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目次
来年の春も、咲くのかな
感動系です。
病気の話ですが、そこまで専門的に見ないでください!
少し違うことがあるので信じすぎず!これは小説ですので!
「りかせんせー!見て見てー!」
朝から元気いっぱいの声に呼ばれて、私は持っていた絵本を閉じた。
「んー?なあに?」
声のした方へ向かうと、一人の女の子が画用紙を両手で持って駆け寄ってきた。
「かいたの!」
「お、上手じゃん。これ誰?」
画用紙には、茶色い髪の女の人らしきものと、その周りに何人もの子どもたちが描かれていた。
「りかせんせー!」
「私?こんな髪ぐちゃぐちゃなの?」
「えへへ」
「えへへじゃないよー」
女の子の頬を軽くつつく。
キャッキャと笑いながら逃げていくその子を見て、私も小さく笑った。
「りかせんせー!こっちも見てー!」
「はいはい、今行くよー」
私の名前は梨花。
21歳。
保育士になって、まだそれほど長くはない。
昔から絶対に保育士になりたかった、というわけではなかった。
学校を卒業して、なんとなく子どもと関わる仕事もいいかなと思って、勉強して、資格を取って。
そのまま就職した。
気づけば毎日、「せんせー!」と呼ばれている。
夢がないわけじゃない。
ただ、絶対に叶えたいほどの夢がない。
結婚したいとか、子どもが欲しいとか。
何歳までにこれをして、いつか絶対ここへ行って。
そんな未来の予定を考えたこともほとんどなかった。
毎日起きて。
働いて。
家に帰って。
眠って。
次の日が来る。
多分、人生なんてそれの繰り返しだ。
それでいい。
私はずっと、そう思っていた。
「せんせー!」
「今度は何?」
「おにごっこしよ!」
「えぇ……先生、疲れてるんだけど」
「やるー!」
「やるー!」
「先生の意見は?」
「はやくー!」
「聞く気ないじゃん」
両手を子どもたちに引っ張られる。
「はいはい、分かったから引っ張らないの」
仕方なく立ち上がった。
その瞬間だった。
「……っ」
胸の奥が、ぎゅっと締め付けられた。
思わず胸元に手を当てる。
「せんせー?」
「……ん?」
「だいじょーぶ?」
「大丈夫、大丈夫。ちょっと立つの早すぎただけ」
心配そうにこちらを見る子どもの頭を撫でる。
最近、こういうことが増えた。
いや。
最近という言い方は少し違うかもしれない。
高校生の頃から、私は人より体力がなかった。
体育の授業で少し長く走れば、一人だけ息を切らしていた。
友達と階段を上がるだけで、立ち止まりたくなることもあった。
何度か病院へ行った。
けれど、はっきりとした原因は分からなかった。
だからそのうち、私は気にしなくなった。
昔から身体が弱い。
ただ、それだけ。
「せんせー、はやくー!」
「はいはい。じゃあ先生が鬼ね」
「にげろー!」
子どもたちが一斉に走り出す。
「待てー!」
私もそのあとを追った。
少し苦しい。
でも、いつものこと。
そう思っていた。
その日の午後。
「じゃあみんな、お片付けするよー」
「はーい!」
「ブロック、ちゃんと箱に入れてね。投げない!」
「せんせー、これどこー?」
「それはこっち」
「これはー?」
「それはあっちの箱」
床に散らばったおもちゃを拾っていく。
「よいしょ」
最後に残った積み木を拾い、立ち上がった。
「あれ……」
突然、視界が揺れた。
目の前にあるはずの部屋が、ぐにゃりと歪んで遠くなる。
「……っ」
息を吸う。
吸っている。
ちゃんと吸っているはずなのに。
足りない。
苦しい。
「梨花先生?」
近くにいた先生が私を見る。
「顔色悪いよ?」
「いや……大丈……」
最後まで言えなかった。
足から力が抜ける。
ドサッ。
「梨花先生!?」
「せんせー?」
「りかせんせー?」
「どうしたの?」
子どもたちが集まってくる。
「みんな、ちょっと離れて!先生が見るから!」
「りかせんせー、ねてるの?」
「せんせー?」
「だいじょーぶ?」
声が聞こえる。
泣き出した子もいた。
起きなきゃ。
大丈夫だよって言わなきゃ。
心配させちゃう。
そう思っているのに、身体が動かなかった。
(あー……)
(やっちゃった)
それが、意識を失う直前に考えたことだった。
目を覚ますと、見覚えのない白い天井があった。
「……知らない天井」
「梨花!」
「うわっ」
横から突然大きな声が飛んできた。
「びっくりした……」
「よかった……!」
母だった。
目が赤い。
少し離れたところには父。
そして。
「姉ちゃん」
「なんであんたまでいるの」
弟までいた。
「なんでって、お前倒れたんだぞ」
「仕事は?」
「休んだ」
「え、わざわざ?」
「わざわざって何だよ」
「だって私、寝てただけじゃん」
「倒れたんだよ!」
「似たようなもんでしょ」
「全然違うわ」
弟が呆れたようにため息をつく。
母が私の顔を覗き込んだ。
「梨花、苦しくない?」
「今は別に」
「胸は?」
「大丈夫」
「息苦しくない?」
「うん」
「本当に?」
「お母さん」
「なに?」
「質問多い」
「あ……ごめん」
母はそれ以上何も言わなかった。
大袈裟だな。
私はそのとき、それくらいにしか思っていなかった。
でも、次の日になっても退院できなかった。
検査。
また検査。
血を採られて、よく分からない機械をつけられて、また別の検査をする。
一週間近く経っても、「もう帰って大丈夫ですよ」という言葉は聞けなかった。
それどころか。
「しばらく入院していただくことになります」
医師からそう言われた。
「しばらくって、どのくらいですか?」
「今の段階では、まだ何とも言えません」
「仕事あるんですけど」
「職場にはご家族から連絡していただいています」
「……そうですか」
おかしい。
ようやく、そう思い始めた。
母が毎日のように来る。
父も仕事終わりに顔を出す。
弟まで頻繁に来た。
しかも全員、妙に優しい。
「梨花、水いるか?」
「いる」
「ほら」
弟がペットボトルを手渡してくる。
私は受け取りながら、弟の顔をじっと見た。
「……何?」
「普段なら自分で取れって言うじゃん」
「病院くらい取ってやるよ」
「ふーん」
「何だよ、その顔」
変だ。
医師も。
看護師も。
家族も。
みんな私に何かを言いかけて、やめる。
まるで壊れ物を扱っているみたいだった。
ある日の夕方。
母が帰る準備をしていた。
「じゃあ梨花、また明日来るからね」
「うん」
「何か欲しいものある?」
「別に」
「本当に?」
「うん」
母が病室を出ようとする。
「お母さん」
「なに?」
「私、死ぬの?」
母の手が止まった。
ほんの一瞬。
本当に一瞬だけ。
そのあと、すぐ笑った。
「何言ってるのよ」
「……」
「急にそんなこと言わないで」
「そっか」
私はそれ以上聞かなかった。
でも、分かった。
(ああ)
(私、結構ヤバいんだ)
不思議だった。
もっと怖くなると思っていた。
泣きたくなるとか。
死にたくないと思うとか。
まだやりたいことがあると叫ぶとか。
そういうものだと思っていた。
でも。
私の中には何も湧いてこなかった。
(まあ……人っていつか死ぬし)
その日は、それだけ考えて眠った。
数日後。
少しだけ病院内を歩いてもいいと言われた。
病室にずっといるのも退屈だったので、私は一人で廊下をゆっくり歩いていた。
疲れたら窓際で止まる。
また少し進む。
ただ、それだけ。
曲がり角に差しかかったとき。
向こうから看護師二人の話し声が聞こえてきた。
「……ご家族には説明済み?」
「うん。先生から」
聞くつもりはなかった。
そのまま通り過ぎようとした。
「やっぱり、一年程度って?」
足が止まった。
「そうみたい。本人にはまだ詳しいところまでは……」
心臓が、一度だけ大きく鳴った。
なぜか。
自分のことだとすぐ分かった。
看護師たちは私に気づかないまま、その先の角を曲がっていった。
一年。
一年。
頭の中で何度も繰り返す。
一年って。
何日だっけ。
365日。
春が来て。
夏が来て。
秋が来て。
もう一度、冬が来る。
それだけ。
「……一年か」
涙は出なかった。
窓の外を見る。
冬の空は灰色だった。
(来年の今頃)
(私、いないんだ)
怖いというより、不思議だった。
自分がいない世界を、うまく想像できなかった。
その後、正式な病名も聞いた。
肺静脈閉塞症。
初めて聞く名前だった。
「……長いですね」
説明を聞いたあとの第一声がそれだった。
医師は少し驚いた顔をした。
もっと悲しんだり、取り乱したりすると思っていたのかもしれない。
治すことが非常に難しいこと。
私の場合はすでにかなり進行していること。
できる限りの治療を続けながら、状態を見ていくこと。
難しい言葉をたくさん聞いた。
でも、私が理解したことは一つだけだった。
私は、長くない。
それから病院で過ごす時間が、私の日常になった。
仕事には戻れなかった。
園のみんなには「病気の治療でしばらくお休みします」とだけ伝えたらしい。
数週間後。
母が大きな封筒を持ってきた。
「これ、園から」
「何?」
開けてみる。
中には何枚もの画用紙が入っていた。
『りかせんせいへ』
『げんきになってね』
『またあそぼうね』
いろんな色のクレヨンで描かれた、たくさんの絵。
茶色い髪の女の人。
多分、私。
「……また髪ぐちゃぐちゃじゃん」
思わず笑った。
でも。
『またあそぼうね』
その文字を見て、指が止まった。
「……うん」
小さく呟く。
病室の壁に、その絵を貼った。
また会えるよ、とは言えなかった。
冬の終わり。
私は病院の廊下をゆっくり歩いていた。
「あっ」
曲がり角で、前から来た人と危うくぶつかりそうになった。
「すみません」
「いや、こっちこそ。大丈夫?」
「はい」
顔を上げる。
黒い髪は少し長めで、無造作。
背は高い。
でも、その身体はかなり痩せていた。
私より、ずっと病人らしい。
手首には患者用のリストバンドがあった。
「ほんとに大丈夫?」
「大丈夫です」
「ならよかった」
「じゃあ」
軽く頭を下げ、横を通り過ぎた。
ただ、それだけ。
名前も知らなかった。
どこの病棟なのかも知らない。
別に知りたいとも思わなかった。
そのときは。
数日後。
私は屋上にいた。
入院してから見つけた、お気に入りの場所。
病室より静かで、人もあまり来ない。
外の空気が少しだけ気持ちいい。
冬が終わりかけているとはいえ、まだ寒かった。
「……寒」
何で来たんだろ。
そう思いながらベンチへ向かう。
「あ」
先客がいた。
向こうもこちらに気づいた。
「あ、この前の」
廊下でぶつかりかけた男の人だった。
「……こんにちは」
「こんにちは」
それだけ言って、私は少し離れたところへ座った。
会話は終わった。
男の人は空を見ている。
私も空を見る。
沈黙。
普通なら気まずいはずなのに。
なぜか、その時間は嫌ではなかった。
数日後。
また屋上へ行った。
「こんにちは」
「……またいますね」
「それ俺のセリフなんだけど」
あの人だった。
「私、ここ好きなので」
「俺も好き」
「そうですか」
「そこ、『奇遇ですね』とかじゃない?」
「同じ病院なんだから、そこまで奇遇でもないですよね」
「冷たっ」
「普通です」
「絶対普通じゃない」
少しだけ笑ってしまった。
「今笑った?」
「笑ってません」
「いや笑ったじゃん」
「気のせいです」
「絶対笑った」
変な人。
そう思った。
それからも、屋上で何度か会った。
三回。
四回。
五回。
最初は偶然だった。
本当に偶然。
でも。
いつからか。
屋上へ向かう途中で考えるようになった。
(今日、いるかな)
そんなことを思ったあとには、必ず心の中で付け足した。
(別に、どっちでもいいけど)
ある日、いつものように並んで座っていると、その人が口を開いた。
「そういやさ」
「はい?」
「名前知らないよね」
「今更ですね」
「今更だね」
「……梨花です」
「名字は?」
「なんでですか」
「いや、普通聞くだろ」
「じゃあ、そっちから」
「朝倉悠真。24歳」
「24?」
「何その反応」
「年上だったんですね」
「何歳だと思ってたの?」
「同い年くらい」
「俺そんな若く見える?」
「じゃあ老けてる方がよかったんですか?」
「梨花さんさ」
「はい」
「意外と酷いこと言うね」
「そうですか?」
「そうです」
少し笑いながら、その人、悠真さんは空を見上げた。
「梨花さんは?」
「21です」
「三つ下か」
「そうですね」
「じゃあよろしく、梨花」
ほんの一瞬。
身体が固まった。
呼び捨て。
昔の記憶が、一瞬だけ頭の奥をよぎった。
近づいて。
信じて。
距離がなくなって。
そして最後には、壊れた。
「……いきなり呼び捨てですか」
「ダメだった?」
「……別に、いいですけど」
「じゃあ梨花も悠真って呼んでよ」
「嫌です」
「え?」
「朝倉さんで」
「急に距離遠くない?」
「朝倉さん」
「悠真」
「朝倉さん」
「悠真!」
「しつこいです」
「一回くらい!」
「嫌です」
「何で!?」
思わず吹き出した。
「あははっ」
「ほら!」
「……何ですか」
「笑った」
「笑ってません」
「いや今のは無理あるって!」
その日。
私は久しぶりに、誰かの前で声を出して笑った。
それから、少しずつ冬が終わっていった。
「梨花さん」
「何ですか、朝倉さん」
「まだ朝倉さんなの?」
「じゃあ何がいいんですか」
「悠真」
「それは嫌です」
「何でそこだけ頑ななの?」
「じゃあ……悠真さん」
「さん要らないんだけどなあ」
「これ以上は無理です」
「いつか絶対呼ばせるからな」
「ご自由に」
結局。
その日から私は彼を『悠真さん』と呼ぶようになった。
ある日の屋上。
「梨花さん、桜好き?」
「普通です」
「普通って何?」
「好きでも嫌いでもないです」
「つまんない回答だなあ」
「聞いといて失礼じゃないですか?」
「じゃあさ」
悠真さんがこちらを見る。
「今度、桜見に行かない?」
「外出許可、まだ出ないですよ」
「病院の中庭」
「あそこ?」
「そう。結構綺麗に見える場所があるんだって」
「へえ」
「もうすぐ咲くらしいよ」
「悠真さん、そういうの好きなんですね」
「俺だって花くらい見るわ」
「意外」
「梨花さんの方が失礼じゃん」
「ふふっ」
「また笑った」
「笑ってません」
「それもう無理あるって」
「……咲いたら行きましょうか」
「ほんと?」
「はい」
「じゃあ約束」
「約束するほどのことですか?」
「いいの。約束」
悠真さんが小指を差し出した。
「……子どもですか?」
「保育士なんだろ?付き合ってよ」
「何で知ってるんですか?」
「この前言ってたじゃん」
「よく覚えてますね」
「梨花さんの話だから」
「……」
「ん?」
「何でもないです」
私は小指を絡めた。
「咲いたら、ですね」
「ああ」
そして春。
病院の中庭に、桜が咲いた。
「うわ……」
「めっちゃ嬉しそうですね」
「いや、思ったよりすごい」
「悠真さんが誘ったんじゃないですか」
「俺もこんな咲くと思ってなかった」
「適当すぎる」
二人でベンチに座る。
満開の桜。
風が吹くたびに、薄い桃色の花びらが舞う。
「綺麗ですね」
「だろ?」
「悠真さんが咲かせたみたいに言わないでください」
「俺が咲かせた」
「はいはい」
「信じてないな?」
「信じる人いるんですか?」
「梨花さん」
「いません」
二人で笑った。
不思議だった。
悠真さんといると。
思ったことを、そのまま言える。
嫌なら嫌。
面白ければ笑う。
からかわれたら言い返す。
そんな当たり前のことを。
特に男の人の前では、私はずっとできないと思っていた。
「なあ、梨花さん」
「はい?」
「来年も見ような」
その言葉に、私は止まった。
「……」
「梨花さん?」
「……うん」
「どうした?」
「何でもないです」
私はもう一度、桜を見上げた。
(来年、か)
一年。
あの日、聞いた言葉が蘇る。
(来年の桜が咲く頃)
(私は、もういないんだ)
それなのに。
「……来年も、綺麗でしょうね」
「だろうな」
悠真さんは笑っていた。
私はその横顔を見て。
なぜか少しだけ、胸が痛くなった。
桜が散っても、私たちは変わらず屋上で会った。
もう『偶然会う』ではなかった。
何時頃に行けば相手がいるのか。
お互い、なんとなく分かっていた。
悠真さんが来ない日は、少し物足りなかった。
次の日に会うと。
「昨日いませんでしたね」
「検査」
「ああ」
「俺いなくて寂しかった?」
「全然」
「即答やめて?」
そんな会話をする。
悠真さんは、自分のことも話してくれた。
高校を卒業してから、石材や建材を加工する仕事をしていたこと。
そこで吸い込んだ粉じんが原因と考えられる重い肺の病気になったこと。
そして私よりも、状態が悪いこと。
本人は笑って話していた。
「まあ、なっちゃったもんは仕方ないし」
その言葉を聞くたび、変な人だと思った。
私よりずっと苦しそうなのに。
私よりずっと死に近そうなのに。
どうしてこの人は、こんなに普通に笑っていられるんだろう。
そして気づけば。
そんな悠真さんを、もっと知りたいと思っていた。
ある日の屋上。
いつものように二人で並んで、何でもない話をしていた。
会話が途切れて、少しだけ静かになる。
そのときだった。
「梨花」
「はい?」
「俺、梨花のこと好きだよ」
「……はい?」
あまりにも突然だった。
「聞こえなかった?」
「聞こえました」
「もう一回言おうか?」
「言わなくていいです」
「俺と付き合ってほしい」
冗談だと思いたかった。
でも。
悠真さんは笑っていなかった。
いつもみたいにふざけてもいなかった。
まっすぐ、私を見ていた。
「……私」
「うん」
「長くないですよ」
「知ってる」
「……」
私の詳しい余命までは、悠真さんには言っていない。
でも、重い病気であることは知っている。
そして。
悠真さんだって。
「悠真さんだって……」
「うん」
その先は言えなかった。
『悠真さんだって長くないじゃないですか』
そんなこと。
わざわざ言う必要なんてない。
「長くないからってさ」
悠真さんが口を開いた。
「好きになるのやめるなんて、俺には無理だった」
「……変な人」
「またそれ?」
「最初から変な人でした」
「知ってる」
「自覚あるんですか」
「あるよ」
「直してください」
「それは無理」
思わず笑う。
でも、怖かった。
誰かとここまで近づくことが。
特に男の人と。
また何かが壊れたら。
また昔みたいになったら。
そう思うと、今すぐ逃げたくなる。
でも。
悠真さんの隣からだけは。
逃げたくなかった。
「……本当に」
「うん」
「私でいいんですか?」
「梨花がいい」
胸の奥で。
何かが、少しだけほどけた気がした。
「……よろしくお願いします」
数秒。
悠真さんは黙っていた。
「……え?」
「嫌ならやめますけど」
「待って待って待って!」
「何ですか」
「今の『よろしくお願いします』って、そういう意味!?」
「ほかに何があるんですか」
「やった……!」
「声大きいです」
「いや、だって!」
「病院ですよ」
「分かってるけど!」
悠真さんが今まで見た中で一番嬉しそうに笑った。
その顔を見ていると。
私まで嬉しくなった。
「じゃあさ」
「何ですか」
「記念に一個お願い」
「嫌な予感しかしません」
「悠真って呼んで」
「嫌です」
「何でだよ!」
「それとこれとは別です」
「彼氏だぞ!?」
「知ってます」
「じゃあ呼んでよ!」
「悠真さん」
「さん!」
「うるさいです」
「いつか絶対呼ばせるからな」
「頑張ってください」
笑った。
また、笑った。
来年の桜を。
私は見ることができない。
それはきっと、変わらない。
でも。
来年がないからといって。
今日までなくなるわけじゃない。
残っている時間くらい。
この人の隣にいてもいいのかもしれない。
そう思った。
8232文字、、、。えぐぅ
これはもう次で完結するので!
来年の春も、咲くのかな 最終回
悠真さんと付き合い始めて、一か月が経った。
「梨花」
「なんですか?」
「悠真」
「……なんですか?」
「違う違う。俺を呼んで」
「悠真さん」
「さん要らない!」
「要ります」
「もう付き合って一か月なんですけど!?」
「知ってます」
「彼氏なんですけど!?」
「それも知ってます」
「じゃあ何で!」
「悠真さんは悠真さんなので」
「意味分かんないんだけど……」
悠真さんは不満そうに頬を膨らませた。
そんな顔をされても困る。
「そのうち呼んでよ」
「考えときます」
「それ絶対呼ばないやつ」
「さあ?」
「梨花ー」
「うるさいです」
「彼氏に冷たくない?」
「通常運転です」
「付き合う前の方が優しかった気がする……」
「気のせいです」
「絶対気のせいじゃない」
私は思わず笑った。
付き合ったからといって、何かが大きく変わったわけではなかった。
相変わらず私たちは病院にいる。
朝になったら検査や治療があって。
体調が良ければ屋上へ行って。
くだらない話をして。
時間になれば、それぞれ違う病棟へ戻る。
ただ、前より少しだけ悠真さんと一緒にいる時間が増えた。
前より少しだけ、お互いのことを話すようになった。
そして前よりずっと。
悠真さんに会えることが、毎日の楽しみになっていた。
「梨花さん、ちょっといい?」
ある日、看護師さんに声をかけられた。
「はい?」
「このところ状態が落ち着いてるでしょ?」
「まあ……はい」
「先生とも相談したんだけど、体調がよければ今度、短時間だけ外出できそうよ」
「……外出?」
久しぶりに聞いた言葉だった。
病院の外。
入院してから、ほとんど考えたこともなかった。
「もちろん無理はできないけどね。行きたいところがあれば考えておいて」
「分かりました」
看護師さんが病室から出ていく。
私はしばらく考えた。
行きたいところ。
特にない。
前の私なら、それで終わっていた。
でも今は、一人だけ頭に浮かぶ人がいた。
「水族館?」
「嫌なら別にいいですけど」
「いや、めっちゃいい」
その日の屋上。
私が外出の話をすると、悠真さんは目を輝かせた。
「悠真さんも許可出そうですか?」
「聞いてみる。何なら今聞きに行く」
「今?」
「行ってくる」
「待って待って」
立ち上がろうとする悠真さんの服を掴む。
「何?」
「別に今日聞かなくても」
「善は急げって言うだろ?」
「元気ですね……」
「梨花との初デートだぞ?」
「……」
「あれ?」
「何ですか」
「今照れた?」
「照れてません」
「いや絶対」
「行かないですよ」
「ごめんなさい」
即答だった。
私は思わず笑った。
数日後。
私たちは病院の外にいた。
「……久しぶり」
「何が?」
「外」
「それはそうだろ」
「病院の外って、こんな音多かったっけ」
車の音。
信号の音。
誰かの笑い声。
風で木の葉が揺れる音。
どれも入院する前なら、気にも留めなかったものだった。
「大丈夫?」
「うん。まだ」
「しんどくなったらすぐ言えよ」
「悠真さんもですよ」
「俺は大丈夫」
「私より病人っぽい顔して何言ってるんですか」
「それ悪口?」
「心配してるんです」
「その言い方で?」
「はい」
「そっかあ……」
久しぶりの外は、思ったより眩しかった。
「見て梨花、こいつ」
水族館に入って数十分。
悠真さんが水槽を指差した。
「何ですか?」
「梨花に似てる」
そこには、何とも言えない顔をした魚がいた。
「……」
「似てない?」
「帰ります」
「待って!」
「一人で魚見ててください」
「嘘!嘘だから!」
「遅いです」
「梨花さん!」
悠真さんが慌てて追いかけてくる。
もちろん本当に帰るつもりはない。
気づかれているだろうけど。
しばらく歩いたところで、私は足を止めた。
「……ちょっと」
「休む?」
「うん」
近くのベンチに座る。
いつの間にか呼吸が浅くなっていた。
「大丈夫?」
「大丈夫……ちょっと疲れただけ」
「無理しないで」
「悠真さんに言われたくない」
「今日は俺の方が元気」
「珍しい」
「失礼だな」
二人で水槽を眺めた。
青い光の中を、魚がゆっくり泳いでいく。
「……普通の恋人みたいですね」
何となく口から出た。
「みたい、じゃなくて恋人だろ」
「そうなんですけど」
「何?」
「……何でもないです」
普通の恋人。
一緒に出かけて。
くだらないことを言って。
疲れたら隣に座って。
そんなことが。
自分にもできるなんて思っていなかった。
「梨花」
「はい?」
「楽しい?」
「……まあまあ」
「そこは楽しいって言えよ」
「ふふっ」
本当は。
もう少しだけ、ここにいたかった。
季節は夏になった。
病院の中で過ごしていると、季節なんて分からなくなりそうだった。
それでも屋上へ行けば、嫌でも分かる。
「暑っ……」
「だから今日やめようって言ったじゃないですか」
「でも病室暇なんだもん」
「子どもですか」
「梨花さん、アイス食べる?」
「何で持ってるんですか」
「売店」
「溶けてますよ」
「急いで食べればセーフ」
「絶対お腹壊す」
「半分あげる」
「いらない」
「一口」
「いらないです」
数分後。
「……一口ください」
「欲しいんじゃん」
「うるさいです」
こんな毎日が、当たり前になっていた。
悠真さんのいない入院生活がどんなものだったのか。
少しずつ、思い出せなくなっていた。
ある日、園からまた手紙が届いた。
「何これ?」
私の病室へ来た悠真さんが、壁に増えた画用紙を見る。
「園の子たちです」
「梨花、先生だったんだよな」
「一応」
「どんな先生だったの?」
「普通ですよ」
「絶対怖い」
「子どもには優しいです」
「俺には?」
「場合によります」
「差別だ」
「悠真さん24歳でしょ」
「心は5歳」
「一番面倒くさいやつじゃないですか」
悠真さんが笑う。
「戻りたい?」
その言葉に、私は壁の絵を見た。
『またあそぼうね』
「……どうだろ」
「戻りたくない?」
「嫌だったわけじゃないですよ」
子どもたちは好きだった。
仕事も嫌いではなかった。
ただ。
「戻れないので」
自分でも驚くほど、何でもない声が出た。
「梨花」
「何ですか?」
「……いや」
「変なの」
私はそれ以上、何も言わなかった。
戻れないものを、戻りたいと願っても仕方がない。
私はずっと、そうやって生きてきた。
夏が終わり、秋になった。
私の身体は少しずつ変わり始めていた。
前なら一人で行けた屋上まで、途中で休まないと行けなくなった。
話しているだけで息が切れることも増えた。
体調が悪くて、一日中ベッドから起き上がれない日もあった。
「今日、屋上どうする?」
「……やめときます」
「そっか」
悠真さんは理由を聞かなかった。
代わりに私の病室に来て、いつものようにくだらない話をした。
それがありがたかった。
「梨花」
「はい」
「悠真」
「悠真さん」
「まだダメ?」
「ダメです」
「付き合って何か月経ったと思ってんの」
「何か月経っても同じです」
「強情だなあ」
「今気づいたんですか?」
何度言われても。
どうしても、呼べなかった。
『悠真』
たった三文字なのに。
口に出そうとすると、昔のことを思い出す。
人との距離が近づいて。
信じて。
自分を見せて。
そして全部が壊れた、あの頃のことを。
悠真さんが嫌なわけじゃない。
むしろ逆だった。
大切になりすぎたからこそ。
怖かった。
秋の終わり。
その日、私は朝から毛糸と格闘していた。
「……違う」
ほどく。
「ここを……こうして……」
また間違える。
「もう……」
慣れないことなんてするものじゃない。
そう思いながらも、もう一度編み直す。
コンコン。
扉をノックする音がした。
「梨花ー」
「えっ」
この声は。
慌てて手元のものを布団の中へ隠す。
「入るよ?」
「ちょ、待っ……」
間に合わなかった。
「何してるの?」
「何も」
「今なんか隠したよね?」
「隠してません」
「いや絶対隠した」
「見間違いです」
「見せて」
「嫌です」
「何で?」
「秘密だからです」
「余計気になる」
悠真さんが布団へ手を伸ばそうとする。
「ダメ!」
「うわっ」
思っていたより大きな声が出た。
「絶対ダメです」
「分かった分かった」
「見たら怒りますからね」
「分かったって」
「ほんと?」
「ほんと」
悠真さんが両手を上げる。
「じゃあ、あっち向いててください」
「怪しいなあ」
「早く」
「はいはい」
悠真さんが後ろを向く。
私は布団の中に隠した毛糸を、そっと握った。
まだ完成には遠い。
冬までには。
できれば、ちゃんと寒くなる前に。
完成させたかった。
その頃から。
不思議なことが起こり始めた。
私ではなく。
悠真さんに。
「今日も検査結果よかった」
「また?」
「またって何だよ」
「最近ずっと言ってるから」
「すごくない?」
「すごいすごい」
「適当!」
「ちゃんと聞いてますよ」
最初は、ほんの小さな変化だった。
数値が少し良くなった。
治療への反応が予想以上にいい。
体調の良い日が増えた。
「最近、元気ですね」
「そうなんだよ」
「私より元気なんじゃないですか?」
「さすがにそれは……」
言いかけて。
二人とも黙った。
多分。
本当にそうなり始めていた。
出会った頃。
悠真さんは、私よりずっと病人らしかった。
痩せていて。
少し動くだけでも苦しそうで。
私より先に、この人がいなくなるのかもしれない。
そう思っていた。
でも今は。
悠真さんは一人で屋上へ行ける。
私は、行けない日が増えた。
「……よかったね」
「何が?」
「元気になってきて」
「まだ分かんないよ」
「でも、よかった」
それは本心だった。
冬になった。
私は、もうほとんど屋上へ行かなくなっていた。
ある日の午後。
病室の扉が勢いよく開いた。
「梨花!」
「うわっ……何ですか、急に……」
「俺……」
悠真さんが息を切らしていた。
でも。
笑っていた。
今まで見たことがないほど嬉しそうな顔だった。
「俺、助かるかもしれない!」
「……え?」
「今日、先生から話があったんだ」
「……」
「まだ治療は続くし、簡単じゃないって。でも、このままいけばって」
「ほんと……?」
「ああ!」
あまりにも嬉しそうで。
私は一瞬、言葉を失った。
「……そっか」
「うん」
「……よかった」
自然と笑みがこぼれた。
「本当に……よかった」
心からそう思った。
悠真さんが生きられる。
この先も。
来年も。
その次の年も。
この人には未来があるかもしれない。
「だからさ」
「……?」
悠真さんが私の手を握った。
「梨花も大丈夫だよ」
「……」
「俺、梨花より酷かっただろ?」
「……うん」
「先生たちだって、こんなに良くなるなんて予想してなかった」
「うん」
「そんな俺でも、ここまで来たんだ」
悠真さんは笑っていた。
本気で信じていた。
「俺はこんな病気でも勝てるかもしれないんだ!」
握られた手が暖かい。
「梨花だって勝てるよ!」
「……うん」
「だから一緒に頑張ろう」
「……うん」
「二人で退院しよう」
「うん」
「退院したら、また水族館行こう」
「……うん」
「次はもっと遠く行こうな」
「うん」
「梨花の行きたいところ、全部行こう」
「……うん」
「それから」
悠真さんが笑った。
「今年も桜、見ような」
一瞬。
あの日の桜が浮かんだ。
満開の桜。
二人で座ったベンチ。
『来年も見ような』
「……そうだね」
私は笑った。
(ごめんね、悠真さん)
(私、治らないの)
(どう頑張っても)
でも。
(よかった)
(悠真さんは、生きられるんだ)
それだけで。
私は嬉しかった。
冬の終わりが近づいた。
病室の窓から見える木々は、まだ寂しい。
でも。
あと少しすれば。
また桜の季節が来る。
「もうちょっとらしいよ」
「……何が?」
「桜」
ベッドの横で悠真さんが言った。
「中庭のやつ。蕾できてるって」
「……そっか」
「今年も見ような」
「……うん」
「去年約束しただろ?」
「覚えて、ますよ……」
「今年は去年より早く場所取っとこう」
「場所取り……必要、ですか?」
「ほら、他の患者さんも見るだろ?」
「ふふ……」
笑う。
それだけで、息が苦しくなる。
「大丈夫?」
「……うん」
「無理して喋んなよ」
「平気……」
平気ではなかった。
もう。
一言喋るだけでも、前よりずっと疲れるようになった。
少し前まで普通に歩いていた廊下も。
大好きだった屋上も。
もう遠い場所になっていた。
多分。
桜は見られない。
分かっていた。
それでも。
「今年、も……見よう、ね……」
「ああ」
悠真さんは嬉しそうに笑った。
その日は、朝から身体が重かった。
息をするだけで疲れる。
目を開けていることさえ、少し面倒だった。
それでも。
悠真さんが来たとき。
私はどうしても、話しておきたいと思った。
「悠真さん」
「ん?」
「あ、あの……ね……」
「うん」
小さく息を吸う。
それだけで胸が苦しい。
「私……ね……」
「うん」
「学校、で……ね……」
言葉が止まる。
呼吸を整える。
悠真さんは何も言わなかった。
ただ、私の手を握って待ってくれていた。
「……いじめ、られてた……の」
「……え?」
悠真さんの表情が変わった。
「けっこう……前、から……」
「……うん」
「私……自分の、こと……出すの……苦手、で……」
「うん」
「特に……男の、人……」
一度目を閉じる。
苦しい。
「梨花、無理して喋らなくていいよ」
私はゆっくり首を横に振った。
「今……言いたい、の……」
「……分かった」
「男の、人……怖くて……」
「うん」
「仲良く、なって……」
息を吸う。
「信じ、て……」
また言葉が止まった。
悠真さんの親指が、私の手の甲をゆっくり撫でている。
「それで……関係、壊れた……こと、あって……」
「……」
「だから……人と、近くなるの……ずっと、怖かった……」
「梨花……」
「悠真さん、が……」
小さく息を吸う。
「悠真って……呼んでよ、って……言う、でしょ……?」
「……うん」
「あれ……ほんとは……」
少しだけ笑った。
「怖かった、の……」
悠真さんは何も言わなかった。
ただ聞いている。
「呼んだら……もっと、近く……なる、気がして……」
「……うん」
「近くなって……また……壊れたら……」
息が苦しい。
それでも。
今だけは言いたかった。
「嫌だった……から……」
「……そっか」
「ごめん、ね……」
「謝らないで」
悠真さんはすぐに言った。
声が少し震えていた。
「そんなこと、謝らなくていいよ」
「……うん」
しばらく。
病室には私の呼吸だけが聞こえていた。
少し休んで。
もう一度、口を開く。
「でも……ね……」
「うん」
「悠真さん、は……違った……」
「……」
「最初、は……怖かった、よ……」
「うん」
「男の、人……だった、から……」
「そっか」
「でも……いつから、かな……」
少しだけ笑う。
「気づいたら……普通に……笑って、た……」
悠真さんの目から、涙が落ちた。
「嫌って……言えたし……」
「うん」
「うるさい、って……言えたし……」
「それは……いっぱい言われたな」
「ふふ……」
小さく笑う。
また息が苦しくなった。
少し休む。
「梨花、もういいよ」
私は首を横に振る。
まだ。
最後まで言っていない。
「私……悠真さん、の……前では……」
「うん」
「ちゃんと……」
息を吸う。
「私、だった……よ……」
悠真さんは顔を俯けた。
私の手を握る指が震えている。
「……ありがとう」
「何で……悠真さん、が……言うの……」
「だって……」
悠真さんが顔を上げる。
泣きながら笑っていた。
「俺と会ってくれて、ありがとう」
「……変、なの……」
「知ってる」
「ふふ……」
目を閉じる。
少し疲れた。
でも。
言えてよかった。
それから少しずつ。
起きていられる時間が減っていった。
眠って。
目を覚まして。
また眠る。
そんな日が続いた。
その日も。
目を開けると、悠真さんがいた。
「……ゆう、まさん……」
「起きた?」
「……うん」
「今日さ、中庭見てきた」
「……桜?」
「うん」
「どう……?」
「もうちょっと」
「……そっか」
「だからさ」
悠真さんは私の手を握る。
「あとちょっとだけ頑張ろう」
「……うん」
「咲いたら一緒に見に行こう」
「うん……」
「またあのベンチ座ろう」
「……うん」
「今年は写真も撮ろうな」
「うん……」
「それから」
悠真さんは未来の話をする。
夏の話。
秋の話。
また冬が来たときの話。
私は聞いていた。
どれも。
私には来ない季節だった。
でも。
悠真さんには来る。
だから。
それでよかった。
「梨花」
「……ん?」
「来年も」
悠真さんの声が詰まった。
「来年も、桜見よう」
「……」
「その次も」
「……うん」
「ずっと」
「……うん」
悠真さんが泣いている。
私は少しだけ指を動かした。
握り返したかった。
でも。
もうほとんど力が入らなかった。
眠い。
身体が重い。
目を閉じたら。
今度こそ、もう開けられないような気がした。
それでも。
不思議と怖くなかった。
保育園の子どもたちの顔が浮かんだ。
父。
母。
弟。
友達。
病室に貼った、たくさんの絵。
初めて悠真さんと会った廊下。
何度も話した屋上。
水族館。
そして。
満開の桜。
楽しかった。
思っていたより。
ずっと。
「梨花?」
悠真さんの声が聞こえる。
この人と出会えてよかった。
悠真さんの前で。
私は初めて。
ずっと隠していた私のままでいられた。
だから。
最後くらい。
「ゆ……」
声が出ない。
「梨花?」
悠真さんが顔を近づける。
もう一度。
ゆっくり息を吸った。
「ゆ……悠真……」
「……!」
悠真さんの目が見開かれた。
初めてだった。
最初で最後。
ずっと怖くて呼べなかった名前。
でも今は。
不思議なくらい、怖くなかった。
「梨花……」
「いっつ、も……」
息を吸う。
苦しい。
でも。
あと少しだけ。
「……あ、りがと……うね……」
悠真さんの手を。
ほんの少しだけ。
握った。
悠真さんが何かを言っている。
でも。
もうよく聞こえなかった。
目を閉じる。
最後に浮かんだのは。
あの日の桜だった。
一年前。
二人で見上げた。
満開の桜。
来年には私はいない。
ずっと、そう思っていた。
その通りになった。
だけど。
あの頃の私が知らなかったことが、一つだけある。
一年は。
思っていたよりずっと短くて。
思っていたよりずっと。
あたたかかった。
もう最終回ですね〜!
他のやつも見てくださいね!
では、ばいのりちゃ!
来年の春も、咲くのかな エピローグ
梨花が亡くなってから、数日が経った。
あの日から。
時間だけが、何事もなかったみたいに進んでいた。
朝になって。
昼になって。
夜になって。
また朝が来る。
梨花がいなくなっても。
世界は普通に動いていた。
それが、どうしようもなく変な感じだった。
病院の廊下を歩けば、今にも向こうから梨花が歩いてくる気がする。
屋上へ行けば。
いつものベンチに座っている気がする。
「またいますね」
そう言われる気がする。
でも。
どこにもいない。
梨花は、もういない。
その日。
悠真は梨花の両親に呼ばれ、梨花が使っていた病室を訪れていた。
もうベッドに梨花はいない。
壁に貼られていた園児たちの絵も、ほとんど片付けられていた。
何もない病室。
こんなに広かっただろうか。
「悠真くん」
梨花の母親に呼ばれ、振り返る。
その手には、一つの袋があった。
「これね」
「……?」
「梨花の荷物を整理してたら出てきたの」
母親は、その袋を悠真へ差し出した。
「あなたに渡すつもりだったみたい」
「俺に……?」
「ええ」
受け取る。
思ったより軽い。
ゆっくり袋を開けた。
「……あ」
中に入っていたのは。
一本のマフラーだった。
淡い色の毛糸で編まれた、少し不格好なマフラー。
編み目はところどころ揃っていない。
特に端の方は、最初の方よりずっと歪んでいた。
その瞬間。
思い出した。
『何してるの?』
『何も』
『今なんか隠したよね?』
『隠してません』
『見せて』
『嫌です』
『何で?』
『秘密だからです』
「……これだったんだ」
声が震えた。
あの日。
梨花が布団の中に慌てて隠したもの。
ずっと作っていたもの。
「梨花ね、編み物なんてほとんどしたことなかったのよ」
母親が小さく笑った。
「急に毛糸が欲しいって言い出して」
「……」
「何作るのって聞いても、全然教えてくれなくて」
悠真は何も言えなかった。
マフラーをそっと手に取る。
柔らかかった。
少しだけ顔を近づける。
「……梨花」
ほんの僅かに。
本当に、僅かに。
梨花の匂いがした。
悠真は目を閉じた。
もう一度。
梨花に抱きしめられたような気がした。
「それとね」
梨花の母親が、もう一つ差し出す。
白い封筒だった。
表には。
『悠真さんへ』
見慣れた字で、そう書かれていた。
「……手紙?」
「うん」
母親は小さく頷いた。
「一人のときに読んであげて」
「……はい」
悠真は封筒を受け取った。
その日は。
手紙を開けることができなかった。
夜。
一人になって。
悠真はようやく封筒を開いた。
中には、一枚の便箋が入っていた。
少し震えたような字。
それでも。
間違いなく梨花の字だった。
『悠真さんへ
これを読んでるってことは、私はもういないのかな。
こういう書き出し、一回やってみたかったんだよね。笑
マフラー、ちゃんと完成してた?
途中から手がうまく動かなくなって、結構ぐちゃぐちゃになっちゃいました。
下手でも捨てないでね。
一応、頑張ったんだから。
悠真さん。
私ね、余命が一年くらいだって知ったとき、本当に何とも思わなかったんだ。
来年には私はいないんだなって。
ただ、それだけだった。
それまでの私には、来年にしたいことなんて特になかったから。
でもね。
悠真さんと会ってから、一年って短いんだなって思った。
屋上でもっと話したかった。
また水族館に行きたかった。
くだらないことで笑いたかった。
もう一回、一緒に桜が見たかった。
やりたいこと、ちゃんとあったみたい。
でも、後悔してるわけじゃないよ。
最後の一年に悠真さんがいてくれて、本当によかった。
あと。
ずっと「悠真って呼んで」って言ってたでしょ。
最後まで呼べなかったら、ごめんね。
私には、ちょっとだけ難しかったんだ。
でも。
いつか呼べたらいいなって思ってる。
悠真さん。
絶対、生きてね。
私が見られない来年の桜も。
その次の桜も。
できれば、ずっと先の桜まで。
ちゃんと見てください。
ありがとう。
大好きでした。
梨花』
読み終わっても。
悠真は、しばらく動かなかった。
何度も。
何度も。
同じところを読み返した。
『最後まで呼べなかったら、ごめんね。』
そこで、悠真の視界が滲んだ。
「……呼んだじゃん」
涙が便箋の上に落ちる。
「最後に……ちゃんと呼んだじゃん……」
『ゆ……悠真……』
あの声が。
今でも耳に残っている。
最初で最後に。
梨花が自分を呼び捨てにした声。
「……遅いよ」
悠真は泣きながら笑った。
「ほんと……遅すぎるんだよ……」
マフラーを抱きしめる。
梨花の匂いがする。
まだ。
ここにいるような気がする。
「梨花……」
声に出した瞬間。
今まで堪えていたものが、全部途切れた。
悠真は。
初めて、声を上げて泣いた。
それから、時間は流れた。
悠真の身体は、少しずつ回復していった。
治療を続けて。
検査をして。
また治療を受けて。
少しずつ。
本当に少しずつ。
病院の中を自由に歩けるようになった。
そして。
病院の外を歩けるようになった。
一人で電車に乗った。
一人で買い物へ行った。
以前なら当たり前だったことを、一つずつ取り戻していった。
梨花が生きられなかった一日を。
悠真は一日ずつ、生きていった。
そして。
春が来た。
「……」
悠真は病院の中庭に立っていた。
首には、一本のマフラー。
もう暖かい季節だ。
正直、少し暑い。
それでも。
今日だけは外したくなかった。
ゆっくり歩く。
そして。
あのベンチの前で立ち止まる。
一年前。
二人で座った場所。
『綺麗ですね』
『だろ?』
『悠真さんが咲かせたみたいに言わないでください』
『俺が咲かせた』
『はいはい』
あの日と同じ場所に。
今年も。
桜が咲いていた。
満開だった。
「……咲いたよ、梨花」
当然。
返事はない。
悠真は一人でベンチに座った。
桜を見上げる。
一年前は。
隣に梨花がいた。
今年は。
いない。
風が吹く。
桃色の花びらが空を舞った。
「去年さ」
悠真は一人で呟く。
「来年も見ようって言ったじゃん」
笑う。
「約束、破ったな」
少しだけ。
声が震えた。
でも。
涙は出なかった。
悠真は首元のマフラーに触れる。
梨花の匂いは。
もうほとんど残っていなかった。
最初は確かにしたのに。
少しずつ。
少しずつ。
消えていった。
いつか。
完全に分からなくなる日が来るのかもしれない。
それでも。
マフラーに触れるたびに思い出す。
布団の中へ慌てて何かを隠した梨花。
水族館で怒ったふりをした梨花。
屋上で笑った梨花。
桜を見上げた梨花。
『悠真さん』
何度頼んでも、最後までそう呼び続けた梨花。
そして。
『ゆ……悠真……』
一度だけ。
たった一度だけ。
名前を呼んでくれた梨花。
中庭の向こうから、子どもたちの声が聞こえた。
「せんせー!」
一人の子どもが、若い保育士のところへ走っていく。
その姿を見て。
悠真は少し笑った。
「……梨花」
返事はない。
それでも。
話しかけたかった。
「俺、生きてるよ」
桜を見上げる。
「ちゃんと、生きてる」
梨花が見ることのできなかった桜。
梨花が過ごすことのできなかった春。
その中に、今。
自分はいる。
悠真はポケットから、何度も読み返して少しくたびれた手紙を取り出した。
最後の方に書かれた言葉。
『私が見られない来年の桜も。
その次の桜も。
できれば、ずっと先の桜まで。
ちゃんと見てください。』
悠真は手紙をそっと畳んだ。
「……ちゃんと見てるよ」
首元のマフラーに触れる。
もう梨花の匂いはほとんどしない。
梨花の体温だって、当然残っていない。
それなのに。
不思議だった。
「あったかいよ、梨花」
悠真は笑った。
そして。
ベンチから立ち上がった。
「じゃあ、また来るよ」
少し歩いてから。
もう一度だけ振り返る。
満開の桜。
あの日と、ほとんど変わらない景色だった。
梨花はいない。
それだけは。
どんな奇跡にも変えられなかった。
でも。
梨花がいた一年は。
消えなかった。
梨花が笑ったことも。
怒ったことも。
自分を好きだと言ってくれたことも。
最後に。
『悠真』と呼んでくれたことも。
全部。
悠真の中に残っている。
「……また来年」
春の風が吹いた。
満開の桜から。
一枚の花びらが舞い落ちる。
それは悠真の首元へ落ちて。
梨花が編んだマフラーの上で。
そっと止まった。
では、ばいのりちゃ!
結構今回は自信作です!