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目次
飛べない小鳥と、遥かなる空の色
校舎を出た途端、湿った重い空気が、肌に絡みついてくる。
俺はこの季節が嫌いだ。暗い空もあいまって、憂鬱な気分にさせられる。
イーチ、ニーィ、サーンと掛け声が聞こえて、校庭に目をやると、陸上部が準備体操をしていた。
鬼顧問の|服部《はっとり》が仁王立ちして、部員たちを見回している。部員たちは汗をかきながらも、この天気に似合わない笑顔で体を伸ばしていた。
こんな風に“外側“から陸上部の練習を見るのは初めてで、変な感じがする。
目を逸らしたいのに、思わず見てしまう、矛盾した感情が入り混じって、俺はそのままその場に立ち尽くす。
「あ! |亮介《りょうすけ》ー!!」
いつもつるんでいる仲間の|聡太《そうた》が俺に気づき、ぶんぶんと手を振ってきた。
俺は俯いて、少し手を振り返す。
本当は見られたくなかった。こんなの未練がましくて諦め悪くてカッコ悪い。
どんよりと曇った空からは、今にも雨粒が落ちてきそうだ。
今日は傘を持ってきていない。自転車も今は乗れないから時間がかかる。早く帰らなければ。
俺は邪念を払うように頭を振り、校門から出た。
引きずる右足が重い。
足ってこんなに気だるいものだったのかというくらい、俺にとって今の右足は苦々しい違和感でしかなかった。
時々走る痛みに手を握りしめて耐えながら、進んでいく。
──ところが半分くらい歩いたところで、案の定、ポツン、と肩に水が落ちてきた。
「やべ」
空に手をかざすと、それはどんどんどんどん降ってくる。
大粒の雨に、体が冷えていく。
びしょ濡れになるのは勘弁だ。
少し前なら全力ダッシュで家に戻っていたところだが、今はそうもいかない。
乾いていたコンクリートに水が染み込んで濃いグレーになり、俺の靴にも水が染み込んでキュポキュポと気持ちの悪い音を立てる。
慌てて雨宿りできる場所を探すと、古びた使われていなさそうな倉庫を見つけた。ボロボロだがトタン屋根があるため、しばらくは雨は防げそうだ。
生成り色の、ところどころに傷がついた壁に体を預けていると、雨の勢いはみるみる強くなっていった。ザァァという音と共に、滝のように、苛立ちのように、水の弾丸が地面に突き刺さり、跳ね返る。
雨音以外、何も聞こえない。
俺は何故かそのことに安心する。
が、その安堵は一瞬でぶち壊された。
「ああ〜っ、助かったぁ〜!」
間延びした声と共に駆け込んできたのは、同じクラスの|浪江《なみえ》|京子《きょうこ》だった。
完全に形の崩れた前髪からは、ポタポタと雫が垂れている。青い制服のスカートも色が変わるほどびっしょりだ。大きな丸メガネのレンズには水滴がつーっと滑っている。
めんどくさそうな奴が来たなと、俺は浪江に見えないように眉をしかめる。
浪江は、よくわからない女だ。
大声で男子とくだらないことで騒いでいたかと思うと、女子たちの輪の中に混じって恋バナを始め、時には何もせずぼうっと視線を虚空に彷徨わせている時もある。
つかみどころのない浪江が、俺は少し苦手だ。
「……あれ。亮介くん?」
傘を閉じたりなんだり忙しそうにしていた浪江は、やっと俺の存在に気づいたようで、目を丸くしてこちらを見る。
遅いっつーの。
「……ああ。そうだけど」
「そっか、歩いてたのか。足大丈夫?」
大丈夫じゃねぇよ。
俺は舌打ちしたくなる。
それは色々な意味で。
俺は自分の右足の足首のサポーターに視線を落とす。
俺は陸上部でハードル走をやっていた。
ずらずらと並べられたハードルを、一つ一つ軽々と飛び越えていくのに快感を覚えて。
すぐに、虜になった。
顧問は厳しかったし、毎日の練習もきつかったけれど、俺は真面目に取り組み、成果も出始めていた。
もうすぐ、夏の大きな大会に出場するはずだった。
「はずだった」。
ある日、最後のハードルを飛び越えて足をついた瞬間に、足首に鋭い痛みが走った。
あ、やっちゃったな──と思ったと同時に、俺は地面に倒れ込んでいた。
ただひねっただけならよかった。でも、そうじゃなかった。説明が難しくて俺にはよくわからなかったけれど、どうやら変なところを切ってしまったらしい。
あと数年は、陸上ができない。
そう聞いた瞬間、頭が真っ白になって、目の前が真っ暗になった。
キラキラキラキラ、目の前で輝いてた星が、一気に砕け散って霧散したような気分だった。
俺はやむなく陸上部に退部届を出した。
手術は終わったけど、まだ、足は痛い。その痛みが、悔しさと虚しさをさらに増幅させた。
いろんな人が気遣ってくれるけれど、今までならなかったはずのその気遣いが、逆に悲しい。
足も、俺も、大丈夫じゃない。
そんな、わかったような顔して言ってんじゃねーよ。
俺の苛立ちを知ってか知らずか、浪江もしばし無言になる。
激しかった雨は、だんだん弱く、小雨になってきた。
「……っあ」
声を上げてしまう。
雨が弱くなって視界がクリアになり、見えた、俺たちの目の前に倒れた小鳥の姿。
雨に打たれながら、ぴくり、ぴくりと苦しそうに羽を動かしている。
思わず、なすすべもなく地面に倒れた、あの時のことを思い出した。
「小鳥ちゃん……」
浪江は横でしゃがみこむ。
小鳥は飛び立とうとするも、またヘナヘナと力尽きてしまう。
ちっぽけだ。
ちっぽけで、惨めだ。
それは俺もだった。
どうしようもないやるせなさが、俺と小鳥を重ね合わせる。
希望が消えるのなんて、簡単なんだ。
握りしめた手のひらに爪が立つ。
ぱたっ。
小鳥が、再び羽を動かした。
その羽ばたきは、先ほどより力強い。
俺と浪江は、小鳥を目を見開いて凝視する。
ぱた。……ぱたぱたっ!
とうとう小鳥は、少しだけ宙に浮き上がった。
そして、よろめきながらも、空を、遥か遠くの空を目指して、羽ばたいてゆく。
小さな影は、厚い雲に覆われた空へ吸い込まれるように小さくなっていって、俺たちには、見えなくなった。
俺は呆然とする。
俺とは違かった。
あの小鳥は、諦めなかったんだ。
「すごい……」
横からつぶやきが聞こえて、目をやると、浪江は涙ぐんでいた。
俺は狼狽える。
いや、確かに感動はしたけどさ、……泣くほどか?
「何その顔」
浪江は赤くなった目で睨んでくる。
「だって、すごくない? あの子はわたしたちよりずっと小さくて、弱いはずなのに、あんな状態から羽ばたいて見せたんだよ」
確かにその通りだった。何も言い返せない。
でも、小鳥に負けたなんて認めたくなかった。
素直に認められる浪江はすごいと思った。
「……わたし、」
浪江は、小鳥のいた場所を見つめながら、独り言を言うように呟いた。
「なんか、居場所がない気がする。友達もいっぱいいるし、笑えることもたくさんあるのに、|ここにいたい《**・・・・・・**》ってところがない。みんなには親友がいるのに、わたしだけフラフラしてて、迷ってるみたい。しゃべってるのにひとりぼっちみたいな、変な気持ち」
誰に向かって言ってるんだろう。
自分か、ここにはもういない小鳥か、それとも俺か。
俺はまじまじと浪江を見つめてしまう。
浪江がそんなことを考えてるなんて、思いもしなかった。
だから、浪江はいろんな人のところを渡り歩くように過ごしているのか。
俺には、居場所があった。
陸上部という居場所が。
けれどその居場所は、あの一瞬であっけなく奪われてしまった。
居場所がないのは、俺も同じなんだ。
ひとりで帰る放課後は、あまりにも寂しかった。
そして奪われて何もなくなった俺は、どうすればいいのかわからなくて、フラフラフラフラ、……迷ってる。
「……みんな、そうじゃねぇの?」
俺は喉から声を絞り出す。
さっきはあんなにイラついていたのに、今はどうしようもなく、何か声をかけてやりたい気分だった。
「何で悩んでるかはそれぞれ違うかもしれないけど、みんな何かしらフラついてるんだと思うぜ。俺も、陸上部に居られなくなって、どうすればいいか、マジでわかんないんだ。みんな心配してくれてんのに、それもそれで嫌で、自分も嫌で、ほんと訳わかんなくて」
俺は何が言いたいんだろう。
言葉が溢れて暴れ出し、脳内を支配する中で、俺は必死に伝えたい言葉を見つけ出す。
そうだ。
俺はさっき、浪江の弱音を聞いて、……嬉しかったんだ。
人が苦しんでるのに嬉しいなんて不謹慎かもしれないけど、同じ、迷ってる仲間を見つけたみたいで、安心した。
陸上は、基本的に個人競技だ。
でも、仲間と競い合うことで、さらなる高みを目指すことができる。
これは、競い合いとは違うけど、ちょっとでも仲間だと思える人がいたら、
……俺らは、強くなれるんじゃないか?
だったら。
こう言おう。
「俺も、浪江と同じだよ」
浪江は弾かれたように俺を見た。
「だから、浪江は、……ひとりじゃないと思う。迷ってる人、他にもたくさん、いると思うから」
浪江は、そんなこと初めて言われたみたいに、何度も瞬きをする。
そして俺も、なんだか恥ずかしくなってきた。
弱音は吐きたくなかった。カッコ悪りぃから。
なのに、特に親しくもない女子にいきなり本音を語り、下手くそな慰めを口にしている。
でも、浪江の表情を見て、思う。
後悔はしない。
浪江は眼鏡の奥の大きな瞳をゆっくりと細め、口の端を上げた。
「そっか。……そうなんだ」
立ち上がった彼女は、空を仰ぐ。
「わたしたちって、飛べない小鳥みたいなもんかもしれないね。なすすべがなくて、地面で這いつくばってるだけの子供。わたしたち中学生になってすっかり大人になった気分だったけど、まだ全然子供みたい。だってこんなどうしようもないことで傷ついてるんだもん」
わたしたちは、まだ、子供。
その言葉が、意外なリズムで、俺の心に染み込んでくる。
ガキのままは、嫌だ。でも結局は、小学生の頃からまだ一年も経ってないのだ。子供であることは、変わらない。なのに、大人になろうとして、無理をしすぎてしまった気がする。小学生の頃は自分の思いをバンバン人にぶつけて、弱音だって吐きまくりだったのに、中学生になって、それができなくなっていた。
「わたしは、やっぱりあの小鳥ちゃんみたいにはなれない。ひとりじゃ無理だもん。……でもね」
浪江は、花が咲いたような、ふんわりとした柔らかい笑みを浮かべる。
俺は鼓動が高鳴るのを感じた。
──浪江のこんな笑顔、初めて見た。
「仲間がいれば、強くなれるかもしれない。無理はしないで、転んだり滑ったりしてどうしようもなくても、いつか」
俺たちのいる場所が、スポットライトに照らされたように明るくなる。
空を見上げると、いつの間にか雨は止んでいて、分厚い雲の切れ間から、一筋の光が差し込んでいた。
覗く、どこまでも青い空のピース。
「教えてくれてありがとう、亮介くん」
俺はどうしてか、胸がいっぱいになる。
なあ、一緒に強くなろうよ。浪江。俺と。
あの小鳥だって、フラフラしながらも飛んでいた。
二人なら、どんなにふらついてたって、一緒に翔べるんじゃないか?
俺は、浪江の居場所になりたい。
溢れる想いは、まだ、心の中にしまっておくことにする。
浪江は歩き出す。追いかけてもいいのだろうかと思いながら、俺はその背中を見つめる。
彼女が振り返る。
「亮介くん。一緒に帰ろう」
俺は頷いた。
「浪江。走ろうぜ」
断るかと思いきや、彼女はニヤリと笑って応戦する。
「いいよ」
走るなんて言える足じゃない。でも、引きずってでも、前に進む。
二人で、水たまりをバシャバシャ蹴散らしながら、明るくなった道を不器用に駆ける。
動かしづらい右足も、もう、気にならない。
遥か遠くの空に手を伸ばす。
仲間がいれば、きっと、この空にだって手が届く。
澄み渡った青を目に焼き付ける。
跳ねた水飛沫が、光に照らされて、きらりと輝いた。
青すぎる海で泳いでる
空がよく見える屋上は、僕のお気に入りの場所であった。
屋上のフェンスに背を預けて目を閉じると、一迅の風が通り過ぎていったのを感じた。閉塞感のある水槽のような教室より、この開放感のある、どこまでも行けそうな屋上の方がずっとずっと好きだった。
それに今は最高の気分だ。モブキャラどころか世界から阻害されてきた僕は人生初めて主人公気分に浸る。
僕は授業中の教室を抜け出してきたのだ。
後ろから消しゴムをぶつけられて振り向いた瞬間に教師に当てられた。無論頭つるハゲの教師の話など聞いていなかったので、わかりませんと言ったら教室中が下品な笑い声に包まれた。何が面白いのかわからん。自分の授業が素晴らしいと過信している教師は赤鬼の形相になる。なぜ赤鬼かというと、つるハゲの部分まで赤くなったからだ。僕が俯いているとクソ厳しい教師は授業後自分のところへくるように言った。どうせダラダラ怒り続けるつもりなのだろう。僕は教師の都合のいい気晴らしの玩具だってことか。
しかし悪いのは僕ではない。消しゴムをぶつけてきたやつである。ついでに言うと、こんなのは僕にとって日常茶飯事であった。こんな生やさしいのだけじゃない、もっと陰湿な嫌がらせもたくさん受けたことがある。買ったばかりの新品の真っ白いノートの罵詈雑言の落書きとか、机に置かれた白い花とか。
塵も積もれば山となるという。僕のストレージは今回の小さな一件でついにいっぱいになってしまった。教師に自分のところに来るように言われた瞬間に僕は叫んだ。
「うるせえクソジジイ!」
あの時の開放感はどう言えばいいだろう。ぐるぐる巻きにされていた縄をやっと解いてもらった時のような(流石に経験したことないけど)全身に血の巡る気持ちの良さ。ああ、これが僕だと感じる。今までの僕は血の通っていない仮初の人形だ、今の僕が本物だ! そう大袈裟じゃなく真面目に全世界に知らしめたくなる。僕は酸素の奪い合いの濁った水槽の中から飛び出した。
教師の顔は青くなり、そして赤色成分が急激に上昇して結果赤紫に近くなった。成人したらシャンパングラスで飲んでみたいと思っているワインみたいな色だなと思った。
教室中はしんとした。この無音をもたらしたのは僕なのだ。僕は思いっきり笑ってやる。ざまあみろ、僕はやられっぱなしの情けない奴じゃない。
そして教室のドアをバーンと音がするように思い切り開けて、悠々と教室から出たのだ。
しかし出ても、行くところがない。こんなところで突っ立っていてもこういう時に限って誰かしらウザい教師が来て怒鳴られた挙句教室に連れ戻されるか職員室に呼び出されるのだ。何よりそんなのカッコ悪い以外の何者でもない。
だから僕は、お気に入りの場所の屋上に行くことにした。
頼りないフェンスにしがみついて真下を覗き込む。遥か下の薄い影に覆われた地面に身震いをした。僕は実は高所恐怖症だ。だけど恐怖を覚えてまで下を見るのはもちろん主人公気分を味わいたいからだ。それだけだ。
さっき叫んで散らしたはずの黒い靄が、またゆっくりと湧き上がって、纏わりついてくる。お前はどうせちっぽけで情けない奴だよ。主人公になんてなれるはずがない、水槽の底で誰にも見向きもされずに沈んでるか弱い魚。僕そっくりの影が笑う。
「散れ!」
と絶叫した。
なんか屋上から叫ぶみたいな青春イベントあったよな、どうせ屋上に来たんだからやってやろうじゃないか。
肺がいっぱいになるまで空気を吸い込んだ。
一気に全てを吐き出した。
「あーーーーーーーーーーーーッ!!!!!!」
空気が揺れる。口から出てきたのはただの意味のない母音。そうなのかな、と思った。まあ僕は所詮、意味も持たないやつなんだろう、結局は。それでもスカスカの体の中は爽快感がすごい。ぷつりと浮き上がった炭酸水のようなあぶくがキラキラ光って僕の中で弾けていく。
しかしそんな優越感タイムは、ある人物の登場によって一瞬でぐちゃぐちゃにかき混ぜられ、あっけなく消えた。
「……何してんだよ」
低い声にぎょっとして振り向くと、そこには陽の光をバックにした後光眩しい人物。もとい、学級委員長で一軍の|藤沢《ふじさわ》|麗夜《れいや》。
今一番会いたくない、まさに主人公、神に愛されし人物だった。
どうして黒縁メガネそんなに似合うんだよメガネ似合うやつとかそうそういないだろ。学ランどうやって着こなしたらそんなオシャレに見えんだよ学ランなんてただの黒い服だろお前が着るとモデルの衣装みたいに見えるけどさふざけんな。なんなんだよそのサラサラストレートヘアは。おすまし顔ムカつくけどその表情が女子にキャァキャァ騒がれるんだろうなマジでムカつく。
頭の中で口に出せない罵詈雑言を書き殴ってからふと思う。どこにこいつが僕を探しに来る理由があるんだ?
すぐに藤沢が学級委員長であったことを思い出す。そうかあのつるハゲ教師に言いつけられたのか。クソあの教師どっかの昔のツルピカ頭が自慢の偉人みたいに頭に亀落っこちてきて死んじまえ。藤沢お前は学級委員長なんてやってるのが悪い。言いつけられたことに同情はしない。
そんなことを頭の中で光速で思い巡らせていると、黙り込んでいた藤沢が徐に口を開いた。
「……フェンスから降りろよ危ねーだろ」
「なんでそれをお前に言われなきゃならないんだよ」
いつもならこんな一軍に言われたら何も言い返せないのに、反論がするりと口から出てきた。説得力があるかは別として。
「いや別にカッコよくねえからダサいから」
その一言で膨らんでいた主人公気分が空気の抜けた風船のように一気に萎む。僕はすごすごとフェンスから降りた。
フェンスにもたれかかって、せめてもの抵抗と何も言わない奴を睨みつけた。お願いだから早く帰れよ。こんなことを願ったって、お前はさわやかな笑顔を浮かべて優しい言葉で脅して、僕の腕を引いて教室に連れ戻して水に沈めて溺れさせるんだろうな。
奴は帰りもしなければ、僕の手を引きもしなかった。ただゆっくりと、僕の横に腰を下ろした。
ぎくっとした僕に、藤沢は言いにくそうに話しかける。
「……その……あの、落ちようとかしてねーだろーな」
こいつ話すのこんなに下手だったっけ。
「ハァ?」
鼻で笑う。どんな心配してんだよ学級委員長サン。やっと好きなだけ酸素を手に入れたのに死ぬ理由がどこにあるんだよ。
「だってお前、そうしそうな顔してたから」
「……」
落ちそうな顔?
さっきの僕が?
見下げた影に覆われた遠い地面。それを覗き込んだ時の恐怖と、ふっと意識が浮くような憧れ。
「……ッ」
何も言えなくなった。
沈黙を振り払うように、僕はボソリと言う。
「早く帰れよ」
「今は休み時間だぜ。ここにいるのは俺の勝手だ」
そんなことを言って、奴はサラサラの髪を風に靡かせ、空を見上げている。すっと尖った顎が上を向いて、まつげの長い黒い瞳に空がそのまま映っている。
胸がムカムカしてきた。
僕だけの特等席を、なんでこんな恵まれた完璧な奴と共有しなきゃいけないんだ?
「マジで帰れよ。俺の前からいなくなれ、お前みたいな幸せ者!」
もう教室で少しでも息をするための方便とかどうでもいい。なんとでも言ってやる、僕を高みから見物してた奴に。水面近くで優雅に光を受けて、綺麗な尾鰭を見せびらかすように悠然と泳いでいる奴に。
藤沢は小さく、幸せ者か、と呟いた。そして笑った。いつものさわやかな笑みではなかった。顔をぐしゃりと歪めた、人間らしい自虐的な笑いだった。
「俺が幸せ者だと思う?」
「それ以外に何があんだよ!」
自分の声がどんどん刺々しくなってきているのを感じる。強くなってきた風が頰を打つ。
「あるところに、一人の少年がいました」
突然藤沢は言った。
「何言ってんのお前」
僕は正直、かなり引いた。こいつ意外と変人だったのかよ。急に昔話的なの始めるなんて。
「少年は話すことが苦手でした。話せば話すほど、みんなは離れていくのです。少年の頭の中からも、言葉にしなければいけないことがポロポロ溢れていって、形にならないのです。そんなことが続いて、当たり前のように少年は一人になってしまいました」
「……」
僕のこと言ってるのかよ。
いつもそうだ。僕の言いたいことは、いつも形にならない、言葉にならない。何も言えなくなって、絞り出した言葉は空回りして、結局最後はみんな失望した顔で僕の前からいなくなる。
だから僕はいっそ、喋らない方がマシだと思ったのだ。まあ結局、こんな結末だけど。
奴に全て見抜かれているようで、僕は背筋が薄ら寒くなった。
けれどその話には続きがあった。
「少年は焦りました。一人は嫌でした。嫌いでした。ですから少年は決めたのです。自分の思ったことは口に出さないことに。会話術の本を読み漁り、どう話せば人気者になれるのか学びました。冴えなかった見た目も必死で磨きました。数年後、少年は気付けばクラスの真ん中にいました。今までは誰も見向きもしなかったのに、みんな薄情だなと思いました。でも決して今のポジションを手放したくありませんでした。少年はそのまま大きくなって、高校生になって、昔の自分と同じような奴を見つけました」
藤沢の前髪が揺れた。太陽の光に眩しそうに目を細めるその姿は、その辺の普通の高校生となんら変わらない。
こいつも、太陽を眩しいと思うのか。
「そいつは、話すのが下手で、冴えなくて、超カッコ悪い奴でした。しかし少年は、自分よりはマシだと思いました。ひたすら偽り続ける自分よりは、ダサくても自分を保っているそいつの方が。そいつはいじられていましたが、少年は見て見ぬふりをしました。やっと手に入れたポジションが揺らぐのが怖かったからです。
ある日突然そいつが叫んで、教室を飛び出して行きました。少年がそいつのことがたまらなく羨ましくなりました。先生に言いつけられるでもなく、薄情にも今更少年は自分からそいつを探しに行きました。自分が行くなら屋上だと思いました。行くと、確かにフェンスにしがみついて叫んでいるそいつがいました。そいつの手を掴んで連れ戻せば早いはずなのに、少年はどうしてかもう少し屋上に居たくて、だらだらと話して長居しました」
「……酷い言いようだな」
僕はやっと言った。
「はい、おしまい。これ誰のことだかわかる?」
藤沢は簡単に言った。僕は答えなかったが、それは一目瞭然だった。
「こんなに話したの久しぶりかもしんね。自分の言葉だとぜんっぜん上手く言えねーけど」
いつも何を考えているのかよくわからなかった完璧な形の黒い瞳が、切実な色で俺を見る。
一気に話したせいか息切れして肩を上下させた奴は、僕の知る「一軍で学級委員長の藤沢麗夜」ではなかった。死ぬほどカッコ悪くてダサい、その辺のバカみたいな男子高校生。
半袖のシャツから伸びた腕に陽の光が照り付けてジリジリと焦がす。僕の足元にも藤沢の足元にも、漆黒の影が伸びる。
藤沢麗夜は、太陽ではなかった。
そんなの当たり前のことなのに、僕は今まで全くと言っていいほど気づかなかった。
遥かなる、青い空。そこに君臨して世界中を照らし出す太陽様には決して手が届くことはない。
僕は、藤沢もそういう奴だと思っていた。乱れもない光で明るく笑う主人公。
違かった。
「なあ、お前は、そんなこと俺に言ってどうしたいんだ?」
意地悪く聞くと、奴はえ、と小さく呟いて、戸惑うように視線を揺らした後、なすすべもなく自分の投げ出された手のひらを見つめた。
「『一軍で学級委員長の藤沢麗夜』、やめるつもりかよ」
「……やめない」
それは呻き声に近い。
「今更、無理だっつーの。それに俺が俺じゃなくても、俺は今の環境を手放したくない」
「ふーん。いいんじゃねぇの?」
聞かなくても、本当は、こいつの考えていることはわかっている。
きっと僕だけには知っておいて欲しかったんだろう。正反対なようで、実は少し似ているかもしれないらしい、クッソカッコ悪くてどうしようもないところが同じである僕に。同じ水槽の底で、溺れてもがいてるだけの情けない僕に。
だったらお前の秘密を勝手に聞かされた身として、仕返ししてやろうか。
「お前、めちゃクソカッコわりーな」
藤沢はきょとんと目を丸くし、間抜け極まりない表情を晒した。それで僕は「超ダサい顔してる」と笑って満足してやることにする。これが太陽じゃない藤沢の弱みだ。
奴はしばらく黙った後、自分も唇の端を持ち上げた。
「お前もな」
ふざけんなと言って肩を軽く小突いてから、僕は立ち上がる。
「そろそろ戻るぞ。お前、ミイラ取りがミイラになってる」
すると藤沢は不承不承と言った様子でついてきた。
もう振り返らないつもりだったけれど、やっぱり一度だけ振り返る。青い空と太陽をバックにした藤沢は黒いシルエットになっていて表情はわからないけど、もう「藤沢麗夜」に戻っているのかもしれない。
「お前と俺は友達なんかじゃない。だから庇ったりしなくていい、ウザいから。ただし」
「……ただし?」
「週一ぐらい、俺と屋上で昼飯を食え」
教室棟へ向かう階段に藤沢が足を踏み入れて、まとわりついていた影が消えてただの男子高校生に戻る。奴は俺にしか見せない、口を意味ありげに歪めた、意地の悪い笑い方をしていた。
「わかったよ、|潤也《じゅんや》クン」
「君付け気持ち悪りぃな」
結局僕らは暗い水のなかだ。水面に飛び出して自由で輝いている世界を見たと思っても、また戻るしかない。酸素の足りない水の中で喘ぐだけだ。
だけど水槽のように限られた可能性のない世界じゃないかもしれない。僕はこいつと昼飯を食う中になるなんて微塵も想像できなかった。突然美味しそうな餌が落ちてくるかもしれないし、自分と同じような仲間ができるかもしれない。水面でキラキラ泳いでたやつが急に僕らのところに身を寄せてくるかもしれない。つるハゲ教師だって気持ち悪いから嫌だけど例外ではない。
僕らにとって教室は世界だ。しかし世界というだけに、狭いようで海のように、広い。
相変わらず教室の酸素は足りなくて息苦しい。でも二人分の酸素を分け合えばどうにかなるかもしれない。
僕らは|未熟《あお》すぎるのだ。勝手に傷ついて傷つけて泳げなくなって溺れて沈む。光を求めて手を伸ばすけど、届くはずもない。
けどいつか誰かがちょっとでも引っ張って、引き上げてはくれなくても、ちょっとでも明るいところに連れて行ってくれる、かもしれない。
それだから僕はこいつと飯を食うことにしたのだ。
僕とこいつは友達ではない、ただの二人の超カッコ悪いクラスメイトの高校生である。
だから余計先は暗くてよく見えない。僕とこいつがどうなるかもわからない。でも、しょっぱい塩水を被ってでも必死で泳げばダサくても必ずどこかにたどり着く。ひとりじゃなければ。
な、そうだろ、麗夜。
青すぎる海でも、この世界は僕が主人公。麗夜も主人公。意味もなく傷つけあったり傷つきあったり泣き合ったりしながらも、どうにかして泳ぐことができるのだから。
約6000文字です。こんな長いのは初めてです短いつもりだったのに。