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赤いファイルと帰路
2026/05/29 赤いファイルと帰路
「私明日から、学校来ないから、よろしくね。」と3時間目が終わった休み時間に、後ろの席の相川紗羅に言われた。冗談かな、と一瞬思った。けれど考えてみれば相川紗羅は目立たない性格だし、特段親しくない私のようなクラスメイトに生真面目な顔でこんなこと言ってこないだろうから、じゃあ本気なのか、と至った。とはいえそこまで辿り着いてもやはりそれをわざわざ私に宣言する意味も、そもそもなぜ学校に来なくなるのか、なんてことも全く理解できなくて、私はからだを彼女の方に捻ったまま「えーっと、」と放つ言葉に迷った。相川紗羅はじっと表情を変えず、冗談でしたなんていう発表も当然してくれず、私の返答を待っているように見えた。しばらくじっと見つめられて諦めて息を吐き、私は訊く。「なんで?旅行とか?」1番軽い推測を密かな期待を込めて挙げたが相川紗羅は首を横に振った。
「ううん、旅行じゃないし体調が悪いとかでもないし、休まないといけない理由があるわけではないよ。ほらー俗に言う不登校ってやつだよー、それで内川さんは私の前の席だから、私が休んだ時にプリントとか入れてくれるでしょう。大変だと思うし、悪いけどしばらくよろしくね。しばらくっていうのは、先生が私のことを不登校って認識した時くらいまで…。」
「う、は、えー…。」一気に、けれど落ち着いた声で説明されて、私はなんとなく反応に困った。相川紗羅は私のもごもごとした明瞭でない返答をどう受け取ったのか、眉尻を下げて赤いくちびるを開く。
「やっぱりダメかなあ…まあダメだったら先生が内川さんの代わりにプリント入れてくれるとかしてくれると思うから。うーんでもやっぱりちょっとだけ!今週いっぱいだけでもお願いできない?私一応、今週は仮病で休むつもりだから、少なくともその間は先生も不登校って認識には至らないだろうし、席替えもしたばっかりだからしばらくはないだろうし、内川さんにしか頼れないんだけど、いや、それでもダメならどうにかするよ、もちろん。仮病を使わないとか色々試行錯誤して、それで不登校っていう認識になってくれたらいいんだけどね、ねえ、どうかな。」
「う、うん、わかった、はい……。」だんだんと調子が出てきたのかじりじりと身を乗り出してくる相川紗羅の口調は、ついに捲し立てるという表現が似合うというところまできて、私は勢いに押されて浅く何度も頷いた。すると彼女はそれなりに整った顔をゆるめて「よかった!」と椅子に座り直す。私は色々訊きたいことがあったがまだうまくまとまっていなくて、もちろんまとまった質問もいくつかは育っていたけれど、例えばそれは「どうして来なくなるの。」なんていう過干渉とも捉えられるようなことで、口にして良いのかわからなかった。だけど同時に、私は彼女のお願いを聞いているんだから、それくらいは追求して良いんじゃないのか、追求する権利があるんじゃないか、とも思っていた。結局私がごちゃごちゃと脳内で討論している間に先生がやってきて、チャイムが鳴り、授業が始まった。
翌日、相川紗羅は本当に来なかった。担任は「相川さんは体調が悪いそうで〜…。」などと言っていたが私はそれが嘘だと知っていた。その日、私は昨日頼まれた通り、彼女の机の上に置かれた欠席者用の赤いファイルに授業で配られたプリントをしまっていった。やけに虚しかった。どうせ相川紗羅は明日も明後日も明明後日も、土日が明けた月曜日も、さらに次の月曜日も学校には来ないだろうに、こんなプリントを綺麗に折れないように収納してなにになるんだろう。なんて、それこそ無駄なのに、そんな思考をだらだらと続けた。
金曜日、私は先生に頼まれて、パンパンに膨らんだ赤いファイルを片手に相川紗羅の家を訪ねた。私と彼女の家はそれほど離れていなかったことを初めて知った。チャイムを鳴らすと10秒ほどの静寂の後にドアが開き、相川紗羅が出てきた。学校ではいつも低い位置でポニーテールにされていた長い髪は、今はほどかれていて、慣れないなと思った。私が「これファイル。」と無愛想に言って丸ごと渡すと、相川紗羅は愉快そうな声をあげて受け取った。「わざわざありがとう。…あ、私への手紙とか入ってたりする?体調大丈夫、みたいな。」図々しいことを言ってきたので「入ってるわけないでしょ。」と答えると、彼女はだよねーと笑った。
数秒ほど黙ってから私は訊いた。「なんで学校、来ないの。」ファイルが意外と重かったようで、なにが入っているんだと中身を軽く確認していた相川紗羅は、私の言葉に顔をあげ、ぱちぱちと何度か瞬きをした。そして私に「ちょっとペン、貸して。」と手を伸ばしてきた。私はなんの関係があるのか掴めずに、え、と呟いたあと、仕方がないからカバンの中にある筆箱のシャーペンを取り出した。相川紗羅はファイルの中から適当なプリントを1枚抜いて、シャーペンでサラサラと書き始めた。アルファベットと数字。書いていたのはほんの数秒で、すぐに私に押し付けようとしてきた。反射的に受け取りかけたけれど、その時にはそこに書かれているのがなんなのかわかっていたので、手は下におろしたまま彼女の説明を仰いだ。
「これ、私のLINEのIDね。登録して、次からプリントとか写真で送って。そしたら楽でしょ。」
私はため息を吐こうとして抑えて、うーん、とわざとらしく悩むように首を傾げた。少し溜めて言う。「先生を介さないと、ダメだと思う。」「えっ真面目ちゃん。まあいいじゃんクラスメイトだし友達だしプライベートでどう?」「いや…いい。」私が受け取りを拒否すると、くちびるを尖らせつつ彼女はわかったーと言った。IDの書かれたそれをごそごそと適当にファイルにしまったのを眺めながら、それでなんで学校に来ないの?と再度訊こうとして、やめて、目の前の相川紗羅を見つめた。そうしたらだんだんと訊くのも億劫になってきたので、「まあ、別にいいや。」と口にして半歩下がった。「ん、なにが?」「じゃあねーまあ、来週からは先生にプリント送ってもらうよう、言っておくから。」かわす。「あ、そう、ありがとー。あ、シャーペン。」相川紗羅は少しだけつまらなそうに肩をすくめてファイルを抱え直し、私にシャーペンを流すように返すと、じゃーねーとドアを閉めた。目の前の木目調のドアを数秒視界に入れて、手元に残ったシャーペンに視線を落とす。絶妙なぬくもりを感じた。思わず先ほど抑えたはずのため息と、加えて舌打ちが出てきたけど、その後に残ったのは結局ぬくもりの不快感だけだった。あーあ貸してやるんじゃなかったな、と思った。不登校に貸してやる義理なんて、どこにもないのだ。私はチャックが開いたままのカバンにシャーペンを放り込み、踵を返し門を出て、走った。帰路。