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第一章 第三話 模造の家族
誰かさんのサブアカウント
休日の住宅街は、恐ろしいほどに穏やかだった。
どこかの家から風に乗って漂ってくるカレーの匂い。
庭先で犬と戯れる子供たちの笑い声。
現世の、どこにでもある平和の象徴。
「——ここが、僕の家だよ」
僕、紬が案内すると、隣を歩く結衣は小さく頷いた。
いつもは管理局の黒い外套をまとっている彼女だが、今日は淡いベージュのワンピースに身を包んでいる。
まるでありふれた女子高生のようで、胸が少しだけ跳ねた。
「お邪魔します、紬」
玄関の扉を開けると、「おかえりなさい!」という温かい声が出迎えてくれた。
僕を10年前に引き取り、実の息子のように育ててくれた養父母だ。
父さんは現世のしがないサラリーマンで、母さんはいつも笑顔の優しい人。
身寄りのない僕に「普通の幸せ」をくれた、大切な家族。
「まあ、結衣ちゃん! よく来てくれたわね。さあ上がって上がって、今夜はハンバーグよ」
「はじめまして、結衣さん。いつも紬がお世話になっているようで。頼りない息子ですが、よろしく頼みますよ」
二人は満面の笑みで結衣を歓迎した。
リビングに上がると、母さんは嬉しそうにアルバムを引っ張り出してきた。
「見てやってちょうだい、結衣ちゃん。これ、紬が中学生の時の写真。この頃はまだ反抗期でねぇ」
母さんが指差した写真には、少しふてくされた顔でピースサインをする僕が写っている。
優しい思い出。
温かい日常。
けれど、その写真を覗き込んだ結衣の身体が、一瞬、強張ったのを僕は見逃さなかった。
「……可愛い、ですね」
結衣の声は、ひどく掠れていた。
彼女の視線は、写真の中の僕の背景——不自然に歪んだ家具の影や、妙に引き伸ばされた光の加減に釘付けになっていた。
(神楽……なんて、雑な仕事を……)
結衣は奥歯を噛み締めていた。
この写真も、このアルバムも、この家も。
すべては天才ハッカー・神楽が、既存のデータと、千歳副局長が用意した『売れない役者の男女』の戸籍をハッキングして作り上げた「模造品」だ。
この優しい笑顔を浮かべる夫婦は、毎月管理局から大金を振り込まれ、「紬の親」を演じているだけの赤の他人。
それを知っているのは、この部屋で結衣ただ一人だった。
「結衣ちゃん、ちょっとお野菜を切るのを手伝ってくれるかしら?」
「あ、はい。喜んで……っ」
台所へ向かった結衣の背中を、僕は微笑ましく見つめていた。
最高の仲間、最高の家族。
僕はなんて幸せ者なんだろう。
時雨さんの言う通り、僕は現世のこの平和を、命に代えても守らなきゃいけない。
◇
「紬をこれからもよろしくね」と、母さんの役を演じる女に優しく手握られた瞬間、内臓を素手で雑に掴まれたような猛烈な吐き気が彼女を襲った。
『あなたが苦しまないように、新しい「あなた」を、私が何度でも結んであげるから』
昔、あの時、自分が紬にかけた言葉が、呪いとなって自分を縛り付ける。
自分が施した|精神改ざん《ハッキング》のせいで、紬はあの偽物の親を本物だと信じ込み、心から愛している。
そして自分は、その偽物の空間に「優しい相棒」の顔をして収まっている。
「……私は、なんて、最悪なことを……」
鏡に映る自分の顔は、酷く青白く、まるで化け物のようだった。
もし、紬が本当の真実を知ったら。
倒すべき「█」が、紬の本当の父親だと知ったら。
そして、本物の養父母を、何も知らない紬自身の手で殺すように裏で仕組んでいるのが、この管理局のシステムだと知ったら——。
「結衣? 大丈夫? 顔色が悪いけど……」
ドアをノックする、紬の優しい声。
結衣は素早く、いつもの「完璧で健気なヒロイン」の笑顔を仮面のように貼り付けて、扉を開けた。
「大丈夫だよ、紬。ちょっと、嬉しくて緊張しちゃっただけ」
水底に沈んだ歪な真実を、その笑顔の裏に隠したまま。
█の部分は中盤で明かします。
では!