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三
いつしか、毎日放課後に美術室へ向かい、住雪の絵を眺めることは、雄二の学校生活で最大の娯楽になっていた。
「おい、どけ」
「うおっと」
短い警告と同時に、顔の横を黒い影がすり抜けていく。
直後、背後の壁にアクリル絵の具のチューブが激突し、ベチャリと鈍い音を立てて床へ落ちた。住雪は雄二の方を見もしないまま、次の筆をパレットへ伸ばしている。
(あぶねぇ。今日は青か。服についたら落ちないんだよな)
バクバクと跳ねる胸を押さえながら、床のチューブを拾い上げ、住雪の机の端にそっと戻した。しかし、最初の頃の、あの心臓が縮み上がるような恐怖はどこへ行ったのだろう。
『おい雄二、それ、舞田にやられたのか?』
廊下でクラスメイトに腕の青あざを指摘されても、『いや、ちょっと美術室で転んでさ』と雑に誤魔化して流せるくらいには、雄二の感覚は麻痺していた。
二人きりの美術室は、住雪の神業を見届けるには最高で、同時にいつ殺されるか分からない最悪の場所だった。
けれど、彼視界の端に潜り込み、その筆さばきを網膜に焼き付けている時間は、何物にも代えがたい至福のひとときだった。
美しい肌の階調が、夜の街並みが、彼の手によって生み出されていく。
「理不尽な目に遭うリスク」と、「圧倒的な技を特等席で眺めるメリット」。天秤にかければ、後者が勝つのだった。
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季節が巡るにつれ、美術室の空気に、わずかな、けれど決定的な変化が訪れていた。
住雪から飛んでくる「物」の頻度が、明らかに減ってきたのだ。 相変わらず機嫌が悪い日にはパレットナイフが床を転がることもあり、完全に安全になったとは言いきれない。
それでも、あの命の危険を感じるほどの凶暴な牙が、雄二の前では徐々に潜められつつあった。住雪は、雄二がそこにいることに慣れたのだ。
背後からの視線に怯えることもなく、どれだけ手元を覗き込もうとも、ただ淡々と、冷徹に筆を動かし続ける。
そんなある日の夕暮れだった。人物画を一枚描き終えた住雪が、めずらしく筆を置いた。
キャンバスには、ガラス細工のように儚く美しい少女の横顔が完成している。 雄二がその完成度に息を呑んでいた、その時だった。
パレットを持ったまま、住雪がふいと、斜め後ろへ視線を向けた。底のない瞳と、真っ正面から視線がぶつかる。雄二は思わず、ごくりと唾を飲み込んだ。
「……次、何描けばいい」
抑揚のない声だった。
美術室の壁掛け時計の音が、急に大きく聞こえ始める。
「え……?」
一瞬、雄二は自分の耳を疑った。
住雪は、面倒くさそうに首を小さく傾げ、もう一度同じ言葉を口にした。
「次、何描けばいい」
それは、ただの気まぐれだったのかもしれない。頭の中のキャンバスが、一瞬だけ空白になっただけなのかもしれない。
けれど、あの住雪が確かに、雄二に向かって「次」を尋ねている。
(マジか!何が良いだろう)
風景か、それともまた人物か。彼のあの神速の筆で、今度はどんな世界が削り出されるのか。真剣に答えを巡らせ、言葉を探そうとした、ほんの数秒の沈黙だった。
「もういい」
住雪は吐き捨てるように言うと、雄二から視線を外した。すでにその手は新しいキャンバスへと伸ばされ、パレットナイフで機械的に絵の具を削り取っている。
「え、あ、待てよ。今考えてるから──」
「遅い」
一瞥すらしない。彼にとって、一秒の迷いは無価値と同じだ。
驚くと同時に、雄二の口からは、ごく当たり前の疑問がこぼれ落ちていた。
「……っていうか、もう次のを始めるのか? 一枚描き終えたばかりだろ。たまには少し休んだらどうなんだよ。そんなに詰め詰めで描いてたら、流石に疲れるだろ」
それは、同じ絵を志す者としての、純粋な気遣いだった。学校の部活という枠を差し引いても、彼の制作ペースは人間の体力の限界を超えているように見えたからだ。
だが、その言葉が口から出た瞬間、空気が一変した。激しい金属音が響き、住雪が座っていた丸椅子が後ろへ大きく跳ね返った。
雄二は、心臓が口から飛び出すかと思った。床に転がる丸椅子を見下ろす間もなく、目の前に、住雪の顔があった。
「お前に何が分かる」
彼の表情は、暗く、冷たく、そして激しい怒りに燃え上がっていた。呼吸もわずかに荒くなっている。
至近距離で睨みつけられ、全身の血が引いていく。雄二は、いつまた殴られるか分からない恐怖、こめかみが痛むかのような感触に襲われた。
「す、すまん! 悪かった、俺の失言だ!」
両手を上げて、慌てて数歩下がった。謝りながらも、頭の中はパニックだった。
雄二は引きつった笑顔を浮かべながら、必死にその場の空気を収めようと、言葉を口走った。
「ほら、やっぱり、住雪が描きたいと思う絵をさ、自由に描くのが一番いいよ。俺なんかが口出すことじゃなかった。な?」
宥めるように、必死に紡いだ言葉。絵描きなら誰だって、自分の内側から湧き上がる「これを描きたい」という衝動に従うのが一番のはずだ。
……そんな甘い観測は、住雪の次の一言によって、無残に打ち砕かれた。
「描きたい絵なんかない」
静まり返った美術室に、冷え切った声がぽつりと落ちた。
「え……?」
雄二は間抜けな声を漏らしたまま、硬直した。
住雪の激しい怒りは、一瞬にして消え去っていた。その瞳は、怒りよりもさらに深い、一切の光を通さない底なしの暗闇に戻っている。
「描かないといけない、気が済むまで……」
住雪は、まるで自分の体温すら忘れてしまったかのような淡々とした口調で、繰り返した。
それ以上、一言も発しなかった。
倒れた丸椅子を起こすことなく、立ったまま、機械的な動きで新しいキャンバスへ筆を滑らせ始める。
静まり返った空気があまりに重苦しい。
「……じゃあさ」
住雪の背中に、あえてもう一度声をかける。雄二は自分の張り詰めそうな神経をなだめるため、半ばヤケクソで、気休めのような言葉を口にしていた。
「じゃあ、『幸せそうな絵』を描いてくれよ。お前が描きたいものがないならさ、俺のリクエストってことで」
住雪の筆が、一瞬だけ止まった。振り返りこそしなかったが、心底わけがわからないというように、肩が低く揺れる。
「なんだよそれ。意味が分からない。気持ち悪いこと言うな」
「いいだろ、描きたい絵がないんなら」
住雪は舌打ちをすると、「お前の趣味は最悪だ」と不機嫌に文句を吐き捨てた。彼はそのまま、パレットの上の明るい色彩へと筆を伸ばした。