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多様性を意識している。
かなりセンシティブ、繊細な話題であると思います。
個人の意見を大いに含んでおりますので、
これが必ずしも正解とは限らないことをご承知ください。
多様性。
そんな言葉について、少し引っかかることがある。
私は多様性そのものが嫌いな訳ではない。
むしろ、人によって違いがあって、それを一つにそろえる必要はないと思っている。
ただ、「多様性を認めよう」と言う考え方が、
時々、人を枠の中に閉じ込めているように感じることがある。
私がそう思うようになったきっかけは、自分の経験からだった。
私は昔からスカートが苦手だ。
少し緩めの服が好みで、周りの女の子たちとは服装が少し違っていた。
別に自分の事を「女ではない」と思っていたわけではない。
ただ、好きな服を着る。それだけだった。
でも、ある時祖母から
「女らしく、口調に気を付けなさい」
と言われた。
その時、自分は初めて自分と周囲の間にある違いを意識するようになった。
そこから多様性やLGBTQについて知るようになり、今度は別のことを考えるようになった。
「自分の性って、なんなんだろう」
今思えば、少し不思議な話だ。
昔は「女なんだから女らしくしなさい」と言われた。
でも今は、「女らしくなくてもいい。あなた自身の性は何?」という選択肢がある。
確かに、自由になったのだと思う。
けれど、私には少しだけ、根本的なところは変わっていないようにも思える。
昔は「女らしくしなさい」と言われ、
今は「あなたは自分をどう定義する?」と問われる。
選択肢は増えた。
でも、結局のところ、「あなたの性について考えなさい」という問いが残っている。
私は、自分が女性であることに特別な違和感があったわけではない。
ただ、スカートが嫌いで、好きな服を着ていただけだった。
もし「レズビアン」や「トランスジェンダー」などの言葉を知らなかったら、どうしていたのだろうとも考える。
おそらく「考えるのをやめよう」で終わっていたかもしれない。
もちろん、今のSNSのように、同じような人の存在を知る機会がなければ、それはそれで悩んでいた可能性もある。
だから、「言葉を知らなければ幸せだった」と言いたいわけではない。
ただ、名前があるからこそ、その名前に自分を当てはめようとしてしまうことはあると思う。
「私はレズビアンなのだろうか」
「私は普通とは違うのだろうか」
「自分は何者なのだろうか」
本来なら、ただ「私はこういうものが好き」で終わってもよかったことに、名前が付いた瞬間、答えを探し始めてしまう。
だから私は、ラベルそのものが悪いとは思っていない。
ピーマンを「ピーマン」と呼ぶのと同じように、物事に名前を付けること自体は必要だと思う。
LGBTQという言葉があることで、自分と似た人を探すこともできる。
自分の経験を説明することもできる。
同じ悩みを持つ人と出会うこともできる。
そういう意味では、ラベルは必要な道具だ。
ただ、私はそれを「副作用のある道具」だと思っている。
便利ではある。
必要でもある。
でも、それがものすごく良いものだから使う、というわけでもない。
ラベルだけを見て、その人のすべてを判断してしまえば、結局は別の形で人を型にはめることになる。
「男性がメイクをしているからゲイなのだろう」と考えることもそうだ。
その人は単純にメイクが好きなのかもしれない。
「ゲイ」という名前を付けたことで、相手を理解したような気になる。
そして、「ゲイだからこう配慮しよう」と考える。
でも、本当に必要なのだろうか。
その人が困っているなら、助ければいい。
「こういうことで困っている」と相談されたなら、それは普通の悩み相談として聞けばいい。
わざわざ相手を「LGBTQだから」という枠に入れて考えなくてもいいのではないか。
私が思う「受け入れる」というのは、もっと単純なものだ。
「自分とは違うけど、まあ、いいんじゃない?」
それくらいでいい。
理解できないものを、無理に理解する必要もない。
自分とは違う恋愛をしている人がいたとしても、
「そういう人もいるんだな」
で終わっていい。
「自分には関係ないけど、その人たちはその人たちで自由にすればいい」
それくらいの距離感でもいいのではないかと思う。
むしろ、すべての違いに意味を付けようとする必要はない。
外国人だから。
男性だから。
女性だから。
ゲイだから。
レズビアンだから。
名前を付けることはできる。
でも、その名前だけでは、その人がどんな人間なのかなんて分からない。
人間はもっと面倒で、もっと複雑で、もっとよく分からないものだと思う。
だから、「分からないけど、まあそういう人なんだろう」で一旦置いておく。
私は、そのくらいでもいいと思っている。
そして、これから先は、そういう「一々意味を付けない世代」が増えていくのではないかと思う。
今の子供たちは、「男尊女卑をしないようにしよう」と意識しているから男女を平等に扱っているわけではない。
もちろん全員がそうだとは言わない。
ただ、少なくとも「男だからこう」「女だからこう」と考えること自体を、最初からあまり意識していない人たちもいる。
「差別しない」のではなく、そもそも特別扱いする理由がない。
男の子が女の子っぽい服を着ていても、
女の子が男の子っぽい服を着ていても、
誰かが誰かを好きになっていても、
「へえ。そうなんだ」
で終わる。
私は、そういう状態のほうが自然なのではないかと思う。
だから、「多様性をもっと理解しよう」と永遠に言い続けるより、いつか「多様性」という言葉すら意識しなくなるくらい、普通に人と接する世代が増えていくのを待つのも一つの方法なのではないかと思う。
もちろん、今困っている人を助けることまで待つ必要はない。
困っている人がいるなら助ければいい。
差別されている人がいるなら、それを止めればいい。
でも、すべての人に「自分は何者なのか」という答えを求める必要はない。
自分自身についても同じだ。
もし昔の自分に何か一つ言えるとしたら、
「今、決める必要はないよ」
と言いたい。
「あなたは何なの?」と聞かれても、答えなくていい。
「分からない」でいい。
「考えるのをやめる」でもいい。
答えを出さずに、そのまま流してもいい。
ラベルはあっていい。
それに助けられる人もいる。
でも、ラベルがなくてもいい。
多様性とは、すべての人に新しい名前を与えることではなく、
名前がなくても、その人をそのままにしておくことなのではないだろうか。