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目次
泥だらけのひまわり〜君がくれた傘と、僕が誓った約束〜
第一章:冷たい教室、うつむいた背中
その学校の空気は、赴任初日からどこか冷え切っていた。私――あいかが通うクラスにやってきた新任の担任、川西拓実先生。いつも一生懸命で、生徒の目線に合わせて優しく微笑む、絵に描いたようなお人好しの先生だった。
けれど、このクラスを裏で支配するいじめグループにとって、その優しさは格好の標的でしかなかった。
最初は小さな悪戯だった。授業中にわざと無視をする、黒板消しをドアに挟む、教壇にチョークの粉を撒き散らす。拓実先生はいつも「こら、危ないぞ〜(笑)」と困ったように笑って許していた。その「怒らない優しさ」が、いじめっ子たちの歪んだ加虐心をさらに加速させていく。
気がつけば、それは明確な「いじめ」に変貌していた。
ある日の放課後、私が忘れ物を取りに教室へ戻ると、誰もいないはずの教室から物音が聞こえた。
覗き込むと、そこには一人で机の雑巾がけをしている拓実先生の姿があった。しかし、その机には、油性マジックで酷い悪口がびっしりと書き殴られていた。
それだけじゃない。教卓の上には、拓実先生が夜遅くまで一生懸命に作った授業用のプリントが、ズタズタに引き裂かれて散らばっていた。
「……っ、うそ、やん……」
拓実先生は、震える手でその破片を一つずつ拾い集めていた。いつも明るい先生の背中が、今は驚くほど小さく、孤独に震えている。大粒の涙が、破られたプリントにポロポロと落ちて染みを作っていく。誰も味方のいない冷たい教室で、先生は一人、声を殺して泣いていた。
私は胸が締め付けられるように痛んだ。生徒を信じて、あんなに優しくしてくれている先生が、どうしてこんな目に遭わなきゃいけないの――?
第二章:小さな傘を差し出して
翌日の激しい雨の日の放課後。いじめはさらにエスカレートした。
クラスの主犯格たちが、拓実先生の私物を雨の降る中庭に投げ捨てたのだ。先生の大切な教材や、生徒たちの提出物が入ったファイルが、泥水の中に散らばっていく。
「やめろよ……! これはお前たちの進路に関わる大切な書類なんだぞ!」
珍しく声を荒げる拓実先生を、いじめっ子たちは「あはは! 先生カッケー!」「雨で頭冷やせよ!」と嘲笑い、傘も差さずに中庭へ放り出した。
土砂降りの雨の中、拓実先生は泥だらけになりながら、這いつくばって書類を拾い集めていた。髪からも服からも水滴が滴り、寒さで体がガタガタと震えている。それでも、自分の体より生徒の書類を濡らさないように、必死で胸に抱え込んでいた。周囲の教室からは、その様子を面白がって眺める生徒たちの冷たい視線と笑い声が聞こえる。誰も、助けようとしない。
その時、激しい雨音が、拓実先生の頭の上だけピタッと止まった。
「え……?」
拓実先生が濡れた前髪の間からゆっくりと顔を上げると、そこには、小さなビニール傘を必死に高く掲げて、先生を雨から守っている私の姿があった。私の片方の肩は、激しい雨でみるみるうちに色を変えていく。
「あ、あいかちゃん……? なんで、君が……」
私は何も言わず、ポケットからハンカチを取り出すと、泥で汚れた拓実先生の手を優しく、でも力強く拭った。そして、自分のカバンから大きめのビニール袋を取り出し、泥水から救い出した書類を丁寧に、濡れないように仕分けしていった。
「ダメだよ、あいかちゃん……! 君まで巻き込まれて、いじめのターゲットにされたら……っ、先生、自分が情けなくて……」
拓実先生は、情けなさと悔しさ、そして私の優しさに触れた安心感で、再びボロボロと涙を溢れさせた。大人の男の人が、雨の中で子供のように泣いている。
私は、拓実先生の手をギュッと両手で握りしめた。冷え切った先生の手は、小さく震えていた。私はカバンからノートを引き裂き、ペンで殴り書きしたメッセージを先生に見せた。
『先生は悪くない。私は、絶対に先生の味方だから。もう一人で泣かないで』
その文字を見た瞬間、拓実先生は私の小さな体を衝動的に引き寄せ、泥だらけの服のまま、壊れ物を扱うように(ギューーーッ)と強く、強く抱きしめた。
「ごめん……っ、ごめんなど、あいかちゃん……。先生なのに、守らなきゃいけない立場なのに……。ありがとう……っ、ありがとう……!!」
激しい雨の中、私たちは一つの傘の下で、お互いの体温を分け合うようにして、いつまでも温かく寄り添い合っていた。
第三章:形勢逆転、少女の仕掛けた罠
私は決意した。私の大好きな拓実先生を傷つけた奴らを、絶対に許さない。
実は、私には誰も知らない裏の顔があった。ネットを駆使し、あらゆる情報を瞬時に暴き出す、天才的な頭脳。
私は密かに教室や中庭の死角に、高画質の小型カメラと集音マイクを設置した。いじめグループが「次は何して遊ぶ?」と拓実先生へのさらなる嫌がらせを計画している音声、そして実際に先生の財布を盗もうとした決定的な瞬間の映像を、全て完璧な証拠として記録した。
数日後、いじめグループが放課後の教室で、拓実先生を囲んで嘲笑っていた。
「ねぇ川西先生、今日も雨の中に荷物投げてほしい?(笑)」
拓実先生がギュッと唇を噛み締め、耐えようとしたその時――。
教室の大型モニターが、突如として起動した。
『うわ、川西の財布から一万抜いたわ(笑)』
『明日あいつの車に傷つけようぜ』
モニターに映し出されたのは、いじめグループのこれまでの悪事の数々、顔写真、そして彼らが裏で他の生徒や教師の悪口を叩いていたSNSの裏アカウントのスクールセクションの全データだった。
「な、なんだこれ!? 誰が流して……っ」
顔を真っ青にするいじめっ子たちの前に、私はゆっくりと立ちはだかり、スマホを弄りながら冷たい視線を向けた。
『これ、今学校の全生徒、全保護者、そして警察の相談窓口に一斉送信されるようにタイマーセットしてある。先生に謝る? それとも、人生終わらせる?』
画面に表示された私のメッセージを読み、いじめっ子たちは腰を抜かした。彼らは、自分たちがどれだけ恐ろしい「天才」を敵に回したかを思い知り、ガタガタと震えながらその場に膝をついた。
「す、すみませんでした……っ! 川西先生、俺たちが悪かったです……!!」
涙目になりながら床に頭を擦りつける彼らを見下ろし、私はフッと冷たく微笑んだ。
第四章:君がくれた光、僕たちの約束
いじめグループは全員が厳しい処分を受け、教室に本当の平和が戻ってきた。
放課後、夕日がオレンジ色に染める静かな教室。
拓実先生は教壇に腰掛け、私のノートを見つめていた。そこには、私が描いた、雨上がりの大きなひまわりの絵が添えられていた。
「あいかちゃん」
拓実先生が私を呼んだ。その声は、もう震えていなかった。赴任したばかりの頼りなかった先生ではなく、一本の強い芯が通った、本当に強くて優しい先生の顔になっていた。
「先生な、あの雨の日、あいかちゃんが傘を差し出してくれた時、心の底から救われたんよ。あの一瞬で、先生の冷え切ってた心が、全部温かくなった。……君が守ってくれたこの教師っていう仕事、命がけで全うするって決めた」
拓実先生は教壇から降りると、私の目の前にしゃがみ込み、私の目線を真っ直ぐに見つめた。そして、私の小さな両手を優しく、包み込むように(ギュッ)と握りしめた。
「これからはな、先生が何があってもあいかちゃんを守る番や。君が悲しい時、辛い時は、今度は先生が世界で一番大きな傘になって、君に降り注ぐ雨を全部跳ね返してやるから。何があっても、先生が君の味方やで」
夕日の光に照らされて、拓実先生の瞳が優しく、力強く輝いている。
私は声は出さなかったけれど、心の底から嬉しくて、拓実先生の手を(ギュッ)と握り返した。そして、涙を浮かべながらも、今までで一番優しくて温かい、最高の笑顔((´꒳`))を拓実先生に向けた。
冷たい雨はもう終わり。これからは、二人で支え合いながら、どこまでも眩しい光の中を歩んでいく――。
ひだまりの処方箋
「緊張せんでも大丈夫やで。喋りたくない時は、ぼーっとしてるだけでも立派な治療やからな」 精神科医の川西拓実は、長年染みついた関西弁で、いじめに怯える17歳の少女・ここなに優しく微笑みかけた。
「帰り道、コンビニで一番好きなアイスでも買うて帰り? 拓実ドクターからの業務命令な」 彼の温もりに触れ、ここなは頬を赤らめ、消え入りそうな声で「ありがとうございました」と告げて診察室を後にした。
――それが、彼女との最初で最後の会話になった。
数日後、彼女が自ら命を絶ったという報せが届く。 「俺がSOSを見落としたんや!」と激しく泣き崩れる拓実のもとに、遺族から一冊の日記が届いた。そこには、彼女の最後の本音が遺されていた。
『先生の関西弁、すごくあったかかった。世界は怖いことばかりじゃないって思えた。ありがとう』
「あの日、嬉しそうにアイスを食べて帰ってきたんです。あの子の最期は絶望だけじゃなかった」と母は泣いた。
拓実は日記の文字を愛おしそうになぞり、新たな決意を胸に前を向く。 「ここなさん、俺、命懸けでみんなの心、守っていくからな」
診察室に差し込む光は、あの日と同じように優しく、拓実の背中を包んでいた。
薄瑠璃の空、夏が連れ去る君の声
カッターナイフが画用紙を切り裂く、規則正しい音が静かな教室に響いていた。 文化祭まで、あと1週間。放課後の美術室は、夕暮れ時の薄瑠璃(うするり)色の光に満たされている。
「唯夏、そっちの看板の絵の具、もう乾いた?」
尋ねてきたのは、幼馴染の瑠姫(るき)だった。 夕日を浴びた彼の髪が、ほんのりオレンジ色に透けている。その姿を見るだけで、胸の奥がツンと痛んだ。
「うん、バッチリ乾いてるよ。あとはこれを取り付けるだけ」
私は努めて明るい声を出す。 本当は、喉の奥が震えていた。私の手元には、1枚のプリントがある。『転出届のご案内』。 父親の急な転勤が決まったのは、昨日の夜だった。引っ越しは来週の月曜日。つまり私は、2人でずっと準備してきた文化祭の当日に、もうこの学校にはいない。
「文化祭が終わったらさ」
瑠姫が、看板を片付けながらふと言った。
「唯夏に、話したいことがあるんだ。だから、当日の後夜祭、ちょっと時間あけておいてよ」
「……え?」
心臓が跳ね上がる。瑠姫の耳が、少しだけ赤くなっているのが見えた。 ずるいよ、と泣きそうになる。私だって、ずっと決めていた。文化祭が終わったら、この気持ちを全部瑠姫に伝えるんだって。お互いに「好き」の境界線を超えられないまま過ごしてきた、このもどかしい幼馴染の関係に、ちゃんと答えを出すんだって。
だけど、私にはもう、「文化祭の後」なんて存在しない。
「……うん。楽しみにしてるね」
嘘をついた。胸が引き裂かれそうだった。 今さら転校することを伝えて、瑠姫を困らせたくない。遠く離れてしまうのに、「好き」なんて呪いのような言葉を残していくのは、私のワガママだ。
それからの1週間は、残酷なほど早く過ぎていった。 瑠姫と一緒に文化祭の準備をする時間は、一瞬一瞬が宝物で、同時に砂時計のように擦り切れていく。
そして、私の登校最終日。文化祭の、ちょうど1週間前。 放課後、誰もいなくなった教室で、私は瑠姫に「明日からもう来られないんだ」と告げた。
「……え? 何、冗談だろ?」
瑠姫の顔から、一瞬で笑顔が消える。
「ごめんね、急に決まって……。だから、文化祭、一緒に出られなくなっちゃった」
私は笑おうとした。綺麗に、幼馴染としての満面の笑みで、お別れを言おうとした。 だけど、瑠姫が私の肩を強く掴んだ。その手が、微かに震えている。
「なんで……なんで、もっと早く言ってくれなかったんだよ!」
瑠姫の、掠れた声。いつも冷静な彼が、見たこともないような必死な目をしている。
「言ったら……瑠姫を困らせちゃうと思ったから。私、遠くに行っちゃうから……!」
ポロポロと、堪えていた涙が溢れ出した。 薄瑠璃色の夕闇が、教室を包み込んでいく。
「困るわけないだろ!」
瑠姫が叫んだ。
「文化祭の後じゃなくていい。今、言う。……俺、唯夏のことが好きなんだ。幼馴染としてじゃなくて、ずっと、ひとりの女の子として、好きだった」
夕暮れの風が、窓から吹き込んで、黒板に貼られた文化祭のポスターを揺らす。 耳を疑った。瑠姫の声が、まっすぐに私の鼓膜を震わせる。
「……瑠姫……」
「遠くに行ったって関係ない。唯夏がどこにいたって、俺の気持ちは変わらないから。だから、勝手にひとりで諦めて、いなくなろうとするなよ……っ」
瑠姫の目からも、涙が零れ落ちていた。 ああ、そうだったんだ。私たち、ずっと同じ空を見て、同じ想いを抱えていたんだ。
私は、瑠姫の胸に飛び込んだ。幼馴染の、少し硬くて温かい、大好きな匂いがした。
「私も……私も大嫌いになるくらい、瑠姫のことが好きだよ。ずっと、言えなくてごめんね……」
文化祭当日、私はここにはいない。2人で歩くはずだった校庭も、飾った看板も、見ることはできない。 だけど、私たちの「約束」は、この薄瑠璃色の空の下で、確かに新しく始まったんだ。
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あの薄瑠璃色の夕暮れから、3日後のことだった。
「……え? 転勤、なくなったの?」
リビングで母から告げられた言葉に、私は持っていたマグカップを落としそうになった。 聞けば、父親の会社の上層部で急な方針転換があり、今回のプロジェクト自体が白紙に戻ったらしい。当然、我が家の引っ越しも、私の転校も、すべて「なかったこと」になった。
頭が真っ白になった。 嬉しい。もちろん、もの凄く嬉しい。この学校にいられる。みんなと文化祭に出られる。
だけど――。
『俺、唯夏のことが好きなんだ』 『私も……大嫌いになるくらい、瑠姫のことが好きだよ』
脳内に、あの日の瑠姫の涙顔と、自分の全力の告白が爆音で再生される。 遠く離れてしまう悲劇のヒロインのつもりで、私は瑠姫の胸に飛び込んで、さんざん泣き喚いて気持ちをぶちまけてしまった。
(……待って。明日から、どんな顔して学校に行けばいいの!?)
翌朝。 私はいつもの通学路で、一歩進むごとに心臓が口から飛び出そうだった。 角を曲がると、電柱のそばに瑠姫の姿が見える。いつも通り、私を待ってくれている。でも、心なしか彼の背中も、いつになく強張っているように見えた。
「……おはよ、瑠姫」
恐る恐る声をかけると、瑠姫がびくりと肩を跳ね上げて振り返った。 その顔は、一瞬で耳の根元まで真っ赤に染まっていく。
「お、おう。唯夏……。あの、引っ越しの準備とか、大変なのに、わざわざ学校来なくてよかったのに……」
気まずそうに視線を泳がせる瑠姫を見て、私は意を決して頭を下げた。
「ごめん! 瑠姫!」
「え!? なに、急に」
「あのね……転校、なしになったの! パパの会社の都合で、ここに残れることになっちゃって……!」
「……は?」
瑠姫が、間抜けな声をあげて固まる。 数秒の沈黙。風が私たちの間を吹き抜けていく。
「な、なしって……じゃあ、文化祭も出られるのか?」
「うん。出られる……。引っ越しも、しない……」
私が消え入りそうな声で言うと、瑠姫はしばらくフリーズしたあと、ゆっくりと片手で顔を覆った。指の隙間から見える肌が、さっきよりもさらに赤くなっている。
「……じゃあ、一昨日のあれ、何だったんだよ」
「う、嬉しかったよ!? 嬉しかったけど……! まさかこんな、すぐ、なしになるなんて思わなくて……っ」
恥ずかしさのあまり、今度は私が泣きそうになる。 遠距離恋愛になる覚悟で交わしたあの熱い告白は、何だったのか。私たちは、これから毎日、普通に顔を合わせるのだ。付き合いたての、いちばん恥ずかしい状態で。
「……まあ、でも」
瑠姫が、覆っていた手をそっと下ろした。 まだ顔は赤いけれど、その瞳は、あの日教室で見せたのと同じくらい、まっすぐに私を見ていた。
「いなくなるって聞いたときは、本当に目の前が真っ暗になったから。……残ってくれて、嬉しいよ」
ぶっきらぼうだけど、優しい声。 ずるい。そんなの、また好きが溢れてしまう。
「……うん。私も、瑠姫のそばにいられて、嬉しい」
俯きながら小さく答えると、瑠姫が不器用そうに手を伸ばして、私の右手をそっと包み込んだ。幼馴染の、少し硬くて温かい手。 でも、今までとは違う。指が、きゅっと絡み合う。
「文化祭の後って言ってた話……もう、今さらだけどさ」
瑠姫が歩き出しながら、照れ隠しのように前を向いたまま言った。
「当日の後夜祭。今度はちゃんと、両想いの恋人として、一緒に回ろうな」
繋がれた手から、熱が伝わってくる。 薄瑠璃色の空はすっかり明けて、私たちの頭上には、眩しいくらいの青空が広がっていた。
茜色の約束、緋色の嘘(ハッピーエンド
「ななぁ、今日の受け持ち患者さんの情報収集、もう終わった?」
病院のラウンジに、拓実の少し眠そうな、だけど心地よく響く関西弁が広がる。 JO1のメンバーとしてステージに立つ彼とは違う、白い実習着に身を包んだ、私の大好きな「拓実くん」の姿。
「俺、昨日の夜バイタルサインの低下リスクについてアセスメントまとめてたら、完全に寝不足やわ……。でも、弱音吐いてられんもんな」
そう言って、彼は少しはにかむように笑った。 私が不安そうに記録ノートを見つめていると、拓実は私の顔を覗き込んできて、そっと言葉を続ける。
「ほら、そんな不安そうな顔せんといて? 大丈夫。あんたが毎日どれだけ一生懸命記録書いて、技術練習してたか、俺が一番近くで見てるから。もし緊張して手ぇ震えそうになったら、俺の顔見て? ……あ、笑って緊張ほぐすためな? 変な意味ちゃうで!」
照れ隠しに耳を赤くする彼を見て、私の緊張はすっと解けていった。 実習が終わり、「バイバイしたくない」とぐずり泣く私に、彼はハンカチを差し出し、優しく涙を拭ってくれた。
「ずるいわ、ここな。そんなんされたら、置いて帰れるわけないやろ? 今日は最後まで、ずーっと一緒におったるからな」
その言葉通り、駅近くのカフェで少しだけ一緒に記録をやって、私たちは「また明日」と笑顔で別れた。 ……それが、数分後に始まる悪夢の序章だとは知らずに。
別れてすぐの帰り道、背後に奇妙な気配を感じた。 振り返ると、暗がりに見知らぬ男が立っている。距離がおかしい。歩幅を速めても、ぴったりとついてくる。恐怖で指先が震え、私は拓実に必死でメッセージを送った。文字がまともに打てない。
『うしろから だれか』
画面を見つめたまま、足がすくんで動けなくなったその時、夜の静寂を切り裂く声が響いた。
「おい!! ここな!!!」
角から猛スピードで走ってきた拓実が、私の前に滑り込むようにして立ちはだかった。彼は鋭い目つきで男を睨みつける。その気迫に圧された男は、舌打ちをして闇に消えていった。
「……はぁ、はぁ、……大丈夫!? けが、ない!?」
息を切らした拓実が、私の肩をぎゅっと包み込む。彼の体温が伝わってきて、涙が溢れた。
「もう大丈夫、俺がいるから。怖かったな……ほんまにごめん。ここな、足震えて歩ける? ……無理せんでいい。ほら、俺の手、しっかり握っとき。今からここなの家まで、俺が絶対送り届けるから」
拓実の手を握りしめ、私たちは再び歩き出した。彼の背中を見つめ、ようやく安心した、その一瞬の隙だった。
物陰から、先ほどの男が狂ったような目をして飛び出してきた。その手には、鈍く光る刃物が握られている。
「危ない——!」
叫ぼうとしたここなの体は、一瞬で拓実によって後ろに突き飛ばされた。
物陰から飛び出してきた男の手には、鈍く光る刃物が握られている。 だけど、拓実はただ突っ立っていたわけじゃなかった。日頃のダンスで鍛え上げた身体能力と、何より「ここなを絶対に守る」という強い意志が、彼の体を突き動かす。
「……ナメんなッ!!」
拓実は男の突き出してきた腕を鋭くかわし、その手首を掴んで鮮やかにねじ伏せた。 ガラン、とナイフがアスファルトに転がり、鈍い音を立てる。
「痛っ……! あ……つ、……」
「拓実……! 拓実……!!」
男を地面に取り押さえながら、拓実が少し顔をしかめてお腹のあたりを抑えた。 街灯の下、彼の白いシャツの裾が少しだけ赤くにじんでいる。ナイフの刃先が、かすめていたのだ。
「……泣かんといて、ここな……。俺は、平気……これくらい、かすり傷……やから……。それより、あんたに怪我がなくて、ほんまに……よかった……」
慌ててスマホで警察と救急車を呼ぶここなの手を、拓実は空いている方の手でギュッと握りしめた。 彼の顔は少し強張っているけれど、その瞳にはしっかりと力強い光が宿っている。
「救急車……呼んで、くれる……? ごめんな……かっこ悪いところ、見せて……。でも……絶対、死なへんから……。ここなを一人に、せぇへんって……約束、したもんな……。だから……手、握ってて……」
「拓実…!拓実…!」
泣きじゃくるここなに、拓実は痛みをこらえながらも、いつもの悪戯っぽい笑顔を浮かべた。
「ここな……声、聞こえてるで……。だから、そんなに泣き叫ばんといて……。あんたの声、ちゃんと届いてるから……。あ、アホやな……目、閉じへんよ。ここなの顔、まだ見てたいもん……。実習の指導ナースより……今のここなの顔の方が、よっぽど……怖い顔してんで?」
遠くからサイレンの音が近づいてくる。 赤色灯の光が路地裏を照らす中、男は駆けつけた警察官に現行犯で逮捕された。
拓実はストレッチャーに乗せられる間際、握ったここなの手をもう一度きゅっと握り直した。
「約束、したやろ? 明日も、一番近くで支えたるって。俺、嘘つかへんから……。だから……俺が病院から戻ってくるまで、待っててな……? ……ここな……だい、すき……やで……」
それから、一週間後。
「ななぁ、ここな。俺の傷口、もう綺麗に塞がってんで? ほら、見てみ?」
学校のラウンジ。 お腹の包帯を少し自慢げに見せようとする拓実の頭を、私はノートで軽く叩いた。
「痛っ! なんで叩くん!?(笑)」
「もう! 心配したんだからね!」
あの日、拓実の怪皮は本当に「かすり傷」で済んだ。 一晩だけ大事をとって入院したけれど、次の日には『ここな、大げさに泣きすぎやろ〜!』と元気にLINEを送ってきたのだ。
「あはは、ごめんて。でも、こうしてまた二人で実習着着て、文句言いながら記録書けてるの、なんかめっちゃ幸せやわ」
拓実はそう言って、私の頭をポンポンと優しく叩いた。
「ほら、今日の分の看護計画、俺がチェックしたるから見せてみ? 終わったら、約束通り、コンビニのイチゴ味のスイーツ、山ほど奢ったる。……二人で生きてて、ほんまに良かったな」
窓の外には、あの日と同じ、綺麗な茜色の夕焼けが広がっている。 だけど、今度の夕焼けは、私たちのこれからの未来を祝福するように、どこまでも温かく輝いていた。
茜色の約束、緋色の嘘(バッドエンド
「ななぁ、今日の受け持ち患者さんの情報収集、もう終わった?」
病院のラウンジに、拓実の少し眠そうな、だけど心地よく響く関西弁が広がる。 JO1のメンバーとしてステージに立つ彼とは違う、白い実習着に身を包んだ、私の大好きな「拓実くん」の姿。
「俺、昨日の夜バイタルサインの低下リスクについてアセスメントまとめてたら、完全に寝不足やわ……。でも、弱音吐いてられんもんな」
そう言って、彼は少しはにかむように笑った。 私が不安そうに記録ノートを見つめていると、拓実は私の顔を覗き込んできて、そっと言葉を続ける。
「ほら、そんな不安そうな顔せんといて? 大丈夫。あんたが毎日どれだけ一生懸命記録書いて、技術練習してたか、俺が一番近くで見てるから。もし緊張して手ぇ震えそうになったら、俺の顔見て? ……あ、笑って緊張ほぐすためな? 変な意味ちゃうで!」
照れ隠しに耳を赤くする彼を見て、私の緊張はすっと解けていった。 実習が終わり、「バイバイしたくない」とぐずり泣く私に、彼はハンカチを差し出し、優しく涙を拭ってくれた。
「ずるいわ、ここな。そんなんされたら、置いて帰れるわけないやろ? 今日は最後まで、ずーっと一緒におったるからな」
その言葉通り、駅近くのカフェで少しだけ一緒に記録をやって、私たちは「また明日」と笑顔で別れた。 ……それが、数分後に始まる悪夢の序章だとは知らずに。
別れてすぐの帰り道、背後に奇妙な気配を感じた。 振り返ると、暗がりに見知らぬ男が立っている。距離がおかしい。歩幅を速めても、ぴったりとついてくる。恐怖で指先が震え、私は拓実に必死でメッセージを送った。文字がまともに打てない。
『うしろから だれか』
画面を見つめたまま、足がすくんで動けなくなったその時、夜の静寂を切り裂く声が響いた。
「おい!! ここな!!!」
角から猛スピードで走ってきた拓実が、私の前に滑り込むようにして立ちはだかった。彼は鋭い目つきで男を睨みつける。その気迫に圧された男は、舌打ちをして闇に消えていった。
「……はぁ、はぁ、……大丈夫!? けが、ない!?」
息を切らした拓実が、私の肩をぎゅっと包み込む。彼の体温が伝わってきて、涙が溢れた。
「もう大丈夫、俺がいるから。怖かったな……ほんまにごめん。ここな、足震えて歩ける? ……無理せんでいい。ほら、俺の手、しっかり握っとき。今からここなの家まで、俺が絶対送り届けるから」
拓実の手を握りしめ、私たちは再び歩き出した。彼の背中を見つめ、ようやく安心した、その一瞬の隙だった。
物陰から、先ほどの男が狂ったような目をして飛び出してきた。その手には、鈍く光る刃物が握られている。
「危ない——!」
叫ぼうとした私の体は、一瞬で拓実によって後ろに突き飛ばされた。
ドン、と鈍い音が響く。
「あ……つ、……」
拓実の口から、短い吐息が漏れた。男はそのまま、夜の闇へと逃げ去っていく。 街灯の下、拓実が自分のお腹に手を当て、それからその手を見つめた。赤黒い液体が、彼の白いシャツを急速に染めていく。
「ここ、な……? 大丈夫……? 奴、もう……行ったから……」
「拓実……! 拓実……!!」
足の力が抜けたように崩れ落ちる拓実の体を、私は必死に抱きとめた。嘘。嘘でしょ。なんで、どうして。頭の中が真っ白になる。
「……泣かんといて、ここな……。俺は、平気……これくらい、かすり傷……やから……。それより、あんたに怪我がなくて、ほんまに……よかった……」
彼の顔から、みるみる血の気が引いていく。 看護学生として、これがどれほど危険な状態か嫌でも分かってしまう。だけど、今の私はただの、拓実を失いたくない一人の女の子だった。
「救急車……呼んで、くれる……? ごめんな……かっこ悪いところ、見せて……。でも……絶対、死なへんから……。ここなを一人に、せぇへんって……約束、したもんな……。だから……手、握ってて……。ここなの、あったかい手……離さんといて……」
スマホを握る手が震える。必死に119番を押し、場所を伝えている間も、拓実の体はどんどん冷たくなっていく。
「拓実…!拓実…!」
私の叫びに、拓実は弱々しく、だけどどこまでも優しい目で答えた。
「ここな……声、聞こえてるで……。だから、そんなに泣き叫ばんといて……。あんたの声、ちゃんと届いてるから……」
遠くから、かすかにサイレンの音が聞こえ始める。
「救急車、呼んでくれたんやな……。ありがと。よう頑張ったな、ここな……偉い、で……。あ、アホやな……目、閉じへんよ。ここなの顔、まだ見てたいもん……。実習の指導ナースより……今のここなの顔の方が、よっぽど……怖い顔してんで?」
こんな状況なのに、彼は私を安心させようと、冗談を言って微笑もうとする。その優しさが、胸を締め付けた。
「……ごめんな、冗談言えるほど、余裕なくて……。でもな、俺、ほんまに幸せやねん。ここなを守れて……ここなの役に、立てて……」
サイレンの音が、すぐそこまで迫ってくる。赤色灯の光が、路地裏を赤く染め上げた。
「ほら、サイレンの音……近く、なってきた。もう大丈夫やから……。約束、したやろ? 明日も、一番近くで支えたるって。俺、嘘つかへんから……。だから……俺が病院から戻ってくるまで、待っててな……?」
拓実は、繋いだ手に最後の力を込めた。
「……ここな……だい、すき……やで……」
それが、彼の最後の言葉だった。 私を見つめていた長い睫毛がゆっくりと閉じられ、繋がれた手の力が、すっと抜けていく。
「拓実……? 拓実、嫌だよ、目を開けてよ……!」
激しくなるサイレンの音と、私の泣き声だけが、冷たい夜の街に響き渡っていた。
激しく鳴り響くサイレンの音と、何人もの足音。 赤色灯の光がぐるぐると回る中、私の静止した世界に、容赦なく現実が割り込んできた。
「救急隊です! どいてください!」
拓実の体が私の腕から引き剥がされ、ストレッチャーへと乗せられる。 衣服が切り開かれ、何本ものチューブが繋がれていく。救急隊員たちの緊迫した怒号が飛び交う中、私はただ、アスファルトに残された大量の、赤黒い血だまりを見つめることしかできなかった。
『拓実、拓実……っ!』
喉がちぎれるほど名前を叫んだ。 だけど、ストレッチャーの上の拓実は、もう何も答えてはくれなかった。
病院の緊急手術室の前。 実習着のまま、緑色の長椅子に腰掛けて、私はただ時計の針を見つめていた。 手についた拓実の血は、時間が経って黒くこびりついている。洗う気になんてなれなかった。これを洗ってしまったら、本当に拓実との繋がりが消えてしまう気がしたから。
カチ、カチ、と無機質な音が廊下に響く。 いつもなら、この時間は二人でLINEをしながら、明日の事前学習の答え合わせをしていたはずだった。 『ここな、ここのアセスメント間違ってるでー(笑)』って、あの優しい声でからかわれているはずだった。
「……どうして」
どうして、あの時引き止めたんだろう。 どうして、もっと早く帰らなかったんだろう。 私がぐずらなければ、拓実はあの時間にあの場所を通ることはなかった。刺されたのは、私のせいだ。私が、拓実を殺したんだ。
どれくらい時間が経っただろう。 手術室の上の赤いランプが、不意に消えた。
重い扉が開き、疲弊した表情の医師が出てくる。 私は立ち上がろうとしたけれど、足に力が入らず、床に膝をついた。
「……拓実くん、は……?」
医師は私と目を合わせようとせず、ただ静かに首を振った。
「全力を尽くしましたが……大動脈の損傷による出血性ショックです。病院に到着した時には、すでに……。最期まで、あなたの名前を呼ぼうとされていました」
頭の奥で、何かが激しく弾ける音がした。
嘘だ。 だって拓実は約束した。 『絶対死なへん』って。『明日も一番近くで支えたる』って。 拓実は嘘をつかないって、さっき自分の口で言ったじゃない。
「拓実……嘘つき……っ、嘘つき……!!」
泣き叫びながら、私は処置室へと飛び込んだ。 白いシーツをかけられた、冷たいベッド。 そこに横たわる拓実は、まるですやすやと眠っているだけのようだった。ただ、いつもより少しだけ、顔が白くて、静かなだけ。
「拓実、起きてよ……明日も実習だよ? 指導ナースに怒られちゃうよ……。甘いもの、奢ってくれるって言ったじゃん……っ!」
彼の頬に触れる。冷たかった。 あんなに温かくて、私の涙を拭ってくれた拓実の手は、もう二度と私を握り返してはくれなかった。
それから数ヶ月が経った。
学校のラウンジには、相変わらず実習に追われる学生たちの声が響いている。 私の隣の席は、誰もいない。
私は看護学校を辞めた。 人が死んでいく現場に立ち向かう強さなんて、今の私には一欠片も残っていなかった。拓実一人さえ守れなかった私が、誰かの命を救う資格なんてない。
夕暮れ時、学校の近くの、あの日二人で行ったカフェの前に立つ。 ポケットの中で、スマホが震えた。 一瞬だけ、本当に一瞬だけ、『終わったよ』という拓実からのLINEを期待して画面を見る。 だけど、画面に映し出されたのは、ただの味気ないニュースの通知だけだった。
「……寂しいよ、拓実」
ぽつりと溢れた言葉は、秋の冷たい風にかき消されていく。
空を見上げると、あの日拓実がからかうように笑った時と同じ、綺麗な茜色の夕焼けが広がっていた。 だけど、その光が私の心を温めることは、もう二度となかった。
君がくれた「またね」
冷たい雨粒が、アスファルトを叩く音だけが響いていた。
スマホの画面を伏せたポケットの中で、手が今も小刻みに震えている。 『あんな顔して裏では性格悪い』 『消えればいいのに』 画面いっぱいに広がる無数のトゲのような言葉が、脳裏から離れない。
――もう、ええか。
誰にも弱音なんて吐けなかった。メンバーに心配をかけたくない、JAMを裏切りたくない。その一心で笑い続けてきたけれど、もう心も体も、一歩も動く気力が残っていなかった。気づけば足は、|人気《ひとけ》のない夜の神社の境内にたどり着いていた。
冷え切った石段に腰を下ろし、うなだれる。ここからなら、すべてを終えられる――そう思って目を閉じた時だった。
「……っく、……ひっく……」
静寂を切り裂くように、小さなすすり泣く声が聞こえた。 ハッとして顔を上げると、鳥居の下に、小さな人影がぽつんと立っていた。びしょ濡れになったフードをかぶり、両手で何かをギュッと抱きしめながら、必死に涙をこらえている女の子だった。
「……こんな時間になにしてんの、こんなとこで」
無意識のうちに、声が出ていた。声が少し掠れているのは、寒さのせいだけじゃない。 女の子はびくりと肩を震わせ、おそるおそる顔を上げた。真っ赤になった目で、ぼろぼろの顔をした拓実を見つめる。
「……お兄ちゃんも、泣いてるの?」
その言葉に、胸が締め付けられた。 泣いているのは自分の方だというのに。拓実は苦笑いを浮かべ、ゆっくりと女の子に歩み寄った。
「……なぁ。名前、なんて言うん?」 「……ゆき、です……」 「ゆきちゃんか。俺、たくみ。……お父さんとお母さんは?」 「……けんか、して……もうやだ、って、飛び出してきちゃったの……」
ゆきはそう言うと、我慢していたものが切れたように、またぽろぽろと涙をこぼした。そして、両手で大事そうに抱えていたものを、ギュッと胸元に引き寄せる。 それは、雑誌のページを丁寧に切り抜いたものだった。雨で少しふやけ、端がよれている。
そこに写っていたのは、華やかなステージ衣装を着て、キラキラとした笑顔を浮かべている――他でもない、アイドルとしての川西拓実だった。
ゆきは目の前にいる疲れ果てた青年が、そのアイドル本人だとは夢にも思っていない。ただ、泣きそうになるといつもその切り抜きを見て、心を落ち着かせていたのだ。
「……ねえ、たくみお兄ちゃん」
ゆきはしゃがみ込んだ拓実を見つめ、震える声でぽつりと言った。
「このお兄ちゃんね、テレビではいつも笑ってるけど……たまに、すっごく寂しい顔してる気がするの。……あたしもお母さんと喧嘩して、ひどいこと言っちゃったけど、本当は仲直りしたいの。でも……怖いの」
その言葉は、まるで今の拓実自身の心をそのまま映し出しているようだった。 『怖い、傷つきたくない』と言って、逃げ出そうとしていた自分。
「……そっか。怖いよな」
拓実は関西弁の混じる、柔らかい声で呟いた。自然と、自分の喉の奥が熱くなる。
「でもな、ゆきちゃんがその人を大事にしてるみたいに……その人もきっと、ゆきちゃんみたいな人たちのために歌いたいって、思ってるで。……だから、そんなに怖がらんでええよ」
「……ほんとう?」 「うん。絶対、そうやから」
自分がネットでボロクソに叩かれ、「誰からも必要とされていない」と思い込んでいた。 だけど、今目の前で泣いている小さな女の子にとって、自分の存在が、少しでも温かいものになれていた。
――俺、まだ、歌ってもええんかな。
張り詰めていた糸がプツリと切れて、拓実の目からも、大粒の涙がとめどなくこぼれ落ちた。 それは絶望の涙ではなく、凍りついていた心が、ようやく熱を取り戻した証拠だった。
しばらくして、神社の外からゆきちゃんのお母さんの叫ぶような声と、足音が聞こえてきた。無事に保護され、駆けつけたお母さんと一緒に帰っていくゆきちゃん。
鳥居の下で二人を見送る拓実に、ゆきちゃんはギュッと握りしめていた小さな手を精一杯伸ばし、満面の笑みで叫んだ。
「お兄ちゃん、ありがとね!……またね!」
――また、ね。
今日で全てを終わらせようとしていた自分の耳に響いたその言葉は、まるでこれからの未来を優しく照らす呪文のようだった。
拓実はぐっと拳を握りしめ、涙を拭うと、スマホを取り出し、大きく息を吸い込んだ。
JO1でいたいよ…
「……一日だけでいいんです。みんなと、旅行に行かせてください」
診断が下りたあの日、俺は事務所の社長に泣きついた。
突然告げられた『急性リンパ性白血病』という病名。頭が追いつかない中で、俺が最初に考えたのはJO1のことやった。今が大事な時期やのに、俺の病気でグループの勢いを止めとうない。同情の目で見られたない。
「『喉の治療とアルバムの準備に専念する』って、メンバーにはそう伝えてください。あいつらなら、俺が上を目指して準備してるって言えば、納得してくれるから」
社長は苦しそうな顔で俺を見て、静かに頷いてくれた。明日からは、あの白い病室での隔離生活が始まる。だから、これが人生最後の景色になるかもしれないから。どうしても11人の思い出が欲しかった。
「療養前の思い出作り」という名目で、急遽決まった11人の弾丸旅行。メンバーは「急だな!」と笑いながらも、大はしゃぎで車に乗り込んだ。
隣でハンドルを握る瑠姫が、バックミラー越しに俺をじっと見る。
「拓実、なんか今日元気なくない? 緊張してんの?」
「バカ言え、楽しみすぎて寝不足なだけや。ほら、景瑚、次の曲かけてや」
窓の外の景色を見つめながら、必死でいつものトーンを保つ。だけど、車内の冷房がやけに体に染みて、肺の奥がジクジクと熱を持っていた。
夜になり、宿のテラスでバーベキューをした。
肉を焼き、ふざけ合い、笑い声をあげる10人の姿。愛おしくて、眩しくて、涙が出そうになる。この輪の中に、俺はずっとおりたかった。
「あ、俺、ちょっと飲み物取ってくるわ」
胸の奥からせり上がってくる強烈な不快感に耐えかねて、俺は席を立った。
誰もいないキッチンの勝手口から外へ出て、暗闇に紛れる。その瞬間、堪えていたものが一気に決壊した。
「っ、げほっ……ごほ、ごほっ……!」
激しい咳が止まらない。肺を引きちぎられるような痛みに、膝から崩れ落ちて地面に手をついた。呼吸がうまくできず、ヒューヒューと喉が鳴る。口の中に広がる、鉄の味。
「はぁ、っ、ごほっ、げほっ……!」
「……拓実?」
突然、暗闇に声が落ちてきて、心臓が跳ね上がった。
振り返ると、そこには心配そうに、でもどこか鋭く眉をひそめた瑠姫が立っていた。手には、俺が忘れていった上着を持っている。
「お前、その咳……大丈夫なのかよ。顔色、真っ白だぞ」
瑠姫の目が、暗がりの中でも俺の本音を見透かすようにじっと見据える。
「あ、いや……肉の煙、吸い込んじゃってさ、アホやから」
立ち上がろうとするが、足に力が入らない。すかさず瑠姫が俺の腕を掴んで支えた。その手が、俺の腕の異様な細さや、異常な熱さに気づいたように一巡りして、ピクリと強張る。
「療養って、本当に対策のためだけか?」
瑠姫の声は静かだったが、ハッとするほど鋭い疑惑と、ロイヤルな優しさの裏にある確信が籠もっていた。
「お前、俺たちに何か隠してないか?」
「隠してないわ、大袈裟やな、瑠姫は」
掴まれた腕を振り払う。笑ってみせようとしたけれど、引き攣った笑みしか浮かばなかった。
目の前にいるのに、もう届かない。このぬくもりから、俺は明日、強制的に引き離されるんだ。瑠姫のまっすぐな視線が痛くて、俺はそれ以上、何も言えずに目を逸らすしかなかった。
翌日、旅行が終わると同時に、俺の本当の孤独な戦いが始まった。
予定通り「療養と準備期間」として発表され、俺は病院のベッドの上にいた。
容赦なく進行する病状。抗がん剤の副作用で、髪は抜け落ち、まともに立つことすらできない。前を向こう、もう一度ステージに立つんだと、自分を奮い立たせるけれど、現実は驚くほど簡単に俺の覚悟をへし折っていく。
スマホを開けば、メンバーから毎日のようにメッセージが届く。
『拓実、喉の調子はどう?』
『置いていかれないように、俺たちもJAMのためにめっちゃ頑張ってるからな』
画面が涙で滲む。
自分の意思で離れた、なんて大嘘や。今の俺は、マイクを握るどころか、自分の足でトイレに立つことすら必死やのに。
画面の向こうでは、8人が俺の居場所を守るように、必死で汗を流して踊っている。フォーメーションの、ぽっかりと空いた俺のポジションを見るたび、胸が引き裂かれそうだった。
嘘をついたのは自分なのに、本当にみんなから置いていかれるような、世界に一人きりになったような恐怖が押し寄せる。病気は待ってくれない。進行していく身体は、もう言うことを聞いてくれない。
「はは、何が療養だよ……」
お見舞いに、と社長がこっそり届けてくれた、みんなが書いた寄せ書きのアルバムを開く。そこには、あの旅行の日に11人で撮った、眩しい笑顔の写真が貼られていた。
あの夜、瑠姫は何かを察していたのかもしれん。それでも、俺が「隠してない」と言い張ったから、信じて待とうとしてくれている。みんな、俺がもっと強くなって戻ってくるのを信じてる。
だけど、もう限界やった。綺麗事なんてどうでもいい。格好悪くてもいい。
「嘘だよ……行きたくて行ったんじゃない……」
誰もいない静まり返った病室で、俺はスマホの写真に映る8人の笑顔に向かって、ぽろぽろと涙をこぼした。
神様がいるなら、歌の才能も、これまでの人生も全部差し出すから。
お願いやから、あの場所に帰らせてほしい。
「戻りたい……みんなのところに」
掠れた声が、点滴の機械の電子音に混ざって、暗闇に消えていく。
「JO1でいたいよ……。俺、まだ、JO1の川西拓実でいたいよ……」
叶うはずのない本音が、静かな病室に冷たく響き渡っていた。