公開中
第二話
「交渉⋯ですか。」
長い沈黙の後、ルークの口から出たのはそんならしくもない間の抜けた声色を孕んだ言葉だった。
正直、交渉なら色々な貴族から何度も持ちかけられたことはある。
しかし、今の状況。イリーネとルークとの交渉ならザインがいる必要性は皆無だ。
ルークは笑みの裏で困惑しつつ、自然な動きでザインに視線を向ける。
しかし、ザインは何もすることはないと言わんばかりにだんまりを決め込んでいる。
ルークは仕方なくザインから目線を外し、イリーネに向き合う。
「それはどのような内容ですか?」
「ふふっ。ではお話いたしますわ。宰相様、わたくしと婚約していただけませんか?」
このご令嬢は何を言い出すのか。あまりの唐突さに目眩すら感じ始めたルーク。
それを知ってか知らずかイリーネは淑女らしく上品にクスクスと笑う。
「宰相様は戦争中のわたくしの容姿についてのお噂をご存知でしょうか?」
知っているか知らないかと問われると、知っていると答えられる。
イリーネの容姿は星の輝きのような長い銀髪に深い泉のような青い目だ。
そしてそれはルージェス帝国。つまりは戦争中の国で信仰されている女神の御姿に酷似していた。
そのため、戦争中から締結されて数年は彼女は魔女と呼ばれ民衆に蔑まれていた。
ルークはこの戦争にいい思い出がないので曖昧に微笑みつつイリーネの言葉に頷く。
「ご存知ですのね。では現在のわたくしの二つ名はご存知かしら?」
それも知っている。
現在、イリーネの容姿は帝国と王国の和平の形、【聖女】として民衆に持ち上げられている。
民衆のあまりの変わりように流石のルークも呆れ果てたのを覚えている。
まぁ、そうなるように仕向けたのは―――
ルークはちらりとザインを見る。ザインは知らぬ存ぜぬ顔でソファに腰掛けていた。
「えぇ。もちろんですよ。美しいイリーネ嬢に相応しい二つ名だと思っています。」
ルークが嘘っぽい笑いを貼り付けつつイリーネを称えると、イリーネの眉がピクリと動いた。
「まぁ。そう言っていただけるのは嬉しいですわ。ですが、わたくしはこの二つ名をあまり好ましく思っておりませんの」
ほんのちょっぴり棘の混じったイリーネの声色に、ルークは言葉を間違えたことを悟った。
ルークは胡散臭い笑みをほんの少し申し訳なさげに作り変える。
「そうだったんですね。そうとは知らず⋯申し訳ありません。」
「いいえ。話を戻しますが、この二つ名が付いてから手のひらを返したかのようにあらゆる貴族から求婚されるようになりましたの。前までどこからも嫁いできてほしくないと言われてきたのに⋯。」
イリーネは憂いげな表情を浮かべる。
なるほど。イメージが悪いと大変だが、イメージが良くなることも大変なのだな。
ルークは密かに同情した。
「それは災難ですね⋯。」
「えぇ。それに⋯わたくしには想い人がおりますの⋯。ですから、こういうことが困るのですの。」
「!?。ゴホゴホッ」
「?陛下、大丈夫ですか?」
想い人、その言葉を聞いてザインがゴホゴホとむせ始めた。
紅茶を飲んでなんとか落ち着いたザインは信じられないものを見る目でイリーネを見た。
が、当の本人はどこ吹く風といった様子で優雅に紅茶を飲んでいた。
(陛下も、イリーネ嬢が誰かを想っていることを知らなかったのでしょうか?)
イリーネが誰かを想っている、そんな話は全く聞かなかった。
ただ、貴族たちの求婚をことごとく断っているという話だったので、想い人がいるのなら納得がいく。
ルークは考える。最初に言われた「婚約してほしい」という言葉と「想い人」そして「絶えず求婚してくる貴族たち」。なるほど。
「つまり、虫よけが欲しい。そういうことですか?」
「えぇ。」
貴族の求婚が嫌なイリーネは仮の婚約者をつけてしつこい求婚を振り払いたいのだろう。
そこで貴族にものが言える程の地位で独り身のルークに目をつけた。そういうことなのだろう。
そこまで考えたルーク。しかし―――
「それを私がする理由がありません。」
キッパリと言い放ったルークを前にしてもイリーネの笑顔は消えない。
むしろ、ザインの方が苦々しい顔になっていた。
「ですから、交渉なのですわ。」
交渉。正直ルークにはイリーネがこの交渉で勝てるカードを持っているとは思えなかった。
ルークには望むものが何もない。地位も、名誉も、金も。何もかもが今の自分にとってどうでもいい。
昔は必死に集めた。必要だったからだ。けど、今はもう―――。
ぼんやりとがむしゃらに生きていた過去を振り返っていると、イリーネはザインの手を取った。
「この交渉に乗ってくれないと、陛下を殺しますわ。」
このご令嬢は本当に何を言い出すのか。というか、不敬罪が怖くないのか。
ルークが笑顔の裏で困惑しつつザインの様子を伺うも、こうなることを知っていたのか、まるで地蔵のように一切動じずに座っていた。
(なるほど。このために陛下はこの場にいたんですね⋯)
正直、イリーネの細腕でザインを簡単に殺せるとは思えないし、殺される前に守れる自信がルークにはあった。しかし、イリーネが本気で陛下を殺そうとしているようには見えない⋯。
よってルークはどう動くべきか困っていた。イリーネはニコリと笑って動かないし、ザインに至ってはほぼ置き物になっていた。
一切誰も指一本すら動かないという奇妙な時間が数分続いた後、ようやく動いたのは|置き物《ザイン》だった。
「ルーク、交渉して我を助けろ。王命だ。」
ルークはこんなに緊張感のない王命を初めて聞いた。合理主義な陛下はあまり無意味な王命を下さない。
が、果たしてこれは意味のある王命だろうか⋯。茶番じみた交渉に、段々気力が削がれていく。
「よろしければ、イリーネ嬢を無力化しますが⋯。」
「いや、交渉しろ。早くしろ。」
ザインは何やらうんざりした様子だ。なんだかルークよりも疲れているように見える。一体どうしたというのだろうか。
「⋯そもそも、その想い人と婚約すればよろしいのでは?」
「それがわたくしには興味がないご様子で、今頑張って気を引こうアピールしている所なのですわ。ですから、想い人がわたくしに振り向くまで宰相様に婚約していただきたいのですわ。」
「そうですか⋯。」
イリーネになびかない男がこの国にいようとは⋯。妙なところで関心しているのはひどく疲れているからなのか。
もう一度ザインの様子を伺った後、ルークはヘラリとした笑みを貼り付け、
「では。交渉成立ということで」
そうイリーネに告げた。
イリーネは心底嬉しそうに「ありがとうございますわ。」と礼の言葉を述べた。
ルークは、早く寝たい。そう思った。