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Ⅵ「一流」
浮遊感。
内臓がせり上がる感覚。
十メートル、二十メートル……。
並木道の頂が、足の下へと沈んでいく。
急激な気圧の変化で耳の奥が詰まる。
密着したシュウの心臓の鼓動が、制服越しに伝わってくる。
口を開くと強風が勢いよく滑り込む。
「遊園地、のアトラクションみたいね」
「言っ、てる場合じゃない! 僕らを襲ってるあれは何!」
「風の精霊に見える」
精霊とは、清らかな自然の循環が生み出すエネルギーの結晶。
いわば無垢な自然そのものだ。
「こんな精霊がいるものかな。魔物の類じゃないか?」
シュウの疑念はもっともだった。
学園は深山の奥底や水源より人間の往来が激しい。
本来、精霊が好んで彷徨うはずがない。
「そうだけど、魔物にしては、手加減されている気がする」
風に煽られながら、チカゼは周囲を見渡した。
仰け反るようにして精霊を視界に捉える。
その大胆な荒業とは裏腹に、白銀の姿は今にも消えそうなほど儚く、頼りない。
「手加減? 確かに、意外なほど緩やかな上昇だ。けど、精霊の気配は正直読み切れない。風の流れも僕の専門外だ……何をしようとしているのか、さっぱりだよ」
「こっちも全く分からない。かなりの玄人よ。最初の風も、たぶん、わざと私に気づかせてた」
空間を掌握する風の流れ、その複雑さ。
初めは数人に包囲されたと錯覚した。
(恐ろしい)
この精霊一体以外にそれらしき姿はない。
「……精霊は僕がなんとかする。君は着地を任せた……大丈夫かい?」
「ええ」
チカゼはぼんやりと地上を見下ろす。
高さはすでに三十メートルを超えている。
ここから自由落下すれば、魔法のクッションなしでは百パーセント助からないだろう。
(あまり聞かない話だけど)
もしこの精霊に殺意があるのなら、もはや詰みだ。
相手の技術は二人を遥かに凌駕している。
どんな魔法も塵のように吹き飛ばされてしまう。
(おまけに私の頭が働かない)
諦めるのは癪だった。
思考が潤滑油の切れた歯車のように重い。
寒さのせいだろうか。
急降下。
重力という冷徹な法則が、容赦なく二人を地表へと引きずり戻し始めた。
シュウが何かを叫んでいるが、風切り音に掻き消されて聞こえない。
指先が冷たい。
視界の端で、解けた髪が生き物のように踊っている。
街灯のオレンジ色が、猛烈な勢いで迫り、巨大化していく。
二十メートル、十メートル。
本来なら、風属性である自分がどうにかしなければならない。
『一流の魔導士たる者は……』
シュウを守り、自分を守り、優雅に着地してみせなければならない。
すぐ真下に、アスファルトの冷たい黒が見えた。
チカゼの脳内の歯車は、ついに完全に停止しようとしていた。
意識が、ぷつりと糸が切れるように真っ暗な淵へ沈む。
「悪かった。無事か。大丈夫か。怪我はないか」
低い声が聞こえる。
チカゼは目をこじ明けようとした。
一瞬、紅い宝石が見えた。
「……だいじょう、ぶ、じゃない……髪が」
朦朧とする意識の中で答える。
「髪かよ。もっと他にあんだろ」
呆れたような、けれどどこか安堵したような響き。
それを最後に、チカゼは今度こそ、眠りの中へ落ちていった。