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最強と最凶
——世界が、一瞬で反転した。
つい先刻まで所属する帝国軍の陣地にいたはずのカイ・クレプシスは、気づけば見知らぬ広大な平原の真ん中に立っていた。大気の匂いも、満ちている魔力の質もまるで違う。
「おやおや……これは噂に聞く『次元転移』ってやつかな? 参ったね、迷子になっちゃった」
いつもの糸目笑顔を浮かべ、カイは飄々と頭を掻く。
だが、事態は呑気なものではなかった。突然の強制転移の衝撃により、カイの体内で眠る強大すぎる氷の魔力が、彼の意志から離れて微かに「暴走」を始めていたのだ。
カイの足元から、禍々しい黒白色の氷が、凄まじい速度で周囲の平原へと伝播していく。
触れた大地がサラサラと消滅し、空間そのものが削り取られていく。このまま暴走が続けば、数キロ先にある都市ごと、世界の理が消えてなくなる。カイ自身には攻撃の意志は一切ない。ただ、そこに立っているだけで世界を滅ぼす「歩く天災」と化していた。
その破壊の波が、一人の青年の前でピタリと止まった。
燃えるような赤髪に、透き通るような青い瞳。白い騎士服を纏った、ルグニカ王国が誇る最強の象徴――剣聖ラインハルト・ヴァン・アストレア。
「——そこまでだ」
ラインハルトの瞳には、かつてないほどの警戒と、それ以上の痛ましさが宿っていた。
彼が持つ『嘘を見抜く加護』や数多の加護が、目の前の「糸目の男」に悪意や攻撃の意志が一切ないことを告げている。男はただ、困ったように笑っているだけだ。
だが、その足元から広がる氷は、世界のすべてを消し去る明確な「世界の敵」だった。
「あなたに戦う意志がないことは分かっている。でも、その力を止めなければ、この先にある街の人々が消え去ってしまう。……人々の命を護るため、僕はあなたを止めなければならない!」
ラインハルトが正義のために、そして人々を救うという最もな大義のために、その腰にある龍剣『レイド』の柄に手をかける。
剣聖の強大すぎる器に応じ、世界の理が龍剣の抜剣を許可した。キィィンと、大気を震わせる神聖な音が響く。
それを見たカイは、ふっと糸目笑顔を消した。
剥き出しになった、酷く冷徹で、濁りきった「素」の瞳。
「僕が望んでこの力を持って生まれたとでも? 望んでここに降ってきたとでも思ったのかい。世界に愛され、望むままの『加護』を与えられてヒーローやってるお前なんかにさ……触れるものすべてを消し去り、誰の目にも映らない化け物として生きていくしかない僕の気持ちなんて、1ミリも理解できるわけがないだろう」
「……それでも、僕は誰も死なせたくない!」
刹那、ラインハルトが踏み込んだ。
光速をも超える一閃。放たれた剣圧は空間を裂き、世界そのものを再構築するほどの絶対的な破壊の光となってカイへと殺到する。
——だが、カイは一歩も動かない。ただ、自身の周囲に極薄の氷を一枚、音もなく張っただけだ。
「——無駄だよ」
直撃したはずの剣聖の一撃が、カイの展開した薄氷の壁に触れた瞬間、すべての威力を吸い取られて霧のように消え失せた。
世界最強の剣聖の攻撃が、完全に無効化される。その理不尽な光景に、さしものラインハルトも微かに目を見張った。
「アハハ、すごいね剣聖様! でも、僕の仮面を剥ぎ取ろうなんて、100年早いんだよ」
カイは再び狂気的な糸目笑顔を顔面に貼り付け、その姿をふっと空気の中に消し去る。気配も、魔力も、因果すらも消えた完全な虚無。
ラインハルトの『気配を察知する加護』すらも何も捉えられずに虚空を掴む。死角――いや、どこでもない「空間そのもの」から、絶対的な死の気配が爆発した。
パキパキパキ、と大気が凍りつく音が四方八方から同時に響く。
カイが姿を消したまま展開した、氷の棘がラインハルトを包み込み、一斉に殺到する。
「ハァッ——!」
ラインハルトは龍剣『レイド』を凄まじい速度で一閃させた。
迫り来る氷の茨をことごとく粉砕する。だが、砕け散った氷の破片がラインハルトの頬をかすめた瞬間、世界がラインハルトのピンチを察知した。
——っ、『必中の加護』……!
世界が剣聖に、新たな最強のチートを授けた。放った攻撃が、どんな遮蔽も隠密も無視して、必ず「標的」に命中する絶対の加護。
ラインハルトがその神速の刃を、不可視の虚空へと向けて振り抜く。世界のルールが「ラインハルトの勝ち」を確定させた瞬間。
——しかし、カイ・クレプシスという男の恐ろしさは、そこからだった。
ガキンッ、と、ラインハルトの刃が「虚空の何か」に物理的に弾かれた。
姿を現したカイは、最初から避ける気などさらさらないように、ラインハルトの剣の軌道上に、ピンチの瞬間にだけ『攻撃無効化の氷』をピンポイントで合わせていたのだ。
「『必ず当たる』なら、大人しく当たってあげるよ。……でもさ、当たった攻撃の威力が『ゼロ』になるなら、それは当たっていないのと同じだよねぇ?」
糸目を細め、歪んだ愉悦を浮かべるカイ。
彼は最初から、ラインハルトとまともに切り結ぶ気など毛頭なかった。
飄々と毒舌を吐き、糸目笑顔で相手を挑発しながら、ラインハルトの『加護の予測』をあえて自分の肉体の動きだけに集中させ、思考の死角となった足元に、最低限の魔力で氷のラインを結んでいた。
ラインハルトの全力を込めた踏み込みのエネルギーは、地面の氷に触れた瞬間、すべて無効化されている。どれほど最強の脚力を持っていようとも、地面を蹴る力がゼロになれば、一歩も前に進めない。
カイの軍人歴13年、29個の前科。それは、彼がルミナス聖教皇国をはじめとする数々の国家を、武力だけでなく「完璧な策略と、人間の心理の隙を突く頭脳」によって破滅に追い込んってきた証拠だった。
相手の勝ち確定のチート(加護)が発動することすら計算に入れて、最初から「ハメ殺す」ための盤面(チェス)を構築する。それがカイの真骨頂。
「本当に、底が知れないな、君は」
ラインハルトの額に、冷たい汗が伝う。
目の前にいる男は、ただ強いだけではない。こちらの「正しさ」や「強さ」をすべて理解した上で、その裏をかくためだけに、世界で最も冷徹に頭脳を回転させている。
だが、二人の怪物が交わしたエネルギーの残滓により、空間の臨界点はとうに突破していた。
カイの足元に、元の世界へと引き戻す次元の亀裂が完全に開く。
「おっと、チェックメイトの前にタイムアップだ。残念だねぇ」
カイはふっと仕込み刃を収め、いつもの飄々とした糸目笑顔に戻る。
この異世界への転移から、ラインハルトとの遭遇、そして今この瞬間に至るまで、すべてはカイの頭脳の中で「無傷で生き残るための生存戦略」として処理されていた。
「じゃあね、眩しすぎる剣聖様。君とのチェスは楽しかったよ」
亀裂に呑み込まれ、姿が消え去る直前。
カイは仮面の奥の、濁りきった「素」の瞳でラインハルトを見下ろし、その圧倒的な頭脳の底知れなさを残したまま、不気味に笑って消え去った。
後に残されたのは、完璧にその頭脳で立ち回られ、一太刀も浴びせられなかった無敗の剣聖ラインハルトだけだった。