公開中
最終章:出会いと別れ
その夜、ウィルは異変に気づいた。
部屋が静かすぎた。
いつもなら咳払いが聞こえる。
ペン先の音が響く。
安酒の瓶を倒す音がする。
だが何もない。
『 ? 』
扉を開く。
春の月光が机を照らしていた。
老人は椅子に座ったまま、動かなかった。
まるで居眠りしているみたいに穏やかな顔だった。
ウィルはしばらく立ち尽くしていた。
『 起きろ 』
返事はない。
『 原稿はどうした 』
沈黙。
彼はゆっくり近づき、肩へ触れた。
冷たかった。
その瞬間、ウィルは初めて、人間の〝死〟というものを理解した。
『 ……は 』
喉から掠れた音が漏れる。
永遠を生きる怪物には、「終わり」が分からなかった。
昨日いた者が、今日いなくなる意味を知らなかった。
ウィルは何度もオリヴァの名を呼んだ。
肩を揺すった。
窓を閉めた。
外套を掛けた。
だが老人は二度と目を開かなかった。
夜明けが近づいていた。
ウィルは椅子の傍らへ膝をついたまま、朝まで動かなかった。
数日後、葬式が行われた。
参列者は少なかった。
貧乏な物書きの死など、港町では珍しくもない。
棺桶へ花が投げ込まれる。
土が落ちる。
ウィルは遠くの路地裏から、それを見ていた。
陽光へ出られない。
最後まで傍へ行けなかった。
春だった。
風が白い花弁を運んでいた。
その夜から、屋敷は静まり返った。
机には書きかけの原稿。
乾いたインク。
積み上がった眼鏡。
ウィルは時折、椅子へ向かって話しかけた。
『 今日は雨だ 』
『 港で喧嘩を見た 』
『 新しい眼鏡を見つけた 』
返事はない。
それでも彼は話した。
百年を生きた怪物は、初めて孤独を知った。
オリヴァが亡くなってから1週間が経った夜のこと。
ウィルは机の引き出しから、一枚の紙を見つけた。
震える字で、短く書かれていた。
<親愛なるウィルへ>
<もし先に私が死んだら、眼鏡はもう買わなくていい。それと、老いぼれの相手をしてくれてありがとう >
ウィルは長い間、その紙を見つめていた。
やがて静かに椅子へ腰を下ろす。
老人がいつもしていたように。
窓の外には霧の港町。
街灯が病人の眼みたいに滲んでいる。
春の終わりの風が吹いていた。
吸血鬼は独りになった。
そして永遠だけが残った。