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来年の春も、咲くのかな エピローグ
梨花が亡くなってから、数日が経った。
あの日から。
時間だけが、何事もなかったみたいに進んでいた。
朝になって。
昼になって。
夜になって。
また朝が来る。
梨花がいなくなっても。
世界は普通に動いていた。
それが、どうしようもなく変な感じだった。
病院の廊下を歩けば、今にも向こうから梨花が歩いてくる気がする。
屋上へ行けば。
いつものベンチに座っている気がする。
「またいますね」
そう言われる気がする。
でも。
どこにもいない。
梨花は、もういない。
その日。
悠真は梨花の両親に呼ばれ、梨花が使っていた病室を訪れていた。
もうベッドに梨花はいない。
壁に貼られていた園児たちの絵も、ほとんど片付けられていた。
何もない病室。
こんなに広かっただろうか。
「悠真くん」
梨花の母親に呼ばれ、振り返る。
その手には、一つの袋があった。
「これね」
「……?」
「梨花の荷物を整理してたら出てきたの」
母親は、その袋を悠真へ差し出した。
「あなたに渡すつもりだったみたい」
「俺に……?」
「ええ」
受け取る。
思ったより軽い。
ゆっくり袋を開けた。
「……あ」
中に入っていたのは。
一本のマフラーだった。
淡い色の毛糸で編まれた、少し不格好なマフラー。
編み目はところどころ揃っていない。
特に端の方は、最初の方よりずっと歪んでいた。
その瞬間。
思い出した。
『何してるの?』
『何も』
『今なんか隠したよね?』
『隠してません』
『見せて』
『嫌です』
『何で?』
『秘密だからです』
「……これだったんだ」
声が震えた。
あの日。
梨花が布団の中に慌てて隠したもの。
ずっと作っていたもの。
「梨花ね、編み物なんてほとんどしたことなかったのよ」
母親が小さく笑った。
「急に毛糸が欲しいって言い出して」
「……」
「何作るのって聞いても、全然教えてくれなくて」
悠真は何も言えなかった。
マフラーをそっと手に取る。
柔らかかった。
少しだけ顔を近づける。
「……梨花」
ほんの僅かに。
本当に、僅かに。
梨花の匂いがした。
悠真は目を閉じた。
もう一度。
梨花に抱きしめられたような気がした。
「それとね」
梨花の母親が、もう一つ差し出す。
白い封筒だった。
表には。
『悠真さんへ』
見慣れた字で、そう書かれていた。
「……手紙?」
「うん」
母親は小さく頷いた。
「一人のときに読んであげて」
「……はい」
悠真は封筒を受け取った。
その日は。
手紙を開けることができなかった。
夜。
一人になって。
悠真はようやく封筒を開いた。
中には、一枚の便箋が入っていた。
少し震えたような字。
それでも。
間違いなく梨花の字だった。
『悠真さんへ
これを読んでるってことは、私はもういないのかな。
こういう書き出し、一回やってみたかったんだよね。笑
マフラー、ちゃんと完成してた?
途中から手がうまく動かなくなって、結構ぐちゃぐちゃになっちゃいました。
下手でも捨てないでね。
一応、頑張ったんだから。
悠真さん。
私ね、余命が一年くらいだって知ったとき、本当に何とも思わなかったんだ。
来年には私はいないんだなって。
ただ、それだけだった。
それまでの私には、来年にしたいことなんて特になかったから。
でもね。
悠真さんと会ってから、一年って短いんだなって思った。
屋上でもっと話したかった。
また水族館に行きたかった。
くだらないことで笑いたかった。
もう一回、一緒に桜が見たかった。
やりたいこと、ちゃんとあったみたい。
でも、後悔してるわけじゃないよ。
最後の一年に悠真さんがいてくれて、本当によかった。
あと。
ずっと「悠真って呼んで」って言ってたでしょ。
最後まで呼べなかったら、ごめんね。
私には、ちょっとだけ難しかったんだ。
でも。
いつか呼べたらいいなって思ってる。
悠真さん。
絶対、生きてね。
私が見られない来年の桜も。
その次の桜も。
できれば、ずっと先の桜まで。
ちゃんと見てください。
ありがとう。
大好きでした。
梨花』
読み終わっても。
悠真は、しばらく動かなかった。
何度も。
何度も。
同じところを読み返した。
『最後まで呼べなかったら、ごめんね。』
そこで、悠真の視界が滲んだ。
「……呼んだじゃん」
涙が便箋の上に落ちる。
「最後に……ちゃんと呼んだじゃん……」
『ゆ……悠真……』
あの声が。
今でも耳に残っている。
最初で最後に。
梨花が自分を呼び捨てにした声。
「……遅いよ」
悠真は泣きながら笑った。
「ほんと……遅すぎるんだよ……」
マフラーを抱きしめる。
梨花の匂いがする。
まだ。
ここにいるような気がする。
「梨花……」
声に出した瞬間。
今まで堪えていたものが、全部途切れた。
悠真は。
初めて、声を上げて泣いた。
それから、時間は流れた。
悠真の身体は、少しずつ回復していった。
治療を続けて。
検査をして。
また治療を受けて。
少しずつ。
本当に少しずつ。
病院の中を自由に歩けるようになった。
そして。
病院の外を歩けるようになった。
一人で電車に乗った。
一人で買い物へ行った。
以前なら当たり前だったことを、一つずつ取り戻していった。
梨花が生きられなかった一日を。
悠真は一日ずつ、生きていった。
そして。
春が来た。
「……」
悠真は病院の中庭に立っていた。
首には、一本のマフラー。
もう暖かい季節だ。
正直、少し暑い。
それでも。
今日だけは外したくなかった。
ゆっくり歩く。
そして。
あのベンチの前で立ち止まる。
一年前。
二人で座った場所。
『綺麗ですね』
『だろ?』
『悠真さんが咲かせたみたいに言わないでください』
『俺が咲かせた』
『はいはい』
あの日と同じ場所に。
今年も。
桜が咲いていた。
満開だった。
「……咲いたよ、梨花」
当然。
返事はない。
悠真は一人でベンチに座った。
桜を見上げる。
一年前は。
隣に梨花がいた。
今年は。
いない。
風が吹く。
桃色の花びらが空を舞った。
「去年さ」
悠真は一人で呟く。
「来年も見ようって言ったじゃん」
笑う。
「約束、破ったな」
少しだけ。
声が震えた。
でも。
涙は出なかった。
悠真は首元のマフラーに触れる。
梨花の匂いは。
もうほとんど残っていなかった。
最初は確かにしたのに。
少しずつ。
少しずつ。
消えていった。
いつか。
完全に分からなくなる日が来るのかもしれない。
それでも。
マフラーに触れるたびに思い出す。
布団の中へ慌てて何かを隠した梨花。
水族館で怒ったふりをした梨花。
屋上で笑った梨花。
桜を見上げた梨花。
『悠真さん』
何度頼んでも、最後までそう呼び続けた梨花。
そして。
『ゆ……悠真……』
一度だけ。
たった一度だけ。
名前を呼んでくれた梨花。
中庭の向こうから、子どもたちの声が聞こえた。
「せんせー!」
一人の子どもが、若い保育士のところへ走っていく。
その姿を見て。
悠真は少し笑った。
「……梨花」
返事はない。
それでも。
話しかけたかった。
「俺、生きてるよ」
桜を見上げる。
「ちゃんと、生きてる」
梨花が見ることのできなかった桜。
梨花が過ごすことのできなかった春。
その中に、今。
自分はいる。
悠真はポケットから、何度も読み返して少しくたびれた手紙を取り出した。
最後の方に書かれた言葉。
『私が見られない来年の桜も。
その次の桜も。
できれば、ずっと先の桜まで。
ちゃんと見てください。』
悠真は手紙をそっと畳んだ。
「……ちゃんと見てるよ」
首元のマフラーに触れる。
もう梨花の匂いはほとんどしない。
梨花の体温だって、当然残っていない。
それなのに。
不思議だった。
「あったかいよ、梨花」
悠真は笑った。
そして。
ベンチから立ち上がった。
「じゃあ、また来るよ」
少し歩いてから。
もう一度だけ振り返る。
満開の桜。
あの日と、ほとんど変わらない景色だった。
梨花はいない。
それだけは。
どんな奇跡にも変えられなかった。
でも。
梨花がいた一年は。
消えなかった。
梨花が笑ったことも。
怒ったことも。
自分を好きだと言ってくれたことも。
最後に。
『悠真』と呼んでくれたことも。
全部。
悠真の中に残っている。
「……また来年」
春の風が吹いた。
満開の桜から。
一枚の花びらが舞い落ちる。
それは悠真の首元へ落ちて。
梨花が編んだマフラーの上で。
そっと止まった。
では、ばいのりちゃ!
結構今回は自信作です!