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見ろ、ラフタ
ゲームリリース前に書いたものです。
オーブンから離れたシュウがふたたびリビングを遠くから見たときには、すでに盤上の駒はさみしい数になっていた。実力者同士の勝負は早い、とは聞いていたが、自分が相手だったときと比べると歴然としていた。
ラフタが苦しい顔をしているので、ノアが優勢なのだろう。残っている駒の数だけを見ればラフタが優勢のように見えるが、そうではないらしい。
シュウはキッチンからダイニングへ移動する。イスを一脚、拝借して、ダイニングに隣接しているリビングのテーブルの横にゆっくりと置いた。
観戦を決めたシュウはイスに腰かけて、テーブルの上にあるチェス盤をあらためて見てみた。やはり白い駒がふたつ多く残っている。だからラフタが優勢に見えるのに。
シュウはチェスをプレイすることが苦手だ。知人に誘われて覚えようとした時期はあったが、長く興味を持てず、定石を覚えないまま、駒を手放した。時が流れて、ノアに誘われたときに一度だけプレイしたが、興味がなかったことに気づかれたのだろう、二度はなかった。
しかしノアとの対局でおさらいしておいたおかげで、基本的なルールのひとつである駒の動かし方はまだ覚えていた。だから白いルークの駒が盤上の端で沈黙しているだけで生かされていないことには気づけた。
白い駒はラフタのものだ。つまりラフタが先攻だ。チェスは先攻が有利とされているのにラフタの顔はやはり苦しそうだ。
ラフタはぐうっと考えこんでいる。
ノアはただ盤面を見ている。
シュウはスコーンが焼き上がるまでの時間をつぶすために、二人の勝負をながめているだけ。
静かな時間だ。漫画や映画などではもっと声を出しているイメージが強いのだが、現実の勝負事は静かなものだ。
ついにラフタは盤面に手を伸ばす。意を決した様子でクイーンを動かして、ノアのナイトを取った。直後にノアはビショップでラフタのクイーンを取った。
明らかな駒損である。それでもクイーンを取らせないといけない理由があったのだろう。そういえばノアのナイトのすぐ近くにはラフタのキングがあったような。忘れてしまった。盤上はすでに動き出していて、ラフタのクイーンを取ったノアのビショップは、今はまったく別の場所にある。もう記憶をたどれない。
二人の手は、まるでピアノを弾くかのような軽やかな動きをしていた。たどたどしかった過去のシュウの手つきとはまったく違っており、実力の差をあらためて感じる。
駒はさらに減り、またラフタの手が止まった。
どうしてここで手が止まるのか、やはりシュウにはわからない。
自分だったらこう動くのにな、と思ったが、勝負事に口をはさんではいけないので、黙るしかない。
続く沈黙。
そのときを狙っていたのか、ノアの手が動き出した。
ノアの脇に置かれている、白い駒たち。ノアの黒い駒たちによって捕らえられた、あわれな王の捨て駒たち。
無機質な彼らのひとつを、ノアは右手の指でやさしくつまんだ。
白いポーンのまんまるな頭。胴とつながっているくびれの一部分を、人差し指の腹ですりすりとこすっている。かと思えば指は頭のてっぺんまでゆるりとのぼり、そのままなで始めた。
手の角度の関係上、人差し指でポーンの頭をなでれば、自然とポーンは親指と中指で胴体を支えられた状態で、空中で横向きに倒される。ノアはそれを手放さないまま、テーブルの上に音もなく置いた。
押し倒されたような格好になったポーンは追撃されていく。人差し指で、頭をずっとなでられて。親指と中指で、胴体を触られて。薬指で、丸くて平たい底面をなぞられている。
あまっていた小指はさすがにポーンに触れられない。だからなのか、小指は別の役割を果たしていた。
床に置かれたままの小指の先は、シュウを指していた。
それに気づいたシュウは小指を注視する。小指はシュウの視線を誘導するように、指の根元を支点に、つつつ、と移動を始めた。指の可動域内の小さな移動だった。
ピタリと止まった先を指していたものは、盤面をにらんでいるラフタだった。
ノアは明らかに、シュウにラフタを気づかせようとしていた。
最初はその意図がわからないシュウだったが、ポーンがもてあそばれていく様を観察しているうちに、じわじわと察していった。
ノアの手の中にある白いポーンは、ラフタを模したものだ。
――見ろ、ラフタ。
――俺に勝ちたいのだろう?
――勝って、俺を手に入れたいのだろう?
――ならば、ほら、考えるんだ。
シュウにはノアの声が聞こえる。
ラフタを欲しがるノアの声が。
人差し指が、ポーンの頭をよしよしとなでている。
――頭をなでてやろう。
親指と中指が、胴体をくりくりと触っている。
――体も触ってやろう。
薬指が、丸くて平たい底面をねっとりとなぞっている。
――ここからお前の中に入りたい。
小指が、ラフタそのものを指している。
――気づけ。俺も、お前を手に入れたいことに。
ポーンはラフタの白い肌によく似ていて、褐色の指先でかわいがられ続けている。
それはまるで近い未来を表しているようだった。
勝てばノアと付き合える勝負で、ラフタが勝利する未来を。
そしてノアがラフタを抱ける未来も。
これはラフタだけが得をするチェス勝負ではなかった。その事実を、意志を、ノアはシュウにも気づいてほしかったのだ。ラフタとも付き合っている、シュウにも。
そうでなければ、こんなセックスアピールをシュウにも見せつけるわけがない。
しかし、悲しいかな、かんじんのラフタは勝ち筋を探すことに夢中で、ノアの手など見ていなかった。
それはそれで勝負に真剣なのだと伝わるため、ノアは構わない様子だった。飽きずにポーンをなぶり続けている。
シュウだけが心臓を高鳴らせている空気の中。ラフタはやがてがくりと肩を落とした。
「負けました」
「ありがとうございました」
ノアの礼の言葉で勝敗は決まり、互いに握手を交わした。これも勝負の作法のひとつである。
ノアになぶられていたポーンは、いつのまにか涼しい顔をして他のポーンと並べられていた。だから結局、ラフタは最後までノアのアピールに気づけずにいた。
シュウは無意識に詰めていた息を吐いて、二人に声をかける。
「二人とも早いね。まだスコーンは焼き上がってないよ」
「そう……」
ラフタは気落ちした様子を隠さず、また盤面を見つめる。
「はあ。やっぱどうあがいてもチェックメイトされるよなあ」
「え、そうだったの?」
答えたのはシュウだった。
そう言われたのが意外だったようで、ラフタとノアはそろってシュウを見る。
「なんか勝ち筋あった?」
「勝ち筋ってほどじゃあないけど……あ、駒、動かしていい?」
「いいぞ」
ノアの許可を得たシュウは、ラフタの駒を一手進める。続けてノアの駒、ラフタの駒、と順番に動かしていく。
「こう、こう、こうして……ノアがこう動いたら」
チェックの連続の最後に、端で死んでいたラフタのルークを動かして、ノアのビショップを取った。
「ルークをバーッて動かして、キングを追い詰めていたビショップを取ったら、チェックメイトは避けられたんじゃないかなって」
ラフタは気まずそうに言う。
「あー、それね。僕も気づいてたし、たぶんノアも気づいてる」
「えっ」
「ああ。そう動いたらラフタのルークが生きてしまうから――」
今度はノアが駒を数手戻して、シュウとは少し違う手を見せていった。
「その手で誘われた場合、俺はこう動いて、ルークを生き返らせない。チェックメイトだ」
「あっ」
ラフタのキングは追い詰められた。
つまりどうあがいても、ノアのビショップに討ち取られてしまう戦況だったらしい。
シュウはしょんぼりとする。
「ごめん。素人の俺が気づけることなんて、二人にはお見通しのはずだったよね」
「うーん? それはちがうな」
先ほどまで落ちこんでいたはずのラフタだったが、気持ちを切り替えられたようで、今は元気そうだ。
「シュウがやったとおり、もっと最後まで駒を動かして、あがくべきだったな。もしかしたらワンチャン、ノアが見逃してくれたかもだし」
「そうだな。俺はチェスはうまいほうだが、プロには負ける程度の実力だ。もっと泥臭くやれば、俺を出し抜けたかもな」
ノアは最後にわざとらしく付け加える。
「ラフタはもっと可能性を……周りを見るといい。気づけるものも、気づけなくなる」
「うわー! 痛い言葉だな!」
本当に、痛い言葉だ。
もっと周りを見ていれば、ノアの心に気づけたかもしれないのに。
「とりあえず、お互いお疲れさま、だ。感想戦はするか?」
「今日はいいや」
「したほうがいいのだが。まあ、最後に少しだけやったから、もう別にいいか」
そう締めくくったノアはチェスを片付け始める。シュウとラフタも手伝おうとしたが、ノアに「敗者と観客はやらなくていい」と一刀両断されたので、手を引っこめた。
手持ち無沙汰になったラフタは腰を浮かせて、まだイスに座ったままのシュウのひざにまたがった。
「シュウ! 僕、負けたけどがんばったよ! ごほうびのキスをちょうだい!」
「う、うん。いいよ」
歯切れ悪くも許可した瞬間、ラフタはシュウに口付けた。
うすい肉をこすり合わせる程度の、軽いものだ。ラフタはもう少し深くを欲しがっていたが、ノアの心に気づいた手前、今だけは遠慮したい。
ノアだって本当はラフタが欲しいのに、チェスの賞品にしたせいで、キスすらできずにいるのだから。
やや強引にキスを打ちきる。ラフタは不満そうだ。
「もうちょっと欲しい!」
「ごめんね。これ以上はノアに悪いから」
「どう悪いのさ。なあノア! 僕たちがいちゃついたって、別にいいじゃん!?」
駒をケースにしまい終えたノアはふっと笑い、席を立つ。
「構わない。俺もシュウが欲しいからな」
シュウのあごをすくい取ったノアは、そのままシュウのくちびるを奪った。
どろりとした唾液をシュウの舌にからませてから、ぱっとくちびるを離すノア。早くて、深くて、シュウはどうにもできなかった。
息をついているシュウのほおにキスを落としてから、ノアはラフタを見やる。
「今、シュウと深いキスをしたら、俺と間接キスができるぞ」
「あ、マジじゃん。……じゃなくて! 間接じゃ満足できないよ! 直接がいいー!」
「なら早く俺に勝つことだな。明日、また挑戦を受け付けてやろう」
チェスの片付けを再開したノアに向かって、ラフタは「うん! また明日!」と無邪気に言った。そしてシュウに向き直る。
「それはそれとして、もっと深いのちょうだい」
「……いいよ」
ノアがいいと言ったのなら、いいのだろう。
シュウはわずかに残っていた倫理観を放り投げて、口内に残っていたノアの唾液をラフタにも分け与えた。
――ああ。早く同じ布団の中で、二人まとめて味わいたいよ。
ラフタがノアとのチェスに勝利する瞬間が待ち遠しい。