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八、沈む橋を渡る
命からがら学校を脱出し、夕闇が迫る家路を、雄二はただ足元だけを見つめて歩いていた。視界の端で街灯が灯るが、脳内の混乱は一向に収まらない。
(とんでもない奴を、好きになっちまった……)
両手で顔を覆い、歩道で盛大にため息を吐き出した。
好きだ、という自覚。それがよりによって、あの男。狂っている。自分の脳のネジの飛び方も、大概だ。
(いや、でも……見てはいけないものだったけど、逆に、見て正解だったかもしれないな)
そうだ。もし中身を見ずに自惚れたまま、あの美術室に、あの男の斜め後ろに居座り続けていたら。それこそいつか、手酷い破滅を迎えていたはずだ。彼の檻の中には、最初から誰一人として入れるスペースなどない。それをあの生々しいスケッチブックが、残酷なまでの明確さで教えてくれた。
(冷静に考えてみろ。あいつに関わるなんて、面倒にもほどがあるだろ)
仮に、この好意が奇跡的に実を結ぶ世界線があったとして、その先に待つものを想像する。
(機嫌が悪ければ物が飛んできて、家では父親からの抑圧に耐え、内面では妹への執着を煮詰めている男だぞ。付き合ってデートをする? 悩みを分かち合う?)
笑えない冗談だった。関われば関わるほど、自分の人生まで泥沼に引きずり込まれて、ボロボロにされる。苺枝の警告は、寸分の狂いもなく正しかったのだ。
表現者としてのリスペクトは消えない。彼の生み出す色彩は、今でも脳髄が震えるほど美しいと思っている。けれど、人間・舞田住雪は、あまりにも重くて、致命的にめんどくさい。
(もう、辞め時なのかもしれない)
あの美術室に通うのを辞めれば、すべては元の、まともな日常に戻るはずだ。
(関わるだけ無駄だ。諦めるべきだ)
頭の中の冷静な自分が、何度も何度もまっとうな正論を並べ立ててくる。なのに、雄二の心は、そんな引き留めをことごとく無視した。目を閉じれば、夕日の美術室に佇む彼の細いシルエットが、あの過剰なまでに美しい色彩が、網膜の裏に焼き付いて離れない。諦めようと考えれば考えるほど、逆に彼への想いが、自分の輪郭をじわじわと侵食していくのが分かった。
今日何度目か分からないため息を吐きながら、雄二は通学路の途中にある沈下橋に差し掛かっていた。欄干のない、コンクリートが剥き出しになった頼りない橋だ。増水すれば水面下に沈んでしまうその場所は、今の自分の足元のおぼつかなさとシンクロしているように思えた。視線を落とし、ただ自分の靴先だけを見つめながら、一歩、一歩と橋を渡っていく。
その、橋の真ん中辺りにさしかかった時のことだった。不意に、視界の端に影が滑り込んできた。遮るもののない橋の途中で、川面を見下ろすようにして、ぽつんと佇んでいる細いシルエット。雄二の足が、凍りついたようにピタリと止まった。喉の奥が干からびたように締まり、嫌な音を立てて心臓が跳ね上がる。
見間違うはずがなかった。夜風に冷たく揺れる、切り揃えられた黒髪。
舞田住雪が、そこに立っていた。