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目次
花火を聴きたい。#1
盗作、自作発言等を著作権を侵害する行為を禁止します。
また、AI学習を禁止します。
「今度、花火を聴きにいきませんか」
歩さんは、じゃーんと声に出して隣町の花火大会のポスターを見せてくれた。
大物を捕まえたときの釣り糸のように引っ張られたポスターは、今にも破れんと顔をしかめている。
歩さんの腕を少し撫でて、ポスターをいたわるように言った。
歩さんは張り切りすぎました、と恥ずかしそうにうつむいて答えた。
「誰から聞いたの?」
ようやく慣れてきたスマートフォンではなく、ポスターを持ってきたのは初めてだ。
「実は、お隣の田山さんにお聞きしたんです」
机の上にポスターを置いて、そう答えてくれた。
八月十二日、|浮宮湾《うきみやわん》海上。
歩さんの誕生日だ。
「見に行きたいんだっけ」
歩さんは、はい、とうなずきながら私の手を探した。
膝に置いていた左手を机に上げて、彼の手を待つ。
私の手を軽く掴んで、口を開いた。
「一緒にどうですか」
答えは決まっている。
わざわざ口に出すのもなんだか野暮な気がして、歩さんの手を自分の肩に回した。
「嬉しいですけど……」
歩さんは口ごもる。
私も、何も言えなかった。
久しぶりに腕を絡め合うと、満足感よりも先に安心感の小さい波が心を助けに来てくれる。
背中に冷気を感じても、身体は暑かった。
耳の横を通る歩さんの息が異様に心地よかった。
「結局、一緒に行ってくれるんですか?」
え……?
鳩が豆鉄砲を食らったような顔、というのはこういう顔のことを言うのだろう。
ほんの少し前まで恍惚の表情を浮かべていたはずの私たちは、今やムードも何もない呆け顔をしている。
思わず笑ってしまった。
「人の顔を見て笑わないでください」
気づかれないように声を殺して笑っていたけど、歩さんにはすべてお見通しのようだ。
顔を見て笑っていたと、よく気づいたものだ。
「|雪沙《ゆさ》さんの顔が逸れる風を感じたので」
辞書で知るのと実際に見るのは違ったんです。
笑っちゃってごめんね。
「それで……一緒に行ってくれるんですか?」
今度は真剣な顔をしていた。
ちょっとだけ恥ずかしそうに涙袋を作っている歩さん。
なぜなのか、なんだかかわいらしい。
「いいえって言う人がどこにいるんですか」
はい、と言いたい気持ちは、恥ずかしさに勝てるほど勝負に強くなかった。
「……それは『はい』ということでいいんですか?」
歩さんはものすごく察しが悪い。
日本語を学び始めたばっかりの外国人レベルで、見事に雰囲気に逆行することを言う。
でも、そういうところも知っているからこそ、こうやって肩を寄せ合っているのだ。
「『はい』に決まってるでしょーが」
てち、という効果音が似合うくらいの力加減で歩さんの後頭部を叩いた。
歩さんは、いて、とつぶやいて同じぐらいの力加減で私の頭を叩いた。
「一緒に行ってくれるんですね、約束ですよ」
腕をゆっくりほどいて、私たちは向き直った。
約束ね、と歩さんの右手を取って、小指を立たせた。
「なんか小学生みたいですね」
歩さんはそういって肩をすくめて笑った。
言われる前より小指をぎゅっときつく合わせて、さらに速くぶんぶん振ってみると、歩さんはそれに合わせて一生懸命腕を振ってくれた。
小学生みたいと言いつつ、あなたはそういうことをしてくれる。
私たちの熱なら、永久機関が作れるかもしれない。
小指をほどいて、歩さんはゆっくり立ち上がった。
「お手洗いに行ってきますね」
気をつけてね、と声をかけるのもいつの間にか習慣になっていた。
歩さんは、壁をつたって一歩々々丁寧に足を出している。
さすがに家の構造は覚えてますよ、と笑っていたこともあったが、やはりまだ慣れていないのかもしれない。
歩さんの視界に黒い布がかかるようになったのは、たったの三年前だから仕方ないと思っている。
もう元に戻せないし、視力を回復させられるわけでもないとお医者さんは言った。
歩さんの目に何があったかは誰も教えてくれなかったけど、目の前で気を失う歩さんは残酷なほどに目に焼き付いている。
世界というのは残酷かもしれないけれど、私はこの酷な世界で歩さんを支えなければならないと思う。
たとえ歩さんが、もしくは億が一にも私が、相手のことを好きじゃなくなっても、どうにかして歩さんを支えていきたい。
何をどうひっくり返したって、何をどうほじくり返したって、障害がある人は障害がある人だ。
障害の種類にもよるけど、少なくとも歩さんは健常者にはなれない。
どんなに医療が進歩して健常者に近くなっても、歩さんは結局『作られた健常者』にしかなれないはず。
だから、私は歩さんを支えて生きていきたい。
大げさかな。
「戻りましたよ」
ソファのクッションが空気を吐く音がして、私は顔を上げた。
「おかえりなさい」
「花火、楽しみですね」
歩さんは相変わらずほのぼのとしたほほえみで八月十二日の話を始めた。
歩さんの誕生日に何か用意しないといけない。
繁忙期が祟って、頭から抜け落ちていた。
せっかく誘ってくれた誕生日の花火を、無下にしてしまうわけにはいかない。
もう一度、歩さんの手を取って自分の肩に回した。
「今度はわかるでしょ?」
歩さんは、はい、と答えて私の右肩に顎を乗せてきた。
ゆったりとした呼吸の音が、耳元で聞こえる。
私も歩さんの左肩に顎を乗せて、囁いた。
「大好きだよ」
花火を聴きたい。#2
花火の約束をしてからというもの、歩さんはいつ見ても落ち着きがない。
ソファの上に座っているときも、一緒にテレビを聴いているときも、お茶を飲んでいるときでさえ手がせわしなく動いている。
何かを探しているような、探していないような、不思議な動きだった。
「何探してるのー?」
夕食を置くと同時に聞いてみた。
特に何も探していないというオチも考えながら、老婆心が先行して動いてしまった。
家の中にあるものは、ほとんどのものが歩さんにわかりやすいように配置してある。
リモコン類は木の板で作られていて三つの空間がある箱、ティッシュは木を編み込んで作られたティッシュケース、充電器はソファの後ろにコードを回して、サイドテーブルの上で充電ができるようにしてある。
これまで何かを探すといえば私の手くらいだったけど、今回は何か様子が違う。
私がいないときでも空中に手を解き放って丸っぽい何かを描くように、ああでもないこうでもないと首をかしげている。
「いえ、探しているわけではないんです」
なんとなく予想はできていたけど、これだといよいよ何をしているのかが謎めいてくる。
もしかしたら丸い何かがほしいのかもしれない。
直接言うのが恥ずかしくて気づかれようとしていたとか。
さすがにそこまで小学生じゃないか。
だとしたらなんだろう。
「花火ってどんなものなのかなって」
そういえばそうだった……。
歩さんは、花火を見たことがない。
詳しいことはあまり知らないが、歩さんの家系はものすごく由緒が正しい、|華頂宮《かちょうのみや》という家系らしい。
私が初めて会ったとき、歩さんは庶民の娯楽をほとんど知らなかった。
サッカーも野球も、パソコンにスマホまで、大学生になるまで触れたことがないという。
せいぜいやったことがあるのは陸上かテニスくらいで、暇な時間は本を読んで過ごすという現代に生きる貴族みたいな人だった。
どうやったら現代に生きていながらこんなに神聖な暮らしができるのかというくらい。
そんな歩さんが花火を知らないのは当然と言えば当然だ。
子供のときに見ていないのは確実だし、まだ視力があった大学一年二年の夏はずっと勉強していたと聞いている。
勤勉で褒められるべきだけど、青春という点で見るとすっごくもったいない。
私が教えてあげなくっちゃね。
「花火はね、中心から四方八方に光り輝いた火薬が広がって、落ちていく芸術作品だよ」
歩さんは、視覚情報をある程度知っている。
まだ真っ暗な世界で生きている時間よりも目が見える人として生きた時間のほうが長いから、鮮明ではないにしても、ちょっとした視覚情報なら伝わる。
赤とかオレンジとか、青とかもあるんだよと、色を簡単に伝えられるのはものすごくありがたい。
もうしばらくどんな色も見ていないはずだけど、うなずいているのを見るとちゃんと理解しているらしい。
視力を失っても、色の記憶はしばらく残るという。
特に成人してから視力を失ったときは、亡くなるまでずっと覚えている人もいるんだとか。
まあそれは置いておいて、この子、天才かもしれない。
「手に書いてもらえますか」
歩さんは手のひらを広げて私に差し出してきた。
ここが中心ね、と言いながら歩さんの手のひらの真ん中にある小さなほくろをぐりぐりと指す。
そこから、手と空気の境界線まで何本も放物線を引いて、歩さんの手を閉じさせた。
「花びらみたいに見えるから花火って呼ばれてるの」
わかりやすいでしょ、と歩さんの顔を覗き見た。
耳から得た情報と手のひらから得た情報、そして覚えている色の情報をすり合わせて、一生懸命|咀嚼《そしゃく》している様子だった。
眉をかすかにひそめて、顔のパーツをぎゅーっと真ん中に寄せて考えている。
最近リップを塗っていないからか、唇がちょっと乾いている。
あとで寝込みを襲って塗っておこう。
歩さんがしばらくリップを塗り忘れるのもあるあるだから、ぶつぶつ文句を言いながら塗ってやる。
感謝するんだなー!
「なるほど、よくわかりました」
唇が動いたと思ったら、咀嚼が終わったらしかった。
自力で花火というものを導き出すことが本当にできるのか不思議だけど、私の説明がうまかったということにしておこう。
私も天才だな。
「じゃあ夕ご飯食べよっか」
いただきます、と言ってから汁物、ご飯、おかずの位置を教える。
汁物は十二時、ご飯は三時、おかずと副菜は九時。
歩さんは小動物を撫でるようにお皿を触って、うなずいて食べ始めた。
この生活が始まったばかりの頃はうまく箸を使えなかったはずだけど、さすがに箸も使えるようになってきた。
小さいときから美しい箸の使い方を叩き込まれているのか、目が見えなくなっても決してものを落とさない。
こっちが鮭を落としそうになるくらい美しい。
今日はうちのお魚曜日、水曜日。
私は曜日ごとにどういうものを出すか決めている。
私がこんがらがるのもあるけど、食べるまで何が来るかわからないのも嫌だろうから決めている。
何を出しても喜んでくれるけど。
今日のメインはマスタード鮭。
三時の位置には炊きたてほかほかの五穀米。
蒸気から甘くて美味しい匂いが漂ってくる。
九時の位置にマスタードで味付けされた鮭の切り身。
箸で切ったところからきらきらと輝く脂が滲む。
同じお皿にほうれん草のおひたし。
ちょっと水分多すぎちゃったかも。
それもご愛嬌。
一番奥にじゃがいもとキャベツのお味噌汁。
お味噌多すぎてしょっぱい。
前回薄すぎたのを反省しすぎたなぁ。
私の得意料理は五穀米と冷凍食品かもしれない
「|雪沙《ゆさ》さんは花火を見たことがあるんですよね」
しっかりと鮭を咀嚼して飲み込んだあと、丁寧に箸を置いてから、歩さんは口を開いた。
私は飽きるほど見たことがある。
何回かの経験を歩さんに分けてあげたいぐらいには花火を見てきた。
小さいときに家族と見た記憶もあるし、いま振り返るとなんで付き合っていたのか理解できないクズ気味の元カレと見たこともあるし、友達となんて数えられないくらい見た。
私の中で、花火は年に一回の特別イベントじゃない。
でも、歩さんと見る花火なら、年に何回あってもそれは全部特別イベント。
「もうね、何回も見ちゃったよ。でもね、歩さんと見るのは初めてだから楽しみだな」
花火も何もかも、回数じゃないことは知っている。
誰と見るか、誰と食べるか、誰と行くか。
何回目の花火だって、横にいる人で見え方は全然違うんじゃないかな。
歩さんとだったら、何回見ても飽きる気がしない。
「どんな人と見たんですか」
「えーっとね、家族とか友達とかかな」
さすがに元カレの話はできない。
私はどんなときでもいまの彼氏を大事にしたい、そう自分に約束した。
元カレの話をするだけで嫌われるほどこの三年の絆は弱くないと思うし、特に隠す理由もないはずだけど、なんか隠したくなって隠しちゃう。
やっぱり勇気が足りないのかも。
「元カレさんとかとは?」
私が腰引けで黙っていたら、歩さんのほうから聞いてきた。
最近、歩さんはいろんなことをずばっと聞いてくれるようになってきた気がする。
イベントに誘ってくれたのも、この花火が初めてだし。
配慮がなくなったのではなく、遠慮せずものを言ってくれるようになったということだと思っている。
うん、なんていうか。
嬉しいです。
元カレと花火、という経験は二回ある。
どっちとも、せっかくなら浴衣を着てきてほしいと頼まれて、近所の夏花火におもむいた。
よこしまな気持ちがあったかは知らないけど、歩さんと比べてしまうと可哀想になるくらいの彼氏だった。
濁流を流れる古びたタイヤのような感じかな。
言いすぎな気もするけど、最高の彼氏がいる私の前では、誰が何をしてもゴムの塊にしか見えないと思う。
タイヤだけど、元カレがいて、一緒に花火に行ったのは変わらない。
「ごめんなさい、あります」
歩さんは明らかに不満そうな顔をして、ふーん、と声を出した。
唇を尖らせて口角を下げ、目をうつむきがちにして、また口を開いた。
「僕が初めてじゃないんだね」
歩さんは、ときおり、本当にときおり、タメ口を使う。
歩さんはため口を使うとき、少しだけ、本当に少しだけ声が低くなる。
かわいいかよ。
四年前会った瞬間からいままで、多分両手で数えられるくらいしかタメ口を聞いたことがない。
例の貴族みたいな教育の影響なのか、大学生時代からずっと敬語で話している。
おそらく、これまでも敬語で生きてきたのだろう。
そんな歩さんがタメ口で喋ってくれる。
だらだら考えたけど、とりあえず嬉しい。
叫べそう。
「でも」
いろんなことを言いかけて、やめた。
反論したって、彼氏との花火が初めてじゃない事実はどう頑張っても変わらない。
「どうされたんですか」
言いかけてしまった『でも』を聞き逃さず、何を言いたかったのかと問い詰めてくる。
なんですかなんですか、と先生が大好きな小学生みたいなテンションで|詰問《きつもん》された。
「うるせぇ口だなー!」
「どういう……」
歩さんが言い終わる前に、人差し指で彼の口を押さえた。
ゆっくり離して、歩さんがぽかんとしているうちに唇をつけた。
歩さんの唇は、鮭の脂で少しだけ湿っていた。