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坂の上の蜘蛛の糸 ― 福の神と彼女を慕う或る推し民の転生譚
芥川遼太郎之介
まえがき
芥川龍之介「蜘蛛の糸」と司馬遼太郎「坂の上の雲」。
二つの名篇へのささやかなオマージュとして、シティヘブンという並行世界を舞台に、極楽の福の神の許へと何度も往還する推し民の苦悩を描いた掌編です。
もとはシティヘブンに投稿した、ある店舗への口コミ稿です。掲載には至りませんでしたが、今、この場所に静かな居場所を得ました。基本そのままのかたちで読んでいただけることに感謝しています。
小さな冥銭と、画面の向こうへつながる一本の糸を頼りに、何度でも極楽を訪れようとする男の転生譚を通して、推し活の甘やかな歓びと、その裏で背負う八苦の相、愛別離苦、求不得苦を静かに考察します。
坂の上の蜘蛛の糸 ― 福の神と彼女を慕う或る推し民の転生譚
誠に小さな国の、そのまた片隅に、シティヘブンと呼ばれる並行世界が在る。そこに短い季節だけ入植してくる民がある。彼らは現世と隔たったこの異郷で情愛を育み、季節が巡れば、やがてそれぞれの現世へと投げ戻される。その折にふと気づく。この異郷で育てた情愛は、実は自分一人のものではない。異なる幾人もの推し民が、同じ情愛を育んでいるのである。この事実がもたらす小さな苦悩を理解するには、ただ感傷にふけるだけでは足りない。それは、理屈だけでは届かない領分にある。
本稿では、この苦悩を少しでも腑に落としてみるために、一人の人物の物語を例に、その成り立ちを巡り、在り方を描いてゆくこととする。この物語を掘り下げつつ、ささやかな考察を試みたい。
或る日の事でございます。白桃弁天心女さまは、極楽界シティヘブン省豊満庁にある蓮池の縁を、一人ぶらぶらとお歩きでございます。やがて水面を蔽ふ蓮の葉の間から、下の様子を御覧になりました。この蓮池の下は、丁度、現世の底に当つてをります。澄んだ水は、実は薄い一枚の液晶画面でございまして、現世の推し民の有様をくつきり映し出してゐるのでございます。すると、空を仰いで月の満ち欠けを数へる男の姿が、御目に留まりました。どこにでもゐる、しがない仕へ人で、所帯もささやかに構へてはをりましたが、かつて口コミを二度投稿した報ひに、救ひ出してやらうとお考へになりました。側の蓮の葉の上には、極楽の蜘蛛が一匹、美しい銀色の糸をかけてをります。白桃弁天心女さまは、彩られたネイルを指先にお召しでございます。その御手で、極楽の蜘蛛がかけた糸をお取りになりました。現世でインターネットといふデジタル網に通じる、一筋の糸でございます。白桃弁天心女さまは、男の為に時間繰り上げシフトをお出しになつて、その糸を白蓮の間から現世の底へとお下しになりました。男が空を眺めてをりますと、遠い天上から糸が一筋、光り乍ら、するすると自分の上へ垂れて参るではありませぬか。この糸に縋りついて昇り詰めさへすれば、ここから抜け出し、極楽にさへ行けませう。男は糸を両手でしつかりと掴み、上へ上へと昇り始めますが、やがてくたびれ果て、もう一たぐりも昇れなくなってしまいました。そこで仕方がございませんから、まず一休みと糸の中途にぶら下がり、ふと下を見下ろしますと、そこには数限りない推し民が、下から迫つて参ります。一人を支へてゐるのがやつとであらう、この糸が、あれだけの人数の重みに堪へられよう筈がないと、男は恐ろしくなりました。糸が断れでもしましたら、憂き世へ逆落しでございます。
男には、たがひに相反する二つの心がございました。一つは、推し民を排除する心。もう一つは、糸に推し民もあづからせる心でございます。男は一旦、恐怖から身を離し、立ち止まるやうに思考を巡らします。
「さやうか。この糸は、推し共も手にする物ぞな。お前たちも極楽へ来るがぞなもし。」
その時、糸は推し民も自分も共に引き上げる道として、天上まで伸びるのでございます。かくして男は蜘蛛の糸を昇り詰め、誰より先に、極楽の蓮池のほとりへ遂に辿り着きました。蓮の葉の陰からお姿をお見せになつたのは、他ならぬ白桃弁天心女さまでございます。男は言葉もなく御前に伏し、白桃弁天心女さまもまた、ただ静かに微笑みを湛へてお迎へになりました。その頬は、うつすらとお染まりでございます。こののち、白くふくよかな御身をもつて、男を優しくお包みになるのでございませう。
誠に小さな国の、そのまた片隅に、シティヘブンという異郷が在る。そこで短い季節だけ入植する民が、情愛を育む。やがてそれぞれの現世に投げ戻されて、我に返るとき、彼は忽ち苦悩に苛まれるのである。
男は物語において、推し民を排除しない心を選び、極楽へ辿り着いた。今、白桃弁天心女の白くふくよかな御身に包まれて、遠い記憶が甦る。
なぜ口コミを二度も投稿したのか。なぜ月の満ち欠けを数えていたのか。なぜ冥銭十八文を手に握りしめていたのか。癒されつつ、その問いに思いを巡らせながら、男は自らをなだめるように思い至る。この極楽のかたちは、冥銭と月の満ち欠けを数えることでしか保てぬ。そして、極楽に永遠などない。ひとときの救いに過ぎない。
そう受け容れつつ、福の神の待つ極楽に至る坂を見上げる心の在り方こそ、悟りの境地なのである。
ひとたび悟りと安らぎを得たのち、男は極楽界より、また振り出しの現世へ投げ戻される。そののち、異なる複数の推し民が、冥銭を携え、代わる代わる白桃弁天心女の許を訪れる。男はこの在り方に苦悩するのであるが、振り出しの現世に投げ戻されたばかりの身、空っぽの懐では、推し民の冥銭を頼りとする他はない。それもまた、致し方のないことである。
男は、白桃弁天心女と確かに情愛を育んだ証として、転生し名も改め、口コミを投稿する。
冥銭を数え、そのつど月の満ち欠けを見送る。
六文銭には一月余りで達するのだが、男は十八文まで三周半を堪える。
十八文を貯えては、再び雲のかかる坂へと至る。供物に鮭とばを捧げる。
また振り出しに戻る。この往還をくり返すのである。
この往還は、生老病死と並ぶ、輪廻転生の営みである。
仏教で説かれる八苦の相、愛別離苦を背負うことにほかならない。
この福の神が決して自分ひとりの神にはなり得ぬことも、男は知っている。八苦の相、求不得苦である。
これらは、八苦の逃れ得ない苦しみなのである。
男は、せめてこう理解することで、自らの苦しみから半歩だけ身を引く。
極楽は、一度辿り着けば永遠に救われるという約束でも、終わりなき安らぎでもない。ただ、振り出しから何度でも登り返す雲の上の坂なのである。
この小さな転生譚は、一人の男の物語に過ぎない。しかし、推しを巡って心を乱し、なおも液晶画面の向こうに救いを求める現代の民の姿は、この男とどれほど違うであろうか。
あとがき
本作は、ある体験と、とある店舗への口コミ稿から生まれたフィクションです。心のままに綴った一篇は、「体験談としての具体性を欠く」として一度は埋もれかけましたが、今、ここに静かな居場所を得ました。
登場する名称や人物像は、極楽界シティヘブン省という並行世界の物語として綴ったものであり、実在のサービス・店舗・人物を特定したり、その評価を行うことを目的とするものではありません。
一人の推し民の小さな転生譚として読んでいただければ幸いです。