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十一、恋と証明の果て
住雪の身体もすっかり温まり、リビングの空気も少しずつ和らいできた。ココアのカップを置いた住雪の横顔には、いつもの冷淡さがほんの少しだけ戻りつつある。
それを見て安心したのか、雄二の胸のうちに、本来の『表現者としての熱』がムクムクと頭をもたげてきた。
「ちょっと待ってろ」
雄二は自分の部屋へ駆け上がり、大切に保管していたあの『幸せそうな絵』──満開の桜の花見の絵と、自分が最近描いた自信作のスケッチブックを抱えて戻ってきた。テーブルの上に、それらを並べて広げる。
「ほら、これ。お前がくれた絵、ガチで毎日眺めてるんだけどさ。……やっぱり、何度見ても異次元だわ」
雄二の言葉に、住雪の視線が自分の描いたキャンバスへと向けられた。住雪は何も言わない。けれど、雄二は構わず、その絵がどれほど素晴らしいかを熱っぽく語り始めた。
「ここの光の捉え方とか、パレットでどう混色したらこの透明感が出るのか、見れば見るほど勉強になる。あの日からずっとお前の描き方を思い出して練習してたらさ、ほら、見てくれよ」
雄二は自分のスケッチブックを開いて、住雪に見せた。
「俺のデッサン、前より明らかに線の迷いがなくなっただろ? 色の置き方も、お前の斜め後ろで盗んだ技術を意識してみたら、空間の奥行きが全然違ってきたんだ。ほら、ここなんか──」
語るうちに、雄二の声には純粋な喜びと熱量が籠もっていった。恐怖を乗り越え、この怪物の隣に居座り続けた結果、自分の画力が確実に上がっている。その事実が嬉しくてたまらなかったのだ。
──だが。
「……お前、本当に、誰にも言わないか」
地を這うような声。
住雪のぶかぶかの袖から伸びた手が、雄二のスケッチブックの端を、ミリ、と音を立てて強く掴んだ。
「なっ……」
雄二の言葉がピタリと止まった。
川へ落とそうとした時の衝動的な怒りとは違う。もっと冷徹で、逃げ場のない、本気の脅迫がそこにあった。
「もし、あの中身のことを一言でも誰かにしゃべったら……」
住雪の視線が、雄二がさっきまで熱弁していた『幸せそうな絵』──満開の桜の花見の絵へと落とされた。そして、その美しい画面の縁を、爪が白くなるほどの力でギリギリとおしつける。住雪自身の指の力で、キャンバスの木枠がみしり、と不穏な音を立てた。
「おい、やめろ、絵が」
住雪の冷酷な言葉よりも先に、雄二の口から悲鳴に近い声が出た。自分自身への攻撃よりも、目の前でその美しい色彩が、キャンバスの布地が、描いた本人の手によって歪められ、傷つけられそうになっていることの方が、雄二にとってはよっぽど耐え難い恐怖だった。
「バラしたら殺す」
リビングに、住雪の冷え切った脅し文句だけが、ナイフのように突き刺さる。住雪の爪がキャンバスの絵の具に食い込みそうになるのを見て、雄二は思わず住雪の両手首をがっしりと掴み取っていた。
「分かった、分かったから手を離せ。 誰にも言わねぇよ、約束する、だからその絵を雑に扱うな」
じわり、と住雪の瞳の奥に、冷酷な侮蔑の色が戻ってくる。
「信じない」
住雪は雄二に掴まれた手首に力を込める。風呂上がりで温まっていたはずのその肌が、今はまるで行き倒れの死体のように冷たく感じられた。
「そうやって口では何とでも言う。約束なんて、ただのその場しのぎの嘘だ」
住雪の言葉には、他者への絶対的な、根深い不信が張り付いていた。
「俺は、お前を絶対に信用しない。すぐに裏切って面白おかしく言いふらすに決まってる」
「はぁ⁉︎ 誰がそんなこと──」
「だったら、なんであんなものを見たお前が、今も俺の隣にいるんだよ!」
住雪が鋭く叫んだ。潤んだ瞳が、憎悪と恐怖の混ざり合った視線で雄二を射抜く。
「気持ち悪いんだよ。俺の絵の技術が欲しいからか? 弱みを握って優位に立ちたいからか? ……理由なんてどうでもいい。お前が俺を裏切らないっていう証拠なんて、どこにもない」
そう言って、住雪はキャンバスの縁からようやく手を離すと、ぶかぶかのスウェットの袖で、自分の口元を乱暴に拭った。まるで毒を拭い去ろうとするかのように。彼は、本当に誰も信じていない。心は完全に閉ざされ、狂った執着の殻の中に閉じこもっている。しかし、その姿さえ、雄二の目には愛おしく映った。
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(信じない、か)
目の前で、鋭い牙を剥いて威嚇する住雪を見つめながら、雄二は必死に思考を巡らせた。どうすればいいのか。どうすれば、この絶対に他人を信じない怪物を、納得させられるのか。この歪んで、狂って、孤独のなかで震えている才能の塊を、ここで手放すわけにはいかない。住雪に「雄二は裏切らない」と確信させる、絶対的な『何か』が必要だった。
だが、どれだけ考えても、そんな都合のいいネタは転がっていなかった。ここにあるのは、ただの、住雪という男の重度のファン。彼の描く世界に魅了され、殺されかけてもなお、その身体を抱きしめるようにして助け出してしまった、頭のイカれたファンが一人。
(……いや)
もう、それしかない。
「……なぁ、住雪」
雄二はふっと肩の力を抜くと、住雪の手首を掴んでいた手の位置をずらし、その冷たい手の甲を、包み込むようにして自分の両手で握り締めた。
「──っ、離せって」
「離さねぇよ」
驚いて身を引こうとする住雪の身体を、雄二は逃がさなかった。ぐっと距離を詰め、ぶかぶかのスウェットの襟元から覗く、その白い首筋に視線を固定する。
「お前さ、なんで俺が隣にいるのか、本当に分かってねぇだろ」
「……は?」
雄二は自嘲気味に、けれど、これまで隠し持っていたすべての熱量を瞳に宿して、住雪を見据えた。
「俺さ、お前のことが好きなんだよ」
住雪の思考が、完全に停止したのが分かった。いつも冷徹に他人の悪意を見抜くその瞳が、生まれて初めて「理解不能なもの」を見たかのように、大きく、丸く見開かれる。
「お前、……何を、言って」
呆然と唇を震わせる住雪の言葉を、雄二は最後まで言わせなかった。
「好きな奴の秘密を、わざわざ他人に言いふらす馬鹿がどこにいるんだよ」
そのまま、住雪の後頭部を引き寄せ、その冷たい唇に、自分の唇を強く押し当てた。衣服の擦れる音が、静かなリビングにやけに大きく響く。住雪の身体が、ビクリと跳ねる。ぶかぶかの袖の中から覗く指先が、拒絶なのか、それともパニックなのか、雄二の胸元を不器用につかみ、押し返そうと微かに力を込める。
けれど、雄二はびくともしなかった。頭の芯がジリジリと焼けるような、強烈な情熱と衝動。自分を殺そうとした怪物の唇を奪っているという、狂った高揚感が確かにそこにはあった。
(……あぁ、なんだ)
満足感の後、その熱は呆気ないほど急速に、引いていった。あとに残ったのは、乾いた手応えのなさだった。生身の人間を抱いているという現実だけが、雄二の頭を冷徹に冷やしていく。何かが決定的に足りないという確信を覚えた。
ゆっくりと唇を離すと、住雪の息が、小さく「ひゅう」と震えて漏れた。潤んだ瞳は激しく揺れ、雄二を見つめたまま、言葉を失ってカタカタと震えていた。風呂上がりだというのに、その顔面はみるみるうちに土気色へ、どこか青い顔へと変わっていく。そして、この世の終わりほどに汚らわしいものを見る目で雄二を睨み据え、激しく拒絶の声を絞り出した。
「……きっっっっしょ」
雄二の表情からスッと微笑みが消え、完全にいつもの、素のトーンに戻った。
「妹が好きな奴に言われたくねーよ」
最大級のカウンターを食らった住雪は、今度こそ絶句した。掴みかかろうとしたのか、ぶかぶかの袖を振り回そうとして、余った裾のせいで座卓の角に思いきり膝をぶつけている。「痛っ……」と呻いて膝を抱える姿には、かつて美術室で雄二を圧倒したあの支配者の面影は、もうどこにも残っていなかった。
「あーあ、せっかく人がかっこよく告白してやったのに。ほら、ココア冷めるからさっさと飲め。それ飲んだら、お前の制服乾いてるか見てきてやるから」
「……いらない。毒が入ってる」
「入れるかボケ。いいから飲め」