公開中
Brighter -理科室の足音−
六年の理科室には、夕方五時を過ぎると必ず聞こえてくる足音があった。
『コツ、コツ、コツ……』
それは決まって、誰もいないはずの準備室から聞こえてくる。スリッパを引きずるような、不規則で重たい足音だ。理科の先生は「古い木造校舎だから、気温の変化で床板が鳴っているだけだ」と笑ったが、生徒たちは誰も信じなかった。
「あそこ、去年の秋に事故で亡くなった柾哉先輩の足音だよ」
そんな噂が、あっという間にクラス中に広まった。
足音が聞こえるたびに、理科室の空気は氷のように冷たくなり、アルコールランプの青い炎が一瞬揺らめく。理科係だった私――美穂(みほ)は、その不気味な噂に怯えながらも、なぜか妙に気になって仕方がなかった。
なぜなら、その柾哉先輩は生前、クラスで孤立していた私に、唯一実験の楽しさを優しく教えてくれた男の子だったからだ。
「美穂、理科室の片付け、手伝ってくれないか」
その日、放課後に先生に頼まれ、私は一人で夕暮れの理科室へ向かった。
窓の外はすでに群青色の闇に包まれ、校庭の街灯がぽつんと灯っている。心臓がうるさく脈を打ち、喉の奥がキュッと締め付けられた。
カチャリ、とドアを開けた瞬間、背筋が凍りついた。
――コツ、コツ、コツ。
静まり返った準備室の中から、はっきりとその足音が聞こえたのだ。
(来る……っ!)
私は恐怖で足がすくみ、その場から一歩も動けなくなった。足音はゆっくりと、しかし確実に、準備室のドアへと近づいてくる。
ガタッ、と音がして、閉ざされた扉がほんの少しだけ開いた。
隙間から覗く暗闇の中に、うっすらと人影のようなものが揺れている。息ができない。冷たい汗が背中を伝った。
それでも、私は恐怖を押し殺すように、震える声で叫んだ。
「……柾哉先輩、なんですか……?」
その瞬間、準備室の机の上に置かれていた埃まみれの黒板消しが、誰も触れていないのに「バサッ」と床に落ちた。
はっと息を呑み、私はおそるおそる準備室の扉を押し開けた。
部屋の中には誰もいない。ただ、月明かりにてらされた実験机の上に、誰かが指で走り書きしたような跡があった。
近づいて、その文字に目を凝らす。
『理科室の床、きしんでごめん』
『驚かせた?』
『でも、君が落としたコンパス、ずっと探してあげたくて』
『危ないから、もう夜に残らないで』
私の胸が、激しく締め付けられた。
あの足音は、私を怖がらせるためのものなんかじゃなかった。
生前、私が理科室で失くして泣いていたお気に入りのコンパスを、柾哉先輩は死んでからもずっと、冷たく暗い床の上で探し続けてくれていたのだ。
「柾哉先輩……!」
私の目から、大粒の涙がポロポロとこぼれ落ちた。
怖がってごめん。化け物だなんて思ってごめん。先輩はずっと、不器用な優しさで私を守ってくれていただけなんだ。
「見つけたよ、コンパス、ちゃんと持ってるよ。だから、もう探さなくていいんだよ……!」
私がそう叫んだ瞬間、理科室を包んでいた凍てつくような冷気が、嘘のようにスッと消え去った。
代わりに、窓の隙間から、温かくて優しい夜風がふわりと吹き抜ける。
パチン、とどこかで音がして、準備室の古い窓がカチリと静かに閉まった。
それ以来、夕方の理科室で足音が聞こえることは二度となかった。
ただ、その日の夜から、理科室の机の上には、いつも綺麗に磨かれた実験器具が並ぶようになったという。私は今日も、その机の前を通るたびに、心の中でそっと手を合わせる。
――柾哉先輩、今日も実験、上手にできたよ。