絵か恋か
編集者:早咲作
◯BL/ブロマンス要素あり。恋愛未満のクソデカ感情が好きな人向けです。
◯作中に軽度の暴力描写(突き飛ばす、物を投げつける等)が含まれます。
◯特定の好悪が分かれやすい特殊な執着・感情描写が含まれます。
◯安心安全ハッピーエンド。
なんでも許せる方、狂気的な感情のぶつかり合いがお好きな方はどうぞ。
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目次
一、雄二と舞田兄妹
夕日が窓から差し込み、美術室全体をオレンジ色と長い影で満たしていた。
突き飛ばされた身体が、あっけなくバランスを崩す。|筆川雄二《ふでかわゆうじ》の喉から悲鳴が漏れた。無意識に伸ばした手が木製イーゼルをなぎ倒し、雄二の身体も床へ叩きつけられる。その拍子に、イーゼルの木枠が右耳の上あたりを固く打った。
「痛ってぇ……!」
思わず顔をしかめ、うめき声を上げる。打った場所がジンジンと熱を持っていく。石膏像たちの白い顔が、どこか冷ややかな目で見下ろしてくる。
痛む箇所を押さえながら、雄二は恐る恐る相手を見た。逆光のオレンジ色の中に、|舞田住雪《まいたすみゆき》の細いシルエットが立っている。その長い影が、床に倒れた雄二を完全に飲み込んでいた。住雪の手には、一冊のスケッチブックが握られている。
「勝手に触るな!」
血走った目でこちらを睨みつける形相は、もはや飢えた猛獣そのものだ。彼に関わる人間なら、一度は味わう恐怖の光景だった。美術室を去っていった元部員たちの声が、雄二の脳裏で反響した。
住雪は近くの丸椅子を、ゴミでも片付けるような動作で掴み上げ、そのまま床の雄二へと振り下ろす。
「ごめんって!」
雄二はなりふり構わず床を転がってそれを避けた。直後、耳元で凄まじい衝撃音が響き、木製の床に深い傷が刻まれる。
(本気だ。こいつ、本当に俺を半殺しにする気だ)
痛みなど脳内から消し飛び、這いつくばった体勢のまま、全力で美術室のドアへと逃げ出した。引きちぎるようにドアを開け、廊下へ飛び出す。こめかみを擦りむいたらしく、押さえた右手の指先に、じわりと血が滲んでいる。雄二は振り返る余裕もなく、薄暗い階段を駆け下りた。
──住雪がそれ以上、追ってくることはなかった。
---
肩で息をしながら、雄二は保健室の引き戸を開けた。
「すんません、消毒、か、包帯 ──」
縋りつくように飛び込んだ視界の先、白いカーテンの傍らに、その影はいた。夕日の美術室で、自分を冷酷に見下ろしていたあの輪郭。あの細いシルエット。雄二の心臓が嫌な音を立てて跳ね上がった。だが、そのシルエットがこちらを振り返り、心配そうに眉をひそめた。それを見て、雄二はほっと胸を撫でおろした。
「なんだ、妹のほうかぁ」
住雪の双子の妹、|舞田苺枝《まいたいちえ》。彼女は冷静で、どこか憂いを帯びた、静かな目をしている。
「ゆ、雄二。どうしたの、その怪我?」
高くも低くもない、住雪とまったく同じ声質。けれど、イントネーションの端々に、至極まっとうな人間としての響きがあった。
「あ、いや……これは、その」
言い淀む雄二を、苺枝はそれ以上追及しなかった。その左腕には、緑色の『保健委員』の腕章が巻かれている。
慣れた手つきで丸椅子を引き、雄二を座らせると、薬品棚から消毒液とガーゼを取り出してくる。ピンセットを持つ彼女の手先は、驚くほど器用で、そして優しかった。冷たい消毒綿がこめかみに触れ、じわりと熱い痛みが走る。雄二が思わず身をすくめると、苺枝は「ごめん」と小さく呟き、ふっと息を吹きかけながら手際よく血を拭い去っていく。
顔の距離が近づくたび、雄二の胸に奇妙な錯覚が去来した。目の前にいるのは、間違いなく自分を救ってくれている「まともな」少女だ。なのに、その目鼻立ちの完璧な一致が、すぐに住雪を連想させる。苺枝は、雄二の視線に気づいているのかいないのか、淡々と新しい絆創膏の台紙を剥がした。
「その怪我、兄貴のせいなんでしょ」
ぽつり、と。静まり返った保健室に、彼女の声が落ちる。手当てを終えた手が、そっと離れた。
「雄二、今のうちに退部した方がいいよ。あいつの周り、みんな居なくなるの。引き摺り込まれて、ボロボロにされる前に」
苺枝は、諦念に満ちた影を落として雄二を見つめた。それは警告だった。苺枝の言葉は、冷たい現実となって保健室の空気を支配した。
引き摺り込まれて、ボロボロにされる。先ほどの丸椅子の衝撃音を思い出せば、それが決して誇張ではないことなど嫌というほど分かる。けれど、雄二はこめかみの絆創膏をそっと指先で押さえ、小さく息を吐き出した。
「……いや。まだ辞めない」
苺枝の瞳が、わずかに見開かれる。
「俺、将来は絵で食っていきたいんだ。あいつが描いてるの見てると勉強になる」
芯のある声で言った。それは、住雪の絵に対する、本気のリスペクト。たとえその先が破滅へと続く泥沼だとしても、その底にある美しい色彩を見てみたい。そんな恐怖以上の憧憬が、雄二をあの美術室に繋ぎ止めていた。
「線一本、色の置き方一つ……あれに敵う奴は誰もいない」
正面からその強い視線を受け止めた苺枝は、しばらくの間、何も言わずに雄二を見つめていた。やがて、諦めたように、あるいはその無謀さを憐れむように、小さく息を漏らす。
「……そっくり」
「え?」
「ううん、なんでもない」
苺枝はそう言って、わずかに視線を伏せた。
二、美術室で会える星
翌日、雄二が美術室のドアを開けて中に入ると、住雪はすでにキャンバスに向かっていた。
ドアの音に、彼の視線が向けられる。一瞬、空気が凍りついた。雄二は無意識に、こめかみの大きな絆創膏を指で押さえる。住雪は、雄二の顔と絆創膏を交互に見た。謝罪の言葉はなく、雄二が今日も部活に現れたことに対して、少しだけ意外そうに眉を動かしただけだった。
平然とキャンバスに向き直る彼へ、雄二は一歩、足を進める。
「……住雪」
声をかけると、筆がピタリと止まった。暗い瞳がじっと雄二を捉える。また彼が暴走するかもしれないという緊張で、喉がカラカラに乾く。
「お前が絵を描いてるところ……その、斜め後ろの場所から、見ててもいいか。邪魔は絶対にしないから」
一世一代の賭けだった。
住雪は、言葉を理解するのに少し時間がかかったようだった。ピクリとも動かない表情のまま、観察するように見つめてくる。美術室の時計の秒針の音が、やけに大きく響いた。
「勝手にしろ」
彼はふいっと興味を失ったようにキャンバスへ視線を戻した。
---
美術室の空気は、いつも張り詰めている。
雄二の学校生活は『観察』の二文字に支配されていた。その視線はいつも、どうしても、あの変わり者へと向かう。
住雪は、絵を描いているとき、信じられないほど深い、底のない目をしている。その視界には、目の前にあるキャンバスも、美術室の風景も、映っていないようだった。彼はいつも、自分の頭の中にしか存在しない、誰も見たことのない世界をただ必死に、キャンバスへ引きずり出している。
(なんなんだ、この無駄のなさは……)
制作過程を見るたび、心臓が高鳴りをあげる。
住雪の描き方には、迷いがない。常軌を逸した速さだった。普通、絵を描くときは構図を練り、色を慎重に選びながら塗り重ねていく。だが彼には、躊躇の時間が一秒すらなかった。
パレットの上で絵の具を混色する手つきからして、すでに異常だった。狙った色彩を一瞬で作ると、迷いなくキャンバスへ筆を滑らせる。その動作には、怪我をさせられた時のあの剥き出しの凶暴さは微塵もなかった。むしろ、極限まで研ぎ澄まされた外科医のメスさばきのように、静かで、冷徹で、正確無比。
なにより驚くべきは、その圧倒的なスピードと同時に現れる、尋常ならざる美しさだった。
住雪が、濁った暗青色の絵の具をキャンバスの隅に、すっと一閃させた瞬間。それまでただの絵の具の層に過ぎなかった画面が、まるで魔法がかかったかのように、劇的な意味を持ち始める。無駄なく引かれた一本の線が、一瞬にして完璧な深い影へと変貌する。隣に置かれた白は、夕暮れの窓から差し込む、刺すような光の粒子へと姿を変えていた。
色彩と色彩がキャンバスの上で完璧に噛み合い、息を呑むほどに透明で、そしてひどく孤独な空間が、目の前でみるみるうちに構築されていく。
「……あ」
言葉を失い、雄二の喉が小さく鳴った。ほんの数分前まで真っ白だったキャンバスが、今はもう、見る者の心を狂わせるほどに美しい世界に支配されている。彼の凶暴な本性から想像するような、おどろおどろしい絵では決してない。意外なほどに、ひどく綺麗な絵だった。
キャンバスの中に佇む人物は、まるでガラス細工のように繊細で、どこか神聖さすら漂っている。光の描き方が、とにかく美しい。濁りのない色彩が透き通るように重ねられ、キャンバスの奥から本当に光が射しているかのような錯覚を覚える。
暴力的な彼の手から、どうしてこんなにも静かで、清らかな世界が生まれるのか、雄二はわけが分からなかった。写実的なリアルさとも違う。それは、対象の一番美しい瞬間だけを残酷なほど純粋に切り取った、完璧な『絵』だった。
(あいつのどこに、こんな綺麗な世界があるんだ……?)
エベレストを見上げて「俺の方が高く跳べるのに」と悔しがる人間がいないのと同じだ。胸の奥に残ったのは、ドロドロした嫉妬ではなく、むしろ澄んだ諦めと、それに伴う強烈な狂信だった。
技術を盗むという名目の裏で、雄二はただ、住雪の絵という奇跡の目撃者になった。夕日の中で、淡々と筆を動かす住雪の背中を見つめながら、雄二は息をすることすら忘れてその世界に溺れていた。
---
いつしか、毎日放課後に美術室へ向かい、住雪の絵を眺めることは、雄二の学校生活で最大の娯楽となっていた。
「おい、どけ」
「うおっと」
短い警告と同時に、顔の横を影がすり抜けていく。直後、背後の壁にアクリル絵の具のチューブが激突し、ベチャリと鈍い音を立てて床へ落ちた。住雪は雄二の方を見もしないまま、次の筆をパレットへ伸ばしている。
(あぶねぇ。今日は青か。服についたら落ちないんだよな)
バクバクと跳ねる胸を押さえながら、床のチューブを拾い上げ、住雪の机の端にそっと戻した。
しかし、最初の頃の、あの心臓が縮み上がるような恐怖はどこへ行ったのだろう。
『おい雄二、それ、舞田にやられたのか?』
廊下でクラスメイトに腕の青あざを指摘されても、『いや、ちょっと美術室で転んでさ』と雑に誤魔化して流せるくらいには、雄二の感覚は麻痺していた。
二人きりの美術室は、住雪の神業を見届けるには最高で、同時にいつ殺されるか分からない最悪の場所だった。けれど、彼の視界の端に潜り込み、その筆さばきを網膜に焼き付けている時間は、何物にも代えがたい至福のひとときだった。
美しい肌の階調が、夜の街並みが、彼の手によって生み出されていく。
「理不尽な目に遭うリスク」と、「圧倒的な技を特等席で眺めるメリット」。天秤にかければ、後者が勝つのだった。
三、リクエスト募集中
季節が巡るにつれ、美術室の空気に、わずかな、けれど決定的な変化が訪れていた。
住雪から飛んでくる「物」の頻度が、明らかに減ってきたのだ。相変わらず機嫌が悪い日にはパレットナイフが床を転がることもあり、完全に安全になったとは言いきれない。それでも、あの命の危険を感じるほどの凶暴な牙が、雄二の前では徐々に潜められつつあった。住雪は、雄二がそこにいることに慣れたのだ。
そんなある日の夕暮れだった。人物画を一枚描き終えた住雪が、めずらしく筆を置いた。
キャンバスには、ガラス細工のように儚く美しい少女の横顔が完成している。 雄二がその完成度に息を呑んでいた、その時だった。パレットを持ったまま、住雪がふいと、斜め後ろへ視線を向けた。底のない瞳と、真っ正面から視線がぶつかる。雄二は思わず、ごくりと唾を飲み込んだ。
「……次、何描けばいい」
抑揚のない声だった。
美術室の壁掛け時計の音が、急に大きく聞こえ始める。
「え……?」
一瞬、雄二は自分の耳を疑った。
住雪は、面倒くさそうに首を小さく傾げ、もう一度同じ言葉を口にした。
「次、何描けばいい」
それは、ただの気まぐれだったのかもしれない。頭の中のキャンバスが、一瞬だけ空白になっただけなのかもしれない。けれど、あの住雪が確かに、雄二に向かって「次」を尋ねている。
(マジか!何が良いだろう)
風景か、それともまた人物か。彼のあの神速の筆で、今度はどんな世界が削り出されるのか。真剣に答えを巡らせ、言葉を探そうとした、ほんの数秒の沈黙だった。
「もういい」
住雪は吐き捨てるように言うと、雄二から視線を外した。すでにその手は新しいキャンバスへと伸ばされ、パレットナイフで機械的に絵の具を削り取っている。
「え、あ、待てよ。今考えてるから──」
「遅い」
一瞥すらしない。彼にとって、一秒の迷いは無価値と同じだ。
驚くと同時に、雄二の口からは、ごく当たり前の疑問がこぼれ落ちていた。
「……っていうか、もう次のを始めるのか? 一枚描き終えたばかりだろ。たまには少し休んだらどうなんだよ。そんなに詰め詰めで描いてたら、流石に疲れるだろ」
それは、同じ絵を志す者としての、純粋な気遣いだった。学校の部活という枠を差し引いても、彼の制作ペースは人間の体力の限界を超えているように見えたからだ。だが、その言葉が口から出た瞬間、空気が一変した。激しい金属音が響き、住雪が座っていた丸椅子が後ろへ大きく跳ね返った。
雄二は、心臓が口から飛び出すかと思った。床に転がる丸椅子を見下ろす間もなく、目の前に、住雪の顔があった。
「お前に何が分かる」
彼の表情は、暗く、冷たく、そして激しい怒りに燃え上がっていた。呼吸もわずかに荒くなっている。
至近距離で睨みつけられ、全身の血が引いていく。雄二は、いつまた殴られるか分からない恐怖、こめかみが痛むかのような感触に襲われた。
「す、すまん! 悪かった、俺の失言だ!」
両手を上げて、慌てて数歩下がった。謝りながらも、頭の中はパニックだった。雄二は引きつった笑顔を浮かべながら、必死にその場の空気を収めようと、言葉を口走った。
「ほら、やっぱり、住雪が描きたいと思う絵をさ、自由に描くのが一番いいよ。俺なんかが口出すことじゃなかった。な?」
宥めるように、必死に紡いだ言葉。絵描きなら誰だって、自分の内側から湧き上がる「これを描きたい」という衝動に従うのが一番のはずだ。……そんな甘い観測は、住雪の次の一言によって、無残に打ち砕かれた。
「描きたい絵なんかない」
静まり返った美術室に、冷え切った声がぽつりと落ちた。
「え……?」
雄二は間抜けな声を漏らしたまま、硬直した。住雪の激しい怒りは、一瞬にして消え去っていた。その瞳は、怒りよりもさらに深い、一切の光を通さない底なしの暗闇に戻っている。
「描かないといけない、気が済むまで……」
住雪は、まるで自分の体温すら忘れてしまったかのような淡々とした口調で、繰り返した。それ以上、一言も発しなかった。倒れた丸椅子を起こすことなく、立ったまま、機械的な動きで新しいキャンバスへ筆を滑らせ始める。
静まり返った空気があまりに重苦しい。
「……じゃあさ」
住雪の背中に、あえてもう一度声をかける。雄二は自分の張り詰めそうな神経をなだめるため、半ばヤケクソで、気休めのような言葉を口にしていた。
「じゃあ、『幸せそうな絵』を描いてくれよ。お前が描きたいものがないならさ、俺のリクエストってことで」
住雪の筆が、一瞬だけ止まった。振り返りこそしなかったが、心底わけがわからないというように、肩が低く揺れる。
「なんだよそれ。意味が分からない。気持ち悪いこと言うな」
「いいだろ、描きたい絵がないんなら」
住雪は舌打ちをすると、「お前の趣味は最悪だ」と不機嫌に文句を吐き捨てた。彼はそのまま、パレットの上の明るい色彩へと筆を伸ばした。
四、自覚したが最後
それから、二人の間に、ある程度「マシな」会話が交わされるようになった。
それによって、初めて分かったことがいくつかある。一つは、住雪が学校の授業をほとんどサボって美術室に籠もっていること。そして家でも、寝食を忘れてひたすらに絵を描き続けているということだった。二十四時間、ほぼすべてを製作に捧げている。
(どうりで、ハナから基礎の次元が違うわけだ……)
圧倒的な天才だと思っていた彼の背中には、狂気としか言いようのない、膨大な時間が積み重なっていた。そしてもう一つ、雄二を驚かせた事実があった。
「あ、それ。こないだの国語の教師に頼まれたやつ」
新しく描き始めた静物画を指さして、住雪が事もなげに言った。
聞けば、彼はこれまでにも、顧問や他の教師、クラスメイトなどから、たびたび「こういう絵を描いてほしい」とリクエストを受けていたらしい。気難しい性格のくせに、人からのリクエストはほぼ百パーセント断らないのだという。
つまり、あのとき雄二が『幸せそうな絵を描いて』と頼んで、それを受け入れたのは、特別に認めたからでも、心を開いたからでも何でもなかったのだ。ただ、いつものように「出されたオーダーを機械的に処理した」だけに過ぎない。
ほんの少しでも『特別』を期待してしまった自分が、雄二は急に恥ずかしくなった。自分だけが、彼の例外になれたのだと自惚れていた。ピエロもいいところだった。けれど、住雪の口から稀に語られる私生活や、その歪なイエスマンっぷりを聞いているうちに、別の奇妙な感情も湧き上がっていた。
(……ああ、そうか)
住雪の横顔を見つめながら、雄二はぼんやりと、自分の心理を思い出していた。
「描きたい絵なんかない」と吐き捨てられた時。彼が、何だかもの凄く苦しそうに見えたのだ。休みも許されず、ただひたすらに描き続けなければならない呪いにかかっているような、そんな風に見えてしまった。
『じゃあ、幸せそうな絵を描いてくれよ』
だから雄二は、あのとき、そんな言葉を口にしたのだった。
---
技術を盗むための『観察』は、いつしか、この底知れない怪物そのものを解き明かしたいという、純粋な好奇心へと変貌していた。
(こいつ、絵を描いてないときは何考えてるんだ?)
住雪は、集中しているときは人の視線など一ミリも気にしていないようだった。
だから雄二は、斜め後ろから息を潜めて、その一挙手一投足を網膜に焼き付け続けた。住雪が時折、心底だるそうに前髪をかき上げる仕草。リクエストされた『幸せそうな絵』を描くとき、そのパレットに、普段は使わない鮮やかな黄色や桃色が、まるで事務作業のように淡々と並べられていく矛盾。
人間としては、関わればいつ怪我をするか分からない。だが、そんな危険な猛獣の檻の隙間から、その生態をじっと覗き見ているような時間が、雄二の胸を、妙にぞくぞくと高鳴らせた。
「おい、雄二」
「うおっ、はい」
不意に住雪が、筆を持ったままこちらを振り向いた。完全に目が合う。心臓が跳ね上がる。観察していたことがバレただろうか。
「……何」
住雪は冷淡な目でじっと見つめ、それから、雄二の手元にあるスケッチブックへと視線を落とした。
「お前、さっきから一歩も進んでないぞ。描かないなら、その鉛筆よこせ。芯がすり減ってて使いにくい」
「あ、いや、これは構図を練ってたんだよ! ほら、鉛筆ならこれ使えよ、削りたてのやつ!」
慌てて新しい鉛筆を差し出すと、住雪は「ふん」と鼻を鳴らしてそれを受け取り、またすぐにキャンバスへと向き直った。
(こいつの視界に、俺はどんな風に映っているのだろう)
ただの便利な画材置きか、それとも、背景の壁と同じただの置物か。
心臓が、いけない悪戯を企む子供のようにドクンと跳ねた。ちらりと住雪の背中を見る。彼はキャンバスに向かったまま微動だにしない。雄二は息をひそめ、さらさらと鉛筆を走らせた。
切り揃えられた黒い前髪。感情の起伏を一切感じさせない、涼しげな目鼻立ち。筆を持つときの、驚くほど繊細で綺麗な指先のライン。
(…………待て)
ふと、鉛筆を握る手がピタリと止まった。さっきまで表現者としての熱に浮かされていた脳が、急激に、冷水をかけられたように冷めていく。
雄二は、自分のスケッチブックを見つめた。そこには、夕日の陰影まで妙にこだわって描かれた、住雪の──男の横顔が、おそろしく美麗に、かつ熱烈な密度で描き込まれている。
(……いや、おかしいだろ。何やってんだ俺⁉︎)
一気に顔がボッと熱くなった。恥ずかしさが津波のように押し寄せてきて、心臓がさっきとは違う意味でバクバクと暴れ出す。
周りの女子が授業中に好きな男子の名前をノートの端に落書きする、あの痛々しいムーブを、今まさに自分が、この美術室で、しかも本気のデッサン力でやらかしてしまった。
住雪は男だ。しかも、かつて丸椅子を投げつけてきて、こめかみに大きめの絆創膏を貼る羽目になった元凶だ。それなのに、技術を盗むとか観察するとか、もっともらしい言い訳の裏で、自分は──。
(いや、違う。違う違う違う)
必死に心の中で弁明を並べ立てる。けれど、一度頭をよぎってしまった最悪の疑惑は、もう消えてくれなかった。
毎日、放課後になるのが楽しみだったこと。「物飛んできたりとかするけど」などと笑って、美術室に通い詰めていること。彼がちょっとマシに会話してくれただけで、現金に舞い上がっていたこと。そして今、髪の毛一本、まつ毛の長さ一つまで、愛おしむように必死で紙に書き写していること。
(それって、要するに──)
認めた瞬間に人生の何かが終わりそうな結論が脳裏をよぎった。否、恋愛感情とかそういう綺麗なものじゃないかもしれない。もっとこう、ストーカーに近いような、歪んだ執着なのかもしれない。どちらにせよ、まともな精神状態としては、完全にアウトな領域に片足を突っ込んでいる。
「おい、雄二」
「うあっ⁉︎」
突然声をかけられ、雄二は文字通り飛び上がった。慌ててスケッチブックを胸に抱え込み、バッと住雪を見る。住雪は、パレットを持ったまま、絵の具のついた顔で怪訝そうにしていた。
「……何、大声出してんだよ。気持ち悪い。オイルのストック、もうねぇぞ」
「あ、あ、オイル、あるよ。 物置から持ってくる」
雄二はスケッチブックをカバンに無理やり押し込むと、真っ赤になっているであろう顔を隠すように、逃げるように美術室を飛び出した。冷たい廊下の空気を吸いながら、頭を抱える。
(あいつの絵のせいだ。あの絵に溺れているうちに、俺の脳のネジまで一本外れてしまったんだ)
五、『幸せそうな絵』
それから数日、美術室の空気は、奇妙な熱を孕んで停滞していた。
そして、ある日の夕暮れ。窓の外が、燃えるようなオレンジ色に染まった頃。
「おい」
抑揚のない、無愛想な声。住雪は振り返らない。ただ、顎で「見ろ」とキャンバスを示した。雄二はごくりと唾を飲み込み、一歩、足を踏み出してキャンバスを正面から覗き込む。
視界に飛び込んできたのは、狂わんばかりの「春」だった。キャンバスを埋め尽くしていたのは、満開の桜の下、大勢の人間が笑い合っている花見の光景。季節は秋へと向かう薄暗い夕暮れだというのに、その絵を見た瞬間、雄二の脳裏にはあの春の、少し生ぬるくて湿った風の匂いが吹き込んできた。
住雪がパレットで淡々と混色していたあの桃色や薄紅は、画面の上で、本当に命を持って呼吸しているかのように爛漫と咲き乱れている。桜の隙間から差し込む光の粒、楽しげにグラスを掲げる人々の肌の温度、敷物の青。それらが完璧な調和を保ちながら、見る者の網膜へ五感を揺さぶる「春」を送りつけてくる。
一見すれば、誰もが「温かい、幸せそうな絵だ」と涙を流すような大傑作。その美しさは劇薬のように鋭く、雄二の脳髄を直接殴ってきた。雄二の口から、悲鳴のような声が漏れた。指先がガタガタと震え出す。恐怖でも嫌悪でもない。五臓六腑をかき回されるような、圧倒的な絵のチカラに対する、狂おしいほどの歓喜。脳のストッパーが完全に吹き飛んでいた。
「すごい……すごいよ住雪! お前本当になんなんだよこれ!」
雄二は頭を抱え、美術室の床を踏み鳴らすようにしてドタバタと暴れ回った。
「線一本、色の置き方一つってレベルじゃねえ。なんだよこの光の描き方! 桜の花びらが本当に舞って見える、頭おかしくなりそうだ! 最強だよ、お前マジで天才、いや怪物だわ……」
息を荒くしてキャンバスにすがりつくように凝視し、狂ったように絶賛し続ける雄二。
そんな彼を、住雪は座ったまま、心底気味の悪いものを見るような冷ややかな目でじっと見つめていた。スケッチブックを持つ住雪の指先が、わずかに強張る。
「……お前のリクエストだろ。早く持って帰れ。邪魔だ」
住雪が吐き捨てるように言った。その言葉が鼓膜に届いた瞬間、雄二の動きがピタリと止まった。大きく見開かれた目が、住雪へと向けられる。
「……え?」
「聞こえなかったのか。お前が描けって言ったんだろ。いらないなら捨てる」
「待て待て待て待て」
雄二は美術室が震えるほどの声を上げた。住雪の前にすっ飛んでいき、その肩を掴みそうになって慌てて手を引っ込める。
「これくれるの⁉︎ ガチで⁉︎ 嘘だろ、あげるって言った⁉︎ 俺に⁉︎」
「うるさい。声が大きい」
「いや声もデカくなるわ! え、マジで言ってる? この神絵を俺がもらっていいの⁉︎ 家の家宝にする、いや毎日拝む、額縁買ってこなきゃ……!!」
狂喜乱舞を通り越して、もはや過呼吸気味に限界突破している雄二を、住雪は完全に不審者を見る目で睨みつけた。
「……お前、どうかしてるよ」
住雪の口から、本気の嫌悪の入り混じった声が落ちた。「お前に言われたくねーよ」という言葉が口から出かかったが、雄二はすんでのところでそれを引っ込めた。そんなことを言えば、またいつ彼が暴走するか分からない。
住雪はそれ以上怒るでもなく、はぁ、と深く、呆れたように溜め息をついた。いつもの殺気が消え、夕日の中で、ただの少年の顔が露わになる。黒い前髪の隙間から、冷ややかな瞳が覗いていた。雄二の心臓がドクンと嫌な音を立てて跳ね上がった。
(吊り橋効果かよ)
いつキレるか分からない猛獣への「恐怖の鼓動」なのか、それとも、この顔に対する「好意の鼓動」なのか。自分の心音の正体がもう分からない。脳のバグだと必死に言い訳を並べ立てながらも、雄二は住雪の呆れ顔から、目を逸らすことができなかった。
---
あの『幸せそうな絵』を抱えて帰宅してから数日、雄二の日常は完全に崩壊していた。自室の机に飾られた、息を呑むほど美しい満開の桜。それを見つめるたびに、あの美術室での住雪の姿がフラッシュバックする。そして同時に、心臓がうるさいほど脈打つのだ。
(いや、ない。ないないない)
ベッドにひっくり返り、雄二は枕に頭を埋めて悶絶した。好きかもしれない。舞田住雪のことが。あの、恐ろしく沸点の低い男のことが。
(冷静になれ)
そう自分に言い聞かせるが、思い返せば、吊り橋から降りたはずの自宅でも、授業中でも、気づけば彼のことばかり考えている。
これまで「技術を盗むための観察」だと言い訳していた全ての行動が、別の意味を帯びて脳内で再翻訳されていく。髪をかき上げる仕草。絵の具のついた指先。夕日に照らされた細い首筋。それらを「綺麗だ」と思ったあの感覚は、表現者としてではなく、ただの熱い視線だったのではないか。
(いや待て、仮に百歩譲って俺の脳がバグってるとして、相手はあの舞田住雪だぞ)
関わる人間がみんな逃げ出していく、学校一の問題児だ。実際に雄二もこめかみを負傷したことがある。普通ならトラウマで不登校になってもおかしくない相手だ。そんな奴を好きになって、一体どうしろというのか。付き合ってデートでもするのか。そもそも、少しでもそんな気配を察知された瞬間、今度こそ喉元を掻き切られるかもしれない。
雄二は顔を覆った。放課後、どんな顔をして美術室のドアを開ければいいのか、さっぱり分からなかった。
六、苺枝と住雪
窓から差し込む夕日が床のワックスに反射して、妙に眩しい。
雄二は美術室へ向かう足を止め、誰もいない廊下の窓辺で頭を抱えていた。
(男相手に変なドキドキがするのは、住雪の顔が中性的だからだ。そうだ、それしかない)
雄二は自分の天才的なひらめきに、心の中で激しく指を鳴らした。
住雪は細身で、狂気的な鋭さはあるものの、どこか少年とも少女ともつかない中性的な顔立ちをしている。要するに、脳が勝手に女子要素を検出して勘違いしたに違いない。
「……何、一人でニヤニヤしてんの。気持ち悪い」
低くも高くない、聞き覚えのある声が、静かな廊下に響いた。雄二は文字通り飛び上がった。
心臓が口から飛び出るかと思うほどの衝撃とともに振り返ると、そこには緑色の『保健委員』の腕章を巻いた、舞田苺枝が立っていた。手には救急箱を抱え、冷ややかな、けれどどこか憂いを帯びた瞳でこちらを見下ろしている。
「ま、舞田……の、妹のほう!」
「苺枝。……何、そのあからさまに動揺した顔」
苺枝は不審なものを見るように眉をひそめた。それは、美術室で住雪が見せた、あの呆れ顔と、骨格もパーツもまったく同じものだった。同じ声質。同じ顔。なのに、苺枝からは住雪のような中性的な危うさは感じられない。ただの、どこにでもいる少し大人びた女子高生だ。
(……終わった)
同じ顔の女子が目の前にいるのに、住雪の呆れ顔を見たときのような、あの胸が締め付けられるような感覚が、苺枝に対しては一切湧いてこない。便利な言い訳が、同じ顔をした「本物の女子」の登場によって、一瞬にして木っ端微塵に打ち砕かれた。
呆然と苺枝を見つめながら、雄二の脳裏にふと、別の疑問が湧き上がっていた。
(そういえば……住雪のやつ、妹のこと、一言も話したことねぇな)
毎日放課後、二人きりの美術室で、住雪の口から語られるのはいつも絵のことばかりだった。稀に私生活の愚痴のようなものを溢すことはあっても、そこに「苺枝」という肉親の存在がのぞいたことは、ただの一度もない。
二十四時間、ほぼすべてを製作に捧げているあの怪物。彼のあの底のない瞳には、同じ家で暮らし、同じ顔を持って生まれたはずの双子の妹すら、背景の壁と同じように映っていないのだろうか。逆に、苺枝の方はあの日、保健室で『あいつの周り、みんな居なくなるの』と、すべてを諦めたような目で兄を評していた。
「……何? 人の顔じっと見て」
怪訝そうに首を傾げる苺枝の声で、雄二はハッと我に返った。
「なぁ。お前と住雪って、家ではどんな感じなの?」
唐突な質問に、苺枝は一瞬だけ、カゴの中の薬品瓶を整理する手を止めた。けれどすぐに、いつも通りの淡々とした、どこか冷めた横顔に戻る。
「どんな感じって言われても。お互い、空気だと思ってるよ。同じ家にいるけど、もう全然口利いてないし」
「……口、利かない?」
「うん。あいつ、いつ頃からだったか忘れたけど、急に私のこと無視するようになったんだよね」
苺枝は、まるで隣町の天気予報でも話すかのような、抑揚のない声で言った。いつ頃だったか。住雪が、狂ったように寝食を忘れて絵を描き始めるようになった時期と、それは重なるのだろうか。
「急に、って、何か理由とか……」
「……たぶん、父親のせい」
苺枝の視線が、カゴの中の薬品瓶へと落とされる。その瞳に、いつも以上の深い憂いが差した。
「うちの父親、男にだけ異常に厳しくてさ。兄貴への当たり、昔から本当に酷いんだよね。だからあいつ、その鬱憤を全部絵にぶつけてるんだと思う」
静かな廊下に、苺枝の冷え切った声だけが響く。
「あいつ、元々かなり気難しい性格だけど……前は、私にはまだそれなりに優しかったんだよ。お菓子半分くれたりとか、その程度だけどね。でも、年々荒れてきて……気づいたら、私のことも完全に空気扱い」
苺枝はふっと、自嘲気味に、けれどどこか寂しげに唇の端を上げた。
「まあ、嫌われてるなら好都合だけどね。あんなのに巻き込まれたら、こっちの生活までめちゃくちゃにされるし」
ひとしきり話し終えると、苺枝は薬品のカゴを抱え直して、じっと雄二の顔を見た。その表情に、少しだけ柔らかい色が混ざる。
「……もしかして心配してくれてる?」
「え? あ、いや……」
「優しい、っていうか……変わってる」
苺枝は小さく笑った。その笑顔もやっぱり住雪にそっくりなのに、そこにある温度はまったく違っていた。
「美術部も、まだ続けてるらしいじゃん。あいつのせいで怪我までしたのにさ。……あんまりずっと部室にいないで、たまには早く帰れば?」
「あー……まあ、そうなんだけど」
言い淀む雄二に、苺枝は「ねえ」と廊下の先を顎で示した。
「私、今日の委員の仕事これで終わりだから。その、一緒に帰らない?」
そう言って、夕日を背に浴びた彼女が、ふっと雄二から目を逸らす。雄二は思わず、物理的に半歩後ろへさがった。喉の奥がヒュッと鳴るほどにぎょっとしたのだ。あまりに予想外すぎる展開と、その生々しい距離感の近さに、背中に嫌な汗がじわりと滲む。
(どういう空気だこれ)
同じ顔、同じ声の舞田が、自分に向かって放課後のデートのような誘いをかけてきている。もし目の前にいるのが住雪なら、絶対にあり得ない展開だ。普通なら、ここで心臓を跳ね上がらせて顔を赤く染めるのが正しい反応なのだろう。
だが、雄二の脳内を埋め尽くしたのは、甘酸っぱいときめきなどでは断じてなかった。彼女の好意を受け止めるスペースが、雄二の心には残っていなかった。
「……ごめん」
雄二は、喉の奥から絞り出すように言った。
「俺、やっぱり、まだ部活行ってくるわ」
「……そっか」
苺枝はそれ以上引き止めず、少し悲しそうに肩をすくめると、「じゃあね」と歩き出した。残された雄二は、遠ざかる彼女の足音を背中で聞きながら、自分のパニックを振り払うように、住雪の待つ美術室へと走り出していた。
七、スケッチブックの中身
美術室の引き戸を開けたが、中には誰もいなかった。夕日が差し込む室内はしんと静まり返っており、壁の時計の秒針の音だけがやけに大きく響いている。
住雪の席には、描きかけのキャンバスやパレット、画材がそのまま残されていた。便所にでも行っているのだろうか。主を失った丸椅子の横には、彼の荷物が床へ置かれている。
(……あ)
雄二の足が、ピタリと止まった。住雪のスクールバッグの口から、一冊のスケッチブックがはみ出ていた。あの日、住雪に猛獣のような血走った目で睨まれ、「勝手に触るな!」と丸椅子を振り下ろされる原因となった、あの曰く付きのスケッチブックだ。
あのときは、本当に棚から落ちそうになったのを直感的に支え、表紙に『触れた』だけだった。中身なんて一ページどころか、一ミリも見ていない。住雪だって、雄二が中身を見ていないことくらい分かっていたはずだ。それなのに彼は、「触った」というその一点だけで狂い、雄二を思い切り突き飛ばした。
(──見たい)
ずっと、その気持ちはあった。住雪のプライベートなスケッチブックに、一体どんな世界が、どれほど凄まじい『美』が眠っているのか。彼の絵の重度なファンとして、中身への興味は最初から狂いそうなほどあった。そして、今のこの渇きは、それだけじゃない。
『急に私のこと無視するようになったんだよね』
『うちの父親、住雪への当たり、昔から本当に酷いんだよね』
廊下で聞いた苺枝の言葉が、今も胸の奥を激しく揺さぶっている。雄二は、あの理不尽で、空っぽで、キャンバスにしがみつく舞田住雪という人間そのものに、狂おしいほど興味を持ってしまっている。
(俺なら、絶賛する。絶対に、全部を素晴らしいって言ってやる自信がある)
学校に持ってきているのだから、そこまで突飛なものは描かれていないかもしれない。だが、仮にこのスケッチブックを開いた先に、常人には見せられないような、どす黒い鬱憤や、狂気じみたアレな絵ばかりが並んでいたとしても。世界中の誰もが引いて彼を拒絶したとしても、自分だけはあの凄まじい筆致の虜であり、それを全肯定する最初の人間になれる。
その自負が、雄二の背中を強烈に押し上げた。住雪がいつ戻ってくるか分からない。もし見つかれば、今度は丸椅子じゃ済まない、本当に殺されるかもしれない。バクバクと暴れる心臓を抑えつけながら、雄二は音を立てないよう、ゆっくりと、そのスケッチブックへと手を伸ばした。
手が、震えていた。ページの端に指をかけ、音を立てないように、そっと表紙をめくる。中に何が描かれていようと、全部を受け止めて絶賛してやる。そう意気込んでいた雄二の視界に飛び込んできたのは──予想していたような絵では、断じてなかった。
めくっても、めくっても。
そこに描かれていたのは、無数の、ありとあらゆる『舞田苺枝』の姿だった。ノートの余白を埋め尽くすように、執念深く、けれど恐ろしいほどの熱量と精密さで描き込まれた妹のデッサン。笑っている顔、退屈そうに頬杖をついている顔、教科書を読んでいる横顔、髪を結い直す一瞬の仕草。
まだ住雪が妹に優しかった頃の記憶なのか。それとも、家庭内で無視し合うようになってからの、盗み見るような視線なのか。剥き出しの執着と、狂気とも言える歪んだ愛情が、紙の上に生々しくのたうち回っている。
(……これ、は)
既視感が、津波のように雄二の脳髄を襲った。
数日前、この美術室で、住雪の背中を盗み見ながらさらさらと鉛筆を走らせた、あの放課後。
切り揃えられた黒い前髪、涼しげな目鼻立ち、綺麗な指先のライン。髪の毛一本、まつ毛の長さ一つまで愛おしむように、自分の本気のデッサン力で男の横顔をノートに落とし込んでしまった、あの時の自分の姿。あの狂おしいほどの熱、自分の脳のネジが外れてしまったのだと頭を抱えた、あの最悪の自覚。
「あいつ、何でこんなの持ち歩いてるんだ……?」
鳥肌が止まらなかった。ぞっとするような戦慄と同時に、頭を殴られたような混乱が雄二を襲う。
『急に私のこと無視するようになったんだよね』
さっき廊下で聞いた苺枝の声が、頭の中でリフレインする。無視しているというか、逆だ。あまりにも巨大で、歪で、まともな人間関係としては成立させられない激情が、そこにはあった。
(……妹のことが、好──)
そこまで考えかけて、雄二は自分の思考のあまりのグロテスクさに吐き気がした。
その時、廊下から、聞き覚えのある足音が近づいてくるのが聞こえた。最悪の事態だけは、本能が察知していた。
(バレたら、死ぬ)
雑にページを閉じ、はみ出ていた通りにスクールバッグの口へスケッチブックを押し込む。心臓が肋骨を内側から破りそうなほど激しくのたうち回っていた。足音が、美術室のすぐ手前まで迫っている。
雄二は自分の荷物を持ち、グラウンドに面したベランダの非常扉へと飛びついた。ガタリと大きな音を立てて鍵を開け、外へ滑り込む。直後、背後で美術室の引き戸がガラガラと開く音が響いた。
冷たい夕方の風が、汗ばんだ顔を叩く。
雄二は外階段を駆け下りた。
八、沈む橋を渡る
命からがら学校を脱出し、夕闇が迫る家路を、雄二はただ足元だけを見つめて歩いていた。視界の端で街灯が灯るが、脳内の混乱は一向に収まらない。
(とんでもない奴を、好きになっちまった……)
両手で顔を覆い、歩道で盛大にため息を吐き出した。
好きだ、という自覚。それがよりによって、あの男。狂っている。自分の脳のネジの飛び方も、大概だ。
(いや、でも……見てはいけないものだったけど、逆に、見て正解だったかもしれないな)
そうだ。もし中身を見ずに自惚れたまま、あの美術室に、あの男の斜め後ろに居座り続けていたら。それこそいつか、手酷い破滅を迎えていたはずだ。彼の檻の中には、最初から誰一人として入れるスペースなどない。それをあの生々しいスケッチブックが、残酷なまでの明確さで教えてくれた。
(冷静に考えてみろ。あいつに関わるなんて、面倒にもほどがあるだろ)
仮に、この好意が奇跡的に実を結ぶ世界線があったとして、その先に待つものを想像する。
(機嫌が悪ければ物が飛んできて、家では父親からの抑圧に耐え、内面では妹への執着を煮詰めている男だぞ。付き合ってデートをする? 悩みを分かち合う?)
笑えない冗談だった。関われば関わるほど、自分の人生まで泥沼に引きずり込まれて、ボロボロにされる。苺枝の警告は、寸分の狂いもなく正しかったのだ。
表現者としてのリスペクトは消えない。彼の生み出す色彩は、今でも脳髄が震えるほど美しいと思っている。けれど、人間・舞田住雪は、あまりにも重くて、致命的にめんどくさい。
(もう、辞め時なのかもしれない)
あの美術室に通うのを辞めれば、すべては元の、まともな日常に戻るはずだ。
(関わるだけ無駄だ。諦めるべきだ)
頭の中の冷静な自分が、何度も何度もまっとうな正論を並べ立ててくる。なのに、雄二の心は、そんな引き留めをことごとく無視した。目を閉じれば、夕日の美術室に佇む彼の細いシルエットが、あの過剰なまでに美しい色彩が、網膜の裏に焼き付いて離れない。諦めようと考えれば考えるほど、逆に彼への想いが、自分の輪郭をじわじわと侵食していくのが分かった。
今日何度目か分からないため息を吐きながら、雄二は通学路の途中にある沈下橋に差し掛かっていた。欄干のない、コンクリートが剥き出しになった頼りない橋だ。増水すれば水面下に沈んでしまうその場所は、今の自分の足元のおぼつかなさとシンクロしているように思えた。視線を落とし、ただ自分の靴先だけを見つめながら、一歩、一歩と橋を渡っていく。
その、橋の真ん中辺りにさしかかった時のことだった。不意に、視界の端に影が滑り込んできた。遮るもののない橋の途中で、川面を見下ろすようにして、ぽつんと佇んでいる細いシルエット。雄二の足が、凍りついたようにピタリと止まった。喉の奥が干からびたように締まり、嫌な音を立てて心臓が跳ね上がる。
見間違うはずがなかった。夜風に冷たく揺れる、切り揃えられた黒髪。
舞田住雪が、そこに立っていた。
九、溺れる者は
住雪はポケットに両手を突っ込んだまま、微動だにせず、ただじっと暗い川面を見つめていた。周囲の闇を吸い込んだようなその横顔は、今にも夜に溶けて消えてしまいそうなほど静かで、そして──雄二の目には、残酷なまでに、綺麗に映った。
雄二が息を呑んだ、そのわずかな気配を察したのだろうか。住雪の首が、ゆっくりとこちらへ回った。夜の沈下橋、欄干のないコンクリートの平坦な道。その上で、二人の視線がぶつかり合う。張り詰めた沈黙を破ったのは、住雪の、いつもと変わらない抑揚のない声だった。
「お前、見たろ」
心臓が冷水に浸されたように冷え切った。住雪の目が、薄闇の中で獣のように据わっている。
「え、あ、何のこと、だよ……」
「とぼけんな。新しく描いたページの絵の具が擦れてた。明らかに俺じゃない指の跡だ!」
ポケットから抜かれたその両手には、何も握られていない。けれど、夜の闇を身にまとったシルエットが、おぞましい勢いで一気に距離を詰めてくる。バタバタという足音すらしない。ただ、彼が動いた瞬間、夜風の温度がガリリと削れるような、圧倒的な殺気が肌を突き刺した。
ヒッ、と雄二の喉奥で短い悲鳴が爆ぜる。怨霊のような執念で雄二を追ってきたのだ。
「待て、住雪、悪かった! 出来心だったんだ、誰にも言わない、本当に──」
言い訳を掻き消すように、住雪の顔が目の前に現れた。あまりの至近距離。網膜に飛び込んできた彼の顔には、怒りも、憎しみも、人間らしい感情が何一つ浮かんでいなかった。完全に、狂っている。鼓膜が震えるほどの衝撃とともに、胸ぐらを強烈な力で掴み取られた。
「触るな、見るなと言ったはずだ」
耳元で囁かれた声は、冷たい。住雪の細い身体のどこにそんな怪力があるのか、雄二の身体は抵抗する間もなく、紙切れのように後方へと押し込まれた。ずるり、と靴底がコンクリートの端を滑る。そのすぐ後ろには、すべてを飲み込む漆黒の川面が口を開けて待っていた。
「おい、やめっ、落ちる、落ちるから!」
住雪の瞳には、一ミリの躊躇も、躊躇うための光もなかった。そのまま、全体重をかけるようにして、雄二の身体を橋の縁から外へと突き出す。視界がぐにゃりと反転し、夜空と暗い水面が混ざり合う。
(死ぬ──!)
雄二はなりふり構わず、自分を見下ろす住雪の服の襟元を、両手で引きちぎらんばかりの力で掴み取った。薄闇の中で、住雪の顔が初めて驚愕に歪む。雄二に掴みかかられ、想定外の質量で引っ張られた住雪が、自らその手を離し、後ろに大きくよろめいた。欄干のない、コンクリートの端の、さらに先へと。
反動で、雄二の身体は橋の固い床へと無様に叩きつけられた。視界の端で、住雪の華奢な身体が、重力に従ってあっけなく宙へ投げ出されるのが見えた。夜の静寂を切り裂くような、巨大な水飛沫の音が響く。
橋の上に這いつくばったまま、雄二は激しく咳き込み、慌てて縁から下を覗き込んだ。暗い川面のどこかで、水に溺れるような鈍い音が聞こえる。最初、雄二は、すぐに泳いで上がってくるだろうと思っていた。だが、水を打つ音が、明らかに異常だった。水面に上がっては、すぐに沈む。不規則で、激しい音。
(……嘘だろ。こいつ、泳げないのか)
冷酷だったあの瞳が、今は恐怖に大きく見開かれ、暗闇の水面で必死に虚空を掴もうともがいている。
「住雪!」
雄二はコンクリートの縁に腹ばいになり、限界まで身体を乗り出して、下へと右手を伸ばした。川面までは距離がある。届かない。雄二がさらに上体を乗り出した瞬間、住雪の、水に濡れて凍えるように冷たい指先が、雄二の手首をがちりと掴んだ。
---
雄二は全身の筋肉を軋ませ、住雪の手首を引っ張り上げた。濡れた衣服の重みがずっしりと腕にかかる。橋の縁に擦れる鈍い音とともに、住雪の身体がずるりと橋の上へ引きずり戻された。二人はそのまま、沈下橋に無様に転がり込んだ。
住雪は這いつくばったまま、激しく水を吐き出し、肩を大きく上下させて喘いでいる。黒髪は額にべったりと張り付き、水浸しの顔が哀れに歪んでいた。それを見下ろした瞬間、雄二の頭の中で、張り詰めていた何かが「ブツン」と大きな音を立てて弾け飛んだ。
「──ふざけんな!」
殺されかけた恐怖、全力の逃走、そしてこの救出劇。怒涛の流れが、一気にとてつもない怒りへと変換される。
「泳げないなら、こんなとこで突っかかってくんじゃねえよ! バカじゃねえの⁉︎ ああ⁉︎ もし俺が手を離してたら、お前今頃マジで沈んで死んでただろ!」
声を荒らげる雄二の横で、住雪はまだ激しく咳き込んでいる。けれど、雄二の怒りは止まらない。溜め込んでいたすべてをぶちまけるように、言葉が口から溢れ出た。
「あのスケッチブックを見たのは悪かったよ! 出来心だったんだよ! でも、だからって本気で人を突き落とそうとするか普通⁉︎ 自分のことなんだと思ってるんだよ、化け物かよ! 狂ってるのも大概にしろ!」
一気にまくし立て、雄二は肩で息をした。はぁはぁと荒い呼吸を繰り返しながら、濡れネズミのようになって震えている住雪をキッと睨みつける。いつもなら、ここで苛烈な報復が帰ってくるはずだった。だが、違った。住雪はコンクリートに両手をついた姿勢のまま、小さく身体を震わせていた。
そして、ゆっくりと持ち上げられたその顔を見て、雄二は言葉を失った。住雪の瞳が、見たこともないほど潤み、大粒の涙を湛えていた。切れ上がった目元が赤くなり、濡れた睫毛の隙間から、今にも零れ落ちそうな涙がきらきらと光っている。怒りと恐怖で獰猛だった猛獣の気配は、完全に消え去っていた。
そこにいたのは、秘密のを暴かれ、命の危機に晒され、ただただ恐怖に震えている、信じられないほどに脆い人間だった。
(いや、なんでお前が泣いてんだよ)
さっきまで怒髪天を突く勢いだった雄二の脳内は、目の前のあまりにも予想外すぎる絵面を前にして硬直した。心臓が、さっきの恐怖とは全く違う、おそろしいほどの速度で鐘を打ち始める。
(泣きたいのは、こっちだろ……)
関わるのは面倒にもほどがある。そう頭で理解したはずなのに、夜風に吹かれてガタガタと震え、涙を溜めている彼を見ていると、突き放すことができなかった。
「……はぁ。もういい」
雄二は頭をガシガシと掻きむしり、完全に白旗を揚げた。なんだかんだ言っても、雄二はこの男に甘かった。自分が着ていた制服のブレザーを脱ぐと、住雪の頭からバサッと乱暴に被せる。
「ほら、お前、細いんだからすぐ風邪引くぞ」
「……お前のだろ。気持ち悪い」
住雪は上着の下から、まだ潤んだ目でフイと顔を背けようとした。だが、その声にはさっきまでの冷徹な拒絶の威力はなく、どこか強がっているだけの子供のようだ。ブレザーの袖で、顔に滴る水を不器用そうに拭っている。
「お前な、助けてもらった人間に向かって気持ち悪いとは何だ。いいから大人しくしてろ。……ほら、立てるか? 早く帰らねぇと」
雄二は手を貸そうとする。住雪はブレザーの裾をぎゅっと両手で掴み、縮こまるようにして身を小さくしたまま、ぽつり、と呟いた。
「……らない」
「え?」
「このまま、帰ったら……」
その声は、ガチガチと噛み合う歯の音の隙間から漏れ出た、本物の恐怖に怯える響きだった。
「……ああ、なんかお前の家、お父さんが厳しいんだっけ?」
その問いかけを、住雪は否定しなかった。
雄二は住雪の前にしゃがみ込み、視線を合わせる。
「じゃあさ、俺んち、来いよ。風呂貸してやるし、服も乾かしてやる」
住雪はタオルのように被ったブレザーの隙間から、信じられないものを見るような目で雄二を見つめた。
「……なんで」
「さぁな。俺が頭おかしいからじゃねぇの」
自嘲気味に笑って、雄二は住雪の細い肩を抱くようにして立ち上がらせた。
住雪は一瞬、身を硬くしたものの、それ以上は拒絶する気力もないのか、雄二の体温にすがるようにして静かに体重を預けてきた。
十、甘い静寂
幸い、雄二の家は沈下橋から歩いて十分ほどの距離にあった。住宅街の路地を抜け、玄関の鍵を開けて住雪を中に滑り込ませる。静まり返った家の中には、まだ誰も帰っていない。
「ほら、上がれ。床濡らしてもいいから、とりあえず洗面所いこうぜ」
玄関で、住雪は雄二のブレザーを羽織ったまま、所在なさげに立ち尽くしていた。いつもなら他人の領域など意にも介さないはずの男が、借りてきた猫のように縮こまっている。
雄二は手際よく浴室の給湯ボタンを押し、脱衣所の棚から大きめのバスタオルと、自分のスウェットの上下を引っ張り出した。
「悪い、服これしかなくて。ちょっとデカいと思うけど」
差し出された衣服を、住雪は濡れた指先で受け取った。その拍子にブレザーが肩から滑り落ち、水を含んで肌に張り付いた制服のシャツが露わになる。浮き出た鎖骨のライン、寒さで白くなった肌、線の細さが心臓に悪い。雄二は慌てて視線を逸らした。
「じゃ、俺、キッチンでなんか温かいもん淹れてくるから。風呂、浸かってこいよ」
住雪は何も言わず、ただバスタオルを胸元で小さく抱きしめたまま、コクンと一度だけ頷いた。その長い睫毛は、まだ微かに湿っている。
引き戸を閉め、雄二はキッチンへと向かった。まずは住雪の濡れた制服を洗濯機に放り込み、脱水にかける。それから浴室から聞こえてくるザァーッというお湯の音を背中で聞きながら、マグカップを二つ用意した。
(……何やってんだろ、俺)
やがてお湯の音が止まり、しばらくして脱衣所の引き戸が静かに開く音がした。
「……おい」
リビングのドアから、ひょっこりと顔を覗かせた住雪を見て、雄二は思わず吹き出しそうになった。
案の定、雄二のスウェットは住雪の細身の身体には大きすぎた。首元は緩く鎖骨のあたりまで広がり、袖口からは指先が少し覗いているだけだ。ズボンの裾も完全に余って足の甲を覆っている。おまけに、いつもは鋭く切れ上がっている目が、お風呂の熱気で少しとろんとしており、髪も水分を含んでいつもより柔らかそうに跳ねていた。
「なんだよ、やっぱりぶかぶかじゃねぇか。裾、踏んで転ぶなよ」
「お前がデカすぎるんだ」
住雪は不機嫌そうに視線を泳がせながら、のそのそとリビングに入ってきた。雄二に促されるまま、ソファの端に腰を下ろす。
雄二は温かいココアの入ったマグカップを、住雪の目の前に置いた。
「ほら、飲め」
住雪はぶかぶかの袖から不器用そうに手を出し、マグカップを両手で包み込むようにして持った。立ち上る湯気をじっと見つめ、それから、ゆっくりと口をつける。
静まり返ったリビングに、時計の秒針の音と、二人が温かい飲み物をすするかすかな音だけが響く。学校でも、あの二人きりの美術室でも、絶対にあり得なかった、奇妙なほどに穏やかで、そして甘やかな時間が、二人の間に流れ始めていた。
十一、恋と証明の果て
住雪の身体もすっかり温まり、リビングの空気も少しずつ和らいできた。ココアのカップを置いた住雪の横顔には、いつもの冷淡さがほんの少しだけ戻りつつある。
それを見て安心したのか、雄二の胸のうちに、本来の『表現者としての熱』がムクムクと頭をもたげてきた。
「ちょっと待ってろ」
雄二は自分の部屋へ駆け上がり、大切に保管していたあの『幸せそうな絵』──満開の桜の花見の絵と、自分が最近描いた自信作のスケッチブックを抱えて戻ってきた。テーブルの上に、それらを並べて広げる。
「ほら、これ。お前がくれた絵、ガチで毎日眺めてるんだけどさ。……やっぱり、何度見ても異次元だわ」
雄二の言葉に、住雪の視線が自分の描いたキャンバスへと向けられた。住雪は何も言わない。けれど、雄二は構わず、その絵がどれほど素晴らしいかを熱っぽく語り始めた。
「ここの光の捉え方とか、パレットでどう混色したらこの透明感が出るのか、見れば見るほど勉強になる。あの日からずっとお前の描き方を思い出して練習してたらさ、ほら、見てくれよ」
雄二は自分のスケッチブックを開いて、住雪に見せた。
「俺のデッサン、前より明らかに線の迷いがなくなっただろ? 色の置き方も、お前の斜め後ろで盗んだ技術を意識してみたら、空間の奥行きが全然違ってきたんだ。ほら、ここなんか──」
語るうちに、雄二の声には純粋な喜びと熱量が籠もっていった。恐怖を乗り越え、この怪物の隣に居座り続けた結果、自分の画力が確実に上がっている。その事実が嬉しくてたまらなかったのだ。
──だが。
「……お前、本当に、誰にも言わないか」
地を這うような声。
住雪のぶかぶかの袖から伸びた手が、雄二のスケッチブックの端を、ミリ、と音を立てて強く掴んだ。
「なっ……」
雄二の言葉がピタリと止まった。
川へ落とそうとした時の衝動的な怒りとは違う。もっと冷徹で、逃げ場のない、本気の脅迫がそこにあった。
「もし、あの中身のことを一言でも誰かにしゃべったら……」
住雪の視線が、雄二がさっきまで熱弁していた『幸せそうな絵』──満開の桜の花見の絵へと落とされた。そして、その美しい画面の縁を、爪が白くなるほどの力でギリギリとおしつける。住雪自身の指の力で、キャンバスの木枠がみしり、と不穏な音を立てた。
「おい、やめろ、絵が」
住雪の冷酷な言葉よりも先に、雄二の口から悲鳴に近い声が出た。自分自身への攻撃よりも、目の前でその美しい色彩が、キャンバスの布地が、描いた本人の手によって歪められ、傷つけられそうになっていることの方が、雄二にとってはよっぽど耐え難い恐怖だった。
「バラしたら殺す」
リビングに、住雪の冷え切った脅し文句だけが、ナイフのように突き刺さる。住雪の爪がキャンバスの絵の具に食い込みそうになるのを見て、雄二は思わず住雪の両手首をがっしりと掴み取っていた。
「分かった、分かったから手を離せ。 誰にも言わねぇよ、約束する、だからその絵を雑に扱うな」
じわり、と住雪の瞳の奥に、冷酷な侮蔑の色が戻ってくる。
「信じない」
住雪は雄二に掴まれた手首に力を込める。風呂上がりで温まっていたはずのその肌が、今はまるで行き倒れの死体のように冷たく感じられた。
「そうやって口では何とでも言う。約束なんて、ただのその場しのぎの嘘だ」
住雪の言葉には、他者への絶対的な、根深い不信が張り付いていた。
「俺は、お前を絶対に信用しない。すぐに裏切って面白おかしく言いふらすに決まってる」
「はぁ⁉︎ 誰がそんなこと──」
「だったら、なんであんなものを見たお前が、今も俺の隣にいるんだよ!」
住雪が鋭く叫んだ。潤んだ瞳が、憎悪と恐怖の混ざり合った視線で雄二を射抜く。
「気持ち悪いんだよ。俺の絵の技術が欲しいからか? 弱みを握って優位に立ちたいからか? ……理由なんてどうでもいい。お前が俺を裏切らないっていう証拠なんて、どこにもない」
そう言って、住雪はキャンバスの縁からようやく手を離すと、ぶかぶかのスウェットの袖で、自分の口元を乱暴に拭った。まるで毒を拭い去ろうとするかのように。彼は、本当に誰も信じていない。心は完全に閉ざされ、狂った執着の殻の中に閉じこもっている。しかし、その姿さえ、雄二の目には愛おしく映った。
---
(信じない、か)
目の前で、鋭い牙を剥いて威嚇する住雪を見つめながら、雄二は必死に思考を巡らせた。どうすればいいのか。どうすれば、この絶対に他人を信じない怪物を、納得させられるのか。この歪んで、狂って、孤独のなかで震えている才能の塊を、ここで手放すわけにはいかない。住雪に「雄二は裏切らない」と確信させる、絶対的な『何か』が必要だった。
だが、どれだけ考えても、そんな都合のいいネタは転がっていなかった。ここにあるのは、ただの、住雪という男の重度のファン。彼の描く世界に魅了され、殺されかけてもなお、その身体を抱きしめるようにして助け出してしまった、頭のイカれたファンが一人。
(……いや)
もう、それしかない。
「……なぁ、住雪」
雄二はふっと肩の力を抜くと、住雪の手首を掴んでいた手の位置をずらし、その冷たい手の甲を、包み込むようにして自分の両手で握り締めた。
「──っ、離せって」
「離さねぇよ」
驚いて身を引こうとする住雪の身体を、雄二は逃がさなかった。ぐっと距離を詰め、ぶかぶかのスウェットの襟元から覗く、その白い首筋に視線を固定する。
「お前さ、なんで俺が隣にいるのか、本当に分かってねぇだろ」
「……は?」
雄二は自嘲気味に、けれど、これまで隠し持っていたすべての熱量を瞳に宿して、住雪を見据えた。
「俺さ、お前のことが好きなんだよ」
住雪の思考が、完全に停止したのが分かった。いつも冷徹に他人の悪意を見抜くその瞳が、生まれて初めて「理解不能なもの」を見たかのように、大きく、丸く見開かれる。
「お前、……何を、言って」
呆然と唇を震わせる住雪の言葉を、雄二は最後まで言わせなかった。
「好きな奴の秘密を、わざわざ他人に言いふらす馬鹿がどこにいるんだよ」
そのまま、住雪の後頭部を引き寄せ、その冷たい唇に、自分の唇を強く押し当てた。衣服の擦れる音が、静かなリビングにやけに大きく響く。住雪の身体が、ビクリと跳ねる。ぶかぶかの袖の中から覗く指先が、拒絶なのか、それともパニックなのか、雄二の胸元を不器用につかみ、押し返そうと微かに力を込める。
けれど、雄二はびくともしなかった。頭の芯がジリジリと焼けるような、強烈な情熱と衝動。自分を殺そうとした怪物の唇を奪っているという、狂った高揚感が確かにそこにはあった。
(……あぁ、なんだ)
満足感の後、その熱は呆気ないほど急速に、引いていった。あとに残ったのは、乾いた手応えのなさだった。生身の人間を抱いているという現実だけが、雄二の頭を冷徹に冷やしていく。何かが決定的に足りないという確信を覚えた。
ゆっくりと唇を離すと、住雪の息が、小さく「ひゅう」と震えて漏れた。潤んだ瞳は激しく揺れ、雄二を見つめたまま、言葉を失ってカタカタと震えていた。風呂上がりだというのに、その顔面はみるみるうちに土気色へ、どこか青い顔へと変わっていく。そして、この世の終わりほどに汚らわしいものを見る目で雄二を睨み据え、激しく拒絶の声を絞り出した。
「……きっっっっしょ」
雄二の表情からスッと微笑みが消え、完全にいつもの、素のトーンに戻った。
「妹が好きな奴に言われたくねーよ」
最大級のカウンターを食らった住雪は、今度こそ絶句した。掴みかかろうとしたのか、ぶかぶかの袖を振り回そうとして、余った裾のせいで座卓の角に思いきり膝をぶつけている。「痛っ……」と呻いて膝を抱える姿には、かつて美術室で雄二を圧倒したあの支配者の面影は、もうどこにも残っていなかった。
「あーあ、せっかく人がかっこよく告白してやったのに。ほら、ココア冷めるからさっさと飲め。それ飲んだら、お前の制服乾いてるか見てきてやるから」
「……いらない。毒が入ってる」
「入れるかボケ。いいから飲め」
十二、絵か恋か
雄二が美術室の引き戸を開けると、普段と変わらない西日が差し込んでいた。昨日、沈下橋で死にかけ、家で最悪な牙を剥き合ったことなど、夢だったのではないかと思えるほどに、静かで、平穏な放課後。
住雪はいつも通り、キャンバスに向かって筆を動かしている。雄二の気配にピクリと肩を揺らしたものの、住雪は振り返ろうともしなかった。いつも通りの、冷酷で傲慢な背中。
雄二は自分の席にはつかず、入り口の近くに立ったまま。
「住雪」
名前を呼ぶと、筆の動きがわずかに止まる。
相変わらず振り返らないその背中に向かって、雄二は、驚くほど平坦で、よく通る声を投げた。
「俺、退部するから」
「…………」
「先生にはもう退部届出してきた。だから、俺がここに来るのもこれが最後。──じゃあな」
住雪の背中が、明らかに強張ったのが分かった。彼は筆を持った手を微かに震わせ、戸惑ったように、ゆっくりとこちらを振り返った。その顔に、かつての圧倒的な支配者の余裕はない。昨日の「弱さ」を知ってしまった雄二には、それがよく分かった。雄二はふっと口元を緩める。
「お前は絶対、将来絵の仕事に就けよ。それだけの才能があるんだからさ。どうせ気が済むまで全部描くんだろ。俺も別の場所で、死ぬ気で追いついてやる」
それだけ念入りに言い残すと、雄二は住雪の返事を待つことなく、踵を返した。引き戸を閉める瞬間、美術室の奥から、住雪の焦ったような声が聞こえたが、雄二は振り返らなかった。
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放課後の廊下で、雄二は苺枝に呼び止められた。彼女はいつも通りのきびきびとした様子の中に、どこか探るような、心配そうな色を浮かべていた。
「退部したんだって?」
「おう」
雄二は何でもないことのように頷いた。苺枝は納得がいかないというように、小さく眉をひそめる。それもそうだ、突き飛ばされて怪我をしても住雪の絵に執着し、あれほど必死に彼を追いかけていた男が、あっさりと退部したのだから。
「なんで? あんなに熱心に描いてたのに。もしかして、また兄貴と何かあったの……?」
「いや、違うって。なんていうか──」
雄二は窓の外の夕焼けに視線を投げ、遠い目をした。
「……なんていうか俺は、絵を見ること以上に興奮することがない、異常者だってことが、思い知らされたというか……」
「え?」
苺枝が、本気で意味が分からないという顔をして足を止める。雄二はそれ以上言わず、ただ薄く笑っていた。
あの夜、重ねた唇の感触を思い出す。
雄二は確かに、住雪という人間を愛していた。あの狂った瞳も、怯えて震える脆さも、全部ひっくるめて愛おしいと思ってしまったのは本物だ。けれど、住雪本人への愛など、彼の絵への愛の前には霞んでしまう。
そもそも、彼という男に興味を持った最初の一歩からしてそうだった。彼の描く絵が、とんでもなく上手かったから。世界を塗り替えるような圧倒的な才能に魂を奪われたからこそ、雄二はその源泉である住雪自身にまで狂わされたのだ。
なのに、いざ唇を重ねてみれば、その肉体は驚くほど普通で、冷たくて、無力だった。神様のように崇めていた絵の神々しさに比べたら、生身の住雪なんて、ただの、ちっぽけな一人の人間に過ぎない。
(結局のところ、俺は住雪より、住雪の絵が好きだった)
だからこそ、もうあの狭い美術室で隣に並ぶ必要はなかった。
「あ、いや、とにかく住雪のおかげで絵も上達したし、もう十分かなと思ったんだよ」
雄二は取り繕うように頭をガシガシと掻いて、いつもの軽いトーンに戻した。
「それにさ、あいつの絵を一番いい特等席で見るなら、美術室の隣の席より、将来、美術館の壁のほうが相応しいだろ」
「……雄二、本当に変わってるね」
苺枝は呆れたように息を吐きつつも、雄二の表情に悲壮感がないのを見て、それ以上は追及してこなかった。じゃあね、と手を振って去っていく彼女の背中を見送りながら、雄二はふう、と息を吐き出す。
ポケットの中でスマホが震えた。取り出して画面を見た瞬間、雄二は息を呑んだ。通知欄に表示されたのは、予想もしなかった【住雪】の名前だった。
『次、お前は何を描く』
ただ、その一言だけがぽつんと送られてきていた。雄二の口元が、不敵に吊り上がる。歩きながら、画面に力強く文字を打ち込んだ。
『お前のあの桜を超えてやる。一番見たいものを言え。俺は何を描けばいい』
送信ボタンを押すと、数秒の後、スマホが短く震えた。
『描けるわけない。お前の趣味は最悪だ』
そのあとに、ぽつりと、一つの言葉が添えられていた。
『幸せな絵』
画面を見つめたまま、雄二は破顔した。
「幸せそうな絵」しか描けない怪物から突きつけられた、最大難度の課題。お前に本物の光が描けるのかという、痛烈な挑発。
胸の奥から、見たこともないような野心がふつふつと湧き上がってくる。雄二はスマホをポケットに押し込み、前を向いて歩き出した。
彼は今もあの美術室で、呪われたように、そして祝福されたように、世界で一番美しい絵を描き続けている。
〈完〉