公開中
哀で拭う
▶シチュエーション
閉店を控えた店で、ズレていく世界と歩調を合わせるように、未練を抱えつつも決定的な決別さえ避けて静かな断絶を受け入れる元恋人たちの姿。
#元恋人の名前#…口調が荒々しい
#主人公の名前#…口調が柔らかい
銀のフォークを入れた瞬間、半熟の黄身がゆっくりと崩れた。皿の白の上に、濃い黄色が広がり、フォークに黄色が伝って落ちる。それを、二人とも少しの間だけ黙って見続けているだけだった。静寂の中で、ラジオの音が、ほんの一瞬だけ歪む。ノイズが一際激しくなるものの、すぐに元に戻る、滑らかな弦の旋律が耳へ届く。
「……さっきの、聞こえた?」
#元恋人の名前#は首を横に振り、何事もなかったみたいに、コーヒーに口をつける。窓の外では、ビルの壁面いっぱいに映された広告が、遅れて切り替わる。ほんの数フレーム分だけ、古い映像が混ざっていた。それでも、店の中は静かで、ナイフとフォークの触れ合う音だけが、やけに丁寧に響いている。そうして、フォークを置く音がやけに軽く響いた。
「……ここ、好きなんだよね」
ぽつりと落ちた言葉に、#元恋人の名前#は少しだけ視線を上げた。けれども、すぐにまた皿へと落として唇を動かした。
「前も言ってたな」
興味がないわけじゃない。ただ、“深く触れないようにしている”声音だった。
「覚えてたんだ」
「……そりゃあな」
短く返して、コーヒーを飲む。カップを置く位置が正確で、音もほとんど立てない。
嫌な一拍だった。
「なくなるらしいよ、ここ」
ナイフの動きが、わずかに止まる。それだけだった。それだけ、だった。顔も上げないし、問い返しもしない。言葉を続ける。
「再開発。上の区画と繋げるとかで」
「……そうか」
それで終わりだった。まるで、さっき聞いたラジオのノイズと同じで、“なかったことにする”みたいに。窓の外、光がまた一瞬だけ遅れる。
「なぁ」
ふいに、#元恋人の名前#が口を開いた。
「#主人公の名前#は、どうするんだよ」
何についての質問なのか、わざわざ説明はなかった。店のことなのか、街のことなのか、それとも、この関係のことなのか。
「どうって?」
言葉を選ぶみたいに、少しだけ視線を落とす。
「別に、変わらないよ」
そう言いながら、崩れた黄身をパンで拭う。綺麗に、跡が残らないように。
「……ああ、そうか」
それだけ。納得したのか、諦めたのか、あるいは、最初から期待していなかったのか。
わからないまま、会話は途切れる。ラジオの音だけが、やけに滑らかに流れ続けていた。嫌な終わり方だ。ここで、また愛してくれなどと我儘も言えないままで。