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目次
1.あけぼの
どこまでも、どこまでも、水源が続いている。広い広い湖の上、揺蕩っている。いや、湖ではない。あまりにも浅いから、水たまりと形容した方がふさわしいだろう。地面と頭を触れ合わせながら、寝転がっている。
ーーとろり。ぺちゃ、ぴちゃ。
脳に直接響いているような、水音。どこか粘度をもっていて、それでいてどこまでもなめらかなような、独特な水音。これは水か?蒼白なそれを掬おうとして手を伸ばすが、手がないことに気づく。
からだが、溶けている。
知覚した瞬間、落とし穴の蓋を開くかのように、獲物がかかったのを見計らって捕食者が口を開けるように、触れ合っていた感覚がずれて、そして。
息ができなくなる、夢を見た。
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|曙《あけぼの》|弥上《みかみ》は、茹だるような暑さの中で目を覚ました。扇風機はタイマーがかかっていたから、とうに沈黙している。デジタル時計の液晶画面を眺めれば、もはや昼と言ったほうがちょうどいい時刻だ。端に摂氏32度との記載がある。流石にそろそろ起きなくてはーー弥上はむくりと起き上がって、高く腕を突き上げる。未練が残るあくびを噛み殺し、階下へ降りた。
やけに、体が冷えていることに気がつく。奥底、芯に保冷剤を当てられているかのような感覚だ。階段を一段踏むたびにそれが逃げ出していくようで、なんとも不快な汗が背中を流れてゆく。すぐにエアコンをつけよう。テーブルに目をやった。リモコンの隣に、付箋が置いてあった。
「弥上へ。朝昼ごはんです |透《とおる》」
弥上が休日の朝に弱いことを、母はよく知っている。夏休みならなおさらのことだ。
『梃子でも動かないのよ、布団に絡みついてしまえば最後、あんたは……だから、《どうして起こしてくれなかったの!》とかは、これからずっとナシね』
弥上は耳にタコができるくらい、そんなニュアンスの言葉を聞いている。10年とちょっと2人きりで暮らしてきていると、こうなるものなのだ。さて、もう半分過ぎてしまった今日は何をしようか。
やりたいことを考える。
特に、思い浮かばない。
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学生の本分は学習である。よって弥上もひとまずは、夏休みの宿題を退治することにした。弥上は夏休みの宿題を溜める人間ではない。むしろ早々に終わってしまって、やることがないまま、毎年無為に夏休みの後半を溶かしている。芯を踊らせる。特に迷いはない。
やることがあるというのは、幸せなことだ。なぜならば、迷わなくていいから。何も考えなくていいから。ひたすらに、自分を漠然と善い方向に導いてくれるから。自分のような、本質的には怠惰でしかない人間を、生かしてくれるから。だけれど、この社会はもう、行き先を簡単に保証してくれはしなくなってしまった。
「……終わってしまった」
最も分量のある数学が、終わってしまった。
達成感と虚脱感がないまぜになる中、弥上はひたすら、次を探すのだ。ああそうだ、散歩に行こう。適度に運動するのは、何がとははっきり言えないが善いことだ。
午後3時。摂氏35度。アイスクリームのように溶けてしまうかもしれない、と弥上は汗を拭う。先ほどの自分の選択を後悔し始める顔だ。弥上は公園を歩く。子供も老人も全くいない。こんな沸騰するような暑さじゃあ、もう気軽に外には出させてやれないのだろう。
弥上は、木陰のベンチに座り込んだ。マンション、団地、高いとも低いとも言えないビルの林。東京都に位置するものの、都会とも田舎とも、栄えているとも寂れているとも紹介できない、閑静なベッドタウン。ここはそんな街である。絶妙に年季の入ったコンビニエンスストアで、弥上は氷菓を買ったばかりだ。蒼いパッケージを破る。
蒼。そういえば、今朝、変な夢を見た。
弥上は思い返してみる。そうだ、蒼白な水に沈み込む夢だ。気がつけばあのなんとも言えない感触の、水のような何かに包まれていて、溺れて、息ができなくなって。
しかし、どこも苦しくはなかったのだ。たしかに大気は吸えなかったが、自分はもとよりこんな生き物だったのだ、というような錯覚が起きていた、気がする。不思議な夢だ。夏だからか、そこそこ心地よかったから、また見られたら幸運なことだろう。
氷菓を食べ終わって、足元を見ずに立ち上がる。ぴちり、と足首が圧迫される。ひんやりとしている。ゲルのような、とろりとしているテクスチャ。これは、そうだ。今朝の。
水が、続いている。弥上を連れていくように、マンションの隙間に続いている。引っ張られる。明らかに精神だか環境だかがおかしい。おかしいと認識しているのに、弥上は動き出せない。出来の良い映画を見ているような、気がするから。
どうにでも良い。どこか、どこかに連れて行ってくれ。そんな衝動に埋め尽くさせる。遠く遠くに行きたい。
何か、人生で感じたことのないような、心を震わす何かが欲しい。
引き摺り込まれる。最後まで自分は平気だと言う、バイアスのまま。
♦︎曙弥上
母と2人で生活している高校生。成績優秀、優等生と呼ばれる部類だが、何に対しても興味が持てないまま、漠然と人生を浪費している。
自分を突き動かしてくれるような何かが欲しい。