夏に現れたきみへ

夏の終わりの夕暮れは、どうしてこんなにも胸をざわつかせるのだろう。 蝉の声が遠ざかり、空は朱色から藍色へと染まりゆく。まるで、何か大事なものが手のひらからこぼれ落ちていくような——そんな気がして、僕は自転車をこぐ足を止めた。 風間 陽翔(かざま はると)、高校三年生。 文化祭の準備も終わりが見え始めた、八月の終わり。教室には、夏休み特有の気の抜けた空気と、どこか焦りを含んだざわめきが漂っていた。 「なあ、風間。文化祭、実行委員のリーダー任されてんだろ? ちゃんと飯、食ってんのか?」 隣の席の友達——小宮隼人が、いつものようにからかうように声をかけてきた。 「ああ、まあな。なんとかなってる」 気のない返事をしながらも、陽翔の視線は教室の隅にいる一人の女子生徒に向かっていた。 彼女の名前は橘 澪(たちばな みお)。 去年、転校してきた彼女は、どこか浮いていた。だけどその孤独を、誰よりも静かに抱えているような強さがあった。 そして陽翔は、知らず知らずのうちに、彼女に惹かれていた。 「ねえ、風間くん。今日、放課後……少しだけ、時間ある?」 その日、澪にそう声をかけられたのは、夏が本格的に終わる一日前だった——。
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