ある日見えてしまった誰かの記憶
それは僕自身にとってどうなるのか
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目次
死亡ログイン ①誰にも見えてはいけない記憶
ある日突然見えてしまった記憶
人には誰にも知られたくない秘密がある。
たとえば、誰を好きなのか。
たとえば、本当は何が嫌いなのか。
たとえば、一生誰にも言うつもりのない後悔。
だがもし、その全てを覗けるとしたら。
その日から、俺の世界は壊れ始めた。
六月の終わり。
湿った風が校舎の窓を揺らしていた。
俺こと相沢蓮は、退屈な数学の授業を受けていた。
黒板に並ぶ数字を見ながら、窓の外へ視線を向ける。
雲が低い。
今にも雨が降りそうだった。
「相沢」
教師の声が飛んできた。
「次の問題」
「え?」
「聞いてなかったのか?」
教室中の視線が集まる。
しまった。
何も聞いていない。
適当に答えようと口を開いた、その瞬間だった。
頭の中に突然、映像が流れ込んできた。
見覚えのない景色。
夜のコンビニ。
レジに立つ教師。
缶ビール。
レジ横の雑誌。
そして教師の声。
『仕事辞めてえな……』
映像は一秒ほどで消えた。
蓮は固まった。
教師が眉をひそめる。
「相沢?」
「あ、すみません」
なぜだ。
今のは。
夢ではない。
妄想でもない。
あまりにも鮮明だった。
授業終了後。
蓮は教師を追いかけた。
「先生」
「ん?」
「コンビニで働いてたことあります?」
教師の顔が凍った。
「なんで知ってる」
蓮の心臓が跳ねた。
図星だった。
教師は明らかに動揺している。
「いや、なんとなく」
「あっそ」
教師は足早に去っていく。
蓮は立ち尽くした。
偶然じゃない。
本当に見えたのだ。
他人の記憶が。
その日の帰宅後。
何度も試した。
電車の乗客。
通行人。
コンビニ店員。
目が合った瞬間、映像が流れ込んでくる。
昨日食べた昼食。
友人との会話。
幼い頃の思い出。
断片的な記憶。
まるで動画を再生するように見える。
「なんだよこれ……」
吐き気がした。
理解不能だった。
翌日。
能力は消えていなかった。
むしろ強くなっていた。
親友の大輝を見る。
映像が流れる。
放課後。
教室。
大輝がクラスメイトの美咲を見つめている。
『言えるわけないだろ……』
好きなのか。
こいつ。
蓮は思わず吹き出した。
「何笑ってんだよ」
「いや別に」
怖かった。
人の秘密が勝手に見えてしまう。
知りたくもないのに。
まるで世界中の人間がガラス張りになったようだった。
そして三日後。
それは起きた。
学校帰り。
夕暮れの商店街。
雨上がりの道路に街灯が反射していた。
蓮は足を止める。
見知らぬ少女が立っていた。
黒髪。
白いパーカー。
年齢は同じくらいだろうか。
どこか異様だった。
人通りがあるのに、その少女だけが周囲から切り離されているように見えた。
少女がこちらを見る。
その瞬間。
能力が発動した。
視界が真っ白になる。
「っ!」
膨大な情報。
今までとは比較にならない。
頭が割れそうなほどの映像。
燃える街。
崩壊したビル。
血。
叫び声。
燃え上がる空。
逃げ惑う人々。
そして。
空に浮かぶ巨大な黒い裂け目。
世界そのものが裂けていた。
映像は続く。
誰かが叫ぶ。
『終わりだ』
『間に合わない』
『観測された』
意味が分からない。
次々と流れる終末の光景。
そして最後。
蓮は見てしまった。
崩壊する都市の中心。
瓦礫の上に立つ少年。
制服姿。
血だらけの顔。
震える手。
見覚えがある。
自分自身だった。
「なんだよ……これ」
膝から力が抜けた。
少女の記憶が途切れる。
いや違う。
これは記憶じゃない。
まだ起きていない光景だ。
未来。
そうとしか思えなかった。
蓮が顔を上げる。
少女はそこにいた。
静かに見つめている。
「お前……誰だ」
少女は少しだけ悲しそうな顔をした。
「見ちゃったんだね」
「今のは何なんだよ!」
「時間がない」
「答えろ!」
少女は一歩近づいてくる。
街灯の光が横顔を照らす。
どこか不思議だった。
初めて会ったはずなのに。
昔から知っているような感覚。
「あなたはもうログインしている」
「は?」
「本当は選ばれるはずじゃなかった」
「意味分かんねえよ」
少女はしばらく黙った。
そして小さく呟く。
「三日後に世界が終わる」
蓮の呼吸が止まる。
「……何」
「だから急いで」
「待て!」
少女は背を向ける。
走り出した。
「おい!」
蓮も追いかける。
だが角を曲がった瞬間、
少女の姿は消えていた。
行き止まりだった。
隠れる場所もない。
まるで最初から存在しなかったみたいに。
蓮は荒い息を吐く。
背中を冷たい汗が流れた。
三日後に世界が終わる。
ふざけた話だ。
信じられるはずがない。
けれど。
あの映像だけは忘れられなかった。
燃える空。
巨大な裂け目。
そして、
自分自身。
ポケットのスマホが震えた。
通知が一件届いている。
知らない差出人。
件名はない。
本文はたった一行。
残り72時間
蓮の顔から血の気が引いた。
次の瞬間。
画面が真っ黒になった。
その黒い画面に。
蓮は確かに見た。
自分の後ろに立つ、
もう一人の自分を。
6時34分
死亡ログイン ②残り72時間
だいぶホラー?
スマホを取り落としそうになった。
蓮は反射的に振り返る。
だが、誰もいない。
街灯が照らす狭い路地には、雨上がりの水たまりがあるだけだった。
「……見間違いだろ」
そう言った自分の声が震えている。
もう一度スマホを見る。
画面は正常だった。
ホーム画面が表示されている。
さっきの黒い画面も、後ろに立つもう一人の自分も存在しない。
「なんなんだよ……」
蓮は急いで家へ向かった。
途中、何度も後ろを振り返った。
誰かにつけられている気がしたからだ。
しかし誰もいない。
それなのに背中だけが冷たい。
まるで見えない何かがずっと自分を見ているようだった。
その夜。
蓮は眠れなかった。
三日後に世界が終わる。
残り七十二時間。
意味不明なメッセージ。
消えた少女。
頭の中がぐちゃぐちゃだった。
午前二時を回った頃。
蓮はベッドから起き上がった。
「もう一回確かめるか」
スマホを取り出す。
知らない差出人から届いたメッセージを開く。
そこには依然として、
残り72時間
と表示されていた。
送信元情報を確認する。
番号は存在しない。
メールアドレスでもない。
差出人の欄には妙な文字列だけが並んでいた。
ERROR.LOG_0001
「なんだよこれ」
蓮が画面をスクロールした瞬間だった。
突然、本文が変化した。
文字が増えていく。
誰かがリアルタイムで入力しているように。
蓮の全身が固まる。
表示された文章は一行だけだった。
後ろを見るな
その瞬間。
蓮は背後から気配を感じた。
部屋の空気が変わる。
誰かいる。
確かにいる。
ベッドの後ろ。
窓際。
暗闇の中に。
息を飲む。
振り返るべきか。
振り返るなという警告を無視すべきか。
心臓が暴れる。
鼓動が耳の中で鳴り響く。
十秒。
二十秒。
三十秒。
蓮はゆっくり振り返った。
しかし、
何もいなかった。
「はぁ……」
大きく息を吐く。
自分で自分を怖がらせているだけだ。
そう思った時、
机の上の鏡が目に入った。
蓮は凍り付いた。
鏡の中。
部屋の隅。
そこに誰か立っていた。
黒い人影。
顔が見えない。
人間の形をしている。
だが異常だった。
首だけが不自然に長い。
影はじっと蓮を見ていた。
「うわっ!」
蓮は反射的に振り返った。
誰もいない。
再び鏡を見る。
影も消えていた。
翌日。
学校へ向かう途中も蓮の頭から昨夜のことは離れなかった。
寝不足のまま教室へ入る。
「おはよう」
親友の大輝が声をかける。
「死にそうな顔してるぞ」
「そう見えるか?」
「見える」
大輝は笑った。
だがその瞬間。
能力が発動した。
映像が流れ込む。
放課後の教室。
大輝。
美咲。
そして、
泣いている美咲。
『なんで隠してたの』
『違う、俺は知らなくて』
『嘘つき』
映像が終わる。
「……え?」
「どうした?」
「いや」
蓮は戸惑った。
今見えたのは過去の記憶ではない。
未来だ。
まだ起きていない。
昨日の少女と同じだった。
その日の昼休み。
蓮は能力を試してみる。
クラスメイトを見つめる。
映像が流れる。
体育館。
放課後。
転倒事故。
保健室。
また別の生徒を見る。
映像が流れる。
自宅。
電話。
母親との会話。
どれも未来だ。
「未来ばっかり……」
蓮は青ざめた。
能力が変化している。
他人の記憶だけではない。
未来まで見え始めている。
放課後。
蓮は昨日の商店街へ向かった。
少女を探すためだ。
見つけなければならない。
名前も知らない。
だがあいつだけが何か知っている。
夕暮れ。
昨日と同じ場所。
少女はいなかった。
代わりに一人の老人がベンチに座っていた。
蓮は通り過ぎようとして、
足を止める。
能力が勝手に発動した。
老人のログが見える。
映像。
若い頃の老人。
結婚式。
家族。
子供。
そして。
最後に真っ暗な部屋。
モニター。
画面の中に映る文字。
被験者No.173観測中
その文字を見た瞬間。
老人のログが途切れた。
「観測中……?」
老人がこちらを見た。
目が合う。
次の瞬間。
老人の表情が変わった。
驚愕。
恐怖。
絶望。
「まさか……」
老人は震える声で言った。
「君に見えているのか」
蓮の背筋が凍る。
「何がですか」
老人は立ち上がった。
周囲を見回す。
誰かに聞かれていないか確認するように。
「逃げろ」
「え?」
「もう始まっている」
「何が」
老人の顔から血の気が引いている。
まるで何かを思い出したかのように。
「観測者が君を見つけた」
その瞬間。
老人のスマホが鳴った。
通知音。
老人が画面を見る。
顔色がさらに悪くなる。
蓮も画面を覗き込んだ。
そこに表示されていたのは、
ログアウト実行
という文字だった。
「待ってください!」
蓮が叫ぶ。
だが老人は何も答えない。
膝から崩れ落ちた。
意識を失ったように動かない。
「おじいさん!」
肩を揺さぶる。
反応がない。
周囲がざわつき始める。
その時だった。
蓮のスマホが震えた。
新しい通知。
差出人は同じ。
ERROR.LOG_0001。
本文には、
たった一行だけ。
次はお前だ
蓮は震える指で画面を見つめた。
そして気付かなかった。
商店街の向かい側。
二階の窓。
暗い室内から、
あの白いパーカーの少女がこちらを見ていたことを。
自分で書いてて怖い
22時34分
今日は寝ようかな
死亡ログイン ③ログアウト
老人は動かなかった。
「おじいさん!」
蓮は肩を揺さぶる。
反応はない。
だが死んでいるわけでもない。
呼吸はある。
脈もある。
ただ意識だけが完全に失われていた。
周囲の人々が集まり始める。
「大丈夫ですか?」
「救急車!」
騒ぎが大きくなる。
蓮はその場を離れられなかった。
スマホにはまだ通知が表示されている。
次はお前だ
たった五文字。
なのに異様な重さがあった。
十分後。
救急車が到着した。
老人は運ばれていく。
その瞬間。
蓮の能力が発動した。
老人のログが見える。
断片的な映像。
若い頃の姿。
研究施設。
白衣を着た人々。
巨大なモニター。
そして、
誰かの声。
『観測対象173番』
『ログ異常を確認』
『排除してください』
映像が途切れた。
「っ……!」
蓮は頭を押さえる。
今までで一番鮮明だった。
だが意味は分からない。
排除?
観測対象?
あの老人は何者だったのか。
その夜。
蓮はパソコンの前に座っていた。
検索欄に打ち込む。
ログイン確認
検索。
何も出ない。
観測者
検索。
何も出ない。
ログアウト実行
検索。
ゲームやシステム関連ばかり。
求める情報は見つからなかった。
「くそ……」
椅子にもたれかかる。
その時だった。
スマホが震えた。
通知ではない。
電話だ。
非通知。
蓮は迷った。
だが出る。
「もしもし」
数秒。
沈黙。
そして。
『会わない方がよかった』
少女の声だった。
あの白いパーカーの少女。
「お前か!」
『時間がない』
「何なんだよ、全部!」
『聞いて』
声は切迫していた。
震えている。
まるで何かに追われているみたいに。
『明日、学校へ行かないで』
「は?」
『絶対に』
「理由を言え!」
『一人消える』
蓮の背筋が凍った。
『もう始まってる』
直後。
通話は切れた。
翌朝。
蓮は悩んだ。
学校を休むか。
行くか。
結局、
行った。
「何も起きるわけないだろ」
自分に言い聞かせる。
だが不安は消えない。
一時間目。
異常なし。
二時間目。
異常なし。
三時間目。
異常なし。
「ほらな……」
少し安心した。
だが昼休み。
異変が起きた。
「なあ」
大輝が首を傾げる。
「木村って誰だっけ?」
「は?」
蓮は笑った。
冗談だと思った。
だが大輝の顔は本気だった。
「クラスにいたじゃん」
「そんな奴いたか?」
周囲を見る。
他の生徒も不思議そうな顔をしている。
「聞いたことないな」
「転校生か?」
「違うだろ」
蓮の心臓が強く脈打つ。
木村。
いた。
確かにいた。
窓側三列目。
髪の長い男子。
先週一緒に掃除もした。
間違いない。
なのに。
誰も覚えていない。
蓮は急いで教室後ろのロッカーへ向かった。
名簿を確認する。
木村の名前はない。
「なんで……」
スマホのクラス写真を開く。
文化祭の写真。
そこにも木村はいない。
いるはずの場所だけ不自然に空いている。
冷や汗が流れた。
放課後。
蓮は木村の席へ向かう。
そこには別の机が置かれていた。
まるで最初から存在しなかったかのように。
その時。
能力が発動した。
視界が歪む。
映像。
教室。
昨日。
木村がスマホを見ている。
画面には黒い文字。
木村の顔が青ざめる。
『嘘だろ……』
そして。
画面が暗転した。
映像終了。
蓮は息を飲んだ。
「まさか……」
老人と同じだ。
木村も。
ログアウトされた。
そして、
存在ごと消された。
その瞬間。
教室の窓に何かが映った。
反射したガラスの向こう。
屋上のフェンス。
そこに。
黒い人影が立っていた。
顔は見えない。
だが。
そいつはこちらを見ていた。
確実に。
じっと。
まるで観察するように。
蓮のスマホが震える。
新しい通知。
恐る恐る開く。
被験者 No.217
監視レベル:2
蓮の呼吸が止まる。
下にはさらに続きがあった。
次のログアウト候補を選定中
その瞬間。
窓の外の黒い人影が、
ゆっくりと笑った。
死亡ログイン ④消えた席
黒い人影が笑った。
その瞬間だった。
教室の窓ガラスが大きく震えた。
ビリッ。
蓮は反射的に顔を上げる。
屋上を見る。
だが、
人影はいなくなっていた。
「……何だったんだ」
喉が渇く。
手は汗まみれだった。
スマホの画面にはまだ通知が残っている。
被験者 No.217
監視レベル:2
まるで実験動物だった。
人間じゃない。
名前ですらない。
番号で管理されている。
そんな気味の悪さがあった。
蓮は急いで通知のスクリーンショットを撮る。
だが次の瞬間。
画像が消えた。
「え?」
もう一度確認する。
保存されていない。
履歴にも残っていない。
通知自体も消えていた。
最初から存在しなかったみたいに。
「ふざけんなよ……」
蓮は机を握り締めた。
帰宅途中。
蓮は木村について調べ続けていた。
SNS。
卒業アルバム。
連絡先。
何一つ残っていない。
それどころか、
木村という人物が存在した証拠そのものが消えていた。
なのに蓮だけは覚えている。
笑った顔も。
話し方も。
体育祭で転んだことも。
全部。
記憶に残っている。
「なんで俺だけ……」
その時だった。
「それが異常だからだよ」
声がした。
蓮は驚いて振り返る。
白いパーカー。
黒髪。
あの少女だった。
「お前!」
少女は人通りの少ない路地に立っている。
夕陽が横顔を照らしていた。
「やっと会えた」
蓮は駆け寄った。
「説明しろ!」
「落ち着いて」
「落ち着けるか!」
少女は静かに蓮を見つめる。
不思議な目だった。
どこか悲しそうで、
どこか諦めている。
「木村君のこと覚えてる?」
「当たり前だろ!」
「普通は覚えてない」
「だから何なんだよ!」
少女は沈黙した。
そして小さく言った。
「ログアウトされたから」
蓮は息を止めた。
「ログアウトって何だ」
「消されること」
「誰に?」
「観測者に」
またその言葉だった。
「観測者って何なんだ!」
思わず叫ぶ。
少女は路地の奥を見た。
誰かを警戒するように。
「ここじゃ話せない」
「逃げるな」
「逃げてるのはあなた」
蓮は言葉を失った。
「何だよそれ」
「本当は薄々気付いてる」
少女の声は静かだった。
「この世界がおかしいって」
二人は近くの公園へ移動した。
日が沈み始めている。
遊具には誰もいない。
静かだった。
「私の名前はユイ」
少女が言った。
「相沢蓮」
「知ってる」
「……やっぱりか」
蓮は苦笑した。
自分のことは知られている。
だが相手のことは何も分からない。
そんな状況だった。
「ユイ」
「なに?」
「お前は何者なんだ」
ユイはすぐには答えなかった。
ブランコを見つめている。
「その前に聞く」
「?」
「あなた、自分の最初の記憶覚えてる?」
突然の質問だった。
「最初の記憶?」
「うん」
蓮は考える。
幼稚園。
運動会。
母親に手を引かれていた。
その辺りだろうか。
「普通だと思う」
「それより前は?」
「覚えてない」
「そう」
ユイは少しだけ目を伏せた。
「私も覚えてない」
風が吹く。
ブランコが小さく揺れた。
「でもね」
ユイは続ける。
「私達には生まれる前の記録がある」
蓮が眉をひそめる。
「は?」
「本来は見えないはずだけど」
「意味分からない」
「私も分からない」
ユイは自嘲気味に笑った。
「探してる途中だから」
その時だった。
公園の街灯が一斉に消えた。
パチッ。
パチッ。
パチッ。
闇。
夕暮れだった空が急激に暗くなる。
「停電か?」
蓮が立ち上がる。
だが違った。
周囲の住宅は明るい。
消えたのは公園だけだった。
ユイの顔色が変わる。
「まずい」
「どうした」
「来た」
「何が」
ユイは蓮の腕を掴んだ。
強く。
「絶対に後ろを見るな」
蓮の背筋が凍る。
また同じ言葉だった。
後ろを見るな。
あのメッセージと同じ。
「走るよ」
「待て!」
「早く!」
二人が走り出した瞬間。
背後で足音が聞こえた。
コツ。
コツ。
コツ。
ゆっくり。
確実に近付く音。
一人ではない。
複数。
蓮の首筋を冷たい汗が伝う。
「ユイ……」
「振り向いちゃ駄目」
「何なんだよ!」
「見たら記録される」
意味不明だった。
だがユイの声は本気だった。
冗談ではない。
恐怖そのものだった。
足音はさらに近付く。
コツ。
コツ。
コツ。
そして。
後ろから誰かの声が聞こえた。
「被験者No.217を確認」
機械のような声。
感情がない。
「観測開始」
蓮の全身から血の気が引いた。
逃げる二人の影が夜道に伸びる。
その後ろを、
何かが静かに追い掛けていた。
死亡ログイン ⑤観測者
逃げろ。
頭の中でその言葉だけが鳴り響いていた。
蓮は無我夢中で走る。
隣ではユイも全力で駆けていた。
夜の住宅街。
街灯の光が流れるように後ろへ消えていく。
だが。
足音は消えない。
コツ。
コツ。
コツ。
一定のリズム。
走っているはずなのに、まるで歩いているような音だった。
その異様さに蓮の背筋が粟立つ。
「まだいるのか!?」
叫ぶ。
ユイは振り返らない。
「黙って走って!」
「説明しろよ!」
「見つかる!」
「もう見つかってるだろ!」
その瞬間。
背後から声がした。
「被験者No.217の反応を記録」
機械音声。
冷たい。
人間らしさが一切ない。
蓮の足が一瞬もつれた。
「うわっ!」
転びそうになったところをユイが支える。
「しっかり!」
「くそっ……!」
二人は細い路地へ飛び込んだ。
その先には古い雑居ビルがある。
ユイは迷わず非常階段を駆け上がる。
「どこ行くんだ!」
「隠れる!」
「そんなので意味あるのか!?」
「ない!」
「は!?」
「でも時間は稼げる!」
五階。
六階。
七階。
息が苦しい。
肺が焼けるようだった。
ようやく屋上に辿り着く。
ユイは扉を閉めた。
ガチャリ。
鍵を掛ける。
二人は壁にもたれた。
汗が止まらない。
しばらく無言だった。
やがて蓮が言う。
「……今なら話せるだろ」
ユイは俯く。
そして小さく頷いた。
「観測者は、人じゃない」
「そんなの信じられるかよ」
「私も最初は信じなかった」
夜風が吹く。
遠くのネオンが滲んで見えた。
「この世界にはね」
ユイが続ける。
「見ている存在がいる」
「誰を?」
「私達を」
蓮は黙った。
「監視カメラみたいな話か?」
「違う」
ユイは首を振る。
「もっと上」
「上?」
「世界そのものを管理してる存在」
その言葉に、蓮は思わず苦笑した。
「ゲームの管理者みたいだな」
だが。
ユイは笑わなかった。
「そうかもしれない」
その真剣な目を見て、
蓮の笑みは消えた。
「木村も?」
「消された」
「ログアウト?」
「うん」
「理由は」
ユイは答えない。
代わりにスマホを取り出した。
画面には一枚の写真。
古い集合写真だった。
十数人の子供達が並んでいる。
「これ見て」
蓮は覗き込む。
最初は普通の写真に見えた。
だが、
一人だけ顔がぼやけていた。
「何だこれ」
「見えないでしょ」
「ああ」
「昔はここにいた」
ユイの声が震える。
「私の弟」
蓮は息を呑んだ。
「消されたのか」
「うん」
「……」
「誰も覚えてない」
ユイは写真を握り締めた。
「お母さんも」
「先生も」
「友達も」
「みんな忘れた」
涙は流していない。
だがその声は確かに悲しみに満ちていた。
「でも私は覚えてる」
蓮はハッとする。
「俺と同じか」
「そう」
ユイは頷いた。
「だから探してる」
「本当のことを」
その時。
コンッ。
屋上の扉が鳴った。
二人の体が硬直する。
コン。
コン。
コン。
ゆっくり。
規則的に。
誰かが向こう側を叩いている。
「嘘だろ……」
蓮の顔から血の気が引く。
ここまで追ってきたのか。
だが階段を上る足音は聞こえなかった。
聞こえたのは、
今のノックだけ。
ユイの瞳が揺れる。
「そんな……」
「どうした」
「速すぎる」
「何が」
「追跡速度が」
コン。
コン。
コン。
ノックは続く。
まるで扉を開ける許可を求めているように。
そして。
聞こえてしまった。
扉の向こうから。
「相沢蓮」
蓮は凍り付いた。
声は間違いなく自分を呼んだ。
「相沢蓮」
もう一度。
「被験者No.217」
心臓が激しく脈打つ。
なぜ名前を知っている。
なぜ番号を知っている。
なぜここにいる。
ユイが震える声で言った。
「耳を塞いで」
「え?」
「早く!」
その瞬間。
扉の向こうから声が響いた。
「記録照合完了」
「対象の記憶に矛盾を確認」
「修正を開始します」
世界が揺れた。
蓮の視界が歪む。
頭の奥に激しい痛みが走る。
「ああああっ!」
何かが見える。
知らない景色。
白い部屋。
無数のモニター。
並ぶ数字。
そして。
ガラス越しに自分を見つめる黒い人影。
『217番』
声が聞こえた。
『君は予定外だ』
次の瞬間。
バンッ!!
屋上の扉が内側に大きく膨らんだ。
まるで向こうから何かが押したように。
蓮とユイは息を呑む。
そして扉に、
ゆっくりと亀裂が走り始めた。
観測者が、
すぐそこまで来ていた。