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心相のピース
蓮也のメモ帳を開き、ある一文に指を沿わせる。
『お前が明日死ぬのなら、僕の命は明日まででいい。
お前が今日を生きてくれるなら、僕もまた、今日を生きていこう』
ぞわぞわとした気味の悪さと、どうにもならない後悔だけが胸の中に響いていた。
---
床が軋む音が足音について回る。
田舎の古い校舎は時代遅れを物語るように高校という肩書きでありながら木造の姿をしていた。
たてつきの悪い扉に手をかけ、一気に開ける。
記憶の姿よりも背が高く大人びた同級生が数名、既に揃っていた。
「お、靖一じゃん!」
「蓮也にその名前で言われたの久々だわ...」
|杉山《すぎやま》|蓮也《れんや》に言葉を返し、高校時代同様に肩をまわして|森岡《もりおか》|靖一《せいいち》は久々の再会を噛みしめた。
蓮也の身体越しに他の数人に手を振り、右から|小笠原《おがさわら》|由美《ゆみ》、|山村《やまむら》|義文《よしふみ》だと分かる。高校時代に杉山を含め、特に仲が良かった三人だった。
「靖一も早いな、そんなに楽しみだったか?」
義文が靖一に向かって口を開いた。
「お前もだろ。廃校になる前の最後の同窓会、なんて響きがあったら来たくなるだろ?」
「ま、まぁ...そうだな」
いくつになっても好みは変わらないものである。由美が口に手を当て、可愛らしく笑っている。
「ねぇ、そろそろじゃない?皆そろそろ_」
由美がそう口にした辺りで、廊下からぞろぞろと人の話声がした。
---
懐かしい教室で教壇に担当教師であった|兼本《かねもと》|亘《わたる》が立った。
そこから前に杉山蓮也、|松木《まつぎ》|愛里《あいり》、|神羽《かんば》|悠希《はるき》、|田中《たなか》|孝《たかし》、森岡靖一、小笠原由美、|本保《ほんぼ》|乙葉《おとは》、山村義文の合計8名が座っていた。
昔ながらの出欠を取るような仕草で兼本が出席簿と席を照らし合わせる。
そして、何か奇妙な顔をした。
「...?......どうしたんですか、兼本先生?」
口を開いたのは高校時代に生徒会長をしていた本保だった。思い起こされる記憶の中で真面目で勤勉な優等生、という偏見を思い出したが今の彼女は長い髪をやや茶色に染め、女性としての魅力がなんとなく上昇しているような気がした。
「いや...なぁ、神羽......私を含めて同窓会の参加人数は9人だったよな?」
兼本先生がそう携帯を弄っている神羽に語りかけた。
神羽は高校時代もあまり人の話より携帯を弄っていることが多く、出席態度は悪かったが顔や家柄、性格の良さからクラス内のリーダー役といった感じだった。今もそれは変わっていないようだった。
「え?...そりゃ、そうですよ、兼本先生。なんです、10人目でもいるんですか?」
「ああ...その...皆、これを見てくれるか?」
兼本先生が出席簿の紙を全員へ見えるように差し出す。
そこには子供のような文字で兼本を足した10名の名前が描かれている。
しかし、その10人目の名前が黒で塗りつぶされている。
席を見回すと確かに、一つだけ空いている席があった。
「神羽、お前...参加者のうちの一人を忘れてたんじゃないのかよ?」
「そんなわけない。先生をいれて9人しかいないんだよ、この同窓会は」
「じゃあ、席が何で一つ多いんだよ?」
「...そんなの知るわけないだろ?手伝ってくれた人が間違って用意したとかじゃないのか?」
「その、手伝ってくれた人ってのは?」
「......松木.........と、田中...」
「松木と田中?...なぁ、この黒塗りはなんだ?」
俺が松木と田中に声をかけると、昔と変わらずふくよかな体型の松木がでかい声で返した。
「孝も、あたしも知らない。それ、高校時代に作った出席簿よ?」
「...なんだって?」
ふくよかな体型に守られるようにして田中孝が縦に頷いている。
少しか細い声で、ゆっくりと言葉を綴った。
「......いつか、同窓会やろうって......こんな最後の同窓会、なんて形になるとは思わなかったけど...それで、高校の時に作ったやつを、学校から確認もせずに...使っちゃって...」
「要は、何も分からないし知らないんだな?」
そうまとめれば、田中は縦に頷く。あまり人前に出ないせいか、臆病で保守的な性格は何年経っても変わらない。
というか、高校の時に使ったものを十年以上も経った同窓会などで使えるほど物持ちが良いものだろうか?
それを不審に思った時、蓮也が俺より先に口を開いた。
「高校の時に使ったって...そりゃ嘘っぱちが過ぎるんじゃねぇの?」
それに田中ではなく松木が反応する。
「嘘なんかじゃない。このド田舎であたし達以外の卒業生がいたわけじゃないでしょ。
つまるところ、残されたものがそのままにされてたの。
ねぇ、由美。さっき見たわよね、あの...昔描いた黒板の落書き...」
急に話を振られた由美の身体が跳ねた。何かを思い出したのか、耳までが赤くなり、小さな声でぼそぼそと呟いた。
「う...うん...あの、えっと...傘の落書き......消されずに残ってた...。十年以上も経ってるのに、全てがそのままみたい...」
その言葉に松木が“それみたことか”、と言わんばかりの得意気な顔で「ほら、言ったでしょ」と蓮也に投げる。辺りを見渡すと、確かに全てが記憶の中の教室そのもので、埃やゴミがないこと以外全てそのままだった。
蓮也もそれに納得した...いや、渋々納得して次に口を開いた。
「黒塗りは当時の話ってことで......じゃあ、そこの一つだけ空いてる席はなんだよ?」
兼本の教壇の席を除いて、九つの机と椅子。そのうちの一つだけが隅に置かれ、そこには誰も座っていない。つまり、出席簿同様に《《一人多い》》ことになる。
教室がそのままなことから、転校生の席もそのままだったのではと考えるが当時のクラスに転校生した同級生はいなかった。
頭の中で、どんなに思考を巡らせてもその理由が分かることはなかったが、どこか喪失感を感じる。
まるでパズルのピースが一つ足りないような感覚。
すっぽりとそのパズルのピースだけが抜け落ちて、どこかへいってしまっている。
それはこの状況下で、《《クラスメイトだったはずの誰か》》を忘れているような気がする。
強く思ったそれを口に出そうとした時、その場の全員が合わせたように、
「...彼がいない」
忘れてしまった彼を探し始めた。
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彼、と言っても思い出したわけではない。
ただ頭の中で抜け落ちている記憶のクラスメイトだったはずの誰かを探しているうちに、ふとして巡った思考の先で〖彼〗という特定の呼称を得ただけだ。
「...彼って...誰?分かる人、いる?」
本保が先程の言葉にひかれるまま、そう聞いた。誰も答えない。答えることができない。
なにしろ、誰も覚えていないのだから当たり前である。
「...全員、分からないか?先生も分からなくてな......卒業アルバムに載っているかもしれないから持ってこようか?」
兼本が本当に困ったように笑っている。それ以外の全員が顔を見合わせた後に、ゆっくりと頷いた。
色褪せた卒業アルバムを開き、集合写真の中の一つに黒く塗りつぶされた姿をした彼が映っている。
「兼本先生、この黒塗り...出席簿と同じじゃないですか?」
義文がそう言って、蓮也と話を始める。誰も彼もがアルバムの写真を確認し、落胆したように肩を落とした。そして、ふいに由美が口を開いた。
「これじゃ、彼が誰か分からないよ。この黒塗りの男の子を覚えている人は?」
誰も答えない。答えることができない。
混合する思考の中で根本的なところを掘り返すように呟いた。
「彼...彼って男なのか?」
その言葉に田中が応える。いつも通りのか細い声だったが、
「...全員が彼、という呼称を得ているのなら、そうなんじゃないか...?
人はストーリー性のない断片的な記憶を......ある一定の出来事から思い起こすことがあるし...これが、そういった本能的なものなら、可能なんじゃ...ないか?
それに...人が、人を忘れていく順番は...最初に声を、次に顔を、最後に思い出を忘れる......今の、僕達なんだよ。
誰か一人でも、彼の声を覚えている?
誰か一人でも、彼の彼を覚えている?
誰か一人でも、彼との思い出を覚えている?」
啖呵を切ったように長く細い声で訴えた。彼、というのは田中にとって何だったのだろう。
他人事のようにそう考える中、静寂が流れた。
教室の隅の誰かの席に手をついて、深く考えこんでいた。
記憶の中に突如として住み着いて退こうとしない誰かがいた形跡の記憶。
まるで、思い出せとでも言われているようだった。だというのに、どう考えても誰も思い出せない。
突発的に神羽が俺に向かって「森岡って頭、良かったよな?ほら、学年三位の中には入ってたじゃん。頼むよ。他の人の身体ケアに回るから、彼のこと解明してくれよ」と半ば丸投げのように探偵ごっこを任された。
そのあまりの身勝手さには大人になった今でも悪態が吐ける。その吐いた悪態にまとわりつく怒りを払って後ろを見ると、蓮也が後ろだった場所から携帯で何やらメモしているのに気づいた。
「なに、メモしてるんだ?」
「いいだろ?これ。今まで聞いた内容をメモしたんだ、見てくれよ」
その言葉に従うように蓮也の携帯を覗いた。
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*①黒塗りされたクラスメイトだったはずの“彼”*
*▪出席簿*
*高校当時に作成した出席簿で、例の席が一つ多いところへ入る“彼”の名前は黒塗りされている。*
*▪卒業アルバム*
*教室内にあった20年度生の卒業アルバム。*
*集合写真、個別の写真にある“彼”の写真も出席簿同様に黒塗りされている。*
*②考察*
*彼は本当にクラスメイト?*
*彼は誰?名前は?性別は?姿は?*
*彼...不登校?転校生?*
*黒塗りの意味は?教室の多い席は?*
*どうして全員に抜け落ちている記憶がある?*
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「...考察の部分は省くとして、ちょっと有難いな...」
文章化すると、抜けているピースがかなりあることに気づいた。パズルはまだまだ完成しなさそうだ。
「なぁ、もし探偵ならこの状況...どうする?」
「なんだ?探偵ごっこに精を出すのか?......聞き取り調査とか?そういうのしか、できないだろ」
「......だよなぁ...じゃあ、蓮也から_」
「あー、俺...由美と話すっから...兼本ちゃんとか、どう?先生だし暇でしょ」
「兼本ちゃんって...もう、ちゃん付けされるようなお歳じゃないだろ」
「靖一君やい、今更よ?」
「...そうだな...」
あの時と同じ蓮也の顔に背を向けて、一先ず兼本の名前を呼んだ。
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皆がいる教室とは違う別室で、白髪が目立つ皺とシミのある顔の深い男性に向き直る。
兼本亘は模範的な教師で、真面目で他者から大きな評価をもつ人望が高い教師だ。
それに授業の内容も分かりやすく、指示も的確で、この理想的な完璧人間に憧れる当時の生徒は少なくなかったことだろう。
「...それで、森岡。話はまとまったか?整理がつくまで先生は待ってやるからな」
自分のことを先生と呼ぶのは、母親がママと子供に呼ばれることに慣れ、自分のことすらもママと一人称が変わる状況と酷似している。それほどまでに教師としての側面が彼の人生の中で、最も強いのだろう。
「いえ、大丈夫です。...有り難うございます、兼本先生。早速ですが、“彼”について覚えていることはありますか?」
「いや...ないよ。教師として受け持った生徒の一人を覚えていない挙げ句、思い出せないとは...なんとも不名誉なことだよ」
「それは御愁傷様です。黒塗りの出席簿は初めから黒塗りでしたか?」
「そうだね。彼のところだけが黒塗りだったよ。卒業アルバムもそうだ。誰も触らず当時のままだ」
「当時のことを、覚えていますか?」
「ああ、君も覚えているだろうね?全員が《《完璧に》》仲睦まじく、互いに支え合い、理想の学級だったよ。
素晴らしい時間だった、改めて感謝を述べるよ...当時は特にこれといった問題もなく《《完璧》》だったね」
「...そうですか?」
「そうだよ。ちょっとした問題も青春のうちだ、何度も君と杉山の問題行動を見逃したか...」
「俺、そんなにしてた記憶がないんですが...」
「ちゃんとやってるからね、君。成績は良いが、行動に難があったんだからな」
「...すみません......。その、具体的にどのように《《完璧》》でした?」
「そりゃあ、生徒個人個人が寄り添い合い、助け合い、称え合い、笑い合い...全てを共有し、他の学級の見本になるほどの完璧だ。
だが、中でも...あの軟弱者で精神力の低い、ひどく醜い彼、は、とて、も、異常...__」
それまで饒舌だった口が閉ざされ、顔が青くなる。呼吸は乱れて肩の動きが激しくなる。
「...兼本先生?...兼本、亘先生...?聞こえて、いますか?」
「.........私は...」
「私は?」
「......すまない、何でもない......話は終わりにしよう。少し...休ませてくれ」
兼本が青い顔のまま、先に立ち上がる。その姿を見送って横にいた本保の名前を呼んだ。
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茶色に染めた長髪を揺らして、自分の目の前に本保乙葉が座った。
彼女も優等生の一人で成績は上位の方だったが、それを鼻につけることなく進んで雑用をこなし、徹底的に尽くすタイプの女性だった。
「話って、なに?」
「彼...についてなんだけど、覚えてないよな...」
「うん...えっと...黒塗りのこと?」
「ああ、何か分かるか?」
「あんまり...松木さんと、田中さんぐらいしか詳しく知らないと思う...」
「......あー、うん......じゃ、じゃあ当時のことって...?」
「当時?...生徒会長の...?......何て言うか、凄く...荒れてて、大変だった...。兼本先生は優秀だって言うけど、誰もちゃんと見てないから、どこもかしこも隠れてやりたい放題で......その、森岡君」
不意に名前を呼ばれて、すっとんきょうな声が漏れる。
「......森岡君は............えっと...杉山君といた方がいいと、思うの...い、今だから、何があるか、分からないし...ほら、彼もよく分からないでしょ、名前すら思い出せてないし...」
「...そうだな」
しきりに俺の後ろを気にしながら出ていく本保を見送り、義文の名前を呼んだ。
妙に「蓮也と一緒にいろ」と言う助言が引っ掛かるばかりだった。
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高校時代とは違って髪を伸ばした若い男性、山村義文。
おちゃらけた言動の蓮也とは違って重々しく歳相応の発言が目立つ正義感の強い男性だった。
「神羽も、蓮也も手伝ってやればいいのにな...今やってる荷物搬送の作業が終わったら手伝おうか?」
開口一番にそんな提案を義文が挙げた。
「いや...そこまで難航してないから、大丈夫だ。彼については分かるか?」
「彼なぁ......多分、俺だけだとは思うんだけどな、ずっと不信感が凄いんだよ。
何て言うか、関わりたくない感じ?気持ち悪いっていうか、目にもいれたくないっていうか...極端に言えば、消えていなくなれ、みたいな...とにかく攻撃的なんだ。
靖一は、どうなんだ?何か、思うことは?」
「俺...俺は......」
問いに応えるために再び、思考を巡らせた。
彼については不思議で、奇妙な印象しかない。しかし、どこか親近感があり攻撃的で陰鬱な印象は思い出せない。
小さな子猫と対峙した時のような気持ちが沸いてくるのだ。小さな身体を手の中で踊らせ、とてつもない優越感が沸いてくる。王様にでもなった気持ちがあるなどと、口に出してはどう思われることだろうか。
「......子猫を...弄ぶみたいな......そんな、感じ?」
「なんだそれ...抽象的過ぎやしないか?」
「良い例えが思いつかなかったんだよ...黒塗りの件については?」
「全く知らないなぁ......松木の言う通り、高校時代に塗られたっぽいよな。卒業アルバムは誰かが勝手に保管してあるものに塗ったっぽいし......誰か卒業アルバムを持ってきてるやつはいないのか?」
「いないんじゃないか?それに云十年前の卒業アルバムをわざわざ実家以外で持ってるやつはいないだろ。実家住みのやつはいなかったし誰も分からないんだろ。
なぁ、高校時代当時のことはどうだった?」
「ん~...普通じゃないか?一緒にバカやって笑って...たまに怒られて、そんくらいだろ」
「...だよなぁ」
「そういや、神羽が酒買ってくるってさ。夜に全員で酒の肴を取り囲んで食おうぜ」
「いいな、それ。とりあえず全員に聞き終わったらテーブルの準備しとくよ」
話がある程度終わり、いつも通りの爽やかな顔をした義文がそこにあったが、俺の後ろを見て何かを思い出したかのような顔をした。
不審に思いつつも、神羽の名前を呼んだ。
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全体的に人からの評価が高く、集中力は無に等しいものの人望は人柄上高いリーダー気質の良家の神羽悠希。
嫌いではないが、その携帯を弄るような集中力の無さから長期間の作業は向いておらず現に今、不可思議な現象についての調査を頼んだ張本人である。
「あー...彼と、黒塗りのことだよな?」
「そうだな。とりあえず、他の人の身体ケアの方はどうだった?」
「まず、そこなのか...?兼本先生がやけに青い顔をしてたよ。本保と山村はまぁ、ちょっと...驚いたみたいな感じ...?」
「他は?」
「大抵が彼について考え込んでるくらいだな。特に何もない。
で、彼については俺も分からないけど...黒塗りを考えてる内に思い出したことがあるんだよ。
高校時代の時に塗られたってのは分かるんだが、卒業式後に配られた卒業アルバムに全員がこぞって全ての卒業アルバムに黒塗りを施した覚えがあるんだ。
まるで、思い出したくない思い出、みたいにさ。家と学校が近いから、実家で卒業アルバムを見たんだ。そしたらやっぱり、黒塗りだった。さっき見た卒業アルバムみたいに彼だけが黒塗りだった」
「...つまり、全員が消したくなるほど...憎まれてた、とか?そういう人だったのか?」
「じゃ、森岡...彼に対して、恨みは?」
「ない」
「そうだよな。だから、単に消したくてしょうがなかった...と見てる」
「意味が全く分からないな。そもそも当時の気持ちや考えが不明だから、しょうがないことではあるが...」
「そうなんだよな、ずっと残ってて正直気味が悪い」
「だな、当時のことはどうだ?」
「良くも悪くも...怖かったよ。下手なことを口走ると、ヤジが飛んできそうでさ」
そう話を切って、嬉しげに「買い出しに行ってくるわ」と笑う神羽の姿を見送った。
座った椅子の横で四人の名前を消した。
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*~~兼本亘~~、~~本保乙葉~~、~~山村義文~~、~~神羽悠希~~、*
*小笠原由美、松木愛里、田中孝、松山蓮也、~~森岡靖一~~*
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完璧、恐怖、嫌悪、疑問...そして、優越。
正直のところ彼について分かることはない。
兼本は当時を完璧としたが、彼を何やら醜形だと貶す。
本保は当時を非常に荒れていたと言い、蓮也から離れるなと助言する。
義文は当時を平凡だと言い、彼に嫌悪感を示す。
神羽は当時を畏怖し、彼の存在意義を問う。
それなら、俺は?
俺は当時のことを微塵も覚えていないし、彼の存在そのものを組み敷くように大きな優越感を抱く。
その多幸感を抑えつつ、由美の名前を呼んだ。
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目鼻立ちの通った顔立ちに艶やかな黒髪、醒めたような瞳。
クラス内のマドンナ的存在で、過去に一度告白をしたことがある...しっかりと断られた苦い思い出だ。
人柄も良く、成績も良い。男性からは非常に愛された女性である小笠原由美。
美人で愛想も良い理想的な女性…つくづく神の産物や贈り物というのが正しいのか、テレビや雑誌でよく姿を見ていた。
「ねぇ、大丈夫?」
「ん?何が?」
「ずっと、悩んでる様子だったから…」
そう言う由美がゆっくりと近づいて唇が触れそうな程の距離まで近づく。
心の高鳴りを感じながら、力を込めないよう由美の肩を抑えて「なんでもない」と言い切った。
「……そう…えっと、黒塗りと彼だよね?」
「あ、ああ…知ってたり、するか?」
「…知らない、なんて言うと嘘になるから言っちゃうね…周りの人がいると、凄く何か言われそうだったし…でも、靖一君なら…大丈夫、だから…」
「俺なら…大丈夫?」
「…だって、それを知ってる…から。蓮也君も…」
「蓮也も?どういうことだ?由美、今何を言うとしてるんだ?」
「耳…貸して」
言われるがままに由美の顔の前に横顔を預けるようにして耳を傾ける。
良い匂いの…しかし、少し臭い香水の香りが鼻をくすぐった。
「…忘れているかもしれないけど…黒塗りは蓮也君がやったの…私、見てたから。
彼のこと、考えてると胸がきつく絞められるみたいに苦しくなって頭の中が真っ白になって…もう、手に入らないんだって、そんな思いがあるの」
そして、耳へ吐息が吹きかけられ、動揺した瞬間に由美の白く細い手で胸を強く突き飛ばされる。
「いっ…な、なにするんだよ…黒塗りが蓮也って、どういうことなんだよ!それに、彼って…」
「……怒らないの?覚えてないの?本当に?」
「何に…?突き飛ばしたことか?」
「…信じられない」
「は、はぁ?てか、知ってるのか?彼について、覚えてるのか?」
「……少しだけ、ね。本当に少しだけ…」
「じゃあ、何で皆で言い合ってた時に言わなかったんだよ?!」
「…言えないよ。あんなに皆が皆、知らないなんて言ってたら…知ってる、って言った時にまた、たくさんの視線を浴びるから…」
「し、視線がなんだよ…?」
「…本当に…覚えてないんだね」
「何度も、そう言ってるだろ」
「……そう。靖一君、私が分かるのは黒塗りをしたのが高校生の時の蓮也君で、それが分かるのは私がそれを放課後にたまたま見ちゃっただけ。
ただ、それだけなの。彼に対して感じる喪失感は多分、関係ないの。蓮也君がどうして黒塗りしてたのかなんて分からないけど、靖一君なら分かると思う」
「…えっと……それは、お願い?」
「…ううん」
「そ、そっか…その…神羽の話だと、黒塗りって皆で塗ったらしいんだけど…そ、それだと由美の話…食い違ってる、よな?」
「…………」
「由美?」
由美が俯いて顔に手をやり、ゆっくりと嗚咽を漏らし始める。まるで、悲劇のヒロインのようだった。
「靖一君は…私じゃなくて、神羽君を信じるの…?」
「え?いや、そういうわけじゃないけど…でも、変だなって思って_」
そう疑問を率直に言った瞬間、漏れていた嗚咽が不意に止まり、由美の唇から「ああ、そう」と聞いたことのない女性が怒ったような低いがした。
そのまま顔を見せずに後ろの扉に手をかけ、去り際に、
「嘘、吐いてごめんね」
そう棒読みのような声がした。背筋が凍るような感覚と、彼女への思いが晴れたような気がした。
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「あのさ、言っとくけど由美って腹黒いからね。今、アンタと話した由美、めちゃくちゃ機嫌悪かったんだけど…どうしてくれんの?」
「そんなの知るかよ…女子、女性同士でどうにかしてくれよ」
「信じらんない」
ふくよかな体型に整えられた綺麗な黒髪に、負けん気の感じられる強気の黒い瞳。
女子の中で由美と並び、盾のようだった女性だが、母のように面倒みの良い姿勢に誰もが信頼をおく松木愛理。
嫌いではない。その証拠に、よく冗談を言い合う仲だった。
「それで、黒塗りと彼についてなんだが」
「はぁ?知らないわよ。黒塗りなんか、誰かが悪戯でもしたんでしょ。違うの?」
「でも、出席簿にも黒塗りがあるのは奇妙だろ」
「だから知らないわよ…高校時代に面白いと思ったんでしょ。それか、間違えたのを隠したか…そうとしか考えられないわ」
「じゃ、松木は高校時代にできたものを、社会人になってから使うのにそんな恥ずかしいミスをそのままにしておくのか?」
「うるさいわね…どうでもいいじゃない、そんなこと。ミスなんて、若い頃にたくさんするわよ。だから何だって言うの?お説教でもする気?爺臭くなったものね」
そう嫌悪を隠さずに抉るような言葉を述べる松木に少し、苛立ったように机を数回、叩きながら口を開く。まるで高校生時代の会話のようだった。
「…分かった、分かったよ。黒塗りの件に関しては、もういい。
彼について分かること、感じていることを教えてくれるか?」
「ない。はっきり言ってないのよ。そもそも今、散々言われたような人間が協力すると思うわけ?」
「…それは…その……」
「本当に何も知らない。それだけ。それで、いいでしょ」
「……ご協力、有り難う」
勝ち誇ったかのように出ていく松木を見送り、田中の名前を張るように大きく呼んだ。
どこか、開けてはいけない恐怖を感じざるを得なかった。
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「……あ、あのさ…ほ…本当に、靖一君って覚えてないの?」
「…さぁ、どうなんだろうな。奇妙な優越感だけがあるんだよ」
お互いに探るような質問する中で、前髪が瞳を覆い隠し、垂れた長袖が細身の身体を包む姿の田中孝。
高校時代もその風貌と同様に教室内で小さく、縮こまるようにして隅で松木に守られるようにしていた。
しかし、器量や性格もよく、そこそこクラス内での能ある鷹は爪を隠すと言った言葉が似合うような男性だった。
「……せ、靖一君は…彼の名前、分かる?」
「名前?…いや、名前というか、顔も全部覚えてないんだよ」
「…そ…そう…」
「田中、何か知ってるなら教えてくれないか?彼、について」
「……後悔…しない?」
「後悔?」
「僕は…あの頃を、凄く後悔してる。靖一君がこれを聞いてどう思うか…僕には分からない」
「…聞く前に、黒塗りの件について知っていたりするか?」
「…黒塗り?自分でやったのに?皆でやったのに忘れたの?」
「は?」
「ああ……やった側は覚えてないって言うよね。酷いよ、僕はずっと覚えてたのに」
本当に悲しそうな顔をする田中に申し訳なくなり、謝罪の言葉を口から絞り出してしまう。
「……その……ごめん…」
その言葉吐いた瞬間、言葉を待っていたわけではないと呆れたような顔をした田中がため息をつき、「…じゃ、教えるね。もう忘れないでね」と悠々と語り出した。
「彼はクラスで孤立してた。自らそうなったわけじゃないけれど、それは確かに分かることがそうさせられてたってこと。
生生も友達も親も兄弟も…皆が彼を幽霊扱いするんだって。皆が前の僕みたいにやるんだって。
僕は彼が伸ばした手を一度取って、突き放した。それが悪いことだったのか、良いことかは知らない。
それでも僕は必死だった。君みたいな皆に囲まれて抜け出して、唯一安心できる愛理の傍で笑ってた。
僕も君と同罪だけど、君はもっと悪い。何も知らないふりして、何も知らないように幸せになるんだ」
そこで区切られた言葉は代わりに俺の手を優しく掴んで、跡が残るくらい強く握り出す。
急激な痛みは絶えず、顔を顰めると田中は見覚えのある笑い方をしている。
見覚えのある笑い方。見覚えのある笑い方。見覚えのある笑い方。
……見覚えの、ある………?
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高校三年生の時、クラス内は大きく割れていた。
彼と、彼を意地悪している男子達。元々そうだった男子。傍観する女子達と男子達。何も言わない先生。
常に緊迫としていて、一言でも発せれば次の標的にさせられてしまいそうな恐怖。
そんな恐怖の犠牲者である今の標的は彼だった。彼は元々、そうだった男子…田中を庇ったことが機に触った男子に目をつけられただけの単なる犠牲の一つだった。
彼にとっては地獄だっただろう。
男子達にとっては天国だっただろう。
田中にとっては罰だっただろう。
傍観者にとっては恐怖だっただろう。
先生にとっては救えない面倒事だっただろう。
しかし、田中は庇われたことに何も言わなかったが、常々やらされて同じことをする時は笑っていたのだ。
それが彼にとっては後悔になるのだろう。
何も覚えていない俺にとっては、過ぎた話ではある。
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「……思い出したの?」
「それなりに、は……彼は…彼は、標的だった?」
「…君のね」
そう、告げた田中の顔を見た。
見覚えのある笑い方は媚びたような笑い方で、彼が標的になる前に田中がしていた笑い方だった。
「俺の標的って?」
「嘘、まだ?」
「……何がだ?」
「…もういい、そろそろご飯になるから行こうよ。もう八時だし」
「あ、ああ…悪いな」
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*~~兼本亘~~、~~本保乙葉~~、~~山村義文~~、~~神羽悠希~~、*
*~~小笠原由美~~、~~松木愛理~~、~~田中孝~~、松山蓮也、~~森岡靖一~~*
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あと、一人。
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アルコールの匂いが室内に充満して、赤くなりつつあった鼻の中へ入り込む。
彼の席に酎ハイの缶を広げて、近くのスーパーで買ったと思われる惣菜や元々頼んでいたと思われる寿司が彼以外の席を合わせて大きな食卓になっていた。
洋梨の酎ハイ缶を持ちながら神羽が俺の皿に唐揚げを取り分けつつ、口を開いた。
「結局、何か分かったか?」
「いんや…いまいちはっきりしないな」
「…ま、そんなもんだよなぁ…残り、杉山だけだよな。ちゃんと話せよ」
「分かってるよ。兼本先生とか、由美の様子とかどうだった?」
「普通だな。なんかしたのか?」
「何も?」
「何もないってことはないだろ、変な奴だなぁ」
神羽がそう笑って箸で寿司の一つを口へ放った。
それを横目で見ながら、俺は甘く苦い液体を口の中へ流し込み、複雑なことで煮詰れていた頭を洗った。
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森岡|颯一《そういち》。
肩幅が広く、ふくよかな体型だが身長の低い臆病であるもの正義感は人一倍強く、優しさを兼ね揃えていた。
また、見た目とは裏腹に頭脳明晰で身体能力が非常に優れ、コミュニケーション能力にも長けた非の打ち所のない性格をしていた。
であるからにして、教師や生徒も期待と憧憬の眼差しを常に注ぎ、小笠原由美とは恋人と噂をされるほど親しく、お互いにお似合いで見た目を重視しないことを念頭におけば、不備などは存在しなかった。
しかし、妬みや恨みが存在しないわけではない。
横行する当てこすりや侮辱、口撃に耐えかねて更にそれが波の大きくうねった時、既に限界値を超えていた。
正義感故に招いた過酷な戒めや普段からの行為は常々、彼を蝕んでいき、かつての栄光と自尊心は酷く傷を得た。
いつしか彼は硬く重い殻に閉じ籠もるようになり、それらが割れたのは彼が自ら命を絶った時だった。
尚も、傍観や実行は悲しまず、教師は完璧でなくなった彼を非難し己の成績に矛盾が生じるのを潔しとしなかった。
すなわち、彼は自己が生きた証を黒く塗り潰され、関わった者の記憶から姿を消した。
最初に声を。次に顔を。最後に思い出を。
哀しくも、全て忘れ去られていた。
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酔いの回った瞳で蓮也を見た。
彼もまた、酔いが巡っているのか頬を薄ら赤く紅潮させ、たどたどしい口調で物を語った。
「…昔さぁ……クラスん中、荒れてたよなぁ…」
「らしいな」
「なぁんだよ、覚えてないのかぁ…?」
「…ああ」
その一言に、目を丸くしてすぐに蓮也が言葉を綴った。
「兼本ちゃんが完璧主義で…松木と由美が傍観だけど付き合ってて……んで、本保と神羽も傍観……田中は元標的で、義文に俺らと一緒……あー、本保には見られたよなぁ…」
その辺りで周りにいた全員が固まった。
ピンと来ない俺だけが、更に説明を促した。
「………ああ…何を?」
「んー、ほら……アイツ…誰だっけ……誰かをさぁ……木に吊ったじゃん……」
「…誰?」
「……靖一の…兄ちゃん、かな?…ほら、颯一だっけ…いただろ…?」
ヒック、と喉から音を立てて言われた“颯一”に|記憶《パズル》のピースを嵌めていく。
一つずつ、ゆっくりと一つずつ嵌めていった。
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兼本亘は、実に非常な完璧主義者だった。
クラス内で行われたいじめには見て知らぬふりをし、全て忘れるよう全員に諭した。
己が積み上げた成績が下がるのを恐れた為である。
本保乙葉は、臆病な傍観者だった。
クラス内で行われたいじめには絶対に関わろうとしなかった。
己が標的になるのを恐れた為である。
山村義文は、残忍な愉快犯だった。
クラス内で行われたいじめに積極的に関わったが、彼のことは気味悪がっていた。
己が過去の栄光と現在の差異に納得がいなかった為である。
神羽悠希は、臆病で怖がりな傍観者だった。
クラス内で行われたいじめには関わらないものの、常に畏怖していた。
己が標的になるのを恐れた為である。
小笠原由美は、嘘つきな傍観者だった。
クラス内で行われたいじめに無関心で、常に嘘を纏っていた。
己が美貌以外に飾る|言葉《アクセサリー》が必要だった為である。
松木愛理は、愛に飢えた世話焼きな傍観者だった。
クラス内で行われたいじめよりも、他人からの尊敬や愛情にばかり目を泳がせていた。
己が手にする愛を他者へ見せたい自慢が常に存在していたからである。
田中孝は、恩を仇で返す後悔をする偽善者だった。
クラス内で行われた始めの被害者だったが、救ってくれた者が伸ばした手を掴もうとしなかった。
己が再び、標的にされる恐怖に常に駆り立てられていたからである。
松山蓮也は、一つを恨み、一つを愛した裏の立ち役者だった。
クラス内で行われたいじめが終わり、最も愛した人が彼を殺した後に偽装を唆した。
己が手にするはずの愛した人を壊さない為である。
森岡靖一は_
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「…森岡、颯一だ」
「んぉ?」
焦点の合わない蓮也の頬を撫でながら、各々料理や酒を手にするクラスメイトに口を開いた。
「彼は、森岡颯一だ。昔いじめられていた俺の双子の、兄だ」
誰もが何も言わなかった。そのまま言葉を続ける。
「森岡颯一は兼本先生に助けを求めても、救った田中に助けを求めても、誰も救ってはくれなかった。
皆が無視して、皆が殺した。でも、彼は殺された」
蓮也がアルコールの匂いがする息を吐いた。
「…彼は物置で首を吊っていた。けれど、死因は縄による首の窒息死じゃなく、頭部のひどい損傷だ。
誰かに突き落とされたんだ。分かってるだろ、もう」
蓮也は俺の頬を撫でて、周りを見ている。周りは何も言わない。
「彼を突き落としたのは、俺だ。学校に来ない彼に苛立って、家でもきつく責めて…結果、言い合いになり階段から突き落とした。
それが、どうしようもなく怖くなった。今まで、そんなことをやってきたくせに怖くなった。
蓮也に相談して、互いに罪を重ねた。今更だったが、彼の首に紐を通し、身体を高くあげて自殺を偽装した。
……我ながら、よくバレなかったと思うよ。バレてたかも、しれないけど」
酎ハイの置かれた彼の席の机に手を触れながら、優越感が再度込み上げてくる。
蓮也が諦めたように最後の問いを投げて、メモ帳を俺に渡した。
ひどく寂しげで愛しい表情を浮かべていた。
「…いじめの、主犯は?」
俺は、ゆっくりと|声《ピース》を|挙げた《嵌めた》。
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森岡靖一は、兄を恨み虐げた主犯格だった。
クラス内で行われたいじめの実行者で常に感じる劣等感を優越感の中に滲ませていた。
己の|心相《劣等感》を明かさない為である。