公開中
最適解を考える
小学5年くらいのころ、一個上の子が、小学一年生をすごく可愛がっていた。
なぜそこまで可愛がるのかは分からなかったけど、
自分もいずれそうなると思っていた。
それは、違った。
実際に最高学年になってみると、
1年生のお世話係として、1年生と関わる回数は増えた。
確かに、可愛い、愛らしいと思うときもあった。
けど、
自分からその子たちに近づこうとは思えなかった。
周りは、一年生へ積極的に話しかけ、
一瞬で仲良くなっていた。
私は、一年生と一緒にいるとき、
接し方を考えていることが多かった。
どこまで、助けていいのか。
放任していてもいいのか。
見守ってもいいのか。
そんな事ばかり考えていた。
その間に、周りは自然に話しかけて、遊んでいた。
自分だけ、違う考えをしていた。
もし、これが一歳下の人だったら話は別だろう。
話は通じるし、自分で考えて行動できる。
時にはこちらに提案してくれる。
年齢が近いほど、
こっちも信用しやすいし、お互いに尊敬し合う関係が築けた。
逆に。
年齢が離れていくほど、
信用できなくて、自分が全部責任を負わないといけない。
そんな感覚になっていた。
これは、先輩も同じだった。
敬語で話そうとしても、同じ年代の人を前に、敬語がスラスラ出てこない。
ため口でも、失礼に感じる人がいる。
従順な方がいいのか、それとも自分で考えて動いた方が良いのか。
つまり、
相手がだれであろうと、私はどう振る舞うべきかを考えていた。
それが、私が人と接するときの癖だった。
あの頃は気づかなかったけど、この「考えてしまう癖」は今も変わっていなかった。
自分がふと、「もらい泣きってなんだろう」と思い、
近くにいる友人に聞いてみた。
そうすると
「感情は感じるもの、そんな論理は存在しない」
と返された。
私は、そうは思わない。
感情は理解してこそ、理由を考えてこそ、正しい対処が得られると思う。
自分は、感情を感じたとき、
「なぜそうなる?」と思ってしまう。
感情に溺れることができる周りが、少しだけ羨ましい。
余計な思考を入れずに、感情だけを楽しんでいる。
気づいた事がある。
私は、感情がないわけではない。
ただ、
感情より先に、構造を見ていた。
人間関係でも
どうすればいいか、どれが最適解か。
それを考えてしまう。
だから、感情に溺れることが少ない。
その代わり、私はいつも「なぜそう感じたのか」を考えている。
それが、私なりの感情との向き合い方なのだと思う。