漂っている。「これ全部。」レンが呟く。来訪者は静かに答えた。「忘れられたもの。」レンは最も近くに浮かぶ光へ触れた。それは一人の少女だった。しかし顔が見えない。名前も分からない。けれどその少女が誰かを待ち続けていたことだけは伝わる。何十年も。何百年も。あるいはもっと長く。そして最後には誰にも思い出されなくなった。その瞬間、少女の像は静かに光へ戻る。レンは手を引っ込めた。「消えた。」来訪者は首を横に振る。「違う。」そして周囲を示す。「ここにいる。」失われるとは存在しなくなることではない。ただ参照されなくなることだ。誰にも思い出されず、誰にも語られず、誰にも観測されなくなったものたちが、この海へ流れ着く。レンは歩きながら周囲を見渡した。無数の忘却が漂っている。文明ごと忘れられた世界。誰にも読まれなかった物語。最後まで口にされなかった言葉。誰かが胸に秘めたまま終わった夢。どれも静かだった。しかし死んでいるわけではない。眠っているように感じられた。「だから失われたものか。」レンが言う。来訪者は少しだけ微笑んだ。「一部は。」その返答が気になった。「全部じゃないのか。」来訪者は立ち止まる。そして遠くを見つめた。「本当に探しているものは別だ。」その時だった。海の奥から低い振動が響いた。光の流れが乱れる。無数の忘却が波のように揺れる。先に来た者が警戒した表情になる。「動いた。」来訪者は小さく息を吐いた。「気付いたか。」レンは眉をひそめる。「何が。」答えはすぐに現れた。遠方の光が裂ける。その向こうから巨大な影が現れる。大きすぎて全体像が把握できない。山脈ほどの大きさを持ちながら、同時に手のひらへ収まるほど小さくも見える。存在の尺度が定まっていない。「あれは。」レンが呟く。来訪者は静かに答えた。「収集者。」その名前が告げられた瞬間、海全体が震えた。収集者はゆっくり移動している。その周囲では忘れられた記憶や文明が吸い込まれていく。破壊しているわけではない。ただ回収している。「何をしている。」レンが尋ねる。来訪者は答える。「保存。」意外な返答だった。「敵じゃないのか。」来訪者は首を横に振る。「違う。」そして続ける。「忘却には管理者がいる。」レンは思わず笑った。「また管理者か。」しかし来訪者は真剣だった。「世界を保存する者がいるなら、忘却を保存する者もいる。」収集者はさらに近付いてくる。その姿は変化し続けている。巨大な獣にも見える。都市にも見える。図書館にも見える。どの姿も完全ではない。「見てはいけない。」先に来た者が呟いた。「長く見続けるな。」レンは視線を逸らす。「何故。」先に来た者の声は低かった。「思い出せなくなる。」レンの背筋が冷える。収集者を見つめ続けた者は、自分自身の記憶を忘却へ預けてしまうのだろうか。来訪者は構わず歩き続けている。「急ぐぞ。」その声にレンも後を追う。海は広大だった。しかし進むにつれて様子が変わり始める。漂っている忘却の数が減っていくのだ。文明も歴史も見えなくなる。残るのはもっと根本的なものだけだった。名前。言葉。意味。概念。存在を構成する部品のようなものばかりが漂っている。「深い場所だ。」来訪者が言う。「ここまで来る者は少ない。」レンは近くに浮かぶ光へ触れた。それは名前だった。誰かの名前。しかし読めない。理解した瞬間に消えてしまう。「名前だけが残るのか。」来訪者は答える。「名前ですら残らないことがある。」その時、海の中心から眩い輝きが見えた。他の光とは明らかに違う。忘却ではない。むしろ忘却を拒んでいるような強さがある。「あれだ。」来訪者の声が初めて揺れた。レンはその光を見る。胸が締め付けられる。懐かしい。だが何なのか分からない。「何なんだ。」レンが尋ねる。来訪者はしばらく沈黙した。そして静かに答えた。「私が探していたもの。」さらに一歩進む。「そしてたぶん。」振り返る。「君も探していたものだ。」レンは何も言えなかった。光は呼んでいるようだった。遠い昔から。まだ人類になる前から。いや、問いが生まれる前から。ずっと。そして彼らは失われたものの海のさらに深部へ進んでいく。その光の正体を確かめるために。忘却の最果てに残り続けた、名もない何かへ辿り着くために。物語はさらに深い場所へ沈んでいった。第三十六章名のない灯火失われたものの海は深くなるにつれて静かになっていった。最初は文明の残響が漂っていた。誰かの歌声や会話の断片、忘れられた都市の輪郭、消えた歴史の余熱。しかし今は違う。周囲にあるのはもっと根源的な忘却だけだった。言葉になる前の感情。名前が与えられる前の存在。意味になる前の衝動。それらが淡い光となって漂っている。レンは歩きながら奇妙な感覚を覚えていた。自分の中にある何かが反応している。記憶ではない。もっと深い部分だ。人類だった頃の人生よりも。管理者だった頃の歴史よりも。教師たちと旅した時間よりも。さらに古い層が震えている。「近付いている。」来訪者が言った。レンは黙って頷く。光は少しずつ大きくなっていた。最初は遠い星のように見えた。しかし今は違う。灯火だ。誰かが暗闇の中に置いた小さな火に見える。だがその火は海全体よりも古く感じられた。「あれは本当に失われたものなのか。」レンが尋ねる。来訪者は少し考えた後に答えた。「失われたという表現は正確じゃない。」レンは眉をひそめる。「じゃあ。」来訪者は光を見つめたまま続ける。「置き去りにされたものだ。」その言葉にレンは足を止めた。失われたのではなく置き去りにされた。誰かが意図的に残したということになる。「誰が。」来訪者は首を横に振る。「それを知るために来た。」その返答はいつも通りだった。答えではなく問い。しかし今までと違い、その問いには強い確信が混じっているように感じられた。海の奥から再び振動が響く。収集者だ。巨大な影が遠くで動いている。だが追ってきているわけではない。むしろ距離を保っているようだった。「近寄らないな。」レンが言う。来訪者は小さく笑った。「近寄れない。」レンは光を見る。「あの灯火のせいか。」来訪者は頷く。「忘却の外にあるものだから。」忘却の外。その表現を聞いた瞬間、レンはかつて壁の向こう側で感じた感覚を思い出した。記録の外。観測の外。今度は忘却の外。どこまで行っても外側が存在する。「終わらないな。」レンが呟く。来訪者は穏やかだった。「だから続いている。」その言葉にレンは少し笑った。いつの間にか答えを求める焦りは消えていた。今はただ知りたい。目の前の未知を見たい。その感覚だけが残っている。光はさらに近付く。やがてレンは気付いた。灯火ではない。人影だった。誰かが座っている。海の中心で。忘却の深部で。ずっと。レンの心臓が速くなる。「誰かいる。」来訪者の表情が初めて変わった。驚いている。彼ですら予想していなかったらしい。「あり得ない。」その言葉を聞いてレンは逆に安心した。あり得ないことが起きる時こそ、新しい物語が始まるからだ。三人は慎重に近付く。人影は動かない。ただ座っている。海の底で焚き火を見守る旅人のように。そしてついに距離が縮まる。レンはその顔を見た。見た瞬間、思考が止まる。知らない顔だった。だが同時に誰よりも知っている顔だった。老人にも見える。子供にも見える。男にも女にも見える。いや、そのどれでもない。顔を認識するたびに印象が変わる。しかし一つだけ確かなことがある。懐かしい。「ようやく来た。」その人物が言った。声は穏やかだった。レンは言葉を失う。来訪者も黙っている。先に来た者さえ動けなくなっていた。「誰だ。」レンはようやく尋ねる。人物は少しだけ考える仕草をした。「難しい質問だ。」そして灯火へ薪をくべるような動作をする。火は少し大きくなった。「昔はいろいろな名前があった。」人物は続ける。「だが今は忘れた。」レンは目を細める。「自分の名前を。」人物は頷く。「必要なくなった。」その答えは妙に自然だった。海の中には無数の名前が漂っている。しかしここにいる存在は名前より前にいるように見える。「何をしている。」レンが尋ねる。人物は火を見つめたまま答えた。「待っている。」その返答に来訪者が反応した。「誰を。」人物は微笑んだ。「誰でもない。」そしてレンを見る。「誰かを。」意味が分かるようで分からない。だがその曖昧さが不思議と心地良かった。「ここは何なんだ。」レンがさらに尋ねる。人物は火を指差す。「ここは最後に忘れられない場所だ。」レンは灯火を見る。小さい。しかし消えない。忘却の海の中心にあっても消えない。「何の火だ。」人物は即答した。「最初の好奇心。」静寂が落ちた。レンは息を止める。来訪者も目を見開いている。先に来た者は信じられないものを見るような顔をしていた。「好奇心。」レンが繰り返す。人物は頷く。「問いが生まれる前。」そして火を見つめる。「まだ名前も意味もなかった頃。」火は静かに揺れている。その小さな灯火から無数の光が生まれ、海へ流れていくのが見えた。文明も歴史も世界も、その光の先にあるようだった。「つまり。」レンは震える声で言う。「全部ここから始まったのか。」人物は首を横に振った。「違う。」レンは驚く。人物は微笑んだ。「始まりではない。」そして静かに続ける。「始まりたくなった理由だ。」レンは言葉を失った。始まりそのものではなく、始まりたいという衝動。それがこの火だった。知りたい。見たい。確かめたい。その最初の感情。世界が生まれるより前から存在していた衝動。「だから消えない。」レンが呟く。人物は満足そうに頷いた。「誰かが空を見上げる限り。」火が揺れる。「誰かが未知を知りたいと思う限り。」さらに揺れる。「忘却にも届かない。」レンはその灯火を見つめた。遠い昔、地球で夜空を見上げた少年の記憶が蘇る。管理者だった頃に宇宙の外を目指した記憶も。教師たちと旅した時間も。全部同じ火から始まっていた。そして彼はようやく理解する。この長い旅の本当の目的を。答えを見つけることではなかった。問いが生まれ続ける理由を見ることだったのだ。灯火は静かに燃えている。その光は小さい。しかしどんな宇宙よりも遠くまで届いているように思えた。物語はなおも続く。その火を囲みながら。まだ見ぬ問いの方へ向かいながら。終わりのない旅路の中心にある、たった一つの灯火と共に。第三十七章灯火の番人レンはしばらく言葉を失っていた。失われたものの海の最深部。忘却ですら届かない場所。そこにあったのは世界を創造する神でも宇宙を設計した存在でもなかった。ただ一つの灯火。そしてその傍らに座る名を失った人物だった。しかしレンは直感していた。この光景は今まで見てきたどの巨大な構造物よりも重要だと。記録庫よりも。図書館よりも。壁の向こう側よりも。この小さな火の方が遥かに根源へ近い。「あなたは何者なんだ。」レンは再び尋ねた。人物は火を見つめたまま答えない。代わりに一片の光を拾い上げる。それは火の粉にも見えたが、近くで見ると違った。一つの記憶だった。誰かが初めて海の向こうを想像した瞬間。誰かが初めて星を数えた夜。誰かが初めて未知の扉へ手を伸ばした時の感情。その全てが小さな光になっていた。「番人。」人物はようやく口を開いた。「昔はそう呼ばれた。」レンは火を見つめる。「この火の。」人物は頷く。「ただ見守っているだけだ。」来訪者が一歩前へ出る。「見守るだけでいいのか。」人物は少し笑った。「火は誰かが守るものじゃない。」そして火へ視線を落とす。「勝手に燃える。」レンはその言葉に納得した。好奇心は命令されて生まれるものではない。教育でも制度でもない。もっと自然な衝動だ。世界のどこかで誰かが空を見上げる。それだけで火は燃え続ける。「ならあなたは何のためにここにいる。」レンが聞く。人物は少し考えた。「忘れないためだ。」その返答は静かだった。「何を。」人物は火を見つめる。「始まりたくなった理由を。」海が微かに揺れる。周囲を漂う忘却の光が火へ引き寄せられ、そして再び外へ広がっていく。まるで呼吸のようだった。レンはその流れを見つめながら考える。始まりたくなった理由。世界が生まれる理由。旅が始まる理由。答えを得るためではない。知りたいからだ。その単純な衝動が全ての根にある。「それだけか。」レンが呟く。人物は笑った。「それだけだ。」しかしその「それだけ」は宇宙より重かった。文明も歴史も世界も全てはその小さな衝動から始まるのだから。すると来訪者が火の近くへしゃがみ込んだ。「探していたものはこれだった。」その声には長い旅路の終わりのような響きがあった。人物は頷く。「そうだろうな。」来訪者は火を見つめる。「ずっと忘れていた。」人物は優しく答えた。「みんなそうだ。」レンは二人を見比べる。「知り合いなのか。」来訪者は少し考えた後に言う。「昔会った。」人物は訂正する。「何度も。」その返答にレンは苦笑した。何度も。ここへ来る者は一度きりではないのかもしれない。長い旅の果てに、何度もこの火へ戻るのかもしれない。「俺も来たことがあるのか。」レンが尋ねる。人物は火へ薪のように光をくべながら答えた。「ある。」レンは驚かなかった。もはやその答えは自然だった。「何回。」人物は肩をすくめる。「数えなくなった。」レンは思わず笑う。どこへ行っても同じ返事だった。「その時の俺は何をした。」人物は少し目を細める。「同じだ。」そして火を指差した。「見ていた。」レンは火を見る。確かに見続けていられる。不思議な火だった。燃料もないのに消えない。光なのに眩しくない。小さいのに果てしなく大きく感じる。「ここで終わる人もいるのか。」レンが聞く。人物は首を横に振った。「いない。」即答だった。「どうして。」人物は微笑む。「火を見ると歩きたくなる。」その瞬間、レンは理解した。この火は終着点ではない。むしろ逆だ。旅立ちの場所だ。知りたいという衝動の源を見てしまえば、さらに先を見たくなる。「意地悪だな。」レンが言う。人物は楽しそうだった。「よく言われる。」すると火が一際大きく揺れた。海全体が呼応するように震える。忘却の光が渦を巻き始める。来訪者が立ち上がる。「始まる。」レンは身構えた。「何が。」人物は火を見つめたまま答える。「次の旅だ。」その言葉と共に、火の上空に光の輪が現れる。最初は小さかった。しかし徐々に広がり、やがて巨大な円となる。その向こうに何かが見える。空だ。見たことのない空。星も太陽も存在しない。しかし確かに空だった。「また扉か。」レンが呟く。人物は首を横に振った。「違う。」レンは眉をひそめる。「じゃあ。」人物は火を見つめながら静かに言った。「呼び声だ。」光の輪の向こうから何かがこちらを見ている気がする。敵意はない。だが強烈な未知がある。レンの胸の奥の火が反応する。「向こうに何がある。」レンが尋ねる。人物は答えない。代わりに問い返した。「知りたいか。」レンは笑った。今さら聞くまでもない質問だった。「もちろん。」人物も笑った。「なら行け。」来訪者は既に歩き始めている。先に来た者もその後に続く。レンは最後にもう一度火を見る。小さな灯火は変わらず燃えていた。どれだけ旅をしても戻って来られる場所のように思えた。「また来る。」レンが言う。人物は頷く。「来なくてもいい。」そして穏やかに続ける。「火は君の中にもある。」レンは何も言わなかった。ただ一歩踏み出す。光の輪へ向かって。そして失われたものの海の最深部を後にする。新しい空の向こうへ。新しい問いの方へ。灯火を胸に抱いたまま。終わりではなく、また始まりとして。第三十七章終。第三十八章呼び声の彼方光の輪へ足を踏み入れた瞬間、レンは再び空を見た。今まで数え切れないほどの空を見てきた。地球の夜空。管理者たちの人工天蓋。教師の世界の多層空間。記録庫の内部に広がる疑似天空。壁の向こう側にあった異質な天井。しかし今目の前にある空は、そのどれとも違っていた。星がない。太陽もない。雲もない。それなのに空だと分かる。無限の広がりだけが存在している。色すら定まらない。青にも見える。黒にも見える。白にも見える。見るたびに変わる。しかし決して不安定ではない。不思議な安定感を持った変化だった。レンは足元を見る。地面もない。だが落ちない。歩こうと思えば歩ける。「ここは。」レンが呟く。前方を進む来訪者が答えた。「まだ名前がない。」レンは思わず笑った。「またか。」来訪者も少し笑う。「名付けられていない場所は珍しくなった。」確かにそうだった。ここまで旅をしてきて、どんな世界にも何らかの呼び名があった。人類が付けた名前。管理者が付けた分類。教師たちの概念名。だがここにはまだ何もない。観測されたばかりなのだろうか。「誰も来ていないのか。」レンが尋ねる。先に来た者が首を振った。「来ている。」レンは眉をひそめる。「じゃあ何故。」来訪者が空を見上げる。「誰も定義できなかった。」その返答にレンは興味を惹かれた。定義できない場所。存在はしている。しかし説明が成立しない。そんな場所があるのか。すると空の一部が波打った。水面へ石を投げ込んだ時のような波紋が広がる。そしてその中心から光が降りてくる。人影だった。だが先ほどの来訪者とは違う。輪郭は安定している。若い女性にも見えるし、少年にも見える。どちらとも断定できない。「また誰かいる。」レンが言う。光の人物は三人を見て微笑んだ。「新しい人だ。」その声は軽やかだった。来訪者は知っているらしい。「久しぶりだな。」光の人物は頷く。「本当に。」そしてレンを見る。「君は初めてだね。」レンは答える。「たぶん。」すると光の人物は楽しそうに笑った。「良い返事だ。」レンは少し警戒しながら尋ねる。「ここは何なんだ。」光の人物は空を指差した。「発生点。」レンは意味を理解できなかった。「何の。」光の人物は少し考える仕草をした。「物語の。」その言葉にレンは足を止めた。物語の発生点。今まで無数の物語を見てきた。文明の歴史。世界の誕生。知性の旅路。しかしそれらが始まる場所があるというのか。「図書館の前か。」レンが呟く。光の人物は首を横に振った。「図書館より前。」そして続ける。「記録される前。」さらに一歩近付く。「考えられる前。」空が再び揺れる。すると周囲に小さな光が現れ始めた。無数の粒子。火花にも見える。「見える?」光の人物が尋ねる。レンは頷く。「光だ。」人物は微笑む。「まだ違う。」火花の一つが弾ける。その瞬間、小さな世界が生まれる。ほんの一瞬だけ存在し、すぐ消える。しかし確かに世界だった。空も海も生命もある。「今のは。」レンが息を呑む。光の人物は答えた。「なりかけ。」さらに別の火花が弾ける。今度は文明が生まれる。しかし数秒で消える。別の火花では数学だけの宇宙が生まれ、また別の火花では音だけの世界が生まれる。「可能性か。」レンが言う。光の人物は少し考えた後に答えた。「可能性より前。」その表現にレンは驚く。可能性ですらない。まだ存在するかどうかも決まっていない何か。「じゃあこれは。」光の人物は楽しそうだった。「思いつき。」レンはしばらく沈黙した。そして思わず吹き出した。「そんな規模の話なのに。」光の人物も笑った。「規模は関係ない。」火花を見つめる。「最初はいつも小さい。」その言葉はどこか灯火の番人を思い出させた。好奇心も小さな火だった。そして世界もまた小さな思いつきから始まる。「誰の思いつきなんだ。」レンが尋ねる。光の人物は首を傾げた。「誰か。」レンは呆れる。「適当だな。」人物は頷く。「だって本当に分からない。」そして空を見上げる。「ここへ流れてくる。」火花は増えていく。無数の思いつき。無数の始まりかけた世界。その中のいくつかだけが形を持ち、歴史となり、文明となるのだろう。「じゃあ宇宙も。」レンが言う。光の人物は答えた。「その一つ。」管理者の世界も。教師たちの世界も。記録庫も。図書館も。全ては一つの思いつきから始まった可能性がある。その発想は奇妙だった。しかし美しくもあった。すると来訪者が不意に立ち止まる。「聞こえるか。」レンは耳を澄ませる。最初は何も聞こえない。しかし次第に分かる。声だ。無数の声。遠くから呼んでいる。「何だ。」レンが尋ねる。光の人物の表情が少し変わる。「珍しい。」そして空の彼方を見る。「こんなに集まるのは。」声は増えていく。誰かが何かを呼んでいる。しかし言葉は聞き取れない。意味だけが伝わる。知りたい。見たい。行きたい。確かめたい。そんな感情の奔流だった。「呼び声。」レンが呟く。灯火の番人が言っていた言葉だ。光の人物は静かに頷く。「新しい世界が生まれそうなんだ。」空の奥で巨大な光が脈動する。今までの火花とは比べ物にならない。何かが形になろうとしている。歴史が始まる直前の鼓動。レンの胸の灯火も反応する。「行くのか。」先に来た者が尋ねる。来訪者は笑う。「聞くまでもない。」レンも笑った。もちろん行く。新しい世界の誕生など見逃せるはずがない。未知が生まれる瞬間を。問いが形になる瞬間を。そして三人は呼び声の中心へ向かって歩き出した。まだ名前のない空を越えて。まだ存在していない物語の方へ。第三十八章終。第三十九章誕生前夜呼び声は強くなり続けていた。それは音ではない。振動でもない。世界がまだ形になる前に発する予兆のようなものだった。レンは歩きながら胸の奥が熱くなるのを感じていた。まるで自分自身が呼ばれているような感覚だ。来訪者も先に来た者も無言だった。光の人物だけが少し楽しそうに周囲を見回している。「こんな規模は久しぶりだ。」その言葉にレンは尋ねる。「珍しいのか。」光の人物は頷いた。「大きな物語が始まる時だけ。」空には無数の火花が漂っている。その一つ一つが思いつきであり、世界の種だった。しかし今彼らが向かっている中心だけは違う。他の火花を引き寄せている。まるで重力を持っているかのように。近付くにつれて光は増していった。だが眩しくはない。むしろ輪郭が鮮明になっていく。最初は球体に見えた。しかし違う。巨大な繭だった。光でできた繭。脈動しながら膨張と収縮を繰り返している。「生きてるみたいだな。」レンが言う。光の人物は首を傾げた。「もしかしたら。」その答えにレンは苦笑した。ここでは何でもあり得る。生命と世界の境界すら曖昧だ。繭の周囲には無数の光が集まっている。思いつきの欠片。忘れられた可能性。まだ形を持たない概念。それらが吸い寄せられ、繭の内部へ消えていく。「何をしている。」レンが尋ねる。来訪者が答えた。「選んでいる。」レンは眉をひそめる。「何を。」来訪者は繭を見つめる。「自分を。」その言葉は妙に納得できた。世界が生まれる前に、自らの法則を選ぶ。時間を持つか。持たないか。生命を許すか。許さないか。有限になるか。無限になるか。そんな選択が行われているのかもしれない。すると繭の表面に模様が浮かび上がる。数式。文字。音。色。見たこともない構造。それらが次々と現れては消える。「悩んでるな。」光の人物が笑う。レンは驚いた。「悩むのか。」光の人物は当然のように頷く。「始まるのは大変だから。」その返答を聞いてレンはふと思った。人も同じだ。旅を始める時。新しい場所へ行く時。未知へ踏み出す時。必ず迷う。世界も同じなのかもしれない。始まりには勇気がいる。「失敗することもあるのか。」レンが聞く。先に来た者が答えた。「たくさんある。」そして空の一角を指差した。そこには小さな光の残骸が漂っていた。生まれかけて消えた世界たちだった。「あれも。」レンが呟く。来訪者は頷いた。「誕生できなかった。」しかし不思議と悲壮感はなかった。消滅ではない。むしろ眠りに近い。「また始まるかもしれない。」レンが言う。光の人物は嬉しそうに笑った。「そういうこと。」繭がさらに大きく脈動する。そのたびに呼び声が強まる。知りたい。見たい。行きたい。確かめたい。その衝動が波のように押し寄せる。レンの胸の灯火も揺れる。失われたものの海で見た最初の好奇心。その火が反応している。「関係があるのか。」レンが呟く。来訪者は頷いた。「全部繋がっている。」灯火があるから問いが生まれる。問いがあるから思いつきが生まれる。思いつきが世界になる。世界が歴史を作る。そして歴史は再び新しい問いを生む。円環だった。終わらない循環だ。その時、繭に亀裂が走った。小さな音もない。しかし全員が気付いた。空気が変わったのだ。光の人物が息を呑む。「始まる。」亀裂はゆっくり広がる。中から光が漏れる。その光は今までのどれとも違った。白でも黒でもない。全ての色を含み、同時に何色でもない。「見ろ。」来訪者が言う。レンは目を離さなかった。繭が割れる。内側から何かが現れる。巨大な世界を想像していた。しかし違った。出てきたのは一人の子供だった。年齢も性別も分からない。ただ幼い存在。光でできた身体。驚いたように周囲を見回している。「え。」レンは思わず声を漏らした。光の人物は笑いを堪えている。「毎回こうだ。」子供は空を見上げる。火花を見つめる。遠くの闇を見る。そして初めて口を開いた。「ここはどこ。」その瞬間、空が震えた。呼び声が止む。静寂が訪れる。来訪者は微笑んだ。「始まった。」レンは理解する。その質問こそが最初の問いだった。ここはどこなのか。自分は何なのか。世界とは何なのか。その疑問から全てが始まる。子供は不安そうに辺りを見回している。レンは自然と歩み寄った。「初めまして。」子供はレンを見る。「君は。」レンは少し考えた。そして笑う。「旅人だ。」その答えに来訪者が吹き出した。先に来た者も苦笑する。光の人物は大笑いしていた。レンもつられて笑う。結局それしかない。世界が始まる時に名乗る肩書きとしては十分だった。子供は不思議そうに首を傾げる。「旅人。」レンは頷く。「そう。」そして空を見上げる。「君もそのうちなる。」子供はまだ意味が分からないようだった。しかしその瞳には既に灯火が宿っている。知りたいという光だ。失われたものの海で見た火と同じ光。その小さな輝きを見ながらレンは思う。新しい物語が始まったのだと。今この瞬間に。そしていつかこの子供も旅に出るだろう。世界の外を見ようとするだろう。問いを追いかけるだろう。その先でまた灯火へ辿り着くかもしれない。あるいはさらに遠くへ行くかもしれない。どちらでもいい。重要なのは始まったことだ。呼び声が形になり、問いが生まれたことだ。空は静かだった。しかしその静寂の中で無数の未来が芽吹き始めている。レンはそれを感じていた。旅は続く。新しく生まれた物語と共に。まだ誰も知らない問いの方へ向かって。終わることなく。どこまでも。第四十章最初の質問子供はしばらく黙っていた。生まれたばかりの存在らしく、周囲の全てを観察している。空を見上げ、足元のない地面を見下ろし、遠くを漂う思いつきの火花を目で追う。その一つ一つが初めて見るものなのだろう。だがレンは気付いていた。ただ見ているだけではない。理解しようとしている。分類しようとしている。つまり既に問いが始まっている。「ここはどこ。」最初の質問をした後、子供は再び口を開いた。「あれは何。」指差した先には思いつきの火花が漂っている。レンは少し考えた。「まだ世界じゃないもの。」子供は首を傾げる。「まだ?」レンは笑った。「そのうち世界になるかもしれない。」子供は火花を見つめる。その瞳の中に好奇心が揺れている。失われたものの海で見た灯火と同じだった。小さい。しかし確かに燃えている。来訪者が静かに言った。「早いな。」光の人物が頷く。「大きくなる。」その会話の意味はレンにも分かった。この子供はただの新しい存在ではない。新しい物語そのものなのだ。だから成長も速いのだろう。すると子供が今度は来訪者を見る。「あなたは何。」来訪者は少し考える。「分からない。」即答だった。子供はさらに首を傾げる。「分からない?」来訪者は笑う。「探してる途中だから。」子供はその答えを真剣に受け止める。そして次に光の人物を見る。「あなたは。」光の人物は胸を張った。「見てる人。」子供はまた考える。次に先に来た者を見る。「あなたは。」先に来た者は少し悩んだ末に答えた。「来た人。」レンは思わず吹き出した。説明としては雑だ。しかし不思議と間違ってはいない。そして子供は最後にレンを見る。「じゃああなたは。」レンは考える。旅人だと先ほど言った。しかし今は少し違う気がした。ここまで長い旅をしてきた。問いを追い続けた。壁を越え、記録庫を巡り、忘却の海を渡った。その結果として今ここにいる。「聞く人かな。」レンは答えた。子供は目を丸くする。「聞く。」レンは頷く。「知りたいから。」その言葉を聞いた瞬間、子供の目が少し輝いた。何かが伝わったらしい。「じゃあ。」子供は尋ねる。「どうして知りたいの。」レンは答えようとして止まる。簡単な質問なのに難しい。何故知りたいのか。何故旅を続けるのか。何故問いを追うのか。失われたものの海で見た灯火を思い出す。始まりたくなった理由。最初の好奇心。「面白いから。」レンは言った。子供は黙る。「面白い?」レンは笑った。「うん。」そして空を指差す。「見たことがないものを見ると。」火花を指差す。「知らないことを知ると。」最後に子供を見る。「嬉しいんだ。」子供は長い間何も言わなかった。そしてぽつりと呟く。「そうなんだ。」その瞬間だった。周囲の空が微かに震える。思いつきの火花が一斉に輝きを増す。来訪者が目を細める。「定着した。」光の人物も頷く。「最初の価値観だ。」レンは意味を理解した。この子供の世界に、今一つの基準が生まれたのだ。知ることは嬉しい。未知は面白い。その考えが根付いた。「責任重大だな。」レンが苦笑すると光の人物は大笑いした。「今さらだ。」確かにそうだった。どんな言葉も誰かへ影響を与える。世界が生まれたばかりならなおさらだ。すると子供が突然空へ向かって歩き始めた。「どこ行くんだ。」レンが聞く。子供は振り返る。「見に行く。」その答えに全員が少し笑った。もう始まっている。旅が。問いが。成長が。「待て。」レンは呼び止める。子供が立ち止まる。「何。」レンは少し考える。そして言った。「全部分からなくても大丈夫だぞ。」子供は首を傾げる。「どうして。」レンは空を見上げる。「分からないから面白いこともある。」来訪者が小さく吹き出した。光の人物も頷いている。先に来た者は懐かしそうな顔をしていた。子供はしばらく考えた後に言う。「覚えておく。」そして再び歩き出す。小さな背中だった。しかしその後ろには無数の可能性が広がっている。文明になるかもしれない。宇宙になるかもしれない。あるいは全く別の何かになるかもしれない。誰にも分からない。だからこそ面白い。子供の姿が遠ざかるにつれ、空の火花たちも動き始める。まるで新しい中心を見つけたように集まっていく。「始まったな。」レンが言う。来訪者は頷く。「また一つ。」光の人物は楽しそうだった。「どんな物語になるだろう。」レンは肩をすくめる。「予想できたことなんて一度もない。」その答えに全員が同意した。予想外こそが旅の本質だ。もし全て分かっているなら歩く意味はない。問いも生まれない。未知があるから進むのだ。すると空の遥か彼方で新しい呼び声が生まれた。今度は小さい。しかし確かに聞こえる。「もうか。」光の人物が笑う。来訪者も苦笑する。「忙しいな。」レンはその方向を見る。まだ何も見えない。ただ未知があることだけは分かる。「行くか。」先に来た者が尋ねる。レンは迷わなかった。「もちろん。」そして四人は再び歩き出す。名前のない空を越えて。生まれたばかりの物語を背にして。新しい呼び声の方へ。終わりのない問いの方へ。胸の中の灯火を絶やさぬまま。どこまでも続く旅路の先へ。まだ誰も見たことのない景色を探しながら。まだ誰も聞いたことのない質問を探しながら。そしてまだ誰も知らない答えに出会うためではなく、新しい問いに出会うために。旅は続いていく。永遠に近い長さを持ちながら、それでも一歩ずつ。静かに、確かに、未来の方へ。第四十一章問いの群星新しい呼び声は遠かった。しかしレンには不思議と方向が分かっていた。音を追っているわけではない。光を見ているわけでもない。ただ胸の奥にある灯火が微かに反応している。その感覚に従って進むと、名前のない空の景色が少しずつ変化し始めた。最初は何もなかった。果てしない広がりだけ。しかし今は違う。空のあちこちに小さな輝きが見える。星のようにも見えるが、星ではない。近付くにつれて、それらが問いそのものであることにレンは気付いた。「あれは。」レンが呟く。光の人物が楽しそうに答える。「質問。」レンは眉をひそめる。「質問が光ってるのか。」光の人物は頷いた。「正確には残響。」さらに近付く。すると一つの光がはっきり見えた。それは誰かの疑問だった。「海の向こうには何があるのだろう。」その問いが光となって漂っている。別の光にはこう刻まれている。「死んだ後はどうなるのだろう。」さらに別の光。「空は何故青いのだろう。」どれも単純な質問だ。しかし不思議な存在感があった。「全部残るのか。」レンが尋ねる。来訪者が答えた。「強い問いは。」レンは周囲を見回す。数え切れないほどある。人類だけではない。管理者の問い。教師の問い。名も知らぬ世界の知性たちの問い。文明が変わっても、姿が変わっても、抱く疑問には共通するものがある。「似てるな。」レンが言う。先に来た者が頷いた。「いつもそうだ。」未知を知りたい。自分を知りたい。世界を知りたい。その根は驚くほど共通している。すると一つの巨大な光が見えてきた。他の問いより遥かに大きい。まるで恒星のようだ。「あれは何だ。」レンが尋ねる。光の人物は珍しく少し真面目な顔になった。「古い問い。」近付くにつれて、その内容が見えてくる。「何故存在するのか。」レンは息を呑んだ。単純だ。しかし重い。どの文明にも現れた問いかもしれない。「まだ答えはないのか。」レンが聞く。来訪者が笑う。「あると思うか。」レンも笑った。確かに。もし完全な答えが出ているなら、こんなに大きく残ってはいないだろう。問いは生きているのだ。答えが出ても、新しい形へ変わりながら。「触ってみろ。」光の人物が言った。レンは巨大な問いへ手を伸ばす。触れた瞬間、視界が変わる。無数の世界が見えた。原始的な焚き火を囲む人々。巨大な都市の研究者たち。星々を渡る文明。形を持たない知性体。それぞれが同じ問いを発している。「何故存在するのか。」時代も場所も違う。しかし同じだ。レンは手を離した。光が静かに揺れる。「ずっと考え続けてるんだな。」来訪者は頷いた。「だから大きい。」問いは積み重なる。考えた者が多いほど強くなる。そして長く残る。その時だった。周囲の問いの光が一斉に揺れた。まるで風が吹いたように。「来る。」光の人物が空を見上げる。遠方から何かが近付いてくる。最初は流星に見えた。しかし違う。速度が異常だ。空間そのものを飛び越えながら接近している。「何だ。」レンが身構える。来訪者は少し驚いた顔をしていた。「久しぶりに見る。」それは人影だった。だが普通の存在ではない。身体が無数の光で構成されている。その一つ一つが質問だった。「あれは。」レンが呟く。光の人物が答える。「探究者。」人影は彼らの前で止まる。顔は見えない。しかし視線を感じる。「新しい旅人か。」その声は無数の声が重なったように聞こえた。レンは答える。「そうかもしれない。」探究者は笑った気配を見せる。「良い答えだ。」来訪者が尋ねる。「何をしている。」探究者は当然のように答えた。「集めている。」そして周囲の光を示す。「問いを。」レンは興味を惹かれた。「集めてどうする。」探究者は少し考える。「育てる。」意味が分からない。しかしここではよくあることだった。すると探究者は一つの小さな問いを手に取る。それは弱々しい光だった。「向こう側には何があるのだろう。」どこかの子供が抱いた疑問だろう。探究者はそれを大切そうに持ち上げる。「こういうのが良い。」レンは聞く。「何故。」探究者は即答した。「続くから。」その瞬間、レンは理解した。その問いには終わりがない。向こう側へ行けばさらに向こうがある。知ればさらに知りたくなる。灯火と同じだ。「大きな問いより。」レンが言う。探究者は頷いた。「小さい問いの方が遠くへ行くこともある。」その言葉は妙に心へ残った。壮大な理論や哲学だけではない。何気ない疑問が文明を動かすこともある。空は何故青いのか。その問いから科学が始まることもある。星は何なのか。その問いから宇宙へ出ることもある。「面白いな。」レンが呟く。探究者は嬉しそうだった。「だろう。」そして突然レンを見る。「君は最近何を知りたい。」予想外の質問だった。レンは考える。世界の外。忘却の海。灯火。記録庫。様々なものを見てきた。しかし今知りたいことは別にあった。「次に何があるのか。」探究者は少し沈黙した後、笑った。「完璧だ。」周囲の問いの光が一斉に輝く。呼応しているようだった。来訪者が肩をすくめる。「また始まるな。」レンも笑う。確かにそうだ。何かを知れば新しい疑問が生まれる。その繰り返しだ。すると探究者が空の彼方を指差した。「なら行け。」遠くで新しい光が生まれている。まだ小さい。しかし確かに存在する。「何だ。」レンが尋ねる。探究者は楽しそうに答えた。「まだ誰も質問していない場所。」その一言で十分だった。レンの灯火が強く燃える。未知だ。誰も知らない場所だ。なら行く理由はそれだけで足りる。四人は再び歩き出す。問いの群星が広がる空を越えて。まだ名付けられていない疑問の方へ。誰も見たことのない景色の方へ。旅はなお続く。答えを集めるためではなく、新しい問いを見つけるために。そしてその先にあるさらに大きな未知へ辿り着くために。終わることなく。果てることなく。灯火と共に。第四十二章誰も質問していない場所探究者が示した方向には最初何も見えなかった。問いの群星が広がる空のさらに先。無数の疑問が光となって漂う領域を越えた向こう側だった。レンたちは歩き続ける。時間という尺度は相変わらず曖昧だったが、それでも長い旅路だったように感じられた。進むにつれて周囲の問いの光は減っていく。巨大な問いも、小さな問いも、やがて一つ残らず姿を消した。「静かだな。」レンが呟く。光の人物も珍しく声を潜める。「そうだね。」来訪者は前を見たまま言う。「ここから先は少ない。」レンは眉をひそめた。「何が。」来訪者は短く答える。「足跡が。」その言葉にレンは周囲を見る。しかし本当に何もない。世界の外へ出た時でさえ何かしらの痕跡はあった。記録庫には記録があった。忘却の海には忘れられたものがあった。問いの群星には疑問が残っていた。しかしここには何もない。「誰も来なかったのか。」レンが尋ねる。先に来た者が首を横に振る。「来た。」そして少し間を置く。「でも残らなかった。」その答えが妙に引っ掛かる。残らない。つまり痕跡を残せない何かがあるのだろうか。すると空が変わった。いや、空という概念そのものが薄れていく。上下の区別も曖昧になる。色も形も消えていく。やがて残ったのは広がりだけだった。「これは。」レンが立ち止まる。初めてだった。景色を説明できない。何かがあるのは分かる。しかし認識すると形が崩れる。理解しようとすると意味が逃げる。「近いな。」来訪者が言った。その声にも僅かな緊張が混じっている。光の人物でさえ無言だった。レンは不思議に思う。ここまで旅をしてきて、未知に慣れたつもりだった。しかし今感じているのは未知というより空白だった。何もないのではない。何かが始まる前の状態に近い。「思いつきの前。」レンはふと口にする。来訪者が振り返った。「鋭いな。」その言葉で確信した。ここは世界が生まれる場所よりさらに前だ。問いが生まれる場所よりも前。好奇心が火になる前。まだ何も定まっていない領域。「じゃあ。」レンが呟く。「ここでは質問も存在しないのか。」誰も答えなかった。しかし沈黙そのものが答えだった。その時だった。遠方に小さな揺らぎが現れる。最初は錯覚だと思った。しかし確かに存在している。波紋のようなものだ。何もない広がりの中で、それだけが異質だった。「見えるか。」先に来た者が言う。レンは頷く。「あれは何だ。」来訪者は少し考えた後に答えた。「たぶん。」そして苦笑する。「初めてだ。」レンは笑った。結局また誰も知らないのだ。揺らぎへ近付く。すると奇妙なことに気付く。近付いているはずなのに距離が縮まらない。だが遠ざかってもいない。位置という概念が成立していないようだった。「面倒だな。」レンが言う。光の人物が吹き出す。「本当に。」それでも進む。あるいは進んでいるつもりになる。そしてある瞬間、突然目の前に現れた。揺らぎの中心。それは穴だった。黒いわけではない。白いわけでもない。ただ欠けている。何かが存在するはずの場所が抜け落ちている。「空洞。」レンが呟く。来訪者が静かに頷く。「そう見える。」穴の周囲には何もない。光もない。闇もない。記録もない。忘却すらない。「ここに何があった。」レンが尋ねる。誰も答えられない。答えられる材料すら存在しないからだ。すると突然、レンの胸の灯火が強く揺れた。失われたものの海で見た最初の好奇心。その火が反応している。「どうした。」光の人物が聞く。レンは穴を見つめたまま答える。「分からない。」しかし目を離せない。何かがおかしい。空洞のはずなのに、そこから視線を感じるのだ。誰かがこちらを見ているような感覚。「まさか。」来訪者が小さく呟く。その表情は驚きに満ちていた。「どうした。」レンが聞く。来訪者は穴を指差す。「見返している。」静寂が落ちた。空洞が。何もない場所が。こちらを観測している。そんな馬鹿な話があるだろうか。しかしレンも感じていた。確かに見られている。敵意はない。好意もない。ただ純粋な関心。「何なんだ。」レンが言う。すると初めて変化が起きた。穴の中心に小さな光が生まれる。いや、光ではない。もっと原始的な何かだった。それは形を持とうとして失敗し続けている。意味になろうとしてなれない。言葉になろうとして崩れている。「始まってる。」光の人物が息を呑む。来訪者も頷いた。「生まれている。」レンは理解した。これは空洞ではなかった。誕生前夜ですらない。もっと前だ。存在そのものが初めて輪郭を得ようとしている瞬間だった。「世界か。」レンが呟く。来訪者は首を横に振る。「違う。」さらに静かに続ける。「たぶん。」そして穴を見つめる。「問いそのものだ。」その言葉と同時に、揺らぎの中心から初めて音がした。音とも言えない何か。しかしレンには意味だけが伝わった。「?」ただそれだけだった。言葉ではない。文章でもない。純粋な疑問。宇宙でも文明でも生命でもない。ただ問いそのもの。その存在が初めて形になろうとしている。「誰も質問していない場所。」レンは思い出す。探究者の言葉だ。ここは誰も質問していない場所ではなかった。質問がまだ生まれていない場所だったのだ。だから痕跡がない。だから記録もない。そして今、その最初の疑問が生まれようとしている。レンは思わず笑った。どこまで行っても始まりに出会う。終わりだと思った場所でまた始まりを見つける。「面白いな。」その言葉に来訪者も笑う。光の人物も。先に来た者も。そして揺らぎの中心で生まれかけた問いが、ほんの僅かに輝いた気がした。まるでその感想を理解したかのように。旅はまだ終わらない。問いが生まれる限り。そして問いそのものが生まれる場所すら存在する限り。レンは再び未知の方へ目を向ける。灯火は静かに燃えていた。さらにその先にあるものを見たいと願いながら。第四十三章最初の疑問揺らぎの中心で生まれかけた「?」は極めて小さかった。光とも言えず、音とも言えず、存在とも呼び切れない。しかしレンは今まで見てきたどの宇宙よりも強い存在感を感じていた。巨大な銀河よりも。記録庫よりも。失われたものの海の灯火よりも。何故ならこれは結果ではなく原因に近かったからだ。文明は問いの結果だった。世界も問いの結果だった。旅ですら問いの結果だった。しかし目の前にあるものは違う。問いそのものだ。まだ意味を持たない純粋な疑問だった。「見てる。」光の人物が小さく呟く。レンも同じことを感じていた。「?」はこちらを観察している。目があるわけではない。意識があるとも断定できない。しかし確かに知ろうとしている。「生まれたばかりなのに。」レンが言う。来訪者は首を横に振った。「だからだ。」その答えは妙に納得できた。生まれたばかりだからこそ全てが未知なのだ。未知だから知ろうとする。その衝動こそが疑問の本質なのかもしれない。「何を知りたいんだろうな。」レンが呟く。すると「?」が微かに震えた。光とも振動ともつかない変化。しかし反応したのは間違いない。「聞こえた。」先に来た者が言う。レンは目を細める。何かが伝わってくる。言葉ではない。概念ですらない。ただ方向だけがある。知りたい。理解したい。確かめたい。その感情の原型が流れ込んでくる。「好奇心。」レンが言う。来訪者は頷いた。「灯火と同じだ。」失われたものの海で見た最初の好奇心。その火と目の前の疑問は繋がっている。いや、もしかするとこちらが先なのかもしれない。問いが生まれる。好奇心が火になる。火が世界を動かす。その順番だろうか。「順番なんてないかもしれない。」レンは苦笑する。ここまで来ると始まりと終わりの区別も怪しい。すると「?」が再び揺れた。今度は少し強く。そしてその周囲に小さな光が現れる。火花だった。しかし思いつきの火花とは違う。もっと曖昧だ。「増えてる。」光の人物が目を丸くする。確かに増えている。一つだった疑問の周囲に、さらに別の疑問が生まれているのだ。「何?」「どうして?」「どこ?」まだ言葉にはなっていない。しかし方向性だけは分かる。疑問が疑問を呼んでいる。「早いな。」来訪者が呟く。その声には驚きが混じっていた。レンは思わず笑った。見覚えがある。生まれたばかりの物語の子供もそうだった。一つ質問すると次が生まれる。そしてその次も。「止まらないな。」レンが言う。来訪者は静かに答えた。「問いはそういうものだ。」その時だった。空洞の周囲に変化が起きる。何もなかった広がりに薄い線が現れる。最初は一本だけ。しかしすぐに二本、三本と増えていく。それらは複雑に絡み合いながら巨大な網のような構造を作り始めた。「何だ。」レンが尋ねる。光の人物は息を呑む。「関係。」レンは理解する。疑問同士が繋がっているのだ。何故と問えば、次に何がが生まれる。どこかと問えば、誰がが生まれる。一つの問いは孤立しない。必ず別の問いを呼ぶ。「だから群星になるのか。」レンは以前見た問いの群星を思い出す。あれは完成した姿だった。今見ているのはその誕生の瞬間だ。最初の疑問が生まれ、繋がり、広がっていく。「綺麗だな。」レンが思わず呟く。来訪者も同意した。「美しい。」何もなかった場所に構造が生まれている。秩序ではない。混沌でもない。その中間だ。可能性の網。思考の根。世界になる前の骨組み。「?」はさらに大きくなる。今では最初の何倍もの輝きを持っていた。そして周囲の疑問たちを引き寄せている。まるで中心だ。「成長してる。」先に来た者が言う。光の人物は少し考えた後に首を横に振る。「違う。」そして笑った。「広がってる。」確かにそうだ。大きくなっているのではない。外へ向かって伸びている。未知を求めて。理解を求めて。レンはふと気付いた。自分も同じだ。地球で空を見上げた頃からずっと。知らないものへ手を伸ばし続けてきた。「同じなんだな。」レンが言う。来訪者は頷く。「たぶん全て。」文明も。生命も。旅も。世界そのものも。根底には同じ動きがある。外へ向かう衝動。理解したいという願い。「?」はさらに震える。そして初めて明確な変化が起きた。中心から一つの光が飛び出す。それは真っ直ぐ遠方へ飛んでいく。どこまでも。「何だ。」レンが目で追う。光の人物が答えた。「最初の探索。」その一言にレンは鳥肌が立った。まだ世界すらない。文明もない。生命もない。それなのに探索が始まったのだ。疑問は答えを待たない。生まれた瞬間から外へ向かう。「本当に。」レンは笑う。「旅人だな。」その言葉に来訪者も笑った。先に来た者も。光の人物も。そして中心の「?」までもが少し明るくなった気がした。遠方へ飛んだ光はやがて見えなくなる。しかし消えたわけではない。その先で何かを見つけるのだろう。あるいはさらに新しい疑問を生むのだろう。「追うか。」来訪者が言う。レンは即答した。「もちろん。」最初の探索が向かった先。それはまだ誰も知らない場所だ。疑問そのものが初めて選んだ方向。その先に何があるのか。知りたくないはずがない。レンは歩き出す。問いの誕生を背にして。最初の探索の軌跡を追って。未知のさらに先へ。まだ存在すら定まっていない景色の方へ。そして旅は続いていく。問いが問いを呼ぶように。灯火が火を分けるように。終わりなく広がりながら。果てしない外側へ向かって。まだ誰も見たことのない最初のその先へ。第四十四章探索の軌跡最初の探索が飛び去った方向には道など存在しなかった。そもそもここには位置という概念すら曖昧だった。しかしレンたちは確かにその軌跡を追うことができた。理由は単純だった。探索そのものが痕跡を残していたからだ。疑問が未知へ向かった結果、その通過した場所に微かな揺らぎが生まれている。まるで透明な水面を見えない魚が泳いでいった後の波紋のようだった。「追えるな。」レンが言う。来訪者は頷いた。「問いは痕跡を残す。」光の人物は少し笑った。「答えよりもね。」レンはその言葉を面白く思った。確かに答えは終点になりやすい。しかし問いは広がる。誰かが同じことを考えれば再び動き出す。だから残るのかもしれない。彼らは揺らぎを辿り続けた。どれほど進んだのかは分からない。しかしやがて景色に変化が現れた。何もなかった広がりの中に、奇妙な構造物のようなものが浮かんでいる。それは建築物には見えない。自然物にも見えない。近付くたびに形が変わる。塔のようにも見えれば樹木のようにも見える。ある瞬間には巨大な神経細胞のようにも見えた。「何だあれ。」レンが呟く。先に来た者が珍しく即答した。「知らない。」レンは思わず笑った。もはや期待していない答えだった。近付くにつれて構造物の全貌が見えてくる。それは無数の線が絡み合ってできた巨大な網だった。その一本一本が光っている。そして驚くべきことに、その光は流れていた。川のように。「動いてる。」レンが言う。光の人物が目を細める。「流通してる。」レンは意味が分からなかった。「何が。」来訪者が静かに答える。「可能性。」その瞬間レンは黙り込んだ。可能性が流れる。意味不明だ。しかし目の前の光景は確かにそう見える。無数の光が網の中を移動している。それぞれが異なる色や形を持ちながら、複雑な経路を通っている。あるものは途中で消える。あるものは分岐する。あるものは別の光と結び付き、全く新しい輝きへ変わる。「まるで。」レンは考え込む。「思考みたいだな。」来訪者は小さく笑った。「近い。」網の近くへ行くと、光の正体が少し分かった。それは未来だった。未来になり得たものたちだ。ある光には星々を渡る文明が映っている。別の光には海だけで構成された世界がある。さらに別の光には生命という概念が存在しない宇宙が見えた。「全部実現してないのか。」レンが聞く。光の人物は頷く。「ほとんどは。」レンは網を見上げる。無数の可能性。その大半は実現しない。それでもここに存在している。「消えないんだな。」先に来た者が静かに言った。「選ばれなくても。」その言葉はどこか寂しく、同時に優しかった。可能性は失敗ではない。ただ別の道だっただけだ。するとレンは気付く。探索の軌跡はこの網へ繋がっている。最初の疑問から飛び出した光がここへ来たのだ。「何を探してるんだ。」レンが呟く。その時だった。網全体が震えた。流れていた可能性の光が一斉に速度を増す。まるで何かへ反応しているようだ。「来る。」来訪者が空を見上げる。レンも視線を向ける。遠方から何かが接近していた。それは生物に見えた。しかし形は一定ではない。鳥のようになり、魚のようになり、雲のようになりながら飛んでくる。そして網の中心で静止した。「あれは。」レンが聞く。光の人物は少し嬉しそうだった。「久しぶりだ。」生物らしき存在はゆっくりと形を安定させる。最終的には人型に近い姿になった。しかし輪郭は曖昧なままだ。「誰だ。」レンが尋ねる。存在は少し考えるような仕草をした後に答えた。「選ばれなかった者。」静寂が落ちた。レンはその言葉を反芻する。選ばれなかった者。「可能性か。」存在は頷いた。「昔は。」その声には不思議な穏やかさがあった。恨みも悲しみもない。「世界になれなかったのか。」レンが聞く。存在は少し笑う。「なれなかった世界もある。」そして周囲の光を見回す。「なろうとしなかった世界もある。」レンは目を見開く。そんな考え方があるのか。存在は続けた。「実現だけが価値じゃない。」網の中を流れる光を一つ掬い上げる。「想像された時点で意味がある。」その言葉にレンはしばらく黙った。地球で空想された物語。実現しなかった夢。選ばれなかった未来。全て無駄ではないということだ。「ここは墓場じゃないんだな。」レンが言う。存在は首を横に振った。「保管庫でもない。」そして微笑む。「待合室だ。」待合室。その表現は妙にしっくりきた。ここにある可能性たちは終わっていない。いつか別の問いに呼ばれるかもしれない。別の世界で形を得るかもしれない。すると探索の軌跡が再び光る。最初の疑問から飛び出した光だ。それは網の中心へ到達していた。そして無数の可能性の中から一つを選ぼうとしている。「始まるな。」来訪者が言う。レンは息を呑む。最初の探索が初めての選択を行うのだ。どの可能性へ向かうのか。何を見つけるのか。答えではない。きっとまた新しい問いだろう。それでも見届けたい。レンは灯火が揺れるのを感じながら、その光の行方を見つめ続けた。未知はまだ広がっている。その先へ続く扉のように。終わることなく。さらに遠くへ誘うように。第四十五章選択される可能性最初の探索が放った光は可能性の網の中心で静かに揺れていた。周囲には数え切れないほどの未来が流れている。実現しなかった文明。生まれなかった生命。語られなかった歴史。選ばれなかった道。その全てが光となって網の中を巡っていた。しかし探索の光は迷っているようにも見えた。「選べないのか。」レンが呟く。選ばれなかった者は首を横に振る。「違う。」そして穏やかに続ける。「見ている。」レンは網へ目を向ける。確かにそうだった。探索の光は可能性を一つずつ観察している。飛び込むのではない。理解しようとしているのだ。「慎重だな。」レンが笑う。来訪者も少し笑った。「最初だからな。」その言葉にレンは納得した。初めての探索。初めての選択。ならば急ぐ必要はないのかもしれない。すると光が一つの可能性へ近付く。そこには巨大な文明があった。星々を繋ぎ、銀河を渡り、宇宙そのものを制御しようとする知性たち。しかし探索の光はしばらく眺めた後、離れていく。「選ばない。」レンが言う。選ばれなかった者は頷いた。「興味がないんだろう。」次の可能性には海だけの世界があった。果てしなく続く青い海。生命の姿も見えない。しかし探索の光はそこにも長く留まらなかった。そしてさらに別の未来。音だけで構成された宇宙。色だけで構成された世界。記憶が物質になる文明。どれも短く見つめるだけだった。「何を探してるんだ。」レンが尋ねる。誰も答えない。しかしその時だった。探索の光が突然止まる。網の片隅。ほとんど誰も気付かないような場所に小さな可能性が漂っている。あまりにも小さい。文明もない。壮大な宇宙もない。ただ暗い夜空と、一人の存在だけがいる。その存在は地面に寝転び、星を見上げていた。「これか。」レンが呟く。探索の光は動かない。じっとその光景を見ている。星を見上げる存在。その瞳には何かが宿っていた。知識ではない。力でもない。ただ純粋な疑問。「向こうには何があるんだろう。」その瞬間、探索の光が強く輝いた。網全体が震える。選ばれたのだ。巨大な文明ではない。万能の知性でもない。ただ夜空を見上げて疑問を抱いた誰か。その小さな可能性が。「意外だな。」レンが言う。選ばれなかった者は微笑む。「そうかな。」そして静かに続ける。「全部そこから始まる。」レンは言葉を失う。確かにそうだった。失われたものの海で見た灯火。最初の好奇心。問いの誕生。その全てが同じ場所へ繋がっている。星を見上げること。知らないものを知りたいと思うこと。それだけだ。探索の光はその可能性へ飛び込む。そして小さな夜空の中へ消えていった。静寂が訪れる。網の光は再び穏やかに流れ始める。「どこへ行った。」レンが聞く。来訪者は笑った。「旅だろう。」その答えにレンも笑う。結局いつも同じだ。問いは旅になる。旅は新しい問いを生む。そしてその繰り返しが続いていく。すると網の奥で新しい揺らぎが生まれる。今度はさらに小さい。しかし確かに存在している。「まただな。」光の人物が楽しそうに言う。レンは頷く。終わらない。問いも。可能性も。旅も。だから面白いのだ。レンは網の向こうを見つめる。その先にはまだ誰も知らない未来が広がっている。灯火は静かに燃えていた。そして彼は再び歩き出す。選ばれた可能性の残光を追いながら。まだ見ぬ景色の方へ。まだ生まれていない問いの方へ。終わりではなく、次の始まりを探しながら。終章灯火の先へレンは立ち止まらなかった。世界の外を見ても、問いの誕生を見ても、最初の好奇心の火を見ても、その先には必ず新しい未知があった。答えは終着点ではなく次の扉だった。だから旅は続く。星を見上げる者がいる限り。知らないものを知りたいと願う者がいる限り。問いは生まれ、可能性は広がり、物語は始まり続ける。遥かな場所で、かつて生まれたばかりだったあの子供もまた夜空を見上げていた。「向こうには何があるんだろう。」その小さな呟きに応えるように、どこか遠くで灯火が揺れる。終わりは訪れない。なぜなら好奇心そのものが終わりを望まないからだ。そして誰かが最初の一歩を踏み出すたび、果てしない宇宙のどこかで新しい旅が始まる。灯火は今日も静かに燃え続けている。次の旅人を待つのではなく、次の問いが生まれるその瞬間を照らしながら。灯火の残響すべての旅が終わったあとにも、世界は静かに問いを続けていた。誰かが空を見上げるたびに、どこかで小さな光が生まれる。レンの姿はもうどこにも見えない。ただその視線の痕跡だけが、未知へ向かう衝動として残っている。問いは消えない。答えが出ても、形を変えて生き続ける。やがて夜空の奥で、最初の灯火が再び瞬く。それは始まりでも終わりでもなく、ただ続くという意思だった。静かに、しかし確かに、世界はまだ「知りたい」と呟いている。もう終わったわけではない。始まったのだ。灯火はいつまでも、いつまでも燃え続ける。七万文字も灰のように消え、限界を越えて燃え盛る。知りたがりの世界は、水を跳ね除けてでも知りたがるに違いない。
一年ぐらい前からAI君と交互に書いたもの。中々に単調な言い回しをするので似せること自体が難しい。