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1 氷の継母
私は今までの自分が嫌いだった。
母には虐げられ、父に罵倒され、妹に居場所を奪われた。
それでも何も言い返せず、看過してしまう自分が大嫌いだった。
ある日のことだった。
いつものように私は雑務をしている時に、執事長が慌てた様子で父の部屋の扉を開けた。
「ご主人様! たった今連絡が参りました。……奥様とセリーナ様がご乗車していらした馬車が山賊に襲われ、今は療養室で寝ていらっちゃるそうです」
「な、なんだと!?」
父は掃除をしていた私のことは見向きもせず、一階へと駆け下りていく。
「あの……お嬢様……」
恐る恐る話しかけてきたのは専属メイドのウェーランだった。
「私が行っても嫌がられるだけですわ」
「……あぅ……ぁ……」
彼女は何か言おうとしたが、口を閉じ、掃除を始めた。
翌日。
私が朝起きると、なんだかホールがざわざわしていた。
「何があったのかしら……」
ぼそりと呟いて、少し眺めていると、いつの間にか礼服を着た父が私の後ろに立っていた。
「何をしているんだ? ネージュ、お前は雑務でもしていろ。こんなところで立ち止まっていては通行の妨げだ」
父はどん、と私のことを突き飛ばす。
「きゃっ」
「本当にお前は使えないな。母親と妹が死んだというのに、表情一つ変えない! お前はこの家の恥だ!」
(死んだんだ。まあ知らなかったし、どうでもいい)
私がよいしょっと立ち上がると、父はチッと舌打ちをすると、一階へ降りて行った。
「大丈夫ですか……っ、お嬢様」
「ええ、大丈夫よ……っ」
ズキ、と鈍い痛みが腰に走る。
「お嬢様っ……!」
「大丈夫よ。どうせ医者を呼べ、と言ったところで誰も動いてはくれないわ」
「……そう……ですね……」
メイドも困らせてしまっている自分が嫌になってしまう。
「ごめんなさいね」
「……っいえ……っ」
私はウェーランの顔をまともに見ることができず、走って逃げてしまった。
ウェーランの制止する声も聞かず、私は屋敷の裏庭まで走った。
けれど、腰の痛みは走るたびに強くなり、やがて足がもつれてその場に膝をつく。
「……っ、痛……」
誰も来ない。
誰も心配しない。
それが当たり前だった。
私は小さく息を吐き、庭の隅にある古い東屋へ向かった。
幼い頃、まだ母や父が今ほど冷たくなかった頃に一度だけ来たことがある場所だった。
そうだ、昔、セリーナが階段から落ちた時、罪を擦り付けられてから、母と父は冷たくなったな。
「私……泣いてないのね」
母と妹が死んだ。
普通なら悲しむべきことなのだろう。
だが涙は一滴も出なかった。
いつもなら、この時間には厨房の手伝いをしている頃だろう。
だが今は身体を動かす気力がなかった。
「お嬢様!」
遠くから聞こえた声に、私は顔を上げた。
ウェーランだった。
息を切らしながらこちらへ走ってくる。
「やっと見つけました……!」
「どうして追いかけてきたの?」
「心配だったからです。今日は主人が応接間でお客様のお相手をしていらしているので、秘密ですよ」
にっこりと微笑んだウェーランのバスケットには、パンが二つと、リンゴが入っていた。
「……っ、これ、私の?」
「はい。朝から何も召し上がっていないでしょう?」
ウェーランはそう言って、少し潰れてしまったパンを差し出した。
私は思わず目を見開く。
この家で、私のために用意された食事など、いつぶりだろう。
「でも、これを持ってきたら怒られるんじゃ……」
「大丈夫です。余り物ですから」
そう言いながらも、ウェーランは少しだけ目を逸らした。
おそらく嘘だ。
彼女が自分の昼食を削ったのだろう。
けれど、それを指摘することはできなかった。
「ありがとう」
小さくそう言うと、ウェーランはぱっと表情を明るくした。
「はい!」
私はパンを一口かじった。
少し硬かった。
それでも温かかった。
その温かさが、なぜか胸に染みる。
気付けば視界が滲んでいた。
「お、お嬢様!?」
「変ね……」
たった一つパンをもらっただけで、涙が溢れてくる。
「私……情けないわね」
「そんなことありません!」
「ふふ」
思わず笑みが漏れた。
ウェーランが持ってきてくれたパンを食べ終える頃には、私の涙も少しだけ落ち着いていた。
「落ち着きましたか?」
「ええ……見苦しいところを見せてしまったわね」
「そんなことありません!」
ウェーランはぶんぶんと首を横に振る。
「さあ、お嬢様。お屋敷に戻りましょう」
ウェーランに促され、私はゆっくりと立ち上がった。
「……そうね」
立ち上がった瞬間、腰に鈍い痛みが走る。
「っ……」
思わず顔をしかめると、ウェーランが慌てて駆け寄った。
「やっぱりお医者様を……!」
「無理よ」
私は小さく首を振る。
「呼んだところで、父は許可しないわ」
その言葉に、ウェーランは悔しそうに唇を噛んだ。
二人はゆっくりと屋敷へ戻った。
途中、何人かの使用人とすれ違ったが、誰も私に声をかけない。
むしろ見ないふりをして足早に去っていく。
それがいつもの光景だった。
しかし今日は、一人だけ違った。
厨房で働く年配の女性が、私を見るなり小さく頭を下げたのだ。
「お嬢様」
「……え?」
私は思わず立ち止まる。
女性は周囲を気にしながら、小さな紙袋を差し出した。
「焼き菓子です。余ったものなので」
それだけ言うと、慌てて厨房へ戻っていった。
私は呆然と紙袋を見つめる。
中には小さなクッキーが数枚入っていた。
余り物。
たぶん、それも嘘だろう。
今日だけで二回も嘘をつかれている。
自分のための優しい嘘を。
「……変な日ね」
ぽつりと呟く。
母と妹が死んだ日なのに。
「ウェーラン、いる? ちょっとこっちの手伝いして」
と、母の部屋からメイド長が顔を出した。
「は、はい!」
慌てて返事をしたものの、彼女はちらりと私を振り返る。
「お嬢様、お部屋までお送りします」
「大丈夫よ。一人で行けるわ」
そう言って微笑むと、ウェーランは少しだけ迷うような顔をした。
「本当に?」
「ええ」
「……無理はなさらないでくださいね」
私は頷く。
それを確認すると、ウェーランは小走りで母の部屋へ向かっていった。
母の部屋の扉が閉まる音が廊下に響く。
握りしめた紙袋からは、焼き菓子の甘い香りがほのかに漂っていた。
「……私のため、なのよね」
誰に聞かせるでもなく呟く。
そんな当たり前のことが信じられず、何度も確かめたくなってしまう。
やがて私は自室へ向かった。
屋敷の最上階にある、小さな部屋だった。
公爵令嬢の部屋とは思えないほど質素で、家具も最低限しかない。
「はぁ、痛い……」
さっきからいつもの速さで歩いていたせいか、腰の痛みがひどくなってきている。
と、コンコン、とドアが叩かれた。
「はい」
私がすっとドアを開けると、最近入ってきたばかりの新人メイドのファリィだった。
「あら、ファリィ。どうしたの?」
「あの、ネージュ様、腰を痛めていらっしゃるでしょうか……? よければこちらを……どうぞ」
ファリィは周囲を気にするように何度か廊下を見回すと、小さな瓶を差し出した。
「これは……?」
「湿布代わりの薬草をすり潰したものです。母がよく腰痛の時に使っていて……。医者の薬ほどではありませんが、少しは痛みが和らぐと思います」
私は瓶を受け取り、目を瞬いた。
「ありがとう」
そう言うと、ファリィは少し頬を赤くした。
「い、いえ! それでは失礼します!」
ぺこりと頭を下げると、彼女は慌ただしく去っていった。
部屋に残された私は、手の中の小瓶を見つめる。
「……本当に、変な日ね」
私はベッドに腰掛け、そっと薬草を塗る。
すると少しだけ痛みが和らいだ気がした。
「少し……楽かも」
久しぶりに柔らかい寝台へ身体を預ける。
ここ数年、まともに休むことなどほとんどなかった。
目を閉じると、すぐに意識が沈んでいった。
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それから三日が過ぎた。
母と妹の葬儀は滞りなく終わったらしい。
私は参列を許されなかった。
父が「来るな」と言ったからだ。
けれど屋敷の空気は少しずつ変わっていた。
「ネージュお嬢様、お茶です」
「ありがとう」
「本日のお食事はこちらになります」
「助かるわ」
使用人たちの態度が、明らかに柔らかくなっていた。
もちろん全員ではない。
だが以前のような露骨な無視や嫌がらせはほとんどなくなった。
母とセリーナが亡くなったからだろうか。
それとも、ただの気まぐれなのだろうか。
その答えは数日後に判明することになる。
ある日の昼下がり。
屋敷中が朝から慌ただしかった。
使用人たちは廊下を忙しなく行き来し、玄関ホールには新しい花まで飾られている。
「何かあるのかしら」
私が厨房へ向かう途中、ウェーランがこっそり耳打ちしてきた。
「お嬢様、ご存じありませんか?」
「何を?」
「新しい奥様がお見えになるそうです」
ネージュは足を止めた。
「新しい……奥様?」
「はい。旦那様が再婚されるそうです」
あまりにも突然だった。
まだ母の葬儀から一週間ほどしか経っていない。
だが驚きはしなかった。
父ならそうするだろう。
むしろ予想より遅かったくらいだ。
「そう」
「はい。それで今から到着されるそうで……」
ウェーランはどこか緊張した様子だった。
「そんなに怖い人なの?」
「その……お噂では」
ウェーランは声を潜める。
「『氷の伯爵夫人』と呼ばれている方だとか……」
「氷の?」
「とても厳格なお方で、笑ったところを見た人がほとんどいないそうです」
私は少し考える。
(別に今より悪くなることもないでしょう)
そう結論づけた。
どうせ自分は家族ではなく使用人同然なのだ。
継母が誰であろうと関係ない。
その時だった。
外から馬車の音が聞こえた。
「来た!」
誰かの声が響く。
玄関ホールが慌ただしくなる。
好奇心に負けた私は二階の吹き抜けからそっと下を覗き込んだ。
大きな扉が開かれる。
まず降りてきたのは護衛たちだった。
そして最後に。
一人の女性が馬車から姿を現した。
黒色の髪。
深い赤色の瞳。
黒いドレスを纏った美しい女性。
年齢は三十代半ばほどだろうか。
その姿には圧倒的な威厳があった。
(この方が私の、母になる人ね)