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五
それから数日、美術室の空気は、奇妙な熱を孕んで停滞していた。
そして、ある日の夕暮れ。窓の外が、燃えるようなオレンジ色に染まった頃。
「おい」
抑揚のない、無愛想な声。住雪は振り返らない。ただ、顎で「見ろ」とキャンバスを示した。雄二はごくりと唾を飲み込み、一歩、足を踏み出してキャンバスを正面から覗き込む。
視界に飛び込んできたのは、狂わんばかりの「春」だった。キャンバスを埋め尽くしていたのは、満開の桜の下、大勢の人間が笑い合っている花見の光景。
季節は秋へと向かう薄暗い夕暮れだというのに、その絵を見た瞬間、雄二の脳裏にはあの春の、少し生ぬるくて湿った風の匂いが吹き込んできた。
色彩が、あまりにも暴力的だった。住雪がパレットで淡々と混色していたあの桃色や薄紅は、画面の上で、本当に命を持って呼吸しているかのように爛漫と咲き乱れている。
桜の隙間から差し込む光の粒、楽しげにグラスを掲げる人々の肌の温度、敷物の青。それらが完璧な調和を保ちながら、見る者の網膜へ五感を揺さぶる強烈な「春」を送りつけてくる。
一見すれば、誰もが「温かい、幸せそうな絵だ」と涙を流すような大傑作。その美しさは劇薬のように鋭く、雄二の脳髄を直接殴ってきた。
雄二の口から、悲鳴のような声が漏れた。指先がガタガタと震え出す。恐怖でも嫌悪でもない。五臓六腑をかき回されるような、圧倒的な絵のチカラに対する、狂おしいほどの歓喜。脳のストッパーが完全に吹き飛んでいた。
「すごい……すごいよ住雪! お前本当になんなんだよこれ!」
雄二は頭を抱え、美術室の床を踏み鳴らすようにしてドタバタと暴れ回った。
「線一本、色の置き方一つってレベルじゃねえ。なんだよこの光の描き方! 桜の花びらが本当に舞って見える、頭おかしくなりそうだ! 最強だよ、お前マジで天才、いや怪物だわ……」
息を荒くしてキャンバスにすがりつくように凝視し、狂ったように絶賛し続ける雄二。
そんな彼を、住雪は座ったまま、心底気味の悪いものを見るような冷ややかな目でじっと見つめていた。スケッチブックを持つ住雪の指先が、わずかに強張る。
「……お前のリクエストだろ。早く持って帰れ。邪魔だ」
住雪が吐き捨てるように言った。
その言葉が鼓膜に届いた瞬間、雄二の動きがピタリと止まった。大きく見開かれた目が、住雪へと向けられる。
「……え?」
「聞こえなかったのか。お前が描けって言ったんだろ。いらないなら捨てる」
「待て待て待て待て」
雄二は美術室が震えるほどの声を上げた。住雪の前にすっ飛んでいき、その肩を掴みそうになって慌てて手を引っ込める。
「これくれるの⁉︎ ガチで⁉︎ 嘘だろ、あげるって言った⁉︎ 俺に⁉︎」
「うるさい。声が大きい」
「いや声もデカくなるわ! え、マジで言ってる? この神絵を俺がもらっていいの⁉︎ 家の家宝にする、いや毎日拝む、額縁買ってこなきゃ……!!」
狂喜乱舞を通り越して、もはや過呼吸気味に限界突破している雄二を、住雪は完全に不審者を見る目で睨みつけた。
「……お前、どうかしてるよ」
住雪の口から、本気の嫌悪の入り混じった声が落ちた。
「お前に言われたくねーよ」という言葉が口から出かかったが、雄二はすんでのところでそれを引っ込めた。そんなことを言えば、またいつ彼が暴走するか分からない。
住雪はそれ以上怒るでもなく、はぁ、と深く、呆れたように溜め息をついた。いつもの殺気が消え、夕日の中で、ただの少年の顔が露わになる。黒い前髪の隙間から、冷ややかな瞳が覗いていた。
雄二の心臓がドクンと嫌な音を立てて跳ね上がった。
(吊り橋効果かよ)
いつキレるか分からない猛獣への「恐怖の鼓動」なのか、それとも、この顔に対する「好意の鼓動」なのか。自分の心音の正体がもう分からない。
脳のバグだと必死に言い訳を並べ立てながらも、雄二は住雪の呆れた顔から、目を逸らすことができなかった。
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あの『幸せそうな絵』を抱えて帰宅してから数日、雄二の日常は完全に崩壊していた。
自室の机に飾られた、息を呑むほど美しい満開の桜。それを見つめるたびに、あの美術室での住雪の姿がフラッシュバックする。そして同時に、心臓がうるさいほど脈打つのだ。
(いや、ない。ないないない)
ベッドにひっくり返り、雄二は枕に頭を埋めて悶絶した。
好きかもしれない。
舞田住雪のことが。あの、恐ろしく沸点の低い男のことが。
(冷静になれ)
そう自分に言い聞かせるが、思い返せば、吊り橋から降りたはずの自宅でも、授業中でも、気づけば彼のことばかり考えている。
これまで「技術を盗むための観察」だと言い訳していた全ての行動が、別の意味を帯びて脳内で再翻訳されていく。
髪をかき上げる仕草。絵の具のついた指先。夕日に照らされた細い首筋。
それらを「綺麗だ」と思ったあの感覚は、表現者としてではなく、ただの熱い視線だったのではないか。
(いや待て、仮に百歩譲って俺の脳がバグってるとして、相手はあの舞田住雪だぞ)
関わる人間がみんな逃げ出していく、学校一の問題児だ。実際に雄二もこめかみを負傷したことがある。普通ならトラウマで不登校になってもおかしくない相手だ。
そんな奴を好きになって、一体どうしろというのか。付き合ってデートでもするのか。そもそも、少しでもそんな気配を察知された瞬間、今度こそ喉元を掻き切られるかもしれない。
雄二は顔を覆った。
放課後、どんな顔をして美術室のドアを開ければいいのか、さっぱり分からなかった。