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第4話 思い出のアップルパイ
秋が深まり、裏路地を吹き抜ける風が落ち葉をカサカサと鳴らす夜。
喫茶『レトロ』のドアが、静かに開いた。
カランコロン。
「いらっしゃいませ」
店主の蓮(れん)は、いつもの穏やかな笑顔で客を迎えた。
入ってきたのは、仕立てのいいコートを着た、白髪混じりの初老の男性――正蔵(しょうぞう)だった。どこか落ち着かない様子で店内を見回し、やがてカウンターの端の席へと歩み寄る。
「……あ、申し訳ありません」
蓮はすかさず、柔らかく、けれど毅然とした声で遮った。
「そちらの席は、いつも『先客』がおりまして。よろしければ、お隣の席か、奥のボックス席へどうぞ」
蓮が示したカウンターの端の席には、誰も座っていない。ただ、ピカピカに磨き上げられた木目の上に、小さな一輪挿しの白いマーガレットだけが飾られていた。
「おっと、そうか。すまないね」
正蔵は少し寂しげに微笑むと、一つ空けた隣の席に腰を下ろした。
メニューを開いた正蔵は、そこに並ぶ奇妙な名前に目を細める。
「おや、珈琲だけじゃないんだね。『お日様のホットケーキ』に……『思い出のアップルパイ』か。――じゃあ、このアップルパイと、温かい紅茶を。甘さは控えめで頼むよ」
「かしこまりました」
蓮が厨房へ下がり、静かなジャズの旋律が店を満たす。
正蔵は、膝の上で自分のゴツゴツとした手をじっと見つめていた。
彼は、長年連れ添った妻を、半年前の秋に亡くしたばかりだった。
「これからは二人で色んな場所へ旅行に行こう」と約束していた矢先の、突然の別れ。
正蔵はそれ以来、妻の遺品を見ることも、妻の名前を口にすることもできずにいた。哀しみが大きすぎて、妻と過ごした楽しかった日々のディテールが、霧がかかったように思い出せなくなってしまっていたのだ。
「お待たせいたしました。『思い出のアップルパイ』です」
蓮がそっと置いたのは、焼きたての狐色のアップルパイ。
パイ生地の間から、とろりと煮詰まったリンゴが顔をのぞかせ、シナモンの甘く芳醇な香りがふわりと立ち上る。
正蔵はフォークを入れ、小さく一口、口に運んだ。
サクッ。
軽やかな音と共に、口いっぱいに広がるリンゴの甘酸っぱさと、シナモンの香り。
その瞬間、正蔵の心臓が、ドクンと大きく震えた。
視界が、急に鮮やかな色彩へと変わっていく。
耳の奥で、ジャズの音ではない、懐かしい笑い声が響き始めた。
――小さなキッチンの、オーブンから漂う甘い匂い。
――「ちょっと焦げちゃったけど、味は保証するわ」とはにかむ、エプロン姿の妻の姿。
『あなた、お仕事お疲れ様。今週も頑張ったご褒美に、アップルパイ焼いたのよ』
頭の中に、はっきりと妻の声が蘇った。
まだ若く、貧しかった結婚当初の二人の暮らし。決して贅沢はできなかったけれど、週末に妻が焼いてくれる不格好なアップルパイを二人で突っつく時間が、何よりも幸せだった。
妻はいつでも、正蔵の味方だった。苦しい時も、その笑顔に何度も救われてきたはずだった。
「……あぁ、そうだったな」
正蔵の目から、溢れんばかりの涙がぼろぼろとこぼれ落ちた。
哀しみのあまり、妻を失った「最後の瞬間」ばかりを反芻していたけれど、自分たちの人生には、こんなにも温かく、愛に満ちた時間が溢れていたのだ。
「私は……寂しさにかまけて、一番大切な、妻の笑顔を忘れるところだった」
正蔵はハンカチで何度も涙を拭いながら、アップルパイを最後の一切れまで、愛おしそうにゆっくりと完食した。その表情からは、取り憑いていた暗い影がすっきりと消え去っていた。
「ごちそうさまでした。素晴らしい味だった。これでようやく、妻の写真とちゃんと向き合えそうです」
「それは良かったです。温かい『忘れ物』が見つかりましたね」
蓮はお代を受け取り、静かに微笑んだ。正蔵は深く一礼すると、今度はしっかりと前を向いて、夜の街へと帰っていった。
カランコロン。
静まり返った店内で、蓮は正蔵の使った食器を洗い始める。
ふと、蓮は手を止め、カウンターの端の、誰も座っていない席に目を向けた。
そこにある、白いマーガレットの一輪挿し。
「……マーガレット」
蓮の頭の奥で、突如、激しい頭痛が走った。
白いマーガレットの花言葉。確か、――『真実の愛』。
(なぜ、僕は頑なに、あの席に誰も座らせないんだろう)
(なぜ、この店にはマーガレットの花がいつも飾ってあるんだ?)
蓮は自分の左手の薬指をそっと撫でた。
そこには、まるで長い間指輪をはめていたかのような、うっすらとした白い線の跡が、今も微かに残っている。
「僕は、一体……誰を、忘れてしまっているんだ……?」
手元の日記帳を開き、正蔵の記録を書き留める蓮の万年筆の先が、かすかに震えていた。
その日記帳の、破り取られたような最初のページの切れ端が、秋の夜風に揺れて、小さくパタパタと音を立てていた。
最後まで読んでいただきありがとうございます!
蓮は何を忘れているのでしょうか、、?