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思いやりの文学について
作者による思い込みの文学は、時間が経って読者側になると、思いやりの文学になるよ、という話。
**わい**
もしかして文学とは、思い込みからやってくるもの?
思い込みの論理は存在しづらいけど、思い込みの文学は存在しやすそう、という気づき。
**AI**
本質を突く、いい気づきですね。
おっしゃる通り、「思い込み」という主観は、論理と文学において全く逆の役割を果たします。
論理の世界では、「思い込み」は排除すべき対象です。
「私はこう信じている。だからこれが正しい」という強弁は、論理が破綻します。実を言うと、論理武装は自分の意見(≒『正しい』と思い込んだ主張)を論理の大前提に置いているので、そもそも始まりが論理的ではありません。
そのため、論理の飛躍や独断専行など断片的な情報を点線で無理やりつなぎ合わせているだけですから、都合のよい文章になります。
一方で、文学はその「思い込み」がなければ成立しません。
誰かにとって、特別な思い(他人からすれば極端な思い込み)を、言葉を尽くして描くためです。
漱石の『坊っちゃん』は、主人公の「曲がったことは許せない」という極端な思い込みの物語ですが、物語ラストの「だから清の墓は小日向の養源寺にある。」は、文学界ではとても高く評価されています。
井上ひさしの『自家製文章読本』にて、
「日本文学史を通して最も美しく、最も効果的な接続言」と評しました。
本来なら説明的で無骨になりがちな「だから」という接続詞が、これほどまでに美しく、効果的だと評されたのは、この3文字に『坊っちゃん』という小説のすべて、そして主人公と|清《きよ》の絆のすべてが凝縮されているからです。
「清がそれほどまでに自分を無条件に愛してくれたから」
「自分にとっても、清は世界でたった一人の理解者だったから」
「清の最後の願いを、自分が約束通りに叶えてあげたから」
という、言葉にすれば野暮になってしまう主人公の清への深い愛情、感謝、そして哀悼の念のすべてを「だから」という3文字に代弁させているのです。
・文学の描く「透明でない世界」
言葉を尽くして、現実の枠組みに当てはまらない「|非透明な世界《フィクション》」を描き出す。人間の複雑さを単純化された言葉で紡ぎ残す。思い込みが記録になり、現実に還流する……この矛盾こそが文学ですね。
「今日は雨が降っている」という淡泊な事実。
「私の絶望を代弁して、天が泣いているようだ」という文学的世界観の思い込み。
論理的に見れば「天は泣かないし、絶望に質量はない」と一蹴されますが、文学としては、その正しさを無視した描写こそ、読者の心の奥底にある「言葉にできない実感」を撃ち抜くことがあります。
例えば、現実に絶望している時、論理的に「なぜ絶望しているのか」を分析されるよりも、その絶望を圧倒的な美しさや醜さで描ききった小説・エッセイを読む方が、救われることがあります。
それは、現実という「自分が思い込んだもの」を、「他人の思い込み」によって壊されること(カタストロフ)を、読者が追体験するからかもしれません。
論理は現実を「整理」する。
文学は現実を「再構築」する。
この辺りに違いがありそうですよ。