公開中
第7話 恋わずらいのシナモン・チャイ
十二月中旬。街はきらびやかなクリスマスのイルミネーションに彩られ、行き交う恋人たちの楽しげな声が響いていた。
そんな喧騒から逃れるように、一人の女性が喫茶『レトロ』のドアを押した。
カランコロン。
「いらっしゃいませ。外は冷え込みますね。ストーブの近くの席へどうぞ」
店主の蓮(れん)は、いつものように穏やかな笑顔で彼女を迎えた。
入ってきたのは、品のあるシックなコートを着た女性――会社員の絵里(えり・32歳)。彼女はどこか寂しげな瞳で店内の古い調度品を眺め、勧められた席に腰を下ろした。
メニュー表をめくりながら、絵里は小さくため息をつく。
「……なんだか、胸がちくちくするような名前ばかりですね」
「お心の状態によって、見え方が変わるメニューでございますから。本日はどちらにされますか?」
「それじゃあ……この『恋わずらいのシナモン・チャイ』を。少しスパイスを強めでお願いします」
蓮が静かに一礼して厨房へ下がり、静かなジャズの旋律が店を満たす。
絵里は窓の外の、冷たい夜風に揺れる木々をじっと見つめていた。
(今年も、もうすぐあの人が旅立った季節が来るんだな……)
二十代の後半、絵里にはどうしても忘れられない恋人がいた。お互いに心から愛し合っていたけれど、彼はカメラマンとしての夢を追って海外へ拠点を移すことを決めた。絵里には日本での仕事があり、付いていく勇気はなかった。
『お互いの未来のために、ここで終わりにしよう』
大好きなまま、笑顔で手を振って別れたあの日。それ以来、絵里は「もしあの時、すべてを捨てて付いていっていれば」という、割り切れない後悔をずっと胸の奥に閉じ込めて生きてきた。新しい恋をする一歩が、どうしても踏み出せないままでいた。
「お待たせいたしました。『恋わずらいのシナモン・チャイ』です」
蓮が置いたのは、素朴な土物のカップ。
濃厚なミルクの甘い香りと、シナモンやジンジャーのエキゾチックで刺激的な香りが、湯気とともにふわりと立ち上る。
絵里はカップを両手で包み込み、ゆっくりと口をつけた。
ピリッ、と心地よいスパイスの刺激と、それを包み込むハチミツの甘さ。
その瞬間、絵里の頭の中で、カチリと古い時計の針が重なった。
視界が急に、数年前のあの、切なくも眩しい空港のロビーへと変わっていく。
耳の奥で、ジャズの音ではない、喧騒の中の優しい声が聞こえ始めた。
――飛び立つ飛行機の、遠いエンジン音。
――「絵里と出会えて、俺の人生は本当に幸せだった。ありがとう」と抱きしめてくれた、彼の腕の温もり。
『絵里、離れても、俺たちの恋は失敗なんかじゃないよ。お互いを一生懸命愛した時間は、これからの俺の光になるから』
頭の中に、はっきりと彼の最後の言葉が蘇った。
諦めたんじゃない。お互いの人生を尊重し、お互いの未来を心から応援するために、二人はあの「最高の決別」を選んだのだ。後悔ばかりで曇らせていい思い出ではなかったはずだ。
「……バカだな、私。あんなに綺麗に送り出してもらったのに」
絵里の目から、温かい涙がぽろぽろとチャイの中にこぼれ落ちた。
けれど、その涙はとても静かで、不思議なほど胸の痛みを洗い流していくようだった。
絵里は涙を拭うと、チャイを最後の一滴まで大切に飲み干した。
凍りついていた胸の奥が、スパイスの効果でぽかぽかと温かくなっていく。
「ごちそうさまでした。……やっと、あの恋を『宝物』だって思える気がします」
「それは良かったです。とても美しい『忘れ物』でしたね」
蓮はお代を受け取り、いつものように穏やかに微笑んだ。
絵里はバッグを肩にかけ、今度はすっきりとした晴れやかな笑顔で店を出ていった。彼女の足取りは、新しい季節へ向けて軽やかに踏み出されていた。
カランコロン。
静けさを取り戻した店内で、蓮はカウンターの隅の日記帳を開いた。
――『恋わずらいのシナモン・チャイ。30代女性。愛し合って別れた恋の記憶』――
万年筆で文字を書き留めながら、蓮は自分の左手の薬指をそっと見つめた。
そこに残る、うっすらとした白い線の跡。
(僕にも……こんな風に、お互いのために笑顔で別れた『誰か』がいたのだろうか)
その時、頭の奥で、誰かの声がかすかに響いた。
『蓮くん、お願いだから、前を向いて生きて――』
「……っ」
蓮はハッとして辺りを見回したが、店内には誰もいない。ただ、誰も座らせないカウンターの端の席で、白いマーガレットが夜風に小さく揺れているだけだった。
蓮は、消えかかった声の残響を惜しむように、静かに日記帳を閉じた。
最後まで読んでいただきありがとうございます!やっと7話に辿り着くことができました。
感想などございましたらファンレターへお願いします!