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六
窓から差し込む夕日が床のワックスに反射して、妙に眩しい。
雄二は美術室へ向かう足を止め、誰もいない廊下の窓辺で頭を抱えていた。
(男相手に変なドキドキがするのは、住雪の顔が中性的だからだ。そうだ、それしかない)
雄二は自分の天才的なひらめきに、心の中で激しく指を鳴らした。
住雪は細身で、狂気的な鋭さはあるものの、どこか少年とも少女ともつかない中性的な顔立ちをしている。要するに、脳が勝手に女子要素を検出して勘違いしたに違いない。
「……何、一人でニヤニヤしてんの。気持ち悪い」
低くも高くない、聞き覚えのある声が、静かな廊下に響いた。雄二は文字通り飛び上がった。
心臓が口から飛び出るかと思うほどの衝撃とともに振り返ると、そこには緑色の『保健委員』の腕章を巻いた、舞田苺枝が立っていた。手には救急箱を抱え、冷ややかな、けれどどこか憂いを帯びた瞳でこちらを見下ろしている。
「ま、舞田……の、妹のほう!」
「苺枝。……何、そのあからさまに動揺した顔」
苺枝は不審なものを見るように眉をひそめた。それは、美術室で住雪が見せた、あの呆れ顔と、骨格もパーツもまったく同じものだった。同じ声質。同じ顔。なのに、苺枝からは住雪のような中性的な危うさは感じられない。ただの、どこにでもいる少し大人びた女子高生だ。
(……終わった)
同じ顔の女子が目の前にいるのに、住雪の呆れ顔を見たときのような、あの胸が締め付けられるような感覚が、苺枝に対しては一切湧いてこない。便利な言い訳が、同じ顔をした「本物の女子」の登場によって、一瞬にして木っ端微塵に打ち砕かれた。
呆然と苺枝を見つめながら、雄二の脳裏にふと、別の疑問が湧き上がっていた。
(そういえば……住雪のやつ、妹のこと、一言も話したことねぇな)
毎日放課後、二人きりの美術室で、住雪の口から語られるのはいつも絵のことばかりだった。稀に私生活の愚痴のようなものを溢すことはあっても、そこに「苺枝」という肉親の存在がのぞいたことは、ただの一度もない。
二十四時間、ほぼすべてを製作に捧げているあの怪物。彼のあの底のない瞳には、同じ家で暮らし、同じ顔を持って生まれたはずの双子の妹すら、背景の壁と同じように映っていないのだろうか。逆に、苺枝の方はあの日、保健室で『あいつの周り、みんな居なくなるの』と、すべてを諦めたような目で兄を評していた。
「……何? 人の顔じっと見て」
怪訝そうに首を傾げる苺枝の声で、雄二はハッと我に返った。
「なぁ。お前と住雪って、家ではどんな感じなの?」
唐突な質問に、苺枝は一瞬だけ、カゴの中の薬品瓶を整理する手を止めた。けれどすぐに、いつも通りの淡々とした、どこか冷めた横顔に戻る。
「どんな感じって言われても。お互い、空気だと思ってるよ。同じ家にいるけど、もう全然口利いてないし」
「……口、利かない?」
「うん。あいつ、いつ頃からだったか忘れたけど、急に私のこと無視するようになったんだよね」
苺枝は、まるで隣町の天気予報でも話すかのような、抑揚のない声で言った。いつ頃だったか。住雪が、狂ったように寝食を忘れて絵を描き始めるようになった時期と、それは重なるのだろうか。
「急に、って、何か理由とか……」
「……たぶん、父親のせい」
苺枝の視線が、カゴの中の薬品瓶へと落とされる。その瞳に、いつも以上の深い憂いが差した。
「うちの父親、男にだけ異常に厳しくてさ。兄貴への当たり、昔から本当に酷いんだよね。だからあいつ、その鬱憤を全部絵にぶつけてるんだと思う」
静かな廊下に、苺枝の冷え切った声だけが響く。
「あいつ、元々かなり気難しい性格だけど……前は、私にはまだそれなりに優しかったんだよ。お菓子半分くれたりとか、その程度だけどね。でも、年々荒れてきて……気づいたら、私のことも完全に空気扱い」
苺枝はふっと、自嘲気味に、けれどどこか寂しげに唇の端を上げた。
「まあ、嫌われてるなら好都合だけどね。あんなのに巻き込まれたら、こっちの生活までめちゃくちゃにされるし」
ひとしきり話し終えると、苺枝は薬品のカゴを抱え直して、じっと雄二の顔を見た。その表情に、少しだけ柔らかい色が混ざる。
「……もしかして心配してくれてる?」
「え? あ、いや……」
「優しい、っていうか……変わってる」
苺枝は小さく笑った。その笑顔もやっぱり住雪にそっくりなのに、そこにある温度はまったく違っていた。
「美術部も、まだ続けてるらしいじゃん。あいつのせいで怪我までしたのにさ。……あんまりずっと部室にいないで、たまには早く帰れば?」
「あー……まあ、そうなんだけど」
言い淀む雄二に、苺枝は「ねえ」と廊下の先を顎で示した。
「私、今日の委員の仕事これで終わりだから。その、一緒に帰らない?」
そう言って、夕日を背に浴びた彼女が、ふっと雄二から目を逸らす。雄二は思わず、物理的に半歩後ろへさがった。喉の奥がヒュッと鳴るほどにぎょっとしたのだ。あまりに予想外すぎる展開と、その生々しい距離感の近さに、背中に嫌な汗がじわりと滲む。
(どういう空気だこれ)
同じ顔、同じ声の舞田が、自分に向かって放課後のデートのような誘いをかけてきている。もし目の前にいるのが住雪なら、絶対にあり得ない展開だ。普通なら、ここで心臓を跳ね上がらせて顔を赤く染めるのが正しい反応なのだろう。
だが、雄二の脳内を埋め尽くしたのは、甘酸っぱいときめきなどでは断じてなかった。彼女の好意を受け止めるスペースが、雄二の心には残っていなかった。
「……ごめん」
雄二は、喉の奥から絞り出すように言った。
「俺、やっぱり、まだ部活行ってくるわ」
「……そっか」
苺枝はそれ以上引き止めず、少し悲しそうに肩をすくめると、「じゃあね」と歩き出した。残された雄二は、遠ざかる彼女の足音を背中で聞きながら、自分のパニックを振り払うように、住雪の待つ美術室へと走り出していた。