公開中
十、甘い静寂
幸い、雄二の家は沈下橋から歩いて十分ほどの距離にあった。住宅街の路地を抜け、玄関の鍵を開けて住雪を中に滑り込ませる。静まり返った家の中には、まだ誰も帰っていない。
「ほら、上がれ。床濡らしてもいいから、とりあえず洗面所いこうぜ」
玄関で、住雪は雄二のブレザーを羽織ったまま、所在なさげに立ち尽くしていた。いつもなら他人の領域など意にも介さないはずの男が、借りてきた猫のように縮こまっている。
雄二は手際よく浴室の給湯ボタンを押し、脱衣所の棚から大きめのバスタオルと、自分のスウェットの上下を引っ張り出した。
「悪い、服これしかなくて。ちょっとデカいと思うけど」
差し出された衣服を、住雪は濡れた指先で受け取った。その拍子にブレザーが肩から滑り落ち、水を含んで肌に張り付いた制服のシャツが露わになる。浮き出た鎖骨のライン、寒さで白くなった肌、線の細さが心臓に悪い。雄二は慌てて視線を逸らした。
「じゃ、俺、キッチンでなんか温かいもん淹れてくるから。風呂、浸かってこいよ」
住雪は何も言わず、ただバスタオルを胸元で小さく抱きしめたまま、コクンと一度だけ頷いた。その長い睫毛は、まだ微かに湿っている。
引き戸を閉め、雄二はキッチンへと向かった。まずは住雪の濡れた制服を洗濯機に放り込み、脱水にかける。それから浴室から聞こえてくるザァーッというお湯の音を背中で聞きながら、マグカップを二つ用意した。
(……何やってんだろ、俺)
やがてお湯の音が止まり、しばらくして脱衣所の引き戸が静かに開く音がした。
「……おい」
リビングのドアから、ひょっこりと顔を覗かせた住雪を見て、雄二は思わず吹き出しそうになった。
案の定、雄二のスウェットは住雪の細身の身体には大きすぎた。首元は緩く鎖骨のあたりまで広がり、袖口からは指先が少し覗いているだけだ。ズボンの裾も完全に余って足の甲を覆っている。おまけに、いつもは鋭く切れ上がっている目が、お風呂の熱気で少しとろんとしており、髪も水分を含んでいつもより柔らかそうに跳ねていた。
「なんだよ、やっぱりぶかぶかじゃねぇか。裾、踏んで転ぶなよ」
「お前がデカすぎるんだ」
住雪は不機嫌そうに視線を泳がせながら、のそのそとリビングに入ってきた。雄二に促されるまま、ソファの端に腰を下ろす。
雄二は温かいココアの入ったマグカップを、住雪の目の前に置いた。
「ほら、飲め」
住雪はぶかぶかの袖から不器用そうに手を出し、マグカップを両手で包み込むようにして持った。立ち上る湯気をじっと見つめ、それから、ゆっくりと口をつける。
静まり返ったリビングに、時計の秒針の音と、二人が温かい飲み物をすするかすかな音だけが響く。学校でも、あの二人きりの美術室でも、絶対にあり得なかった、奇妙なほどに穏やかで、そして甘やかな時間が、二人の間に流れ始めていた。