未来の自分がこれを見て、
「懐かしい」と思ってくれるようなものを目指す。
普段の思考や、考えを書いていく。
続きを読む
読み方
1話ずつ表示します。
閲覧設定
名前変換設定
この小説には名前変換が設定されています。以下の単語を変換することができます。空白の場合は変換されません。入力した単語はブラウザに保存され次回から選択できるようになります
1 /
目次
設計図を埋める。
自分は、何でも理解しようとする癖がある。
理解できない、理解する必要のない事まで理解しようと努力してしまう。
例えば、友達から「お前嫌い」と言われたとしよう、
多くの人間は、悲しんだり、怒ったりするだろう。
自分は違う。
何故そうしたのか。目的は何か。
そう考えることが先に来る。
おそらく、自分の頭の中には、人間を理解するための設計図があるのだろう。
人と接するたびに、その設計図は書き足されていく。
もし、ロボットの説明で「ここはまだ分かっていません」と書いてあったら不安になるだろう。
自分にとって、理解できない物事や、人は、これとよく似ている。
設計図の空欄を埋めたい。
理由を書き込みたい。
その思いが、私を理解へと進ませる。
考えてみると、私の思考はある一種の性善説なのかもしれない。
人間は皆論理に基づいていて、
その人の中で確固たる考え方がある。
そう心から信じている。
だから、理由を求め、設計図を埋めるのだ。
ただ、この考え方はデメリットばかりではない。
哲学、数学などの学問。
そこでは粘り強く考えることが求められる。
分からない問題を丸一日ほっといたら分かるようになる。
なんて魔法はない訳で。
そこだと、私の諦めない癖や、理由を求める癖が生かされる。
実際、哲学は好きだ。
理由を追い求めるのを責められないから。
と、ここまで色々書いてきたが。
結局のところ、そういう考え方が今の自分を作っている。
無理に変えようとするのは違う。
だから、いい妥協点が見つかると良いのだが。
私はずっと追い続ける
何かの理由を。
何かの意味を。
会話することの難しさ
会話は難しい。
なぜならば、相手の話を聞く必要があるからだ。
話を聞き、相手の事を理解し、それに応じて言葉を返す。単純なように見えるかもしれない。
しかし、その過程にはマニュアル、いわゆる正解などない。
相手が何を感じていて、どういう言葉を求めているのか、
それらを考え、自分で選択しないといけない。
つまり、会話とは既製品を並べる作業ではなく、その場その場で相手に合わせたオーダーメイドの製品を作る作業なのだ。
例えば
「大丈夫?」と声をかけられたとしよう。
その言葉をかけられた人は、どう思うだろうか。
救いを求めていた人には救いの言葉になる。
一方で、一人で抱えたい人には踏み込まれたと感じることもある。
この言葉をかけられて、喜ぶ人ばかりではない。
つまり、人ごとにマニュアルが違う。
それ以外にも、条件によって変化する言葉もある。
「頑張ってね」
その言葉をかけられた時、
すでに頑張っていたとしたら?
自分の中で最善を尽くして、全力で物事に取り組んでいたら?
余計なお世話だったり、少し頭に来たりするだろう。
でも、それ以外の状況だったらどうだろう。
体育祭のリレー中だったら?
持久走を走っている最中だったら?
「頑張って」が力になることもある。
その言葉をかけられた状況や、
その日のコンディションによって、正解は変わる。
そんな難しいコミュニケーションをするときに、
念頭に置いておくと楽なことがある。
人間は気分によって反応が変わる。
論理で武装している人も、
いつも仏の様な顔をしている人も、
何処かでは感情や、その日の気分に左右される。
昨日聞いた事が、今日は違う答えが返ってくるかもしれない。
これまでうまくいっていた返しが、
上手くいかなくなるかもしれない。
それに毎回”あの時はこうだったのに”なんて反応していたら、
心が削れて行ってしまう。
まぁ、たまには心が削れてもいい。
人間は生きている以上、
どこかで道を間違えることもあるし、一時の気の迷いに左右されることもある。
この文を書いている自分もそうだ。
気分によって、答えが左右されてしまう。
だけど。
そういうものだと思って、
今日も生きている。
「優等生」への違和感
――優等生
その言葉を聞いて、貴方はどんな意味を想像するだろうか。
多くの人は、優等生と聞くと
頭のいい人、成績が上位の人、を思い浮かべる。しかし、本当にそうなのだろうか?
頭が良い人なら秀才や頭が切れる人と言った言葉でも表せる。成績が良い人なら、学年上位や、勉強ができる人、そう表現すればいい。
私が思うに、「優等生」とは、能力を表す言葉ではない。
先生の話を聞き、問題を起こさず、周りと適度にかかわる。
そんな「模範的な生徒」を表すときに、先生がかける言葉だ。
実際、私は先生から「○○さんは優等生だね」そんな言葉をかけられたことがある。
頭は特別良くない、頭の回転は遅い方だ。
では、なぜ私は”優等生”と言われたのか。
振り返ると、私はあの頃、段々と社会性を身に着けていった。
ちょうど、外から見た自分を良くすることが得意になったころだった。
先生の前では問題を起こさず、争いが起きそうになったらできる限り関わらない。
争いが激化していったら、自主的に大人の助けを呼ぶ。
だから先生は「優等生」と私を表したのだろう。
しかし、それは私の本質ではない。
私は優秀だったわけでも、理想的な人間だったわけでもない。
ただ、周りが求める姿にすることが得意だっただけ。
ドレスコードを守るように、
人によって仮面を付け替えて、自分を消す。
それが日常となっていた。
その日々は苦しかったし、
思い出すだけで、胸が痛くなる。
あの頃の私は、本当に「優等生」だったのか。
優等生とは、どんな人を表すのか。
本人が言うものなのか、大人が言うものなのか。
私は今でも、その問いを考え続けている。
「私」が見つからなかった頃
心が弱っている方にはお勧めしません。
マジで重い話
小学六年生―いや、5年生、4年生かもしれない。
あの頃の記憶は不思議なほど抜け落ちていて、思い出せない。
とにかく、
その頃、自分は相手によって人格を使い分けていた。
演技、ではなかったと思う。
少なくとも、私の中ではそれが無意識化で起きていた。
それが段々と当たり前になってきた頃、
部屋で一人になった時、ある問いが浮かんできた
「私は、今、誰の私?」
本当に、意識していなかった。
自分でも、自分が少しだけ怖くなった。
考えても答えが出ない。
沢山ある自分の中で、どれが一人の自分なのか。素の自分なのか。
素、という言い方さえおかしく思えた。
そんな日々が続いた。
ずっとこのままでいたら壊れるかな。
そんな言葉が浮かんできたのは覚えている。
いつから、私は一つになったのだろう。
分からない。
でも、ある日急に
「一回、全部自分としよう」
と思いついて、
そこから、自分が落ち着いて行った気がする。
今では、大きな切り替えや、昔の様な感覚はない。
ほとんど覚えていないし、具体的な時期でさえ曖昧だ。
それなのに。苦しかったという感覚だけは残っている。
苦しくて、どうにもならなくて。
思い出そうとするだけで、胸が痛くなってくるほど、辛かった。
私の中で、この出来事はある一種のトラウマとなっている。
久しぶりにあの頃を思い出した。
懐かしい、けれど、そんなに昔でもない。
そういえば、もう一個思い出したことがある。
が、あまりにも情報量が多いので、
また別の機会に話そうと思う。
最適解を考える
小学5年くらいのころ、一個上の子が、小学一年生をすごく可愛がっていた。
なぜそこまで可愛がるのかは分からなかったけど、
自分もいずれそうなると思っていた。
それは、違った。
実際に最高学年になってみると、
1年生のお世話係として、1年生と関わる回数は増えた。
確かに、可愛い、愛らしいと思うときもあった。
けど、
自分からその子たちに近づこうとは思えなかった。
周りは、一年生へ積極的に話しかけ、
一瞬で仲良くなっていた。
私は、一年生と一緒にいるとき、
接し方を考えていることが多かった。
どこまで、助けていいのか。
放任していてもいいのか。
見守ってもいいのか。
そんな事ばかり考えていた。
その間に、周りは自然に話しかけて、遊んでいた。
自分だけ、違う考えをしていた。
もし、これが一歳下の人だったら話は別だろう。
話は通じるし、自分で考えて行動できる。
時にはこちらに提案してくれる。
年齢が近いほど、
こっちも信用しやすいし、お互いに尊敬し合う関係が築けた。
逆に。
年齢が離れていくほど、
信用できなくて、自分が全部責任を負わないといけない。
そんな感覚になっていた。
これは、先輩も同じだった。
敬語で話そうとしても、同じ年代の人を前に、敬語がスラスラ出てこない。
ため口でも、失礼に感じる人がいる。
従順な方がいいのか、それとも自分で考えて動いた方が良いのか。
つまり、
相手がだれであろうと、私はどう振る舞うべきかを考えていた。
それが、私が人と接するときの癖だった。
あの頃は気づかなかったけど、この「考えてしまう癖」は今も変わっていなかった。
自分がふと、「もらい泣きってなんだろう」と思い、
近くにいる友人に聞いてみた。
そうすると
「感情は感じるもの、そんな論理は存在しない」
と返された。
私は、そうは思わない。
感情は理解してこそ、理由を考えてこそ、正しい対処が得られると思う。
自分は、感情を感じたとき、
「なぜそうなる?」と思ってしまう。
感情に溺れることができる周りが、少しだけ羨ましい。
余計な思考を入れずに、感情だけを楽しんでいる。
気づいた事がある。
私は、感情がないわけではない。
ただ、
感情より先に、構造を見ていた。
人間関係でも
どうすればいいか、どれが最適解か。
それを考えてしまう。
だから、感情に溺れることが少ない。
その代わり、私はいつも「なぜそう感じたのか」を考えている。
それが、私なりの感情との向き合い方なのだと思う。
「考えすぎ」
「考えすぎ」
その言葉を、私は何度言われてきただろう。
親にも、友達にも
何かを相談すると返ってくるのは、大抵この言葉だった。
考えすぎ、なのかもしれない。
そう思いながらも、どこか納得できない自分が居た。
考えすぎよう、、、
なんて思ってはいないからだ。
最近になって、ようやく一つの癖に気づいた。
私は、人が忘れてしまうような小さな失敗まで、妙に覚えている。
授業で言い間違えたこと
会話で少し気まずくなったこと
家の空気が、少し悪いと感じたこと
周りから見れば「まぁいいや」で終わるところが、私の中では終わらない。
ぐるぐると考え続けた結果。
いつの間にか、ある一種のトラウマの様になっている。
それは、一つではない。
いくつも、それこそ無限と言ってもいいぐらいにある。
だから、何気ない会話の中でも、その出来事が突然よみがえる。
当時の場面が頭に浮かび、
その時感じた感覚もよみがえってくる。
すると、不思議なことが起きる。
頭の中で考えていた言葉が、口から零れてしまうのだ。
トラウマの内容とは関係ない。
その瞬間、頭に浮かんでいた単語だったり、文章だったり。
言うつもりは無い。
友達の前だと、とても不便。
すぐに弁明をしたり、何も言っていないことを装わないといけない。
結果。私は嘘をついてしまう。
でも、その嘘には悪意はない。
その場を取り繕うために、出てしまうものだった。
私はずっと、自分は考えすぎなんだと思っていた。
けれど、本当にそうなのだろうか。
考えすぎだから苦しいのではなく、苦しい記憶を人より多く拾ってしまうから、
結果として考える時間が増えているだけなのではないか。
まだ答えは分からない。
それでも「考えすぎ」という一言では表せないものが、
自分の中には確かにある。
最近は、そう思えるようになった。
多様性を意識している。
かなりセンシティブ、繊細な話題であると思います。
個人の意見を大いに含んでおりますので、
これが必ずしも正解とは限らないことをご承知ください。
多様性。
そんな言葉について、少し引っかかることがある。
私は多様性そのものが嫌いな訳ではない。
むしろ、人によって違いがあって、それを一つにそろえる必要はないと思っている。
ただ、「多様性を認めよう」と言う考え方が、
時々、人を枠の中に閉じ込めているように感じることがある。
私がそう思うようになったきっかけは、自分の経験からだった。
私は昔からスカートが苦手だ。
少し緩めの服が好みで、周りの女の子たちとは服装が少し違っていた。
別に自分の事を「女ではない」と思っていたわけではない。
ただ、好きな服を着る。それだけだった。
でも、ある時祖母から
「女らしく、口調に気を付けなさい」
と言われた。
その時、自分は初めて自分と周囲の間にある違いを意識するようになった。
そこから多様性やLGBTQについて知るようになり、今度は別のことを考えるようになった。
「自分の性って、なんなんだろう」
今思えば、少し不思議な話だ。
昔は「女なんだから女らしくしなさい」と言われた。
でも今は、「女らしくなくてもいい。あなた自身の性は何?」という選択肢がある。
確かに、自由になったのだと思う。
けれど、私には少しだけ、根本的なところは変わっていないようにも思える。
昔は「女らしくしなさい」と言われ、
今は「あなたは自分をどう定義する?」と問われる。
選択肢は増えた。
でも、結局のところ、「あなたの性について考えなさい」という問いが残っている。
私は、自分が女性であることに特別な違和感があったわけではない。
ただ、スカートが嫌いで、好きな服を着ていただけだった。
もし「レズビアン」や「トランスジェンダー」などの言葉を知らなかったら、どうしていたのだろうとも考える。
おそらく「考えるのをやめよう」で終わっていたかもしれない。
もちろん、今のSNSのように、同じような人の存在を知る機会がなければ、それはそれで悩んでいた可能性もある。
だから、「言葉を知らなければ幸せだった」と言いたいわけではない。
ただ、名前があるからこそ、その名前に自分を当てはめようとしてしまうことはあると思う。
「私はレズビアンなのだろうか」
「私は普通とは違うのだろうか」
「自分は何者なのだろうか」
本来なら、ただ「私はこういうものが好き」で終わってもよかったことに、名前が付いた瞬間、答えを探し始めてしまう。
だから私は、ラベルそのものが悪いとは思っていない。
ピーマンを「ピーマン」と呼ぶのと同じように、物事に名前を付けること自体は必要だと思う。
LGBTQという言葉があることで、自分と似た人を探すこともできる。
自分の経験を説明することもできる。
同じ悩みを持つ人と出会うこともできる。
そういう意味では、ラベルは必要な道具だ。
ただ、私はそれを「副作用のある道具」だと思っている。
便利ではある。
必要でもある。
でも、それがものすごく良いものだから使う、というわけでもない。
ラベルだけを見て、その人のすべてを判断してしまえば、結局は別の形で人を型にはめることになる。
「男性がメイクをしているからゲイなのだろう」と考えることもそうだ。
その人は単純にメイクが好きなのかもしれない。
「ゲイ」という名前を付けたことで、相手を理解したような気になる。
そして、「ゲイだからこう配慮しよう」と考える。
でも、本当に必要なのだろうか。
その人が困っているなら、助ければいい。
「こういうことで困っている」と相談されたなら、それは普通の悩み相談として聞けばいい。
わざわざ相手を「LGBTQだから」という枠に入れて考えなくてもいいのではないか。
私が思う「受け入れる」というのは、もっと単純なものだ。
「自分とは違うけど、まあ、いいんじゃない?」
それくらいでいい。
理解できないものを、無理に理解する必要もない。
自分とは違う恋愛をしている人がいたとしても、
「そういう人もいるんだな」
で終わっていい。
「自分には関係ないけど、その人たちはその人たちで自由にすればいい」
それくらいの距離感でもいいのではないかと思う。
むしろ、すべての違いに意味を付けようとする必要はない。
外国人だから。
男性だから。
女性だから。
ゲイだから。
レズビアンだから。
名前を付けることはできる。
でも、その名前だけでは、その人がどんな人間なのかなんて分からない。
人間はもっと面倒で、もっと複雑で、もっとよく分からないものだと思う。
だから、「分からないけど、まあそういう人なんだろう」で一旦置いておく。
私は、そのくらいでもいいと思っている。
そして、これから先は、そういう「一々意味を付けない世代」が増えていくのではないかと思う。
今の子供たちは、「男尊女卑をしないようにしよう」と意識しているから男女を平等に扱っているわけではない。
もちろん全員がそうだとは言わない。
ただ、少なくとも「男だからこう」「女だからこう」と考えること自体を、最初からあまり意識していない人たちもいる。
「差別しない」のではなく、そもそも特別扱いする理由がない。
男の子が女の子っぽい服を着ていても、
女の子が男の子っぽい服を着ていても、
誰かが誰かを好きになっていても、
「へえ。そうなんだ」
で終わる。
私は、そういう状態のほうが自然なのではないかと思う。
だから、「多様性をもっと理解しよう」と永遠に言い続けるより、いつか「多様性」という言葉すら意識しなくなるくらい、普通に人と接する世代が増えていくのを待つのも一つの方法なのではないかと思う。
もちろん、今困っている人を助けることまで待つ必要はない。
困っている人がいるなら助ければいい。
差別されている人がいるなら、それを止めればいい。
でも、すべての人に「自分は何者なのか」という答えを求める必要はない。
自分自身についても同じだ。
もし昔の自分に何か一つ言えるとしたら、
「今、決める必要はないよ」
と言いたい。
「あなたは何なの?」と聞かれても、答えなくていい。
「分からない」でいい。
「考えるのをやめる」でもいい。
答えを出さずに、そのまま流してもいい。
ラベルはあっていい。
それに助けられる人もいる。
でも、ラベルがなくてもいい。
多様性とは、すべての人に新しい名前を与えることではなく、
名前がなくても、その人をそのままにしておくことなのではないだろうか。